★ 待ちぼうけ ★
クリエイター八鹿(wrze7822)
管理番号830-8397 オファー日2009-06-22(月) 23:04
オファーPC 紀野 蓮子(cmnu2731) ムービースター 女 14歳 ファイター
ゲストPC1 榊 闘夜(cmcd1874) ムービースター 男 17歳 学生兼霊能力者
<ノベル>

 幾度目か、爪の欠けた指先で暗闇の壁を掻く。
 喉で掠れた弱々しい呼気が耳の傍に聴こえていた。
 それは緩く開かれた己の口元から漏れて、暗がりの中へ篭り響いている。
 身体は、不恰好に折り曲げられていた。
 狭い場所に詰め込まれている。
 折って捻った身体の壁に触れたあちらこちらは、まるで壁と溶け合って繋がってしまったかのように痺れ腐って感覚を失っていた。
 幾度目か、壁を掻く。
 繰り返す呼吸と壁を掻く指先はゆっくりと力を失っていく。
 全てが段々と緩慢になっていく。
 彼が来るのを待っている。
(……誰を……?)
 紀野 蓮子は酷く曖昧な意識の中で呟いた。
(私は……誰、を……?)
 乾いた血の擦れた指先が、もう一つだけ微かに壁を掻いて、それきり止まる。
(わからない……でも、待たな、きゃ……)
 呼吸が徐々に消えていく。
 音が無くなっていく。
 底知れない静寂に近づいていく。
 忘れかけていた恐怖が奥底から這い伸び来る。
(……帰り、たい……)
 そうして、最期まで彼が来るのを待っていた。

 まってたのに。



 ■ 待 ち ぼ う け ■



 耳障りなブレーキの音が伸びて、それから肉感的な鈍い衝突音。

 それは、榊 闘夜の目の前で起きた。
 焦った様子の男が飛び出してきて車に轢かれたのだ。
 男は奇妙な形に折れ曲がって跳んで転がり、おそらく即死。
 あっという間の出来事だった。
 そして、あっという間に、目の前からそれらが消え去る。
『あーりゃぁ、初っ端からショッキングな流れだな』
 足元を抜けた鉄色毛の狼が首を巡らせて言った。
 その朱色の目が細く笑んでいる。
 この狼は闘夜に憑いた神格を持つ狼霊で、名を鬼躯夜という。
 闘夜は眉を寄せた。
 こちらは黒髪に色黒の肌をした長身痩躯の男だ。
 痩せてはいるが無駄な肉が無いというだけで身体付きは良い。
 金色の双眸は半分やぶ睨みめいた眠たげな調子で、不機嫌が染み付いたような顔をしている。
 その僅かに曲げた口元が零す。
「悪趣味」
『幻影だぜ?』
 鬼躯夜が、男の幻が転がっていた辺りを一瞥してから闘夜の傍へと身を返し『しかし』と置く。
『妙な所に持ってこられちまったもんだなぁ』
「……」
 闘夜は軽く溜め息を零し、改めて、自分達の立っている場所へと視線を巡らせた。
 繁華街のビル間に迷い込んだような細い路地裏だ。
 乱雑に寄り添い建った背の高いビルの裏手が連なり、湿った影を作っている。
 方々から繋がる電線、劣化したコンクリートの罅(ひび)、張り出したダクトや室外機、高い高い先に白い光を持つ曇天。
 灰々とした光が風景をモノクロームにしている。
 さっきまで、闘夜達が歩いていたのは青空の下の開けた大通りだった。
「……ハザード」
『だわな』
 鬼躯夜が楽しげに尻尾を一振りして、闘夜はうんざりと視線を転がした。
 口の先で小さく「面倒くさい」と零す。
『ぉおい、急いでくれよぉ? 早いとこ抜けちまわねぇと始まっちまうじゃねーか』
 鬼躯夜がからかい半分な調子で言いながら闘夜の背に飛んで、のしっと圧し掛かる。
 闘夜はそれをむんずと掴み、払い捨て、歩き出した。
「別にイイ」
『オレが良くねぇーっての!』
 鬼躯夜が追って、歩む闘夜の横に並ぶ。
 路地には人の気配どころか、生物の気配すら感じられない。
