★ そして君は境界を見失う ★
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
管理番号156-2751 オファー日2008-04-20(日) 22:00
オファーPC 朝霞 須美(cnaf4048) ムービーファン 女 17歳 学生
<ノベル>

 日が沈み、赤みを帯びた月が空に掛かる。
 さわ……と風が頬を撫ぜ、木々の合間を抜けて、かすかな葉擦れの音を生み出していく。
 静寂を際立たせる黄昏の音色。
 朝霞須美が、バッキーを肩に、バイオリンケースを背にして訪れた自然公園には、外灯に照らされ、ひとりの青年と、そして女性が並びたたずんでいた。
「来てくれたんだね?」
 彼は微笑む。暗い昏い翳りのある笑みで、須美を見つめ、そうして、あの日と同じ願いを口にする。
「君のそのバッキーで、僕らを……、僕と彼女をフィルムに戻してくれるかい?」
 彼は言う。
 殺してくれと、彼は願う。
 そんな彼のとなりで、彼の恋人は無言のまま、ただじっと須美を見つめる。
 あの日、須美は時間がほしいといった。
 そして今日、あの日差し出された願いへの答えを、須美は告げると約束した。

「私は……」


 あの日――今日ほどには月が鮮やかではなかった数日前、須美はバイオリンのレッスンの帰り道、見知らぬ青年にここで声をかけられた。




「君、ムービーファンだね?」
 突然の声だった。闇の広がる背後からの問いに須美は反射的に身構え、振り返り、全身に緊張を走らせる。その手は護身用のスタンガンが眠る鞄に伸ばされていた。
 他人に敏感なリエートが、須美の肩でシトラスの体を震わせ、威嚇する。
「ああ、ごめん、そんなに驚かせるつもりはなかったんだ」
 外灯のもとへ姿を現したのは、端整な顔立ちの青年だった。ひどく不安定な、揺らぎを抱えた瞳が須美を見つめている。
「君をどうこうしようというんじゃないんだ。ただ、お願いがあって……ごめんね」
 ごめんと繰り返しながら、彼はそれ以上近づくこともやめ、3メートルの距離を保って言葉を重ねていく。
「フィルムに、戻してほしい相手がいるんだ……」
 切りだされたのは、思いがけない言葉だった。
「君の連れているそのバッキーに食べさせてくれたらいい。それだけの話なんだけど、聞いてもらえないだろうか? 僕と彼女が見る『夢』を、終わらせてほしい」
 終わりたいのだと、彼はいう。
「……なぜ?」
 ようやく須美は、口を開いた。
 無言を通し、足早に立ち去ることもできたのに、須美は緊張を解き、いまだ威嚇の姿勢を示すリエートへ視線を投げかけてから、再び男を見据えた。
「理由も判らずにフィルムに戻せなんて依頼、聞けるわけがないわ」
 けれど、話を聞くことならできる。
 だから理由を問う。
 彼の表情、彼の声、彼のまとう雰囲気が、須美にそうさせるのだ。
「少し話は長くなるんだけど、それでもよかったら……僕と彼女の話をしよう」
 どこか諦観を含んだ笑みで、彼は視線を、半円の月の浮かぶ空へと転じた。
 そうしてポツリと呟く。
「……神様が本当にいるとは思わなかった。少なくとも僕にとって、神様っていうのは姿も見えない、一方的な信仰の対象だったからさ」
 そんな、存在自体信じてもいなかった『見知らぬ神様』が起こした奇跡なのだと、彼は言う。
「僕はね、ここで彼女と出会ったんだ……実体化したその日、その瞬間に、僕は目覚めた世界で彼女と出会った」
 ソレがすべての間違いだったとでも言いたげに、彼は目を伏せ、そして指を鳴らす。
 パチン。
 その音がひとつの魔法だったのかもしれない。
 のっぺりとした闇色の空間が不意に四角く切り取られ、そこにひとつの映像が結ばれた。
 緑あふれる公園。黄昏が迫りながら、それでもなお赤い夕日が射しこむ風景の中、向かいあう一組の男女。ソレが目の前にいる青年と、そして『彼女』なのだとすぐに気付く。
 映像の中の彼の声が漏れる。

