★ 【未明の夢】Lonely Red ★
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
管理番号156-4015 オファー日2008-07-24(木) 23:00
オファーPC 流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
ゲストPC1 ドクターD(czdu7674) ムービースター 男 35歳 精神科医兼心理分析官
<ノベル>

 パトカーの赤色灯が辺りに赤をばら撒き、自然公園の緑たちを赤で貫いていく。
 流鏑馬明日は眺めていた。
 つとめて無表情のまま、そこに横たわるものに無言で視線を投げかけていた。
 もの言わぬ『死者』となった相手の名前を自分は呼ぶべきなのかもしれない。
 あるいは、周囲の同僚たちから情報を収集しつつ、現時点で知りうるかぎりの状況を検分するべきなのかもしれない。
 だが、そのどちらをも明日はしなかったし、できなかった。
 明日は黙って見つめている。
 くるくると回り続ける鋭く赤い光の中、同僚たちの手によってシートを被せられ、時にめくりあげられているのは、自分の――
「流鏑馬」
 不意に背後から肩を掴まれた。
「お前、今回の件からは降りろ」
 振り返れば、厳しい表情の上司が重々しい口調でそう告げてきた。
「……」
 明日はその言葉に、反論することも意見することも了承を伝えることもしなかった。
「気持ちは分かるが……、いまのお前に冷静な捜査ができるとも思えないんだよ、流鏑馬」
 ここにいる誰もが、同胞の死を悼み、犯人に憤り、罪を憎み、そして事件解決を誓いあっている。
 明日もまた、同僚達とは違う視点から幾度目かの絶望的喪失感を味わっていた。
 この銀幕署に来てからずっと自分についてくれていた指導係にして相棒、その彼が横たわっているという事実はどうしようもないくらいに現実なのだ。
 死んでいく。
 失われていく。
 大切な大切な、大切なヒトが、いなくなる。
 手の間からこぼれ落ちて、気づけばこの両手はカラッポになっている。
 明日は厳しい眼差しで、無言のまま立ち尽くす。
「流鏑馬」
 もう一度肩を叩かれ、明日はついに上司へ頷きを返した。
「……わかりました」
「しかし……これでついに被害者の共通項が見つかったことになるんだな……」
 相手の呟きに、もう一度無言のまま頷きを返した。

 これで3人目、だ。
 流鏑馬明日の近しい存在が、これで3人殺された――



 病人でもない明日がすっかり通い慣れてしまった銀幕市立中央病院は、今日も穏やかな光の中に白い姿でそびえ立っている。
 為すべきことに迷い、思考が行き詰まるたび、明日はここを訪れているような気がした。
 習慣めいた行動は、けして意味のないモノではない。
 誰かと交わす言葉は時に、思いがけない視点から意外な解決策をもたらしてくれる。
 その『天啓』に何度助けられただろうか。
 何度救われただろうか。
 数えようと思えばひとつひとつ指折り数えられるだろうこれまでの出来事を胸に抱きながら、明日はここに来た。
 受付で来訪の旨を伝え、出迎えにきてくれたスタッフによって、明日は、通称〈ガラスの箱庭〉――銀幕市立中央病院研究棟のスタッフルームへと案内される。
 そこで待っているのは、銀の髪の精神科医にして他者の『病理』を見抜く心理分析官だ。
「ようこそ、流鏑馬さん」
 静かな視線が明日を捉える。
 初めてここを訪れてから、一年と数ヶ月が経った。
 その間に変わったことは果たしてどれだけあるのだろう、そう想いを馳せずにはいられない。
 だが明日は感傷に浸るでもなく、彼を見据え、そして短く来訪の意図を告げる。
「……また、起きたわ……あなたの力が借りたいの」
 毅然とした刑事の表情には、19歳の少女としての明日はカケラも存在していない。
「ただ、あたしはこの『件』から降ろされたわ。いま、この時点で、あたしは刑事として事件を追うことができない状態になった」
 そして、と呟き、
「あなたも、狙われるかもしれないわ」
 それでも、と続ける。
「ドクター……、それでもあなたは手を貸してくれるかしら?」
 緊張した面持ちで、なかば断られることを覚悟しながら口にしたその台詞を、目の前の彼は穏やかな微笑を浮かべたまま受け止め、
「あなたの願いを、一度でもわたしは断りましたか?」
 問いに問いで返してきた。
 明日は自問する。
 自分の願いを彼は一度でも断っただろうか。
 明日は自答する。
 否。少なくとも、そう、少なくとも『いまのドクターD』は一度もないだろう。
「……ありがとう」
 そうして明日は当然のように、持参した資料を机の上に広げようとする。
 だが、なぜかドクターは席を立った。
 ほとんどトレードマークにも等しい白衣を脱いで、あまり見慣れないスーツ姿で明日を促がす。
「わたしも一度現場を回りたいと思います。ご一緒して頂けますか、流鏑馬さん?」
「え」
「お時間があるのでしたら、これまでのデータの確認と分析を兼ねて現場を案内して頂きたいのですが……、よろしいでしょうか?」
 思いがけない申し出だ。彼が事件のために研究室から、あるいはこの病院から外に出ることなど、これまで一度としてなかったことだ。
 明日の中に戸惑いが生まれる。
 けれど、断るべき言葉はなかった。
「いいわ、行きましょう」
「ありがとうございます」
 ドクターDはこちらの戸惑いや不安を払拭するかのように、変わらぬ微笑をその口元にたたえていた。



