★ Human Eye Machine Eye ★
クリエイター西向く侍(wref9746)
管理番号252-943 オファー日2007-10-09(火) 14:38
オファーPC レイ(cwpv4345) ムービースター 男 28歳 賞金稼ぎ
<ノベル>

 どこかで見たことのある光景だった。
 いつどこで目にしたものか、思い出そうと記憶をたどっていく――

 その少年の思い出は実に単調なもので、ほとんどが白い壁と味気ない食事で埋め尽くされていた。だから、違和感を頼りに探していけば、それはほどなく見つかった。
 少年たちが生活していた白い部屋の、壁に設置されていたモニターだ。
 普段は、各種兵器の操作法や軍事行動における地形利用法などといった、講義映像しか映さないモニターが、その日不思議な映像を流しはじめた。
 彼らと同じくらいの年齢の男の子が走っている。どこまでも広がる青い空の下、果てしなくつづく草原を、男の子は懸命に走っていた。何度も転びそうになりがらも、スピードを緩めることはない。どれだけ息を切らせようとも、その足を止めない。
 もちろん少年は、空も草原も知らない。そこは白い部屋ではない、としか認識できない。それでも、少なからず胸が高揚するのを感じた。
 やがて男の子はゆっくりと歩みを止めた。向かう先に女性の姿を見つけたからだ。
 男の子が叫んだ。
 女性が走り出す。男の子も走り出す。
 走る勢いもそのままに、二人はお互いの身体を抱きしめ合った。二人とも疲れ切っているだろうに、力の限り抱きしめ合い、涙を流した。
 男の子が呼び、女性もまたそれに応える。声が嗄れんばかりに呼び合う。
 少年は黙ってモニターを見つめていた。ふと気づくと、他の少年少女たちもまた、一様にその映像を凝視していた。
「みんな見ているかしら?」
 部屋の片隅に設置されたスピーカーから声が聞こえた。
 室外のどこかにつながっているスピーカーは、少年たちになんらかの指示を与える際に無機質な音声を発するだけのものだった。たとえば、実験の呼び出しなどだ。
 今そのスピーカーから女性のやわらかな声音が流れてくる。
 毎日耳にする声だったので、少年には、いつも食事や着替えを運んでくれる女性だとすぐにわかった。
「みんなはこれが何の映像だか分かるかしら?」
 少年たちは顔を見合わせた。答えがわかっている者はいないように思えた。
「これはね、男の子とその……」
 女性の声が肝心の答えを発しようとした時、
「いったいこれはなんの真似だね!」
 刺々しい怒声がそれを遮った。
 いつも実験を遠巻きに見ている男のものだと、少年には、これもすぐにわかった。
「情操教育の一環です」
「情操教育だと? こいつらにそんなものは必要ない。それくらい君にもわかっているだろう」
「ですが、所長。この子たちも……」
「この子たちも、なんだね? まさか君はこいつらが人間だとでも言うのではないだろうね?」
 声が途切れた。
 少年が身じろぎする。震えているようにも見えた。
「こいつらはただの実験体だ。いずれ科学の発展のため、その礎となる。そういう存在だ。君だってわかっているはずだ。いまさらヒューマニストぶるつもりか?」
「それは……それはこの子たちの意志ではありません。この子たちの意志は……」
「こいつらに意志などない!」
「ですが、それは! それはマインドコントロールによる……」
「もういい! 今すぐモニターの映像を消したまえ! それからマイクもだ!」
 ぶつん、とモニターが真っ黒に塗り潰された。
 男の子の泣き顔と女性の泣き顔が残像となって、薄ぼんやりと揺らめいている。
 少年と幾人かの仲間たちはいつまでもモニターを眺めつづけ、また別の仲間たちはすぐに日常へと戻っていった。
 少年は理由もわからぬまま、男の子の叫び声を心のうちで繰り返し反芻していた。
 何度も、何度も。

 ――あのときと同じだ。
 少年はどこか遠くを見つめながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 きつく抱きしめられる感触は、息苦しくはあったが苦痛ではない。女性の吐く息が耳朶を打ち、嗚咽が鼓膜を揺らす。