 在ったのは、更に細くなったビルの隙間の小路の入り口や、ポツリポツリと思い出したように在る街灯の成れの果てだった。
 街灯のほとんどが蛍光灯を失って朽ちた電線を垂れている。
 蛍光灯が残っていたとしても、それは劣化とカビで黄色と黒とに変色していた。
 狭く、響き篭って抜けない足音。
 隙間にひっそりと祭られる小さな稲荷神社の前を横切る。小ぶりの狐の前掛けの赤さを過ぎ去ってから思い出す。足元で僅かに水音。
 踏んだ水溜りの水面に写った灰色空がゆらゆらとたわむ。
『はぁー、なるほどねぇ』
 街灯を覗き込んでいた鬼躯夜が身を翻して戻ってくる。
『周りにビルが建ってく内に奥まっちまって使われなくなった路地、ってぇとこか?』
 闘夜は愛想程度に頷き、ふと、足を止めた。
 鬼躯夜がぐるりと顔を覗き込んでくる。
『どうした?』
「……音」
 闘夜は小さく零して、目を細めた。
 すぐに、其処の小路の入り口へと足を向ける。
 ビルのほんの隙間に出来上がった細く暗い小路だった。潜り込めば、肩が擦れそうなほどに狭い。やや斜めにした身体で、万年影の地面に蔓延った湿り気を踏んで鳴らしていく。
 そうして、暗がりを抜けた先。
 在ったのは、その小路より僅かに広がったビル間の行き止まりだった。
 ビルに囲まれ、中庭のようになっている閑散とした袋小路。
 空で手放された鈍色の光が、成り損ないの色彩と深い影とを作っていた。
 立ち止まって、視線だけを静かに巡らせる。
『ぉおーい、闘夜?』
「静かに」
『むごっ――』
 後を追ってきた鬼躯夜の口を手でムギュッと押さえ込む。
 そして、闘夜は彷徨わせていた眼の先をビル壁の一点に定めた。
 小さな鉄扉が在った。老朽化したコンクリートの萎びた壁の隅にひっそりと張り付いている。
 鬼躯夜の口から手を離す。
『ぅおい、こら』
「ごめん」
 不満げな鬼躯夜に一言短く置いて、闘夜は鉄扉の方へと足音を重ねた。
 闘夜の身長の四分の一ほどの四方形の鉄扉だ。古びて赤く錆び付いている。
 近づいて見てみれば取っ手の代わりに小さな穴が空いているのが分かった。
『なんだ?』
「……」
 鬼躯夜の問い掛けに応えずに、闘夜は、そこに指を引っ掛けて、力を入れた。
 硬い抵抗を経て、扉は古い金属の擦れる音を立てながら開く。
 つぅ、と扉の隙間から茶色の髪先が零れる。
『……こりゃあ』
 その扉の奥には小さな空間が在った。
 おそらく、かつては倉庫代わりか防火用具入れにでも使われていたのだろう。
 しかし、今、文字通り詰め込まれていたのは、闘夜達の見知った少女だった。
 やや乱れた巫女装束から伸びた手と首が青白く見える。
 闘夜は、軽く目を細めて、彼女の口元に手を伸ばした。
 近づけた指先に順調な呼気を感じる。
 死んでいるわけではなく、どうやら眠っているようだ。
 少し、息を付く。
 それと同時に――
『そう嫌そうな顔してやんなよ、闘夜。ただの偶然じゃねぇか』
「だと良いけど」
 こちらの顔を覗き込んで、悪戯気っけに笑う鬼躯夜の方を見ずに返す。
『因も縁もそんなに分かり易いもんじゃねぇよ』
「…………」
 言葉を返すのが面倒臭くなって、闘夜は不機嫌顔をもう一つ微かに深めながら、とりあえず少女をそこから引き摺り出した。
(……三度目)
 この少女とハザードで”偶然”出会うのは三度目だ。
 三度も重なれば、彼女にそういったモノを勘ぐってしまう。
 例えば、闘夜と同じように厄介事吸引体質である、とか。
 だとすれば、なるべく関わり合わない方が互いのためのように思える。
『さて、どうする?』
 闘夜はしゃがみ込んで、道端に引きずり出した彼女の顔を覗き込みながら片目を細めた。
「彼女が目覚めるまで待とう」
 彼女を背に背負い込みながら言う。
『へぇ……珍しく優しいじゃねぇの』
「違う」