 あの日、彼は言った。
 ヒトは絶望に対峙した時、死を想い、他者を巻き込みながら急速に生と死の境界である夢へ逃避する、と。



 黄昏が近づく街の中、自然公園の一角で、明日はドクターと並び佇んで、言葉を交わす。
「3つ目の事件がこちらですか」
「ええ……被害者は、仰向けに倒れた状態で発見されたわ」
 あえて固有名詞を出さずに淡々と、いっそ事務的ですらある口調で明日は報告書を読みあげるように返す。
「凶器は彼自身の銃でしたか」
「ええ。犯人はソレを利用した。相手の油断をついて奪ったのかもしれない」
「油断、ですか。では顔見知りの犯行という線を残しておく必要がありますね」
「精神支配が可能であれば、顔見知りである必要はないかもしれないわ」
「ええ、たしかに。けれど、そうですね……だとしたらもっと簡単な方法がいくらでも見つかりますから」
 ドクターDは何を見据え、どこからそう判断しているのだろうか。
 1人目は刺殺。現場は路地裏。大量の血液とともに発見されたプレミアフィルムは、ズタズタだった。
 2人目は絞殺。現場は商店街近くの公園。彼女の飼っていたバッキーは近づく者たちを威嚇しながら、飼い主に寄り添っていたという。
 3人目は銃殺。現場は自然公園の一角。銃殺された彼の周囲には争った形跡も遺体を移動した形跡もなかったという。
 殺し方に法則はないらしい。ただ、3つの現場はどこも市街地からさほど離れていない。徒歩圏内であると言っても過言ではないだろう。
「犯人は何を考えているのかしら? 何を、求めているのかしら……」
 明日は地に落ちている自身の影をじっと見つめ、呟く。
「ドクター、あなたは以前言ったわ。“相手の心理を理解するために必要なもののひとつが、相手が何に執着しているのかを知ること”だと」
「ええ」
「そして、“美しいロジックを組み立てるには、まずは正確なデータが必要”だとも……」
「ええ、その通りだと思っています」
 路地裏に屈み込み、何かを検分しているらしいスーツ姿のその背中を、明日は不思議な感慨でもって眺める。
 ふたりの間に、ほんのわずか、沈黙が降りた。
 明日がドクターの元に持ち込んだ今回の事件は、これまで関わったどの事件とも色を違えている。
 ムービースターもムービーファンもエキストラも関係なく、被害者の共通項は〈流鏑馬明日の関係者〉というただ一点に集約された連続殺人事件。
 これは、3件立て続けに起きた事件により、明確にして明白となった『事実』だ。
 まるで性質の悪い感染症にでも罹ったかのように、次々と、明日の周囲の人間ばかりが殺されていく。
 現在、捜査員たちが流鏑馬明日を巡る怨恨の線を洗ってはいる。
 しかし、思い当たる線はごく少なく、逆恨みを含めれば無限に広がりすぎ、結局は辿った糸のどれもこれも『アリバイ』という名の強固な壁に守られているのだ。
 ではヴィランズなのか、あるいはこの街の夢に浮かされた気狂いなのか、もしくはそう、誰かに操られた傀儡なのか。
 ドクターDが、この事件の真相に辿り着くことがあるだろうか。
 不安に苛まれ、胸が軋んだ音を立てて痛む。
 彼は、犯人の抱える『答え』に辿り着くのだろうか。
 この事件の犯人に、その心理に、その病理に、たやすく辿り着いてしまえるのだろうか。
 だが、その問いに答えらしい答えを見つけるより先に、まるでその解答を遮るかのように、明日は自身の携帯電話をヒップバッグから取り出した。
「……はい、流鏑馬です。…………はい、……はい、そうですか。わかりました。ありがとうございます……はい、では」
 電話の向こうから告げられた言葉はドクターには聞こえない、だが、こわばったその表情で何かが起きたことは察しただろう。
 通話終了と同時に、明日はドクターと視線を合わせないままに、たったいま判明した事実を告げる。
「……4人目の被害者が……」
「そう、ですか」
 彼は何かを思案するように一度沈黙し、それからゆっくりと為すべきことを示す言葉を紡いだ。
「先程もたらされた4つ目の事件、現場はどちらですか?」
「……高台の公園よ。砂場に埋もれていたフィルムを、たまたま遊びに来ていた親子が発見したという話よ」
 そして、4人目の犠牲者は、明日だけでなくドクターにとってもよく知る人物だ。
「やはりプレミアフィルムは破壊されて?」
「……ええ」
 コクリと、明日は頷く。
「では少々急ぐ必要がありますね。犯行の間隔が徐々に狭まっているようですから」
「ええ」
「場所を移しましょうか。そうですね、4番目の現場はまだ捜査中でしょうから、とりあえず近くの図書館へ」
「わかったわ」
 二人は再び、肩を並べて歩きだす。
「……犯人は、あなたをとてもよく知る人物のようですね」
「え」
 不意に、あるいは唐突に、ドクターDは語りだす。
「個人の交友範囲はもとより、殺害対象のスケジュールをもここまで正確に押さえることはことのほか難しいものです」
 それこそ、24時間の監視であっても。
「警察からも警戒するよう声を掛けられているでしょうし、そうなればあらゆることに疑ってかかる分、やすやすと誘いに乗ったり自由を奪われたりもしないでしょう」
「……だから油断……、顔見知りの犯行になるのね」
「盗聴などといった手段を用いたとしても、個人の行動には限界があります。……限界のない、超人的にして異能なる者が犯人という可能性もないわけではありませんが」
 だとしても、それほどの労力を持って明日個人に向ける『感情』の正体はなんなのか。
 明日は彼の次の台詞を待つ。
 けれど、彼は明確な解答を述べる代わりに、ただ静かに微笑んだだけだった。