 あのときの映像と違うのは、男の子の方だ。
 自分はその女性を抱きしめていない。泣いてもいない。叫んでもいない。そこだけは、あのときの映像と違う。
 少年は物心ついた頃から泣いたことがなかった。
 自らの意志に関係なく、四肢を切り落とされ、内蔵を切り取られ、左目をえぐられても泣きはしなかった。奪われた肉体をサイバー化され、戻されたときも泣きはしなかった。
 こうした実験に耐えきれず命を落とす仲間たちも多くいたため、肉体を失う程度では泣けなくなっていたのかもしれない。
「ごめんなさい。あなたが無事だったんで、つい嬉しくって」
 ようやく身体を放した女性が、涙をぬぐいながら言った。
 少年はどう反応していいか分からずに、ただ首をかしげた。
 女性は、少年には読みとれない複雑な表情を見せたあと、笑顔を作って手を引いた。
「さぁ、いきましょう」
「お風呂にはまだ時間があるよ」
 ぼそりと呟く少年に「お風呂にいくんじゃないのよ」と女性はさらに強く手を引く。
「ご飯だってさっき食べた」
 女性の足が止まった。
「そうね。あなたたちにとって、私は世話係みたいなものだものね。私イコールお風呂やご飯か……」
 そう独り言を落として、再び歩きはじめる。振り返らずにどんどん進んでいく彼女の肩はわずかに震えているように見えた。
 この人はなにをしようとしているのだろう。なぜ泣いたり笑ったりするのだろう。たくさんの疑問が、少年の脳裏をかすめては消え去っていく。
 生まれてからずっと従うことだけを教え込まれてきた彼にとって、疑問は天敵だった。下手にかかずらってしまうと、従うことが難しくなる。だから、みずからの意志で疑問を消去してきた。
 その少年も今回ばかりは尋ねざるをえなかった。
 今度は少年が足を止めた。
「どこへいくの?」
 素直な問いが口をついて出た。少年は一度もこの建物を出たことがなかったので、ここが建物の中だということすら知らない。
 女性はその言葉を待っていたかのように満足げに微笑むと、膝を折って、自分の目線を少年のそれに合わせた。
「外へいくのよ」
「外?」
「外の世界にはとっても楽しいことがたくさん待っているわ。だから私と一緒に外へいきましょう」
「楽しいことってなに?」
「あなたが……あなたが今まで経験したことがないようなことよ」
「実験とはなにが違うの?」
「まったく違うわ! あんな酷いことじゃない! もっと嬉しくなるようなことよ。わくわくすること。幸せな気分になれること」
「嬉しい? 幸せ? わからないよ」
「今はわからなくてもいい。でも、いずれわかる時が来るわ。きっと来る。だから、今は私の言うことを聞いてちょうだい。お願いだから」
 少年には彼女が言ったことの半分も理解できなかった。被験体として生まれた彼にとって、食べて、寝て、様々な実験を受けることが世界のすべてだったから。
 それでも、ひとつだけだが、分かったこともあった。
 その女性が自分に害をなすつもりはないということだ。
 少年は軽くうなずいた。自分自身の意志でそう決めたのか、今までどおり提示された状況に従っただけなのか、彼自身も判然としない。
 ただ、女性は嬉しそうに笑ってくれた。
「ここに来る前にね、この研究施設のメイン・コンピュータにアクセスして、時間がきたら警備システムがダウンするよう、ウイルスを忍ばせておいたの。今頃、みんなシステムを復帰させようと必死だわ。おかげで非常事態用の緊急ロックや防災シャッターが始動することはない。あなたがいなくなったことがバレても、研究所に閉じこめられる心配はないはずよ。でも、警備員だけは止めることができないわ。だから、なるべく早くここを出なきゃ。急ぎましょう」
 少年は無言で首肯した。
 ついていくと決めたら、少年の行動は早かった。さっきまでとは逆に、女性の手を取り積極的に先へ進もうとする。
「え? ちょ、ちょっと!」
