|
|
|
|
<ノベル>
か・か・か・か・カ。
老いさらばえた指と手が、木簡を広げる。
もったいぶるような手つきで、慎重に、老いた者は墨を磨る。
音もなく木簡を滑る筆は、ひらひらと過去を綴るのだった。
老いた筆が語るのは、ふたりの英傑の物語。
ふたつの国が覇権を争った時代の記憶。
いつの時代、いずこの地で紡がれた戦記であるのかは、恐らく書き手も知らないだろう。
まるで戦いのためにあつらえたかのような大地。赤い大地。まだ合戦は始まっていないが、すでに土が血と火で染め上げられているのではないかと誰かが思う。ふたりの英傑もそう思う。
下限の月の国の主将は来栖。肉親と義兄弟だけが知る真名は香介。
上限の月の国の主将は吾妻。肉親と義兄弟だけが知る真名は宗主。
互いが互いの顔を、前線にずらりと並ぶ戦士の中に見出した。合戦場の中央には、太く赤い河が流れているようだった。両軍はわずか六〇間の距離を置いているだけで、双翼を広げたような簡単な陣を敷いている。
数千の馬がくつわを並べ、騎手の鞭や掛け声を待ち、ぅぶるぅぶると熱い息をついている。すべての馬の背に、屈強な兵士がひとりずつまたがり、戦いの銅鑼の音を待っているのだった。
だが、しかし。
つわものどもは、銅鑼の音如きで動くのか。
誰も彼もが、銅鑼の音よりも、たったふたりの号令に従うはずだった。
将たるもの、来栖と吾妻。下弦と上弦の月の兵は、今や、皇帝よりも英傑に従う。天と時代は、両雄にそれほどの才と力を与えた。
来栖と吾妻、どちらかが死ねばすべては終わる。赤い大地の覇権は、生き残った月に渡るのだ。
来栖が乗る馬が、ぶるりと首を振った。
――殺せば終わる。
吾妻の乗る馬も、ぶるるりと首を振る。
――この宿命もすべて。
――月同士の争いも、
――我らが絆も、
――我らが忌まわしき道もすべて。
来栖が剣を抜いた。その顔に、凄まじい笑みを浮かべていた。目の当たりにした吾妻が、一生忘れられそうにないほどの表情だ。あの男は生来の戦鬼。それを忘れたつもりはなかった。ただ吾妻は、あらためて、その事実の切っ先を突きつけられたのだ。
「『あの男』は俺が相手をする。きみたちは出なくていい」
「しかし、吾妻殿」
「血は無駄なんだよ。どんな状況でも、どんな世界でも……流れる血は、いつだって、なくてもどうにかなるものさ。そんなもののはずなんだ」
馬の腹を蹴り、吾妻が先陣を往く。
「そんな世界に、できるかどうかが問題だ……」
戦場を分断していた、赤い土の河が少しだけ破れる。数千の兵は動かず、ただ二騎だけが止まった河を渡っていく。赤と黄土の煙を上げて。
下弦の月の軍が先手であった。
ああ、とうとうこの日が来てしまったのだ。
――どうしてこんなことになったんだっけなあ……。
(確かふたりで映画を観に行こうとしてたような……)
――映画?
(パニックシネマで)
――パニックシネマ?
「宗主!!」
は、と吾妻が気づけば。
「よく単騎で出てくる気になったな!」
義兄弟・来栖はすでに目と鼻の先にいた。
――兄者。さあ、あんたの血を見せろ。
(いっぺんあんたと戦ってみたかったんだよ。本気で。ああ、でも、武器はナイフのほうがよかったな)
――ナイフ? なんだそれは。短剣のことか?
