★ ウィスパー・オブ・ザ・バタフライ ─蜂の巣に蝶─ ★
クリエイター冬城カナエ(wdab2518)
管理番号106-7478 オファー日2009-04-26(日) 21:01
オファーPC 流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
ゲストPC1 ユージン・ウォン(ctzx9881) ムービースター 男 43歳 黒社会組織の幹部
<ノベル>

 朱塗りの柱とぶら下がる電線と、氾濫する中国語の看板の下。そこは銀幕市内にいつの間にか存在していた中華街だ。中国語圏に関わるありとあらゆる映画から実体化したムービースターが闊歩する街である。飛び交う言葉は北京語や広東語、英語に日本語、ロシア語にタガログ語。ここには小さな混沌がある。
 その中のある通りを足早に歩いている時だった。流鏑馬明日は、見知った男が道端に俯いて立っているのに気づいた。
 独りで。
 明日は銀幕署の刑事で、しかも若い女である。彼は、通常なら全く接点などあるはずのなかった相手だ。それでも彼女は、彼のことを知っていたし何度も言葉を交わしていた。
 それなのに、何故だろう。
 明日は、彼に近寄りつつもその背中に声を掛けられないでいる。
 彼女は今、問題を抱えていた。もしかすると、この街を行けば彼に会うことが出来、この問題を解決する手助けをしてくれるのではないか。そうも思っていた。
 なのに。

「──私に何か用か?」

 こちらに背を向けたまま、相手が言った。
 ユージン・ウォン。中華街の住人にして、香港のバイオレンス映画から実体化したチャイニーズマフィアの一人。
 明日は無言でそっと彼の脇に立った。視線を向けられれば、それに目で応える。
「少し困ったことがあって、アナタに」
「よくここが分かったな」
 そうね、と明日はうなづく。忙しいのなら別を当たると言おうとしたが、ウォンはそうは見えなかった。
「アナタはここで何を?」
 尋ねると、長身の男は足元に顎をしゃくってみせた。視線をやれば、そこには折れた道路標識が転がっているだけだ。
「草が」
 不思議そうな明日の様子を見、ウォンが言う。なるほど、よく見れば鉄の棒が折れた跡に丸く緑色の草が生えていたのだった。小さな小さな新緑。
 それがこの男の気を引いたのか。
「こんな狭いところにも生えるのだな」
「生命力があるのね」
 明日は男の横顔を見た。サングラスの隙間から青い瞳が見えている。サファイアの色のそれはじっと地面の小さな新緑を見つめている。明日は彼がそんな目をしているのを初めて見た気がした。どこか悲しそうな、それでいて何かを達観したような──。
「私に用事があったのでは?」
 ようやく、ウォンが言った。その言葉でふと明日も我に返る。
「ええ。話をしても?」
「構わんよ」
 ウォンがこちらを見た。何かを振り払ったのか口調が変わっていた。彼の様子も普段と変わらないように見える。
 先ほどの目は何だったのだろうか。そうは思ったが明日はそれに触れないことにした。
 何事もなかったかのように、自分の話を切り出す。
「この近くで、パルが急にいなくなってしまったの」
「パル? おまえのバッキーがか」
 ウォンはすぐに状況を察してくれた。彼は明日のバッキー、パルを何度か可愛がってくれたことがある。常人には近寄りがたい匂いを放つ男だが、ああした生き物を嫌いなのではないことを明日はよく知っていた。
「あの子、寂しがりやだから、あたしの傍を離れるなんてことはほとんど無くて……」
「さらわれたと?」
 ウォンは静かに言葉を挟んだ。たかがバッキーのことで、などとは決して言わなかった。明日は、こくりとうなづく。
「なるほど、ならちょうどいい」
 ウォンはゆっくりと身体を反転させた。
「ちょうどお前に相談したいこともあったのだ。着いてこい」
 自分より一回りも二回りも大きな男を見上げ、彼女はもう一度うなづいた。明日は全く物怖じしていなかった。


