★ 【ジャック・オ・ランタンの夜】銀幕署の章 ★
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
管理番号100-5135 オファー日2008-10-30(木) 22:25
オファーPC 流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
ゲストPC1 桑島 平(ceea6332) エキストラ 男 46歳 刑事
<ノベル>

 
 
 橙色の果実の中で、橙色の灯がゆれる。
 そんな橙色が、まちの中には、たくさん、たくさん、たくさんだ。
 あの夜に限って、たくさんだ。
 ああ、橙の夜、銀幕市の夜、1年に365回訪れる夜のうち、ただ1回だけの夜。
 そんな橙の夜には名前があってね。
 そう、あれは特別な夜だったのさ。
 ハロウィンの夜、だったのさ。
 
 
 
 賑やかな夜。今夜の銀幕市は、いつにもまして賑やかだ。
 銀幕市ダウンタウンのとある民家の前は、輪をかけて賑やかだ。
 近隣住民が野次馬と化していたし、2台のパトカーとパトランプを掲げたセダンが停まっている。周囲の塀や窓ガラスに、赤い光が映りこんでは消えている。
 警察関係者が黙々と出入りを繰り返している家は、ごく一般的な一軒家にすぎなかった。ブロック塀に囲まれた、二階建て。塀と家の間のつましい庭。表札は『佐藤』。銀幕市のみならず、日本全国どこにでもある民家だ。
 野次馬として集まってきた近所の住人は、現場からかなりの距離を置いている。だから、塀にさえぎられて、彼らには見えないだろう――ごく普通の玄関をむごたらしく汚す、凄まじい血痕は。
 遺体はすでに裏の勝手口から搬送済みだ。
 鑑識がたくフラッシュも途絶えている。
「うー……寒ィ寒ィ。明日から11月だもんなァ」
 玄関から塀の外側に出てきた刑事は、首をすくめて手をこすり合わせていた。赤い光に目をすがめ、ポケットから煙草を取り出す。
「桑島さん、そう言えば、上着は?」
 つづいて家から出てきた若い女刑事が、かすかに震えている彼に声をかけた。
「今日は寒くなる前に帰れると思ってたんだよ。ちょっと甘かったな」
 確かに今朝の天気予報では、今日の銀幕市は一日中暖かく、過ごしやすい一日だと言っていた。実際、日が沈むまでは暖かった。しかし、刑事がぼやいたように、明日から11月なのだ。太陽が消えると、驚くほど早く冷えこんでくる。
「こりゃ、まだしばらく帰れそうにねェぞ」
「そうでしょうか」
「オイオイ、先輩のカンを全否定とは……」
「私たちが尽力すれば、すぐに解決するはずですから」
 黒髪の女刑事は無表情だったが、きっぱりと言い切った。
 男のほうは、ちょっと目を見張ったあと、ぼさぼさ気味の頭をかいて、うっすらと照れ笑いしてみせた。
「だな。その通りだ」
 ふたりは振り返り、べったりと血痕で彩られた佐藤家の玄関先を見つめた。
 流鏑馬明日と桑島平というふたりの刑事が、今夜、それどころかこれからもずっと、向き合わなければならない現場がそこにある。