 かつて、彼は言った。
 自分は自分の絶望から這い上がるつもりはない、と。
 そして、自身の手で終わらせるつもりもないのだと。
 止めるものがいないなら、どこまでもどこまでも、まるで癌細胞のように〈病〉は肥大し続ける、とも……



 図書館の裏庭は、思いのほか緑が多く、広い。
 だが、暮れ行くそこに足を踏み入れるものはなく、ボンヤリと立ち並ぶ外灯の光はドクターDと明日の2人だけを照らす。
「いつまで続くのかしら」
 まるで嘲笑うかのように捜査の間隙を縫い、なされる犯行の周到さには異様な感触が付きまとうだろう。
 決定的に、徹底的に、〈死〉が明日の周りで増えている。
 次々と。
 容赦なく加速し続ける事件。
「……あたしは“犯罪”に好かれているんだって、以前同僚から言われたことがあるの」
 ひとりの人間として、負うべき事件があまりにも多すぎると。
 当たり前の19歳の少女ならば、想像することはできても実際に得ることはないだろう〈経験〉が明日には蓄積され続けている。
「……だから、終わらない……止められない、のかもしれないけれど……」
「もし止まりたいと望むなら、止める方法はありますよ、流鏑馬さん」
 穏やかな声が夜の帳の中でゆったりと紡がれる。
「流鏑馬さん、これは確認なのですが……、あなたは本当に真実に辿り着きたいと、そう願っていますか?」
「もちろんよ。あたしは刑事だもの」
「そうですか」
 深い海の色、深い深い、吸い込まれそうに深いまなざしの中に映る自分の姿を、明日はいつものようには見つめ返すことができなかった。
 初めて彼に出会ったのは、もうずっと昔。
 自分がまだ14歳だった頃。
 あの時も自分は“事件”の只中にいて。
 けれど、ソレが『出会い』だと気づいたのは、この街に魔法が掛かって、さらなる事件に関わるようになってからだ。
 彼からもらった〈彼専用〉の携帯電話が、どれほど自分にとって特別なものか、つきつめて考えることが怖かった。
 彼に見つめられる。
 そのことにこんなにも心乱れる自分がいっそ滑稽ですらある。
「……それとも、あたしは解決を望んでいないと、そう思うのかしら、ドクター」
 人が死ぬ。
 死んでいく。
 いつだって自分の手の中から、大切なものはこぼれていく。
「ドクター……あたしは、どうすればいいのか、ずっと考えているわ」
 彼を直視できず、明日は視線をさまよわせ、そして月の代わりに頭上で光る外灯を眺めながら言葉を綴る。
「1人目のあの人には大切に抱えている人がいて、2人目の彼女にも想いを寄せている相手がいて、3人目の……あの人も大切な家族がいた。4人目の彼も、心を占める人がいたはずね……みんな、大切な人がいて、みんな、その人との幸せを夢見て、みんな……他の人が入り込む隙のない関係を作り上げていた」
 うらやましいくらいに、完璧なる人間関係の構築だった。
 あの人達は幸せだった。
 とてもとても、幸せそうだった。
 焦がれてやまないほどに、そのヒトは誰かにとっての特別だった。
「ドクター」
 彼はいつもそこにいた。
 永遠の別れなど、もしかするとこの街では存在しないのかもしれないと錯覚させるほどに、奇跡は起きた。
 奇跡は起こる。
 ただ、それを本当に望んでいたかどうかまでは分からない。
「……あなたも、いつかはいなくなるのよね」
 ポツリと口をついてでた言葉は、驚くほど暗い感傷に支配されていた。
「あなたも、あたしの前から消える。ある日突然、消えて、そして、永遠に手の届かない場所にいってしまう」
「流鏑馬さん?」
「父がそうだった。母もそうだった。幼馴染も、あなたも、みんなあたしの前からある日突然消えるの」
 小学校へ上がる頃には、明日はなぜか祖父母と3人きりで暮らしていた。
 たった3人、その事実の不可解さに気づいたのは、同級生からの指摘があったせいだ。
「誰も、残らない……」
 ひとり、ふたりと自分の前から欠けていく。
「誰も残らない、誰ひとり、あたしの傍には残らない。誰もあたしの特別にはなってくれない」
 両手を見つめる。
「あたしを見てくれる人はいないの。あたし以外の人を選ぶの、あたし以外の誰かの所にいってしまうの、いって、もう、戻って来ない」
 胸が軋む。