「香介……!」
三尺の長さの長剣を振りかぶり、来栖が見た吾妻の顔と、吾妻が言った言葉は、およそ信じられないものだった。
「待て!」
吾妻が、この期に及んで、戸惑っていたのだ。わずかに。かすかに。
づどお、とばかりに、重い一閃が。
男たちのどよめき。
来栖の長剣は、吾妻の馬の頭を縦に割っていた。無論、吾妻が馬に乗ったままであったなら、馬の頭ごと彼の頭も真っ二つにされていただろう。
ひらりと、まるで薄物か羽根のように、吾妻は愛馬の背を蹴って跳んでいた。
馬の血だけを吸った剣を振りかざし、来栖は一笑。
「待てるか! 『俺』は、この日まで! 延々、首を長くして待っていた! 『貴様』と戦場でまみえるのを待っていたッ! これ以上は、待つものかッ!」
このとき吾妻の顔に走った表情の意味が、来栖にはわからなかった。
しゃアっ、と吾妻が腰から片刃の剣を抜く。遠い島国から伝わってきたという奇剣である。刃は柳の葉のごとく細身で、湾曲していた。来栖はその切れ味の凄まじさを知っている。幾度となく戦場で遠目に見、数知れぬ逸話を聞いてきた。
吾妻の視線もまた、その剣のように鋭い。
甲冑も皮膚も肉も、ひと目で裂いてしまえるのではないか。
打ち下ろした香介の長剣が、甲高い音を立てた。そして、出し抜けに、軽くなった。
刃を折られたのだ。今は滑稽なほど短くなった剣が、来栖の右手にある。
吾妻の、返す刃!
が、来ない!
(オイオイ、本気でやれよ!)
――この戦い! 一騎打ち! しかれども、英傑の戦いに迷いがあるのもよかろう!
来栖は折られた長剣を捨て、左手で腰の後ろに差した剣を抜いた。短剣、と呼べるくらいに短い剣だ。
そのときになってようやく、来栖は吾妻もしっかり本気であると知った。
づるり、と来栖が乗る馬の首がずれていったのだ。そして、落ちた。倒れゆく馬から来栖は飛んだ。飛び蹴りを吾妻に浴びせかけていた。
吾妻の表情は固く、動きにはひと筋の乱れもない。
来栖の蹴りを刀の鍔で受け止めた。
鍔を蹴って、来栖は飛び退く。背後で馬の胴体がようやく倒れる。
大地から湧いているかのような血の匂い。馬の血だ、馬の血だ。
「待て、香介! 待ってくれ。このままだと、どちらかが死ぬことになる」
「それが宿命だ! 月が定めた世の宿命だ」
「こんなことをするために、俺たちは義兄弟になったわけじゃない。そもそも俺たちは――」
吾妻が言葉を続けようとした、そのとき。
どずん、と大地を波動が走る。それは、大地が、吾妻の言葉をさえぎったかのようで……。
来栖はためらわなかった。吾妻が何を躊躇しているのかわからず、それでいて、理解するつもりもなかったから。
筆英。上弦の月でそう称される英雄。絵を描く武官にして大将。殺すべきもの。
吾妻の懐の中に飛びこむ、
短剣を、その、白い喉に――
なぜ義兄弟が兵を率い、争い、殺し合うか。
それまでの経緯が、まるでダイジェストのように語られる。
(ダイジェスト? ダイジェストって、なんだったっけ?)
(知ってるはずなのに、うまく思い出せない)
(誰が何を喋っているんだ?)
(戦いがとまってる)
(今まさに俺が死のうとしているのに)
赤い肥沃な大地に、三つの月の国。
見えぬ月の国、下弦の月の国、上弦の月の国。来栖香介と吾妻宗主は、見えぬ月の国で生まれて出会った。
折りしも世は乱れ、三つの国で無数の英雄の器を持つ逸材が現れ始めていた。下弦の月の皇帝は暴君と呼ばれ、上弦の月の皇帝は暗君と呼ばれた。民という民が悪政や戦に怯え、苦しめられて生きている。
来栖と吾妻は、乱世の中に生まれた大器のふたつに違いなかった。
桜の花びらが舞い散る春に、義兄弟の契りをかわしたのは――来栖に言わせれば、その場の流れの結果である。
(ノリってやつだよ。その場のノリ)
――幼い頃から支えあって生きてきたのさ。
(似たもの同志って気がするんだよね。しかも香介は俺より危なっかしいところがある。ほっとけなくてねえ)
――違う親から生まれたというのに、その宿命があまりにも似通っていた。それでも兄弟ではないというのなら、自分たちで「我らは兄弟」と声を上げるより他はない。
見えぬ月の国でふたりが出会い、ともに育ってから、二〇年後のこと。
(ちょっと待て、20年前ったら、オレ1歳だぞ)
(20年? 香介と会ってから20年も経ったっけ?)