『お菓子』
 にやあ、と笑う大きく裂けた口。
『お菓子くれなきゃ、いたずらするぞぅ』
 かれは家主よりも、家主の妻よりも、ずっと小さかった。
 彼女は、居間の奥からちょっと首を突き出して、父親がかれの応対をしているのを見た。
『ごめんよ。うちは何も用意してないんだよ。町内会の回覧板、おかあさんに見せてもらってないかな。お菓子を用意してる家が決まってるんだ。うちの近くだと……、そうだな……、確か角の山内さんだったかな』
『くれないの。じゃあ、いたずらしちゃうけど』
『あー、きみ……』
『いいじゃない、あなた。お菓子くらい。ちょうど今日は買い出しに行ってきたあとだから、いくらかあるわ。ねえ、ボク、ちょっと待っててね』
『お菓子、くれるの?』
『ええ、いいわよ』
『ありがと。じゃ、もらうね――』
 悲鳴が爆発した。
 誰の悲鳴だろう。
 自分の悲鳴だろうか。
 いや、母親の悲鳴だった。
 そして、今まで聞いたこともなかった……父親の悲鳴も、そのとき初めて、彼女は聞いた。
 彼女はそれから何が起きたか、自分がどうしてここにいるのか、どうやって助かったのか、覚えていない。
 今は、たくさんの男の人たちの話し声や足音が聞こえているだけ。息を殺し、目をいっぱいに開いて、『ひみつの場所』に隠れている。
 もう、あの子はいないのだろうか。
 もう、かれはどこかに行ったのか。
 頭のある部分では、かれがもうとっくに近くにはいないとわかっているのに、頭のべつの部分では、まだ家の中にいるかもしれないと怯えている。足も手も、頭がまともな指示を出してくれないかぎりは、頑として動いてくれないようだ。
 足音。話し声。
 近づいてくる。
 そして、いとも簡単に、彼女の秘密の場所の扉は開かれた。
「……ここにいたのね」
 驚きと恐怖で言葉も出なかったが、彼女は、すこしだけ安心した。
 扉を開けたのはかれではなく、長い黒髪の、若い女の人だったから。


 被害者は驚くほどの速さで増え続けている。
 気づけば6人になっていた。
 ハロウィンの夜、怪物や悪霊に扮した子供たちが、民家を訪れ、「トリック・オア・トリート!」と元気に叫ぶ。それはハロウィンの合言葉。「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ」。
 このユニークな慣習は、日本人もほほえましく受け取っているが、不思議とクリスマスのように定着する様子はなかった。それでも、銀幕市というのは、特性上日本の中でも欧米人が多い環境である。一部の地域では、「合言葉が通じる家」を事前に設けてはいるけれど、子供たちが「トリック・オア・トリート」を引っ提げてお菓子を集める場合もあった。もっとも、昨今は世界中が何かと物騒なので、本場のハロウィンもこういった形式に変化してきているらしいが。
 ただ、ここ銀幕市ダウンタウンの紅西町内会で「お菓子」を求めて闊歩している子供には、大人たちの事情など通じるべくもなかった。そもそも、彼は怪物に扮した子供ではなかった。子供の姿をした怪物、そのものだ。
 かれにとってのお菓子とは、人間の心臓と肝臓らしい。