『……ごめん、もうこれ以上、一緒にはいられない……』
 俯き、視線を逸らして、彼は言う。
『……ねえ、どうして……? どうして……』
 彼女は問う。肩に届くソバージュの髪を揺らし、華奢な体で彼の胸にすがりつく。
『どうして、一緒にいられないの?』
『ごめん……』
 その彼女の肩をつかみ、そっと自分から引き離す。
『僕には、君の想いを受け止めることはできない……その答えは変わらないよ』
『ねえ、どうして? あたしのことが嫌いになったの? いらなくなったの? あたし、あたし何かしてしまった?』
 なおも彼女は問いを重ねる。
『あたしには、あなたしかいないのに』
『……僕だって……君がいなければ……、この街でこうして生きていくことができなかったと思う』
 感謝している、と彼は言う。言いながら、それでも彼女から視線を逸らし、のどを締め付けるような声を絞り出す。
『だけど、僕はいずれ消える存在だ。魔法によってこの世界に生まれた、マガイモノの存在なんだ……だから』
『スターだから? だから一緒になれないの?』
『そうだよ。君は僕のようなニセモノと一緒になっちゃいけない。君は君の世界の相手を、ホンモノの人間を選ぶべきだ……』
『……あたしがスターじゃないから、だからダメなの……? こうして抱きしめられる、こうして触れられる、こうして言葉をかわせるのに……それだけじゃ、だめなの?』
 首を傾げた彼女の、ソバージュの髪が揺れる。
 キラキラと、外灯の光を受けてきらめきながら、彼女は濡れた瞳で彼を見つめる。
『ねえ……』
 唇が、動く。
『だとしたら、ねえ……?』
 赤い唇が、言葉を紡ぐ。
『あたしがスターだったら、あなたは一緒に、いてくれる?』
 そして彼女の瞳に、不穏な光が――


 パチン。
 始まった時と同様、指を鳴らす音に反応し、唐突に映像がはじけて消えた。
 そこから先で何が起きたのか。
 彼はあえて見せなかった。
 けれど、須美には想像がついてしまった。
 何故なら彼は、フィルムに戻してほしいといったのだ。自分と彼女を、フィルムに戻してほしいと願った。
 ソレが何を意味するのか、漠然とした答えに須美は辿り着いてしまっている。
「……その彼女は……?」
 それでも問わなければならない。
 確認しておかなければという思いに動かされる。
「……自殺したよ。ビルから身を投げた。僕を呼んで、僕の目の前で、彼女は笑って……」
 予想どおりの答えだ。
「あの光景は、いまでも僕を苛む」
 まるでいまそこにべっとりと濡れた赤が地面に広がっているかのように、彼は視線を落とし、苦しげに眉を寄せた。
「なら……」
 その言葉の続きは、別の声によって引き継がれた。
「……〈彼女〉が自殺したんだとしたら、じゃあここにいる〈あたし〉は誰か、という話になるわね」
 いつのまに。
 いや、初めからそこにいたのだろうか。
「どうかしら、ねえ、あなたに分かる?」
 彼女は死んだ。けれど彼女はここにいる。映像の中で嘆いたものと寸分違わぬ姿で、物影から姿を表した彼女は青年にするりと寄り添い、彼に腕を絡めて微笑む。
 須美はその矛盾を解消する方法に、ひとつだけ思い当たるモノがあった。
「……実体化……ね?」
「正解。あなたには簡単な質問だったかもしれないわ……、ね、ジャーナルで見たわよ、朝霞須美さん?」
 どこか挑むように、彼女は須美を見る。
「彼はスターだから、そしてあたしがエキストラだから、だから一緒になれないと言ったわ。どちらかが存在の境界を越えなければ、共に生きられないというのなら……だったら、ねえ、方法はひとつしかないでしょう?」
 微笑む彼女の瞳が揺れている。
「自主映画制作代行サービス……、うん、ちょっと長いわ、サービスでいいわよね? そこにお願いをしたの。あたしのままのあたし、あたしそのものを残してほしいって」
「アレが……、あのサービスが、あなたをこの世界に生み出したのね?」
「そうよ。彼とあたしの存在の境界を、あのサービスはなかったことにしてくれたの。すてきでしょ?」
 彼女が抱くのは狂気ではない。それは須美にも分かる。彼女の瞳に宿るのは、純然たる思いだけ。
 越えることのできなかった境界線を、彼女は自ら踏み越えた。

 ――教えてくれ、アンタはどっちなんだ?

