★ 天使が凍えた日 ★
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
管理番号156-1661 オファー日2008-01-18(金) 23:02
オファーPC フェイファー(cvfh3567) ムービースター 男 28歳 天使
<ノベル>

 天使は歌っていた。
 哀しいくらいに透き通った完璧なまでの蒼の世界で、千億の歌を捧げ続けていた。
 百年を超える孤独の中で、ただ追憶に身を任せながら、嘆きと祈りの歌をつむぎ続ける。






 窓枠によって切り取られた空は、薄氷色のガラス板のように澄んでいる。
 彼女は窓を押し開け、身を乗り出し、シンと冷え切った空気に肌を晒しながら耳を澄ませる。
 すべてがゆっくりと凍りついていく灰色の季節。けれど同時に、華やいだイルミネーションに飾られる季節。
 冷気は肌を貫き、心臓や肺にまで小さな棘のようになって突き刺さってくる。
 それでもせめて新鮮な空気に触れて12時を告げる鐘の音を聞こうとした彼女は、そこで見知らぬ旋律を拾いあげた。
 はじめ、ソレが何か分からなかった。
 ついで、ソレは誰かが紡ぐ〈歌〉なのだということに気付く。
 凍りついた街のいずこからともなく、大聖堂の鐘の音にあわせ、誰かの歌う声が聞こえてきているのだ。
 石を積み上げた家々はどれも、石と同じだけの年月を積み上げている。その合間を縫って流れる透明な歌声に魅せられた。
「……誰、かしら……」
 白と蒼と灰色で作り上げられた世界に目を凝らす。
 屋根の上に、ヒトがいる。
 鐘の鳴る広い街の、どこまでも続くガラス色の空の中で、ポツリと彼だけが違う色をまとって立っている。
「誰……」
 届くはずのない問いを、ただまっすぐに呟き、落とす。



 〈天使〉は地上に降り立ち、それでもなお、ヒトにはなかなか辿り着くことの適わない高みから人々を見下ろす。
 混沌として、秩序はなく、雑音ばかりが広がっていく世界。
 それでも愛おしい世界。
 フェイファーはゆるりと視線をめぐらせた。
「愚民どもはあいもかわらずだな」
 薄氷色の空を映した冬色の窓ガラス。
 石とコンクリートと鉄を切り取る四角い枠の中にはめ込まれた景色はどれも、空の色より強い光は放てない。
 せわしなく行きかう人々の頭上で、天使は旋律を奏でる。
 だが。
 視線が止まった。
 いや、引きつけられたというべきだろうか。
 彼女がいた。
 天上から注がれる光に焦がれるように、窓から身を乗り出し、両手を掲げた彼女の姿に、息が止まりそうな感覚に陥った。
 胸を撃ち抜かれたような、衝撃。
『だれ』
 彼女は自分を見た。
 まっすぐに、自分を捕らえていた。
『だれなの?』
 見えるはずのないこの姿をその瞳に映し、彼へと問いを重ねている。
 普通ならば届くはずのない声で、繰り返し繰り返し、不思議そうに問いかけてくる。
 フェイファーは引き結んでいた唇を笑みのカタチにゆるめ、そして、彼女の視界から消えた。
 そして。
「何をしてんだ、そんな場所で」
「え」
 一瞬、大きく目を見開いて。
「よく俺を見つけられたな」
「……空に、溶けてなかったから……」
 惚けたようにフェイファーを見上げながら、どこかずれた答えを返す。
「まるで前に読んだ煙突掃除屋さんみたいだなって、そう思ったら目を離せなくなったの」
 カーディガンの合わせをそっと握って小さく笑う、そんな彼女自身の肌はあまりにも透き通りすぎて、まるで白いベッドの中に融けてしまいそうだった。
 石膏は融けない、だが雪なら融ける。
 彼女の白さは、後者の儚さを持っていた。
「この俺を捕まえて、煙突掃除屋とはずいぶんだな」
 わざと大きく溜息をつけば、彼女はクスクスと楽しげに笑いながら、ソレでもちょっとだけ申し訳なさそうに謝ってくる。
「ごめんなさい。でも、あんな高い所に立っているのがとてもとても不思議だったから」
 どうしてそんな所にいたの。
 彼女の問いは、シンプルで。
「街を眺めてたんだ」
 フェイファーの答えもまた、シンプルだった。
「ああ、でもいまはお前を眺めている」
「え」
 覗きこめば、彼女の時間すらもまるで記録映画のようにフェイファーの中で再構築される。
 笑っている彼女。
 泣いている彼女。
 戸惑っている彼女。
 そして。
 胸を掻き掴み、苦しんでいる彼女。
 突然襲ってくる痛みへの恐怖、不安、怯えが、彼女の中から日々の安寧を少しずつ奪い、蝕んでいる。
「……怖いのか?」
「え」
「なんでもない」
 なにか問いたげな彼女の瞳から視線を外し、そうして不意に、栗色のやわらかく波打つ髪に触れてみたいと思ってしまった。
 思った時にはすでに、彼女の髪へと手を伸ばしていた。口付けるように、そのひと房を指ですくい上げてすらいた。
「キレイな色だな。花の匂いがする」
「え、あ……っ」
 息も心臓も止まりそうなほど白い肌が一瞬で耳まで赤く染まるのを、フェイファーは初めて見た。
 新鮮な表情が、目に焼きつく。胸に刻まれる。ソレは見知らぬ感覚だった。
「また会いに来てやるよ」
 天使は約束を違えない。だからこれは誓いのようなもの。



