★ 空の向こう、星へ続く道 ★
<オープニング>

 * *

「ほら、だから言ったでしょ? 彼は害を成す、と」
「ですが……」
「まあいいや。僕が何しても、文句はないよね?」

 ――そして

「君が僕に適うと思うのかい? 欠陥品のくせに。――ねえ、イアン?」
「お前を超えなければ――、今、私が生きて此処に在る意味は無いッ!」

「マ、マレナス王子!」
「何をそんなに驚くんだい、皆。元々、ここは僕が主だろう?」

 時間は――、

「ここは死んだ方が、美しいのかもしれないね。――でも」
「あなた様にも……いくら兄王様の傀儡と言えど、生きる自由はあるはずなのですッ!」
「駄目だ、今、私に近付いてはいけません! これ以上――!」
「今、私達の主はあなた――」

 過ぎて行く――。

「僕の願い? 今となっては、そんなのたった一つだよ。――無さ。本来の姿じゃないあの館なんて、最初からやり直せばいいんだよ。全て消してね」


 あっはははははは、ははははハハハッぎぃやああぁぁアアあああぁぁアアアアアッ――。


 * *

 道路にひとり、人が倒れ伏していた。じわり、じわりと彼の身体を中心に、大きな血溜りが広がりつつある。
 その状態に気がついた周りを行く人々が、あたふたと彼をとりまいて、彼の状態を探ったり、救急車を呼んだりと、救命に動き回っていた。
 その中のひとりが、彼の傷の状態を見ようとして近付いた時だった。不意に思いがけない強さで、倒れ伏す彼の腕が、がしりとその人の腕を掴んだのだ。
「……! 大丈夫ですか!」
「お願いです……二人に……生きる自由を……選ばせてあげて……下さい……」
 容態を慮る言葉に彼は、ひび割れた唇から、しぼりだすように、短く告げた。
 そして。
「――!」
 あたふたと動き回る人の中で、彼はフィルムへと、瞬時に変化していった。 
 雑踏の音の中、その音だけが、その場にははっきりと響いていた。
 短く乾いた、そのあまりに重い音が。

 * *

 一歩歩けば、見上げるほどに高い天井から、足音が連なって響いてくる。
 薄暗いその聖堂の中で、マレナスはにこにこと笑みを佩きながら問いかけていた。
「この神殿は、面白い所に実体化したのだから、もっと来客が増えているかと思ったのだけど、そうでも無いんだね」
「――ええ。ホーディス様が、あまり目立つことをお望みにはならなかったので」
 マレナスの後ろに控える、初老の従者が静かに答えた。それにふうん、と首を傾げて頷くと、マレナスは声に、楽しそうな感情をのせる。
「じゃあ、折角主も変わったことだし、ここらでひとつ、楽しい催しでもやってみようか。皆の結束も固まるしね」
 マレナスの斜め後ろでは、青年が静かに控えている。彼の表情は、何を聞いても動くことはないようだ。
「――はあ、それは一体どのような――?」
「そうだね」
 後ろを向いていたマレナスの視線が、ゆっくり前へと戻り、あるものを捉えた。
「例えば、戴冠式とかね」
「それは――」
「この市ではそういった催しはしないんでしょ? 皆を集めて、ご馳走を用意して。新しい主が開くパーティの余興、みたいな感じでやったら楽しくなると思うんだけどな」
「ですが――」
 どこか言い渋るような様子を見せる従者に、なんで? と彼は軽やかに問う。
「精霊祭はやったんでしょ? 確かここには王冠とかの儀式の道具もあるんだよね? 気にしないでよ。――別にちょっとした真似事なんだからさ」
 一瞬返答に詰まった様子の従者は、しばしの躊躇いの後に、深く頭を垂れた。
「かしこまりました。主のご命令のままに」
 従者はそう述べると、踵を返して聖堂の入り口から出て行く。
 マレナスはそれを見やると、もう一度、先程まで捉えていたものに、視線を向けていた。
「勿論、冠を載せる神官は、ホーディスでね。本来神官であった君が、本来王となるはずだった僕に冠を載せる。これで、この神殿が本来の姿に戻るんだよね?」
 マレナスが見上げた先には、どこか光を失くした視線を向ける、――ホーディスの姿がある。マレナスはそれを見て愉快そうに唇を上げると、さらに視線を上に上げた。
「ねえ、そうでしょう? ――我らが『鎮国の精霊』よ」
 そこには、ゆらゆらと小さく揺れる、四色の焔があった。そしてその焔を手に持っている、翼を持つ人の姿をした石像が、ある。