「なぜ……?」
 何故、の後に続く問いを、須美は発することができなかった。
 問いがカタチになる前に、彼は願う、懇願する、切実に、苦しそうに、哀しそうに表情を歪ませて、須美に迫る。
「……お願いだ、僕らをフィルムに戻してほしい」
「……本当にそう思っているの?」
「あたしは彼とともにあれるなら、それでいいの。それで十分だわ。彼がフィルムになるというなら、あたしも喜んで一緒にフィルムになるつもりよ」
 それくらいの覚悟はもうしていると、やはり彼女は笑って告げる。
「だけど、ねえ、あなたはあたしを殺すの?」
「彼女と僕をフィルムに戻してほしい」
「ねえ、あたしたちを殺せる?」
「……なかったことに、してほしい」
「スターのあたしと、スターじゃなかったあたしの間に、どんな違いがあるの?」
「…………おねがいだ」
「あなたと同じなのに?」
 彼の言葉に重ねるように彼女もまた須美へと言葉を発し、そして最後の問いだけを、彼へと向ける。
 外灯の下で交わされる、奇妙な問いと願い。
 ムービースターとして生まれた青年と、自ら望んでムービースターに転じた彼女、『死』がふたりを分かち、『夢』がふたりを悲劇に踊らせる。
 自分に何が求められているかは分かる。
 自分ならばソレができることも分かる。
 分かるのだ。
 しかし。
「少し、時間をちょうだい。考えるだけの時間を」
「時間……ですか」
「ええ」
 そこから先の結末をいますぐここで決めることは、須美にはできなかった。
 誰かに相談するつもりはない。
 誰かに答えを求めるつもりもない。
 ただ、いまこの瞬間に、自分の中に彼らへ差し出す『答え』が見つけられないだけだ。
 それを、探す時間がほしい。
「朝霞須美さん、ねえ、あなたの選択、楽しみにしてもいいかしら?」
 背後に彼女のゆるやかな問いを受けながら、須美はリエート共に夜の公園を去っていく。
 星は見えない。
 月は薄曇の空にぼんやりとした光を広げている。
 帰路につくその足取りは、ひどく重かった。