『あらん?』
 ”こういう状況”で出会ってしまったのなら、いっそ共に居た方が良いのだ。
 経験から、彼女が足を引っ張るようなひ弱な少女というわけでは無いのは知っているし、特にハザードに巻き込まれた現状では何が事を転じる鍵になるか分からない。
 情報源は貴重だ。
 闘夜は少女を背負った格好で立ち上がり、彼女が詰め込まれていたカラッポの空間を覗き込んだ。
 其処に、女の子が居た。目が合う。肌青く痩せ細った黒髪の女の子。
 口が開かれる。
 あ な た は
 鉄を擦るような声が其処まで言って、少女が黒く粉と解けて消える。
 刹那、左の耳に。
 とじこめられた
 触れる声。
 冷たく鼻を突くカビの匂い。
 闘夜は、視線を向けるより早く、声の在った方へ手を伸ばしていた。
 その手が、手応え無く虚空を掻く。
 小さく舌打ちをする。
『今のが”主”か』
 傍らで鬼躯夜が鼻を揺らした。
「……さあ」
 闘夜は短く答えてから、少女を背負い直し、彼女が押し込められていた暗闇に目を細めた。
 大体、背負っている少女一人がどうにか収まる程度の広さのコンクリートの空間。
 そこには何も無かった。気配の欠片も無い。
「逃げられた」
『何処へ?』
 鬼躯夜と顔を見合わせる。
 軽く首を傾げてみせてから、闘夜は足で鉄扉を押し閉めた。


 ◇


 薄く開いた瞼の向こうに、誰かの顔があって。
 ぼやけてる。
 蓮子は、目元に力を入れ、重たい瞼を懸命に押し開けた。
「――え」
 そこに在った顔が近い所で不機嫌に自分を覗き込んでいて、蓮子は肩を震わせながら反射的に身を引いた。
 引いた後頭部をごちっと硬い所にぶつける。
 それはコンクリートの壁だった。ビルの壁を背にぺったりと地面に座っていたらしい。
「……つぅ」
 頭を打った痛みで覚醒して、蓮子は打った箇所をさすりながら、改めて不機嫌顔の方を見返した。
 知っている青年の顔だ。彼は前に出会った時も、終始こんな表情をしていた。でも、悪い人ではないと知っている。
「あの……」
『よぅ、久しぶりだなぁ。嬢ちゃん』
 青年の顔の少し上の方から声がして、蓮子は視線を上げた。 
 しゃがみ込んでこちらを覗く青年の頭の上に、鉄色の狼が乗っかっている。
「あ……お久しぶりです。その節は、お世話になりまして……」
 蓮子は、そそ、と座り直して頭を下げた。
 以前、二度ほど共にハザードを解決した事がある。その折に彼らには助けられた。
『いやいや、こっちも世話になってるしよぉ。つか、悪いな。寝起きしなに見たのが、こいつの仏頂面で。最っ悪の目覚めだったな』
 狼が清々しく笑う。
「え? あ、いえ、そんな――」
 蓮子は、思わず青年の顔を確かめるように視線を返してしまってから頭を振った。
「……鬼躯夜。邪魔」
 青年に不機嫌な声と共に手で払われて、狼霊が空中に飛んで、蓮子の傍の地面に降りてくる。
 青年の方はそのまま立ち上がって、他所の方へと視線を放ってしまった。
『身体、痛むか?』
 こちらの方に鼻先を向ける鬼躯夜を見返す。
 言われて、蓮子は身体の節々が痺れるように痛んでいるのに気付いた。
 痛みに軽く顔を顰め。
「少し……」
『狭い所に押し込められていたからなぁ』
 言われて、短く息を飲む。
「そうでした、私。気付いたら……」
『ハザードに巻き込まれたんだよ』
「お二人も?」
 首を傾げる。
『まあな』
 鬼躯夜が四肢を突っ張って伸びをする。
 その伸びを弛緩させてから鬼躯夜は、少し神妙な調子の顔を蓮子に向けてくる。
『こっちはお笑いイベントに行く途中だったのよ』
「お笑い……イベント?」
『知らねぇのか? 今日、五時から銀幕広場でやんだけどな。ったく、早く抜け出さねぇと始まっちまうっての、なあ! 闘夜』