「へぇ、屋根裏部屋があったのか」
「『ロフト』です、桑島さん」
「なにー、最近は屋根裏部屋も英語で呼ぶのか! あきれたもんだ、まったく! 英語で呼びゃアなんでもカッコいいなんて思ってンのか今日びの日本はッ」
「……あまり大きな声出さないでください。怖がるじゃないですか」
「むっ……」
 桑島は口をつぐみ、明日は静かに隣に座る女の子に目を戻した。
 佐藤家の2階の一室にはロフトがあり、収納設備が充実していた。彼女はそんなロフトのクローゼットの中に隠れていたのだ。クローゼットの片隅、ロングコートの陰で、小さく小さくなって震えていた彼女。見つけだしたのはもう一度屋内を調べに戻った明日だった。
 少女は一言も口をきかない。だから、名前も聞き出せない。しかし、明日は彼女の名前を知っている。
 ダイニングのテーブルに置かれていた、ハロウィン仕様のお菓子のバラエティパック。橙色のカボチャのイラストの横に、「クミのおかし。パパたべないで」とマジックで書かれていた。
 リビングの壁に貼ってあったカレンダー。まだ10月だった。10月9日は花丸で囲まれ、「クミのたんじょうび」と書きこまれていた。
 クミ……この子は、佐藤クミなのだ。ざっと調べるだけでも、クミが一人っ子であるということは充分わかる。両親はまだ若く、20代後半としか思えなかった。子供部屋はひとつで、ランドセルはひとつ。机もひとつ、椅子もひとつ、ベッドもひとつ。
「本当に、どこも痛くない? ケガはないのね?」
 クミはこくりと頷いた。明日は、もう何度も何度も同じことを聞いている。クミはそのたびにちゃんと頷いてはいたが、やはり、保護されてから15分以上経った今も、まったく言葉を発しなかった。
 犯罪被害者や目撃者が、ショックのあまり何も話せなくなったり、錯乱したりするのはよくあることだ――ただ、この子の状態は深刻そうだった。彼女は何も喋らないし、泣きもしないし、怯えもしていないようだったから。
 何も感じなくなってしまっている。何かを感じるための心が、身体から抜けていってしまったかのよう。
 はじめに車を降りたのは桑島だった。
「車から降りないでね。ほら、おまわりさんがまわりにたくさんいるから、大丈夫」
 明日はすぐには降りず、クミにそう言い聞かせてからにした。クミはやはり何も言わなかった。しかし、明日の目をまっすぐに見て頷いてくれた。
「一撃で心臓と肝臓を引っこ抜いてるんだ」
 車から降りた明日に、桑島は顔を見せなかった。夜風が、彼が吸う煙草の煙を明日のもとにも届けてくる。
「どんな格好してるかしらねェが、ムービースターに決まってる。人間ワザじゃアねェ。おまえ、ちゃんとバッキー連れてきたか」
「はい」
「さっさと終わらせちまおうや」
「はい」
 明日は桑島の横顔を見ながら、ヒップバッグを開けた。バッキーのパルが腕を駆けのぼり、明日の肩に乗る。
「……そうだ、またムービースターなんだよ」
 桑島は深い煙を吐き、自分の口の中くらいにしか響かないような小声でささやいた。明日にはそれが聞こえなかった。ささやきが震えていることにさえ気づかなかった。けれども、桑島が今、何に対してどう思っているのか、わかっているような気がしている。


「うひ、ひひ。きれいだ。赤いランプ、きれいきれい。ははは」
 くるくる回る赤い光が、家々に反射しているのを見て、かれははしゃいでいた。ぴょんぴょん飛んで、顔いっぱいに笑みを広げて。
 夜気は冷えこむばかり。
 空に散りばめられた星さえ、きれいな赤光を浴びているかのよう。
 かれの口のまわりも、真っ赤っか。
 不意にかれは光にくるりと背を向けて、近場の民家のドアを叩いた。
 どんどんどん……どんどんどん。
 どんどんどん……どんどんどんどんどんどん。
「……どちら様?」
 何十度目かのノックの後、ようやく、怯えた年寄りの声が、ドアの向こうから返ってきた。
「お菓子くれなきゃ、いたずらするよう」
 かれは笑って、決まり文句を口にした。
 また、ドアの向こうは沈黙した。
 どんどんどんと、再びかれはドアをノックする。
「お菓子くれなきゃ、いたずらするぞう」
 どんどんどん……どんどんどん。
 どん――
「……くれないんだね、お菓子。じゃあ、いたずらだ」


 !!


