★ 麗しのエリナ ★
<オープニング>

――エリナ、愛しているよ。愛して、愛して、愛し、愛、愛、あ、あああああ。
 男の咆哮が銀幕市に響き渡る。突然の出来事に、住民達はざわざわと騒ぐ。
 路地裏からガキン、という金属音が響いたと思うと、その直後に男の叫び声が聞こえてきたのだ。毎日何かしらの事件が起こる銀幕市ではあるが、今起こっている出来事は明らかな「異常事態」であった。


 植村は「早急に対応して欲しいのです」と断りを入れてから、一枚の小さなポスターを差し出した。
「十年前に公開された『狂気乱舞』という映画です」
 それは、子どもの頃、いじめによる自殺で妹を亡くしたコウという男が、エリナという女性とであって愛するようになる。しかし、彼女は幼い頃に妹をいじめた張本人だった。コウはエリナを愛すると同時に憎悪する。
『俺はついに得た。憎むべき、そして愛すべきエリナを!』
 コウは叫び、笑いながらエリナを殺す。狂人と化したコウは、エリナの死体に寄り添うように、自らの喉を引き裂く。
「コウさんは、エリナさんを探しています。彼女を殺し、自らも死ぬ為に」
 だから、と植村は続ける。
「彼を止めてください。彼は既に、通行人に怪我をさせています。鉄パイプを、辺り構わず振り回したんです」
 植村はそう言い、軽く頭を下げる。
「昨晩、捕らえようとしましたが逃げられてしまいました。銀幕市内から出てはいないとは思うのですが」
 そういうと、今までに集まっている目撃証言を書き込んだ地図を取り出した。
 それによれば、街外れにある廃屋の方へと向かっているようだった。

種別名シナリオ 管理番号178
クリエイター霜月玲守(wsba2220)
クリエイターコメントお久しぶりです。端っちょWR霜月玲守です。
エリナは、市役所が既に居場所を確認しています。連れて行くかどうかはPCさんの判断にお任せします。

参加者
ルイーシャ・ドミニカム(czrd2271) ムービースター 女 10歳 バンパイアイーター
萩堂 天祢(cdfu9804) ムービーファン 男 37歳 マネージャー
神月 枢(crcn8294) ムービーファン 男 26歳 自由業(医師)
<ノベル>

 路地裏から悲鳴が上がり、人が逃げていた。萩堂 天祢(シュドウ アマネ)は眉間に皺を寄せ、逃げてきた人を一人捕まえる。
「どうしましたか?」
「て、鉄パイプを持った人が」
 天祢は頷くと、ポケットに手を突っ込みながら路地裏に走る。肩の上のバッキー、グーリィが振り落とされぬよう、肩の部分を前足でぎゅっと握りしめる。
「しっかり捕まっていてくださいよ」
 ポケットからスタンガンを取り出しながら、天祢はグーリィに声をかける。喧嘩用に改造しているスタンガンだ。命に別状はないが、気を失うくらいはするはずだ。
(鉄パイプを持って、誰かが暴れているというのでしょうね。ならば、手っ取り早く眠ってもらいましょう)
 天祢は心内で呟き、路地裏に到達する。スタンガンを握り締めつつ、前を見据える。
「た、たすけ、たすけてたすけて!」
 長い黒髪の女性が、地に座り込んだまま天祢に手を伸ばした。天祢の周りにも人がいたが、誰もが足を一歩踏み出せずにいる。
 理由は至極簡単、彼女の前に鉄パイプを振り回す男がいるからだ。
 路地裏は狭く、ぶんぶんと振り回される鉄パイプをかいくぐって女性を助けに行く事は困難であると、暗に告げていた。女性は逃げ惑ううちに、奥へと行ってしまったのだろう。全く動けないところを見ると、恐怖で動けないようだ。
「やめなさい!」
 天祢は声をかける。すると、男は突如笑い始める。
「やめる? やめるやめるやめる! 何故、どうして、やめる?」
 鉄パイプを振り回すことを、男はやめない。
(まずは、女性を助けるほうが先ですね)
 天祢はスタンガンをポケットに戻す。間違って助けるべき女性に、スタンガンを当てては意味がない。
「全く」
 天祢は小さく呟き、ぐっと身体を落として地を蹴った。突如駆けてきた天祢に一瞬気を取られ、男は鉄パイプの動きを止める。
 その隙を突き、天祢は男に足払いをする。綺麗に決まった足払いにより、男がその場に倒れた。
「大丈夫ですか?」
「あ、は、はい」
 声を震わせながら、女性は頷く。天祢は頷き、女性の手を取って立たせようとする。
「後ろ!」
 通行人たちから声が上がり、天祢は振り返る。再び男が立ち上がり、鉄パイプを振り上げていたのだ。天祢はとっさに腕で鉄パイプを受ける。
――がきんっ!
 鈍い音と共に、天祢は熱を感じた。痛みと、熱。鉄パイプを受けた腕は、燃えるように熱い。
「何をやっているんですか、貴方は! 怪我をさせる気ですか?!」
 天祢の言葉に、男は笑うのをやめた。じっと天祢と女性を見、小さな声で「違う」と呟いた。
「違う、違う、違う! エリナ、ああ、エリナ」
 男は何度も否定の言葉を呟きながら、ふらふらとどこかに行く。彼の行く手を阻む者はいない。彼の手にする鉄パイプが、それを許さない。
「有難うございます。あの、大丈夫、ですか?」
 去って行った男にほっとし、恐る恐る女性が尋ねてきた。天祢は腕をさすりつつ、頷く。だが、額には脂汗が浮かんでいる。肩に乗っているグーリィが、心配そうに擦り寄った。
 遠くからサイレンが聞こえた。通行人が警察を呼んだのだろう。
 続けて救急車が来たのは、そのすぐ後であった。