三つの国の境目にある峠の茶屋で、ふたりは何の気なしに賭けをした。
「あの娘」
「うむ」
「下弦に行くか、上弦に行くか、賭けようぜ」
きょろきょろと、どちらの道へ行こうか迷っている旅の女を見ながら、来栖と吾妻は酒を呑んでいた。来栖は下弦に、吾妻は上弦に賭けた。女はやがて、下弦の国への道を選んだ。
「香介、お前の勝ちだ」
「決まったな。俺は下弦に行こうと思う」
あっけらかんと来栖が言い放つ。吾妻が思いもかけない言葉だった。なぜ、賭けに勝ったから、賭けた国へ行かねばならないというのか。
「どちらの国も乱れているというのに、どちらの国にあんな別嬪が行けばいいかと考えたということは、つまり、賭けた国に望みを持っているということだ。俺はどうやら、下弦に賭ける価値があったと思っているらしいからな」
(なんだその理屈)
「……そうだな、俺も下弦に賭けようとは露ほども思わなかった」
(いや、ここは納得するところではないと思うんだけど……)
「どのみち、あてのない旅だった」
「ふたりでひとつずつ国をまわるのもいいと思うが」
「互いに便りを出せばいい。ひと月に一度。それならば、同時にふたつの国を見てまわった気分になるだろう」
「それもそうか。しかし、来栖。無茶だけはするな。お前は何につけても無鉄砲だ。血や戦いを好む性分でもある」
「性分だ、仕方ないだろう。それに、お前に言われたくはないよ」
何の気なしに、軽い気持ちで――。
血のつながらない兄弟は、峠で別れた。
来栖は下弦の暴君の国へ、吾妻は上弦の暗君の国へ。
(このナレーション、なんだ? デジャ=ヴュってやつか? 何回も何回も何回も……)
(聞いたような気がする。いや、聞いたよ。嫌になるくらい、はじめから何度も)
ひと月に一度という約束だった文のやり取りが、次第にひと月おきになり、半年に一度になり、年に一度あればいいほうになり……とうとう、途絶えた。
峠で道を分けてから、5年は経っただろうか。
(オレはいったいいくつになってるんだよ)
(何だかスケールの大きい話だなあ)
来栖は下弦の城下町で女を襲おうとしていた兵士を数人たたみ、吾妻は上弦の城下町で偶然要人を救った。ふたりが大器であると、それぞれの国の英雄が見出す。
互いの現在の状況を、交わす文ではなく、将や文官から伝えられるようになって、ふたりはようやく気づいたのだ。
あの峠での賭けの勝負が、まだついてはいないこと。
勝負をつけるのは、ふたりの皇帝や無数の兵士たちではなく、自分たちであるということ。賭けをした本人がけりをつけねばならないこと。
もう、桜の下で盃を交わした時代には戻れない。
どちらかが、どちらかを、殺さねばならない。
(なんでそうなる! オレはごめんだ)
(俺が香介を殺す? それは考えられない。でも……俺が殺されるというのも、あまり考えたくないな)
(誰だ! どこのどいつがこんな話にしてるんだ)
(これは……筋書きがあるんだ……そうなんだろう)
赤い大地が、決戦の地に選ばれた。
ふたりの英雄によって、下弦の月と上弦の月の戦いは、何年も膠着状態だ。吾妻は上弦の都からそう動かなかった。戦と政の合間に水墨画を描き、筆英とも呼ばれるようになっていた。
来栖にばったり戦場で会うのを避けていたのだ。都から戦地の兵へ指示を出した。兵は面白いくらい吾妻に忠実だった。暗君はいつまでも暗君のままで、上弦の月の国は、吾妻を始めとした武官によって動いていた。
だからこそ、吾妻は、来栖との対決を何年も先延ばしにできたのだが――
誰かが言う。早く両雄同士で決着をつけよと。
みなが言う、赤い大地で戦えと。
吾妻は赤い大地で馬の背に揺られながら、ひとり苦笑した。
英雄英傑ともてはやされたが、結局、流されているだけだ。たったふたりのためだけではなく、もっと大きな力のために、この乱世は動いているのだ。
背の低い木々がまばらに生えている。このみすぼらしい林を抜けてしまえば、あとは、うまい具合に起伏のない平野が広がるばかり。よく考えれば、こんな平野を戦場にすべきではないとわかるはずだ。谷、森、川。戦いを有利に進めるには、こんな科学の力も
(科学?)