 狂おしいほどに、感情の嵐が自分の中に吹き荒れている。
「教えて、ドクター。どうすれば、いいの?」
 苦しげに、悲しげに、切なげに、明日は問う。
「気づいているんでしょう? 気づかないはず、ない。だから、あたしとここに来た。ここに来て、ねえ、あなたは何をいうつもりなの?」
 問いながらも、答えてほしくないと願う。
「……流鏑馬さん」
「ドクター!」
 遮るように、叫ぶ。
「名前を呼んで、ちゃんと呼んで、名前を呼ばせて……、ちゃんと、あなたの名前を呼ばせて……っ」
 これは願いなのか、それとも望みなのか。
「彼みたいに、あの人みたいに、あたしを呼んで、あたしに呼ばせて、特別だって思わせて、信じさせて、お願いだから――っ」
 どこまでもひたすらに優しい深海色の瞳が、自分に注がれている。
 誰にでも平等に優しい、誰にでも平等に接する、誰にでも平等の距離を保つ、特別を持たない、本心の見えない『大人』。
 一回り以上の年上の、穏和で、どこまでも不思議な人。
 誰にでも優しい、誰にでも手を差し伸べる、それは当たり前の行為のようでひどく難しいことなのに、彼は容易くやってのける。
 だからこそ感じる。
 一定の距離感、一定の感情、一定の関係、一定以上にはなり得ない――絶望的に遠い人。
 これは、絶望。
 これは、病。
 本当はもうずっと以前から、自分もまたこの病に罹患していたのかもしれない。
「傍にいて、あたしを見て、あたしだけを必要として、ねえ、誰かヒトリでいいから、あたしをあたしだけを、あたしだけのものになって――いなくならないでっ」
 感情をコントロールできない。
「そうでないと」
 あふれて、揺れて、つき動かされて、止められない。止められないままに、いっそ自虐的なまでの暗い昏い悲壮な顔で告白する。
「……そうでないと……、あたし、あなたも殺してしまうわ」
 だが。
「明日」
「え」
 凍りついていたはずの胸が鳴った。
 わずかに跳ねて、リズムを崩した。
 名前を呼ばれた。
 初めて、彼から苗字ではなく、名前を呼ばれた。
「わたしがあなたの願いを聞き届けなかったことが、一度でもありましたか?」
 そこにいるのは、静かな笑みをたたえた人。
「幾度もわたしの元へ足を運んでくれた、〈病〉に捕らわれる前にお逃げなさいと、そう言ったのに、留まり、わたりを看取ってくれたあなたの願いを、どうして無碍にできると思いますか」
 揺れる、揺らぐ、その深海色の瞳、表情、憂いに翳る静かな微苦笑は、それは、
「ドクター……?」
 そこにいるのは、ドクターD。
 どうしてかはわからない。
 けれど確信していた。
 目の前にいるのは――いまこの瞬間に自分が対峙しているのは、すでに失われたはずの〈1人目のドクター〉なのだ。
 ソレは確定された事柄。
「伝えることのなかったわたしの名前を問うのなら、お答えしましょう」
 ご褒美だと、彼は言う。
 ひどく透明な、憂いと絶望に彩られた静かな微笑で、彼は、そっと明日に手を差し伸べる。
「わたしの本当の名は――」
 やわらかく髪を撫でられ、流れるような所作で首筋にそっと手を添えられながら、耳元で囁かれる〈音〉。
 求めたその音の連なりを得て、明日は闇に堕ちる覚悟を決める。
「あたしは、赦されない……あたしはあたし自身にも、他の誰にも、赦されたくないわ……」
「わかりました」
 誰にでも手を差し伸べる、けれど誰よりも絶望を宿すものに心を砕く、その深海色の瞳が自分だけを見つめている。
「……ソレがあなたの願いなら」
 彼は、ドクターDは、絶望の淵に立って死を振り撒くものではあったけれど、その実、自身では誰ひとりその手に掛けてはいなかった。
 誰ひとり、この銀幕市で殺してはいなかった。
 その彼が自分だけを、直接、その手に掛けるという。
 これは、特別。
 どうしようもないくらいに最初で最期の、特別であると実感させてくれる行為。
 明日は彼の名を呼ぶ。
 吐息のように儚く、けれどたしかな想いをもって。
 そして。
 淋しい殺人者は、優しい殺人者の手によって、深い深い闇に堕ちていく。
 寄り添うものも、付き添うものもいない。
 ただ、静かに微笑む者の手によって。
 たったひとりで、19歳の少女は、永遠の眠りが待つ深淵へと落ちていった――