 鬼躯夜が首を巡らせて闘夜に呼び掛ける。
 彼はこちらに興味無さそうに周囲を見回していた。
 そして、鬼躯夜に視線を向ける事無く。
「俺はどうでもいい」
 一言っきり返してくる。
『ぉいおい、やる気出せよぉ』
 鬼躯夜がボヤく横で、蓮子は小さく息を付いて改めて自分達が居る場所を確かめた。
 そこは背の高いビルの裏側に囲まれた殺風景な路地裏のようだった。
 端にあるのは細い暗道。暗がりの先に路地風景を覗かせている。
 もう一方の端を見れば、行き止まりで、そこには赤錆塗れの小さな鉄扉が在った。
 そんな無機質で、寂しい風景。
 ――すこしかくれておいですぐに――
 声。
「…………っ」
 頭を掠めて、胸中がぐらりと傾ぐ。
 それから、風景が霞む。軽い眩暈。
「どうした?」
 言われて、蓮子はハッと闘夜の方を見上げた。
 闘夜の目が半ば睨むような具合で、こちらを見据えている。
 気後れして、申し訳ない気持ちが先に立った。
「あ……いえ、大丈夫、です。なんでも――」
 と、蓮子が言いかけた所で闘夜の頭が、ぐきっと曲がる。
『怯えさせてどうする、この対人不器用』
 鬼躯夜が闘夜に飛びついた格好で、呆れ声を零した。
 闘夜は眉間の皺を強め、スネたようにそっぽを向いてしまう。
「あのー……」
『気にすんな。餓鬼なんだよ、あいつぁ』
 何処か楽しげな様子の鬼躯夜が闘夜から飛び降りながら尻尾を一つ振る。
「でも……心配、してくださったんですよね? 私を」
 蓮子は、そろりと立ち上がりながら、路地を改めて眺め直した。
 やはり、胸に奇妙な感覚が這う。
(――この風景を、知ってる……私は此処に来たことがあるの?)
「違う」
 闘夜に言われて、肩が震える。
 一瞬、心中の呟きを見透かされたのかと思った。
 しかし、よく考えれば、そうではなくて、蓮子に対する「心配」に掛かる否定だったのだろうと分かる。
 闘夜の顔を見やる。
 相手は長身なのでこちらが立ち上がっても、うんと見上げる格好になる。
 彼は真っ直ぐに袋小路の奥を見詰めていた。
 と―ー。
 彼が見詰めている先で、ふいに人の声が膨れた。
「……え?」
 そちらの方へと視線を向ける。
 路地の一角に人だかりが出来ていた。先程までは一切、人の気配が無かった。急に現れたのだ。
 袋小路の壁に在る鉄扉の周りを大人達が囲っている。
 服装などを見るに、どうやらほとんどが警察の人間のようだった。何か、事件の現場検証のようなものをしていて、皆、忙しく動き回っている。
 そして、何人かの人間が蓮子や闘夜の横を慌しくすり抜けていく。
「……私たちに気付いてない?」
『というより、こいつら実体がねぇな。幻影だ』
 鬼躯夜が鼻先を揺らしながら目を細める。
 と、闘夜が無言でその人だかりの方に歩き出したので、鬼躯夜と蓮子は互いに顔を見合わせてから彼の後を追った。
 闘夜は幻影の人だかりをずんずんと突っ切って行ってしまう。
 蓮子も彼の後に続いて人だかりの奥に向かって、幻の男性のくたびれたスーツの背へと潜り込んだ。
 人の真ん中をすり抜けるというのは、なんとも妙な気分だった。
 まるで、自分が幽霊になってしまったかのように感じる。
 ――何人目だ?――
 ――六人です――
 彼らの会話の合間に、カメラのフラッシュを焚く音が聞こえる。
 現場写真を撮っているのだろう。
 ――……また、死因は餓死だと思うか――
 ――……はい――
 ――クソ餓鬼だったが……こういう最期ってのは、やはり同情してしまうな――
 刑事らしき男の背広の横から、覗き込む。
 素行の悪そうな格好をした17、8歳と見られる少年の身体が地面に引き出されていた。
 彼の身体は奇妙に折れ曲がっている。まるで狭い空間に無理やり詰め込まれたかの様に。
(これで……餓死?)