頼れない世界観である以上、
(……世界観?)
地形を戦略に組みこむのは至極当然である。
それなのに……吾妻と来栖……下弦の月と上弦の月は……何もない赤い大地で決着をつけようとしている。
月のない夜が訪れた。日が昇り次第、両軍は動き始めるだろう。
夜襲を考えたこともあった。
(「こともあった」? 前にもこんなことがあったっけ? ……あったような気がする)
しかし、どういうわけか、皆が口を揃えて戦いは日中に限るという。
兵士たちが交代で休む中、吾妻はひとり馬に乗り、こっそりと陣を抜けた。欠けてはならぬ将がひとりで遠乗りに出るなど、誰が見ても止めそうなものだ。しかし上弦の月の兵士は誰も気づかず、あるいは、見てみぬふりをしたようだ。そして下弦の月の兵士も、よほど戦に勝つ気がないのか、夜分に斥候のひとりも放っていないらしい。
赤く広がる大地は、国をひとつゆだねられた英雄を、静かに静かに浮かべているだけだった。
笛の音が聞こえる。
(聞いたこともない楽器の音だ。なのに、笛だと俺は『知ってる』)
明日、血と命が飛び散るはずの戦場に、笛。
(敦盛の話じゃあるまいし……)
――アツモリとは誰のことだ?
話に聞けば、来栖は簫公と呼ばれているそうだ。武の才とともに、楽の才も常人をはるかに凌駕するという。簫公の名声は、確かに上弦の月の国にも伝わっている。
言葉を失うような音色だった。
聴いたことのある曲だ。
(今度映画に提供することになったって言ってたな……)
――エイガ? なんだそれは?
吾妻は目を閉じて耳をすませる。馬さえ息を殺したかのような静寂。その中を、笛の音が泳ぐ。
(香介。この笛は香介が吹いてる)
――香介しか、ありえない。
(もう帰ろう、香介。何だかこの夢は長すぎる)
笛の音が、ぴたりと止まった。
吾妻が目を開けると、大地の遥か向こうに、ひとつの騎馬がたたずんでいるのが見えた。月さえもなく、弱々しい星ぼしの光だけが頼りの夜で、どうしてその姿をみとめられたのかはさだかではない。
吾妻はゆっくりと片手を上げた。相手が弓を持っているかもしれないとは、まるで考えなかった。
なぜなら……あれは、来栖に違いないから。
殺し合うのは明日と、決められているから。
ここで仕留めようとしても、恐らく邪魔が入るだろう。天の力が介入してもおかしくはない。
ふたりの道は、すでに定められているのだから。
か・か・か・か・カ。
そして朝は訪れる。
来栖は吾妻の喉に、短剣を突き入れた。
生温かく、柔らかいような固いような、肉が裂ける独特の感触。短剣は抉る、白い喉を。肉を。切っ先が骨にぶつかる。
ずどん、と来栖の腹にも衝撃が走った。口の端から血を流しながらも、吾妻はまだ生きていて、片刃の剣を突き出している。切っ先は来栖の甲冑の継ぎ目を縫い……皮膚を破り……はらわたに喰らいついて……。
「さすがは宗主……我が義兄……ただでは死なんか……勝てると思った俺は……甘かったのか?」
「帰るときが来た。香介、それだけは、忘れないでくれ」
香介が短剣を横に払えば、喉ごと吾妻の動脈が断たれて、鮮血がしぶいた。来栖は自分の腹から、似たような量の血が噴き出しているのを知っていたが、少なくとも、吾妻よりは長生きできると確信していた。
斃れる吾妻。
血を吸う大地。
歓声とどよめきが風を揺るがす。だが、やけに遠くから聞こえてくる。
「……ぁぁあああああアアアアアアッ!!」
自分自身の喉からほとばしる叫び声さえ、他人のもののようだ。
