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<ノベル>
▽ まぁ、人生なんてこんなもんだ ▽
「フォォォォォオオオオオォアアアアアッ!!」
奇妙な唸り声をあげる親友に、アディール・アークはツッコむことすら忘れて大きなため息をついた。キルシュとは十数年来の付き合いだ。もういい加減に慣れっこのはずだ。慣れっこのはずなのだが……
「あー、キルシュ。ひとつだけ訊きたいんだけど」
「なんだよ? 邪魔すんなよ、アディ」
ものすごい形相で睨まれて、怯んでしまう。しかし、よく考えたら、キルシュに邪険にされる理由はどこにもない。むしろ感謝されるべき立場だ。なにせ食料品がたっぷり入った四つのビニール袋はすべて彼がひとりで持っているのだから。
気を取り直して、訊ねる。
「おまえ、なにしてるんだ?」
キルシュが怪訝そうな顔をした。「なに言ってんだ、このアホは」と頬に書いてある。
「わかんねぇのか?」
「わからないから、訊いてるんだけどな」
キルシュが大げさに嘆息した。その仕草に一瞬キレかけたアディールだったが、まだまだ理性がふんばる。土俵際いっぱいだ。
キルシュはそんなアディールの様子などおかまいなしに、大きく首を振りながら答えた。
「大海原の神の力を集めてるんじゃねぇか」
さて、どこからツッコもうか。悩むほどにツッコミどころ満載だ。
キルシュは今、右手を遠く銀幕市のベイエリアへと向けている。彼の台詞から考えるに、どうやら海に向けているようだ。血管が浮き出るほどに力をこめているのは、強く念じているからか。奇声は気合いの表れだろう。
ようやくツッコむ箇所を決め、アディールがなにか言おうとしたとき、
「お客さん、早くしてくれませんか。後ろの人が待ってますから」
待ちきれなくなったスーパーまるぎんの店員が、揉み手をしながら催促した。
後ろを振り返ると、たしかに鼻息の荒いおばちゃんたちが長蛇の列を作っている。相撲取りよろしく突き出た腹をばしばし叩いて周りを威嚇する者、大きな口でドーナツをほおばりながら食べかすを飛ばす者、血走った目で抽選券を穴が空くほど見つめている者――全員が敵意をみなぎらせながら、今か今かとその瞬間を待っていた。これは危険だ。
「あー、キルシュ。早くした方が身のためみたいだぞ」
「キタっ! キタキタキタキタキタキタっ!! キターーーーーっ!!!」
アディールの忠告が耳に入ったかどうかは定かではないが、とにもかくにもキルシュはついに目の前のハンドルをがっちりつかんだ。その瞳は静かに閉じられている。ついに大海原の神の御力が、その右手に宿った……のだろう。たぶん。
赤い取っ手のハンドルは、六角形をした木箱につながっている。ハンドルを回せば、箱も回る。たったそれだけのことなのに、その一瞬だれもが手に汗を握り、無神論者でさえ神に祈る。
人はそう、それを福引きと呼ぶ。
「一意専心っ!! 心頭滅却っ!!」
勉強は苦手なはずなのに、なぜか難しい四字熟語を知っているキルシュ。これぞ神の御力か。高速回転を始めるキルシュの腕、そしてハンドル、そして六角形の箱。遠心力が、中に詰まった色とりどりの玉たちをかき混ぜる。かき混ぜる。かき混ぜる。かき混ぜる。
「見えたっ! ここだっ!!!」
くわっとキルシュの目が開かれた。ぴたりと右腕が止まる。箱も止まる。後ろのおばちゃんたちが一斉に固唾を呑んだ。
箱に一箇所だけ空いた穴から、金色の雫がこぼれ落ちた。
どよめきが起こる。おばちゃんのひとりがヒステリックな叫び声をあげた。抽選券をすべて破り捨てる者が出始めた。太ったおばちゃんが痩せたおばちゃんを押しのけ、痩せたおばちゃんがドーナツのおばちゃんを殴り、ドーナツのおばちゃんが天然パーマのおばちゃんにドロップキックをかました。暴動寸前。
すっと、キルシュが人差し指を天に向ける。ぴたりとおばちゃんたちの動きが止まる。
「我が人生に一片の悔い無し」
清々しい。まったくもって清々しい笑顔でキルシュが言い放った。
「はい、じゃあ、五等のティッシュね」
「へ?」
店員がキルシュにも増して清々しい笑顔でポケットティッシュを差し出す。
「五等はティッシュですよ」
「いや、だって、金色の玉が、ほら、ね?」
「だから、金色は五等です」
「は?」
固まったまま動かなくなったキルシュの手に、アディールはビニール袋を持たせた。ポケットに入れていた抽選券を店員に渡すと、ガラガラと福引きを回す。ころりと飛び出した白い玉。
「大当たりーーーっ!! ついに出ました一等です!! おめでとうございまーす!!!」
やたらと派手に鈴を鳴らしながら、店員が大声で叫んだ。
「金が五等で、白が一等って……ちょ、それ、おかしいって、ホント!!」
アディールはキルシュの肩に、ぽんと手を置いてようやくツッコんだ。
「まぁ、人生なんてこんなもんだ」
ぶわっと滝のような涙が流れ落ちた。
こうして、ギャリック海賊団のメンバーであるアディールとキルシュは、スーパーまるぎんの福引きで、一等の温泉旅行を引き当てたのだった。
▽ きゃーっ! アディールさん! いったいどうしてこんなことに! ▽
「まぁ! 人数ぴったりじゃないの! すっごい偶然ねっ!」
ジュテーム・ローズは胸の前で両手を組み合わせ最高の笑顔を振りまいた。実に乙女ちっくな動きをしているが、実は乙女ではない。乙女どころか、女ですらない。いやいや、今はそんなことよりも不思議なことがある。
「あー、えーと、おねえさん、いつからそこに?」
キルシュは困った様子でうなった挙げ句、ようやく問いを発した。
「嫌ねぇ、キルシュ。わたしはずっとここにいたわよ?」
「ジュテーム君、ずっといたらいたで、それも問題だと思うよ」