 パタリと、明日は本を閉じる。
 DVDであふれ返った自室、そのベッドの上で、膝を抱え、自分自身を両手で抱きしめるようにしながら眉をよせた。
 ピュアスノーのバッキーが不思議そうな顔をして、明日の肩をよじのぼってきた。
「……大丈夫よ、なんでもないわ、パル」
 指先でパルの鼻先をなでながら、それでも胸に抱えた鈍い痛みはなかなか消えそうになかった。
 赤色灯が回る冒頭のシーンから、不謹慎だと感じはしたのだ。
 これは虚構の美学に基づいたフィクション足り得ない、不穏にして不吉な空気をまとっていた。
 読むべきではないと、思った。
 だが、以前関わった子供たちによるバリケード事件、銀幕ジャーナルで知った銭湯『もりの湯』での不可解なできごと、そして時折洩れ聞こえてくる噂から、この【本】が何らかの謀略を意図されているとも感じた。
 読むことで解決の手掛かりが得られるかもしれないと思ったこともまた事実だ。
 しかし、いま、明日は後悔している。
 いつのまにか枕元に置かれていた、一冊の赤い本。
 鮮やかなベルベッドの手触りの、けして厚くはないその【本】の表紙には、金の飾り文字で〈Lonely Red〉と綴られている。
 この〈孤独な赤〉とでも訳されるのだろう物語は、隠しておきたい、見られたくない、自覚したくない想いを、文字として突きつけてくる。
 認めたくない内面が晒されている。
「……ドクター」
 連絡を入れてみようかと考えないこともなかった。
 だが、きっと彼は気づくだろう。自分が落ち込んでいることに、自分が不安になっていることに、気づいて、そして……どうしたのかと問うかもしれない。
 その時、自分はなんと返せばいいのだろう。
 上手く返せるだろうか。
 例えばこの本のように激情に流され、おかしなことをしないとも限らない。
 だから、【本】のことは告げずにいようと決める。自分の中でこの衝撃が消えるまでは。
 だが、まるでその決意を揺るがすかのように、ドクターD専用と決めている携帯電話が彼からの着信を告げた。
 一瞬、出ないでおこうかと考えないでもなかった、けれどそうするはずもなく。
「……はい」
 緊張した面持ちで応える。
 そして、その表情に驚きが加わった。
「え、【本】が?」
 ドクターDの所にも、【本】が届いている。
 その事実に、明日はいても立ってもいられなくなっていた。


