★ 戦跡の死神 ★
クリエイター西向く侍(wref9746)
管理番号252-1041 オファー日2007-10-21(日) 23:18
オファーPC ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
<ノベル>

 これはね、遠い遠い昔のお噺さ。
 彼が迷いながら彷徨い歩き、乾きを満たすことしかできなかった頃のお噺。
 その頃、彼は戦場において死神と呼ばれていたんだ。

―――――――

 焚き火のはぜる音と男たちの喧噪とが混じり合い、漆黒の天空へと吸い込まれていく。
 ごうごうと燃えさかる火は、戦士たちの赤ら顔をますます明からめ、と同時に皮膚がぴりぴりと痛むほどの熱を与えていた。
 ともすれば、心の奥底から冷え切ってしまいそうな日々を、酒と炎とで温める。戦いが終わるまで、彼らにとってはそれこそが唯一、至福と呼べるものだ。
 手には剣、胸には鎧、心は故郷に――とはよく言ったもので、まさに我が身ひとつと武具のみを供にして、男たちは戦場(いくさば)へと赴く。
 そこに待ちかまえているのは栄光か死か、そのどちらかしかない。それでも、男たちは死臭漂う檻の中へと進んで足を踏み入れる。
 死は日常とともにあるが、栄光は日常とは別の場所にしか存在しえない。
 ――闇が常につきまといしものなら、座して待つは愚かなり。
 ――光がそこにあるならば、たとえその身が焼かれしとも、手を伸ばさぬは勇無きなり。
 暗澹たる闇の中で一条の光明を見つけた時、それにすがらざるをえないのが人というものだ。
 ティトゥスもまた、光を求めて旅立った若者の一人だった。
 故郷の安穏とした生活を捨て、遠く異郷の地まで我が道を、文字通り斬り開いてきた。
 なけなしの金をはたいて買った鎧は、すでにあちこち破損している。特に左の籠手は酷いもので、大きく斜めに裂け目が走り、かろうじて二つにならずに済んでいるといった感じだ。
 木をくり抜いただけの粗末なカップを手に、しげしげと左腕を見つめていると、横合いから声をかけてくる者がいた。
「グラディウス(剣)をスクトゥム(楯)無しで受け止めた馬鹿がいるって聞いたんだが、まさかおまえだったとはな」
 ティトゥスと同じ木製のカップを手に、千鳥足で歩み寄ってくる。すっかり酔っぱらいの風情だが、目元だけは確かだ。常に油断なく周囲を警戒する様から、『鷹』の異名を持つ男だった。
「馬鹿は酷いな、アッピウス」
 ティトゥスが苦笑混じりに答えると、アッピウスは彼の隣にどっかりと腰を下ろした。
「いったいおまえは故郷でどんな剣術を習得してきたんだ?」
 友人の抗議など無かったことにして、さらに皮肉をこめる。
「貴族の君とは違って、まったくの我流さ」
 目には目を歯には歯を。皮肉に対して皮肉で返すティトゥスに、アッピウスは肩をすくめた。
「いつも言ってるだろう? 俺は貴族なんかじゃ――」
「貴族なんかじゃない、だろう? でも、俺たちから見れば君は十分に貴族さ」
 お決まりの台詞をティトゥスにとられ、アッピウスが渋面をつくる。
「ふん。顔も見たことがない『お父上』とやらから、多少の仕送りがくるだけさ。どこの馬の骨ともわからん貴族の坊ちゃんに、いいように遊ばれただけのくせに。お袋はいつも、貴族の誇りを持てなん言いやがる。胸くその悪い話だ」
 そう吐き捨てると、アッピウスは一気に酒杯を空にした。
「父親ともそのうち会えるさ」
 夜空の遠くを見つめながら呟くティトゥスに、
「会いたくもないね」
 そう言い切ってから慌てて口をつぐんだ。
「気にしなくていい」
 ティトゥスが苦笑すると「すまねぇ」とアッピウスは気まずそうに目をそらした。
 ティトゥスには父親がいない。彼が幼い頃に戦死したという話だ。
 故郷を離れる際には、村人の大半が「父親と同じ死に方を選ぶのか」と彼の出征に反対した。もちろん彼自身、母親を独り残していくことに罪悪感はあった。ただ、その母親が「あの人の息子ですものね」と特に反意を示さなかったのだから、彼としては複雑な気持ちになる。
 結局は自らの栄達の夢を優先させたわけだが。
 アッピウスが盛大なげっぷのあとに、舌打ちした。
「不味い酒だ」