アディールがさらりとツッコんだ。
彼は今、銀幕市での住処であるアパートの一室にいた。まるぎんでの買い物を終え、夕食をキルシュと一緒に食べるため帰ってきたのだ。
卵や魚など、生ものを手際よく冷蔵庫に入れ、干し椎茸やマロニーなどの乾物は台所下の収納に片づける。料理を始めるにはまだ時間があったので、コタツに入ってテレビを観ていた。キルシュと二人、向かい合わせに座っていたのだが――
「この、コタツって言うの? 銀幕市に来て初めて知ったんだけど、めちゃくちゃ良いわよね〜」
アディールが福引きで当てた旅行券をポケットから出した途端、そう言いながらジュテームがコタツの中からひょっこり上半身を出したのだ。
「ね、ねえさん、不法侵入だぜ?! ってゆーか、いったいどこから入ったんだ?」
言いつつ、キルシュがそそくさとコタツから脱出する。
「逃げなくたっていいじゃないのよ」
拗ねるジュテームに、キルシュはすこし顔を引きつらせた。
「だって、ねえさん、ふとももとか触ってきそうじゃねぇか」
「まぁ! 失礼ねっ! それじゃあまるで、わたしがセクハラ親父みたいじゃない」
「そうだぞ、キルシュ。ジュテーム君に失礼だろう」
「さすがアディ――って、あんたもさりげなく逃げてんじゃん!」
「いや、ちょっと熱過ぎるなぁと……」
「もう! 二人とも失礼しちゃうわ!」
ぷりぷり怒っている振りをしているが、にやにやが止まっていない。ジュテームの視線は常に、アディールの手にあるチケットに注がれていた。
「ねーねー、アディ。わたしたちもいっしょに行っていいでしょ?」
「ふむ、まぁ」
「おいおい、ねえさんたちもいっしょに行くのかよ?」
「あーら、キルシュったら。そんなにアディと二人きりで行きたいのかしら?」
「い、いや、そういうわけじゃねぇけどよ」
「だったらいいじゃない。ね? ね?」
「と、とりあえずジュテーム君。くねくねしながら、すり寄ってこないでくれるかな」
獲物を捕らえる蛇のごとき素早さでチケットを奪おうとしたジュテームを、アディールはひらりとかわした。
「こうなったら……フィズ! 出番よっ!」
ジュテームが仲間の名を呼びながら振り返った。
「って、フィズまで?!」
つられてアディールもキルシュもそちらを見た。その先には窓があったのだが――
「甘いぜ、二人とも。とうっ!」
がたりとコタツの真上の天井がはずれ、屋根裏から少年が飛び降りた。とっさのことにアディールもキルシュも身動きできない。そのすきに、少年――フィズはコタツの上で前転し、アディールの横をすり抜けた。なんとも身軽な動きだ。
「見事、わたしのフェイントにひっかかったわね。でかしたわよ、フィズ」
ジュテームがぐっと親指を突き出した。フィズもまたぐっと親指を突き出す。彼の口にはいつの間にか温泉チケットがくわえられていた。物を掠め取るスキルは海賊団一だ。
「ふむ、あいかわらずやるなぁ」
面白そうに笑うアディールとは対照的に、キルシュは怒りをたぎらせた。相手に、特にフィズに良いようにしてやられたのが気にくわないのだ。要するに子供である。
「やりやがったなぁ」
チケットを取り返そうと腕まくりするキルシュを、いつものようにアディールがたしなめた。
「まぁ、いいじゃないか。おまえだって一緒に行くのが嫌なわけじゃないだろ?」
「ま、まぁ、そうだけどよ。アディだってさっきは反対してたじゃねぇか」
「あれは、またジュテーム君が俺の仮面を奪おうとしたのかと思って反射的によけただけだ」
「わたしがそんなことするわけないじゃない」
アディールとキルシュの冷たい視線がジュテームに突き刺さる。
「ま、まぁ、いいわ。そんなことよりも……決まりねっ! わたしたち五人で温泉旅行よん!」
ジュテームがきゃぴきゃぴな感じでコタツから跳び上がった。こうして、ギャリック海賊団のメンバーであるアディールとキルシュは、ジュテームとフィズと――
アディールがふと首をひねった。
「ん? 五人? 私とキルシュとジュテーム君とフィズで四人だよね?」
アディールが心底不思議そうにしていると、キルシュがこれまた心底不思議そうな顔をした。
「おまえ、なに言ってんだ?」
「なに言ってるって……ん? フィズまで、どうしたんだい?」
フィズがまるで射殺すかのような殺気をアディールに投げかけてきていた。頭上にクエスチョンマークを踊らせるアディール。彼以外の者には分かりすぎるほどの理由がある。
「あ、あ、あの、わた、わた、私も……」
どこからともなく聞こえてきた蚊の泣くような小さな声に、アディールだけでなく、ジュテームもフィズも部屋中を見回した。驚いているところからすると、凸凹トリオの仲間でさえ、彼女はここにはいないと思っていたのか、いてもどこにいるのか知らなかったのか。
「す、すみません。ここにいます」
良く言えばものすごく控えめに、悪く言えばものすごく存在感薄く、シノンは冷蔵庫と電子レンジ台の隙間に挟まって立っていた。「なぜそこに?」と誰もが問いたくなったが、機先を制してアディールが口を開いた。
「すまない、シノン君。五人目は君だね、私としたことが失念していたよ。本当にすまない」
アディールが丁寧に頭を下げた。シノンの顔面が火を噴いた。
「い、いえ、そ、そ、そん、そんな、あでぃ、あでぃ、あでぃ、あた、あた、あた、あたまを、あげ、あげ」
「そんなところにいないで、シノン君もこっちへおいでよ」
アディールが指先で誘うようにシノンを招いた。彼にとっては何気ない仕草と一言だったのだが、シノンには刺激が強すぎたようだ。
「はひぃっ!」
シノンが返事のような返事でないような答えを返した。その目がぐるぐるになっている。そして、突然走り出した。
「ちょっと、シノン君?!」
