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<ノベル>
赤い夕陽が落ちていく。
落ちていくそれに照らされた校舎。
その中を走る者がある。
誰か、誰か。
走る音。
喉が痛い。
誰か、誰か。
ふいに濃く伸びた影。
目を見開いて。
嗚呼と絶望がのし掛かる。
影はかくりと首を傾げて前に立つ。
赤が染み付いた棒を振り上げる。
早く。
喉が痛い。
足が震えて。
早く逃げないと。
瞬きすら出来ない。
永遠の夕陽の中に捕まってしまう──…
◆ ◆ ◆
ヘーゼル・ハンフリーは気に入りの薔薇庭園を楽しんだ、その帰りであった。
夏に薔薇が咲くというと驚くものが多いが、薔薇は元々四季咲きである。その美しさが損なわれるという事から、春ないし秋にのみ花が咲くよう剪定しているのだ。
しかしここ、市街地を外れ、いくぶんか小高い位置に作られたその薔薇園では、陽射しが強まり始めた今にこそ咲き誇る夏薔薇を楽しめる。
蔓薔薇のアズビス、ウエスターランド、エマニエル……宇宙を旅しても強い芳香を放ったという、いっとう香りたつオーバーナイト センセーション。
手入れの行き届いた庭園の様や香りを楽しみ、庭園近くのカフェで薔薇のジャムをいれた紅茶を楽しんでいた、その時である。
「ねぇ、聞いた? あのヘンピなとこにある大学……行方不明になった人がいっぱいいるんだって」
噂の好きな少女達の声が耳に入ったのだった。
「失踪事件だと?」
栗栖那智がそれを知ったのは、大学で生徒達が噂しているのを耳にしたからだった。
銀幕市内でもっとも大きな学校と言えば綺羅星学園を置いて他にないが、もちろんそれ以外の小学校から大学まであるわけで、那智が聞いたのはその中でもとても有名とは言えない、こぢんまりとした大学の噂であった。
その大学はすでに何年も前に廃校となっているのだが、そこを肝試しの良い舞台にと選んだか、あるいは引き寄せられたのか。とにかくそこを訪れた者たちはことごとく帰ってくることはないという。
ただひと言。
「早く逃げないと、永遠に夕日の中に捕まってしまうから──…」
そう締めた生徒が翌日以降、大学へ来なくなったことだけが事実である。
シュウ・アルガは散歩に出ていた。
特別やることもなく、ただなんとなく辺りをぶらぶらしていただけだ。
杵間連山の麓近く、民家もほとんど見えない、よく言えば自然豊かな場所である。蝉もそろそろ鳴き出し、賑やかだ。空は晴天。白い雲が眩しくなってきた時分である。
ふとぽっかりと空いた空間を見つけて、思わず足を止めた。それは校庭だ。その向こうにガラス窓も破れた廃校が緑の中に唐突とあった。
「こんな所に学校があったのか」
ふらふらとその門をくぐり。
瞬間。
空間がぐにゃりと歪んだ。
蝉の声が遠退く。
知っている感覚。
抜けた先は、真っ赤な夕日に照らされた学校であった。
その校庭に男女の影が伸びている。シュウが入ったことで空間に振動でも走ったかのように、二人は同時に振り返った。
「げ」
思わず口に出して、顔を歪める。
一人は見知った眼鏡の男、栗栖那智だ。たった一度だけ依頼を共にした事があり、信頼に足る人物とはわかっているのだが、なにぶんムービーファンのくせに変わっているという印象が強すぎた。しかもその隣にいるのが、まるで女神のような美貌の女性である。羨ましいような憎らしいような。
「あなたも、噂を聞いていらっしゃいましたの?」
小鳥が鳴くような美しい声で、女性はヘーゼル・ハンフリーと名乗り問うてきた。
長いアッシュブロンドの髪に、ハシバミの瞳。ハザードの中でなければ、今すぐデートに誘うものを。
「噂?」
「ここのところ、銀幕市で失踪事件が続いているだろう。対策課でも依頼が出ていたので、ハザードの可能性も考えられ、噂を辿って来たんだ。何も知らずにこんなところへ来たのか?」
淡々と事実を述べ、質問を投げかけてきただけなのに、なぜにこうももやもやとした気分になるのか。
