★ Over the Rainbow ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-8468 オファー日2009-06-29(月) 21:00
オファーPC 二階堂 美樹(cuhw6225) ムービーファン 女 24歳 科学捜査官
<ノベル>

 本当に行ってしまうのか、ずっといてもいいのにと家主は繰り返した。本心から寂しがってくれていることに感謝しつつも二階堂美樹はゆっくりとかぶりを振った。
 「気持ちを切り替えたいんです。もう……魔法は終わりましたから」
 現実に戻らなければならないのだと。大きな荷物を携えた美樹はそう言って笑顔を作った。
 「会いたければすぐに会えます、同じ市内ですから。――本当にお世話になりました」
 家主とはまた会える。けれど、同じ市民として暮らしたムービースターはもういない。
 「それじゃ、また!」
 努めて明るく手を振る美樹の荷物から野いちごの葉っぱが顔を覗かせていた。


 「さあ、今日中にやっちゃうぞー!」
 居候先から昔懐かしい我が家に帰還し、美樹は威勢良く腕まくりをした。家具や調度品などはそのままになっている。時々訪れて換気をしていたこともあり、少し掃除と整理をすれば何とかなりそうだった。
 「えっと。化粧品でしょ、スタイリング剤でしょ……あっ、クレンジングも」
 ぱんぱんのボストンバッグから手際よく荷物を取り出す。わざと声を出してみても応える者はないけれど。
 居候仲間のムービースターからもらった野いちご栽培キットには『リャナ』と書いたプレートを挿した。刃物の扱いに長けたスターから贈られた切り絵の薔薇の栞はお気に入りの本のページに挟まっている。同じく彼からもらったステンドグラスのランプシェードは毎日ハンドワイパーをかけて埃が付かないようにしていた。
 『<お知らせ>××新聞社から取材の申し込み ■月△日に市役所前にて』
 溜まった郵便物の中にはそんな見出しを備えた市の広報が混じっていた。ぱらぱらとめくってみる。銀幕市に支局を持つ全国紙から市民全体へ向けてなされた取材依頼らしい。スター達と過ごした日々を率直に語ってもらうという特集記事が予定されているとのことだった。
 「んっ、こんなもんかな。あとは――」
 日用品をあらかた整理し終えて美樹ははたと口をつぐんだ。
 ハンドバッグの中に残った小さな、しかしひどく精巧なDP帽。居候先の家主に作ってもらったそれをかぶっていたバッキーはもういない。
 (……ユウジ)
 掌にちょこんと乗るような制帽をかぶり、目をきょときょととさせていた空色の魔法生物の姿が今も目の前に彷彿とする。
 鼻の奥がツンとする。空に向かって渦を巻くあの虹が脳裏にまざまざと甦る。
 張り詰めていた――否、意図的に張り詰めさせていた何かがふつんと切れたような気がした時だった。
 放り出していた携帯が唐突に震え出す。液晶の小窓で点滅するのは職場の電話番号。
 「お疲れ様で……えっ!? はい、分かりました、すぐ行きます!」
 挨拶もそこそこに電話を切り、美樹は部屋を飛び出した。
 感傷に浸っている暇もない。科学捜査官としての現実はいつでもどこでも待ったなしだ。
 その慌ただしさが、ほんの少しありがたい。