 * *

 暖かい窓からの光が差し込む対策課で、植村は眉根を寄せながらその紙面に目を通していた。
「――戴冠式、ですか。これは一体どういうことなのでしょう?」
 植村が首を傾げた時、入り口の辺りで、ざわり、と人がざわめく気配がした。何事かと彼がそちらに目を向け、そしてぽかりと口を開く。
「ど、どうしたんですか、リーシェさん……!」
 彼女の格好は、まるで戦いの最中から飛び出してきたようなものだった。衣服はあちこちがぼろぼろにほつれ、そこからは血が滲み出ている。体中に出来ている傷の幾つかには、乱雑に包帯が巻いてあるが、その包帯には赤い血が滲み出ていた。
「大した事では無いから気にするな。それより、マレナスって奴がここに来なかったか?」
「ええ、来ましたというよりは――」
「……戴冠式?」
「ええ。神殿でそのような事を行うと。――それより」
 植村が何か言いかけたのを遮って、リーシェはがばり、と彼が手に持つ紙面を奪い取った。
「まずいぞ! 兄上はあれを復活させるつもりか!」
「……あれ、とは?」
 途端に焦燥の色を見せ、掴みかかるような勢いで紙面に目を通すリーシェに、植村は引きずり込まれるようにその言葉を繰り返した。
「私達のような小国が、何故潰れなかったのか、分かるか?」
「いえ、それは」
「あの神殿には、四体の精霊がいる。普段は石化した姿だが、ある条件を揃えると、その身体を石化から解消させて、絶大な力を行使する。だからあの神殿は、『鎮国の神殿』と言われているんだ。そして、その条件は――」
 王が、神官に絶対なる命令を下した時。
「……と、いうことは……」
「行かなければ」
 リーシェはぽつりと言葉を落とすと、制止の言葉を掛けようとする植村の前から風のように去っていった。

 * *

 紙面に書いてある戴冠式の日にちは、明日の午後からだった。はあ、と息を吐いて、リーシェは先程目を通した内容を思い返す。
 小さい頃に見た、父の戴冠式では、神官長を勤める者が冠を載せていた事を朧ながら記憶していた。
 つまり、あそこにはホーディスがいるのだ。
 もし、マレナスがホーディスに、精霊を行使することを命令すれば、その場は大惨事になるだろう。それを何とか食い止めなければならない。
「どうすれば……」
 そう呟いたリーシェの視界が、ふにゃりと、曲がった。
「くそ、今ここで……」
 尚も前へ進もうとするリーシェの視界は白に染まっていく。やがて、どさり、という音と共に、彼女に入り込む音と視界の全てが、ぷつりと途絶えた。


種別名シナリオ 管理番号986
クリエイター志芽 凛(wzab7994)
クリエイターコメント お久しぶりです。ようやくシナリオのお届けに上がる事が出来ました……。恐らく私が全力を行使できる最後のシナリオになるのではないかと思われます。
 何やら神殿では怪しげな戴冠式というイベントが行われるようです。
 リーシェの予想では、何か不穏な動きがありそうですので、皆様には銀幕市にまで被害が及ばないように動いて頂くことになると思われます。色んな動き方が出来るように、イベント開催みたいにしてみました。様々な切り口からのプレイングをお待ちしております。
 また、シナリオ「空の向こう、いつかの記憶」から、一部続編みたいな感じになっております。ご了承ください。
 ちなみに、人数的には多めになります。ので、一部行動が被りますと、プレイング勝負になる部分もあるかもしれません。
 最後になるかもしれない、という事で、いつも以上に魂削って頑張りたく思いますので、よろしくお願い致します。

参加者
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
麗火(cdnp1148) ムービースター 男 21歳 魔導師
鬼灯 柘榴(chay2262) ムービースター 女 21歳 呪い屋
香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
マイク・ランバス(cxsp8596) ムービースター 男 42歳 牧師
ファレル・クロス(czcs1395) ムービースター 男 21歳 特殊能力者
コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
<ノベル>

 chapter.1

 そこは混乱する中、それでも普段の銀幕市へと戻ろうとしていた。車の音が長く延びていく。
 その中でひとりの銀髪の女性が、唐突の出来事に硬直する人々の間をすり抜けた。そっと地面に屈み、地面を転がるフィルムを拾う。
「……これを対策課へ届けてくるわ」
「ええ。お願いします」
 周りの人々に一言短く告げると、彼女は道の端に放っておいたスーパー「まるぎん」のビニール袋を手に取り、歩き出した。
「……それにしても、一体あの人はどうしてしまったのかしら……」
「何か事件に巻き込まれたのか?」
「……分からない」
 ざわざわと、野次馬達がそうざわめくのを耳にしながら、彼女――香玖耶・アリシエートはその場を背にする。
 そうして歩きながらも、彼女の脳内は幾つもの考えで満たされていた。
 香玖耶がその現場に居合わせた時、このフィルムとなってしまった人物は、既に血を流して倒れていた状態だった。
 咄嗟に助けようとして、近付いて。
(お願いです……二人に……生きる自由を……選ばせてあげて……下さい……)
 そして、不可解な言葉だけを遺して、彼はフィルムへと還ってしまった。
 ざわざわと、胸の中を何かが動く音がする。
「……嫌な予感がするわ」
 香玖耶はぽつりと、誰にも聞こえない声で呟いていた。

 *

「……行っちまったか」
 幾人もの人が織り成す輪の外で、ひとりの青年が、颯爽と歩いていく女性を目で追いながら呟いた。
 壁に寄りかかっている青年、麗火は近くの道から、今起こった事件の一部始終を目撃していた。ふらふらと歩いている人がいると思ったら、ばったりと道路に倒れ伏し、その場にいる人が慌てふためく中で、フィルムへと変わっていく、その姿を。
 銀幕市ならば、これは日常にある事かもしれない。
 けれども。
「……とりあえず、俺も行ってみるか……」
 何か胸の内でざわめくものを抑えるようにひとり呟くと、彼も対策課へと歩き出した。
 沢山いた筈の野次馬も、いつの間にか減ってしまっている。