 市役所で依頼があると聞き、ルイーシャ・ドミニカムは赴いた。事情を聞き、ふと俯く。
(憎しみ……)
 コウは、憎しみで動いている。そのことが、ルイーシャの心を抉る。
(憎まれる事の辛さは、知っていますわ)
 嫌と言うほど、とルイーシャは呟く。憎まれる事の辛さを、恐ろしさを、苦しさを、骨身に染みて分かっている。
 見た目では、10歳の少女。しかし、その紫の瞳に秘められた決意は、少女のものとは言いがたい。
(わたくしは、憎まれたいなんて思ってもいなかったのに)
 それはきっと、エリナも同じだろうとルイーシャは思う。否、ルイーシャだからこそエリナの気持ちは分かる。
 憎まれる事によって生まれる、感情を。
(憎しみは、恐ろしい感情ですわ)
 不意に浮かぶのは、自らに向けられた憎悪。
 一体、ルイーシャが何をしたというのだろうか。ルイーシャが「バンパイアイーター」というものだというだけで、憎しみは向けられた。
 人間を傷つけたいだなんて、思ったこともない。
 それなのに、人ではないというだけで憎まれた。死へ誘おうと、狙われた。
(ああ……その目は嫌)
 向けられた憎悪の瞳。それを見てはならない。見てはならないのに、思い出す。目を閉じても意味はない。瞼の裏に焼きついた憎しみの炎を宿した、あの瞳。
(いけませんわ)
 くらり、と軽い眩暈を感じた。今、ここは銀幕市だ。あの時の憎悪は、既にない。向けられた憎しみの炎は、ここでは消えうせている。
(気をつけませんと)
 ぎゅっと手を握り締め、ルイーシャは自らを叱咤する。憎しみに対する気持ちだけで、簡単に思い出してしまう。酷くなれば、何が起こるかも分かっている。
 だからこそ、落ち着かなくてはならないのだ。
 ルイーシャは一つ息を吐き出し、植村に向き直る。
「エリナさまの所在は、分かってらっしゃるの?」
「はい、勿論です。既に見つけ、保護しています。要望があれば、連れて行ってもらっても構わない、と」
 ルイーシャは暫く考え、首を横に振る。
「エリナさまを危険な目に遭わせたくはないですから。コウさまが改心してくださったら、会わせると良いと思います」
「分かりました」
 植村は頷く。それを見て、ルイーシャは立ち上がる。
「向かってらっしゃるのは、廃屋でしたわね」
 ルイーシャの確認に、植村は「はい」と答える。ルイーシャは小さく微笑み、植村に礼をしてから市役所の出口へと向かう。
「……どうしたんですか? 厳しい顔をしていますよ」
 不意に声をかけられ、ルイーシャは顔を上げた。知らず知らずのうちに、難しい表情をしてしまっているようだった。
「いいえ、大丈夫ですわ」
「そうですか。あまり思いつめては駄目ですよ」
 彼はそういうと、ルイーシャに何かを手渡し、市役所の中へと入っていった。ルイーシャが手の中を確認すると、そこには飴玉がちょこんと乗っていた。ルイーシャはそれを口の中に放り込む。
「いちご、ですわね」
 ほろりと甘い味に、ルイーシャは思わず顔を綻ばせるのだった。