 押し寄せる仕事を処理するのに精一杯の日々が続いた。目の回るような忙しさの中にあれば物思いに耽らずに済む。魔法があってもなくても警察は慌ただしいが、魔法が消えたことによって新たな問題が顔を覗かせるようになった。
 「面倒くせえな。スターがいりゃチョチョイのチョイだったってのに」
 炎天下の住宅街での聞き込みを終えて戻って来た刑事は襟元の汗を拭いながらそんなふうにぼやいていた。
 「こんなのもスターがいりゃ楽だったのに。“魔法”とか“特殊能力”でさ」
 「ああ。便利なモンが消えちまったもんだ」
 県警から回されてきた遺留薬物の解析結果を待つ科捜研の先輩たちが苦笑し合っているのを聞いたこともあった。
 当たり前のことだ。足を棒にして根気よく聞き込みを行うのも、解析や分析に時間をかけるのも。更に言えば、散々手間暇をかけて捜査を行っても成果が得られないことだってある。だが、スターのいる日常に慣れ切った彼らにとってそれらはもはや“当たり前”ではなくなっていた。スターの“魔法みたいな力”をあてにしていた警察には軽い混乱が起こり、従来の地味で地道な捜査方法にあからさまに愚痴をこぼす捜査員も目立つようになった。
 そんな現実に接する度に美樹は口を噤んでいた。物申すことはたやすい。しかしそんな暇すら惜しい。それにこの手の人間に正論を並べ立てたところで効果などないだろう。ならば目の前の仕事を黙々とこなすほうがよほど有益に思えた。
 だが、美樹はそこまで器用な人間ではなかった。
 「できました。チェックお願いします」
 「ああ……はいよ、ご苦労さん。そこ置いといて」
 「急ぎの案件なんです。県警からも何度も催促されてて……」
 すぐにチェックしてくれと言外に急かすと、先輩捜査員はあからさまに顔をしかめた。
 「無茶言うなよ。こっちも暇じゃないし、スターもいないんだ。そうパッパと進められるわけないだろ?」
 ――そんなの、ただの言い訳じゃないですか!
 その一言は辛うじて呑み込んだが、つい顔に出てしまったらしい。
 「どうした二階堂?」
 「……いいえ。じゃ、できるだけ早くお願いします」
 「分かった、分かった」
 めんどくさいねえ、という先輩のぼやきは聞かなかったふりをして席に戻った。
 思わず、嘆息が漏れる。
 先輩達の反応も分からぬでもない。それでも苛立つ。しかし何に苛立っているのか分からない。
 スターの不存在を怠惰の言い訳にされることか。あるいは、スターが便利な捜査ツールであったかのように言われることか。――恐らく、その両方だ。
 「……さ、仕事仕事!」
 忙しければ何も考えずに済む。だが、ひたすら仕事に打ち込んでいた美樹に決定的に追い打ちをかける事態が発生したのはそれから間もなくのことだった。