「同じだろ、全部。好きなヤツを見つけて、好きなヤツと好きあって、一緒に時間を繋いでいく。そうやって人間は生きているんだ」
 どの流れからそんな話になったのか。
 フェイファーは気だるげに彼女の部屋の窓枠に腰掛け、街を眺めながらそんな台詞を口にしていた。
 そして、彼女を振り返る。
「で、お前に気になるヤツはいないのか?」
 すぐ傍で椅子に座っていた彼女は、小さな花束を手の中でもてあそびながら視線を落とす。
「……いるけど、教えないわ。ちゃんと伝えられる自信がないもの」
 ふわりと浮かべた笑みは、どこか楽しそうで。
「ねえ、それよりもあなたの話を聞かせて?」
 はぐらかすように、別の話題を差し出してきた。
「俺にねだってるのか? そうだな、ほんの少しなら時間を取ってやってもいいが」
「ほんと?」
 嬉しい、と彼女は笑う。心の底から、はじけるように、こぼれるように、笑顔を向ける。
 花が咲くようだと、思う。
 けれど、花の命の短さを、天使はいやというほど理解していた。花が持つ美しさは、散るからこその、燃えるような一瞬のきらめきが見せる生命の光だ。
 胸がチクリと痛みを訴える。それに気づかないふりをして、フェイファーはわざと不敵に笑ってみせた。
「ただし、俺の話はけっこう高くつくぜ?」
「高いの? どうしようかしら? 私、紅茶くらいしか用意できないんだけど」
「じゃあ、それで手を打ってやろう」
 ふふん、と尊大に答えれば、彼女は嬉しそうにいそいそとお茶の準備をはじめた。
 ガラスで隔てられた外の世界から、彼女によって内側の世界に招きいれられる。
「で、何が聞きたい?」
 落ち着いた調度品からは不思議と木の香りがし、清潔な花柄のテーブルクロスからは石鹸の香りが漂ってくるような気がする。
「それじゃあ、ね、あなたが今日見たモノ、教えて?」
「またおかしなリクエストだな、ソレも」
「だって、もうずいぶん見ていないんだもの」
 どこか諦観と達観を混ぜたような笑みで、彼女はフェイファーに願う。
「ずぅっとね、知りたかったことがあるの。雪に包まれたこの街はどんな表情を見せてくれるのかしらって」
「好きなのか?」
「お母さんを思い出すから、冬は好き」
 ふわりと、彼女は笑った。
 あたたかな部屋の中で、あたためたふたり分のティーカップにアッサムティを注ぎながら、彼女は懐かしそうに視線をチェストへ向ける。
 そこに立てかけられた写真の中で、彼女によく似た女性が子供を抱きながら笑顔をあふれさせていた。
「母親?」
「すごく強くてカッコよかったのよ。小さい頃なんてね、仕事が忙しいのに、熱出した私を抱いて病院に走ってくれたくらいよ」
「病院に走ったのか」
「救急車待てなくて、自分で車運転して、夜通しよ。大丈夫、愛してるわ、大丈夫って呪文みたいに唱えてくれていたの。どんなに自分が辛くても、大丈夫って私に言ってくれていたわ」
 記憶をなぞるその仕草は、大切にしまわれてきた想い出をそっと抱きしめているようにも見えた。
 過去形で話すその意味を、フェイファーはあえて追究したりはしない。
「その時ね、苦しかったんだけど、車の窓から見上げた景色はとてもキレイだったから」
 だから、今度は見下ろしてみたいのだと、彼女は笑った。
「なるほどな。それじゃますます高くついちまうけど、まあ、いいか」
 彼女が知りたい場所、彼女が行きたい場所、彼女が見たい場所を、フェイファーは宝物を集めるようにその目で確かめては言葉へ変えていく。



