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<ノベル>
波打つ赤い髪が、あふれゆく赤い血だまりの中に広がる。
無数の十字架を鮮赤に染める、おぞましい血の宴。
無数の屍を鮮赤に染め上げている、おぞましい罪の儀式。
救いの主はどこにもいない。
彼女が信じ、彼女が求めた相手は、彼女に救いの手を伸ばさなかった。
十字架が赤く染まる。
彼女のパーティドレスが、どす黒く染められていく。
それでもまだ、彼女は信じた。
自分の愛した相手を、信じ続けた。
彼女は殺された。
血を糧とする魔物の手から逃れることのできなかった彼女は、彼等の手によって引き裂かれ、殺され、無残な姿を晒すこととなった。
それでも彼女は、相手の名を胸に抱き、呼び続けた。
幾度も幾度も、息絶えるまで、幾度も。
その光景を、少年は見ていた。
無数の十字架の群れの中、闇に紛れて、少年は怯えながら、同時に憎悪に悶えながら、彼女の死の瞬間、そして死後の姿を見つめ続け。
そして、復讐を誓う。
おぞましき闇の眷属たちに。
赤い月の光と濡れた十字架が少年の内に灯すのは、深い深い絶望の暗い昏い炎だった。
*
静寂を抱く、真夜中の時間。
間接照明がもたらす柔らかな光の中で、サイドテーブルに上質なウィスキーボトルとカットグラスを置き、シャノン・ヴォルムスはアームチェアで心地良い酩酊感とささやかなまどろみを楽しんでいた。
ここは、会社。
ここは、願うことすら許されない〈夢〉を現に映し出す銀幕市の、自分が構えた会社の事務所。
わずらわしい〈教会〉の監視がない日常、自身の決めたこの街のこの場所でふわふわとした揺れに身を委ねるのは、ハンターとして過ごしてきた日々を考えればひどく贅沢に思える。
例えその額に、冷たく鋭い銀の刃を押し当てられていたとしても。
「……なんだ、遊んでほしいのか?」
口の端に笑みを浮かべ、シャノンは問いかける。
「ずいぶんと情熱的だな」
こちらの動きを封じるようにのしかかる者へ、愛しげに、そしてどこか愉しげに軽口をたたく。
だが、相手からの返答には一片の親しみもなかった。
「あんたには殺されるだけの理由がある。だよな?」
見上げる形となった相手、間接照明のみの静かな光の中、至近距離からこちらを見下ろすハンス・ヨーゼフの緑の瞳には、はっきりとした憎悪が宿っていた。
「ずっと機会を待っていた。ずっとだ。あんたとこの街で再会してからずっと、いまだ果たせない復讐の機会をずっと待ち続けていた」
「……そうか」
銀幕市は夢を見ている。
ずっと醒めない〈誰かの見る夢〉の中で、シャノンはハンスと再会した。
彼らはともに同じ映画から実体化した。
作られた〈過去〉と〈記憶〉を共有して、非現実的な〈現在(いま)〉を過ごす。
憎しみも悲しみも喜びも願いも思い出も、すべてが重なり合う存在。
だからシャノンは、ハンスの告白をさほど意外だとは思わなかった。
ただ、ほんの少し残念に思うだけだ。
彼は愛しい存在だから。
「……あんたが殺した」
ハンスの声に重なりシャノンの内によみがえるのは、陽の光の中、十字架の群れの中に打ち捨てられた赤い髪の女の死。
「あんたが見捨てた」
同胞の暴走に気づいた時にはもう、何もかもが手遅れだった。
「あんたがいなければ、彼女は死ななかった」
あれもまた自身への見せしめだったのだと思い知らされたのは、彼女の死を突き付けられた時。
赤い髪の〈彼女〉は死んだ。
美しい金の髪の〈彼女〉と同じように、殺された。
間に合わなかった、間に合わせることができなかった、救えなかった、約束を守れなかった、守ってやれなかった、悲劇を止められなかった、止めることができたはずなのに。
――幸せになりましょう?
