★ アー・ン・ヴァイが記した赤き目録 ★
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
管理番号100-8417 オファー日2009-06-25(木) 23:29
オファーPC ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
ゲストPC1 ヴィクター・ドラクロア(cxnx6005) ムービースター 男 40歳 吸血鬼
<ノベル>

 銀幕市の郊外には、神の魔法がかかる前から、吸血鬼が住んでいそうな洋館があった。
 ゲーム好きからは「仕掛けだらけでゾンビがひしめいていそうな館」と言われ、ラヴクラフティアンなどは「狂える魔術師が記した魔道書が隠されているにちがいない」と言ったようだ。しかし実際はとある映画制作会社が撮影用に買い取っていたため、中の様子を知る一般人はほとんどいなかった。それが、魔法がかかってからは、いつの間にかとある吸血鬼が買い取ってしまったため、館は本当に「吸血鬼が住む洋館」になっていた。
 表札には『黒木』とある。

 今月中旬から、この館は再び映画制作会社の手元に戻る。
 現実の銀幕市に、戻ってくるのだ。

 現在の家主は、会社に買い取りを求めなかった。会社に対して3年間の賃貸契約を結んでいたようなものだ、と今になって気づいたかのように、彼は笑った。「終わりの日」が来ることを、彼はとっくに想定していた。それこそ、このまちに実体化したその日から知っていたのだ。
 知っていようといまいと、家主ブラックウッドの余裕ある立ち振る舞いは変わらなかっただろうが。
 だから、常日頃から館は丁重に扱っていたし、メイドまで雇って毎日すみずみまで掃除をしていた。いつ「終わり」が来てもいいように。おかげで、リオネからの神託があったその日から、黒木邸は返還準備を始められたのだ。
 主だった部屋や廊下は、すぐにでも撮影を始められそうなくらいきれいになった。
 問題は、ブラックウッドが招き入れた吸血鬼や、雇ったメイドの私室。特に、あるメイドの私室などは、恐ろしく重い段ボール箱や、マンガとライトノベルとイラスト集がぎっしり詰まった本棚や、消しゴムカスと原稿用紙が散乱する机で、床がひずみそうなくらいなのだ。
「残るはこの部屋か」
 ものすごい量の〈腐の遺産〉(註:「負の遺産」のタイプミスではない)を前にしても、ブラックウッドは動じない。部屋の主だったメイドは申し訳なさそうにもじもじしている。
「これほどの蔵書を預ける場所に、あてはあるのかね」
「はい。大丈夫です」
「もともと君は『自宅に置ききれないから』という理由でここに運び込んできたはずだったが……君の『大丈夫』という返答を信じよう」
 「蔵書」というすごくおごそかでカッコいい言葉をあててもいいものか? 誰もそんなツッコミを入れられる雰囲気ではなかったので事態はそのまま続行された。
「荷造りと荷運びを手伝うのはいっこうに構わないよ」
「い、いやいやいやいいです、結構です! ここは私ひとりでやります。ご主人様は蔵書庫の整理をお願いしますッ」
「ああ、そうだった。蔵書庫の整理も骨が折れそうだな。しかし、あちらは確かヴィクター君が……」
「こ、これからすぐに取り掛かりますから、早く行ってくださいッ!」
 主人に対してあるまじき行動。メイドはブラックウッドを私室から押し出し、ドアを閉めて鍵までかけてしまった。ちょっとやそっとの力には屈しないブラックウッドも、大いなる腐がもたらす恥じらいのパワーにはかなわなかった。
「乙女心は度し難い」
 ふっ、とどこか悲しく笑って、ブラックウッドは顎を撫でる。そして、蔵書庫に向かった。