 *

 香玖耶が対策課に赴くと、そこにはいつもと同じく対策課の職員が忙しなく働いていた。
「あのー……」
 彼女が声を掛けると、壁に何かを貼ろうとしていたらしい植村が近付いてくる。
「はい、どうしましたか?」
「実は……ついさっき、そこでムービースターだと思うんですけど……道路に血塗れで倒れてて……それで」
「ああ……そうですか……」
 香玖耶が差し出したフィルムに、植村は微かに眉を寄せてそれを受け取った。
「何か事件に巻き込まれてしまったのでしょうか……」
「対策課では、何か聞いてないの?」
「うーん……」
 考え込む様子を見せた植村。彼は手に持っているポスターのような紙をカウンターに置くと、うーんと唸りこみながら、事件がファイリングされているらしいファイルをばらばらと開いていた。
 カウンターに置かれた紙が、ひらりと窓から入り込む風によってふわりと浮き上がる。
「あっと……」
 ふわりと浮かんだそれを押さえようと咄嗟に掴んだ香玖耶は、その紙面に書かれている文章が目に入り、眉根を寄せた。
「……戴冠式……?」
 香玖耶の言葉に、ファイルをばらばらと開いていた植村は顔を上げる。
「あ、それですね。そうなんですよ……。少し、厄介な事が絡んでいるみたいで、こちらもどうすれば良いか悩んでいまして」
「開催するも何も、これ、あの神殿でやるんでしょ? あの二人は最近神殿にはいないって聞いたけど……」
 そこまで言いかけて、彼女は言葉を切った。
 何かを思い出しかけたような気がするのだが、鮮明にそれが浮かんでこない。
 微妙なもどかしさに、唇を噛む。
 そうしていると、彼女の背後からひとつ足音が響いてきた。
「何だ、これ。……戴冠式?」
 その足音の主、麗火は、香玖耶の後ろからひょいとその紙を覗き込み、興味深げに目を通していた。
 そして、その紙の下の方を指差す。
「これ、血じゃねえか?」
 香玖耶も、指差した先へ目をやった。確かにそこには、まだ間があいていないのか、鮮明な赤がべったりとついている。
「ほんとだわ! しかもこれ、まだついてから時間が経ってないじゃない! どういう事なのよ!」
「じ、実は……ついさっき、ここにリーシェさんがいらしたんですが……。その、全身傷だらけの血塗れで……」
 その話に、香玖耶は眉を吊り上げた。がしりと植村の襟を掴む。
「どうしてそれを先に言ってくれなかったのよっ! それで、リーシェは?」
「そ、それが……このお知らせを見て、顔色を変えていなくなってしまいまして……。一応、止めたんですが……」
「ああ、どうしてもっと強く止めなかったのよー! 紙にさわるだけでこんなに血痕が付くんじゃ、彼女、危ないじゃない?」
「う、わわわ、ですから……!」
「おい……、そんなに揺らすと、こいつの首折れるぞ。やわそうだし」
「これくらいじゃ折れないわよっ!」
 香玖耶が植村の襟元を掴んで、叫びながらがくがくと首を揺する。ひとまず、儀礼的に麗火が止めに入るが、そんなに熱が入っていない為、あまり効果はないようだった。
 そんな時、対策課で起こっているちょっとした騒ぎが目に入ったのか、対策課のカウンターに近付く男がひとりいた。
「……まあまあ、その人は常に過労気味ですから、とりあえずそこで止めてあげた方が良いんじゃないですか?」
 口元に苦笑を浮かべつつ、香玖耶の腕をそっと押さえたその男は、マイク・ランバスだ。ようやく香玖耶の腕から開放されて、ごほごほと咳を繰り返す植村を見る。
 口元に笑みは湛えたまま、彼の緑の目が、真剣味を帯びた。
「――それで、一体何が起きているのか、説明して頂いてもよろしいですか?」
「ごほごほっ。ええ。――この前、マレナス、という方が、こちらにいらして、ホーディスさんは実は危険人物であるから、調べてくれないか、という依頼を持ってきまして」
 まだ咳をしつつ、植村がそう言うと、香玖耶がそれに頷いた。
「そうだったわ。私は、その依頼を受けた」
「ふうん。そんな事があったのか。――それで、結果は?」
 麗火の言葉に、香玖耶は首を小さく竦める。
「グレーって所ね。確かに、私達が調査に訪れた時、ホーディスは私達を攻撃してきたし、問いかけに否定もしなかった。だけど、ただ、『真実はそれだけじゃない』と言って消えてしまったのが気になるから、グレーゾーンね」
「その後、またあの方はこちらにいらして、調査結果を聞かれました」
「それで、何て言ってたの?」
 植村は、香玖耶の問いに、はっきりと表情を曇らせた。
「それはもう、楽しそうに笑っていましたよ」
(ほら、だから言ったでしょ? 彼は害を成す、と)
(ですが……)
(まあいいや。僕が何しても、文句はないよね?)
 植村が、彼の言葉を告げた時、その場には静寂が舞い降りた。再び窓からは風が舞い込み、香玖耶の手に持つ紙をふわりとそよがせる。
「……なるほど、それで、戴冠式のお知らせが来て……それを双子の妹さんが見て、顔色を変えて飛んでいった、と」
 マイクは、ふむ、と腕を組んで考え込む仕草を見せた。そして、うーんと唸りながら話す。
「もしかしたら、そのリーシェさんも、何か事件に巻き込まれているのかもしれませんね」
「あっ!」
 ぽん、と香玖耶の頭に引っ掛かっていた事柄が鮮明に浮かび上がってきて、彼女は声を上げた。
「そういえば、思い出したわ。このフィルムの人が着てた服……。リーシェ達が着ていた服に何となく似ていたのよ」
 完璧に同じだった訳では無いが、何となく細部の飾りなど、雰囲気がそっくりだったのだ。
「つまり……そいつも、同じ事件に巻き込まれていたかもしれないって事か……」
「この人がフィルムに変わる直前に、そういえばこんな事を言ってたわ」
 香玖耶がそう言い、路上で聞いた言葉を告げる。
「……二人、ね……」
 少し顔を伏せた二人に、マイクがまずは、とさっぱりした声音で言った。
「何はともあれ、まずはリーシェさんの安否を確かめることが一番大事ですね」
「そうね」
 香玖耶もその言葉に頷いた。