 本来なら大の大人が子供に引きずられることなどない。しかし、高度なサイバネティクス技術により少年の四肢や左目、内臓の一部はすでにサイバー化されている。左目の機能はまだ限定的だったが、両腕、両足は人工筋肉のおかげで常人の数倍の筋力を有していた。
「きゃっ!」
 急に腕の先が重くなり、振り返ってみると、女性が廊下に倒れていた。
「急がないの?」
 少年は心底不思議だった。急がなければと言っておきながら、呑気に寝ている女性のことが。
「ごめんなさい。あなたみたいに速く走ることができないの」
 女性は右膝の辺りを気にしながら立ち上がった。
 そういうものかと納得した少年の目に、血のにじんだ膝頭が飛び込んできた。途端に胸の辺りがかすかに痛む。
「ちょっとすりむいたみたい」
 女性がいたずらっぽく舌を出す。
 言葉を紡がねばならない。でも、少年の口はぱくぱくと無意味に開閉するだけだ。
「大丈夫よ。これくらいの傷、なんてことないわ。いきましょう」
 ふたたび手を引こうとして、女性の眉がひそめられた。少年の様子がおかしい。
 のど元まで出かかったものを吐き出すことも、無理矢理飲み込むこともできずに、彼は苦悩していた。
「そういう時はね、ごめんなさいって言えばいいのよ」
 女性は優しく諭すように言った。
「ごめんなさい?」
「そうよ。私はあなたに速く走れないことを伝えてなかったわ。だから、あなたに悪いと思って、ごめんなさいって言ったの。あなたも同じでしょう? 私が怪我をしたから、あなたが怪我をさせたから、悪いと思っている」
 わからない。
「そういう時は、ごめんなさいって言うのよ」
 わからない。でも……
「ごめんなさい」
 口にしてみると、胸のつかえが取れたようにすっきりした。
「これからもっといろいろなことを教えてあげる。おはようとか、ありがとうとか、幸せになれる言葉をたくさん教えてあげるから」
 少年は急に目の前が明るくなったような気がした。それは錯覚に違いない。錯覚には違いないが、彼の中でなにかが違ってきている証拠でもあった。
「痛っ!」
 いつの間にか女性の手を強く握りすぎていたようだ。あわてて放す。
「ごめんなさい」
 二度目は唇から自然にまろび出た。
 女性は気にした風もなく、少年に笑顔を向けた。
「いいのよ。さぁ、本当に急がないと。見つかってしまうわ」
 もう一度、女性が手を差し出す。
 少年は少しためらったあと、力加減に注意しながら、ほっそりとしたその手をおずおずと握り返した。その瞬間、じんと温かみが伝わってくる気がした。



「もうすぐ出口よ。外に出たらエア・カーを用意しているわ。そこまで行けばもう大丈夫」
 女性はとぎれとぎれに言った。
 余裕たっぷりにうなずく少年に対して、女性の方は完全に息が上がってしまっている。
「昔から机にかじりついてばかりいた罰ね。少しは身体を鍛えておくんだったわ」
 苦しそうにウィンクする彼女に、
「誰も来ないよ」
 少年はどうしたらいいのか迷った挙げ句にそう告げた。本当は「休もう」と言いたかったのだが、他人を気遣ったことなどないので、また適切な言葉が出てこなかった。
 しかし、女性には正しく通じたのか、彼女は「ありがとう」と言った。
 少年の胸に今までにない衝動が去来した。もどかしい気持ちを顔いっぱいに表現する。
 とても困った顔をしていたのだろう。女性はふたたび膝を落として優しく微笑んだ。
「そんな顔をしないで。私はね、あなたが生きてさえいてくれれば……」
 そこでゆっくりとかぶりを振る。
「違うわね。あなたが幸せでいてさえくれれば、それでいいの。だからね、だから、私は必ずあなたを外の世界へ連れ出すの。必ずね」
 勢いよく立ち上がる白衣の背中が、少年にはとても大きく見えた。
 ふと、思いだしたように、女性が振り返る
「そうだ。外に出たら、番号じゃなくて、ちゃんとした名前を考えてあげるわね」
 彼女の笑顔はとてもまぶしかった。
 名前。自分の名前。
 少年はこれまでずっとNo.0(ナンバー・ゼロ)と数字で呼ばれてきた。そんな自分に名前ができる。考えたこともなかった。
 なにかとても熱いものが胸の奥から沸いてきて、叫び出したくなった。
 なにを?