「俺たち傭兵団には、水で薄めた葡萄酒が関の山さ」
 ティトゥスもちびりとカップに口をつけ、不味そうに鼻の頭にしわを寄せた。
「ところで、なにか面白い話はないのか?」
 アッピウスはその出自を一応考慮され、傭兵団の中でもある程度上の地位にいる。時に、一兵卒であるティトゥスには知り得ない情報をもたらしてくれる。
「我らが偉大なスティリコ将軍は、西の蛮族どもを追いかけるつもりでいらっしゃるようだ」
 慇懃な言葉遣いではあるが、口調から、彼が将軍を敬っているのではなく責め立てていることがわかる。
 総大将を名指しで非難することは当然ながら重罪だ。しかし、ティトゥスにもアッピウスの気持ちがわかるので、糾弾などしない。
 敵を包囲殲滅する予定で、わざわざ海路でペロポネソスに上陸し、その結果として先日の負け戦だ。ローマ軍の包囲網を破った蛮族たちの大部分は、すでに遠くへと逃げおおせているだろう。今更、追撃しても機を逸しているように思われる。
「帰りたいのか?」
 ティトゥスが尋ねると、アッピウスはさも当然そうに言い放った。
「もう負け戦だってわかってるんだぜ。そんなところで活躍しても恩賞はもらえまい。ましてや、落命などしようものなら馬鹿馬鹿しくて死にきれん」
「まったくだ」
 ティトゥスが笑うと、アッピウスも歯をむき出しにして笑った。
 そうは言っても、しょせん彼らは傭兵だ。決定権があるわけでも、進言する権利があるわけでもない。将軍がそう望むのなら、明日にはいくつかの部隊が敵に追いすがり、数日の後には不毛な追撃戦が始まるだろう。
 ティトゥスが物思いにふけっていると、アッピウスが空のカップを掌で玩びながら何気ない調子で切り出した。
「そんなことより、聞いたか?」
 ティトゥスが眉をひそめる。それだけでは何の話だか見当もつかない。ただ、アッピウスの頬がやや引きつっているのが気になった。
「『戦跡の死神』の話だ」
 まるで誰かに聞かれてはまずい話題であるかのように、アッピウスは声をひそめた。
 真剣そのものの眼差しに、思わず吹き出してしまう。
「お、おい。笑い事じゃないんだぞ」
「これが笑い事じゃなくて何なんだ? あの『鷹』の異名を持つアッピウス殿が子供の御伽噺で青くなっているなんて」
 「早く寝ないと、戦場から死神がやってくるよ」とは、夜眠らない子供たちにローマの親たちが使う常套句のひとつだ。
 『戦跡の死神』は、青白い顔をした長身痩躯の男の姿で、戦が終わり冷え切ってしまった戦跡に現れ、死に切れない敗残兵たちの命を吸い取ってしまうのだという。こういった伝説や作り話の類は、死と隣り合わせである戦場には付き物だ。
 ティトゥスはそれを死への恐怖が生み出した幻想だと信じている。
「笑い事じゃないって言ってるだろうが。こないだの戦で見た奴がいるんだよ」
「幻さ」
「幻なんかじゃない。戦の途中で味方とはぐれちまったセクトゥスが、夜の森を彷徨っていたんだと。そしたら、突然霧が深くなって、青白い影が浮かんで……」
「それが『戦跡の死神』だと?」
 アッピウスは神妙にうなずいた。
「『ほら吹き』セクトゥスのことだ。どうせまた、ほら話さ。味方とはぐれたってのも嘘だろ。あいつのことだ。本当は死ぬのが怖くて戦場から逃げ出したにちがいない」
「そ、そりゃあ、味方とはぐれたってのは嘘かもしれんが」
「セクトゥスは、そんな腰抜けだぞ。幻でも何でも、お望みのモノを見れるさ」
 アッピウスは、ティトゥスがあまりにつれない態度なので、それ以上死神の話をするのをあきらめたらしい。ぶつぶつと文句を垂れながら、二杯目を注ぎにその場を離れていった。
「『戦跡の死神』か……」
 自分がその人物、いや、化け物に出会ったらどうするだろうか。
 ティトゥスは、そんな詮ないことを考えてみた。
 彼はまだ死ねない。故郷に独り暮らしている母親のためにも、なによりまだ栄達の夢を成し遂げていない自分のためにも、死ぬことはできなかった。死神だろうが、化け物だろうが、たったひとつの命をくれてやるわけにはいかない――
 夜はしんしんと更けていく。
 ほとんどの兵士たちが明日また死地へ赴かねばらないことも知らずに、アルコールと馬鹿騒ぎを心ゆくまで味わっていた。