 「――爆破?」
 職員食堂のテレビは映画のワンシーンのように炎上するビルを映し出している。消防車のサイレン、怒号、悲鳴、甲高い声でがなりたてるアナウンサー。過剰なテロップで彩られた画面を横目で一瞥し、美樹は食堂を飛び出した。
 「映画みたいだな」
 遺留品の写真を見ながら捜査員の一人が呟いた。黒地の上に幾何学的な文様が赤字で印刷され、その下に同じく赤字でpunishmentと記されている。文字にも図画にも見える文様に既視感を覚えた美樹は「あ」と声を上げた。
 「知ってるのか、二階堂」
 「昔の映画で確かこれと同じ物が……すぐ調べます」
 パソコンに飛びついて素早くキーを叩く。魔法が続いていた頃、ハザードやスター絡みの事件に対応するために作られた映画データベースが役に立った。
 美樹の予想は当たった。そこそこヒットした外国のアクション映画だ。「神の意志を継ぐ者」を名乗る組織が資本主義への制裁を掲げ、次々と爆破テロを起こす。組織のトレードマークとして用いられたロゴは神聖文字をアレンジしたもので、今回の現場に残されていた物と同一であった。
 誰もが錯覚と倒錯感に襲われた。まるで魔法がかかっていた頃のようだ。
 「まさか模倣犯か?」
 先輩捜査員のぼやきにも似た感想は的を射ていた。
 被疑者はほどなくして捕まった。理系の大学に通う男子学生で、爆弾の詳細な作り方はネットで調べたという。更に悪いことに、彼が銀幕市に関する報道を面白がってやって来た市外の人間であることが報道合戦に拍車をかけた。模倣犯。愉快犯。あおりにも似たそんな報道がマスメディアを席巻し、過熱させた。
 愉快犯が愉快犯を、模倣犯が模倣犯を呼ぶ。現実と非現実が入り混じったセンセーショナルな事件が頻発するようになり、警察は捜査に追われた。
 それでも警察関係者の現実感は希薄だった。今まではスターが何とかしてくれていたからだ。スターという非日常の存在による善意の助力はほとんど日常になっていた。それが消えた今、スターという“魔法のような存在”がいないことこそが非日常で、誰もがリセット症候群に近い状態に襲われていた。
 人間は環境に順応する。しかし順応には一定の時間がかかる。まごついている間も現実は待ったなしに進む。
 『ダ・ヤア!』
 聞き覚えのある掛け声が聞こえて来て美樹ははっと息を呑んだ。
 弾かれたように振り返った先にはテレビ。映っているのは――ガスマスクの集団。
 (まさか)
 画面はすぐにニューススタジオに切り替わった。番組の途中ですが緊急ニュースです、午後一時過ぎ、銀幕市ミッドタウンの××のショッピングビルがガスマスクをかぶった黒ずくめの集団に占拠され、中には多数の買い物客が……。
 「二階堂さんいますかー? 二階堂美樹さーん!」
 俄かに廊下が騒がしくなる。呆気に取られる科捜研職員を掻き分けて押し寄せるのは報道陣の波、波、波。
 (な――)
 「あっ、二階堂さん? あなた二階堂美樹さんでしょ? “元”ムービーファンの――」
 無遠慮なカメラ。突き出されるマイク。網膜を焼くようなフラッシュ。
 「臨時ニュース見ました? ガスマスクをかぶった集団が人質取ってショッピングモールに」
 「彼らもかつて“実体化”」
 「二階堂さん、一言」
 「あなたは“彼ら”と」
 「――ねえ、二階堂さん」
 「親しかったんでしょ?」
 「銀幕ジャーナルで読みましたよ。病院の地下で黒いフィルムに」
 「何か一言」
 「あなたは魔法に感謝してるって言うけど」
 「こういう事態は予想できなかった?」
 「弊害」
 「悪影響」
 「犯罪を誘発」
 「――ねえ、警察の一員としてどう思うわけ?」
 「魔法が幸せだったなんてどうして言えるんですかね?」
 「そこんとこコメントちょうだいよ」
 「ほらほらほらほらぁ」