「空……外……外の世界……もう、ずいぶん遠い……」
 四角い匣の中に閉じ込められて、一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。
 もうどれくらい、太陽の下で何気ない午後のひと時を過ごしていないのだろう。
 追いかけて、追いかけて、それでもつかめない憧れ。
 咳をする。
 いやに湿った咳。
 喉の奥の奥、肺も心臓も痛くなるくらいに咳き込んで――
 ヒューヒューと鳴るノドと速まっていく鼓動を抑えるように寝衣の胸を掻きつかみ、シーツの端を握りしめ、うずくまりながら苦痛をやり過ごす。
 走りたかった。
 騒ぎたかった。
 雨の日の、あのパレードを、みんなと一緒に追いかけたかった。
 けれど。
 でも。
 四角い窓枠、ガラスの壁、結局はそれに阻まれ、白い部屋に閉じ込められて、ただ眺めることしかできずにいた。
 いまみたいに。
 胸が痛い。
 すごく、すごく痛い。
 コワイ。
 こんな時はいつも、母を思い出していた。
 なのにいまは、あの人を思い出す。
 白い部屋で、四角く切り取られた窓から空を見上げていた。
 ずっと、焦がれるだけだったガラスのような空から舞い降りてきたあの人の声を思い出す。
 顔を上げ、手を伸ばす。
 枕元においているのは、彼がくれた小さなリースだ。
『フェイファーは鳥になりたいって思ったことある?』
 昨日、彼とかわした短い言葉。
『考えたこと、ねぇなぁ』
 初めて彼を見た時、彼はこの街で最も空に近い場所に立っていた。
 石と煉瓦とコンクリートと緑と歴史とで作り上げられた箱庭の中に舞い降りた特別な存在。
 あの日、あの瞬間を、運命だと決めた。
「フェイファー」
 目を閉じる。
 目を閉じれば、あの人が話してくれた景色が、まるで映画のようにまぶたの裏に描き出される。
 繊細な彫刻、緻密な装飾、ひとの手によって作り上げられた美しい大聖堂を中心に広がる街並は、どこまでも蒼い光の祝福を受けた冬に包まれている。
 キラキラと空気すらも凍りついて光を反射する中を、大パノラマとして展開していくこの景色の中を、彼女はフェイファーに抱かれて眺めるのだ。
 それはとてもステキな空想だった。
 とても、ステキな。

「よお、来てやったぜ」

 いつのまにか、眠り込んでいたのだろう。夢を見ていた。これは夢だと、なぜか彼女は確信している、そんな不思議な感覚の中で。
 窓の向こうから自分に手を差し伸べる彼を見た。
「どうして……」
 ためらいながら、その手を取れば。
「見せてやるって言ったからな」
 それ以上言葉にならない言葉を投げかける彼女の瞳を覗きこみ、彼は笑ってみせた。
「しっかり、捕まっていろよ」
「あ」
 やせ細った彼女の身体をたやすく抱き上げて、彼は窓枠に足をかけると、そのままふわりとガラスの向こう側へ飛びたった。
「え」
 白と蒼と灰色の世界。
 眼下に広がるのは、どこまでも美しい色。
 天上に星は見えない、けれど地上には暖かな光がまるで天の川のようにあふれ、流れ、瞬いている。
 ちらり。
 空から雪が落ちる。白、純真の花、凍りついた時間のような、けれど永遠を思わせるような幻想の花びらが舞う中を、彼女は天使とともに飛ぶ。
 押し当てた耳に、彼の鼓動が届いた。
 あたたかい体温。
 あたたかい、距離。
「鐘だ」
「あ」
 鐘の音が鳴る。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、連なるように教会の鐘が次々となり出し、声をあわせ、歌い出す。
 それは歓喜の歌。
 どこまでもどこまでも、祝福の鐘が二人と街を包みこむ。
「ねえ、フェイファー」
「ん?」
「……なんでもないわ……」
 何でもない、と微笑みながら、そっと彼に身を任せる。
 心地良い。
 幸せな。
 とてもキレイな時間。
 ねえ、やっぱり。
 ね。
 あなたは、ヒトじゃないかったのね。