 市役所に入ってきた神月 枢(コウヅキ カナメ)は、ちらりと後ろを振り返る。先程飴玉を渡した少女の顔が、綻んでいるのが見えた。
(良かった)
 子どもには、いつも笑っていて欲しい。その為の飴玉ともいえるのだから。
 ふと、頭の上のバッキー「ソール」がべしべしと頭を叩いてきた。おなじみの意思表示だ。
「どうしたんですか?」
 ソールに尋ねると、ソールは前を見るようにと前足で指し示す。枢が不思議そうにそちらを見ると、そこにはぽかんと立ち尽くす植村の姿があった。
「どうしましたか? 植村さん」
「あ、ああ、すいません。あまりにも、その、バッキーが激しくて」
 植村が苦笑気味に言うと、枢も思わず頭上のソールを上目遣いに見る。ソールも、じっと枢を見つめてきた。
「多分、出会った時に言ってしまった言葉をまだ気にしているんだと思います」
「何をおっしゃったんですか?」
「ははは」
 枢は苦笑する。やはり言ってはいけなかったのだ。ソールに向かって「美味しそう」だなんて。お陰で、懐柔しようと様々な手を使ってはみたものの、未だ気性が激しい。
「何か事件があったと聞いたんですが」
「ああ、はい」
 枢の言葉に、植村は慌てて書類を取り出す。上手く誤魔化されてくれたらしく、ソールについてはそれ以上突っ込まれなかった。
 植村が出した書類にあったのは、件の出来事だ。それらをぱらぱらとめくり、枢は「なるほど」と小さく呟く。
「そのコウさんを止めればいいのですね?」
「はい。既に被害が出ていますし、これ以上の被害が出ないともいえませんし」
「そうですね。それで、コウさんが探している『エリナ』さんは、どこにいるか把握しているんですか?」
「ええ。お会いしますか?」
「それよりも、一緒に連れて行きたいのですが。それで、話し合いを持たせたいのです」
 枢がそういうと、植村は少しだけ迷った後、電話番号と住所、それに名前が書かれたメモを取り出す。
「そこに、エリナさんはいらっしゃいます。この事件の事はご存知で、この件に関して協力的です」
 植村はそこまで言い、再び迷ってから「ですが」と付け加える。
「エリナさんを連れて行かない、とおっしゃった方もいらっしゃるんです」
 なるほど、と枢は納得する。だから、植村は歯切れの悪い返事だったのか、と。
(それでも、コウさんとエリナさんは話し合いをすべきです)
 はっきり言えば、男女仲はどうでもいい。しかし、そこに人の生死が関わってくるのならば話は別だ。
 だからこそ、エリナを連れて行きたいと思ったのだ。もちろん、ちゃんとエリナは守る。エリナも、そしてコウも、弾みで死なせるわけには行かない。
「エリナさんを、連れて行かれますか?」
 再び、植村が確認を取ってきた。枢はこっくりと頷く。
 迷いはない。
 それを見て、植村はエリナの連絡先が書かれているメモを手にし、電話をかけた。しばしの間話をした後、受話器を置いてから再び枢に向き直った。
「これから、ここに来られるそうです」
「有難うございます」
 枢は礼を言い、ポケットに入っているものを確認した。そこには、冷たい感触の「音響銃」が入っている。出力145dbの音を、特定咆哮に放てる暴徒鎮圧用兵器である。それを使用すれば、三半規管の麻痺、戦意喪失の効果が得られる。ただし、神経異常をきたす可能性があるため、枢が独自に威力を落としているのだが。
(素手であれば、殺してしまうかもしれませんからね)
 音響銃を使えば、立ち上がれなくなり、猛烈に吐き気がする程度で済む。
 枢はポケットから手を取り出し、ぼんやりとエリナの連絡先が書かれたメモを見つめた。
 電話番号の末尾が「563」になっていて、思わず噴出してしまった。


 天祢は、病院から廃屋に向かっていた。
 病院に市役所からの使いが来て、何が起こったかを説明するようにと頼まれたのだ。天祢が説明し終えると、今度は市役所の者が件の事を説明し返してくれた。
「それにしても……困りましたね」
 天祢は呟きながら、包帯でぐるぐると巻かれて固定されている腕を見る。腕の骨は、鉄パイプの襲撃の所為で折れてしまったらしい。痛み止めのお陰か、今はじんわりとした痛みしかない。
(料理とか掃除とか、出来ないでしょうね)
 苦笑交じりに、思い返す。呆れた顔が、目に浮かんでくるようだ。
「でも今は、それよりもコウさんの事ですね」
 天祢はそう言い、市役所役員から受け取った資料に目を通す。目撃情報から、彼が廃屋に向かっているのは間違いないとの事だった。
「他にもこの件に関わる人がいらっしゃるとの事ですから、既に向かっているかもしれませんね」
 先に行っている者が解決しているならばそれでいいし、まだならば共に対策を練ればいい。いずれにしろ、早く廃屋へと行った方が良さそうである。
 天祢は再び腕を見る。医者と市役所役員からは、腕の怪我を理由にこの件については積極的に関わらない方がいいと、やんわりと薦められた。だが、天祢はきっぱりとそれを断った。
 知ってしまったのだから、最後まで付き合うのが礼儀と言うものだ。
「あそこ、ですね」
 天祢の手にある地図の示された場所と、目の前の建物を見比べ、目的の廃屋であることを確認する。
 外から見るだけでは分からないくらい、薄暗い建物だった。
「幽霊が出てきても、おかしくはない雰囲気ですね」
 埃っぽい空気を纏った廃屋を見つめ、天祢は小さく笑った。