 いま一番叫びたいものは?
 それは、名前。
 彼女の名前だ。
 自分に名前をくれるはずの彼女の名前。
 知らない。
 知らないなら聞かなければ。
 聞こう。
 聞いて叫ぼう。
「名前は――」
 少年が口を開いた次の瞬間――
 木霊したのは、乾いた炸裂音。
 しぶいたのは、赤い血潮。
 流れたのは、女性の苦鳴。
 廊下に沈み込む女性の身体を、なんとか支えようと少年が腕を伸ばす。
 両腕をサイバー化している彼にとって、彼女の体重は十分に抱えきれる重さだった。しかし、いかんせん体格が違いすぎた。上半身しか持ち上げることができない。
「あ、あ、あ、あぁ……」
 少年は意味のないうめきを漏らした。苦痛に歯を食いしばる女性の顔に、触れたくても触れる勇気がない。白衣の脇腹が徐々に不吉な赤色に染まっていく。
「まったく君はなんてことをしてくれるんだ」
 少年が視線を転じると、女性が所長と呼んでいた男が立っていた。
 その手には黒い筒状のものが握られている。講義で何度も見たことがあり、実験で何度か扱ったこともある。人を殺すための武器、銃だ。
「廃棄予定の実験体を外へ連れ出そうとするなど、正気の沙汰とは思えん。それがどれだけ危険なものか、知らんとは言わせんぞ」
 所長の横では、黒いプロテクターのようなものを身につけた警備員たちが二人、所長のものより砲身の長い銃を構えていた。銃口は少年に向けられている。
「危険……ですって?」
 女性が懸命に身を起こそうとする。
「そいつは……No.0はマインドコントロールが効かなかったのだぞ。そいつは命令に従わんのだ。いつ我々に危害を加えようとするか……」
「そんなことはしない!」
 力強く断言され、所長は少しだけひるんだ様子を見せたが、すぐに語気を強めて反撃に出た。
「なにを根拠にそんなことが言える!」
 女性の手の平が少年の頬をそっと撫でた。血のぬめりは温かかったが、指先はすでに冷たかった。
 ぬくもりが流れ出している。そう感じた少年はあわてて女性の手をとった。
「だって、この子は優しいから……私たちを傷つけたりしない」
「優しいだと? 人工生命に、優しさだの愛だのという高尚な感情はない! 腕も脚も内臓も、サイバー化された機械だ! 所詮そいつは人間ではないのだ!」
「人間じゃないですって? あなただって……あなただって、この子の父親でしょうに!」
「父親だと? 精子を提供したから父親だと言うのか? だったら、卵子を提供したおまえは母親だとでも言いたいのか? 出産したわけでもないのに、いまさら母性愛か。くだらん! おまえがそいつらになにをしてきたか忘れたわけでもあるまい!」
 断固たる態度ですべてを否定する父に、母はそれ以上反論することもできずに涙を落とした。
 少年は二人の会話を聞いているようで聞いていなかった。おそらく脳には記憶されているのだろうが、それよりもなによりも女性のことが気がかりでたまらなかった。
 このままでは彼女は消えてしまう。その事実だけが、ぐるぐると少年の内側を駆けめぐる。
 そして、これまでと同じように、少年は呼びかけることさえできない。強く噛みしめられた唇は固く閉じられている。
「ごめんなさい」
 やっぱり語りかけるのは女性の方だ。
「ごめんなさい。あなたを外へ連れ出してあげられなくて……ごめんなさい」
 ごめんなさいは、こんな時に使う言葉ではない。自分は彼女に何かされたわけではないのだ。そうではない。
「お願いだから、あなただけでも逃げて……」
 女性の喉から血がほとばしった。
 少年は切実に願った。誰か教えて欲しい。自分はなんと呼びかければいいのか。自分には名前がなく、彼女の名前は聞いていない。なんと呼びかければ?