彼女は言った、なのに。
これは後悔、シャノンの中の、度し難い後悔の記憶でもある。
「あんたが殺した、あんたが見捨てた、あんたがいなければ、あの人はあれほどの恐怖を味わうことはなかった」
その心がぎしりと軋む、そんな音すら聞こえてきそうなほどに苦しげに彼は言う。
「殺せるなら、殺してみたらどうだ?」
まるで宗教画のように美しく整ったその顔に挑発的な色を浮かべて、シャノンはまっすぐに彼を見やる。
彼の瞳。
彼のその滾る殺意の視線がいっそ心地良く、そしてひどく懐かしい。
過去の自分と対峙しているかのような、そんな錯覚に陥る。
「殺してやるさ、これは断罪だ」
「――っ」
ナイフが、一閃。
しかし、それはシャノンの喉ではなく右肩から左胸を斜めに切り裂いた。
鮮やかに、そして正確に、致命傷に至るぎりぎりの深さで。
「だが、簡単には殺さねえ」
吸血鬼を傷つける、その傷口をふさがせない、聖別された純銀のナイフをこの自分相手に選んだのなら、武器の選択を褒めるべきだろう。
「あんたは懺悔したか?」
頭を安楽椅子の背もたれに押さえつけられ、今度は左肩から右胸にかけて切り裂かれた。
歪な十字架が鮮赤の軌跡を伴ってシャノンの体に大きく刻まれる。
「あんたは後悔したか? あんたは苦しんだか?」
焼けつく痛みはそのまま、ハンスが抉られた精神の傷に等しいのだろう。
「全てがなかったことになることを、あんたは狂おしいほどに望んだかっ?」
赤い記憶。
ソレは、赤い月が映える共同墓地での赤く染まった鮮赤の宴。
彼女の死、彼女にもたらされた悲劇の記憶が、ハンスを苛んでいるのがわかる。
手に取るようにわかる。
鋭いまなざしの青年の魂に刻まれた〈彼女の死〉の重み、痛み、苦しみ、憎悪のすべてがナイフを介して、そして触れる相手の肌から伝わる。
「……あんたのせいで死んだのに……、あんたの心は別の女に捕らわれたままだ。その不公平さは罪だ、ならソレは裁かれるべきだろ?」
光をまとった銀の刃は無数の十字架をシャノンに刻んでいく。
「あんたは誰を望んだ? あんたは誰を追う? あんたはあのダンピールの影を求めてるが、一度として人間の彼女を思い出したりはしなかった!」
これは断罪。
ハンスからシャノンへと向けられた、当然とも言うべき糾弾であり、告発であり、慟哭だ。
ナイフが鎖を断ち切ったのか、音を立てて、シャノンから十字架と、そして懐中時計が滑り落ちる。
どちらも大切なもの、どちらも手放すことのできない、とてもとても大切な――
「あんたは顧みない、あんたはあんたの幸せしか見てない、あんたは俺も見捨てて、そうしてひとりでこの街で勝手に幸せになった!」
赦せない、赦さない、赦せるはずがないと、叫ぶ。
刻んで、切り裂いて、抉って、いつしかまとったその服はあふれだすどす黒い赤色に濡れて重みを増していた。
ハンスもまた、相手の血によってその両手をべっとりとした赤に穢していく。
窓の向こうから差し込む赤い月の光のもとで、ヴァンパイアの血が、ダンピールによって流されていく。
フローリングの床を侵して、どこまでもどこまでも、どこまでもとめどなく流され続ける〈赤〉の色彩。
それでもシャノンは挑発的な笑みを、余裕ある視線を、その端正にすぎる顔から消さずにいる。
かつて自分もそうした。
幼かった自分もまた、かつてそうして手に掛けた――実の父親に、目の覚めるような銀の銃弾を浴びせて。
だがこんなにも強い想いとともに、自分はあの男と触れ合ったりはしなかった。
ハンスは触れる、求める、内側からほとばしる激情のままに切り裂く行為もまたいとおしい。
「嗤っているのか、許しを請わないのか、どうしてあんた――」
「……俺は、俺の愛したいと思ったものをとことん愛する」
「そんな言葉はいらない!」
ナイフが、シャノンのノドを切り裂いた。
あふれだす、その鮮赤は、どんな上等なワインよりも濃厚で甘美な味わいを与える。
シャノンは笑った。