 * * *


「今日は素敵なご婦人とご一緒ですね」
 丸顔の店主は、そんなことを言いながらウォンと明日を奥の部屋へと案内していった。
 その茶房は広いフロアになっていて、数人の客が茶器をカチャカチャと鳴らして昼下がりの会話に興じていたが、二人は彼らとは全く別の個室へと通される。
「馬鹿を言え」
ウォンが怒ったような顔──とはいえ彼の場合、これが常だ──で言った。「彼女は刑事だ。お前も逮捕されないように気を付けろ」
「ひゃあ、そうなんですか。それは怖い怖い」
 大げさに肩をすくめてみせる店主。
 茶室に通され、無言で明日に席に座るよう促すと、ウォンは携帯電話を懐から取り出した。
 そのまま、彼女に二、三カ所電話をさせてくれと断ると、彼は電話を耳にあてる。
 明日はうなづき、静かに座して待った。
 話を聞いてしまって良いものかと思ったが、その心配は杞憂だった。
 ウォンが低い声で話していたのは広東語だったからだ。明日には、内容を理解することは出来なかった。
 ちょうどウォンが電話を切ると、若い給仕が入ってきて茶と茶菓子を置いていった。ジャスミン茶だろうか。立ち上る湯気とともにいい香りがした。

「蝋人形を送り付けられたのだ」

 唐突に、席についたウォンが切り出した。彼は、明日が茶に口をつけるまで待っていてくれたらしい。
「蝋人形?」
「等身大のな。私の部下にあたる者たちばかりだ」
「それはつまり……」
「私の部下たちを蝋人形に変えている者がいるということだ」
 ウォンは静かに言うが、その怒りをテーブルに置かれた茶杯の大きな音が代弁した。
「相手の正体は?」
「分からん。だが心当たりはある」
一瞬だけ逡巡し、彼は続く言葉を口にした。「……例の事件だ」
「例の事件?」
 おうむ返しに明日。
「パルに食われた、あの──」
「ああ、悪魔のアマイモンね」
 ようやく合点がいって、明日はうなづいた。
 数ヶ月前だ。アマイモンと名乗る悪魔に、ウォンは小さな人形に姿を変えられ、拉致されかかったのだ。当時の思い出は、彼にはよほど屈辱的だったらしく、口にしたくもないらしい。
「この手口、奴の匂いがする。我々の組織の中でも、狙われたのは私と縁の濃い者たちばかりだ。遠くから私を包囲するように、私だけを避けて部下たちが蝋人形にされていく。敵は私に向かって周到に間合いを詰めているのだ。しかも──」
「パル、ね」
 明日の理解は早かった。彼女は刑事であり、ウォンが相談したがっていた内容がこれだと、すでに理解していた。「アマイモンが生きていて、アナタの部下を蝋人形にし、自分の弱点であるパルをさらって復讐の機会を狙っていると?」
「いや、それは考えにくい」
 淡々とウォンは相槌を打つ。彼は最初の一口以後、まったく茶杯に手を付けてはいなかった。
「奴は死んだ。考えられるのは、奴の仲間や近親者、同じ映画からの出身者だ」
「アナタはアマイモンの出身映画を見たのね」
「そうだ。そして、あのクソ映画から、今回の黒幕を割り出したのだ」
「待って」
手を軽く挙げて、口を挟む明日。「実はわたしも見たの、あの映画『地獄のコレクター 〜恐怖の人形大行進〜』を」
 大真面目な顔で彼女は続ける。
「フィギュアの世界の中で、神と呼ばれ──いえ、その神を通り越して悪魔と呼ばれた四天王が、それぞれのフィギュアの軍勢を率いて、秋葉原を占拠しようとする話よね」
「そうだ。アマイモンはその中でも男性専門。奴は軍人や警官、パイロットなどの制服ものに強かった」
「映画の中でも特に苦戦するのが、東京タワー方面から現れた援軍たちよ」
「クライマックスの部分だな」
「ええ。蝋人形館で来館者たちを楽しませていた有名人たちが地獄の軍勢と化したのよね。ジョン・レノンに、ギターを振りかざしたジミ・ヘンドリクス。マリリン・モンローに宇宙飛行士の向井さんたちの攻撃に、主人公たちは苦しめられる。その指揮官の名前が──」