「うお!」
「!」
 突然、住宅街の静寂を、爆音が打ち砕いた。明日と桑島は同時に振り向く。1ブロックも離れていないところから、愉快な音を立てて、花火が空に打ち上げられていた。
 火を彩るのはほとんどが橙色で、たまに緑や赤も混じっていた。ぴょうぴょうと弾ける花火の根元からは、黒煙がもうもうと噴き上がっている。花火工場で事故でも起きたのかと思わされるが、この一帯に花火工場はない。
 殺人現場の近く、そしてこの冷えた空。そこで起きる爆発が、華々しければ華々しいほど、白々しくて薄気味が悪い。
 爆発を目にしてからすぐに、明日は覆面パトカーの中に目を向けた。少女は大きな人形に見えた。真っ白い、表情がまるで動かない顔を窓の外に向けて、彼女も花火を見つめていた。
 明日はドアを開け、彼女の目線の高さに合わせて屈みこむ。
「車から出ないでね、クミちゃん」
 こくりと彼女は頷いた。
「あたしたちは、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけここを離れるけど、たくさんおまわりさんがいるから、クミちゃんは大丈夫。ここにいてね」
「……」
 初めて、女の子はかぶりを振った。
 目を大きく開いて、唇を噛んだその顔は、無表情とは言えなかった。ただ悲鳴がないだけで、それは、恐怖の顔に他ならなかった。
 いかないで。
 おねえちゃんいかないで、ひとりにしないで。
 いかないでおねがい、おねえちゃん。
 今度言葉を失うのは、明日のほうだった。
 ひとりじゃない……クミちゃんはひとりじゃないわ。
 そう言おうとしたのに、言葉も声も「かたち」にならない。明日は嘘をつけなかった。自分がこの場を去っても、ここにとどまっても、結局この子はひとりきりではないのか。
「……クミちゃん。バッキーは知ってるよね?」
 明日の口からようやくこぼれ落ちたのは、そんな言葉だった。肩の上に乗った白いバッキーが、女の子に顔を向ける。クミは明日からバッキーに目を移し、こくりと頷いた。
「この子はパル。あたしの……家族よ。バッキーが何を食べるかも、知ってるよね? あたしのかわりに、パルがクミちゃんのそばにいるわ。本当にこれで、大丈夫よ。悪いムービースターが来ても、パルが全部食べちゃうから……」
 明日はクミの手を握った。パルはその腕を伝って、クミの肩に移った。
 クミはやはり、何も言わない。そして今は、頷きもしないで、明日の顔を見つめているばかりだった。
「ごめんね。すぐ、戻ってくるから。ね」
 明日は女の子の手から自分の手を離し、そっと車のドアを閉めた。
 そこで初めて気がついた。桑島がいない。相棒であり先輩である刑事の背中を、明日は髪をなびかせて、ほんの数十秒探していた。
 彼がそばにいない。しかし、今向かうべき場所はひとつのはずだ。
 明日は近くにいた警官に、覆面パトカーに乗っていてほしいと頼みこむと、全速力で走りだしていた。