ひどく愉しげに、ひどく懐かしげに、そしてひどく愛しげに、ハンスに向けて笑いかけた。
「愛してるからな、ハンス」
その両手は、思慕によって狂ったオイディプスのごとく、〈父親殺しの罪〉によって赤く染められた。
*
あの男は笑った。
甘く笑って、すべてを受け止めるようにやわらかくいとおしげに愛を囁いて、息絶えた。
あの時の皮膚を引き裂き、肉体を刻んだ感触がまだべっとりと手の平に貼りついている。
復讐は果たした。
罪深き存在を断罪した。
なのになぜ、夢にうなされる。
なぜ、心がかき乱される。
わからない、わからない、わからない、どうしようもなく自分の心がわからない。
手に残る感触。
網膜に焼きついた微笑。
鼓膜に貼りついた、告白。
シャノン・ヴォルムスは、死してなお、この身を支配する。
あの日、あの時、向けられたソレはまるで、慈父の微笑――
*
あの日。
いつもと同じ、日常の延長として通い慣れた事務所の扉を開いたあの時。
エリク・ヴォルムスを迎えたのは、愛しい肉親の笑みや抱擁ではなく、濃厚な血の匂いと、一巻のプレミアフィルム、そしてかつて自分が兄に贈った懐中時計だった。
「……兄さん……」
あの日の光景を、エリクは忘れない。
誰がソレを知らせてくれたのかはもう思い出せもしないのに、あの日のあの光景だけは網膜に焼きついている。
血にまみれたフィルムを、エリクは半ば呆然としながら言葉にできない衝撃と共に手にした。
「……兄さん……どうして……」
ヴォルムス・セキュリティの事務所は、エリクにとって、絶対に犯されたくはない領域だった。
兄をトップに、数名の社員で構成されたこの銀幕市における自身の大切な居場所、それが穢された。
教会と組織、追う者と追われる者との冷徹な駆け引きもなく、断罪者も告発者も糾弾者も監視者もなく、優しい人たちと過ごすことが許された場所だった。
なのに。
「なぜ……」
だから、赦さない。
自分から大切な人と大切な場所を奪った相手を、けして赦さない。
深く暗く刻まれる傷。
無数の十字架を抱くように、弔いの鐘を打ち鳴らすように、紅い光景によって変質したエリクの内側に灯る、これは憎悪と復讐の誓い。
「あれが始まりであり、そして終わりだったなんて、僕は思いません」
人が死ぬ。
死んでいく。
この街は驚くほど多彩な死に彩られている。
調べれば調べるほどに、不吉な〈赤〉がこの街を侵食しているのがわかる。
銀幕市役所の対策課では今日もいくつもの依頼が上がっている。一見平和に見えるこの街には、いったいどれほどの〈赤〉があふれているのか。
日に日に増していく赤の色彩。
日に日に増していく悲劇たちが、対策課の掲示板に連なっていく。
誰かが何かを求め、誰かがソレに応える、そうして連鎖していく悲劇は終息し、次なる悲劇と入れ替わるのだ。
だが事件の依頼とは時に、対策課を経由しない場合もある。
例えばそう。
この扉を叩き、やってくるように。
「……同族殺し、ですか」
依頼人は視線を出されたティーカップの上に置いたまま、こくりと小さく頷いた。
「手当たりしだいだ、あり得るはずのない殺戮が何者かの手により繰り返されている……」
血にまみれたプレミアフィルム。
吸血鬼のムービースターばかりを狙った、連続殺人事件。
銃声とともに地に落ちるフィルムの音を聞いたものもいるという。
この街に吸血鬼は多い。
だが、この街はあらゆるものに対して寛容にできている。
そのルールはいかなるものも破ることを許されない。
破れば、この街は容赦なく断罪を執行する。
それを為せるだけの力を投じて。
「赤い髪の……、恐ろしく鋭い気配を持った〈男〉だという話も聞いた」
赤い髪、鋭い気配、吸血鬼を殺せる存在という強固さのすべてに、依頼人が怯え厭うすべての要素に、琴線が触れる。
「わかりました。兄に代わり、私がその依頼を引き受けましょう」
依頼人は短く礼を言い、そして手付金として提示された紙幣の入った封筒を置くと、影に溶けるように姿を消した。