「火を司る悪魔──パイモン」


 * * *


 同じころ、明日とウォンのいる茶房の外で数人の影がうごめいていた。
 ──行くぞ。
 小さな声でやりとりする男たち。みな同じ黒いスーツをまとい、銃器を手にしている。
 しかし注目すべきはその身体であった。よく見ると──彼らは人では無かった。精巧、緻密な作りではあるが、彼らは蝋で出来ていた。すなわち、蝋人形だ。
 同じ格好をした彼らは駐車場──店の裏手にあたる場所に身を潜めており、昼間とはいえ人通りはなく誰も彼らの姿に気づいてはいない。
 一人が身を起こし、手を挙げてみせる。
 すると、数十メートル向こうに停車していたトラックがいきなり急発進した。車はそのまま駐車場を真っ直ぐ走り、例の茶房の壁を目指して猛然とスピードを上げていく。
 その運転席から男が一人飛び出してから数秒後、轟音が鳴り響いた。
 直前に無人となったトラックが、ブロック塀を破壊し、店に鼻先を突っ込んだのだった。息も付かせぬ間に一人が現場に素早く近寄った。手にした何かをいくつか、破壊した壁の奥へと投げ込む。
 ゴォンッ!! と、また違った轟音がした。
 爆発である。蝋人形は店の中へ、手榴弾をいくつか投げ込んだのだ。その威力で店は半壊し、しばらくすると柱を失った部分へと落ち込むように、二階部分が斜めに滑るように崩れ落ちていった。
 もし、真下の部屋に人がいたならば。
 爆発と落ちてきた二階に潰され、ひとたまりも無いはずだった。
 ──やったか!?
 刺客たちは、爆音と煙が引くのを待って、銃を手に瓦礫の山に近づいた。パラパラと小石がまだ落ちてきてはいるが、物音はしない。
 ──表へ回るぞ!
 彼らは、そのまま足早に店の玄関へと回った。生き残ったかもしれない標的を、そちらから逃がさないためだ。
 数秒とかからず彼らが駆けつけると、店の中からは、腕から血を流し、怪我をした客の女が二人逃げ出してきた。
 パン、パン!
 先頭の男が有無を言わさず、それを撃ち殺す。
 他に逃げて来る者はおらず、彼らはまた目配せをしあうと、そのまま店の中へと踏み込んだ。

 ゴトン。

 暗い店内に、全員が踏み込んだ時。
 前に倒れてくる人影に、刺客たちは一斉に銃を向けた。しかし、その者はピクリとも動かず……。
 死体か!? 誰かがそれを足で蹴って仰向きにさせた時。
 パッと店の照明が付いた。
 床に倒れていたのは、この茶房店主の──蝋人形だった。
「これは……!?」
 と、言った者が、タンッと額を撃ち抜かれる。
 弾が飛んできたのは店の入口の方で、刺客たちは慌てて振り返った。そこには人物が二人立っていて──。