 *

 がちゃ、といつものように仕事部屋の扉を開き、シャノン・ヴォルムスはその中へと足を踏み入れた。
 仕事が終わった後独特の、不思議な高揚感と倦怠感に包まれながら、着ていたジャケットを脱いで椅子の背に掛ける。
 そうしてゆっくりと椅子に腰掛けて、机の上に置かれている郵便物に目を通していった。すると、いつもの依頼の内容に混じり、不思議な封筒がひとつ混じっている事に気が付く。
 その封筒をひらりと裏返し、シャノンは眉をひそめた。
「招待状……?」
 どこか重厚な雰囲気を醸し出している封筒。その封筒の封を開き、中に入っている手紙を取り出す。
「戴冠式、ね……」
 そこに書かれている内容を一読して、シャノンは嘲るような笑みを浮かべていた。
「中々、食えない奴だな、マレナスとやらは」
 そうして彼は、再びジャケットを手に立ち上がる。素早くそれを羽織り、封筒をジャケットのポケットへと入れた。
 部屋の中を点検し、再び仕事部屋から外へと出る。無機質な音を立ててドアが閉められた。
 仕事の疲れも見せず、軽やかな足取りでマンションを後にする。
 一歩路地へ踏み出したとき、少し先の通りをひとり、ふたり、三人程、走り去っていくのが見えた。
 その中のひとりと、目が合う。
 ――それは一瞬の邂逅。
「……」
 シャノンは口の端を少し上げつつ、カツン、とブーツの音を立てた。

 *

「こんにちはー」
 にこやかな挨拶を対策課の中へ向けながら、コレット・アイロニーは依頼がずらっと並んでいる掲示板へと足を向けていた。その後ろから、ファレル・クロスが黙ってコレットについてやってくる。
「今日も依頼が沢山あるわねぇ。……あら?」
 コレットはうーんと唸りつつ掲示板を見回していたが、そこに少し変わったポスターが貼ってある事に気がついて声を上げた。
「戴冠式? パーティのお知らせ? ……これ、事件の依頼用の掲示板よね。どうしてこのポスターがここに貼ってあるのかしら」
「さあ……どうしてでしょう」
 コレットの問いに、ファレルも首を傾げた。
「あらあら。面白いことになっていますね」
 二人の隣に、いつ来たのかひょっこりと立って、戴冠式のポスターを覗いている女性がいた。
 コレットは突然現れた女性に驚きの表情を浮かべる。
 彼女――鬼灯柘榴は、長い黒髪を風に揺らしながら、にっこりと笑んだ。
「あの後、どうなるかと思いましたけど。結局こんな事になっているのですね」
 柘榴はそのまま、対策課のカウンターへと歩み寄っていった。植村へと尋ねる。
「あれから、マレナスって人は来ましたか?」
「ええ。……好きにさせてもらう、との言葉の後に、このようなお知らせを送ってきました」
「……それがどうして、事件の依頼用の掲示板にあるのですか?」
 柘榴の隣に、スッとファレルが並び、問いかけ、植村が手にしている紙に、そのまま目を通した。
「まあ、色々と面倒な事になっていまして……。もしかしたら、何らかの事件が当日、起こるかもしれないとの事ですので」
 植村は三人に、ここにリーシェが来たことなどの経緯を語った。三人は、一様の反応を見せる。
「まあ、それじゃあ、そのリーシェさんは、今も大怪我をしてるの?」
「そうでしょうね。あの様子では、碌に手当てをしている様子は見られませんでしたから。先程も、三人程、彼女を探しに行きましたよ」
 その言葉に、コレットはまあ、と答え、頬に手を当てた。
「私もリーシェさんを探してこなくちゃ」
 そのまま彼女はくるりと対策課を後にして、走り去っていく。ファレルもちらりと植村と柘榴を見ると、小さく頭を下げつつコレットの後を追った。
「……あら」
 表情を変えずに二人を見送っていた柘榴が、そこに現れた人物に小さく声を上げた。
 彼女の視線の先には、悠然と対策課へと歩いてくるシャノンの姿がある。シャノンも、ばたばたと走り去っていくコレットの姿を目で追いつつ、カウンターの前まで歩いてきた。
「一体何事だ……。ああ、やはりここにもそれが来ていたか」
 シャノンは、植村が手にしているポスターに目をやると、そう言いながらジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
「俺の所にもこんな招待状が来てな。ここにはどういった形で情報が来ているか、ちょっと確かめようと思ってな」
「これは神殿から直接来たものですが、リーシェさんがこれを見て、顔色を変えて出て行きましてね」
「なるほど。……調査の結果、ホーディスはヴィランズかもしれない、という可能性が高まったから、彼を消そうが自由、という事か……」
 眉をひそめるシャノンの横で、ふふ、と柘榴は笑みを零した。
「まあ、マレナスという人のいう事は、至極もっともであると思いますけどね……」
「ふむ。……まあ世間的にはそういう事になるのだろうが。……お前はどうするんだ?」
 シャノンの問いかけに、柘榴はその赤い着物の袖を口元へと持っていった。
「……この茶番を傍観するのも面白そうですが、その茶番を壊すのはもっと楽しそうです」
 きな臭い匂いもしますしね、と彼女は呟いた。
 窓からはいる柔らかな光が、彼女の着物を赤く照らす。