 ルイーシャは廃屋を見つめ、恐る恐るノックをする。
「あの……誰かいらっしゃるんです?」
 声をかけてみるが、返事はない。勿論、誰か、とはコウの事だ。それ以外から返事があっても困る。何しろ、おどろおどろしい雰囲気の廃屋なのだから。
(中にいらっしゃるのかしら?)
 それとも、とルイーシャは呟く。コウは回り道をしてこの廃屋に向かっており、先に自分が着いてしまったのだろうか。
 ルイーシャは意を決し、ドアを開けた。ギイ、と言う重くきしんだ音が響き渡る。空けた途端、埃が日の光の中で舞う。
「まだいらっしゃらないのかしら?」
 ふわふわと舞う埃に、ルイーシャは小首をかしげる。先にこの廃屋へ入っているのならば、こんなにも埃は舞わない筈だ。
 大きくドアを開け、光の下で床を見る。うっすらと積もった埃には、足跡一つ見当たらない。念のためにしゃがんで床に指を這わせてみると、呆気なく筋が描けた。
「この中には、誰もいらっしゃらないのね」
 導き出された結論に、ルイーシャはちょっとだけほっと息を漏らす。薄気味悪い廃屋の中に入るのは、ちょっとだけ躊躇われていた。しかし、中に目的であるコウがいないのならば、中に入らなくても良い。
 ルイーシャは再びドアを閉めようとし、ふと気付く。
 もし、窓から侵入していたら。
 ありえぬ話ではなかった。今のコウは、常識的な判断力が欠如しているだろうことは予想できる。そうであれば、正面からこの廃屋に入るのではなく、窓や裏口から侵入しているという可能性が出てくる。
「仕方ありませんわね」
 ルイーシャは小さく呟き、廃屋の中に足を踏み入れる。ぎし、と踏みしめた床が鳴る。老朽化が進んでいるようだ。
「コウさま、いらっしゃる?」
 しんと静まり返った廃屋内が薄気味悪い。それを取り払うかのように、ルイーシャは声をかけた。だが、相変わらずの静寂に、薄気味悪さは払拭されない。
(いらっしゃらないのかしら)
 そうであるならば、廃屋の外で待っていればいいだけだ。ルイーシャは諦めを含んだため息を吐き出し、更に足を踏み入れる。
 廃屋の中は、昼間であるにも拘らず薄暗い。埃は蔓延し、どことなくかびた臭いが、つん、と鼻についた。
 ぎしぎしと軋む床を注意深く歩いていく。途中で床が抜けて、足がはまってしまうと危ない。
「きゃっ」
 がたん、と何かが転がってきて、思わずルイーシャは声を上げた。転がってきたのは、一本の木。辺りを見回すと、階段の方から来たようであった。
 階段といっても、既に二階部分に上がる機能は果たせそうになかった。踏みしめる為の板は全て折れたり朽ちたりしており、上がる途中で一階に落ちてしまうだろう事は間違いなかった。
(2階にいる、という可能性はありませんわね)
 好都合だ、とルイーシャは思う。少なくとも、この廃屋を確認するのは一階部分だけで済む。
 足元と回りに注意しながら進んでいると、背後でガタ、と音がした。
「何ですの?」
 ゆっくりと振り返ると、目の前に鉄パイプがあった。ルイーシャは思わず身をすくめ、その場にしゃがみ込む。
 がんっ!
「きゃああ!」
 鉄パイプの鈍い音と共に、ルイーシャの腕に衝撃が走る。だが、しゃがんでいたのが功を奏したらしく、骨までは折れていないようだった。
「エリナ……」
 呟いた言葉に、はっとしてルイーシャは顔を上げる。
 そこには、歪な形をした鉄パイプを握り締めた男が立っていた。一目で彼がコウである事が分かった。エリナ、という呟きがなかったとしても。
「コウさま、ですわね?」
「お前は……違う。違う違う違う違う! エリナ、エリナはどこだ!」
 うおおおお、とコウが叫んだ。ルイーシャは痛む腕をさすりつつ、コウに向かう。
「コウさまは、エリナさまを愛してらっしゃるのでしょう?」
「そう、エリナ! エリナを、俺は、あ、愛して、あ、あああ……」
 愛を口にしつつも、その目に宿るのは憎悪。
 ルイーシャは思わず身震いする。
(わたくしは、あんな愛は知りませんもの)
 憎しみを伴った愛など、知らない。愛し愛されるだけの、単純な愛しか知らない。
 ルイーシャはぎゅっと手を握り締める。
「無意味ではなくとも、憎まれるほど辛い事はないと思いますの」
「憎い、憎い憎い憎い憎い! エリナ、エリナァ!」
 再びコウは叫んだ。鉄パイプを振り上げ、うおおお、と。
 ルイーシャは思わず目を閉じる。先程、殴られた腕がじんと痛む。また殴られるのだろうか、と。
 しかし、鉄パイプが振り下ろされるよりも先に、コウが「うう」と唸った。恐る恐る目を開けると、ルイーシャの目の前には天祢が立っていた。片腕はギプスで固定されており、もう片方の腕には警棒が握られていた。
「大丈夫ですか?」
 コウは左肩を抱えてうずくまっていた。どうやら、左肩に警棒が振り下ろされたらしい。
「あ、ええ。有難うございます」
 ルイーシャと天祢は互いに挨拶を交わし、そしてまた市役所からの依頼を受けた事を確認しあった。
「どうして邪魔をする、ただエリナを愛して……憎んで……いるだけなのに!」
 天祢の警棒によって受けた衝撃により、うずくまっていたコウが叫んだ。左肩の痛みは未だ癒えないのか、何度も右手でさすっている。
「確かに……貴方の妹さんは不幸だったかもしれません。その加害者を愛してしまったということなら、さぞや苦しんだことでしょう」
 静かに、天祢は言う。コウは「何故だ、何故だ」と繰り返す。
「しかし、それでコレですか? 男ならそれでも愛を貫くなり、背筋を伸ばして弾劾するなりの、どちらかの度量を見せなさい!」
 天祢が叫ぶ。コウは何度も「愛している」と「憎んでいる」を繰り返す。
 どちらかに決めかね、均衡を崩してしまっているのだ。愛と憎しみが同時に押し寄せたから、どうしていいのか分からなくなっている。
 天祢はぐっと警棒を握り締める。
「中途半端に悲劇に浸って、周りに当り散らしてどうしますか!」