「お前たちは知っているか?」

 新義安の“双花紅棍”は、銃を持っていない方の左手でレジカウンターの脇のスイッチをゆっくり押していた。
「──蜂の巣を荒らすと、どういうことになるか」
 ゴォン……ゴォン……。無機質な音をさせて店のシャッターが上から降りてくる。それを背に、ウォンはただサングラスの奥から強い眼光を、刺客たちに向けた。両手には、彼のトレードマークとも言えるグロック34とグロック17Lが握られていた。
 逃げ道を塞がれた! ウォンの意図に気づいて、蝋人形たちはたじろいだ。そうしているうちにもシャッターはどんどん下がり、外の光が失われていく。
「奇妙な気分ね。ハリウッド・スターとこんなところで会うなんて」
 ウォンの隣りに立った、銀幕署の女刑事も言う。
「魔法がかかってずいぶん経つけれど。でも、あたしには分かる。アナタたちは、ただの蝋人形。──本物なら、もっと似てるはずだもの」
 カチッ。小さな音をさせて、彼女は手にした拳銃、シグザウエルP230のセーフティをそっと外した。
 室内に残った敵は、5人。空気が凍りついたように誰も動かない。
 そして額を撃ち抜かれ床に倒れた蝋人形も、そのままピクりとも動かなかった。ウォンと明日はそれに目をやり、目配せし合う。
 シャッターが閉じようとする数秒前。
 前触れもなく、誰かが動いた。
 ──ダダダダッ!
 店の窓際に立つ二人に銃撃が降り注いだが、蝋人形たちが破壊したのは、店のカウンターレジだけだった。
 サッと左右に分かれて跳ぶウォンと明日。
 ウォンは床で綺麗に一回転しながら低い姿勢から撃ち返し、明日は後ろに跳びながら左手を床に着いて身を翻すようにテーブルを蹴り、その影に身を隠した。
 悲鳴も上げず、男たちが二人、ウォンに撃たれて倒れる。
 だがその影にいた者たちが、床にいる彼に銃を向けた。
 ──死ね!
 叫ぶ蝋人形。しかし、その彼らの銃が発射されることは無かった。パンパン! と乾いた音をさせ、物陰から彼らの腕を撃ち抜いたのは明日だった。
 呻き、男たちは銃を取り落とした。残った一人だけが身を伏せ攻撃を避けようとしたが、そこをウォンに撃たれる。
 武器を失った刺客たちは、パッと背を合わせそれぞれの敵の方へと身体を向けた。
 蝋人形たちは多勢だったはずなのに、あっという間に残り二人だけになっていた。
 覚悟を決めたのだろうか。一人は手近な椅子を手に取り、それを振り上げてウォンに向かってくる。
 もう一人の方は、テーブルの方を持ち上げたかと思えば、いきなりそれを明日に投げつけてきた。
「──!」
 明日は咄嗟に反応して、テーブルの影から飛び出した。間一髪。ガシャアン、とテーブルが彼女の居た場所を破壊する。
 だが敵は待ってはくれなかった。テーブルを投げつけると同時に、彼は猛然と走りこんできていたのだから。男は彼女を突き飛ばそうと、目前にまで迫っていた。
 身体をよじり、低い体制のまま明日は相手に蹴りを放った。狙いは膝下。足払いだ。
 男はそれをモロにくらい、派手に転んでしまった。
 明日はすぐに立ち上がろうしたが、少し遅かった。目前で男は身体を起こし、飛びかかるように彼女にタックルをかけてきたのだ。
 ──ドンッ。
 肩に衝撃を受け、明日の細い身体は背後へと突き飛ばされてしまった。
 仰向けに投げ出され腰をしたたかに打つ。しかし彼女は悲鳴も上げずに身体を起こそうとした。そして──銃が自分の手の中に無いことに気付く。

「明日!」

 ウォンは、回し蹴りで蝋人形の首をへし折ったところだった。椅子を振り上げて迫ってきた男の腹に蹴りを入れ、空中で身体を反転させるようにもう一撃を加えたのである。
 床に倒れ伏した男の首は奇妙な方向へと、ねじ曲がっている。
 そこで味方の危機に気づいて、ウォンは彼女の名前を呼んだのだった。
 彼は明日を助けようと、両手に構えたままのグロックを、彼女を踏みつけようとしている男に向け──。
 ハッと、ウォンは背後を振り返り動きを止めた。
 次の瞬間、耳をつんざくような轟音が半壊した茶房の中に鳴り響いた。