そして、事務所にはエリクだけが残される。
他に誰もいないこの場所で、思考の海に沈むように、エリクはそのしなやかな指先でそっと自身の唇をなぞる。
闇はヒトを隠し、魔物を呼び寄せ、そうして語られるべき真実を覆う。
では、語られるべき真実とは何であるのか。
答えは明白だ。
「……報いを、受けていただかなくてはいけませんね」
十代のあどけなさを残す口元に緩やかな笑みが浮かぶ。
だが、その笑みは、見る者の魂を凍てつかせるほどに暗い闇に彩られていた。
窓の向こう側。
ガラスに隔てられた空の上に、欠けた月が赤い光を注ぐ。
*
失われたのは、永遠の安息。
失われたのは、この街に約束されていたはずの幸福。
失われたのは、この街で寄り添うことが許された最愛のひと――
*
研ぎ澄まされた闇色の世界、月が映える真夜中の自然公園。
狩人は闇に身を浸し、刹那のためらいもなく引き金を引く。
断末魔すら許さずに、獲物をまたひとつ、片付ける。
切り裂いて。
引き裂いて。
抉り、壊し、徹底的に砕いて、血をすすり、生命と存在の一切を終わらせる。
その感触はうっとりするほどに現実的で、その行為は眩暈がするほどに甘美だった。
この瞬間だけは、すべては思い通りだった。
すべてが自分だけのものだった。
だが、その暗い充実感も満足感も、そして心地よい酩酊感も、たった一瞬胸をよぎる〈記憶〉によって急速に醒めてしまう。
後に残るのは、途方もない虚無感だけ――
「その行為は、ただの逃避ですね」
音もなく、木々の合間で揺れていた影がゆらりと人の形を作る。
「間に合いませんでしたか……ああ、いえ、むしろぎりぎりで間に合ったと解釈する方がいいかもしれませんね」
はじめに瞳が、次に唇が、そうして影そのものが、明確なる色彩を伴って完全なる実体化を果たす。
「ねえ、ハンス・ヨーゼフ?」
リンと響いて空気を震わせる冷ややかな月を思わせるその声の主を、ハンスはなかば予想していた。
「……エリクか」
来ると、いつか来るのだと、どこかで予感していた、あるいはソレを望んでいたのかもしれない。
「あなたの『仕事』はまるで餓えたケモノのように浅ましい」
流れるような美しい相手の髪が、木々の合間からわずかに差し込む月光を滑らかに映す。
「その浅ましさがただの逃避であることがなお醜いですね……」
蔑むその言葉にも、熱はない。
「何故兄さんをその手に掛けたのですか? 黙秘は許しません。答えてください」
影が、木々の合間を、ハンスとエリクの間を、その足元を、夜の世界を、赤い血潮で穢された地をちらちらと移ろいうごめく。
ほんのわずか、逡巡するようにハンスは沈黙し。
そして、ただまっすぐに答えを差し出す。
「断罪だ。あの男は罪を犯した、ソレ以外に理由はない」
悲劇だ、すべての悲劇、あの日無数の十字架の中で息絶えた『母』の姿への贖罪に、あの行為は必要だった。
「あの男は、いかなる幸福のもとにもいるべきじゃない」
だが、その答えを受けた追跡者は、首をかすかに傾げて、整いすぎた冷たい笑みで返す。
「独占欲ですか……」
「断罪だと言ってるだろうが」
不快そうに眉を寄せても、相手は緩やかに首を横に振って否定してみせる。
嘘だと断じるに等しいしぐさだ。
「奪われるくらいなら、自分から壊してしまえばいい、そういう意味でしかないでしょう?」
「違う」
「違いません。あなたは兄の優しさに、兄の愛に、全身で甘えたにすぎない」
酷薄な青の瞳が、一層凍える。凍傷(やけど)しそうなほどに冷たいまなざしで貫かれる感触。
「殺す隙を窺っていた? 復讐の機会を得たかった? 違いますね、あなたはただ、誰かのものになる前に兄を殺したかっただけです」
「何を言っている」
「あなたは殺した、幾度も幾度も切り裂いた、けれどそれはそうしてもけして兄が抵抗しないと、自分を殺そうとしないと、ソレを知っていたからやれたにすぎない」
エリクの手が、そこに握られているものが、きらりと光を反射させる。