「何故だ! 宗主、何故だ! 何故こうなったッ! 何故――」
大地と大気が震える。つわものどもの声、銅鑼、法螺貝、そして馬脚が地を蹴る音が、大河の堰を切ったのだ。来栖は初めて泣いた、この乱世に生まれて、あの峠で吾妻と別れてから、初めて泣いた。激しく狂おしく、まるで来栖ではない誰かが泣いているのではと思わせるほど泣きわめいた。
(オレじゃない……)
吾妻は白い肌と髪を紅に染めているばかりで、目を閉じ、すでに眠りについている。
(オレじゃない、泣いているのは、オレじゃない……)
下弦の月の軍勢は、来栖を避けて、上弦の軍勢へと雪崩れこむ。
――やめろ。勝負はついたのだ。賭けは俺の勝ちなのだ。
(ふざけんな、やめろ。オレは……こんなこと、しない!)
か・か・か・か・カ。
剣戟と怒号さえ貫くその音を、誰かのため息を、来栖は聞いた。
これで良い。それで、良いのだ。
ようやくおぬしらは、我が『道』に従ってくれた。ようやくだ……何度勝手に動いてくれたか。何度、書き改める羽目になったか。
だが……これですべては終わった。
おぬしらの出番も、終わりにしてやるとしよう。あとは、儂の他の手駒に、ふたつの国を任せるだけだ……。
気づくと、香介と宗主のふたりは、銀幕市はミッドタウンの外れにいた。
秋の風が吹き始めた、ありふれた夕暮れの中にいた。
「……香介。腹は大丈夫かい」
「え? ……あ?」
吾妻宗主の、やわらかい声。聞き慣れた義兄弟の声。一瞬脇腹がぴりりと痛んだ気がしたが、香介が思わず確認した腹からは、血など一滴も流れていなかった。そもそも甲冑を着ていない。足元では、相変わらず目つきの悪いバッキーのルシフが、これ見よがしにため息をついている。呆れたぜ、と言わんばかりに。
顔を上げ、来栖は宗主の顔を見た。もちろん喉など裂けていないし、彼の顔と髪は「白」や「銀」を髣髴とさせる色彩だ。しかし――何もかもを把握しているようで、少し苦笑いしていた。
「休みが台無しになったな」
「休み? あれ? ……何がどうなってんだ」
「どうも、ハザードかムービースターの力か、そんなものに巻き込まれたみたいだ。よかったよかった、何十年も経ってなくて。香介が俺を殺してくれたおかげだよ。誰かを満足させられたらしい」
宗主が、かなり端折ってはいたが、ふたりの身に起きたことをそう説明した。来栖は、自分の意識と思考が、ゆっくり融けていくような気がした。自我を凍らせられて、どこかに閉じこめられていたようだ。それがわかってくると、だんだん腹が立ってきた。
「どこのどいつだ、オレたちで勝手に脳内映画作りやがったのは」
香介が唸ると、ルシフが「フン」と鼻で息をつき、てくてく歩きだした。
「おや。ついて来いってさ」
煙草を取り出し、宗主が呑気に歩き始める。火をつけ、煙を吐いて、「20年ぶりの煙草だ」と感動していた。
ルシフは5分も歩かなかった。道路わきの古い家を顎で示す。
家のドアは開いていた。墨汁の匂いが鼻をつく。
ためらくことなくふたりは家に上がりこみ――木簡や巻物で埋めつくされた部屋を見つけた。文机に向かい、着物姿の老人がひとり、ひたすらに筆を走らせていた。
「おい」
香介がするどく呼びかけると、老人は筆をとめ、ゆっくりと顔を上げて……にたり、と笑った。黄色い乱杭歯が唇の間からのぞく。香介は顔をしかめた。老人の顔、笑み、皺だらけの身体、そのたたずまい……すべてに、理由のない嫌悪感しか抱かなかった。
