★ 終わりのない物語 ★
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
管理番号96-8370 オファー日2009-06-17(水) 19:48
オファーPC 昇太郎(cate7178) ムービースター 男 29歳 修羅
ゲストPC1 威雨(cwsw5167) ムービースター 男 42歳 刺青師
<ノベル>

 昔々、それはそれは美しい女のひとがありました。人びとはその女のひとを“神さま”と呼び崇めていました。“神さま”は“天の世界”を治め、わたしたち人間が住む世界にも大きな慈愛を豊かな実りとを約束してくださっていました。
 ところが、ある日のこと。神さまに恋をした男が、神さまを殺してしまったのです! 
 天の世界は神さまの死をとても嘆きました。そして男に罰を与えたのです。

 ◇

 曇天の下、街道で群れをなす人間たちの向こうに、一羽の鳥がいるのが見えた。
 美しい鳥だと思った、この灰色の空の下で、それはまるで雲間から差し込む一条の陽光のような色をしていた。鳥は大きな翼で宙を叩きながら、まるでそこに何かが(いや、誰か、かもしれない)いるのを報せてくれているような気がした。
 だが、人混みを掻き分け進んだ威雨の耳に触れたのは人々が口々に叫ぶ怒号や罵声、あるいは恐怖といった負の感情だった。それらが渦をまき、奇妙な一体感をすら描きながら、ある一点へと向けられ注がれている。人々は手に石を持ち、あるいは棒などを持ちながら、その一点――見ればどこか幼さすら感じられるような見目をもった少年だったが、その少年に対峙しているのだ。
 投石され、威嚇されながら、少年は初めこそ驚嘆し目を丸くしていたが、やがて怒りの表情を浮かべて怒鳴り散らす。「おまえらには見えんのか!」「そこにいたやろうが、バケモンがじゃ!」。懸命に喚き散らしているが、少年の声に耳を寄せようとしている者は、威雨のみたところ、ただのひとりもいない。誰もいないところで刀を振るっていたじゃあないか。私のすぐ横で。子供が怖がって泣き出しちゃったじゃないの。この狂人が。バケモンはオマエだ。渦をまく罵倒、その中心に置かれた少年。それは、もしかすると今この場ではただひとりだけ冷静を保っているのかもしれない威雨にとっては、ある種そら恐ろしいものすら感じられる空気に満ちた場になっていた。集団が個人を糾弾する。――もっとも、その話の端々を切り取りまとめてみるに、どうも発端は少年であることには違いないらしい。少年は突如二振りの刀剣を振るいはじめたというのだ。この街では比較的に通行人の多く見受けられる、この大きな街道の真ん中で。だが少年は言う。そこには“バケモノ”がいたのだ、と。
 威雨は不精髭の伸びたアゴをボリボリと掻きむしり、小さなため息をひとつ落とす。
 どちらの言い分が正しいのか。今はそれを問うときではないようだ。
 少年は激昂し、今しも鞘におさめた刀剣を抜き取ろうとでもしているかのようだ。彼が刀剣を抜き、最悪の場合に周りを囲む集団に向けたならば、事態はもっと悪いほうへと転がるだろう。血が流れれば、少年はいずれにせよ非を負わねばならなくなる。
 ――止めてやらなくちゃあな。
 呟き、歩を進めた。