 * * *


「な、何!?」
 巻き起こる土煙に、明日は何がなんだか分からないままに起き上がっていた。薄暗い中に大量の砂塵が舞っており、思わず咳き込んでしまう。
 辺りを見回し、ようやく状況が掴めてきて、明日は驚いて息を呑んだ。
 どういうわけか、先ほど閉めたシャッターに、人が通ることができるほど大きな円形の穴が開いていたのだ。
 まるで何かの大砲を撃ち込まれたような有様だった。
 床に倒れていた明日を踏みつけようとしていた蝋人形は衝撃をもろに受けたのだろう。遠くに跳ね飛ばされ動かなくなっていた。
 ──自分は床に倒れていたから、助かったのだ。
 そう思ったとき。明日は一緒に戦っていたあの男の姿が見えないことに気付いた。
 まさか。彼女は辺りを見回した。あの、ユージン・ウォンが命を落とすなんてことは有り得ない──。

「やれやれ。生き残ったのはお嬢さん、お一人か」
 
 奇妙に甲高い男の声がした。
 明日はそちらに鋭い視線を向けた。店の外だ。例の穴から、誰かがこちらを覗いていた。目立たないグレーのスーツを着た痩せた男だ。
 一見すると、どこにでも居そうな白人の中年男だった。
 だが、違う。
 彼の周りを、手元を、炎の玉が舞っていた。大人の拳ほどの小さな炎の玉が、まるで意思を持っているかのように男の周辺を飛び回っているのだ。
 明日は、唇をきゅっと引き締めた。
「──貴方がパイモンね」
「いかにも」
 彼女にはっきりとした声で尋ねられると、相手は慇懃無礼な態度でうなづいてみせた。
 彼がパイモンだった。火界の王たる悪魔にして、蝋人形フリークの。
 女刑事一人など、すぐにでも殺せると踏んだのか、彼は道に立ったままニヤニヤと彼女を見つめている。
「クク、力をセーブしたつもりなんだが、この程度の攻撃で殺れるとはね」
「パイモン。無関係の人を巻き込むのは、やめなさい」
 相手から目を離さず、明日は言う。彼女は気づいていた。足元に銃が、彼女のシグザウエル が落ちている。
「おお怖い怖い。さすがは銀幕署のクールビューティだ。……しかし君。喜びたまえ。私は君を殺すつもりはないんだ」
 だが、パイモンはふざけた様子で、大げさに肩をすくめてみせる。
「聞いてくれ。私の蝋人形コレクションの中には、女刑事が一人も居なくてね」
「な……」
 その言葉の意味することを悟って、明日は眉を潜めた。
 満足そうに、パイモンはまた喉の奥で笑う。彼女の方に両手を広げてみせながら、一歩、踏み出してみせた。
「そういう表情もよいが、私は笑った顔の方が好きだな。さあ、流鏑馬明日くん。笑って。さあ、にっこりと微笑んでみせて。結婚式のときの花嫁のように微笑んでみせて。そうしたら私が君を、素敵な素敵な人形に──」
 もう一歩、踏み出すパイモン。

 ダダダッ、ダン! ダン!