 少年の形相は恐怖に歪んでいた。
 蓮子は、眉根を顰め、口元に手を当てながら、腹の奥が不快感に撫で返されるのをこらえた。 
 キィ、と鉄の擦れる音。
 そちらの方へと視線を上げる。
 鉄扉の開いた奥に、暗い、小さな空間が在った。
 蓮子一人がギリギリ収まる程度の大きさの。
 位置関係から、おそらく少年が引き摺り出される前に収まっていたのは、そこだと分かる。
 分かってしまって、嘔吐感が胸を擦った。
 喉を震わせた蓮子の前で、闘夜が上半身を屈め、その中を覗き込む。
「……何も居ない」
『駄目か』
 鬼躯夜が闘夜の傍をスラリと抜けながらボヤく。
 何の事を言っているのか分からず、蓮子は首を傾げた。
「……何か、探してるんですか?」
 問い掛けると、一人と一匹が振り返り、蓮子の顔を見てくる。
 蓮子は軽く目を丸めてしまいながら、彼らの視線を見返した。
『嬢ちゃんの時には居たんだがなぁ』
 鬼躯夜が言って、闘夜の方は頷き代わりに微かに瞼を落としながら上体を上げていく。
「はい?」
 蓮子は益々意味が分からずに、瞬きをしながら闘夜を見上げた。
 こちらを見下ろしていた闘夜と目が合って、心臓が痛む。
 彼の目が、酷く冷たく己を見据えているような気がした。
 慌てて、視線を逸らして、気付く。
「あ……さっきの人たち」
 いつの間にか、刑事達と少年の死体は消えていた。
 閑散とした灰色の景色だけが取り残されて在った。
『ああ。消えちまった。結局、ハザード脱出の糸口もねぇままだ』
「……ハザードも、時間経過で消えてくれる類のものだと良いんですけど。何か、条件を満たさなければいけないのでしょうか?」
『条件、ねぇ……』
 鬼躯夜が目元に緩い皺を描きながら、後ろ足で首の裏を掻く。
 と、足音。
 聴こえた足音に鬼躯夜の動きが止まる。
 蓮子は、傍らに立った人の気配を見上げた。
 それは、先程、死体と果てていた少年だった。
 一瞬、幽霊の類かと思って、ひやっとしたが彼の顔は生気に溢れた色をしていて、どうやら生きているのだと分かる。
 表情に不安を滲ませながらも、彼は斜に構えた様子で周囲に視線を巡らせている。
 蓮子達の上を視線が素通りする。やはり、彼も幻影であり、こちらの事は見えないらしい。
 ――……どこだよ、ここ――
 彼は硬く忌々しげに呟いて、携帯電話を取り出した。
 画面を開いて幾つかの操作を行う。
 そして、携帯を耳に当てながら、彼は煙草を取り出して火を点けた。
 しばらくして。
 ――あ、サトシ。ねぇ、聞いて聞いて、迷った。……ギャハハハハハ、マージーでーす――
 電話越しに仲間の声を聞いて安堵したのか、彼の声から硬さが消える。
 その笑い声がビル間に響く。
 ――ありえねぇーって、ホント。あ? 知らねぇよ。とにかく、ちょぉ、さあ、遅れるから。俺の分残しといてー……て、おまえ、もうキメてんの? 木村クン、もう来ちゃってんの? え、代わんなくていいって、馬鹿、あ……はい、チャーッス、久しぶりです。え? はは、木村クンほどじゃねぇッス。あ、マジ急ぎますんで。あ、いッスよ。先に。あ、はい……はい……いや、金ありますよ。マジでマジで。昨日ォ、リッチなリーマンをバリッと。アハハハ、そうそう、ゴールドマンっす。2秒っす、2秒でやっちゃいました。ヒヒヒ。つか、親父臭マジキツで――
 無音。
 あ な  た  は
 無音になった携帯のスピーカーの向こう、遠く聞こえた。
 ――……は?――
 口元に寄せた煙草の穂先が灰を零す。
 ――……今の誰ッスか? ちょぉ、木村クン?――
 ずぅっとわ  たし   といっしょ
 シリシリと微かなノイズの向こう。
 ――…………――