 それは幼い子供が眠りに就いているとき、その子供の夢の中に忍び入って、その魂魄を捕らえ喰らう醜悪な醜女の姿をとった魔物だった。
 昇太郎がその魔物を見つけ出したのは偶然だった。街道の脇にある一軒の茶屋、そこから魔物が飛び出てきて、その直後、茶屋の中から女の叫び声が響いてきたのだ。息子が息をしていない、誰か助けてくれ。赤ん坊を抱きながら街道に転がり出てきた若い女を、醜女は引き攣れたように嗤いながら見ていた。その口許に稚い魂魄を飲み下した痕跡のあるのを見た昇太郎は、その女が魔物であるのを知覚したのだ。
 それが魔物であろうとも、飲み下した魂魄を腹の中で消化するためには相応の時間を要する。まして眼前の魔物は、おそらく、蟒蛇(うわばみ)のように丸呑みにしているタイプだろう。ならば早々に魔物を斃し取り戻すことができれば、赤ん坊は息を吹き返すかもしれない。
 思った昇太郎は、迷わずに刀剣を鞘から抜いた。二振りのそれを下段に構え持ち、切先で地を削りながら走り寄る。交差させた刀剣で、魔物の首から両腕脇を削ぐように斬りあげた。腹を避けたのは、万が一にも、その中にいるであろう子供たちの魂魄を傷つけないようにするためだ。
 魔物は瘴気と共に恨み言を吐き出しながら絶命し、その後はいくつかの魂魄が解放され、方々に飛び散っていった。茶屋の女の腕に守られていた赤ん坊も、どうやら息を吹き返したらしい。喜びに沸き立つ空気は、けれども別の女が叫んだ恐怖によってたちまちに塗り替えられてしまったのだった。
 魔物は昇太郎の眼にのみ映る。言い換えれば、昇太郎以外の通常の人間の目にはけして映ることはない。稀に“視る”ことのできる人間もいるのだが、そうであったとしても、触れることはできないらしい。
 昇太郎はかつて、神を殺した。
 美しい女だった。
 目を伏せれば、今でも鮮やかに女との時間を思い出すことができる。美しく、穏やかな時間がそこにあった。けれど、その末路は美しく優しいものでは、けしてなかった。
 女は昇太郎に願った。自分を殺してくれ、と。
 昇太郎は神を殺したのだ。それはきっと定めだったのだろう。ならばその後に昇太郎が負うことになった宿業も、初めから定められていたものだったのだろう。
 神を失くしたことで、天は無数の欠片に砕け、世界の方々へと散った。欠片は魔物と化し、人間たちに害を与えだした。これを狩り、欠片を集め、再び天を繋ぎ合わせることが昇太郎に科せられた咎だ。ゆえに、魔物は昇太郎の眼にのみ映る。他人の目には映らないそれを屠ることを宿命づけられた昇太郎は、視覚することの出来ない者たちからすれば狂人以外の何者でもない。――例え昇太郎によって命を救われたのだとしても、昇太郎に向けられるのは奇異を見る眼差しのみなのだ。
「おまえらには見えんのか、あのバケモンが!」
 叫び訴えたところで、返されるのは否定ばかり。おまえがバケモンだ。そう罵倒しながら投石してくる男もいる。――どうして!
 激昂した昇太郎は、魔物を狩り終え鞘に戻した剣の柄に手をかけた。
「まァまァ、その辺にしとこうや」
が、剣を抜き出そうとしたその刹那、昇太郎の手は何者かの手によってやんわりと制されていた。……いや、やんわりと、ではない。それは思いがけず強い力で制されていたのだ。昇太郎の手は柄にかかったまま、じわりとも動くことができない。
「皆、すまないな。こいつァ俺の知り合いでなァ。役者志望なんだ。役に集中しちまうクセがあってな。いったん集中しちまうと、どうにも場所を選ぶって器用な真似も出来やしないんだ」
 穏やかに頬を綻ばせながら、男は周囲で群れを描く群衆に向けて声をかける。そうしながら、昇太郎を制する手の力を緩めようとはしない。昇太郎は目をあげて男の顔を検めた。――知らない顔だ。年も、おそらく一回りは離れているだろうか。
 安穏と笑いながら昇太郎の腕を引き、男はその場を後にした。群集は、納得いかないまでも、男の言であるならば信用に足るとでも言いたげに、バツの悪そうな顔で目を伏せていた。

「余計な真似を!」
 街道を外れ、人気のない畦道に差し掛かったところで、昇太郎は男の手を振りほどいて雑言を吐き出した。
「ん?」
 が、対する男はのんびりとした語調で昇太郎を見据える。
「助けてくれとは一言も言っとらんじゃろうが!」
「まァ、そうだな」
「俺はもう我慢ならん! ああいう輩はちぃっと脅してやれば黙るんじゃ!」
「ほう、そうか」
「ち……ッ」
 言いかけて、昇太郎は膝の力が抜け、身体が崩れ落ちていくのを感じた。男が、安穏とした笑みのまま、昇太郎を見ている。
「今までは“たまたま”“運良く“力押しでどうにかなってきたってだけの事だろう。毎回、いつまでもそれが通るっていう保証なんざこれっぽっちもねえよ」
 男は再び手を伸べて、昇太郎の腕を掴んだ。
「お前、身体中ケガだらけじゃあねえか。そんななりでケンカふっかけたところで、その内逆に押されて負けるのがオチってやつだ」
 言われて初めて、昇太郎は自分の身体に奔る無数の傷を知覚した。
 新しい傷や古い傷、無数のそれが開き、鮮血を滲ませている。畦に広がっていく染みを検めて、昇太郎はようやく身体中を巡る激痛を知ったのだ。
 視界が白む。
 鳥が昇太郎の身を危惧しているかのように羽ばたいている。
 男が小さなため息を落としているのがわかる。
「……悪いな」
 男の声が耳に触れた。その次の瞬間、昇太郎は後ろ首にかすかな衝撃が加えられたのを知った。