「……私は、どうすれば……」

 須美にはずっと考えていたことがあった。
 ずっとずっと、胸に引っ掛かっていることがあった。
 自ら進んで関わってしまった『殺人事件』――自分がこの街で出会ったふたつの事件、そこで突きつけられた『存在』への問いが渦を巻いている。
 ムービースターと、一般人の恋。
 現実と虚構の恋。
 わからない。
 夢はいつか醒めるという、でもいまそこに生きているのなら、夢だと断じることはできないのではないか。
「お帰りなさい」
 呼び鈴を押したわけでもないのに、母親の明るい笑顔と声、あたたかな光が自分を出むかえてくれた。
「……ただいま」
 扉を開く。
 たったそれだけで、冷たく刺すような空気に満ちた外界から、須美はこうして救われる。
「あら、顔色が良くないわ。……何かあった? やっぱりパパに迎えにいってもらった方が良かったかしら?」
 母親はそっと須美の頬に手を伸ばす。
「熱はないみたいね」
 冷え切った頬を包みこむその温もりに触れて、胸の奥がチクリと痛む。
 こんなにも幸せで、こんなにも大切にされていて、だからなおのこと須美は考えずにはいられない。
「ねえ」
「なぁに、どうしたの須美?」
「……何でもないわ。ごめんなさい。少し疲れてるみたい……」
「そう。あまり無理はしないでね? ママもパパも、須美がとってもがんばり屋さんだって知ってるから、ちょっと心配になるわ」
「大丈夫。無理はしないから」
 大丈夫だともう一度繰り返し、小さく笑う。
 母親はそれでもほんの少しだけ不安を引き摺りながら、それでも気分を切り替えるように晩御飯の話をする。
 何気ない日常の中に身を置きながら、エプロンをふわりとひらめかせてキッチンへと向かう母の後ろ姿を目で追いながら、須美はポツリと呟く。
「もし私が……」
 そう口をついて出そうになった言葉を、須美はギリギリで飲み込んだ。
 飲み込んだまま、自室へと向かう。
 与えられた世界。
 生まれた世界。
 幸せな時間。
 もし自分がある日突然死んでしまったら。
 ある日突然、この世界からいなくなってしまったら。
 母は、父は、自分を蘇らせようと考えるだろうか。
 もしある日突然、父や母がこの世界から消えてしまったとしたら、自分は彼らを蘇らせようとするだろうか。
「……もし、ムービースターとして蘇ったら、それは私ではないのかしら……それは、父や母じゃないのかしら……」
 白い指先が、バイオリンケースの表面をそっと滑る。
 バイオリンを弾く自分。バイオリンとともにある自分。バイオリンをはじめたのは自分の意思ではなかったけれど、いまこうして寄り添っているのは自分の意思だ。
 須美は改めて自分の手を見る。
 親からもらったと、そうごく自然に感じられる体、命、自分の存在理由とすら思える大切なバイオリンを弾く両手。
 トラブルに見舞われ、とっさに身を守る時、反射的にこの両手を庇ってしまう自分がいる。
 友人のために、人形のために、誰かのために、バイオリンを奏でることが楽しいと思える自分がいる。
 去ってしまった隣人たちへの追悼として、満開の桜の木の下で、このバイオリンでレクイエムを奏でたいと思った自分がいる。
 その『自分』という意思と記憶をもって実体化したのなら、それは『朝霞須美』本人ではないのか。
「……どこが、違うのかしら……」
 かつて、『教えてくれ』と、ある人は言った。そこに立つ『人間』はホンモノかニセモノか、どちらなのか、と。
 教えてほしいと、ある人は言った。自分の求める恋人はどこにいるのか、と。
 そして今日、いつか消える自分は『彼女』とは一緒になれないのだと、『彼』は言った。
 須美は、どの瞬間にも『問い』への『答え』を返せなかった。
 明確な言葉として、差し出せなかった。
 けれど、ひとつのわだかまりのように、考え続けてはいた。
 スタートは、消える存在、だ。
 夢が醒めれば、確実にいなくなってしまう存在なのだ。
 しかし、ある日突然この世界から消えてしまう可能性は、自分にだって等しくあるはずだ。そこにスターとの線引きはない。
 想い出は枷になるだろうか。
 想い出は礎にはならないだろうか。
 想い出を求めることは、罪になるのだろうか。
 例えば自分は、どうするだろうか。
 自分はどうなるのだろうか。
 虚構と現実の狭間で、自分は何を選ぶだろうか。
「……、さん……」
 無意識にこぼれた名は、胸に刺さった棘をチクリと刺激する。
 はじめて出会ったのは、対策課。
 偶然では終わらなかった、その後も続く関係は、ゆるやかに須美の日常を変えていく。
 この街に魔法が掛からなければけして見ることのできなかった景色を、彼と共有している。
 例えば、そう、あの日、あの時、血を振り撒く惨劇を前に、自分の両目をその手で塞いでくれた『彼』を、その優しさを、その時感じた想いを、マガイモノだと誰が言えるのだろうか。
 後からとっさに抱きすくめられた時の感覚が、まだ残っている。
 彼の言葉はちゃんと自分の中にある。
 そして、あの日からずっと、胸の奥には小さな棘がひとつ刺さっている。
 その棘の抜き方を、須美は知らない。
 ただ、棘の存在だけを知っている。
 刺さっていることを普段は忘れているけれど、ときどきソレは己を主張する。
 喪失。
 その予感。
 けれど、それでも傍にいることを否定されたくはない。
 きつく目を閉じ、握りしめた須美の手に、リエートがそっと身を寄せてきた。甘えるようにそろりと体を寄せながら、座り込んだ須美の目を見上げている。
「……リエート」
 ひんやりとしたやさしいバッキーの体温に、不思議な安堵を覚えた。
「……そっくりそのまま記憶を持っていたら、それは本人ということになるのかしら……」
 虚構と現実、夢と現の話をするのなら、この子もまた、ニセモノということになってしまう。
 けれど、存在とはそういうものなのだろうか。
 リエートをそっと抱き上げ、黒い瞳を覗きこむ。
「クローンよりもずっと『近い存在』かもしれないと思うのは、間違っているのかしらね」
 棘は痛む。
 言葉に変えるたび、問いを繰り返すたび、胸に刺さった棘がチクリと苛む。
 存在するということ。
 存在という定義。
 顔を上げ、部屋を見回す。
 須美が過ごしてきた、十数年分の時間がやわらかく重ねられた自分の部屋。
 想い出がそのヒトを作るのだとしたら、時間がそのヒトを作るのだとしたら、虚構と現実の境界には、一体どれほどの溝があるのだろうか。
 いつか夢は醒めるかもしれない。
 いつか、すべてが消えてなくなってしまうかもしれない。
 けれど、でも、紡いだ時間、重ねた記憶、心に刻まれた想いまでも消えてなくなるわけではないはずだ。
 須美はリエートを自分の傍らに降ろし、代わりにバイオリンケースに手を伸ばす。
 祖母から譲り受けた愛おしさすら感じる楽器を取り出し、構え、そして弦に弓を当てた。
 呼吸をするように、ごく自然に、そして滑らかに、旋律は奏でられる。
 音があふれる。
 指先から生まれる鮮やかにして哀切漂う音楽にその身を浸しながら、須美はゆるやかに思考の海へと沈んで行く。



 〈虚構〉とは、あたかも現実のように作り上げられたもの。
 〈現実〉とは、いま目の前に事実として表れているもの。
 では、実体を持った〈虚構〉には、なんという名が付けられるのか――?