「噂くらいは、聞いてたけど」
シュウは女性がいるのだと思い直し、やはりハザードなのかと頭を掻いた。
ヘーゼルは小首を傾げて微笑んでいる。驚いているのかどうかは今一はっきりとしないが、女性が巻き込まれたとなれば、ともかくハザードの解決に向かわなければ。
「おい」
那智は眼鏡のブリッジを押し上げて、それを見た。声にシュウとヘーゼルがその先に視線を遣る。
校庭の真ん中に、いつの間にか鬼面を被り、古びた棒を手にした少女が一人、立っていた。
少女とわかったのは、セーラー服をまとっていたからである。
鬼面は般若面。二本の角を持ち、眉間を顰めて頬を硬直した鬼女を表現した相貌。
赤い夕日に照らされて、その凹凸にくっきりとした影が浮かび、それが異常さを増して見えた。
きりとした緊張が走る。
しかしその恐ろしげな面から発せられたのは、少女らしい声であった。
「鬼ごっこしましょ」
かくりと首を傾げて、少女はそう言った。
「十、数えてあげる。私に捕まらないで、出口に辿り着けたら、貴方たちの勝ち」
「ちょっと待て、いったい何を」
「早くしないと」
シュウが言うのを、少女は気にもせずに続けた。
「永遠にこの世界に閉じ込めちゃうよ」
喉の奥から漏れる忍び笑い。
夕日に浮かぶ、濃い影を刻み込んだ般若の瞳が真っ直ぐに三人を見つめた。
「いぃーち、」
◆ ◆ ◆
三人はバラバラに校舎内にいた。
誰か一人でも「出口」を見つけられればハザードは解決するであろうというのが、三人の一致した見解であった。
シュウはヘーゼルに付いていこうかと提案したが、やんわりと断られてしまった。あまりに朗らかな笑みにそれ以上言う事もできず、さっさと背を向けてしまったこともあって、シュウは渋々分かれたのだ。那智はさっさと何処かへ行ってしまっている。
「あーあ、マジかよ……」
面倒くさそうに零すも、その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。
見た目は十七歳頃と若い姿をしているが、実は四十路にも手が届こうかという壮年である。しかしその顔に浮かぶのは、悪戯を思い付いたような悪餓鬼そのものである。
どこからか取り出した樫の杖と、腰に吊したダガーを確認するように撫でつけて、シュウは歩き出した。
黄金の光を放つ蝶が、ひらひらと飛んで行く。
校舎を抜けて、那智は裏門へと来ていた。
鬼面の少女が数えだした瞬間、那智は校門へと下がった。しかし見えない壁のようなものが障害となって外へは出られなかった。ならば、と裏門まで来たのだが、やはりここも出口ではないらしい。
那智はブリッジを押し上げる。
分かり易い出口だからこそ、本物の出口である場合もある。それを先に潰せたのは、那智には収穫だ。
少女の数を数える声は、不思議と耳に響いていた。十を数え終えたところでぱったりと聞こえなくなったのが気になるところ言えばその通りだが、少なくとも今、彼女は時分を追ってはいない。校舎の外へ出た瞬間に消えた背筋を這うような暗闇によって、那智はそれを冷静に感じ取り、分析していた。
それは、出口が校舎の中にあることを示している。
だから外へいる限り、那智は安全である。
危機感はほぼ0だった。
それは「鬼ごっこ」を提案した少女から思えることである。
「追われてるのはどっちだろうな」
那智は眼を細め、再び校舎の中に足を踏み入れた。
ヘーゼルは微笑みを絶やさないまま、校舎の中を散歩していた。
散歩。
彼女にとっては、その程度である。
あらあらと驚いた振りもしてみるが、その心は何者にも動じない。
ヘーゼル・ハンフリー。その本質は、自らに害をなす者を容赦なく葬る殺人鬼だ。
殺す者は、逆に殺される覚悟も同時にすべきである。そしてそれを優雅に楽しむのが、ヘーゼル・ハンフリーという美しき殺人鬼であった。
背筋を這う暗闇は、彼女にとっては親しき隣人。何を恐れる必要があろうか?