 ◇

 目を開くと、そこは見知らぬ部屋の中だった。
 畳敷きの、それなりに広さをもった部屋。井草の匂いが鼻先をかすめる。
 薄く目を開いた昇太郎の視界の中に鳥が降り立った。そしてその向こうに、何かの整理をしていると思しき男の背中が見えた。
 何かの道具らしきものを静かに整えている音が部屋の中に広がる。
 どこか遠くない位置に窓か何かがあるのだろうか。心地良い風が流れこみ、昇太郎の髪を梳いた。
 鳥に手を触れようと試みたところで、昇太郎は再び激痛に呻いた。――身体中をバラバラに刻まれてでもいるかのような激痛だ。
「おう、気がついたのか」
 男が振り向き、目を細める。その手には針が握られていた。
「たいした手当てをしてやれてなくてすまないな。何しろお前、意識がねェのに暴れやがんだ。おっかなくてろくに手もつけられねェよ」
 悪びれることもなく朗々と笑う男に、昇太郎は理由もなく苛立ち、力まかせにねめつけた。
「……アンタに手当てされるまでもないわ。……傷の手当てなら、こいつが……」
 言って、軋み悲鳴をあげる身体に鞭を打ち、よろめきながらも立ち上がる。が、すぐにまた膝の力が抜けてその場に転げ落ちた。その周りを、陽光の色をした鳥が羽ばたきまわる。
「勘違いしてんじゃねェ。俺がお前にしてやんのは、傷の手当てなんかじゃあねェよ」
 男の声が部屋の空気を震わせる。男の顔を仰ぎ見た昇太郎の目に映ったのは、悠然とした笑みを浮かべながらも、有無の選択をすら与えようともしていない、凛としたまっすぐな目をした男の顔だった。
「お前のケガはその鳥がどうにかしてくれるんだろう? 俺は医者じゃあねぇし、お前のケガをどうこうしようとは思わねェ。……ただし、お前の身体の奥で暴れるそいつをどうにかしてやりてェだけだ」
「……何」
「お前を助けたいわけじゃあない。お前の中にいるそいつを表に出してやりてェのさ。……ま、彫師の性ってやつだな」
 腕を組み、昇太郎を見下ろしながら、男は口許にニヤリとした笑みを滲ませる。
「俺の中にいる……じゃと……?」
 眉をしかめた昇太郎にうなずき、男はようやく自らを名乗った。
「俺は威雨という。――お前の中で暴れる“そいつ”を表面に出してやろう。そうすればその痛みもずいぶんと収まるはずだ」

 ◇

 威雨と名乗った男は彫師だった。世間ではカサンドラと呼ばれているらしい。「これでもちっとは名も知られてんだがな」。そう言って笑う男に、昇太郎は憮然として応える。聞いたこともない名前だ、と。
 ――しかし、実際に施術を受けてみると、その名が何を表しているのかを理解できるような気がした。
 威雨の手によって生み出されていく刺青はまさに芸術だった。技芸を司るものがいるとするならば、まさにその手が持ちえる技術をそのまま会得しているのではないかと思えるほどの腕を、威雨は誇っていた。
 針が背を打つたび、これまで苦しめられてきたものとは異なる激痛が迸る。だが不思議なことに、刺青が形を成せばなすほどに、激痛は徐々に薄らいでもいるのだ。同時に、尖ってばかりだった心もまた落ち着きを取り戻していくのがわかる。――不思議な感覚だった。

「お前は俺たちには視えないモンが視えてるのか」
 針を打つ手を休めることなく、威雨が問う。
「……」
「俺のクセでな。こうやって人に絵を彫ってる間、昔話を聞かせてやるんだよ」
「……昔話……?」
 唐突ともいえる流れに、昇太郎はわずかに顔を持ち上げた。威雨は昇太郎の視線に笑みを見せて、絵具を選ぶために手を休めた。
「例えば……そうだな、神話だとかな」
 