彼女は壁や家具にぶつかり、そのたびに「すみません、すみません」と謝っている。
「きゃーっ! シノンが壊れちゃったわ! アディ、あんたのせいなんだからね。早く止めなさいよっ!」
「わ、私?! 私がいったい何を……」
「これだから、自覚のねぇやつはよ」
「じ、自覚がないとはなんだ、キルシュ。おまえの方がよっぽど大人としての自覚が――」
「シノンねーちゃんはオレが守る! シノンねーちゃん、落ち着いて――へぶっ!」
「んぎゃーっ! フィズが踏まれたわっ! 踏まれたわよっ! こうなったら。シノン、お姉さんの胸で抱きとめてあげ――どべっしゃあ!」
「ね、ねえさん、大丈夫か! ほら、アディ、おまえがなんとかしろっ――ぐっはぁ!」
「キルシュ! キルシュー! げふっ!」
こうして、ギャリック海賊団のメンバーであるアディールとキルシュは、ジュテームとフィズとシノンとともに温泉旅行に出かけることになったのだった。
ちなみに、シノンが自力で正気に返ったとき、部屋にはボロボロになった四人が横たわっていたという。
「きゃーっ! アディールさん! いったいどうしてこんなことに!」
▽ いやん、いやん! 独りは嫌よ、みんな待ってぇ〜 ▽
アディール一行がたどり着いたのは、ひなびた感じのする温泉宿だった。部屋数はそれほど多くないが、いつも予約でいっぱいのようで、隠れた人気を示していた。噂によると、銀幕市の有名人たちがお忍びで訪れることも多いらしい。目玉商品である混浴露天風呂を目当てに、かの銀幕ジャーナル編集長も足繁く通っているとかいないとか。
「なかなか良い温泉じゃないか」
廊下を歩きながらキルシュに話しかけるアディールは、部屋ですでに浴衣に着替えていた。小脇には専用の洗面器を抱えており、その中にはタオル、石けん、シャンプーが入っている。そしてもちろん、浴衣姿でも仮面ははずさない。
「おまえ、洗面器とか石けんとかシャンプーは浴場にあるんじゃねぇの?」
同じく浴衣姿のキルシュの言葉に、むっとしたアディールがすかさず応戦した。
「俺はいつもの洗面器と石けんとシャンプーが使いたいんだよ」
「そういや、おまえ、枕が変わると眠れねぇからって、船から陸に上がるときに、わざわざ枕を持っていってたよな」
「そ、そんなの俺の勝手だろ。お、おまえこそ、その袋はなんだよ?」
「あぁ、これ?」
キルシュが手にしていたビニール袋を抱え上げた。それほど重そうには思えないが、それでも一抱え分の大きさはある。なにが入っているのか、振るとがちゃがちゃ音がした。
「お風呂セットだ」
「なんだ、そりゃ。おまえだって持っていってるってことじゃないか」
キルシュの笑みが深くなった。アディールが思わず後じさる。
「おまえの石けんやシャンプーといっしょにするなよな」
「まさか、それ、おまえ……」
「よぉ! おまえら浴衣似合わねぇな」
アディールがさらに逃げ腰になったとき、ちょうどフィズたち三人が合流したので話が流れた。アディールは、のちに後悔することになる。このとき、キルシュのお風呂セットについてもっとしっかりツッコんでいれば、と。
「おい、小僧。おまえなんか、似合う似合わねぇ以前に、サイズがぶかぶかじゃねぇか」
キルシュがにやにやしながら指摘した。たしかにフィズにはサイズが大きすぎるようだ。長すぎる丈を無理に帯で調節しているのが、ちょっと見でわかった。
「う、うるせぇ! オレにはこれくらいがちょうどいいんだよ」
「わたしもねぇ、子供用の浴衣がいいって言ったのよ。それなのに、フィズったら意地張っちゃってさぁ」
ジュテームが肩をすくめた。アディールやキルシュと同じ格好なのに、そこはかとなく艶めかしいのは気のせいか。
二人の背後に隠れるようにして歩いているシノンは、おとなしく身の丈に合った浴衣を着ていた。
からかわれたフィズがジュテームを追いかけ回したりしているうちに、一行は浴場に到着した。特にどうという特徴もない普通の浴場だ。まずは脱衣所があり、入り口にはのれんが掛けてある。紺色ののれんには大きく一文字『男』と書いてあり、えんじ色ののれんには『女』と書いてあった。二つの入り口の間の壁に図が貼ってあり、脱衣所の奧が外に通じており、そこに混浴露天風呂があることが示されていた。
「よっしゃ! オレが一番乗りだぜ!」
フィズが紺色ののれんに突入する。
「おっと、そうはさせるかよ」
ノリノリでキルシュも突入。
「おいおい、二人ともそんなに走ると転ぶぞ」
主にキルシュに向かって注意しつつ、アディールもそれにつづく。
「じゃあ、わたしたちも行きましょう、シノン」
ジュテームの言葉に、シノンがこくりとうなずき、えんじ色ののれんに――
「って、ちょっと待った!!」
アディールが、仮面の上からでもわかるほど血相を変えて待ったをかけた。
「ん? アディ、どうかしたの?」
平然としているジュテームに、「いや、あの、ええっと、その、あれだ、うん、あれあれ」と引き留めたものの、アディールはもじもじと口ごもった。このシチュエーションのどこが間違っているのかまで正確に理解できているのだが、間違いをどう質すべきなのかが、ぱっと閃かない。沈着冷静な彼にしては珍しいことだ。いや、関わりたくないという深層心理が働いているっぽい。
「おかしなアディね。ささ、行きましょう」
ジュテームがそそくさとシノンを促す。シノンは気づいていないのか、アディールに対して小首をかしげていた。明らかに疑問を投げかける相手を間違っている。ここはアディールにではなく、ジュテームに投げかけるべきだ。
アディールは決定的なことを言い出せず、いつまでも口をぱくぱくさせている。もはやジュテームの暴挙(?)を止める手だてはないように思われた。
しかし、シノンのナイトは一人ではない!