だが、それ故にヘーゼルは不満を覚えていた。
「ただ出口を見つけるだなんて、つまりませんわ」
階段を上り零した先に、いつの間に先回りをされたのか、からからと棒を引き摺った少女。
「みぃーつけた」
ヘーゼルの口元に、艶やかな笑みが浮かぶ。
◇ ◇ ◇
かこん、かこん、と木の棒が階段を打つ音がして、那智は足を止めた。
夕日が斜めに差し込む階段を背景に、鬼面の少女が現れた。その腕からは濃い影になっていても判るほどの血液が流れ出した跡が見える。
那智は眼を細めた。セーラー服に付着した血液量を見るに、かなり失血したはずだ。袖が切り裂かれているから、怪我をしたのは少女であるのは間違いないだろう。しかし少女はふらつく様子も、痛みに堪えている様子でもない。ただゆらりと、そこに立っている。
「みぃーつけた」
抑揚のない声。
振り上げる棒には今し方ではない血液も付着しているように見受けられる。しかし、先程の階段を打つ音からして、棒にさほど重量があるとは思えない。それに、少女の細腕。ムービースターであるから一概にそうは言えないが、那智の持ちうる医学知識によるならば、人を殺傷できるほどの破壊力は得られないだろう。
逃げてきたのか、或いはその逆か。それは計り知れないところであったが、那智はただ眼を細めた。
ゆらりと少女のバランスが崩れる。
動く。
そう感じた時、那智は口を開いていた。
「おまえは、なぜ追い掛けてくる?」
一瞬動きを止めるが、かこん、と木の棒が階段を打った。
「鬼ごっこをしているんだもの」
かこん、と階段を打つ軽い音。
那智は眼を細め、踵を返すと同時、走り出した。かこん、かこん、と乾いた音が断続的に続いて、軽い足音が続くのを聞く。
鬼ごっこ。
日本だけでなく、世界的にも古くから知られている遊びだ。集団のなかにオニと呼ばれる者を一人選び、終始このオニとヒトの子らの対立で発展していく遊び。この遊びは、宗教的な行事に起源があると昔からいわれている。最終的にはこのオニも神威の前に屈服する形になるのだが、その前に人間に対して横暴な行動を取るものだ。
手近な教室に飛び込む。教壇に隠れ、息を整えようと大きく息を吸い、吐いた。廊下側から陽が差している。那智は体を縮め、教壇の影に自分の影を隠す。
軽い足音。
それが止まる。
那智は細く静かに息を吐き、吸った。
眼球のみを動かせば、鬼の影が伸びるのを見る。
息を殺す。
心臓の音がやけに大きい。
ふいにその影が伸びるのを止めた。何か逡巡するような沈黙があって、影は教室から離れていった。
那智はその足音が完全に消えるのを待ってから、息を吐いた。
危機感は無い。
それは嘘ではない。
しかし、何かに追い詰められるということは、極度の緊張を強いるものである。その証拠に、息を吐いた瞬間、肩の力が抜けていくのがわかった。
那智は息を整え直し、ブリッジを押し上げると立ち上がった。教室のドアは開け放たれたままである。
さてどうしたものかと教室を一歩出た瞬間。
ごつり。
こめかみに衝撃を感じ、那智は世界が回転し、黄昏が暗闇に閉ざされていくのを見た。
その端に。
頬の濡れた般若が、映った。
ひらひらと黄金の蝶が飛んでいる。
それはぴたりとシュウの肩に止まると、またひらひらと光を振りまいて飛んで行く。
「栗栖のヤツ、捕まったのか」
黄金の蝶はシュウの探索用マジックアイテムである、その名も【探索蝶】だ。これを飛ばしているお陰で、シュウは鬼面の少女に会うことも、あちこちを歩き回ることもなく、校舎の構造を知ることができた。
建物は五階建てと、外観通りである。教室の数は一つの階に八前後、四階より上は芸術教室として使われていたらしい。石膏や絵画、映画研究会でもあったのかフィルムなども所狭しと並べられている。
異様だったのは、その絵画である。
どれもこれも夕日を描いたものなのだ。
もちろん、まったく同じというわけではない。中心となる人物ないし建物など、それこそ千差万別。しかし、その空はすべて夕焼けなのである。
何か意味があるのか。
そう思った時、ぞわりと背筋に戦慄が走って、シュウは樫の杖を向けた。
「まぁ、そんなに驚かなくともよろしいではありませんか」