「あなたは殺した、幸福のただなかで、大切なものが増え続ける兄を見て、あなたはあなたの内で渦巻くどす黒い感情を、復讐と履き違えたにすぎない」
ずいぶんと都合のよい解釈だと、彼は責める。
「赦せない、赦さない、僕は我慢していたのに、兄が幸せであればそれで満足だったから、だから僕は僕だけのものにすることを諦めたのに……、あなたはこの僕から兄を奪った」
冷然と微笑むその表情には、一片の慈悲も存在していない。
人ならざるモノの意思のみがそこにある。
「僕は赦しません、赦さない、あなたがしたことの一切をけして赦すことはないでしょう」
ふぅっと、口元の笑みが深まった。
「あなたは僕から兄さんを奪いました。ささやかな幸福の中にいた僕の兄さんから、すべてを奪い去った、その罪はなにより重い」
だから、償わせる。
その言葉の残響が消えぬうちに、エリクは地を蹴った。
影が、大きく揺らぎ、舞う。
「――っ」
さざめく闇色の世界で、銀のナイフ、銀の軌跡、銀色の炎が散る。
甲高い響音。
可聴域と可視領域を越えて取り交わされるのは、人ならざるものたちによる人ならざる世界でのダンス。
人ならざる理の中で、いっそ人らしい熱情を抱いて、彼らは漆黒の世界で罪の等価交換を行う。
「あいつに幸せは必要ない」
「あなたにそれを決める権利はありません」
「あいつは殺した、あいつは見捨てた、あいつのせいですべてが狂うんだ!」
「兄さんは常に罪と共にあった、兄さんは常に償いと共にあった、兄さんは常に後悔と懺悔と苦痛と共にあった、その兄さんが、ここではすべてから解放された」
なのに、奪った。
望んでいたのに。
願っていたのに。
兄の幸福を、その傍らにいる自分を、光ある世界での夢のような美しい〈日常〉を愛していたのに。
そう、声なく慟哭する追跡者の刃を受けながら、ハンスは考える。
考えざるをえなくなる。
あの日、あの時、あの月の光が落ちた部屋の中で、なぜシャノン・ヴォルムスは抵抗しなかったのだろうか、と。
愛している。
愛していると、あの男は言った。
愛していると、何故、そんな言葉を自分に掛け、微笑んだのか……分からない。
一瞬の隙が生まれた。
反応が遅れた。
エリクが己が手にした銀のナイフを逆手に持ち、ハンスの懐へと――
「言い忘れていたけど」
一閃。
「接近戦において、あなたは僕には勝てませんよ」
兄さんだって、勝てなかったんだから。
そう言外に含めて、エリクはほほ笑む。
「兄さんはあなたに殺された、兄さんはあなたに殺させた、つまり僕の兄さんはあなたを愛していたということになる」
殺されることを許容するほどに愛していた、兄のその愛情を、受け止め損ねたあなたが憎いのだとエリクは笑う。
そして。
「だからあなたは報いを受けなければならない」
この街のルール、この街の理、この街の規律に従って、エリクは同族殺しのハンス・ヨーゼフを断罪する。
完膚なきまでに、切り刻む。
かつて……、そう、映画と呼ばれる向こう側の世界では実行することの叶わなかった〈日常〉を破壊した、この自分を彼は――
ハンスは赤く染まる視界の向こう側で、ひどく穏やかにほほ笑み、銀の美しい軌跡を描く相手を見やる。
喉を、胸を、腹を、腕を、足を、自分を構成するありとあらゆる場所を、ダンピールとしての回復力も追いつかないほどに刻まれながら。
遠く遠くどこまでも深い闇に落ちていく苦痛の中で。
ハンスもまた、笑みを浮かべた。
――これで、あの日のあの赤い世界から、ようやく自分は解放されるだろうか……
エリクはそこに佇む。
遠くに夜啼き鳥の悲鳴を聞きながら、赤く濡れながらもひどく美しい姿で立ち尽くす。
足もとには叩き潰され原形を留めることすら許されなかったプレミアフィルムが一巻、赤の色の中に沈んでいる。
だが、それを見ることはない。
ソレを直視する代わりに、エリクは両手を開き、そっと視線をそこへ落とす。
この手にはべっとりと贖いの血がまとわりついている。
復讐は遂げられた。
断罪は終わった。