 そのグレーのスーツに穴が開いた。おや、とパイモンが自分の胸を見下ろした瞬間、続きの銃声が鳴り響き、悪魔はあっという間に穴だらけになって後方へと跳ね飛ばされていった。
「──このド変態が!」
 明日の隣にスタッと降り立ったのは、ウォンだった。
「そんなにダッチワイフが欲しいなら、私がくれてやる」
 パイモンの奇襲をかわし、彼は天井に身を潜めていたのだった。
 吐き捨てるように言いながら前へ前へと歩いていく。ウォンは倒れたパイモンに迫りながら、右手のグロック34の引き金を引き続けた。
「──何発でもブチ込んでやる。お前がイクまでな」
 彼の無事に安堵し、明日も自分の銃を拾った。彼の後ろを守りながら着いていく。道の反対側の壁に寄りかかり、ぐったりと頭を垂れたパイモン。それに向かってウォンはつかつかと歩み寄っていった。
「無事だったのね」
「気が動いたんでな」
 明日の言葉に、ウォンは視線をパイモンに落としたまま答える。彼は相手の頭にピタリと銃口を向けていた。
 ──!
 しかし、二人はサッと身を伏せた。
 間一髪。彼らの間を割るように風が吹き抜けた。パイモンの両眼から炎の色をした光線が発射されたのだ。
 地面に手を付きながら明日は背後を振り返る。茶房の隣りにあった商店の自動販売機が真っ二つに両断されていた。中のジュース缶がゴロゴロと道へと転がり出す。
 そして、続けて鳴り出した銃声に振り向けば、パイモンはウォンの銃撃から逃れるように空へと逃げて、二人を見下ろしていた。その赤い瞳を爛々と光らせながら。
「私を誰だと思っている? 火界の王、パイモンなるぞ!」
パイモンは悪魔にふさわしい怒号を響かせた。彼の周りでは炎の玉が現れて、主の怒りを代弁するかのように飛び回った。「爆薬で発射される鉛玉などで、私を滅せるはずが無かろう!」
「お前の周りに浮いているそれは何だ? クソか?」
 ウォンはそれを見上げ、地を蹴った。
 トンッ。質感を感じさせない軽いステップで、彼が次に踏んだのは屋根の上だ。彼の靴が、建物の屋根に触れたとき。そこから別世界が広がった。
 それは闇、だ。
 彼の足下から流れ出した闇が辺りを覆っていく。香港の夜の暗闇。石の壁が彼らを囲むようにせり上がってきた。
 香港九龍城砦。ウォンがロケーションエリアを展開したのだった。
「こしゃくな!」
 対するパイモンの身体からは炎が吹き出した。彼の身体は煌々と輝き、その光は周りの闇を駆逐しようとする。悪魔も自分のロケーションエリアを展開したのだ。炎燃え盛る灼熱の世界が九龍城のモノクロームの世界を焼きつくそうと威力を増す。
 中華街の中で、闇と光がせめぎあうように、自らの存在を主張した。
 宙を舞うように屋根の上を跳ぶウォン。パイモンは両手から炎の玉と衝撃波を放ち、それを打ち落とそうとするが──当たらない。ウォンはふわりと浮き上がるように身を翻し、素早く放つ弾丸で刺すようにパイモンを狙い撃つ。
 パイモンは弾丸をその身で受け止めようとはしなかった。ウォンのロケーションエリアが展開しているとき、彼の銃弾がすべてのものの命を奪うことを知っているのだ。
 この光と闇のように、二人の攻勢が膠着状態に陥ろうとしたその時だった。
 背後に後退し、手を構えていたパイモンに向かって、地面にいた女刑事──明日が、何かを投げつけたのだ。

「──パル! あいつを食べて!」

「何っ……!?」
 驚いたのはパイモンだった。まさかあの女が、自分のバッキーを投げつけてきたのか。
 慌てて地面の彼女を見下ろせば、白いものが彼の鼻先をかすめる。思わず、彼は肩を強ばらせた。