「……うるさい」
 コウが静かに答えた。もしかすると、初めて会話のキャッチボールが成されたといってもいいかもしれない。
「お前に何が分かる。俺の一体何が判るというんだ!」
「少なくとも、中途半端な状況であるという事だけは、はっきりしています」
 ぐっとコウが押し黙る。
「コウさま、どうか改心してくださいまし。それをきっと、妹さまも望んでらっしゃるはずですわ」
「妹、妹……ああ、あああ!」
 コウは叫び、ゆらり、とルイーシャに近づく。ルイーシャは思わずびくりと身体を震わせるが、息を吐き出してからそっと微笑んだ。
 もしもルイーシャに妹の姿を映しているのならば、チャンスかもしれなかった。妹が言うのだから、改心するという事があるかもしれないと。
 だが、コウの足はぴたりと止まってしまった。ルイーシャをじっと見つめ、何度も「違う違う違う」と呟く。
 妹ではない、と認識しまったのだろう。
 コウは鉄パイプを振り上げる。ルイーシャははっとして我が身を庇い、天祢は慌ててルイーシャを助けようと手を伸ばす。が、届かない。
 天祢の助けようとする手を待つことなく、コウの鉄パイプは振り下ろされた。ルイーシャは硬く目を閉じ、やってくるだろう衝撃を覚悟する。天祢も、反射的に目を閉じる。
 ガキンッ!
 鉄パイプの衝撃音は聞こえたが、痛みや叫びは何もない。ルイーシャと天祢がゆっくりと目を開けると、そこには「ううう」と呻きながらうずくまるコウの姿があった。
「危ないですね」
 そこにいたのは、枢であった。うずくまるコウを呆れたように見下ろしていた。コウが握っていたはずの鉄パイプは、小石と共に下に落ちていた。それを見て、枢が小石をコウに投げあて、鉄パイプを手放させたのだという事が分かった。
「あ」
 ルイーシャは枢の顔を見て、思わず声を上げる。枢もルイーシャを見て気付いたようで、小さく「ああ」と納得する。
「まだ厳しい顔をしていますね。もう一ついかがですか?」
 枢は微笑み、ルイーシャに飴を手渡す。
「あなたも、市役所から?」
 尋ねる天祢に、枢は頷きながら天祢にも飴を手渡す。
「まずは落ち着きましょう。俺は今此処に着たばかりで、状況を把握し切れていませんから」
 枢の言葉に、ルイーシャと天祢は自らのことと今までの事を簡単に説明する。枢はそれを聞き、自らも名乗ってから「分かりました」と答える。
「では、コウさんには話し合いをしていただきましょう」
「話し合い?」
「そうです。だって、そうでしょう? このままだと、コウさんはエリナさんを殺して、自分も死ぬんですから」
 枢の言葉に、コウが「うう」と唸った。枢はしゃがみ込み、コウに話しかける。
「コウさん、どうしてエリナさんを殺そうとするんです?」
「妹、妹を……妹を死に追いやったからだ!」
「個人を復讐の理由付けに利用する高位は、最低ですよ?」
 ぴしゃりと言い放つ。枢の言葉に、コウは「でも、でもでもでも」と言葉を続ける。
「エリナがいじめなければ、妹は死ななかった!」
「加害者を楽に死なせてやる事もないし、あなたが殺人を犯す必要もないですよ」
「そんな言い方」
 しなくとも、とルイーシャが言おうとするのを、天祢が制した。コウは枢の言葉に揺れている。良い方にか悪い方にかはまだ分からないが、少なくとも言葉のキャッチボールは成されている。
「だから、どうでしょうか。殺したり死のうしたりというのを止めてみませんか?」
「しかし、エリナ、エリナは……」
 コウは言いよどむ。それを見て、枢は「分かりました」と言ってから、手をひらひらと振る。
 枢の手に導かれるように、女性がやってきた。
「まさか……エリナさん、ですか?」
 天祢は恐る恐る尋ねる。さらりとした長い黒髪の似合う、顔立ちの整った女性だった。
(よく似ている)
 髪型だけだけれども、と天祢は呟く。ちらりとギプスで固定されている腕を見ながら。
「はい、そうです」
 彼女、エリナは頷く。
「どうして……」
 ルイーシャは愕然としながら、エリナを見つめる。
 植村には、エリナが危険な目に遭ってはならないから、コウが改心したら連れて行くと告げていた。
 枢はルイーシャを見て「すいません」と断りを入れる。
「ルイーシャさんが連れて行かないようにと言っていたのですね。ですが、俺は話し合いをさせたかったので、連れてきてしまいました」
 枢の言葉に、ルイーシャははっとし、首を横に振った。
 今更、連れて来ないで欲しいなどと言っても仕方ない。既に、エリナはこの場に来てしまったのだから。
(なら、せめて)
 ルイーシャはエリナとコウを交互に見る。せめて、コウがエリナを危険な目にあわせないように、と。
 コウは目を見開き、エリナを見つめていた。じっと、じっと、じっと。
「コウさま、どうか純粋に彼女を愛すると誓ってくださいまし」
 ルイーシャはコウに言う。お願いですから、と付け加えながら。
「目の前にいるのは、エリナさんですよ。本物の、エリナさんですよ!」
 天祢が言い放つと、コウは何度も「本物、本物」と繰り返した。
「さあ、コウさん。エリナさんに言いたい事があるんでしょう?」
 枢がそういうと、コウは目を見開いたまま、ゆらりと立ち上がる。
「ああ、ああ……エリナ」
 コウはゆっくりとエリナの方に手を伸ばす。
「コウ、ごめんなさい。あなたの妹の事、私、私」
 エリナはゆっくりとコウの方に手を伸ばす。
「エリナ、エリナ、エリナ」
「本当に申し訳ないと思っているの。だって、私、知らなくて」
 エリナは何度も「ごめんなさい」を口にする。何度も、何度も、何度も。
 コウは相変わらず「エリナ」と名を呼び続ける。その目に宿っているのは、エリナを愛する心だけ。
 今、この瞬間だけは。
「俺は、エリナを愛している」
 触れ合う、手。
 エリナは「私も」といおうとしたが、それはコウの言葉に阻まれた。