 絶叫したわけでも悲鳴を上げたわけでもなかったと思う。だが、もしかすると怒鳴るくらいのことはしていたかも知れない。
 飛び起きた美樹の呼吸は荒く、嫌な汗が全身を濡らしていた。
 (夢……か)
 『いやー、昨日の事件はまた衝撃的でしたねー』
 『今度はガスマスクのテロ集団ですか。こう立て続けだと本当に“映画みたい”です』
 テレビをつけた瞬間、揶揄的なコメンテーターの声が夢の続きのように流れて来た。画面の右上には“銀幕市でまた模倣犯”のテロップ。
 映像が切り替わる。ガスマスクをかぶった集団。ショッピングモール。彼らに銃を向けられた買い物客たち……。音を消された映像にコメンテーターとアナウンサーのやり取りが重なる。しかし美樹の耳に彼らの声は届かない。
 『怪我人を出さずに即時解決できたのが不幸中の幸いですかねえ。こういった事件が銀幕市外でも起こるようになったら日本中に混乱が広がりますよ』
 『これまでの犯人に未成年者が多いのが特徴でしょうか。青少年への悪影響は看過できないところです。今後もこういった事態が続くのかと思うとぞっとしますね』
 『銀幕市の皆さんはやれ“魔法に感謝している”だの“魔法によって幸せをもらった”だのとおっしゃっていますがねえ、そんなの綺麗事でしょう。自分たちのことしか考えていないのがよく分かる』
 「……魔法が解けた途端に乗り込んできたくせに。ハザードやヴィランズを怖がって近付こうともしなかったくせに」
 『そもそもねえ、魔法などという非常識なものを一律にプラスに評価しているところが信じられませんねえ。実際に弊害が及んでいるわけでしょ。物事を一面だけから……それも良い部分ばかり強調して判断する姿勢には辟易です』
 「一面だけで判断してるのはどっちよ!」
 『魔法をかけた犯人が神様じゃ責任を取らせることもできない。けれどあの魔法が幸福であると声高に謳った銀幕市民の皆さんにも責任の一端はあるんじゃないですか? 魔法を肯定する土壌を作ったわけですからねえ……』
 画面越しにクッションを投げつけたところで効果があるわけもない。したり顔のコメンテーターは相変わらずもっともらしい弁舌を展開している。
 (……何も知らないくせに)
 良いことばかりではなかった。たくさんの血が流れ、命が失われたことを身をもって知っているのは他の誰でもない銀幕市民だ。その上で尚夢の女神に感謝することがどれほどのことか外野は知らない。最後の夜にどんな思いであの虹の渦を見送ったのか、知って欲しいとも思わない。
 スターの名を付けられた野いちごは出窓に置かれ、可憐な実をつけている。刃物の扱いに長けたスターから贈られた切り絵の薔薇の栞は恋愛ゲームの攻略本のページに。同じく彼からもらったステンドグラスのランプシェードは手入れの甲斐あって変わらぬ輝きを保っていた。
 けれど、周囲は何かと騒がしい。映画を模倣した犯罪が増え、それをマスコミがセンセーショナルに報道し、警察関係者は疲れ果てている。スターや魔法に対して愚痴をこぼす者も多い。――美樹の感情は限界を迎えていた。
 「はいはい。スター贔屓のファンってのはこれだから……」
 だが、先輩捜査員に噛み付く度にそんなふうにかわされるのが落ちだった。良くも悪くも警察関係者は多忙だったから、末端のいち捜査員、それも新米である美樹の言い分にかかずらう余裕はなかった。
 (どうして……こんな)
 すべてが歪んでいく気がした。当事者の手を離れ、噂好きの大衆によって好き勝手に拡大解釈されていく。都合の良いように曲解され、訳知り顔の“有識者”とやらが更に理屈を捏ね回す。どれだけ偏った理屈でも、膨大な事象の中から都合の良い部分だけを抽出して連ねてみせれば説得力を持たせることはたやすい。だから銀幕市の刺激的な“弊害”ばかりにスポットが当てられている。
 ――この状況下で思い出は口にしたくない。
 『<再掲>××新聞社から取材の申し込み △日に市役所前にて』
 だから、そんな見出しが記された市の広報は一瞥しただけでゴミ箱に突っ込んだ。