―――――――

 信じられないモノはすべて幻だと思う。
 それが人というモノだけれど。
 若者は出会ってしまったんだ。
 死神と呼ばれる彼に。

―――――――

 ティトゥスは自分の馬鹿さ加減にほとほと嫌気が差していた。
 ずくずくと痛む脇腹の刺し傷はロリカ(鎧)の間隙にあり、自分でもよく見えない。出血が多いのはぬめった感触でわかる。
 左腕は肉が裂け骨が見えている。グラディウスの一撃を二度も受け止めた籠手は、防具としてまったく役に立たなかった。
 もちろん彼自身、意図的に受け止めたわけではない。二度も奇跡が起こると信じるほど彼は愚か者ではなかった。そうできない事情があったのだ。
「おーい、アッピウス。まだ生きてるか?」
 力の限り声を張り上げてみたが、最後の方は喉を駆け上がってきた血流に阻まれ、意味のある音にならない。
「なん……とか、な」
 返事はかなり遅れてかえってきたが、それでも無いよりはましだ。
 なんとか視線をずらし、闇を見透かすと、遠くで地面に横たわった人影がかすかに手を振るのが見えた。
 まさか包囲網を突破した敵が、逃げるのではなくわざわざ追撃を待ち伏せしているとは誰も思わなかった。蛮族を率いるアラリックという名の王が並々でないことはわかっていたはずなのに、スティリコ将軍をはじめローマの将校たちが誰一人として予測できない事態だった。
 何の準備も心構えもなかったティトゥスたちローマ兵は、最初の一撃で大損害を被った。
 そのような状況下で、ティトゥスが命を失わずに済んだのは『鷹』のおかげだ。アッピウスが周囲を警戒してくれていたおかげで、敵襲にも素早く対応することができたのだ。
 それでも、敵の斬撃を、スクトゥムも持たない腕で受け止める余裕しかなかったのだが。
 今、ティトゥスは大樹に背をもたせかけ、磨り減っていく命を少しでも長続きさせようと、体力を温存している。日が暮れる前は、助けを求めて叫んでいたのだが、どうやら味方はまたもや敗走してしまったらしい。誰も助けには来なかった。
 明日の朝だ。明日の朝まで持ちこたえれば、味方がやってくる可能性がある。また、人が通りかかることもあるだろう。
 彼はまだ死ぬわけにはいかない。なんとしてでも朝日が昇るまで生きながらえるつもりだった。
 自分はまだ生きる。自分でももう何度目かわからない誓いを深く心に刻んだとき、霧が深くなり、視界の隅に青白い光がともった。
 一瞬、人が来たのだと思い、声をかけようとして、無理やりそれを飲み込む。
 黒い世界に薄ぼんやりと発光しているのは、松明の光などではなかった。
 光ではなく、色だ。
 漆黒に蒼白が浮かんでいるため、光っているように見えるだけ。
 蒼白い顔が冴え冴えと月光を照り返しているだけ。
 それが、ゆらゆらとティトゥスに向かって近づいてくる。
 ――『戦跡の死神』――
 その名と共に、真っ先に彼の胸をよぎったのは、やはり恐怖だった。
 あれほどアッピウスのことを笑いものにしていたのに、身がすくみ、魂まで凍りついてしまう。
 距離が縮まるにつれて、ぼんやりしていた輪郭がはっきりしてきた。
 驚いたことに死神は一般的な貴族の服装をしていた。死神というからには、それこそ御伽噺に出てくるような格好をしていると思っていた。真っ黒なマントなどどこにもなく、灰白色の髪があるかなしかの風に揺れている。
 不意に死神の身体が沈んだ。
 地面に片膝をついたと気づいた時にはすでに、流れるような所作で両手を広げている。儀式めいた荘厳な動きだ。
 金色の双眸が見下ろす先で、何かがもぞりと動いた。
 死神の動きに目を奪われて気づくのが遅れたが、そこに倒れているのはアッピウスではなかったか。
 ティトゥスにかかっていた呪縛が吹っ切れた。
「アッピウス!」
 むせながら叫ぶ。
 ふと死神がこちらを向いた。
 蠱惑的な瞳が爛々と輝いている。
 唇に人差し指を添える。静かにしていろという意味だろう。
 だが、黙っているわけにはいかない。アッピウスは戦友であり、親友だ。
「アッピウス! 逃げろ!」
 死神はティトゥスを無視することに決めたようだ。再び視線をアッピウスに戻し、彼の額に掌を置いた。
「汝、安らかなる死を望むか?」