「だが、妹は苦しんで死んだ。辛い辛いって言いながら」
 コウはそういうと、エリナの手を握り締め、ぐいっと自らの方に引き寄せた。エリナは思わず「きゃっ」と声を上げる。
「苦しんで死んだ妹の気持ちを、エリナは少しでも味わえばいい。いや、味わうべきだ!」
 あははははは、とコウは高らかに笑った。いつの間にか、コウの手にはあの鉄パイプが握り締められていた。
「コウさま、いけません!」
 ルイーシャが叫ぶ。それと同時に、天祢は再び警棒を握りなおして構える。
「やめなさい! ここで殺しても何にもならないでしょう!」
 枢はそう言い放ち、懐から音響銃を取り出して構える。エリナを盾にしている上に絶え間なく動く為、上手く狙いが定まらない。
「エリナエリナエリナ! 俺はお前を愛、愛し、ああ、ああああ!」
 コウは叫ぶ。続けて「憎い憎い憎い!」と。
「俺はお前を愛して、憎んで、いや、俺は俺は俺は!」
 エリナが悲鳴をあげる。それがまた、コウの笑いを助長させる。
「あはははははは! エリナァ!」
 ばんっ、とコウはエリナを突き飛ばす。それと同時にルイーシャと天祢はエリナの方に駆け寄り、枢は音響銃のトリガーにかけた指に力を加えた。
「耳を塞いでください!」
 枢は叫び、皆が耳を塞いだのを確認してからトリガーを引いた。エリナに夢中になっているコウの耳には届かなかったらしく、耳はふさがれてはいない……!
――ドゥンッ!
 耳を塞いでいても、空気が震えるのだけは分かった。びりびりと塞いだ手にまで衝撃が来る。
「うわああぁぁぁ!」
 コウは叫び、その場に倒れた。だらりと口を開け、びくびくと身体を痙攣させている。
「それは、一体」
 天祢が尋ねると、枢は「音響銃です」と答える。
「威力は落としてありますから、命の心配はありませんよ」
「エリナさま、大丈夫でしょうか?」
 ルイーシャが尋ねると、エリナはこっくりと頷いた。顔は真っ青になっており、小刻みに震えている。
 無理もない、コウに殺されそうになったのだから。
 枢は床に倒れたままのコウに近づき、音響銃を収める。
「コウさん、人間の身体など脆いものでしょう? 死ぬのはいつでもできるんです。だからこそ、死を逃げ道にしないで下さい」
 枢の言葉に、コウは「うう」とうめき声を上げる。言葉は届いているのかもしれないが、枢の放った音響銃のダメージが大きいようだ。
「とりあえずは、精神科にでも」
 枢はそう言い、ルイーシャと天祢、それにエリナの方を振り返る。
「そうですわね。正気を取り戻していただかないと」
 ルイーシャがそう言った瞬間、枢の後ろから、ごとり、と音がした。
 枢は音と同時に構えようとしたが、一瞬ためらった。素手で応戦すると、コウを殺してしまうかもしれない、と思いなおしたのだ。
「コウさん!」
 天祢は呼びかけ、地を蹴って警棒を構える。
――ガキンッ!
 警棒と鉄パイプが激しくぶつかり合う音が響いた。
「音響銃を受けても尚、立ちますか」
 枢は感心したように言い、ほっと息を漏らす。コウも、エリナも、まだ死んでいない。
「駄目ですわ、コウさま。どうか、落ち着いてくださいまし」
 ルイーシャは震えるエリナの手を握り締めつつ、叫ぶ。だが、コウは「うおおお」と叫び、ぎりぎりと鉄パイプで天祢の持っている警棒を押さえつけるだけだ。
「エリナエリナエリナエリナ!」
「コウさん、エリナさんをどうしたいんですか? 貴方は一体、彼女をどうする事が望みなんですか?」
 天祢が問いかける。コウは何度も「愛している」「憎い」を繰り返す。
 そうして、ついに受け止めていた天祢の警棒を弾き飛ばす。無理もない、天祢の片腕は、コウによって骨を折られているのだから。
「……分かったわ、コウ」
 声を震わせながら、青白い顔のまま、エリナが口を開いた。
「私を、殺したいのね。殺したいほど、憎くて、愛してくれているのね」
「エリナさま!」
 ルイーシャは慌ててエリナの手をぎゅっと握り締める。だが、エリナはそれを力ない笑みで答え、首をゆっくりと横に振った。
「もう、いいんです。もう……」
 エリナはゆっくりと立ち上がり、コウの前に歩み寄る。コウは鉄パイプを振り上げ、エリナは両手をコウへと差し出した。
「コウ。私も……愛しているわ」
 エリナの両足は震えていた。差し出した両手も震えていた。
 しかしそれでも、エリナはコウに対面していた。本当ならば逃げ出したいであろうに、コウの前へと。
「エリナさま!」
 再びルイーシャは叫び、エリナの方へと行く。守らなければ、という思いだけで。
「エリナ、愛して、憎んで、愛、あ、ああああ!」
 コウの鉄パイプが、エリナの頭を狙っていた。
「いけません!」
 天祢は叫び、警棒を拾ってエリナの元へと駆ける。
「やめなさい!」
 枢は叫び、音響銃を再び構える。
 次の瞬間、エリナの悲鳴が響き渡った。
 コウは、鉄パイプの先で自らの腹を刺したのだ。先端は幾度となくダメージを与えられていたせいで歪に曲がり、へしゃげていたため、腹に刺さりやすくなってしまっていたのだ。
「コウ!」
 エリナは慌ててコウの元へと駆け寄る。が、コウはエリナを突き飛ばす。
「何をするんですか!」
 枢が突き飛ばされたエリナを受け止める。コウは「ごふっ」と口から血を吐き出しつつ、口元だけで笑う。
「コウさま、しっかりしてくださいまし!」
 ルイーシャはコウに向かって言うが、コウは力なく首を横に振った。
「これで、いい。これで、俺は、エリナを、殺さずに、済む」
 コウはそう言って笑った。何度も「これでいい」と繰り返しながら。
「……グーリィ」
 静かに、天祢がバッキーを呼ぶ。グーリィはぱかっと口を開け、コウを喰らった。
「コウ、コウ、コウ!」
 エリナが叫ぶ。手を伸ばそうとするのを、枢が制した。
「エリナ……アイシて」
 かたん。
 グーリィの吐き出したプレミアフィルムは、妙に軽い音をして、床に落ちた。