「さあ、ダンスの時間だ」

 次の瞬間、パイモンは呻いて身体をくの字に追った。彼が注意をそらした一瞬に、ウォンが彼の腹部に銃弾を撃ち込んだのだった。
 パイモンの鼻先を通り越した白いものは、壁に当たって地上へと落下していく。
 それはバッキーではなかった。ただの、白いラベルのついたジュース缶だ。
「おのれ!」
 悲鳴を上げ、地上の明日をにらみながらも、悪魔は背後へと逃れようとする。ウォンは当然それを追おうと、屋根を蹴った。
 そのほんの僅かの間。
 シュッ、というかすかな音が、空を切った。
「──えっ!?」
 明日がそれに気づき、声を上げた時。
 ウォンは左手のグロック17Lで何かをはたき落としていた。しかし右手のグロック34はしっかりとパイモンをポイントしていた。かの悪魔は両眼の間にもう一つ穴をつくり、後ろ向きに回りながら──ダンスを踊るように地面へと落ちていく。
「ウォン!」
 彼を呼ぶ明日。彼女も差し迫った危険に身体を反応させていた。銃を構え、気配のする方へサッと向ける。
 誰かがそこに居た。男だ。銃を手にしている。
 明日はその手を狙って撃った。
 しかし。
 彼女は、自分の銃弾が彼の銃を弾き飛ばすのと同時に、彼の胸から血が噴き出したのを見た。ウォンだ。上空にいたウォンが間髪入れず、死角にいた第三の男を撃ったのだ。
 男はゆっくりと倒れていく。
 やがてロケーションエリアが解け、太陽の光がその顔を照らす。
 ホッと息を漏らし明日はホルスターに銃を収める。倒れた男のそばにまで行き、ようやくその顔を見て彼女は驚いた。
 それが見知った顔だったからだ。思わず声を上げてしまう。
「アナタは!」


 * * *


 腹を押さえ瀕死の傷を負った男に、ウォンはピタリと銃口を向けていた。その隣りで明日も静かに男を見下ろしていた。
 死角にいた第三の男。それは、蝋人形にされていたはずの、あの茶房の店主だった。
 その丸顔に笑顔を浮かべ、ニコニコと二人を個室に案内してくれたあの男だ。
 なぜ、彼が──。明日はそう思ったが、ただ眉を潜めて黙っていた。この傷ではもう助からない。どんな人間であろうと、ムービースターであろうとも。目の前で人間が命を落とすということは彼女には辛いことだった。
「お前が、あのクソ悪魔と結託していたとはな」
 淡々とウォンは、自分の部下だった男に声を掛ける。
「部下の中に裏切り者がいることは分かっていた。お前は自らを蝋人形にさせて、私の疑いから逃れるつもりだったようだが、無駄だったな。お前の相棒がミスを犯した」
「……ミス?」
 肺に損傷でもあるのか、ひゅうひゅう音をさせながら言う男。それにウォンは道に落ちたプレミアフィルムの残骸を顎でしゃくってみせた。それは先ほどまで、悪魔パイモンだったものだ。ウォンに踏み潰され、再現不可能なほどに破壊されている。
「あのクソ悪魔は、この店を一瞬で吹き飛ばせるほどの力を持っていた。それなのに最初の奇襲に失敗した後、わざわざ私たちを外へと誘き出そうとした。なぜか。それは、私たちのそばに破壊してはならないもの──すなわち、味方であるお前がいたからだ」
 クッ……。店主は口端を歪めて笑った。鮮血が一筋零れ出し、彼の服を汚す。
「なぜだ。理由を言え」

「お前は、私の父親を殺した」

 瀕死の重傷だというのに、店主はウォンの問いに強い口調で答えていた。強い眼光で彼を見上げながら。
「ほんの数百万円の金に手を付けただけだったのに、お前は年老いた私の父親を殺した。私はお前の下につき、お前を亡き者にできる機会をずっと狙っていたのだ」
 血を吐きながら、男はウォンへの恨み言を呪文のように吐き続けた。
「ずっと……この機会を狙っていた。私は失敗したが、それでも、死んでもお前への恨みを忘れないだろう。私はこの魂に、お前の恨みを刻み付けて……そして死ぬ」
 ウォンは無言だった。
 恨み言を言う男を、ただ見下ろし。彼は微動だにせず立っている。
 明日はその横顔を見る。先ほど、道端で彼を見かけたときのように、サングラスの隙間から彼の瞳が見えた。
 同じ色だった。
 彼は何も口にはしないが、その目が何かを語っていた。
「──言いたいことはそれだけか」
「そうだ、白いバッキーはもう死んだぞ! いくら探したって見つかりはしない。もう殺したからな。ハァッハハハッ──」
 勝ち誇ったように笑い出す男。しかしそれは長くは続かなかった。彼は喉が詰まったように咳き込むと何か大きな血の塊を吐き出し、前に突っ伏した。そしてそのまま動かなくなる。
「死んだか」
 グロックを懐に納めるウォン。
 明日は、自分のバッキーのことを聞き、まさかと目を見開いていた。が、すぐにウォンが心配するなとばかりに手をひらりと上げてみせる。
「パルは無事だ。先ほど、私の部下に確保させた」
 先ほど……? 明日は彼の言葉を聞いて、あることに気付いた。
「もしかして、それはお茶をいただく前のこと?」
「ああ、そうだ」
 やはり。さらに質問を重ねる明日。
「ウォン。もしかして、アナタはすでに彼が裏切り者だと知っていたの?」
 彼女の問いに、男はサングラスを掛け直した。
「いや──それは違う」
 そんなことを問われるとは思わなかったのだろうか。少し間を開けて彼は答えた。が、明日にはすぐに分かった。