 美樹の前に一人の新聞記者が現れたのはそれから少し後の、通り雨が降った昼下がりのことであった。
 「……取材?」
 根津という男性記者が差し出した名刺をちらと見て美樹は目を上げた。新人なのだろう、就職活動中の学生と大差ない格好をした根津記者は「はい」と背筋を伸ばした。
 黒縁眼鏡に短く刈り込んだ黒髪。スリムな体躯に細身のスーツを纏い、口調もはきはきしていて印象は悪くない。しかし彼が新聞記者であることが美樹を無意識に身構えさせていた。
 ランチのために職場を出た美樹を待ち構えていたのが根津であった。なりゆき上、近くのコーヒースタンドに入って一緒にサンドイッチをかじりながら話を聞くはめになっている。記者と聞いただけで拒絶反応を起こしそうになったが、美樹も良識ある社会人だ。常識をもって接してくる相手を問答無用で門前払いできるわけもない。根津が各地に支局を持つそこそこまともな全国紙の記者であるせいもあっただろう。
 「先週末、銀幕市の皆さんに取材をさせていただきました。市の広報にも募集の告知を載せてもらったんですけど、ご覧くださいましたか?」
 「ああ、あれ……」
 「ご覧になってくださったんですね?」
 「一応ね」
 「ありがとうございます。多くの市民の皆さんにお集まりいただきたかったのですが……」
 「人、集まらなかったんでしょ?」
 後を引き取るように美樹が言うと、根津は眼鏡の奥の目をぱちぱちとさせた。
 「多分そうだろうと思った。で、ジャーナルの既刊で魔法に関わりの深そうな市民に目星をつけて個別取材ってわけ?」
 「鋭いですねえ」
 「分かるわ、それくらい。前にも何度か同じような申し込みを受けたから」
 全部断ったけどね、と付け加えてクリームチーズとペッパーハムのベーグルサンドを口に運ぶ。
 「在りし日の思い出を率直に語っていただくという趣旨なのですが……ご協力いただけないでしょうか? このままではせっかくの特集が企画倒れになってしまいそうで」
 困り顔でぺこりと頭を下げる根津に美樹は溜息をついた。
 「お断りです」
 「どうしてですか?」
 「どうして、って」
 胸の辺りで何かがちりっと焦げた。
 「思い出を口にして、それをちゃんと書いてくれるの?」
 何を話しても面白おかしく取り上げられそうで。
 「脚色したり曲解したり、偏った報道ばかりじゃない」
 大切な思い出に他人の余計な解釈は付けてほしくない。論じてほしくもない。
 「思い出を語って、って言われても――」
 芸能人のゴシップと同じだ。真実よりも面白さが重要視される。
 「何も知らないくせに。知ろうともしなかったくせに」
 事実を都合の良い面だけから解釈し、あたかも報道が真実であるかのような顔をする。当事者と関係のない所で下世話な世評ばかりが膨らんでいく。
 「知ったかぶりして書き立てられるのはうんざりよ!」
 昼下がりのコーヒースタンドが一瞬静まり返り、ざわついた。美樹の声はそれほどまでに大きかった。
 若い根津は上司の叱責を受けた新人そのものの顔で唇を噛み、眉尻を下げている。
 分かっている。根津に責任があるのではないことくらい、美樹にも分かっている。
 しかし言わずにはいられなかった。新聞記者というマスコミを目の前にして、どうしても直接ぶつけたかった。
 「……ごめんなさい。でも、取材に応じる気はないから」
 ベーグルの残りをカフェラテで喉に流し込んで美樹はにべもなく席を立った。
 (……嫌になるわね、この暑さ)
 先程まで通り雨が降っていたというのに。真夏の風はただただぬるく、けだるい。ゆだったアスファルトがオフィス街の光景をゆらゆらと歪めている。無遠慮に照りつける太陽になど目もくれず、背後から呼び止める根津の声も無視して足早に交差点を渡った。
 だから、美樹は気付かなかった。気付いていたとしても無感動な一瞥をくれてやっただけかも知れない。
 にわか雨が通り過ぎた空には清々しい虹がかかっていたというのに。


 根津記者は引き下がらなかった。彼は新人ゆえに少し無鉄砲で、粘り強かった。
 「僕も仕事の関係で半年だけ銀幕市に住んでいたことがありました。だから面白おかしく書き立てたいわけじゃないんです。僕たちはありのままの銀幕市の姿を記事にしたいんです」
 だから率直な思いを聞かせてほしいのだと。根津はそう言い続けたが、美樹は肯こうとはしなかった。仮に根津が“ありのままの銀幕市の姿”とやらを記事にしてくれたとしても、読み手がありのままに受け取ってくれるとは思えない。
 普通に思い出が語れないのなら口にする気にはなれない。大切な記憶に好奇の尾ヒレをつけられるくらいなら口をつぐんだほうがましだ。そう思っているのは美樹だけではなかったようで、それらしい記事が新聞に載ることはとうとうなかった。
 美樹の部屋の野いちごはたくさんの実をつけた。大半はジャムにして、残りは種を取るために使った。薔薇の切り絵の栞はお気に入りの作家の恋愛小説のページに挟まっていたし、ステンドグラスのランプシェードは相変わらずぴかぴかだ。最近ではステンドグラス作りの腕も少しずつ向上してきた。
 部屋の中だけで思い出を慈しむうちに時は流れ、やがて一年が経った。