「ちょっと待て、おかま!」
気合い十分の大音声が、二人の歩みに制止をかけた。ジュテームがむっとした顔で振り返る。シノンが「きゃっ!」と顔をそむけた。
先に入ったはずのフィズがいつの間にか戻ってきていた。パンツ一丁なのは、キルシュとどちらが早く温泉に飛び込むか競おうとしていたからだろう。胸を張っているのは気分だ。アディールが「そう、それ! それが言いたかったんよ。でも、言えなかったんよ」と言わんばかりに、何度もうなずいている。
『おかま』――なんと実直で、粗野な表現だろう。若さとは、偉大さの別名だ。もちろん、無謀さもまたその別名だが。
「おかまってなによっ! 失礼ねっ!」
「おかまにおかまって言ってなにが悪い!」
「まぁ! フィズったら二回もおかまって……ひどい、ひどいわっ!」
「泣き真似すんな! うっとおしいわっ!」
「チッ」
「チッ、じゃねぇよ、チッじゃ」
「そうだよ、ジュー。そんなときは、チッって言うんじゃなくて、ちゃんと舌打ちしなきゃ」
「シノンねーちゃん、なに呑気にツッコんでんだよ。そいつは男なんだぜ」
少しだけ沈黙。
にこにこ笑っていたシノンの顔が徐々に青くなり赤くなり。
「キャーーーーーーーーーッ!」
「どべっしゃあっ!」
シノンの拳が炸裂し、ジュテームの身体が奇妙な角度にねじれながら、廊下の上で三回半ほど回転した。
「ジューのばかぁっ!」
シノンはそのまま振り返りもせずに、微かに涙を浮かべつつ脱衣所ののれんをくぐった。
「な、泣きたいのは……こっちの……方よ……」
がくりとジュテームが力尽きた。まさに自業自得……か?
「ご、ごめんな、おかま。まさかシノンねーちゃんのコークスクリューパンチがあそこまで威力を高めてるなんて思いもよらなかったんだ」
アハハと無理に笑いながら、フィズが倒れ伏したジュテームの下半身を必死に持ち上げた。こうなるとさすがに罪悪感がある。
「ボロぞうきんのように床にわだかまるジュテーム君も素敵だよ。さぁ、いざともに男用脱衣所へ」
意味のわからないフォローをするアディールが、上半身を抱える。
「ん? ジュテーム君、なにか言ったかい?」
そのとき、ジュテームの唇がかすかに動いた。アディールは急いで耳を寄せた。まるで死に水を取るかのような所作だ。
「さ、最期に……」
「最期に?」
「わ、わたしに……」
「わたしに?」
「……その仮面の下の素顔を見せてちょうだいっ! って、ぎゃひん! 後頭部がっ、後頭部がぁああぁああぁ」
「ああっ! すまない、ジュテーム君。反射的に手を放してしまったよ」
「ひどい、ひどいわっ! アディまでわたしを物のように扱うのね! 飽きてしまったらさっさと捨てちゃうのね!」
「そ、その表現はちょっと。誤解を生む気がするんでやめてくれないか……」
「いいわよ、いいわよ。どうせわたしはオモチャにされて捨てられる運命だったんだわ! って、ぎゃひん! 脚がっ、脚がぁああぁああぁ」
「そんだけ元気なら自分で行けるよな」
アディールとフィズがのれんの奧へ消えると、ジュテーム独りがぽつんとその場に残された。
「いやん、いやん! 独りは嫌よ、みんな待ってぇ〜」
ひょいっと起きあがり、なにごともなかったかのように紺色ののれんをかき分けるジュテーム。彼女(?)の生命力は計り知れなかった。
▽ び、微妙にサマになってるから怖いわ ▽
かっぽん。木桶が呑気な音を出した。銭湯などに付き物のそれは、ふつう屋内だからこそよく響く。風呂場で口ずさむ鼻歌が妙に上手く聞こえるのも、この音響効果のせいだ。ところが、ここは屋外――露天風呂だった。では、なぜこうも高らかに木桶の音が響くのか――
とんとこ、とんとこ、叩いていた。
民族舞踊の伴奏よろしく、とんとこ、とんとこ、叩いていた。
「あー、えーと、キルシュ。なにやってんだ?」
頭にタオルを乗せたお約束スタイルで湯船に浸かっていたアディールが、げんなりしながら訊ねた。関わるまいと思っていても、ついついツッコんでしまう。彼にとって親友へのツッコミはすでに日常の一部だ。
「ん? これか? 風呂に一番乗りできたお祝いの音楽」
裸に腰タオル一枚の姿なので、まるでどこぞの原住民だ。
「……とりあえず、木桶を叩くのをやめて、湯船につかるなり身体を洗うなりしろ。冷えてしまうぞ」
「ちぇっ、わかったよ。ったく、アディはいちいちうるさいんだよな」
ふてくされた様子でキルシュが木桶をひっくりかえす。お湯を汲みに行ったところからすると先に身体を洗うようだった。
アディールはそれを満足そうに見届けると、今度はフィズとジュテームの方を向いた。二人は湯にも入らず、身体も洗わず、大げんかの真っ最中だった。
「ついにこのわたしを怒らせたわねっ!!」
「怒らせてなにが悪い!!」
「まぁっ! このデコったら、開き直る気?!」
「そもそもオレには、おかまを助ける理由がない!! ってゆーか、デコって言うな!!」
「おかまって言わないでよっ!! このデコっ!!」
「デコって言うな、おかま!」
「おまかって言わないでよ、デコ!」
「おかまって言うな、デコ!」
「デコって言わないでよ、おかま!」
「……」
「……」
「ん?」
「あら?」
「ええっと、古典的なギャグはそれくらいにして、二人ともそろそろ仲直りしたらどうだい?」
アディールのため息に、ジュテームの鼻息が重なった。
「アディだって、ひどかったじゃない! ほら、見てよ、ここんとこ。たんこぶができてるでしょ? ねぇ、ほら、ここよ、ここ!」
ジュテームがしつこく後頭部を指さす。ドアップで迫られ、たじろぐかと思いきや、アディールは冷静に対応した。
「ふむ。あの場合、私がジュテーム君を置いていったことを責められる理由はないと思うが」
たしかに先に仮面をはがそうとしたのはジュテームの方だ。しかも、アディールはジュテームを助けようとしていたのだから、なおさら非はジュテームにある。