そこには少しばかり困ったように微笑むヘーゼル。
シュウは慌てて杖を降ろした。
「すみません、やっぱハザードの中で緊張してるみたいだ」
「わかっておりますわ」
くすくすと微笑むヘーゼルはどこまでも美しく、シュウは夢を見ているかのような気になった。それほどにヘーゼルは浮世離れしている。シュウを見つめるハシバミの瞳に、吸い込まれてしまいそう。
シュウが頭を振ると、ヘーゼルが「それで」と口を開いた。
「わたくし、最上階が怪しいと感じておりますの」
唐突な言葉に、シュウは一瞬何を言われたのかわからなかった。
「四階は、廊下を抜けることができましたわ。でも、その上には昇らせていただけませんの」
そこまで言われて、拡散していた思考がまとまった。
そうだ、今はヘーゼルのことではない。
このハザードから出ることを考えなければ。
「栗栖は、捕まったみたいだ」
ヘーゼルは「まぁ」と瞬いた。本当に驚いているかどうかはわからないが、それは今は問題ではない。
少女はまるでワープでもしているかのように、突然に忽然と現れる。
しかし、彼女は一人だ。
こちらは二人。
シュウとヘーゼルは小さく頷き合って、校舎の端にそれぞれある階段を上っていく。
那智は暗闇の中で目を覚ました。
起き上がろうとすれば目眩と吐き気がする。
「大丈夫?」
知らない声。
顔だけ上げれば、そこには人々が蹲っていた。
「ここはどこだ?」
「檻の中」
憔悴しきった人々は、ただ呟く。
檻、と口の中で繰り返して、どうにか体を起こした。
そこは屋上だ。どうやって上がるのか、通用口も何も無い。暗闇だと思ったのは人々の影の中にいただけで、体を起こせば目の前に、ただ大きな夕日だけが見える屋上だとわかった。
なるほど、確かに檻と同じだ。
「鬼に捕まると、ここに連れてこられる。どうやってかは、誰も知らないけど」
那智は頷き、体の調子を確かめる。倒れた時に打ち付けたのか、小さなこぶと痣が見られたが、それ以外は至って健康である。眼鏡も割れていない。
それから見回し、ヘーゼルとシュウがいない事を確かめて息を吐いた。
あの二人ならば、きっと出口を見つけるであろう。
憔悴はしているものの、差し迫った命の危険は見受けられる者はいないし、とにかく心を折らないことだと那智は思う。
同じ風景。変わらない風景。
それは感覚を狂わせ、人を狂気に走らせる。
諦めている者がいても、まだ狂気に走る者はいない。
那智は黙って待つ事を選んだ。希望を抱かせるようなことは、言わない方が良い。それは時に、恐ろしい力を生む。安全に無事を確保すること。
今ここでは、それは待つことだった。
那智は考える。
般若面。
それは、女性の嫉妬、怨念、悲しみ、嘆き……そうしたものを一つの面の中に表現した鬼女の面である。
仏教的な思想を思えばまるで別の意味だが、もし倒れる寸前に見た般若のそれが真実だとすれば、彼女もまたずっと待っているのか。
──鬼ごっこをしているんだもの。
抑揚のない少女の声が、耳に蘇る。
この映画が、どういった意図で作られたものかは知らない。
しかし、彼女の言葉をそのままの通りで受け止めれば。
「……そういう、スターもいるか……」
那智は目を閉じた。
少女は迷う。
戻れない。
戻ればこちらが見つけてしまう。
行けばあちらが見つけてしまう。
一つの体。
もどかしい衝動。
シュウは走った。
ヘーゼルは止めた。
ああ。
ああ。
どうすれば。
「これかっ!」
黄金の蝶が導く、それは。
青い空の下、少女が微笑んでいる、絵画。
断末魔と共に、風景が歪んでいく。
夕焼けが強い風に巻かれて。
目を開けた時、そこにはあの廃校と、行方不明になっていた人々が校庭の中にいた。
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クリエイターコメント | ギリギリで申し訳ないです。 これにて木原最後の納品となります。 素敵なお三方を書かせていただき、ありがとうございました! |
公開日時 | 2009-07-31(金) 23:50 |
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