 あなた はたの しいのね うれし いでしょ う
 声は近づいて来ている。
 ――ちょぉ、マジ、止めて、え、誰? 木村クンのツレ? つか、サトシに代わってくんね?――
 だってあ なたがいっ たんだもの
 もう、すぐ傍に居る。
 ――ハァ!? マジきめぇんだけど!! 誰だよ!! サトシッ代われっつってンだよッッ!!――
 すぐにむかえにくるからねって
 声は。
 後ろから聞こえた。
 キィ、と後ろで聞こえる鉄の擦れる音。
 ――…………――
 彼は、ゆっくりと携帯電話を耳から離した。
 そうしてしまえば、彼の耳に聞こえたのは静寂だった。
 指に挟んだ煙草の先で灰が伸びる。
 口を結んだ彼の目が転がって、その表面に灰々とした景色を滑らせた。
 唾液を下して、喉が揺れる。
 そぅ、と携帯を耳元に返して。
 ――……もしもし?――
 そこに返る声は無い。
 ただ、カリ……、カリ……、と何かを擦る音が微かに聞こえる。
 浅く痙攣するように震える胸で息を吸い込み、彼は、後ろを振り返った。
 コンクリートの壁と開き掛けの鉄扉が在った。
 見つめて、軽く開いた口の中で舌を回して頬の内側を舐める。
 それから、彼は煙草を地面に落とし、薄く目を顰めて扉の方へと近づき、手を伸ばした。
 扉を開いて、覗き込む。
 そうして、中を伺うように見回した後で。
 彼は小さく笑った。
 瞬間、奥から伸びた青白い手に捉えられて。
    ねぇ
「だからもうはなさない――」
「何だって?」
 闘夜の声が聴こえて、蓮子は己の唇に触れた。
(今、私は……)
 硬い音を立てて地面に落ちた携帯電話。
 端に転がった煙草の先が、微かな音をたてて灰を伸ばす。
 見れば、少年の姿は無く、ガチンと硬い音を立てて鉄扉は閉じられていた。
 電話の向こうで、誰かの声が重低音の聞いた音楽をバックに怪訝に騒いでいる。
 その携帯電話も、その内にスゥと姿を消していく。
 蓮子は自分の身体を抱くように腕を回しながら、おそるおそる闘夜と鬼躯夜の方へと視線を向けた。
 彼らは蓮子を見ていた。
『嬢ちゃん……』
「ち……違います。私は、何も……」
 蓮子は微かに声を震わせながら、弱々しく首を振った。
 何故か分からない。分からないけれど、今、彼らから向けられている視線が無性に恐ろしかった。
 闘夜の手がこちらへと伸ばされて。
 その手から逃れたい一心で、蓮子は駆け出していた。

 
 路地は。
 何処までも続いていた。
 延々と並ぶビル。細く糸を張り巡らせる電線。螺旋を描く非常階段。傾いた立ち入り禁止の看板と錆び付いた鉄条網。そびえる鉄筋コンクリートの先、白く光放つ錆びた空が遥か高く遠く細い。無機質。静寂。
 自分の息遣いと足音だけが木霊して行く。
(私……逃げた。なんで、こんなこと、きっと変に思われる、でも)
 行けど曲がれど、棄景の路地は終わる事無く続いていく。続く、息の詰まりそうな狭さ。何時までも抜け出せない。空は変わらない。思考がまとまらない。頭の隅を何かに支配されている。狐の赤い前掛け。ビルに挟まれた灰空を写す、浅い水溜り。
 踏んで散らす。
 誰かが自分の手を握っていた。
 男だ。
 男に手を引かれている。歩いている。
 男の顔が高い所にあって良く見えない。
 でも、それは知っている男の人だった。
 お父さんのお友達。
 お金が足らなくて困ってるんだってお母さんが話しているのを聞いたことがある。
 良い人なんだけど。運が無い。可哀相な人だって。
 可哀相な人。だから、遊んであげるの。
 微かに震えている彼の手を、励ましたくて、強く握り返した。
 でも駄目ね。笑ってくれないの。とても難しい顔をしている。きっとお父さんに怒鳴られたからなのね。大丈夫。わたしは、あなたのずっと友達でいてあげる。