「そうだそうだ。おかまが悪い」
フィズも調子に乗ってはやし立てた。
「きーーーーっ! 悔しいわっ! ちょー悔しいわ! ちょっと、キルシュもこの二人になにか言ってやってよ」
振り返ったジュテームの全身が一瞬にして固まった。あまりに恐ろしいものを目の当たりにして、筋肉が硬直してしまったのだ。唇の端がぴくぴく痙攣する。
ようやく声帯だけを動かせた。
「あ、あんた、なにしてんの?」
「シャンプー」
「いやいや、そういうことじゃなくて。その頭の――」
「それより、ジュテームねえさん。タオルは腰に巻くもんだぜ」
「うっ。そんなに良い笑顔でツッコまれると困っちゃうわね」
ジュテームは大きめのタオルを胸から下に巻いていた。上半身から下半身までばっちり隠している。身体の線が細い方なので、浴衣姿同様、妙に色っぽい。
って、それどころではなく。
「キルシュ? ちょ、それはさすがに……」
気づいたフィズも言葉を濁した。ついでに目もそらす。
「これか?」
まるでカウボーイハットでも扱うかのように、キルシュが人差し指で、くいっとおでこにハマっている物を押し上げた。もちろんカウボーイハットよりも遥かに柔らか優しい素材でできているので、ぷにっと曲がるだけだったが。
「ちょ、ちょっとアディ! あれはさすがにマズイんじゃない?!」
ジュテームが「ちょっと奥さん、見ました?」の感じで手をぱたぱたと振った。対してアディールは落ち着き払っている。
「君たちは初めて見るのだろうけど、毎晩のことだよ」
「ま、毎晩っ! あれを毎晩っ!」
フィズがあまりの驚愕に腰を抜かした。
キルシュの額にハマっているもの、それはまさしくシャンプーハットだった。小さい子が頭を洗うときに使うアレだ。
「目がしみなくて便利だぜ。この銀幕市に来てこいつを初めて発見したときにゃあ、もう、感動で泣きそうになったね。発明って偉大だぜ、うん」
シャンプーハット。ここに文明の利器、極まれり。素敵な笑顔に白い歯が光る。
「び、微妙にサマになってるから怖いわ」
「た、たしかに」
そんな二人に、かたわらに置いてあった自称お風呂セットから、キルシュが新たにシャンプーハットをいくつか取り出した。
「おまえたちも使うか? どの色がいい? グリーンなんかオススメだな。ピンクもあるぜ。あっと、このワルトワマンのヤツはお気に入りだから、誰にも貸さねぇぜ」
「いらんわっ!!!」
ジュテームとフィズが同時にツッコむ。キルシュは不思議そうにきょとんとしていた。
▽ ああっ、出血多量で目眩が…… ▽
もうもうと立ちこめる白い湯気が昇っていく先は、星の瞬く真っ黒な夜空だ。当然ながら冬の夜は寒い。風も冷たい。それでも暖かく感じるのはきっとお湯のおかげだけではないだろう。温泉という雰囲気が心までも癒してくれる。
「やっぱり温泉はいいわねぇ〜 生き返るわぁ」
「ホントホント。アパートの風呂じゃこうはいかねぇもんな」
「そこはキルシュに同感」
「キルシュ、フィズ! 風呂で泳ぐな!」
まったりとした時間が過ぎていく。
どこからともなく歌声が流れてきた。アディールの諫言に耳を貸さなかったキルシュもフィズも、とたんに泳ぐのをやめた。ジュテームは瞳を閉じ、岩場に背中をあずけた。アディールもまた、耳を澄まし静かに空を見上げた。
どこまでも透き通るように蒼く、美しい唄だった。不思議な言葉で語られる物語は、意味は分からなくても、心で理解できるような気がした。
ずっとこのままでいたい。四人とも同じ想いをいだく。
そして、四人とも同時にその事実に思い至った。
「シノン君?!」
「嬢ちゃん?!」
「シノンねーちゃん?!」
「シノン?!」
シノンの二つ名は『歌姫』。どう考えても歌声はシノンのものだ。四人ともが似たような動作で周囲を見渡した。
「す、すみません。ここにいます」
いつからそこにいたものか、湯船の隅っこで顔だけを出したシノンが小さく手を挙げた。頬が朱色に染まっているのは、羞恥からから湯で暖まっただけなのか、判然としない。
「あー! ごめんね、シノン。すっかり忘れちゃってたわ」
身も蓋もない言い方をして、ジュテームがざぶざぶ駆けつける。
「お、オレは忘れてたわけじゃないぜ。ただちょっと湯あたりしてたっつーかなんつーか」
苦しい言い訳をしながら、あわててフィズも泳ぎ寄った。
「フィーもジューもひどいよ」
そのままぶくぶくと湯に沈んでいくシノン。ぴしゃりと水が鳴り、緑鱗の煌めく尾びれが水面を叩いた。魚類の尻尾そのものであるそれは、シノンのものだ。人魚である彼女は水に触れると本来の姿に戻ってしまう。それは温かいお湯でも同じだった。下半身である尾びれが水面に出たということは、ひっくり返ったことに他ならない。
「きゃーっ! シノンがっ、シノンがっ!」
「ええっ! シノンねーちゃんの方が湯あたり?!」
想い人のピンチでは俄然張り切ってしまうのが男の子というものだ。フィズのクロールが数倍のスピードになり、ジュテームを追い越した。
「シノンねーちゃ――」
鼻の頭まですっかり沈没してしまっているシノンに手を伸ばしかけ、ぴたりと動きが止まった。
ほんの数瞬。コンマ何秒の世界。それでも、男の子が妄想を広げるには十分な時間。
フィズも含め男性陣は腰にタオルを巻いている。混浴なのだから、女性もいるだろうということでそうしている。しかし、シノンも腰にタオルを巻いている、なんてことはないだろう。巻くとしたら、ジュテームのように胸から下をすべて覆うように巻くはずだ。いや、ジュテームは正確には女性ではないが。
今、シノンの下半身は剥き出しだ。ちょっといやらしい表現だが、尾びれがあらわになっているということは――剥き出しだっ!
下半身にタオルを巻かず、上半身にだけ巻くなんてことがあるだろうか。いや、ない(反語)。すると、このままシノンを抱きかかえれば!