 黒木邸の蔵書庫というのは、常時発生しているムービーハザードのようなものだ。中にはムービースターと呼んでも差し支えない、意思ある魔道書まで存在している。魔術や歴史に関する書物は、ブラックウッドが世界中から取り寄せたり、いつの間にか現れたりするために、細胞のように増殖していった。怪現象や小規模なムービーハザードによる騒動は日常茶飯事だった。いつしかブラックウッドは、「何か起きても自力で解決できる」者以外蔵書庫には近づかないように、とおふれを出すようになった。
 もともと、撮影用の備品として本棚に収まっていた古書もあるが、ごく一部だ。これはもちろんもとの持ち主のために残しておかねばならない。
 そしてブラックウッドが住み着いてから増えた本は、『現実』に存在する人々に譲ることにしていた。中には、銀幕市外に持ち込めないものや、魔法が解ける日に消えてしまうものもあるだろう。ブラックウッドが本を譲る先は、そんな可能性も充分に納得できる、話のわかる識者ばかりだった。
 ともあれ、譲るからには段ボールなりビニール紐なりでまとめておかねばならない。さすがのブラックウッドも、ひとりで、しかも10日間あまりで、この大作業をやり遂げる自信はなかった。そのため、彼は同居人――ヴィクター・ドラクロアに、蔵書庫の整理を依頼していたのである。彼は本好きであり、黒木邸蔵書庫に詳しく、また、ブラックウッドからの信頼を得ていた。
 だが、もしかすると、それはあやまりだったかもしれない。本にまったく興味のない者に頼むべきだったのだ。
 ヴィクターの作業はよく止まっていた。ブラックウッドはそれを知っている。なぜなら、腕力は申し分ないはずの吸血鬼が、本を整理するために何日も時間を要するはずがないからだ。
 まだ終わっていないだろうな、といういやな自信を持ちながら、ブラックウッドは蔵書庫のドアを開けた。

(我は訪る、虹の夜の果てに、汝等と共に、汝等に齎すべく)

(汝に問う、我は何ものなるや)

 ごうっ、と冷たくも熱くもない波動。それは蔵書庫の中から吹いてきたようでもあった。逆に、蔵書庫の外の空気が吸い込まれたかのようでもあった。
 ブラックウッドの黒衣と髪は激しくなびいた。
 金の目が見つめる中、見慣れた蔵書庫は風の音を立てて姿を変えていく。本棚の数は、鏡に映されたかのようにずらりと増えた。ここはあくまで部屋でしかないはずなのに、天井が高くなり、階段ができ、2階ができ、その2階にも本棚が並ぶ。
 天井は黒いガラス張りのアーチを描いた。梁からぶら下がった鎖の先に、光を宿したランプが下がる。ランプの光は、どのような魔術によって生み出されたものか。炎ではなかった。
「……」
 ブラックウッドは冷静にドアを閉めた。
「これはいかん。この期に及んでムービーハザードが起きるとは。ヴィクター君を助け出さねばならないな」
 ヴィクターがひどい目に遭っているところを見たわけでもないのに、ブラックウッドはそう言うと、ひとまず蔵書庫の前から離れていった。



 その頃。
 ヴィクターの作業の手は完全に止まっていた。
 もう終わりが近いのに、いまだにこの蔵書庫を制覇していない。本来の設定のとおり、半永久的にこのまちで生きていられたら、あるいは達成できた目的かもしれなかった。しかしこれが現実だ。読んだことも見たこともない古書が、いくらでも出てくる。
 半分ほど中身が詰まった段ボール箱のそばで、ヴィクターは新たに発見した書物に夢中になっていた。ヴォイニッチ手稿を髣髴とさせる、毒草とそれを用いた死霊術に冠する本だ。毒草の図柄は絵の具で彩色されていた。
「あ、ああああ」
 ページから手を離して眼鏡を直した瞬間、風が吹いて、ページがぱらぱらと送られてしまった。
「ああ……何ページ読んでたかわからなくなった……」
 ここは室内だ。黒木邸の蔵書庫。
 室内で風が吹くということの異常性に、ヴィクターは気づかなかった。ただ一心に、自分が読みかけていたページを探す。
 ぅぅるるるるるる。
「うぇっ!?」
 突然、そばでおとなしくしていたはずの使い魔が、毛を逆立てて唸り始めた。自分の使い魔なのに、ヴィクターは怯えて、へんな声を上げてしまった。
 彼の使い魔は2匹いる――大蝙蝠と、五つ目の犬的なものだ。いつもヴィクターがそばに置いているのは、五つ目のほうだった。まだ子供なので無邪気で人懐こい。このように何かに対して敵意をむき出しにするのは珍しい。
「どどどどうしたんですか急に。何かよくないものでも?」
 使い魔は一点を見つめて唸っているだけだ。

(汝に問う、我は何ものなるや)