 chapter.2


 リーシェを探すことは、彼らにとって骨が折れる作業では無かった。
 ふわり、と香玖耶の前に、幾つか探索の為に飛ばせた小さな精霊たちが帰ってくる。そのトンボのような羽を持つ小さな精霊は、香玖耶にリーシェのいる方角を示した。
「こっちみたい!」
 そして香玖耶が二人を誘導して走る。それを繰り返している内に、マイクがとあるものを見つけていた。
「ん? これ、血痕じゃないですか?」
 マイクが、そう言いながら地面を指差した。確かにそこには、点々と黒い染みが続いている。まだ、その染みの色の明るさからして新しいもののようだ。
「それじゃ、ひとまずそれを追ってけば追い付くな」
 それまであまりやる気を見せていなかった麗火が、少しだけやる気を出したようだった。
 そうして三人が走っていく中、ふと横に小さな道路が分かれていた。
 ――その道の奥で、悠々と歩く人物と一瞬だけ目が合ったような気がした。
 一瞬の邂逅だったので、誰だったかは分からない。
 その邂逅の後、道路に付く血痕は段々と大きくなってきていた。そして、道の角を曲がった時。
 そこに、リーシェは倒れていた。
 じわじわと彼女が倒れている地面の周りには、血痕が広がってきている。
「いたわ!」
 いち早く香玖耶が近付いて、リーシェの傷を素早く検分する。
「これは……。全てが刃物による傷ですね。傷はそれほど深くはなさそうですが、出血がひどい」
「病院に運んだ方が良いのかしら」
「だが、ここからは少し遠いな」
 香玖耶が、するりと布を取り出して、腕のひどい傷にくるりと巻きつけた。
 そうしててきぱきと応急処置を施していると、後ろから二つの足音が響く。コレットとファレルだ。
 二人はリーシェの所へ近付くと、屈んでリーシェの傷の容態を聞いた。そして、コレットが指を刺しながら叫ぶ。
「私が住んでいる所に行きましょう! あそこなら、ここから近いわ!」
 そして、五人はばたばたと、コレットの住む児童養護施設へと向かったのだった。