「ごふっ!」
赤い噴水が夜空にしぶいた。嗚呼、男の子の勲章。その名も鼻血。これを幾度流したかで、男の子の価値が決まる。
「はな、はなぢがっ!」
鼻をつまむフィズの横をジュテームが追い抜き返した。
「嫌ねぇ、のぼせちゃったの?」
「ひ、ひや、ひょうひゃなくて」
鼻をふさいでいるので上手くしゃべれない。
「あー、もしかして、わたしのら・た・い・に――」
「それだけは、ぜってーねぇよっ!!」
思わず手を放してしまい再び噴火。そんなフィズのことなどおかまいなしに、ジュテームは沈んでいくシノンを引っ張り上げた。
「おかまっ! やべぇ、やべぇよ、そりゃ!!」
フィズがあわてて両手で顔を覆った。指の間から血走った目が覗いているのは、青い春のお約束だ。もちろん指のすきまから、鼻血も盛大に漏れている。
「はぁ? なに言ってんの。ほら、シノン。しっかりしなさい」
シノンの上半身がさらされる。
「おわっ、やめてくれっ! 見るなっ! だれも見るなっ! って、ビキニかよ?!」
ノリツッコミで勢いよく風呂に倒れ込むフィズ。ぐったりしたシノンは、きちんと可愛らしい水色のビキニを着けていた。
「ビキニに決まってんじゃないのよ。ほら、わたしだってタオルの下は――」
「てめぇは脱ぐなっ!!」
再度ノリツッコミで水しぶきとともにフィズ浮上。
「ああっ、出血多量で目眩が……」
「あんたの場合、単に暴れすぎでしょ」
「フィズの一人ボケツッコミが激しすぎて近づけないんだが。ジュテーム君、シノン君は大丈夫かい?」
アディールが近寄ってこようとするのに気づいて、ジュテームがしっしっと追い払った。
「アディが来るとややこしくなるから、そっちで待っててちょうだい」
「ややこしくなる?」
アディールはまたもや訳がわからずクエスチョンマークを踊らせた。
「そうだぜ、アディ!」
キルシュが、遠く洗い場から、アディールに向かってびしっと人差し指をさした。
「おまえは行っちゃ――ぐあっ! 世紀の大発明、シャンプーハットの隙間から泡が侵入してきやがった! 温泉のシャンプーは特別製かっ?! いや、もしや温泉に棲む魔物のせい?! 目がっ! 目が〜〜〜〜」
そして、のたうちまわる。
「おまえ、さっきシャンプーハットを帽子みたいに動かしてたじゃないか。そりゃ、ズレるだろ。っていうか、おまえが出てくるとややこしくなるから、黙っててくれ」
「いや、おまえの方がぜってーややこし――ぎゃーっ! 目をこすったら、手についてた泡が目にっ! 泡が目に〜〜〜〜」
シノンの方はジュテームに任せ、アディールはいつものため息とともに親友の救出に向かった。
とにかく、ようやく五人がそろったのだった。
▽ ふっ……それは……よか……た…… ▽
「ごめんなさい、ジュー」
うつむき加減、上目遣いで謝るシノンは掛け値なしに可愛い。ジュテームですら、一瞬くらっと傾きかけた。
「ほんっと、アディったら罪な男よねぇ。こんなに可愛い娘を、いつまでほっとくつもりかしら」
二人は今、男性たちから少し離れた位置でゆったりと湯に浸かっていた。シノンはのぼせたわけではなく、ただ単に恥ずかしくて水中に隠れようとしただけらしい。冷静になって考えてみれば、彼女は人魚なのだから、おぼれることは絶対にないのだ。
人魚。まさしくその点が一番の悩みどころ。
「ねぇ、シノン」
「なに?」
「あなた、もしかして自分が人魚だってこと、負い目に感じてたりする?」
シノンがはっとした表情をつくり、泣きそうになった。そんな彼女の頭をジュテームが撫でた。
「シノンが人魚だからって、なにも変わらないわ」
しっとりと湿り気を含んだオレンジの髪を指で梳く。いつもどおり、シノンはされるがまま身を任せた。
「そう……かしら?」
「そうよ。シノンがなんであっても、わたしたちは仲間なんだから」
「仲間?」
「そう、仲間。特に、わたしとフィズとシノンは『凹凸トリオ〜ちゃっかり貴方の秘密を握ってる〜』の仲間でしょ?」
ジュテームの一言ひとことがシノンの胸に染みいっていく。それらはまるで魔法のように、凝り固まった彼女の心をほぐしていった。
「ありがとう」
「お礼なんていいわよ。一度仲間だって認めちゃえば、人魚だって巨人だって悪魔だってなんだって受け入れちゃうのが、ギャリック海賊団でしょ?」
「……そうよね。ジューだって受け入れられてるしね」
「ちょ、それ、どういう意味よ!?」
ジュテームがわざとらしく睨みつけると、シノンはくすりと笑った。
「それに、シノンが人魚だからって、あのアディが差別したりすると思う?」
シノンは大きく首を横に振った。それだけは、ない。もしそうであったとしたら、彼のことを想いつづけることなどなかったろう。あの日から、想いつづける理由はない。
どこかで聞いたことのあるメロディーを、ジュテームが口ずさみだした。
「ジュー、それって、三分間クッキ――」
「はい、そこまで! それ以上は放送禁止よ。ジュテーム姉さんの愛の恋愛教室、始まり始まり〜」
とりあえず、ノリでシノンが拍手をする。ジュテームはどこかにあるつもりのカメラに向かってウィンクした。マイクもどきとして、タオルを手早く筒状に丸める。
「さーて、今回のテーマは、胸がきゅんきゅん片想いよ。ジュテーム姉さんが、ずばっと解決しちゃうわよん。今日は、ギャリック海賊団の歌姫ことシノンちゃんからのご相談!」
マイク(タオル)を振られ、シノンがしどろもどろに言う。
「あの、私、好きな人がいるんです。で、でも、その人にはまったく気持ちが伝わってなくて。だから、その、ええっと」
「気持ちをはっきり伝えたいってわけね?」
言いたいことを代弁してくれたジュテームに、シノンはかくかく首を振った。
「ジュテーム姉さんにお任せっ! こういうときは……」
「こういうときは?」
「生ごとぶっこむ!!!」
「なまっ?! なまってなにっ?! きゃっ!」
ジュテームがひょいっとシノンの身体を担ぎ上げた。重量挙げさながらに、高く持ち上げる。先ほどもそうだったが、華奢な身体つきをしているようで、力が強い。
「ちょっと、やめてよ、ジュー!」
ぺちぺちと人魚の尾びれでジュテームを叩く。
「ええいっ! ここまで来たら、覚悟せいっ!」
「なんか、それ、ちがっ!」
「往生せいやぁあぁああああぁぁああぁっ!!!」
「いやーん」
宙を舞う人魚の姿が月影を横切った。弧を描いて落下していく先には、仮面の貴公子が呑気に顔を洗っていた。仮面をかぶったままなので、正確には仮面を拭いていたというのが正しいかもしれない。まぁ、とにかく、そんなこんなでアディールは飛来するシノンに気が付いていない。
「アディールさん!」
「んあ?」
名前を呼ばれ、間抜けな感じで空を振り仰いだ。
「シノン君?!」
とっさに両腕を広げ、受け止める体勢を取ったのは、さすがに海賊団の一員だ。非常事態には慣れている。
非常事態に慣れていないのはシノンの方だった。
「あでぃ、あでぃ、あでぃ?!」
腰タオル姿のアディールが胸板を解放している。シノンの視界全体に靄がかかり、大量の薔薇の花が咲き乱れた。時が異様にゆっくりと流れる。彼女の耳には「さぁ、シノン君。私の胸に飛び込んでおいで。はーっはっはっは」といった類の幻聴まで聞こえだした。
「シノン君、大丈夫。私が受け止め――って、なんか目がぐるぐるになってる?!」
「そんなっ! 私にはまだ……まだ早いですっ!!!」
尾びれアタック!