「……ん……?」
 ぼんやりと目が醒める。
 彼女はやわらかな白いシーツとあたたかな毛布にくるまって、穏やかなまどろみの中にいた。
 身体を起こしても、あの発作が嘘のように消えていて、ずっと息がしやすい。
「夢……」
 ひたりひたりと、ここが現実なのかを確かめるようにゆっくりと歩き、窓に近付く。
「あ」
 窓辺には、小さな雪わり草が置かれていた。
「フェイファー」
 彼の優しさを抱きしめるように、彼女は届けられた花をそっと両手で包みこみ、胸に押し当てた。
 ほわりと、暖かくなる。
「……フェイファー……来てくれたのね……」
 かつて、鳥になりたいと思ったことがある。
 自分を閉じ込める匣から、外を隔てるガラスを押し開いて、遠くの空へ、薄氷色の澄んだ空の彼方へ飛び立ちたいと、願ったことが幾度もある。
 でも今は。
 いまは、鳥ではなくてよかったと、人としてこの窓辺に佇むことができてよかったと、ひそやかに思いはじめている。
 この想いを、いつかそう思わせてくれた相手に伝えられるだろうか。
「ねえ、フェイファー」



「ねえ、ステキな夢を見たの」
 ベッドに手をつき、起き出して、そうしてふらつきながらも窓を開けて自分を出迎えてくれた彼女は、嬉しそうな声をはずませる。
「へえ、どんな?」
「ダメよ、教えないわ。だって言ったら叶わなくなっちゃうもの」
「なんだよ、それ」
 イタズラっぽく笑う、そんな彼女の瞳が揺れる。
 揺れているその訳を、フェイファーは知っているような気がした。
 彼女に多くの幸いが訪れたらいいと、願う自分がここにいる。
 そのために花を摘み、そっと届けにきていながら、その日々がけして長くは続かないことを知っている。
 知っていながら、知らないふりをして、ふと、後ろを振り返る。
 雪が降っていた。
 灰色の空から千切れた氷の結晶が、やわらかく優しく降り注ぐ。
 春の訪れを待つために、つかの間の休息を約束する季節。
 肌を刺し貫く冷気は、より一層透明度を増して、そうして、世界を水底へ沈めるように純白の静寂で包みこんでいく。
 すべての音が、吸い込まれていくような。