 窓の外では雨が降り、庭の木々を静かに打ち始めていた。

 ◇

 昔、――七十年ぐらい前だっつうから、俺はまだ生まれちゃいねェ頃だな。その頃にゃあ、まだ神っていうのがいたんだそうだ。そりゃあえらいベッピンだったらしいがな。女だったっていうから、女神っつうのかな。ともかく、その神ってのがこの世をぜんぶ創り上げたらしい。で、だ。七十年ぐらい前、その神に惚れちまった男ってのが現れたんだそうだ。人間だったらしいがな。まあ、恋路ってのには神だ人だの垣根なんざ関係ねェのかもしれねえな。
 ところがある日、その男が神を殺しちまった。理由はよく知らねェがな。神を自分だけのものにしちまいたかったのかもしれねェしな。それは知らねえ。
 ところで、この世ってのも、神がいたっていう天の世界ってのも、ぜんぶはその神とやらが支えてたっつうのさ。ところが男はそれを殺しちまった。世界は支えを失くして亀裂を帯びだしたのさ。
 俺らなんかにゃ視えねえが、世の中に妙なモンが蔓延りだしたのはその頃からだっていうらしいな。魔物っていうのか? そんなのが跋扈しだしたのさ。
 神を殺した男は、その後ずっと、年を取ることも死ぬこともできず、世界のあっちこっちにいる魔物を狩り続けることを使命づけられたっていうがなあ。……魔物は普通の人間にゃあ視えないんだ。視えないモンを狩り続けなくちゃならねえ男が背負ってる業ってのも、たいした重さなんだろうなあ。もちろん、俺には本当のところなんざ知る術もねえよ。実際のところ、神と男の間にどんな事があったのかなんざ知らねえ。伝承なんてもんは人伝に広がるうちにいろんな色をつけられていくもんだ。――そうだろう? 
 ただ、思うんだよ。
 もしも神殺しの男が今もどこかを彷徨っているんだとしたらな。
 俺は石なんざ投げねえ。味方になる? ンなことでもねえ。そいつは自分を庇ってくれる人間を欲しがってるわけじゃあねえと思うんだ。そんな生温い“覚悟”で神殺しなんて大罪に手を染めたりなんざしねえだろう? 
 俺はな、見ててやりてぇんだ。そいつの行く先に何があんのかをな。そしてそれを伝えていきてえのさ。俺のこの目で見た、本当の“覚悟”ってやつをな。 

 ◇

  話しながら再び針を構え持った威雨の言に、それまで黙し続けていた昇太郎が重々しげに口を開けた。
「……世界はゆっくりと崩壊に向かっとる」
「そうらしいなァ」
 うなずいた威雨に、昇太郎は静かに目を伏せる。
「あいつを殺したのは俺だ。……世界が崩れていくのも、皆の心が塞ぎ澱んでいくのも、……俺のせいじゃ」
「そうか」
「じゃけ、俺が背負う業がどんなに大きくても、……当然の報いじゃ」
 独り言をごちるように呟いた昇太郎に、威雨は眦を緩めた。
「――腹は決めてるんだな」
「……ああ」
「なら、背負うしかねェだろう。押し潰されそうになっても、背負って、どこまでも歩いていくしかねえ」
「……じゃな」
 昇太郎もまた頬を緩める。
「俺は見ててやるからよ。――お前がどこに向かっていくのかをな」
 言って、威雨は口を閉ざした。昇太郎の背に絵を描くシャッキの音が、静かに、部屋の中に広がりだす。
 針が色を落としていくたび、身体に痛みがはしる。だが今はその痛みもなぜか心地良く思えるようになっていた。
 昇太郎は静かに目を伏せ、シャッキの音に耳をすませた。

 ◇

 昇太郎の背に描かれたものは、修羅としての昇太郎の中に巣食う苦痛を表面化させ、少しでもその動きを押さえつけるためのものだった。人は時として身の内にあらゆるものを飼っている。それが蠢き暴走するのを押さえつけるためには、それを具象化させるのが最良たる術なのだ。少なくとも、威雨はそう告げた。事実、わずかなことで激昂しやすくなっていた昇太郎は、絵が形になるにつれ落ち着きを取り戻していた。身体を巡っていた激痛もまた和らぎ、苦痛は随分と落ち着いた。
 威雨の家は周囲を広い庭で囲まれている。その庭を散策したり、草木や名も知らぬ花々に心を向けるだけの余裕も生まれた。
 