 ムービースターだけが人を殺すわけでもない。人間が人間を殺すのもよくあることだ。ごくごく普通の出来事だ。しかしそう考えると、『ムービースター』なる存在が人を殺すということが、いかに異常であるかを考えさせられてしまう。ムービースターは本来存在するものではない。世界中どこを探しても、ムービースターはこの銀幕市にしかいない生き物だ。いや、かれらは果たして、生き物と呼べるのか?
 2年前から、桑島平の仕事は一変した。夢や幻のような存在が起こす、現実離れした事件が増えに増えた。派手で陰惨で、2年前までなら考えられないような事件ばかりが記憶に残っている。新たな隣人であるムービースターが起こす常識はずれな事件のどさくさにまぎれて、犯罪に走る「人間」も少なくはない。簡単に言うと、銀幕市の治安は悪化した。無論、正義のスーパーヒーローやなかなか死なない刑事なども実体化しているわけで、警察側が現在の犯罪事情に対応できていないわけでもない。事実、今日まで、桑島と明日は大きな怪我もせず、ムービースターや人間が起こした事件を数多く解決している。
 それでも……、
 ムービースター、かれらさえいなければ……。
 桑島の頭の中を、ネガティヴな感情やシミュレーションが堂々巡りを続けている。納得した答えが出ているはずなのに、それに納得したくない。すべてのムービースターが害悪というわけではない。協力的で好意的なムービースターのほうが多いような気さえする。実際、桑島と気の合うスターもいるのだ。そんなかれらを、ひとくくりにしてよいものか。
 よくない。よくない。ちっともよくない。
 しかし、誰かが桑島の耳元でささやいているのだ、赤いささやきだ、蠱惑的な、ねっとりとしているようでかさかさに乾いている、畏ろしい声が聞こえてくる……。
 ――殺さなければ、殺される――
 ――かれらは、あなたや、あなたを大切なひとを、いつか必ず殺すのだ――
 ああ、叫びだしたいほどだった!
 狂おしいほど激しく抵抗しているのに、桑島は今、何も言わず、ただ煙だけを見すえて走っているだけ。
 若い相棒には何も告げず、ひとりで煙のもとに駆けつけた桑島平。その目に、ばらばらになった老婆と、民家の玄関先とが飛びこんできた。
 花火の打ち上げ――いや、爆発はここで起きたのだ。真夏の夜を呼び起こす匂いが、辺りに残っていた。
 手と足と内臓が、黒焦げの玄関先に散らばっている。その凄惨な光景には、場数を踏んだ桑島も、さすがに凍りついて息を呑んだ。
「ばあさん! ばあさん!」
 70代の男性が、黒焦げになったうえに四肢の飛んだ死体のそばにひざまずいて、叫び声を上げている――それに桑島はようやく気づいた。男性が小柄で黒っぽい服を着ていたせいだ、見落としていたのは。自分にそう言い訳しながら、桑島は彼に駆け寄る。
「大丈夫か! ケガはないか、じいさん! 俺は警察だ。すぐ人をよこすから」
「あ、ああ……子供だ……子供が爆弾を……ばあさん! ばあさん!」
 けけけけけけけ。
 夜に啼く鳥の声と聞きまがう、そんな笑い声が桑島には聞こえた。
 まだ、犯人はそばにいる。
 応援を呼ぶことを、桑島はそれきり忘れた。老人が、護身用に持っていたと思しき、古いゴルフクラブを手に取ると、彼は猛然と立ち上がった。
「おいッ、どこだ! どこにいる!」
 すぐ近くの家から助けを呼ぶ声が聞こえてきたのは、すぐだった。まるで桑島に、犯人の居場所を教えるかのようなタイミングだ。桑島はゴルフクラブを手に、ものすごい勢いで走りだしていた。
「助けて! 殺される!」
 近所で何が起きているか、ほとんどの家が把握しているのだろう。家々はドアや窓を閉ざし、明かりさえ消している。そんな暗い家並みからの、悲痛な叫び声。
 それと、笑い声。
「お菓子くれなきゃ、いたずらするぞう!」
 どん、どん、どんどんどんどんどん。
 爆発が起きた家の、三軒となり。
 そこで桑島は『怪物』を見つけた。
 ハロウィンの怪物を。
 子供の姿に化けただけの怪物を。

 ムービースターだ。こいつを殺せ。

 桑島はゴルフクラブをフルスイングした。
 パごッ、と無残な音。ェげッ、といびつなうめき声。
 それが本当にただの子供で、「トリ・ク・オア・トリート」のもと、お菓子を求めているだけかもしれないとは、露ほども考えなかった。古びたゴルフクラブに、ねっとりと赤黒い血がまとわりつく。
「いだい! いだいだいだいだいだいいい、いだいよう、なにすんだよう!」
「るせェ! るせェ、このバケモンが! 人殺しが! ムービースターが!」
 死ね!
 死ね!
 死ねッ!
 ゴルフクラブは何度も何度も、怪物の身体と頭にめりこんだ。赤と黒の血が飛び散った。それでも、いつまでもいつまでも怪物は泣くのをやめない。死なないのだ。死んでほしいのに。
「桑島さん!」
「……!」
 ゴルフクラブを振り上げたとき、桑島の背後から、声がした。
 ようやく聞こえた、聞き覚えのある声。
 桑島の手から、血まみれのゴルフクラブがすべり落ちる。