 使い魔の五つの視線の先には、異形の石像があった。悪魔を模したものだろうか。蝙蝠の翼を生やしているのはわかるが、頭部は何とも形容しがたかったし、腕も足も触手じみていた。触手の先端は丸まっていて、輪を描いている。絞首台のロープを髣髴とさせ、契約の指輪を思い起こさせる輪だ。
「おかしいですね……。こ、こんな石像は、書庫になかったはずですが……」
 ヴィクターはこの屋敷で暮らすようになってから、熱心にここ蔵書庫に通い続けた。ひどい目に遭ったこともあるにはあるが、今やブラックウッドに次いで蔵書庫には詳しいはずだという自負がある。血に誓って、こんな石像は置いていなかった。魔法が終われば、ブラックウッドはここを「もとの持ち主」に返すと言っている――今さらものを増やすはずがない。
 使い魔がかなり警戒しているので、うかつに近づくべきではないとわかっていたが、像のあまりの異形ぶりに、ヴィクターは探究心をくすぐられた。台座には文字が彫りこまれた金属プレートが取り付けられている。
 ヴィクターは毒草の本を抱え、眼鏡を直し、恐る恐る石像に近づいていった。
「アラビア語……? しかもかなり古い言い回しですね。ええと……『我は望む 叡智を欲する者に抱かるる 喪われし言の葉 在りうべからざる蔓 擲たれし緑の書を』。『解を誤る者 アー・ン・ヴァイの都にて 永劫の夢を見よ 旧き生命の牙によりて』。……どうも2行目にはいやなことが書かれているような気がす……る……」
 プレートから石像に目を移したヴィクターは、言葉を失い、よろりと後ずさりをした。お約束なことに、抱えていた毒草の書物を落としてしまった。
 石像の翼が広がっていたのだ。
 そして、石像の目の前に落ちた本が開き、ページがびびびびと送られていった。目には映らない何者かが、確かに書物の中身をあらため――そして、燃やした。
 ヴィクターは使い魔と抱き合い、悲鳴を上げた。
(解にあらず。汝は真に、叡智を欲する者か)
 紫とも青ともつかない、不吉な色の炎によって、一瞬で焼き尽くされた本。その断末魔に照らされながら、石像が動く。ぬるぬると、先端が輪になった触手をうごめかせ、もはや怪物と化した石像は、ぬちゃりと床に降り立った。
(汝に問う……我は何ものなるや)


 再びブラックウッドが蔵書庫のドアを開けると、ちょうどヴィクター・ドラクロアの絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。
「うむ。やはりね」
 ブラックウッドは真顔で頷き、ばさりと黒衣の裾をひるがえした。ランプの灯の下でひらめいた闇の中から、蝙蝠によく似た姿の使い魔が現れる。
「上からヴィクター君の位置を確認してきなさい」
「ぽじゃ!」
 どこで覚えてきたのか、使い魔は右の翼で敬礼した。たぶんラジャーと言ったつもりなのだろう。
 この使い魔も、このまちでずいぶん色々覚え、色々体験したのだなと、ブラックウッドは何も言わずに微笑む。
 ドアから手を離し、図書館と化した蔵書庫に完全に入り込むと、ドアはブラックウッドの背後で音を立てて閉まった。いちいち確かめるまでもない。ドアは開かないだろう。
 ヴィクターの悲鳴は休まず続いているので、図書館はそこそこにぎやかだ。おまけに、アーチ上のガラスの天井からは、雰囲気たっぷりな雷鳴が落ちてくる。ランプの他に、稲光も図書館の蔵書を照らしている。
「『黒い雌鳥』とは」
 稲光が照らした本の背表紙を見て、ブラックウッドは微笑んだ。『黒い雌鳥』の隣には『レメゲトン』。当然のように『ソロモンの大いなる鍵』もそばにある。『影の王国への九つの扉』まで。ざっと見たところ、本棚に収まっている書物は、グリモワールをはじめとした禁書ばかりのようだ。
 もともとブラックウッドの蔵書の中に含まれていたものもあるが、ほとんどは架空であったり、現存していないはずであったりだ。この図書館は、明らかにまぼろしであった。
「ぷぷぷぎゅ! ぷぷぷぷぎゅ!」
 天井近くから、使い魔がじたばたしながら一点を示した。
 ブラックウッドは使い魔の視界と同調する。
 すこし離れたところに、本棚のない、円形の空間があった。今はそこでヴィクターが泣き叫び、謎の異形が触手を振り回している。
 ヴィクターも吸血鬼だ。数ある弱点を突かれたらつらいかもしれないが、魔物の類との戦いにはそうそう引けを取らないはずだった――落ち着いて戦えばの話だが。彼は使い魔が見下ろす中、一応勇ましく戦った。緊縛系の魔法を放っていた。が、呪文を噛んでしまったのであっさり破られ、また突き飛ばされていた。本棚に激突した彼の脳天に、落ちてきた本が命中する。
 ブラックウッドは、悲鳴の現場に向かって一歩踏み出した。次の瞬間、旧い吸血鬼の姿はかき消えていた。

(汝に問う、我は何ものなるや)