 テレビをつけても新聞を広げても“銀幕市”の文字は見当たらない。安堵と一抹の寂しさが入り混じった感情を抱えつつ美樹は今日も仕事に向かう。
 新しい物好きのマスコミや大衆にとって銀幕市の魔法はもはや過去のものになりつつある。無責任なマスコミにはうんざりしていたが、懐かしい魔法の日々が本当に遠くなってしまった気がして少し寂しい。
 こうやって風化していくのだろうか。美樹が忘れることはないけれど、人々の記憶からは薄れていくのだろうか。
 人間は環境に順応する。かつて恐竜や魔法使いが往来を歩いても誰も驚かなくなったように、彼らがいなくなった状態にも馴れていく。そうやって時間は流れていく。
 「……あ」
 昼休みにテレビガイドをめくっていて、ふと手を止めた。
 週末の21時の映画タイム。今週はSFアクション『ディビジョンサイキック』が放映されるらしい。
 実体化したDPのメンバーと一緒に事件を追ったこともあった。空色のバッキーにかぶせていたのはDPの制帽だった。
 デスクの引き出しから取り出した小さなDP帽を指で撫でていると、先輩の捜査員が「おっ」と声を上げた。
 「それ、おまえのバッキーがかぶってたやつだろ?」
 「え」
 驚きを込めて見上げると、先輩は「懐かしいな」と呟きながら目を細めた。
 「俺んとこには来なかったんだよなあ、バッキー。これでも結構映画好きなんだけどねえ。そういえばおまえ、バッキーをさらわれそうになったって言ってなかったっけ? コンビニに行った帰りに」
 「あ、あれは違うんです。さらわれたわけじゃなくて、私のポカで……」
 言いかけて、口をつぐんだ。
 ――こんなふうに自然に思い出を話したのはいつ以来だっただろう。
 「その帽子、DPのだっけか? あいつらにも随分助けてもらったっけなあ」
 コーヒーカップを片手に語る先輩の目には穏やかな懐古の色だけがあって、美樹は思わず「はい」と笑みを返していた。
 報道が下火になったせいもあったのだろうか。その頃から、市内のあちこちで魔法の日々を懐かしむ声が聞こえるようになった。
 バスの中で。信号待ちの交差点で。飲食店で……。誰かがふと呟けば、隣にいる誰かが懐かしそうに応える。野に咲く花のようにあちこちで小さな思い出話が芽を覗かせる。市民の思い出話を物見高く見るような人達が既に少なくなっていたことも回顧を促す要因の一つとなった。
 枯れたわけではなかった。小さな花々は、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
 「綺麗になったなあ、あの辺りも」
 「結構時間はかかったけどね」
 「人の手で地道に作業するしかなかったし」
 仕事で乗り合わせたバスの中でもそんな会話が聞かれた。つられるように外に目をやればベイエリアの建物群が遠くに望める。
 まだ完全にとはいかないが、マスティマとの決戦で被害を受けた一帯は復興された。スターの魔法や特殊能力ではなく、人の手によって。
 「そういえばさ。ハザードでうちの近所が被害を受けた時に、友達のスターが……」
 見ず知らずの男女が語る見ず知らずのスターの話を背中に聞きながら、静かにバスに揺られる。
 スター達の痕跡は過去のものになったかも知れない。けれど、街で生きる人々の心の中に彼等は今なお息づいている。
 「もしかして、あんたと仲良くしてたあの人のこと?」
 「そうそう。親切な人なんだ、見た目ちょっと怖いけど。ドラゴンとのハーフだって言ってたかな?」
 他愛もない話だ。ほんの小さな思い出だ。けれど、そんな小さな花がぽつぽつと咲く度、またスターに会うことができる。
 (ドラゴンの血が混じってて強面で……って、誰のことだろ。何人か心当たりあるなあ)
 見知らぬ誰かの思い出も美樹にとっては見知らぬスターとの出会いだ。同様に、美樹にとっての思い出は誰かにとっての出会いになる。同じ記憶を語り合っても、違う人間が話せば違う側面が見えてくるだろう。
 思い出を持つ多くの市民がいる。大切な思い出を交換して笑い合う度にまた新しくスターを知ることができる。
 だからスター達は生きている。この街の人々の心を通して、これからも。
 ――寂しくなど、ない。
 「あの。ちょっといいですか」
 「あ、はい?」
 思い切って声をかけると、気が優しくて力持ちのスターについて話していた男女は目をぱちくりさせた。
 「不躾ですみません。そのスターの方、どなたですか? 私の知ってる方かなって思って……差し支えなければ教えていただきたいんですけど」
 突然の申し出に男女は顔を見合わせたが、やがて嬉しそうに「はい」と答えた。
 美樹の胸が暖かさでいっぱいになったのは、目の前の笑顔の明るさのせいのみではなかった筈だ。 