「私は……」
 あの日あの時、ふたりから自分に差し出された問いへの答えを、約束どおり、須美は口にした。
「私はあなたたちをフィルムには戻さない」
 きっぱりと、はっきりと、力強く宣言する。
 赤い月が光を散らすなか、凛として立つ須美の、彼らふたりへと向けられた視線に、揺らぎも迷いもない。
「誰だって、どんな人だって、いつ消えてしまうのかなんて分からない。銀幕市が見ている夢が醒めたら、あなたは消えるかもしれない、でも私にも、ある日突然消えてしまう可能性はあるんだもの」
 例えばソレは事故であったり、病気であったり、あるいはもっと不幸な事件であるかもしれない。
 だから、同じ。
 消えてしまうのなら、スターもエキストラもファンと変わらない。
 虚構と現実の境界線を、自分もまた見誤っているのかもしれないとは思う。
 けれど、しかし、銀幕市がみる夢の中では、その境界線を決めるのは自分なのだと思えるのだ。
「その可能性は誰の頭上にも等しくあるのだから、お願い、それを理由に逃げないでほしいの」
 彼を見、彼を思い、彼のためにその言葉を紡いでいながら、須美は自分が別の誰かに向けているような錯覚に陥る。
 いつか。
 もしかすると来るかもしれない日のために。
「誰かと一緒にいたいと願う、彼女のその想いを、否定しないで……」
 ソレは誰かに向けた言葉。いつか向けるかもしれない言葉。
 そして、須美は彼女を見る。
「でも、それはあなたのしたことを肯定するのとは違うわ」
 ソレは彼女に向けた言葉、けれどいつか自分に向けるかもしれない言葉だ。
「一緒にいたいなら、幸せになりたいのなら、あなたが選ぶ道はもっと他にもあったはず……大切な人を苦しませない、そんな選択が……」
 考えた。いくどもいくども、考え続けた。
 けれど、結局、答えはここに行き着く。
「一度失った命は、もう元には戻らない……取り返しはつかないの……」
 願わずにはいられない、求めずにはいられない、そしてどんな痛みを伴ったとしても、叶えてくれるものがあればそれにすがる。
 そんな彼女の選択を責めることはできない。
 けれど、哀しい。
 ソレはあまりにも、哀しいから。
「生きて……そしてお願い、幸せになって……私が言えるのは、私ができるのは、それだけ」
 須美の言葉を受け、須美の願いを聞き、そしてふたりは見つめ合う。
 まるで初めて互いの存在を認識したかのように。
 沈黙が落ちる。
 長い長い、沈黙。
 だが、そこから先は、ふたりの問題だ。
 だから須美は、自身の出した答えに願いを託し、そっとその場を離れた。

 スターとの境界を踏み越えるため、自らスターになることを選ぶ。
 そのために、死を選ぶ。
 そのために、全てを捨てる。
 その選択を正しいとは思いたくない。
 けれど、ほんのわずか、惑う心があったことを、須美は認めるべきかどうか迷う。
「……でも……」
 見上げれば。
 空には月が掛かっている。
 雲の晴れた天上で、夢のように儚い光を放つ。
 けれど、そこに月はあり、そして夜を照らしている。
 不意にあのヒトに会いたいと、あのヒトの声が聞きたいと、そう思ってしまった自分に戸惑いながら、須美はわずかに軽くなった足取りで、あたたかな家へと帰って行く。



END

クリエイターコメントこの度はプライベートノベルへのご指名、誠に有難うございます。
『虚構の教戒』シリーズでは大変お世話になりました。
そして今回、ひとつのサイドストーリーとして、この物語を書かせていただけたことがとても嬉しかったです。
テーマとして掲げてきた、存在の境界。
それにまつわる須美さまの思いを、とある方への感情も織り込みつつ、めいっぱい綴らせて頂きました。
悲劇の先に幸福があることを祈りつつ。

それではまた、銀幕市のどこかで、聡明なるバイオリニストさまとお会いすることができますように。
公開日時2008-05-09(金) 21:50
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