 彼は、今、嘘をついた。

「──彼と、彼の父親との間に何があったのか。あたしにはよく分からないけれど」
 そっと。囁くように明日は問いかけた。
「彼が恨みを持っていたことも、きっとアナタなら知っていたはず。それでも彼を自分の部下として扱っていたのは、それは──」
「贖罪のつもり、とでも?」
 ぽつりとウォンは彼女の言葉を割った。
「お前は、私が罪滅ぼしのつもりで、この男を部下にしたとでも言いたいのか」
 明日は答えなかった。ただ彼の言葉を待つように、その顔を見上げている。
「──つまらないことを言うのはやめてくれ」
 静かに言うウォン。サングラスで見えなかったが、明日には分かっていた。彼は今、きっとあの目をしている。
「アナタはどうして、この世界にいるの?」
 ふと、彼女は問いを変えた。静かに、囁くような声で。
「アナタは変われるはずよ。映画の中から外に出たアナタは、この中華街に居なくてもいいはず。だってアナタは、こうしたことが好きなわけではないでしょう?」
「明日」
 ウォンは静かに、しかし強い口調で彼女をたしなめた。
「先ほど、私が言った言葉が聞こえなかったか? つまらないことを言うな」
「……ごめんなさい」
 頭を垂れ、俯く明日。
 忘れていた。相手はチャイニーズ・マフィアで自分は刑事なのだ。自分は何を尋ねているのだろう。本来ならば、こうして言葉を交わすこともない関係なのに。
 無言になり明日は下唇を噛んだ。
 彼女の様子に、ウォンは軽く頭を振る。彼も少し言い過ぎたと思ったのか、言葉が見当たらないように地面に目線を落とす。しばらく。
 やがて、彼は口を開いた。
「確かに、私はこのこのクソ溜めを好いてはいない。しかし闇にも存在理由があるのだ。行き場のない人間を受け止めるという役割がな」
 ウォンは最後に小さな声で付け加えた。
 ──そう言えば分かってくれるか、と。
 明日は頷いた。
 
 思い出した。

 道端で見かけたウォンの背中。
 彼は独りで。薄暗い街角の、その暗闇の中に溶け込むように立っていた。彼は地面の小さな空間に生えていた草を見下ろしていた。
 明日はその姿を脳裏に思い描く。
 狭い空間に生えていた、小さな新緑。
 彼女は、今なら彼がそれに目を留めていた理由が分かる気がした。



                   (了)

クリエイターコメントありがとうございました!

基本、オファーから一週間ぐらいの納品を目指していたのですが、二週間ぐらいいただいてしまいました。
少し遅くなりまして申し訳ありません。

そして、ちょっとファンキーなオファーを、せっかくのお二人なのでドシリアスなテイストに変えてみました。
お二人ともリピーター様なので、きっとお気に入ってくださるはず、という判断からなのですが……。
何かありましたらご遠慮なくご指摘くださいね。
公開日時2009-05-09(土) 20:00
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