 *

 ぱたぱたと、白いカーテンが風に弄ばれている。
「……とりあえず、何とかなったわね」
「ええ」
 香玖耶は、白いタオルを抱えて入ってくるコレットへ笑みを浮かべた。コレットも、にこりと笑みを返す。
 ここは、児童養護施設の中の一部屋だった。あれからコレットが住処としている施設に辿り着いた一行は、何とか一部屋を借りてリーシェの手当てをする事が出来たのだった。
「あとは、リーシェさんの意識が戻るのを待つばかり……ですね」
 手を洗い、さっぱりとした表情でマイクがこの部屋へと戻ってくる。
「あ、このタオルを干すのを手伝ってもらっても良いかしら?」
「ええ、勿論です」
 コレットのお願いに、僅かばかり口の端を上げたファレルは、部屋から外へと通じるガラス戸を開いた。
 外からは柔らかい風が吹き込んでくる。
「それにしても……情報が足りないな……」
 リーシェの手当てをそれなりに手伝い、今は部屋の隅の椅子に腰を落ち着けている麗火は、ぽつりと呟いた。そうして眉をひそめる。
「そうですね。どうしてリーシェさんは怪我をしていたのか。そして何をしていたのか、それさえも分からない」
「肝心のホーディスの姿も無いしね」
 香玖耶も首を傾げつつ、椅子に腰を下ろした。
 陽が伸びた午後の陽射しを浴びて、事件の渦中にあるのに、まるで日向ぼっこをしているような、そんなのんびりとした時間が流れていた。
 何せ、どう動こうにも今はリーシェが目覚めるのを待つしかないのだから。
 そして。
「……う、ん……」
 微かに身じろぎをして、リーシェがぱちりと目を開いた。
 一番ベッドの近くにいた香玖耶は、明るい表情を浮かべてベッドへと駆け寄る。
「目が覚めた? 大丈夫?」
「……――あなたは……。ここは一体? 私は……」
「貴女は、対策課を出た後、道で倒れこんでいるのを私達が見つけたのですよ」
 そう言いながら、マイクは柔らかな笑みを浮かべて近付いた。後ろで座っていた麗火も、静かに近付いてくる。
「ああ、そうだった。私は、兄上のあれを見て、それから――」
 リーシェは、そう呟きながら起き上がろうとして、小さく呻く。
「ああ、まだ傷が全然塞がってないから、起き上がっちゃ駄目よ」
「――すまない」
 香玖耶が慌てて、起き上がったリーシェを介抱する。ゆっくりと元の体勢に戻りながら、リーシェは小さく詫びの言葉を告げた。
「さて。――お休みのところ悪いが、どうやら時間も無いようだしな」
 麗火が静かに言う後ろから、ガラガラとガラス戸を開ける音がして、コレットとファレルが入って来た。二人も、心配そうな表情をリーシェへと向ける。
「そうだな」
「そうね。まず、あなたが行方不明になっていた理由を聞きたいわ。調査の為に私達が神殿に入ってから、今まで一体何をしていたのか」
 香玖耶の質問に、リーシェは小さく苦笑を漏らした。
「大した事は出来なかった。ただ、兄上達を探して、ホーディスを元に戻してくれと挑んだだけだ」
「……随分、長い時間を掛けていたんですね」
「ああ。見つけてから、あいつと何日間剣を打ち合っていたんだろうな。まあ、ご覧の通り返り討ちにあったがな」
(ホーディスを元に戻せ。兄上は、ホーディスに一体何をした?)
(君が僕に適うと思うのかい? 欠陥品のくせに。――ねえ、イアン?)
(お前を超えなければ――、今、私が生きて此処に在る意味は無いッ!)
 リーシェは、その時の事を小さく話してため息をつく。
「欠陥品? ……一体、ホーディス達は……」
「兄上の容姿を見て、何か気がつくことは無かったか?」
「容姿? ――そうねえ、特に変わった所は無かったように思うけど……」
 リーシェに問われて、香玖耶は、マレナスに会った時の彼の姿を思い出そうとしていた。
 特に変わった姿では無かった。ホーディスのように、額に何かの模様が刻まれている事も無かった。
 まあ、銀幕市ならそうだろう、とリーシェは再びため息を吐いた。
「マレナスは、金髪碧眼だ。――通常、私達王家の人間は、金髪碧眼に生まれなければならない。だが、私達はどうしてか、銀髪紫眼に生まれてしまった。おまけに双子。私達は、この王家の中で、『欠陥品』として、育てられたのさ。まあ、兄上がこうなってしまったのは、それだけでは無いのだが」
「――そうですね。どうしてホーディスさんがあのような状態になってしまったのか、それだけでは説明にならないですからね」
 マイクが、自身の顎を撫でながら言うのに、リーシェは頷いた。
「いつもホーディスは暗部を上手く隠して誤魔化すから、どこから壊れてしまったのか、それは私にも分からない。だがおそらく、全てはホーディスが、神殿の神官長となることを定められた時から壊れ出したような、そんな気がする……」
「神官?」
「ああ。ホーディスの額と鎖骨に刻まれている模様は、神殿の神官長となるものに付けられるものだ。本来ならば、王族は神官にはならないが、私達は忌むべき子供で、小さい頃から王城とは隔離されて育ってきたからな。王族の位を返還し、尚且つ神官の位に王の子供を就ける。そうすれば揺らぐことの無い国が築ける。その時は、それが最善かつ最良の道として取られてきたし、私達もそう、信じてきた」
 だから私も王族の位を返して、軍人として歩む道を選んだんだ、とリーシェがぽつりと呟いた。
 ――ざああ、と開かれた窓から、新鮮な空気が運ばれてくる。
「……ん? 何か話がこんがらがってきたな。ホーディスが神官長になる事は分かったが、それがどうしてマレナスと繋がるんだ?」
 麗火が首を傾げながらそう言った。
「――私も分からない、どうして兄上がああなってしまったのかは、分からない。……実は小さい時は、兄上は私達には今のような感情は持っていなかったんだ」
「……え?」
「小さい頃、まだ王城で暮らしていた時、兄上は私達には優しく接してくれていた。そして王城を離れてからも、幾つもの手紙を送ってくれていた。――だが、神官長となる事をホーディスが了承して、正式に模様も刻む儀式も済んでいよいよ王族の位を返還することになった時、唐突に兄上は王城から消えてしまった」
「それから兄には?」
「会っていない。それから直ぐに、隣国がこの国に攻め入ってきて、そして父上が死んで。毎日がめまぐるしく変わっていく中で、消息すらも掴めない兄の事を慮る余裕は、この国には無かった」
「……なるほど。それでこうして銀幕市に実体化して、唐突に現れた、と」
「ああ。正直な所、困惑している。ホーディスはいつも肝心な事は教えてくれない上に、唐突に兄上が現れてはな。だが、おそらくホーディスがおかしいのは、兄上のせいだろうと思う」
「それで、その理由は分かりませんか?」
 マイクの問いかけに、リーシェは首を傾げてしばらくの間、何事かを考え込んでいるようだった。そうして口を開く。
「おそらく、それも父が原因だろうな。これは推論に過ぎないが、元々ホーディスは、兄上に操られる事が出来るようにされていたんだろうと思う。そうすれば、ホーディスが反旗を翻すことは出来ないからな」
「なるほど……。つまり、魔法か何かで、という事ですか」
「うーん……、おそらくだが、魔法では無いはずだ。兄上は魔法を毛嫌いしていたからな」
 リーシェはそう言って、苦笑を浮かべた。難しいですね、とマイクも柔らかな笑みを湛える。そこで、何やらメモを取り出して書き込んでいた香玖耶は、うーんと首を捻りつつ言った。
「とりあえず、ホーディスの事で分かることはこれ位かしら。じゃあ、次に戴冠式というものの詳細を教えて貰えないかしら」
「戴冠式というのは、正式に、この国を統べる者になるという儀式だな。神官長が王となるものに、冠をかぶせることによって、王になるという魔法を掛けることを言う」
「……それで、マレナスが王になるとまずい事態になる、という事ですね」
 マイクの言葉に、リーシェはひとつ頷いた。
「神殿には四体の精霊がいてな。普段は石化してるんだが、これは王による命令で、神官長が石化を解除する魔法を紡ぎ、石化が解かれる。まあ簡単に言えば、王が精霊を操ることが出来るという事だ。……今まであの国をずっと守ってきた精霊だ。今、兄上が戴冠式を行ったら非常に不味いだろうな……」
「なるほどね……」
 麗火は、どこか億劫にため息を吐いた。
 その場に、灰色の雲が立ち込めたかのような、そんな沈黙が降りている。