 威雨は昇太郎を拾ってから、じつに久しぶりに街を訪れていた。 十日は経っていただろうか。当初は暴れてどうしようもなかった昇太郎も、今では大人しく留守を務めるまでになった。
 久しぶりに訪れた街はどこか暗く、陰鬱な空気で満たされていた。
 人通りも少なく、すれ違う顔はどれもひどく焦燥し、疲れきっている。
 どうしたんだ、と訊ねた威雨に、通りすがった男が重々しげに口を開けた。

 雨が降り出しそうな空だった。
 昇太郎は威雨の留守を守りながら、庭先に咲く草花の手入れをしていた。名前こそ知らないものの、手入れを丁寧にしてやれば相応の実りをもって返してくれることを知った。
 世界は神の支えを失くした今も、懸命に生命を保っている。
「……俺も、負けんようにせんとなァ」
 小さく笑いながらこぼしたその時、出かけていた威雨が帰宅した気配を感じた。威雨は家の中をひとしきり歩き回った後、庭に踏み入ってきて昇太郎を見つけた。そして見つけるなり、「食い物と水を入れた。それにお前の得物もな――こいつを持って今すぐここを出ろ」そう言って古びた袋を昇太郎に押しやってきた。
「街の連中がここに押しかけてくる。――疫病が流行りだしたんだそうだ」
「疫病じゃと? それと俺に何の関係が」
 言いかけて、昇太郎は目を見開き、威雨の顔を見据えた。
「俺のせいだと……」
「少なくとも連中はそう思っているようだ。――バカバカしい話だがな」
 吐き出すように告げた威雨に、昇太郎は言い辛そうに口を開く。
「……あんたもそう思っとるんか」
「んなわけねえだろ。この時期になれば毎年流行りだすんだ。少しすればすぐ収まる。だが、今は逃げろ。連中のはしゃぎぶりは厄介だ」
 言って、威雨は昇太郎の腕をピシャリと叩いた。
「いいか、お前の刺青はまだ途中だ。完成じゃあねえ。ほとぼりが済んだら戻ってくるんだ。この“カサンドラ”が、今度は間違いなく完成させてやる」
 そうしてニヤリと頬をゆるめた威雨に、昇太郎は小さく、それから大きくうなずいて、差し伸べられた袋を受け取った。
「必ず戻る。だがな、“カサンドラ”。そん時にゃあ、あんたの助けなんぞ要らんようになっとるかもしれんぞ」
 返して、昇太郎もまた頬をゆるめてみせる。
「強くなるのか」
「ああ、――強うなる」
 威雨は、笑った昇太郎の髪をぐしゃりと撫ぜた。それから家の裏口をアゴで示して促す。
「さあ、行け。お前が正しいと思う道を、胸はってな」
 言って、昇太郎の背を強く押した。


 ◇


 それから五年の歳月を経た。
 街は風景に多少の変化を迎えてはいるものの、全体的に見れば五年前のままだ。
 街道を抜け、威雨の住む家を目指して歩き進めながら、昇太郎はふと視線を上空へとあげた。
 重々しい雲が広がり、空の端々まで埋め尽くしている。頬に雨の雫が一滴落ちてきた。
 ――そういえば、あのときも雨が降った。
 猛り狂った人間たちから逃れ、威雨の家を抜け出たあの日。あの日も今日と同じような雲が空に広がっていた。

 霧のように降る雨の中、昇太郎は威雨の――“カサンドラ”の家の玄関口に立つ。
 人の気配は感じられない。――訝しく思いながらも、昇太郎は声をはりあげた。
「すんません、おりますかぁ?」
 数度ほど声をかけてみたが、どうにも家の中に人の気配らしいものはまるで感じられない。
「誰もおらんのじゃろうか」
 独りごち、機を改めようかと思い立って踵を返しかけた、その時。
 懐かしい草花が雨に揺れる庭の中、見知らぬ銀髪の女がぼんやりと突っ立っているのを視界の端に捉え、昇太郎は歩みかけた足を止めた。
 と、女は昇太郎の気配を感じ取ったのか、やがて顔をこちらに向け、ゆるゆると笑った。


 ◇

 俺がこの目で見ていてやる。
 お前の行く先を、これからもずっと。

クリエイターコメントこのたびはオファーありがとうございました。
alf layla wa laylaに繋がるものを、という旨でしたが、いかがでしたでしょうか。お気に召していただければさいわいです。

タイトル、およびキャッチは広い意味をもって決めさせていただきました。
…引用ですけれども。
公開日時2009-07-28(火) 18:40
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