 エリナはルイーシャの「大丈夫ですか?」という問い掛けに、真っ赤な目で頷いて見せた。
「最後、私を愛していると言ってくれたでしょう?」
 エリナの頬を、涙が伝う。
「それが、私にはとても嬉しかった」
「エリナさま……」
 ルイーシャは呟き、苦笑交じりに「分かりませんわ」と言う。
「わたくしには、難しくて分かりませんわ」
「いつか分かるわ。きっと」
 エリナは微笑み、プレミアムフィルムをぎゅっと握り締めた。フィルムは市役所に届けなくてはならない。
 だから、ただ今だけは。
「いつしか、分かるのかしら」
 ルイーシャの言葉に、エリナは「ええ」と言って再び微笑んだ。
 美しい笑みであった。


 天祢は腹いっぱいになったグーリィを肩に乗せ、電話をかけた。数コールで出た相手に、天祢は「すいません」と言葉を発する。
「腕、折ってしまって」
「……はあ?」
 突然の事に驚く相手に、天祢は説明をする。今回の件の事を、腕を折ってしまった経緯を。
 呆然としているであろう相手に、天祢は「はは」と笑う。
「暫く料理とか、掃除とか、できないかもしれません」
 天祢の言葉に、電話先でのため息が聞こえた。
「馬鹿か、お前」
 呆れたような物言いに、天祢は今一度「ははは」と笑う。
「来栖さんには言われたくないですよ?」
 受話器の向こうで、笑い声が聞こえた。