「……私をおいていきなさい」
 涙と血でずぶ濡れになった顔で、女性が微笑んだ。
 ぽたり。少年の瞳から涙がこぼれた。
 機械になってしまった左目はただ小刻みに揺れるだけ。しかし、人間の瞳である右目からは涙があふれていた。
 少年はごく自然に女性の上半身を抱きしめていた。泣きながら抱きしめている。
 しかし、あのときの映像と同じようで、やはり今度も違う。
 女性には抱き返す力が残っていない。泣く力も、叫ぶ力も。抱きしめて、泣いているのは少年だけだ。
 女性と男の子が抱き合う、あのときの映像。きっとあの二人も、自分とこの女性のような関係だったに違いない。
 そう思ったとき、少年は男の子が叫んでいた言葉を思い出した。何度も胸の内で繰り返したものだ。
 嗚咽を飲み込み、女性に向かって呼びかける。
「……お…か、さん」
 閉じかけていた女性の目が大きく見開かれた。
「おかあさん」
 女性の表情が生気に満ちた。
 ほんの一瞬。
 あとはゆるゆると昏く落ちていくだけ。
 少年は最期までそれを見守った。
「死んだか。バカな女だ」
 無感情に所長が漏らす。
「実験中の事故だ。暴走した実験体に殺されたことにする。いいな?」
 両側の警備員たちは無言で首肯した。
「犯人はもちろんNo.0だ。そして、暴走した実験体もこれから射殺される」
 金属が擦れあう音がして、銃の安全装置がはずされる。少年に照準が合わされた。
 少年は、無反応だ。焦点の合わない目で、ぼんやりと彼女の抜け殻を見ている。
 その外見とは裏腹に、彼の内面ではあらゆる負の感情が渦を巻いていた。
 悲しみ、怒り、後悔、恨み、恐怖……そして、殺意。すべてが収束し、拡散し、圧縮され、破裂し、乾ききり、あふれ出し、凪いだかと思うと、また荒れ狂う。心が、身体が、内側から張り裂けそうだ。
 少年は顔を上げた。右の目はまだ潤んでいたが、左の目はすでに敵を捕捉していた。機械の義眼が、正確に相手の情報を読みとっていく。
 目標までの距離、身体の向きや角度から算出される最短のルートと、それに要する時間。目標の反射速度と正確性の予測、銃口の向きから着弾点と、武器から放たれる弾丸のスピードから着弾までの時間。あらゆる情報が脳内に流れ込む。
 実行可能の判断が下されるのと、少年の人工筋肉がフル稼働するのとはほぼ同時だった。
 なんの迷いもなく。束の間の逡巡もなく。
 少年は深紅に染まるべく動き出す。
 所長も、警備員たちも、No.0の破壊される様を想像し、薄ら笑いを浮かべたまま、意識を途絶えさせた。



 灰色の空がいまにも覆い被さってきそうだ。
 そんなことを考えていたら、本当に雨が降ってきた。
 にわかに周囲が騒がしくなる。いくら宿無しが多いとはいえ、みんな雨に打たれたいわけではない。建物の軒先に隠れたり、ぼろぼろのコートを頭からかぶったり、雨粒を避けるために動き出す。
 かつてNo.0と呼ばれていた少年は、壁に背をもたせかけ、地面に腰をおろし、両足を投げ出したまま、動かなかった。
 耐水加工が施してあるとはいえ、液体はサイバネティック・ボディにあまり良くない影響を与える。特にスラム街では雨水の酸性度が高い。
 それでも少年は動かなかった。
 研究施設を抜け出してから、もう幾日が過ぎただろう。
 女性の――母親の願いを聞き届け、外の世界に出てきたものの、そこには彼女の言っていた楽しいことなどひとつもありはしなかった。