「うわぁぁメガネ! メガネメガネメガネメガネ! メガネ、メガネ助けて! メガネぇええ!」
 目がー目がーと叫んでいるのとそう変わりない。しかしヴィクターは片手を前に突き出しながらふらふらしているのに、奇跡的にも、敵に自ら突っ込むことだけはたくみに避けていた。
 また、触手が伸びてくる。まるで鞭だ。
 あえなく吹っ飛ばされ、本棚に激突した。それだけで完全に戦意喪失だ。いやもともと戦意など無いに等しかったか。即死する意思はないということだけはアピールできたはずだが。
「ヴィクター君、こっちだ」
「え、ぇええ、ブラックウッドさん!? あわわわわっ……ぶ!」
 突然、ヴィクターの視界が真っ暗になった。
 ブラックウッドに抱きとめられ、抱え上げられ、本棚の影まで運ばれたのだ。血と、ほのかなインセンスの香り。
 ――ああ、今夜はドラゴンズブラッドですねえ……。ムスクじゃなくてある意味安心しました……。
 べつに大きな傷を負ったわけでもないのに、すうっと気が遠くなる。視界がぼやけている。
 が、それは一瞬でクリアになった。ブラックウッドが、ヴィクターのスペアの眼鏡をかけさせたのだ。視界がすっきりすると、遠のいていた意識も突然明瞭になった。
「お、おお……た、助かりましたぁ……!」
「最後の最後まで、君は被害者体質だね」
「すみません。いつもご迷惑をおかけして」
「私は迷惑だと思ったことなどないよ。状況を説明してもらえるかね?」
 ブラックウッドのおだやかな笑みに、ヴィクターは思わず言葉を失ってうつむいた。身体に血が通っていたら、頬を染めていたかもしれない。ブラックウッドの顔をまともに見られず、ヴィクターはうつむき加減のしどろもどろで説明した。

『我は望む 叡智を欲する者に抱かるる 喪われし言の葉 在りうべからざる蔓 擲たれし緑の書を』

(汝に問う、我は何ものなるや)

『解を誤る者 アー・ン・ヴァイの都にて 永劫の夢を見よ 旧き生命の牙によりて』

 ブラックウッドは静かに相槌を打ちながら、ヴィクターの話を最後まで聞いた。
 異形はなぜか追ってこない。ヴィクターを探してもいないようだ。息吹らしき、しゅがしゅがという奇妙な音と、触手ののたうつ音はするから、まだ館内に存在しいているのは確かだが。
「どうやら、その石像に何らかの書物を見せなければならなかったようだが、君は偶然その問題を間違えてしまったようだ」
「わ、私がですか? わ、私はただ、何が何だかわからなくて……」
「石像は、君が落とした本が、君の『回答』であると認識したのだよ」
「では、急いで正解を持っていけばいいのでしょうか?」
「いや。石像が変化したというあの怪物もまた、我々に問いかけている。聞こえないかね?」

(汝に問う、我は何ものなるや)

「あ……」
「君は一度答えを間違えている。ここは私が行こう」
 ブラックウッドが立ち上がった。
「あ、あの」
「何だね?」
「お気をつけて」
「了解」
 ブラックウッドは、ヴィクターに軽く敬礼した。

(汝に問う、我は何ものなるや)

 石像が座っていたと思しき台座の前で、怪物は立ち尽くしていた。周囲には本棚がない。石像の後ろには壁があった。壁には直線の溝が入っていて、明らかに隠し扉がありそうだった。それではまったく隠されていないも同然だが。
「私もまた、永久に叡智を求め、探究を怠らぬ者だ。君が何者であるかを識りたい」
 ブラックウッドが静かに尋ねる。怪物は――怪物の身体は、動かなかった。ただ、しゅうしゅうと触手がうごめいているだけ。
(汝に問う、我は何ものなるや)
(我は和してその相を変えず)
(身を引きてその相を変えぬもの)
(されど我が牙に掛らば在るものは無に帰し)
(我が爪に割かるるものは渾沌の矛盾を孕む)
 声なき声で、朗々と問いを示す怪物。その醜悪で異様な外見とは裏腹に、奇妙な神々しさまで感じられる。ブラックウッドは顎を撫で、しばし思案にくれた。彼の足元では、使い魔が頭の上に大きな「?」をいくつも並べて首をひねっている。
(汝に問う。我は何ものなるや)
「汝は零。無を表し、空と並ぶもの」

 ばうッ!