「すべては終わった」
聞き覚えのある声で、老人は言う。
「おぬしらの出番はもう終わった。さっさと帰れ。儂はまだ書かねばならぬ。三つの月の物語を」
「ふざけんな! 許可もなくオレたちで遊びやがって」
「ああ……おぬしらの『設定』も有り難く使わせてもらったのだったな。礼を言わねばならぬところだったか。く、かかか――」
「ラダ」
ずっと黙っていた宗主が、たったそれだけ、口にした。
白いバッキーが彼の肩から飛び降り、老人の文机に着地した。墨が飛び、木簡とバッキーは一瞬で墨にまみれた。老人があわれな悲鳴を上げた――が、すぐに、バッキーの口と腹の中へ消えていった。
するりするりするり、すぽん。
香介と吾妻を、半日と数十年間苦しめた者は、たったその数秒で片づけられてしまった。
香介は意外だった。ちょっと目を見開いて、変わらぬ物腰の義兄を見つめる。宗主は笑っても怒ってもいなかった。煙草を吸っているだけだ。
「これで本当に終わりだな。どうする、パニックシネマはまた今度にするかい? ま、あそこなら夜の11時までレイトショーやってるけど」
「……驚いたよ」
「何が?」
「どうして殺したんだ」
「そりゃあ、害にしかならないからさ。たとえ半日でも時間を盗まれて、何十年ぶんも『他人の人生』を演じさせられるんだ。俺は許しても、香介は許さないだろう?」
「……」
ぺっ、とラダがフィルムを吐いた。宗主は嬉しそうに微笑んで、ラダとフィルムを拾い上げる。
「映画代ができた」
煙草をくわえ、宗主はさっさと家を出て行く。
香介は難しい顔のまま、彼に続いた。
他人の人生。
本当にそうだろうか。
義兄弟の契りを結んだのは、ただのノリ。本気で宗主と戦ってみたい。そして、命さえ賭けるようなその勝負で、勝ってみたい。
そう考えたのは、下弦の月の英雄だけではないような気がする。
「なあ、宗主……」
「礼ならいらないよ」
「ちがう。……ごめん。悪かった」
少し虚を突かれた顔で、宗主が振り向く。
「何に対して謝ったんだ?」
「思いっきり喉ブッ刺した」
「はは、なんだ、そんなことか」
「『そんなこと』って……」
「いいんだよ。あれはあの爺さんの台本じゃない。俺が立てた筋書きだから」
宗主は煙草の煙に目を細めた。
「香介に痛い思いさせて終わらせるより、ずっと後味がいいだろう?」
確かに。
即座にそう答えそうになった自分に、来栖は腹を立てたくなった。自分は確かに宗主との戦いを望んでいて、勝ちたいとさえ思っていた。宗主はどうにかして物語を終わらせ、来栖香介をいかに傷つけずにすむかを考えていたのに。
――結局、完璧に呑まれてたのはオレだけだったわけだ。
「じゃあ……ありがとう、宗主」
「礼はいらないって言ったばっかりなのに。――まあ、いいか……どういたしまして」
ふたりは並んで歩きだす。
銀幕市では現実的な時間が流れていた。
日は沈み、空は藍色に変わり始めている。
満月が……東の空からのぼってきている。いやに赤い月が。
〈了〉
|
クリエイターコメント | オファーありがとうございました。ぎりぎりの納品で失礼いたします。 戦記と聞くと、無双仕込みの三国志の知識が浮かび上がってきます。そんなわけで、ベースは三国志とさせていただきました。「書きやすい世界観で」というお言葉がありがたかったです。 心情等、ご満足のいくものであれば幸いです。 |
公開日時 | 2008-10-11(土) 23:40 |
|
|
|
|
|