「なんで……なんでだよう……なんで……」
 真っ赤で、いびつで、ぐちゃぐちゃの頭部を抱えて、桑島の足元で男の子が泣いている。
「ぼく、『お菓子』もらってただけだよ……『お菓子』……」
 明日はシグ・ザウエルを注意深く男の子に向けたまま、こくりと唾を飲む。
 この子が、人間の子であるはずはなかった。ゴルフクラブなどで頭を殴られたら、しくしく泣くどころではないだろうから。ぬらりと光る赤の中に、明日は小さな脳を垣間見た。
「だってハロウィンだもん……今日は……お菓子もらえる日……だよ……」
 もともと、どんな顔をしていたのだろうか。
 それももう、わからない。だが、大きく裂けた口の中に、づらりと鮫のものに似た牙が並んでいるのが見えた。
 血まみれの牙だ。
 この口で喰ったのか。
 お菓子を。

『クミのおかし。パパたべないで』



 BLAM!



『ハーヴェスト・キャンディ』というホラー映画があるそうだ。それをふたりの刑事が知るのは、ハロウィンが終わって、数日経ってからのことである。それは、人間の心臓と肝臓を喰う怪物が、ハロウィンの夜に、シアトルの閑静な住宅街を恐怖のどん底に叩き落とすという内容だった。ホラー映画の歴史が始まってから今日までに、腐るほど作られてきた内容の映画だ。
 しかし、今、覆面パトカーのもとに戻ったばかりの明日と桑島が知る由もない。知りたくもなかったかもしれない。いや、どうでもよかったか。怪物はフィルムと化し、事件は解決したが、恐怖と絶望が残された。佐藤クミが両親を失ったという事実は消えないし、長年連れ添ってきた妻をバラバラに吹っ飛ばされた老人の悲しみも現実のまま。桑島と明日は現場をまだ見ていないが、あの怪物に襲われた世帯は他に2世帯ある。
「桑島さん」
「うん?」
「どうして銃を使わなかったんですか。今回、携帯許可出てますよね」
「忘れてた」
「忘れたんですか、署に?」
「違う違う、持ってきてるって。持ってきてることを忘れてたんだよ」
「いつか大怪我しますよ」
「はいはい」
 明日の横で、クミはジュースを飲んでいる。今は桑島の運転で、銀幕署に戻る途中だ。ジュースは適当なコンビニで、明日がクミのために買ってきた。自腹だった。
 ほんの10秒ばかり、沈黙が流れた。
 そして明日が、口を開く。
「クミちゃん、ドクターに診てもらおうと思います」
 桑島の目がルームミラーの中で動いて、自分の顔をちらとうかがうのを、明日は見た。
「ドクターって……あのドクターか」
「腕は確かです。……桑島さんも、どうですか?」
 また、桑島がちらりと鏡の中の明日を見る。
「いいよ、俺は」
 かったるそうな、面倒くさそうな、もっさりとした答えだった。
「俺は大丈夫だ」
 明日は今、ハンドルを握る彼の手を見ていた。
 血まみれだ。
 きゅう、と小さくて奇妙な鳴き声が聞こえる。クミはジュースを飲み終えて、明日のバッキーを撫でていた。
 この子は11月から、どこで暮らすのだろう。誰のもとで、何年過ごして、大人になって、何になるだろう。刑事になろうと、いつか思うのだろうか。そして、今夜の出来事を、きれいさっぱり忘れてしまえるだろうか……。
 明日の物思いに、答えなど出なかった。
「ほい、とうちゃーく」
 眠らない銀幕署の、見慣れた姿がすぐそばにあった。
 クミが、明日にバッキーを差し出す。
「ありがとう」
 そして彼女は、そうささやいたのだ。



〈了〉

クリエイターコメントオファーありがとうございました。今回の事件は、『赤い本』の真相が暴かれる前に起きていることを前提に、その関連のネタも織り込ませていただきました。ダークに仕上げるのは楽しかったのですが、今回は少しだけ救いを入れたつもりです。楽しんでいただけたら、幸いです。
公開日時2008-11-30(日) 11:10
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