 ブラックウッドの答えを受けて、鈍色の煙が吹き上がった。ブラックウッドは目を細め、顔をかばいもせず、煙の中に立ちつくす。
「ブラックウッドさん!」
 ヴィクターが慌てて本棚の間から飛び出した。
 煙はすぐにおさまった。まるで、何かに吸い込まれていくかのように。
 煙が晴れたそこには、ブラックウッドと、台座の上に腰を下ろす石像とが立っていた。
「どうやら正解したようだ」
 ブラックウッドは苦笑いしながら、石像のプレートを手で払った。
「これで、また、この問題に挑める」
「す……すごいです、本当に。ブラックウッドさんは」
「そうかね。言い回しが古めかしいだけで、なぞなぞにすぎない。『足しても引いても、掛けても割っても、お互いに変わらないものは?』。答えはゼロだ」
「ははあ」
「目下の問題はこちらだね」

『我は望む 叡智を欲する者に抱かるる 喪われし言の葉 在りうべからざる蔓 擲たれし緑の書を』

「君ならば見当をつけられるのではないかな。答えは書物なのだから」
「失われた言葉……在りえない蔓……見捨てられた緑の書。あ」
 ヴィクターはぽんと手を打った。
「『ウォイニッチ手稿』でしょうね」


 現在はエール大学にあるはずの古文書が、この図書館の中に当たり前のように存在していた。ヴィクターはヴォイニッチ手稿を、異形の石像の前に持って行く。
 勝手に本が手元を離れたので、ヴィクターはあわれな悲鳴をあげながら、エビのように後ずさった。本はさっきと同じように、びびびびとページを送られて、やがて真ん中付近のページを開いたままぴたりと止まった。
 現在でも解明されていない謎の文字が、緑色の光を浮かべる。
 ご・ン。
 石像の奥で、音がした。
 見るも明らかな隠し扉が、ゆっくりと開く。中に続く回廊は最初暗闇だったが、壁に取り付けられたランプにたちまち謎めいた灯がともって、『正解者』を奥へ導いた。
「さすがだね。さあ、行ってみよう」
 ブラックウッドとヴィクターは、隠し扉の奥へ進んだ。
 壁には、ヴォイニッチ手稿につづられた文字がびっしりと刻まれている。
 ヴォイニッチ手稿は、現在はわざわざ国をあげてまで解読するものではないと見なされ、好事家がたわむれのように研究するだけの書物だ。しかし、読めない文字と鮮やかな挿絵で構成された謎の本は、フィクションの格好のモチーフだった。この本をネタにした映画も作られていることだろう。
 通路の奥には台座があり、一冊の本が置かれていた。
 タイトルは「ヴォイニッチ語」で書かれていた。さすがのブラックウッドとヴィクターにも、何と書かれているのか見当もつかない。何しろ、今まで解読の糸口すらつかめていない言語なのだから。
(汝よ識れ。我は零。我が存在は無なり)
 ブラックウッドが、静かに、古い本を開いた。

 ページは白紙だった。



「……はっ!?」
 お約束の反応で、ヴィクターは飛び起きる。
 そばにはブラックウッドがいて、黙々と本を段ボールに詰めていた。あまり彼に似合わないような気がする行動だ。
 場所は黒木邸蔵書庫。ヴィクターがブラックウッドから頼まれた仕事は、あまり進んでいない。
「あ、あ、あの、いったい何が……」
「無事帰ってこられたのだよ。さあ、作業を続けよう。私も手伝う」
「……一瞬夢でも見ていたのかと思いましたが、やはり現実でしたか……」
「そのとおりだ。だが、気にする必要はない。ここでは日常茶飯事だったからね」
 ブラックウッドの態度はあまりにも「何事もなかったかのよう」だが、彼はちゃんと、ついさっき起きていた出来事を肯定している。
 蔵書庫は間違いなく蔵書庫だった。古びた紙とカビ、干されて死んだ虫の匂いがかすかに香る。ヴィクターは軽くかぶりを振り、なるべく本を開かないように、タイトルも見ないようにしながら、段ボールに本を詰めていった。
「ゼロか」
 突然、ブラックウッドはつぶやいた。うっすらと、笑みかどうかもわからない笑みを浮かべて。
「我々は消えるが、零に還るわけではない――私のこの考えが、正しければよいのだがね」
「私たちは、確かに存在していましたよ。だからきっと……貴方は今回も、正しい」
 ヴィクターもまた、うっすらと微笑んだ。
 ふたりの吸血鬼は、束の間、本の海の中で見つめ合っていた。
 そのそばでは、使い魔と使い魔が無邪気にたわむれていた。




〈了〉

クリエイターコメントすべてが終わった今、「ゼロ」という題材でオファーをいただいたことには、きっとこのような意味があると深読みしてのエピローグになります。カン違いだったら恥ずかしいですが。
ご依頼ありがとうございました!
公開日時2009-07-23(木) 18:20
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