 どこまでも静かな湖面を思わせる声色だ。声量はたいして大きくないくせに、ティトゥスのところまでしっかり届いてくる。
「そんな奴の言うことなど聞くな!」
「君は黙っていたまえ。これは彼の問題だ」
 死神の凛とした制止に、ティトゥスの口は持ち主の言うことを聞かなくなってしまった。
「汝、安らかなる死を望むか?」
 あらためて問う。
 静寂は一瞬のようにも永遠のようにも思われた。
 ティトゥスにはアッピウスの頭がわずかに上下するのが見えた。表情は暗くてまったく見えない。
 死神の身体がさらに沈んだ。アッピウスの胸元あたりに顔を埋める。
 具体的に何をしているのかはわからないが、命を吸い取っているということはわかる。それが御伽噺に謡われる『戦跡の死神』というものだ。
 次に顔を上げたとき、死神の青い唇の端に、血の赤が映えていた。
 今度は自分の番だ。友を奪われ心に燃えさかっていた怒りの炎が、急速にしぼんでいくのをティトゥスは感じた。
 足音もなく歩み寄る死神は、長い舌で血糊を舐め取っている。
 艶めかしくも妖しい表情に、意識せず目を奪われてしまう。
 気が付けば、死神の姿が目前に迫っていた。
 透き通るほど白い肌以外、見た目は普通の人間だ。年の頃はティトゥスの父親くらいだろうか。貴族の衣服を着用しているというのもあるが、どことなく高貴な印象の面差しだった。
「おまえは、『戦跡の死神』か?」
 ティトゥスが訊ねると、案外あっさりと死神は答えを返した。
「私のことをそう呼ぶ者たちもいるようだが、違う。人ではないモノではあるが、一般的に言われる死神という存在ではないよ」
 だったら何者なのか。そう続けようとしたが、無駄だと思いやめた。
 人ではないと言っているのだ。聞いたとしても、人である自分に理解できるはずがない。
 今度は死神――男の方が問いかけてきた。
「友の命を奪われて怒っているのだね」
 てっきりアッピウスにしたのと同じ質問をされると思っていたので、意外だった。
「当たり前だ」
 油断すれば緩んでしまいそうな表情を、必死に引き締める。ティトゥスは、男に魅了されつつある自分を感じた。
「しかし、彼は彼の意志で安らかなる死を望んだのだよ。それにもうあの傷では到底助かりはしなかった」
「アッピウスを救ってやったとでも言いたいのか! 詭弁だ。どうせ魔の力を使って彼の心を操ったのだろう」
「確かに多少影響を与えてはいる。だが、意志を縛ったりはしていないよ。ただ無益に抵抗してもらいたくないだけだ。その証拠に君は自由にしゃべれているだろう?」
 反論の余地のない論法に、ティトゥスは押し黙るしかない。しかしここで沈黙すれば、アッピウスの死に関しても相手の主張を認めてしまうことになる。
「死神でないと言ったが、まるで神気取りだな。人など虫けらと同じか」
 苦し紛れに悪口雑言を持ち出す。
「それは違う」
 きっぱりと断言され、ティトゥスの方が驚いた。先ほどよりも、少しだけ表情に刺々しさが宿ったように見えるのは、彼の気のせいか。
「私としたことが、おしゃべりが過ぎたようだ」
 今度は自嘲がかいま見える。
 なんとも人間くさい反応に、ティトゥスは戸惑うばかりだ。
 すっと男の手が、ティトゥスの頬に伸びた。触れる感触は冷たく、頬から背筋へ、快感にも似た悪寒が走る。
 やはりこの男は人ではない。
「君にも問おう。汝、安らかなる死を望むか?」
 ティトゥスの意識が薄らぐ。
 慌ててかぶりを振り、男を睨みつけた。
「俺は生きる」
 心に誓ったままに、ただ一言を力強く告げる。
「化け物は去れ!」
 ありったけの体力と気力を振り絞り、右手にあったグラディウスを振り抜いた。
 ところが、男の頭蓋を砕くはずのそれは、力無く失速すると、肩口にぽとりと落ちた。もはやそれがティトゥスのすべてだった。
 殺される。茫洋たる意識の表層で、漠然と思う。
 どこか遠くで男の声が聞こえた。
「そうか、君はまだ生きるのだね」
 次の瞬間、ティトゥスの中で何もかもが途切れた。視界も、音も、匂いも、何もかもが。
 もしかしたら見間違いかもしれない。
 最後にティトゥスの網膜に焼き付いたのは、『戦跡の死神』の思いのほか優しい笑みだった。