 少年を蝕む飢えと孤独があるだけ。
 自分はこのまま独りで死ぬのだろうか。たとえ死んだとしても、ここでは誰も気に留めやしないだろう。このまま雨に打たれて消えてしまうのもいいかもしれない。
 虚無感に押しつぶされそうになったとき、不意に雨がやんだ。
 いや、違う。なにかが雨を遮ったのだ。
「おい、少年。こんなところで雨に打たれてっと風邪引くぜ」
 体格のいい男が、人懐っこい笑みで立っていた。彼は古風にも傘を差している。
「ん? これか? アンチ・バリアとかなんとかで雨を防ぐとか、なんかバカらしい気がしねぇか? 雨なんて傘で十分だろ」
 聞きもしないのに勝手にしゃべっている。
「おまえ、もしかして口がきけねぇのか?」
 少年は大きく首を振った。
「だったらなんでしゃべらねぇんだ? って、そうか! 自己紹介がまだだったな。おまえ、名前は?」
 ふつうは自分から名乗るものなのだろうが、男には関係ないようだ。
 少年はこんなところで名前を聞かれるとは思いもよらなかった。
 名前をくれると言った女性はもういない。自分は独りきりだ。だったら、自分に名前をつけるのは自分しかいないだろう。
「僕は、No.0……ゼロ、いいや、レイ……」
「ふぅん。レイか、良い名前だな。まぁ、とにかくついて来いよ。少なくとも雨風はしのげるぜ」
 そう言うと、男は少年に手を差し伸べた。
 軽いデジャヴュ。体型も雰囲気も、ましてや性別すら違う。それでも男の姿が白衣の女性と重なった。
 人間の瞳が熱を持ちはじめ、機械の瞳は冷たく冴える。
「外の世界にはとても楽しいことがたくさんあるって、おかあさんが言ったんだ」
「なんだよ、その泣きそうなツラは? そうだなぁ、外の世界ってのはよくわからんが、ここじゃ楽しいことも辛いことも半々ってとこだな」
「半分ずつ?」
「ああ、そんなとこじゃねぇのか。おまえ、今まで楽しいことなかったのか?」
 少年は女性と過ごした時間を思い浮かべて「少しだけ」と答えた。
「つーことは、これまで辛いことがたくさんあったってことだろ。だったら、おかあさんは嘘なんてついてねぇな」
 少年が首をかしげる。
「半分ずつなんだから、これからは楽しいことがたくさんあるってことだろ?」
 男がにやりと笑う。
 これから本当に楽しいことがあるんだろうか。おかあさんが言ったように、自分は幸せになれるんだろうか。
 わからない。
 わからない。でも……
 少年は力加減に注意しながらおずおずと男の手を握り返した。
 ごつごつした手のひらの感触は、あの女性とはまったく違っていたが、じんと温かみが伝わってくるところは同じだった。

クリエイターコメントこのたびはオファーありがとうございます。

女性の名前が明記されておりませんでしたので、このような展開にしてみましたが、いかがでしたでしょうか?
人の死に様を描くのは難しく、少しでも依頼主様のご期待に添えるものに仕上がっていれば幸いです。

ちなみに、最後に出てくる男性が書いてて一番お気に入りだったりしました。←え?!(^^;

また機会がありましたらよろしくお願いします。
公開日時2007-10-21(日) 22:40
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