 *

 そして三人がこの場所を後にし、コレットとファレルと、リーシェだけになったその部屋で、リーシェはゆっくりと身体を起こした。
「……確か、ここはお前の住居だったな。色々世話になってしまってすまない」
「ううん。気にしないで。困った時はお互い様よ」
 コレットは、ふわりと笑みを浮かべた。ファレルは、表情を動かさないままだ。
「まだ傷が塞がってないんだから、安静にしてね」
 そこまで彼女が言った所で、部屋の向こう側からコレットを呼ぶ声がした。
「なんだろう。ちょっと言ってくるね」
「はい、コレットさん」
 僅かに笑みを浮かべたファレルに手を振って、コレットは廊下の向こうへと姿を消した。
 そして彼女の姿を見送りつつ、ファレルは小さくため息をついた。
「それにしても……。貴方のお兄さんとやらは、迷惑な人ですね」
「ほんとだな」
 そして二人は、静かに視線を交わした。しばらくの逡巡の後、再びファレルはため息を吐く。
「……どうせ止めても、貴方は行くのでしょう?」
「ああ。すまないな。本当に世話になった。――くれぐれも、コレットに、戴冠式には近付くなと言っておいてくれ」
 リーシェはそう言うと、静かにベッドから降りて、立てかけてあった剣を手に、窓からひらりと姿を消していった。
「……善処しますけどね。難しいと思いますよ」
 私ではストッパーにはならないでしょうからねえ、とファレルはひとり、呟いていた。

 *

 窓口が閉まるギリギリの時間に、香玖耶と麗火は対策課に滑り込んでいた。カウンターの向こう側で、二人に頼まれたものを植村が手に、近付いてくる。
「はい、これが『ラストニア王国記』です。それで、これが先程のフィルムです」
「どうも」
 香玖耶は二つとも植村から受け取り、そそくさと対策課を後にした。その後ろを、やや慌てたように、麗火がついてくる。
「おい、俺にもひとつ寄越せ」
 麗火の言葉に、香玖耶は眉を上げて後ろを振り返った。
「何言ってるのよ。どうせ同じ事件に足突っ込んでて同じもの観るのなら、一緒に観ればいいでしょ?」
「は? どうして俺が……」
 お前なんかと、という言葉を辛うじて麗火は言葉を飲み込んだ。先程の、植村ががくがくと襟を掴まれて揺さぶられる光景を思い出したからだ。
「良いじゃない、別に。三人寄れば、何とかの知恵、とか言うでしょ?」
「二人しかいないけど……」
「何か言った?」
「……いえ、何でも無い……」
 もはや反抗するのに疲れた麗火は、諦めることにした。黙って香玖耶の後を歩いていく。
「それにしても……驚いたわ」
「……何が?」
 麗火の切り返しに苦笑して、香玖耶は自分の髪の毛を摘んだ。
「私、あの二人と同じ髪の色と目の色で、親近感をちょっと覚えていたんだけど、まさか同じ目にあった事があったなんてね……」
「……」
 それきり、二人は黙り込んだまま、黙々と歩いていた。斜めに傾いた紅い陽射しが、二人の姿を朧に照らす。
「……ま、何はともあれ、面倒な兄弟だな。銀幕市が壊れる事態になるのは御免だぜ」
「確かに」
「マレナスって奴の思い通りになるのも腹立たしいしな」
 麗火の言葉に、そうねえ、と香玖耶も苦笑しながら頷いた。
 彼等の横をゆっくりと陽は沈んでいく――。


 * * *


 ――ざざ、と小さく雑音が響いていた。

「――だ、れ?」
 きょとん、とした、あどけない瞳を向けてくる銀髪の子供達の問いかけに、少しだけ年が離れた、金髪の少年は小さく笑った。
 銀髪の子供達の面倒を見ているらしい老婆が、にこにこと笑いながら話しかける。
「この方は、あなたたちのお兄上様ですよ。マレナス兄上様です」
「ま、れなす、あにうえ?」
 相変わらずきょとんとした表情を向けてくる子供の姿に、にっこりと少年――マレナスは笑いかけた。
「こんにちは、ホーディス、リーシェ」
 マレナスの挨拶に、二人は花のような笑みを浮かべる。
「こんにちはっ!」
 二人の笑みに、マレナスは一瞬驚いたような表情を浮かべ、そして――。
 心からの笑みを、その顔に浮かべた。