 砂時計の流れを止めることは誰にもできない。
 時計の中で尽きかけた砂を継ぎ足すことは誰にも許されない。

 その瞬間は、ひそやかに、足元までやって来ていた。
「冬が好きだって言ったでしょ? ……じつはね、ナイショにしていたんだけど」
 崩壊の瞬間は、すぐそこに寄り添っていた。
「あなたに会えて、もっとはっきり好きになったの」
 淡く幸せそうに、彼女は微笑み、手を伸ばした。
「ねえ、いつか、一緒に天使の囁きを聴きに行きましょう?」
 外気をまとったフェイファーの、まるでロックミュージシャンのようなジャケットの裾を彼女はそっと握った。
 甘える仕草というよりも、まるで小さくささやかながらも、すがりついているかのような、ためらいと同じだけの必死さと健気さで、彼女はフェイファーを指先で捕まえる。
「天使の囁き?」
 訝しげな問いに、彼女はこくりと頷きを返す。
「ダイヤモンドダストの別名でね、お母さんの国では『天使の囁きを聴く会』が開かれたりしたんですって。ね、ステキだわ」
 だから、一緒に行こうと、彼女は無邪気な笑顔でフェイファーを誘う。
 彼女の中にある砂時計は、すでに尽きかけようとしているにもかかわらず、ソレを予感していながらなお、約束を口にする。
 初めて抱く感情。
 それがどういう意味を持つのか、彼にはもう分かっていた。
「……いつか、行こう。お前となら、行ってもいいぜ」
「ありがとう」
 彼女は笑う。
 笑ったその顔が、哀しげに歪んだ。
「でも、無理かしら……」
 掻き毟りたくなるような胸の痛みに怯えながら、それでも彼女は言葉を探す。
「……ちがうの、ちがう……そんなことが言いたいんじゃなくて……」
 愛してる。
 愛しいひと。
「怖くないわけじゃ、ないの……でも、負けたく、ないの……」
 あどけなさを残した、けれど深い影の落ちる彼女の表情は、ひどく心をざわめかせた。
「強がるな……こんな時まで、強がらなくて、いい」
 握る手は、指先まで氷のように冷たい。
「フェイ、ファー……」
 花の美しさのわけを、フェイファーは理解していた。永遠に焦がれながらもソレを叶えることはできない人の命の儚さをわかっていた。
 掴んではいけない手があることを、求めてはいけない願いがあることを、届いてはいけない想いがあることを、知っていた。
 なのに。
「……本当は、私を、迎えてきてくれたの……ね?」
 うっすらと、彼女は微笑んだ。
 それはまるで殉教者の笑みだ。
 こんなカオが見たかったわけではない。
 そんなカオを、させたかったわけではない。
「……ねえ、私を、どこに、連れていってくれるの? 神様の、ところ、かしら……」
 苦しさに喘ぎながら、目を細め、うっとりと呟く。
「だったら、ねえ……、……私……、キレイな、花が、見たい……かな……」
 胸が潰れる。
「あなたと、天使の囁きを聞いて……、ねえ……、春には、あなたと……花を……」
 苦しくて哀しくて痛くて切なくて、フェイファーの胸は、天使であるはずの彼の心臓は、どうしようもないくらいに悲痛な軋みをあげていた。
 そっと、彼女の額から頬へとなでていく。何度も何度も、痛みのために眉を寄せたその表情をやわらかくなでていく。
「……迎えにじゃ、ない……」
 迎えに来たんじゃないと、繰り返す。
 髪を撫でられ、浅い呼吸を繰り返して苦しさに涙を滲ませた彼女の瞳がうっとりと閉じられていく。
 花が散るのだ。
 雪でできた儚い一輪の白い花が、神の定めた運命によって、散る。
 決められていたこと、決まっていたこと、覆すことは許されない、その定めを見届けることしかフェイファーには許されていない。
 なのに。
 指が震えた。ノドが痛い。息ができない。胸が、狂おしいほどの激情に押し潰される――
「お前に、祝福を……」
 泣いていたのかもしれない。
 分からない。
 ただ、フェイファーはそっと彼女の傍らに跪き、冷たい唇を指先でなぞり。
 祈りを捧げるように、そっと唇を重ねていた。
 自分のチカラを、分け与えるために。
「……なあ、誰もが求める『究極の幸せ』ってのがなにか、知っているか?」
 頬をなでる。
 栗色の髪をやわらかく優しく掻きなで、梳いて、そうして額にも口付け、囁きかける。
 答えのない彼女に、言葉を落としていく。
「それはな、愛する人がいて、愛してくれる人がいることなんだ……」
 告白は、届いただろうか。
 わからない。
 けれど、言葉に変えなければならない。
 愛している。
 愛している。
 君を、愛している。
「なあ、俺はあんたを愛していたい、あんたに愛されていたい、ずっとずっと……」
 誰よりも、なによりも、ただ君だけを愛している。
 君が笑っていてくれたら、君がこの世界でこの美しい景色の中にいてくれたら、そう願ってしまうほどに愛している。
 この地上に、この世界に、君がいてくれるという奇跡を、君と出会えたという奇跡を、神に感謝しなければならない。
 例え。
 その先で待っているものが、魂を引き裂くほどの痛みだとしても。
 君を愛している。
 君を愛したことを、幸福に思う……
 
「   」

 天使は初めて、地上に棲まう人間の名を、口にした。
 それまで一度として呼んだことのない『愚民の名前』を、同じものでしかないとすら思っていた存在の、その中の一人の名を、意味と想いを込めて、呼んでいた。



「人間に天使のチカラを分け与えること、神の定めた時間を天使の力で永らえたこと、不特定多数のものたちに平等に与えるべき恩恵をただひとりに傾けたこと、ソレらはすべて踏み込んではならない禁忌だ」
 裁判の席に立ちながら、自分を見降ろす天使達をフェイファーはただ無感動に眺めていた。
 どこか他人事のように無表情で受け止めていた。
 彼女がいないのなら、この世界のどこにいようとも構わないのだ。
 例えこの身を永久氷壁に捕えられようと、例え存在そのものが凍結されてしまおうと、すべて意味を為さなかった。
 だから、彼は受け入れた。
 彼の行為を、彼の想いを、必死になって訴えてくれる上司の声を遠くに聞きながら、存在凍結の判決を自ら望んで受けた。




 天使は歌う。
 彼女のために歌い続ける。
 愛している。愛している。ずっと、ずっと、君だけを、キミひとりだけを永遠に愛し続ける。
 その誓いを守るように。
 彼は凍れる時の中で、彼女のためだけに歌い続ける……



END

クリエイターコメントお世話になっております。
この度はフェイファーさまの『映画の物語』をお任せくださり有難うございました。
悲恋であるのか、それともある種のハッピーエンドと言えるのか。
ひねくれた天使さまと気丈な彼女、お二人の関係性と幸福で切ない時間、そのあたたかさと痛みと美しさが少しでも描写できていればと思います。

それではまた、銀幕市のいずこかでお会いすることができますように。
公開日時2008-02-06(水) 00:30
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