けれど、なにも戻らない。
本当に望んだものはすでに壊れ、壊され、二度と元には戻らない。
「僕は愛している、愛していた、僕は兄がいるからこの世界を愛せた……なのに、世界は僕を裏切った……」
ハンスの内側からあふれた赤い色彩がエリクの白い肌を侵していた。
血を分けた実の兄、大切なその彼の息子を殺した。
血は繋がり、血は育み、血は再生させる。
兄の中にも流れていた、赤い血。
美しい、生命の証。
「……兄さん……」
ちらりと、指先に舌を這わせる。
甘美な刺激が口の中に広がった。
「……兄さん……、僕は……兄さんを取り戻すことができるかもしれません……」
胸の内に閃く、神を信じない吸血鬼にもたらされたソレを、果たして何と呼べばよかったのか。
「……贄を、さがしましょうか……兄さんにふさわしい存在を」
赤の宴。
赤の日常。
うっとりとした願いの中で、エリク・ヴォルムスはひとつの目的と手段を得る。
「失われたものを、取り戻さなくては……」
この街は夢を見ている。
この街は、醒めることのない悪夢の中で宴を催す。
この街は、夢を具現化するためのありとあらゆる要素を持っている。
そして、そう、そうして美貌の吸血鬼は、夢にさまようこの街を血ぬられた赤い夜で覆いつくしていく――
「ねえ、兄さん……僕の、僕だけの、兄さん……早く、会いたい……」
*
*
*
「あまり面白いとは言えませんね」
半ば呆れるようにエリクはそうコメントした。
ガラステーブルにティーセットを並べ、流れるような所作で淹れられていく紅茶からはほのかな甘い香りが立ち上る。
「僕たちがシリアルキラーとなるなんて、そもそもの前提が間違っています」
ヴォルムス・セキュリティの事務所は現在、緩やかな日差しの中で午後のティータイムが催されていた。
お茶受けはシャノンのもとに届いた一冊の赤い【本】、そこで語られているのはシャノン・ヴォルムスを中心として血で繋がる三人の物語だった。
「たしかに、な」
優雅にソファで足を組み、シャノンはけだるげな仕草で【本】のページを繰りてゆく。
「最近〈本〉にまつわる噂をよく聞く気がするが……ただの暇な奴らのいたずらならそれでいいんだがな。ご苦労なことだ」
鮮赤の表紙はベルベットの滑らかな手触りを持ち、けして厚くはないけれど十分な存在感を放つその【本】の表紙には、金の飾り文字で〈Retaliatory Red〉と綴られている。
報復の赤。
連鎖する赤の吸血鬼たちの物語。
「それにしてもずいぶんと凝った装丁だよな」
ソファの背後に立っていたハンスがするりと手を伸ばし、シャノンから【本】を奪う。
「俺は今の状況、けっこう気に入ってんだけどな。こう見られても仕方ないってことなのか」
自分たちが抱く〈過去〉、映画という世界によって与えられた物語の中でなら、確かにあり得ない話とも言えない。
だが今この瞬間、少なくともここにいるハンス・ヨーゼフにとって、この物語はずいぶんと悪意ある邪推にしか映らなかったらしい。
「まあ、どっちにしろ、ここにはいい加減なことを書いてるってことだな。あれだ、この間行った記念公園での祭りで売ってたようなもんか」
ハンスは救護所でほとんどを過ごしていたが、あの熱気と飛び交っていた〈本〉の存在は知っている。
同じだと思わないが、さしたる違いも見当たらないと言いたげだ。
「ああ、そういえばハンスと兄さんはあの催しに行ったんですね」
どうぞ、と言いながら、エリクは香りづけにブランデーを垂らしたティーカップをふたつ、兄と兄の息子に差し出す。
「それで、結局何がしたいのでしょう、ね。その本を作り、わざわざ兄さんのもとに届けた方は」
そうして自らも兄のそばに置いた椅子に腰かけ、しげしげとハンスの手の中に収まる【赤い本】を眺める。
「ハンスは兄さんを殺し、殺した衝撃から逃れるように同族狩りをして、僕はハンスを殺し、殺した先で得た天啓によって銀幕市の人たちを殺していく……そこに意味はあるんでしょうか?」