「ようこそ、流鏑馬さん」
 銀幕市立中央病院が内に抱える〈ガラスの箱庭〉で、彼は傍らに2人分のティーセットと一冊の書物を置き、微笑とともに明日を迎えた。
 憂いに翳るものではない、ただどこまでも優しい笑みだ。
「あなたの元にも【本】が届いたと聞いて」
「ええ。ただし、わたし自身の物語とするにはいささか視点が多岐に渡っているのですが」
 そうして告げられ差し出された【本】のタイトルは、明日に届けられてものとはまるで違っていた。
 当然、そこに綴られていた物語もまた全くのベツモノだ。
 ならば、彼に自分の内面を読まれたわけではないのだ。
 知らず、そっと息をつき、気を取り直すように彼を正面から見つめ、明日は問う。
「……ドクター、あなたはこの本を手にしてどう思ったか、聞いてもいいかしら?」
「そうですね……、ひとつだけ言えることがあります」
 そっと本の表紙を指でなぞりながら、彼はきっぱりとした口調で告げた。
「この本は人の心を映すかもしれません、けれど、ここで語られる物語はすべて、起こり得ない未来、〈切り捨てられた可能性〉でしかないということです」
「どういうことかしら?」
「そこに誰のどんな物語が綴られていようとも、ソレは作られた物語でしかないということですよ。けして選ぶことのない選択肢が提示されているのですから、けして現実にはなりえない。違いますか?」
 優しい瞳の優しい精神科医は、難解な言葉を返す。
 けれど、それでも自分は望んでいた答えを得ることができたのだと、確信する。
「……そうね、そうだと思うわ」
 明日はようやく、ほんのわずかだが笑った。
 心の底から、安堵した。
 気づけば、あの【本】を読んでからずっと胸の奥で疼いていた〈痛み〉すらも今はもう消えている。
 だから、決める。話すべきことを話そうと、自分に届いた本のはなし、そこから仮定される推測について語り合おうと決める。
「ドクター、あたしからもひとつ、聞いてほしいことがあるの。いいかしら?」
「ええ、もちろん」
 あなたの願いを聞き届けなかったことがありますか、そう続いた気がしたのは錯覚だろうか。
 わからない。
 けれど、明日は構わず告げた。
「実は……」
 そして。
 精神科医の傍らで、あるいは少女の自宅のテーブルで、〈赤い本〉は、ただひたすらに沈黙を続けていた。


And that's all…?

クリエイターコメントいつもお世話になっております。
そしてこの度は、プラノベ企画にご参加くださり、更にドクターDをご指名くださり、誠に有難うございます。
周囲の親しい人達が次々と亡くなっていくという事件の中、いくつかのキーワードを頂き、さらに犯行動機を含めた詳細をお任せいただいたため、明日さんにしては少々珍しいシチュエーションをご用意させて頂きました。
解釈その他、【物語オチ】ならではのモノとなっていれば良いのですが。
お待たせした分も含めて、楽しんでいただければ幸いです。

それではまた、約束と出会いの待つ銀幕市のどこかでお会いできるのを楽しみにしております。
公開日時2008-08-16(土) 23:00
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