 ティトゥスが次に目覚めたのは、戦場近くの街だった。
 温かなベッドは宿屋のもので、傷の手当ては町医者の手によるものだった。
 宿の者に聞けば、亡霊のような男が「連れを手当てして欲しい」と言い、金を置いて去ったという。
 彼は記憶をたぐり、昨夜の出来事に意味を見いだそうとしたが、すぐにやめた。
 生き延びることができた。ただそれだけで良かった。

―――――――

 時は流れる。
 人と不死者との流れ方は違うけど。
 それでも時は流れるんだ。
 そして、二人はまた戦場で出会った。

―――――――

 死屍累々たる大地に、細くなっていく息を感じながら仰臥している。
 真夜中を過ぎた頃から徐々に気温が下がっていったが、凍えることはなかった。外気がいくら冷たかろうと、体温と同じであれば寒さを感じるはずもない。
 夜明けまで保つだろうか。
 自問ではなく、自明だった。戦場を渡り歩いて二十数年、どれほど多くの死を目撃してきたのか、数えるのも愚かしい。
 経験が告げていた。自分はもう助からないと。
 星々の瞬きがぼんやりと翳っていく。薄雲が流れていく様は、まるで流れ出していく血潮のようだ。ならば、覆い隠されていく星の光は、彼の命だろう。
 よくぞこれまで戦ってこれたと思う。
 何度も死線をくぐり抜け、しかし、得たものは多くない。むしろ失ったものの方が多いかもしれなかった。
「久しぶりだね」
 唐突に投げかけられた言葉に、ティトゥスは驚かなかった。
 彼には声の主がわかっていたからだ。思い出したというよりは、忘れたことがなかったといった方が正しいだろう。
「いつかの化け物か……俺のことを覚えているのか?」
 夜空を向いたまま答える。もはや首を動かすだけの力もない。
 気配は確かにティトゥスの隣にあった。
「君のように生を選ぶ人間は少ないのだよ」
「なるほどね。それで、今度こそ俺を殺しに来たのか?」
「それは君が決めることだ」
 男が傍らに片膝をついた。
 のぞき込んでくる顔は、二十年前とまったく変わらない。灰白色の髪が月光を受けて銀色に波立ち、金色の瞳が微かな憂いを帯びて揺らめく。白皙の肌に深紅の唇が艶やかに色めいている。
 すっかり老け込んでしまったティトゥスとは大違いだ。
「私を恐れてはいないようだね」
「俺もあの時ほど若くはないのでね。いろいろと見てきたからな」
 確かにティトゥスの心は落ち着いている。男の「意志を縛ったりはしていない」という言は本当だったのだろう。恐怖を和らげ、正しい選択ができるように、男は魔の力を行使していたのだ。だから、恐怖心がない今のティトゥスには以前のような奇妙な違和感はない。