 彼に連れられてビルの隙間の奥に潜り込んで行く。
 そして、彼は其処に在った小さな扉を開いて言う。
「少し隠れておいで」
 彼は私を小さな場所に押し入れた。
 暗くて、狭くて、じめじめとしたカビ臭い場所。
「すぐに迎えに来るからね」
 うん、まってる。そうしたら、あなた楽しいのね。嬉しいんでしょう。だって、あなた今すこし笑ったもの。
 固く扉が閉ざされる。
 とても暗い。
『それでずぅっと待ってたってわけだ』
 そう。
 まってた。
 ずぅっとまってた。
「彼は直後に交通事故で死んだ」
『まあ、おそらくそういう事だろうなぁ。つくづく運のねぇ男だ』
「だから誘拐事件が起こっていたなんて誰も知らなかった。誰にも見つけられなかった」
「わ……私……」
 気付けば元の袋小路で。
 息を絶え絶え、蓮子は道端にへたり込んだ。
 地面に両手を付いて、肩で息を零す。
 垂れた髪が汗の浮いた肌に張り付いて口元を擽った。
 地に付いた両手を見つめていた視界に、男の足先が見える。
 ゆっくりと顔を上げる。
 闘夜がしゃがみ込んで手を伸ばしてくる。
 その手が蓮子の首に触れる。
「……ま……って」
 震えた声が闘夜の表情を変える事は無かった。
 闘夜の手がグッと蓮子の首を握る。
「俺は待たない」
 そして、一気に引き上げられたその手が、蓮子の身体からズルリと少女の遺体を引き摺り出した。


 ◇

 
 乱れた黒髪が顔面を覆い、裂けて歪んだ口元だけが覗いている。
 闘夜の手に首を捉まれた乾いた身体が痙攣を繰り返すように震えていた。
 それは本来なら実体を持たぬモノだが、闘夜には、そういったモノに触れる力が在る。
 逃すまいと指に力を入れる。
 少女の幼い口が軋みを上げ巨々と広がっていく。
 吐き出される、頭蓋の内側に爪を立てて擦られるような不快な響き。
『さっさと終わらせろよ、闘夜』
 顔を顰めた鬼躯夜が辟易とした様子で言ってくる。
「分かってる」
 闘夜は短く言い放ち、手に更に力を込め――
「駄目ッ!」
 蓮子の声。
 手に込める力を留めて、彼女の方へと不機嫌な目を向ける。
 こちらの顰め面を、胸元を押さえた蓮子が見返していた。
 淡く悲しげに揺れる瞳に、強い意思が見て取れる。
 その意味が大体汲み取れてしまい、闘夜は溜め息と共にうっそりと視線を逃した。
 そうして、蓮子が口を開く前に言ってやる。
「可哀相?」
「……そう、です」
 ふらふらと立ち上がる蓮子が頷く気配。
 闘夜は細く息を吐きながら地面に視線を落とし、言う。
「これが一番早い。全部、終わらせるには」
「でも……」
「でも?」
 尚も食い下がる蓮子の声の方へと、じっと目だけを向ける。
 彼女は、肩をビクリと震わせながら、それでも引き下がる事なく、闘夜の方へと踏み出す。
「こんな終わりじゃ……あまりにも哀しいです」
 傍らに立って、見上げてくる蓮子の目。
 手の中で少女の怨みに似た慟哭は続いている。
「……どんな終わりだって変わらない。それで十分なんて、満ち足りるものは無い」 
 言う。
 蓮子が戸惑うように瞳を揺らした。
 しかし、僅かな間を持ってから、彼女は小さく息を吸い込み、闘夜へと頑な瞳を返してくる。
「それでも……ほんの少し、だけ……」
 彼女の声が微かに震え、続ける。
「ほんの少しだけだとしても……叶えられるのならば……」
「…………」
『闘夜』
 鬼躯夜の声。
 闘夜は眉間の皺を深めながら片目を細め、鬼躯夜の方へと視線を向け、それから、短く嘆息した。
 少女を掴む手を離す。
 叫びが止み、地面に崩れ落ちる少女の細く朽ちた身体。