「ぬわっふぁあっ!」
たまらず吹き飛ぶアディール。尾びれアタックの勢いを利用し、空中一回転半で無事に水面着地を決めるシノン。
「きゃーっ! アディールさん! ごめんなさい、ごめんなさい!」
「し、シノン君は、だ、大丈夫だったかい?」
「アディールさんのお陰で無事です!」
「ふっ……それは……よか……た……」
「きゃーーーっ! アディールさん、死なないでっ!」
いつの間にやら、気絶したアディールを夢中で抱きしめていることに、シノンはまったく気づいていなかったとさ。めでたし、めでたし。
「って、まだ終わらないぜ!」
遠くの洗い場でフィズと水鉄砲を撃ち合っていたキルシュが笑顔を閃かせた。
▽ キルシュ、ジュテーム君、それにフィズ……私を本気で怒らせてしまったようだね ▽
「気にくわないわ」
「はぁ? ねえさん、自分で仕向けたんじゃねぇのかよ?」
キルシュがプラスチック製の黄色いアヒルを湯船に浮かべつつ、まったりモードで言った。彼の隣では、貧血気味のくせに水鉄砲で遊んでしまったフィズがぐったりとしていた。ジュテームは先ほどからしきりにぶつぶつ文句をたれている。
あれからアディールとシノンは良いムードで会話している。それはもう、誰がどう見ても微笑ましい。そのシチュエーションを作りだした愛の伝道師ジュテーム・ローズとしては、満足すべきなのだが。どうもなにやら苛立たしいようだ。
「なにがそんなに気にくわねぇの?」
「アディの仮面よっ!」
即答。
「あー、なるほどね。そういや、あいつ、ここじゃ仮面取ってねぇな」
「いつもはお風呂入るときは取ってるんでしょ?」
「まぁね」
「いやん! わたしも見たいっ! アディの素顔、見たいったら、見たいっ!」
「んなこと言われてもなぁ。オレ、いつも見てるし」
「そう! それ! そこも気にくわないのよ。なんでキルシュだけ」
ジュテームが悔しそうにタオルの端を噛んだ。
「そもそもオレは仮面かぶる前から知り合いだからなぁ」
あまり興味を示さないキルシュをあきらめ、ターゲットを変更する。
「フィズ。あんた、悔しくない? あの二人のラブラブモードをこんな間近で見せつけられて。一緒にアディの仮面をはぎ取って、邪魔しちゃわない?」
「うわっ、ねえさんの言ってること滅茶苦茶だぜ」
さすがのキルシュも額に冷や汗を流した。
「ふっ、たまにはいいこと言うんだなおかま……」
ゆらりと、フィズが悪い顔で起きあがった。両目がきゅぴーんってな感じで不気味に光っている。今までのダメージなどどこかに吹き飛んでしまったようだ。
「おかまは余計だけどね」
そう言って、ジュテームが握り拳を突きだした。がしっとフィズの拳が突き合わされる。
「キルシュ、あんたはどうするの?」
「うーん、そーだなぁ。面白そうだから、手伝うぜ」
キルシュもまた拳を重ねた。
ここに『アディの仮面剥がし隊』結成!
「ついにこれを使うときが来たみてぇだな」
キルシュがにやりと笑って、例のお風呂セットを持ち上げてみせた。シャンプーハットや水鉄砲、アヒルのオモチャの他になにが入っているというのだろうか。キルシュは自信満々だった。
数メートル先でそういったやりとりが行われていることなど、つゆ知らず。アディールは無自覚のまま、シノンは心臓破裂寸前で穏やかな会話を交わしていた。
「シノン君は今の仕事、辛くはないかい?」
「お仕事、ですか?」
「そう。洗濯や炊事なんかだよ。みんなの分もやっていて大変じゃないかなと思ってね」
「そ、そんなことないです。私、みなさんのお役に立てて嬉しいんです。こんな私のことを仲間だって言ってくれるみんなに、恩返ししてるつもりですから」
「恩返し、か。シノン君は優しいんだね」
「そそそそそそそそそんなことっ」
突然、アディールが人差し指をそっとシノンの唇に押し当てた。シノンの中でなにかが爆発する音がした。
「静かに。耳を澄ませてごらん」
言われたとおりにしてみると、外界から様々な音が届いていることがわかる。虫の声、木々のざわめき、獣の遠吠え……
「露天風呂は、こういったものも楽しむものなんだろうね」
アディールの指先が離れてもなお、微かなぬくもりが唇の芯に残っている。言わなければ。いま言わなければ、もうチャンスはないかもしれない。焦燥感だけが募っていく。
「あの……」
意を決したシノンをさえぎるように、先にアディールが言葉を発した。
「虫の声を無視しちゃ駄目だよ」
「へ?」
「ムシの声をムシしちゃ駄目だよ。うん、我ながらイイ出来だね」
だめ押しするようにアディールがもう一度告げた。シノンの中でなにかが白く固まる音がした……
その時、アディールが突然立ち上がった。
「アディールさん?」
アディールは唇を引き結んで、油断なく視線を周囲に走らせていた。全身から、湯気とは違うなにかが立ち上っている。シノンはこの状態のアディールを知っていた。海賊団の一員として、敵と戦う時のアディールだ。
「アディールさん、いったいなにが……」
「三人がいない」
「え?」
言われて初めて気づいたが、知らないうちにキルシュとフィズとジュテームの姿が消えていた。
「どこに行ったのかしら?」
「わからない。シノン君、とりあえず私の後ろへ隠れ――」
言い終わるか終わらないかのその刹那、とっさに身をかがめたアディールの頭上をなにかが高速で飛び抜けた。彼の抜群の動体視力は、その物体が石けんであることを見抜いていた。
「ジュテーム君か?!」
そう判断したのは、ジュテームの特技に石けん投げがあるからだ。石けんの飛んできた方向と角度から、狙撃手の位置を素早く割り出す。温泉の外にある茂みがわずかに揺れていた。
「ジュテーム君、これはいったいなんの真似――」