「あのとき君は生きることを選んだ。だから私は君を街まで運んだ」
「感謝しろ、とでも言いたいのか」
 男がゆっくりと首を振った。
「違う。その甲斐があったのか、少しだけ興味があるのだよ」
「化け物でも、迷いがあるのか」
 ティトゥスがにやりと笑うと、男は皮肉めいた笑みで応じた。
「そうだな……俺は立身出世を夢見て、蛮族どもとの戦に出た。二十数年経った今、俺は一介の傭兵でしかない。『楯無し』というある意味不名誉な異名は付いたがな」
 楯を使わずに二度も刃を受け止めたティトゥスの左腕には大きな傷跡が残っていた。
「俺が、おまえに生かされて感謝しているか、知りたいか?」
 男は答えない。眼差しは真摯さをたたえているように見えた。
 ティトゥスは目を閉じ、これまでの人生を思い返してから、言った。
「俺にもわからん……ただ、もう疲れたことだけは、はっきりしている」
 ティトゥスの返事に男が落胆したかどうかはわからない。彼はすでに瞼を開く体力すら失いつつあった。
 男はティトゥスの額に手を置いた。懐かしい感覚が彼の脳髄を焼く。
「汝、安らかなる死を望むか?」
 ティトゥスはわずかに首肯した。
 男が傭兵の首筋に唇を寄せる。
 冷たい身体に冷たい口づけが重なり……
 ティトゥスはふっと身体が軽くなった気がした。
 誰かが彼を抱きかかえている。逞しい腕だ。
 見上げると見知らぬ男の顔があった。
 いや、知っている。
 はっきりとした記憶はなかったが、なぜか確信が持てた。
 ティトゥスを抱いていたのは、幼い頃に戦死したという父親だった。
 温かい。
 とても温かい世界の中で、ティトゥスの命はその終わりを迎えた。
 安らかなる死だった。

―――――――

 彼はまた戦場を彷徨い歩く。
 自らの命を永らえるため。
 これはまだ、彼がブラックウッドと名乗る以前のお噺。
 遠い遠い昔のお噺。

クリエイターコメントまずは完成が遅れましたことをお詫び申し上げます。

永遠なる不死者の長久なる伝説の一端を担えたことを嬉しく思います。
なるべく史実に近づけようと思ったのですが……結果、虚実取り混ぜた内容となってしまいました。

なにかお気づきの点があれば遠慮無くおっしゃってください。
公開日時2007-11-09(金) 19:40
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