 「……んっ。よし」
 汗もかいていないのに額を拭うしぐさをし、美樹は自作のステンドグラスを誇らしげに見下ろした。
 ステンドグラス作りの師匠であるスターには及ばないし、彼が作ってくれたランプシェードに比べればまだ見劣りする。それでも初めに比べればだいぶそれらしく作れるようになった。切り絵の薔薇の栞も見よう見まねで同じ物をと試みたが、こちらはまだうまく行っていない。
 「あ、もう行かなくちゃ」
 今日は人と約束がある。慌ただしくハンドバッグを手に取った美樹だったが、途中でベランダに取って返した。
 「行って来るね」
 野いちごのプランター ――昨年収穫した分から種をとって殖やしたのだ――に声をかけてからミュールに足を突っ込み、夏空の下へと飛び出した。
 「……ん?」
 頬に水が当たった気がして、雨なんか降っていないのにと空を見上げたら唐突に虹が現れていた。
 思わず、目を奪われる。鮮やかな光の欠片。プリズムほど強烈ではなく、しかしどこか現実離れした色彩。
 まるで白昼夢のような――
 そう、“あの夜”も夢のように美しい虹を見た筈だ。空に向かうパステルカラーの虹を。
 (……綺麗)
 虹を見たのは……虹がこんなに綺麗だと思ったのはいつ以来だろう。
 “虹は作れる”。そんなふうに言って笑ったのはちょうど去年の今時分だった。
 「うわっ!?」
 しかし次の瞬間、美樹は残念な悲鳴とともにずぶ濡れになっていた。
 「ごめんごめん」
 “すみません”でも“大丈夫ですか”でもなく、屈託のない謝罪が横合いからかけられる。水の溢れるホースを手にした見知らぬ男と、彼の傍で快活に笑う少年。恐らく親子だろう。
 「あれ? お姉さん、いつかの」 
 「あー!」
 心地良い既視感が湧き、美樹と少年は互いに指差し合って声を上げた。
 去年の今頃。ちょうど夏の盛り。この親子が同じように水を撒いているところに美樹が通りかかり、同じようにずぶ濡れになったのだ。
 「また虹を作ってたの?」
 「そうだよ。去年よりおっきいんだ!」
 「ふーん、そうなの……確かに去年より盛大ね」
 美樹は不敵に微笑んだ。
 前髪からは雨垂れのような雫が滴り、外出用のワンピースも夕立に降られたかのようにずぶ濡れだ。
 「……いーい度胸じゃない」
 「あ、やべ」
 「こら、待ちなさーいっ!」
 ぴゅうっと駆け出して行く少年、ヒールで果敢に追う美樹、苦笑しながら二人を見守る若い父親。
 「こーこまーでおーいでー!」
 「ただじゃ済まさないわよ!」
 結局、美樹は根津記者との待ち合わせに遅刻した。その上、水溜まりに突っ込んで泥水だらけになった格好のまま赴いたものだから根津は腰を抜かした。
 とある全国紙の地方欄に銀幕市民の思い出の特集が掲載されたのはそれからひと月ほど後だった。一度では書き切れず、五回にわたっての連載となった。
 五回分の記事は綺麗にスクラップされ、今も美樹の部屋にある。野いちごやランプシェード、切り絵の栞と一緒に。


 (了)

クリエイターコメントご指名ありがとうございました、宮本ぽちでございます。
ぎりぎりの納品で失礼いたします。

魔法が消えてただでさえ少し混乱しているのに、畳み掛けるように色々なことが起こって余裕を失っていく…というイメージでした。
追い詰められ追い込まれた分、“復活”のシーンが際立っていると良いのですが。

ええと…後は何も言わないでください。引用させていただきました。
ゲリラ窓を捕まえてくださり、ありがとうございました。
公開日時2009-07-21(火) 09:40
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