またもや言い終えることはできない。後背からフィズが襲いかかってきたのだ。半身になって体当たりをかわしたアディールの顔面に、神速を誇るフィズの指先が迫る。彼の特技は物をスルこと。
だが、アディールの仮面にかける執念が、神速を上回った。さらに上体を反らして避ける。仮面の紐をフィズの爪先がかすめる。
フィズはそのまま洗い場へと逃れた。
「どういうつもりか知らないが。フィズ、いい加減にしないと、こちらも本気を出さざるをえなくなるよ」
アディールがふっと息を吐く。指の先に炎がともった。竜の血を受け継ぐ彼は、火を吐くことができる。そして、それを自在に操ることもできるのだ。
「悪いな、アディ。今日のところはおかまに味方させてもらうぜ」
フィズがじりじりと間合いを縮めてくる。ジュテームもまたどこかの茂みに隠れて、石けんを投げてくるだろう。問題は、いまだ姿を消したままのキルシュだ。
今度は、石けんと同時にフィズが動いた。
アディールの指から炎の塊が飛び、石けんを溶かし去る。しかしその隙に、フィズの指は今度こそ完璧に仮面の紐をとらえていた。
「もらったっ!」
「フィズ! やめなさいっ!」
「はひっ!」
シノンの叱責に、反射的にフィズの動きが空中で止まる。そのまま、どぼんと水中に落下してしまった。
「シノン君、ありがとう。助かったよ」
「い、いえ、わた、わたしは……」
このとき、アディールは不覚にも油断してしまった。つい先ほどまで気をつけていたキルシュの存在を忘れていたのだ。
岩場の陰から、プラスチック製のマジックハンドが伸びてきた。先端には吸盤がついており、くっつくようになっている。その吸盤が、アディールの仮面に張り付いた。これぞまさに奧の手。キルシュのお風呂セットに入っていた秘密兵器だった。
「きゃー! でかしたわよ、キルシュ! さぁ、早くそれを引っ張るのよっ!」
茂みから、ジュテームが万歳しながら立ち上がった。
「おうさっ!」
岩場に跳び乗ったキルシュがマジックハンドを引っ張ろうとして――どろりとプラスチックが溶けた。
「あら?」
アディールの吐き出した炎の仕業だ。
「ふっふっふ」
仮面に吸盤を付けたまま、アディールが不気味に笑った。
「キルシュ、ジュテーム君、それにフィズ……私を本気で怒らせてしまったようだね」
怒りのオーラが、いや、怒りの炎がちろちろと口の端から顔を覗かせている。
「マズイ! アディがキレちまった! ねえさん、フィズ、特大の炎がくるぜ」
「ま、マジで?!」
フィズがあわてて距離を取った。
「わかったわ! こうなったら、こっちもやってやるわよ! キルシュ、フィズ、力を合わせるわよっ!」
アディールがひゅっと大きく息を吸い込んだ。対して、ジュテームとキルシュとフィズは一ヶ所に集まり、対抗するため力を練る。シノンは巻き添えを食わないようにお湯に潜った。
アディールが口をすぼめた。轟音とともに巨大な炎の渦が、巻き起こる。
「火には水よっ! ロケーションエリア発動っ!」
三人が同時に叫んだ。
「俺達ギャリック海賊団だぜ!」
ギャリック海賊団特有のロケーションエリアが発動する。なにもない空間に、突如として大津波が出現した。まさしく火炎ヴァーサス津波。
炸裂。明滅。水蒸気爆発。
「んぎゃーっ!」
「にゅわー!」
「へぶし!」
「にぎゃー!」
「いやーん!」
五人の絶叫が木霊した。
その夜、泊まり客の何人かが、混浴露天風呂の方で巨大な蒸気の柱を見たというが、真相は定かではない。
▽ ふむ、思いついたぞ ▽
「なんだか、疲れを取りに温泉に来たのに、逆に疲れちゃった感じだわ〜」
「ジュテーム君が、それを言うのかい?」
「いやん、アディ。そんな怖い顔しちゃイ・ヤ・よ」
「よし! フィズ、牛乳の一気飲みで勝負だぜ!」
「キルシュなんかに負けるかよ! シノンねーちゃん、合図を頼むぜ」
「わかったわ。よーい、ドン――って言ったら始めるのよ?」
「ぶはっ! ちょ、嬢ちゃん、そりゃ古典的過ぎるぜ」
「ぐふっ! 鼻から牛乳がっ!」
「ふふふ。アディールさんを困らせた罰よ」
「ちょっとシノン、じっとしててよ。髪がうまく梳かせないわ」
「あ、ごめんね、ジュー」
「ふむ、思いついたぞ」
げっぷするキルシュ、鼻を拭くフィズ、髪を梳かすジュテーム、はにかむシノン。全員がアディールの方を見た。
アディールはすっとコーヒー牛乳の瓶をかざすと
「コーヒー牛乳は、こう冷えてるから美味い。コーヒー牛乳は、コーヒーえてるから美味い」
ぴしっ。なにかいろいろなものが固まった。
こうして、ギャリック海賊団のメンバーであるアディールとキルシュ、ジュテーム、フィズ、シノンは、初めての混浴露天風呂を堪能したのだった。その後、部屋に帰った彼らは枕投げにて再び騒動を起こし、夜中に旅館から放り出されたとか出されなかったとか。
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クリエイターコメント | このたびはオファーありがとうございます。 お待たせいたしました。ギャリック海賊団(以下略)のドタバタ温泉旅行をお贈りします。
とにかく、全員がシナリオ初デビューということで、好き勝手にキャラを膨らませてしまいました。
自分はどちらかというと、不条理・カオス系の笑いよりも、ネタ・ボケ・ツッコミの漫才系の笑いを好むため、場面ごとにショートコントのようになっています。 ひとつひとつをお楽しみいただければと思います。 |
公開日時 | 2008-02-01(金) 21:40 |
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