あるとすればそれはどんな意味になるのか。
そんな弟の姿に、シャノンは肩をすくめて見せた。
「まあ、下らん遊びだ。付き合ってやる必要もないだろう」
連鎖する狂気。
シャノン・ヴォルムスをきっかけとして紡がれるのだとしても、それは所詮誰かの描きだす〈物語〉の世界で綴られるべきもの。
惑わされることはない。
心揺さぶられる必要もない。
例えハンスがその胸に本当に復讐の炎を宿しているのだとしても。
例えエリクがその胸に本当に狂おしいほどの願いを飼っているのだとしても。
それらはすべて、今この場所で語られるべきものではないとシャノンは確信している。
ソレはけして覆らない、覆させない、絶対的なもの。
ふいに。
とりとめなく続きそうになっていた【赤い本】への推理を中断させるように、事務所の呼び鈴が鳴る。
「お、ようやく来たか」
待ち侘びていたとばかりに、ハンスは本をテーブルに置くと、そのまま玄関へ向かっていった。
「ん? 誰か呼んでいたのか?」
「予定より少し遅れましたが……ええ、ようやく来てくださいました」
当然の問いをエリクに向けるが、実弟はただにこやかに来訪を肯定するだけで内容までは教えてくれない。
「さあ、準備が整ったみたいだぜ、シャノン」
「だから、なんだ?」
玄関から戻ってきたハンスは、手の中に何かを握り、そしてその後ろに誰かを従えているようだった。
「せっかくだから盛大にやろうってことになったんだが、まあ、時間はかかったな」
「何を始める気だ?」
「何を、って……決まっているじゃないですか、兄さん」
「当然決まってるだろ?」
意味ありげな笑みを交わし合うハンスとエリクの間にあって、首を傾げるばかりなシャノンの目の前で。
パァアァ…ン――ッ!
小気味よい音を鳴らして、ハンスやエリク、来訪者たちそれぞれの手に握られていたいくつものクラッカーが一斉にはじけた。
鮮やかな紙吹雪と花が、華やかな色彩でシャノンを包む。
「お誕生日おめでとう」
「おめでとうございます、兄さん」
おめでとう、おめでとうと繰り返し、祝いの言葉が注がれていく。
一体いつから用意していたのか、来訪者たちはこぼれんばかりの笑顔と共にシャノンの前に押し寄せ、ケーキの箱を、料理の皿を、プレゼントの包みを、そして確かな愛情を差し出すのだ。
「……そうか、そういうことか……」
思いがけない演出に、笑みがこぼれる。
映画を抜け、新たに与えられた〈非現実的な日常〉は、望むままの姿で自分の前に差し出される。
愛しいもの。
愛すべきもの。
死と恐怖と憎悪であふれ返った赤い世界でない、驚くほど暖かな日差しの中で、シャノンはこの幸福を享受する。
祈るべき〈神〉はいた。
だからシャノンは、愛しいものにのみ向ける甘くとろけるような笑みを満面に浮かべて、愛する者たちをためらうことなくその腕に抱く。
「ありがとう」
そして〈赤い本〉は、賑やかな光あふれる吸血鬼たちのティータイムの傍らで、ただひたすらに沈黙を続けている。
And that's all…?
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クリエイターコメント | お世話になっております。 そして、この度はプラノベ企画へのご参加、誠にありがとうございました。 ひとりの〈死〉をきっかけとして連鎖していく悲劇ということで。 お三方の繋がりや、映画の中と外での関係性の変化、それゆえの心情の変化、そうして生まれる〈動機〉など、【物語オチ】であることを良いことに捏造を加えつつ、描写させていただきました。 お待たせした分も含めて、ラストシーンともども、楽しんでいただければ幸いです。
それではまた、祝福された夢を与える銀幕市のどこかで皆様とお会いすることができますように。 |
公開日時 | 2008-09-02(火) 22:20 |
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