 蓮子がその身体を抱く。
 触れられず、掠めるに過ぎない、その手で。
 そして。
「あなたは――もう、いいのよ」
 彼女は言った。
「……もう、いいの……」
 少女は落ち窪んだ虚ろな瞳で灰色の空を見ている。
「あなたは、彼に笑顔を取り戻したくて、ずっと待ってた……」
 実体の無い少女を抱く蓮子の肩が僅かに震えて。
「優しい子……”彼”が救われなかったのは、あなたの所為じゃない……」
 一つ、地に落ちて黒く灯った染み。
「辛かったよね、寂しかったよね……でも、もう、あなたは彼を待たなくていいの」
 虚ろに空を見上げていた乱れ髪の頭が、ギィと傾いで、地に零れた一縷の涙を見た。
「あなたは……もう、お家に帰って、いいのよ」
 蓮子の腕に抱かれる身体が、淡い光の塵となって消滅していく。
 塵は温度の無いコンクリートの風景を柔らかに上昇しながら消えていく。
 遠く、鈍色の空に消えていく。
 そうして、灰白い光が溢れ、解けて――


 ◇


 午後五時近いというのに、晴れた空はまだ明るかった。
 もう夏なのだと改めて実感する。
 風の方は幾分か涼しくて、おかげで、こう人が多い所でも呼吸が楽で助かった。
 喧騒。
 銀幕広場には存外多くの人が集まっていた。
 広場の中央辺りに特設ステージが設けられており、広場の外周にはちょっとした屋台も出ている。
 ステージに掛けられた横断幕には『夏のお笑いヒットパレード』と陽気な文字の踊っていた。
 カキ氷やビール、お好み焼きなどを手にした人達が思い思いの場所に腰を下ろしたりしながらステージが始まるのを待っている。
 さわさわと、ちょっとしたお祭りのような雰囲気。
「続ける?」
 ふいに、隣に立つ闘夜が言われて、蓮子は彼の方を見上げた。
「……え?」
「ああいうの」
 闘夜は、こちらに視線も向けるでなく、水粒を纏うサイダーの瓶を自身の目の前に掲げて、中のビー玉を眺めていた。
 彼の肩と頭には鬼躯夜がのっしりと乗っかっており、その霊狼は期待に満ちた調子で、今か今かとステージの方を見ている。
「……私に……それが出来る、なら、きっと……」
 怒られているような気がして、少し声が細くなる。
 闘夜が、やはり蓮子に一瞥も無く続ける。
「止めた方がいい。潰される前に」
『お前が人にアドバイスとはなぁ』
 鬼躯夜が闘夜の顔横に鼻先を垂れて笑う。
 闘夜がそれを疎ましげに見やってサイダーの瓶を口元へ傾けた。
 蓮子は、複雑な想いを胸に抱いたまま、僅かに相貌を崩した。
 彼の言っている事は、きっと正しい。でも、割り切る事はできない。
「足」
 闘夜が口先にサイダーの瓶の端を付けた格好で言う。
「え?」
 ステージが始まり、ワァ、と上がる広場に集まる観客達の歓声。
 見下ろした己の足。
 男がこちらを見上げていた。
 見覚えのある、”彼”が蓮子の足に縋り付いて、血だらけの潰れた顔で耳擦る軋んだ声を金切り上げる。
 たぁあああああ すぅううううう けぇえええええ゛え゛え゛――
「でも、たまには」
 振り上がった闘夜の足が。
『ハッピーエンドってのも悪くねぇ』
 その背に落っこちる。




クリエイターコメントこの度はオファー有難う御座います。
巫女ファイターさんと厄介事吸引体質さんのお二人+一匹さん(笑)を楽しく描かせて頂きました。
怪談と路地裏を愛して止まぬ今日この頃……


心理描写、言動、場面などなどイメージと異なる部分があれば遠慮なくご連絡ください。本当に。
出来得る限り早急に対応させて頂きます。
公開日時2009-07-21(火) 09:40
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