 枢は大きくため息をつき、手元の音響銃を見つめた。
「間違いだったのでしょうか」
 エリナを連れてきた事を思い返し、枢は呟く。
(ですが)
 枢は思い返す。最後、コウは笑っていた。憎しみと愛情の狭間で揺れていたが、最終的には愛情を取ったのだ。
 エリナに、愛している、と。
「人間は、脆いものですね」
 改めて痛感した思いに、枢は苦笑をもらす。
 それでも、と枢は音響銃を収めながらポケットをまさぐる。
「時折その意志の強さに、驚かされます」
 音響銃を受けたにも拘らず立ち上がったコウの姿を思い返し、枢は呟いた。
 ポケットから出した手には、飴が握り締められている。枢はそれを口へと運ぶ。
 ほろ苦い、珈琲味であった。


<麗しきエリナの手にフィルムが握られ・了>

クリエイターコメント この度は「麗しのエリナ」にご参加いただき有難うございます。
 いかがでしたでしょうか?
 締め切りギリギリの納品となってしまい、申し訳ないです。お待たせしてすいません。

>ルイーシャ・ドミニカム様
 ご参加していただきまして、有難うございます。
 ひたむきで、純粋な気持ちがとても綺麗で、どきどきしておりました。
 コウとエリナへの配慮がとても嬉しかったです。

>萩堂 天祢様
 ご参加していただきまして、有難うございます。
 襲われる女性を守っての負傷、格好良いです。そんな風に守られたら、メロメロになっちゃいます。
 コウへの叱咤が、的を射ていて「うわあ」と大喜びでした。

>神月 枢様
 ご参加いただきまして、有難うございます。
 男女仲はどうでもいいが、生死に関してはそうではない、というその佇まいが素敵でした。
 飴を使うそのお姿が大好きで、最後まで使わせていただきました。

 少しでも気に入ってくださると嬉しいです。
 ご意見・ご感想等、心よりお待ちしております。
 それでは、またお会いできるその時迄。
公開日時2007-08-21(火) 23:40
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