「あれをどうしたものか……」
 マレナスは父の元へと走りかけて、父の困惑したような声音に、こそ、壁際にその姿を隠した。
「確かにあの者はこの国の全ての精霊から祝福を受けるという、異例とも言える待遇を受けておりますが――。それでも王室に受け容れることは不可能でしょう」
「だが、――殺すのにはあまりにも忍びない……」
 その言葉に、マレナスの肩がびくり、と震えた。
「ですが、あの者達は異端者です。王室に入れては、いずれ害を成すやもしれません。処分されるにしろ、王族の位を返還されるにしろ、しばらくは隔離すべきです――」
「そうだな。今はそれしかないだろう――」
 マレナスの左手が、ぐ、と力を込めて握り締められた。


「それは本当ですかっ! そんな筈は……!」
 少年と青年の狭間の姿をしたホーディスが、ばたんと机を叩いて立ち上がる。
「いえ、これは確実な情報です。……相手国の中に、マレナス様がいらっしゃるという情報が入っております」
 どうなされますか、という言葉を噛み締めるように、ホーディスは机に座り込んだ。
「……これは私達だけの秘密にして下さい。リーシェにも伝えないように」
「ですが……!」
「もし、この情報が国中に伝わったら、この国はどうなりますか?」
「……それは」
「とにかく、この国を護ることが先決です。兄上を説得して戻っていただくのは、それからでも良い」
「何をおっしゃっているんですか! この国は、あなたを次の王として認めて、そして動き出しているのですよ! それを今更――」
「――口を慎みなさい。退出してよろしい」
「……は」

 僅かにホーディスの表情が歪んだのは、映像による乱れだろうか――。
 小さな雑音は、未だ纏わりついている。


 chapter.3


 戴冠式が行われる日、灰色の雲が垂れ込める曇天の空が広がっていた。
 その空にひっそりと溶け込むようにして建っている神殿。そこに、シャノンが入っていく。
「良くも悪くも、曇りの日、という事か……」
 ひっそりと呟きながら、空いている扉をくぐる。そこには、いつもと同じなのにどこか違う雰囲気のホールが広がっていた。
 この前はほとんど見かけることの無かった、この神殿に仕える者達が騒々しく走り回っている。その顔に、前に見かけた抜けるような明るさは無いようである。
「ようこそいらっしゃいました」
 シャノンがぐるりとホールを見回す間に、スッと彼にひとりの男性が近付いてきて、深々とお辞儀をした。
「このような招待状と、警備の依頼を貰った者だが」
 シャノンがそう言いながら招待状を手渡すと、その従者は丁寧に受け取り、再びお辞儀をする。
「シャノン様ですね。今日はお手数をお掛けいたしますが、どうぞよろしくお願い致します」
「……ああ」
 シャノンは、小さく、どこか嘲るような笑みを見せた。
「それでは、今日の警備を詳しく説明する者がこちらにおりますので、ご案内いたします」
 従者はそう言うと、先に立って歩き出した。シャノンもその後をついて歩いていく。
 普段と同じ装いをした玄関ホールを抜けて、細い廊下を歩いていくと、大広間程の広さがある、中庭へと辿り着いた。
 中庭の隅は、低めの緑の垣根が間隔を置いて並べられ、その下には色とりどりのパンジーの花がふわりと花びらを風に揺らしていた。
 そして、ぽつぽつと木が植えられ、そこからはハナミズキの花が少し付いている。
 ふわふわの芝生と、石畳で整えられた地面には、優雅な白いテーブルが置かれていた。清潔そうな白いテーブルクロスが掛けられ、その上には様々な食べ物が並べられている。
 角切りになった人参が入ったトマトのミネストローネ、薄く切った牛肉をデミグラスソースで味付けしたローストビーフ、白い湯気を上げる、ホワイトソースが掛けられたグラタン。トマトソースと季節の魚介類が、芳しい匂いを立てるパスタ。そして、丁寧に焼かれたアップルパイ、食べやすいように等分されているイチゴのミルフィーユ。
 どれも、時間を掛けられて作られたものばかりだ。
「今日は、外でのパーティなのか」
「はい。こちらからは、神殿の様子も伺うことが出来ますので。こちらでパーティを行い、余興に戴冠式というイベントを行わせて頂きます」
 ぐるりと見回したシャノンを連れて、従者はハナミズキの花が揺れる木の下へと、彼を案内した。
「こちらの方が本日の警備を仕切らせて頂いております、イアンです」
 従者の言葉に、その者の顔を見たシャノンは、僅かにその目を細めた。
 そこに立っていたのは、普段からマレナスについていた、あの男であったからだ。
「……なるほど、俺に警備を依頼してきたのは……」
「私だ。……なかなかあんたとは、この銀幕市で縁があるようだしな」
 あまり聞くことの無かったその青年の言葉に、シャノンは僅かに引っ掛かるものを覚えていた。
「縁? 今日の縁は貴様が作ったのだろう?」
「いや、それだけじゃないさ。……あんたには良く会うな、という事さ」
 とりあえず警備を担当してもらう所を案内する、とイアンは口にして、くるりとシャノンに背を向けた。シャノンも釈然としない思いを抱きつつも、隙を見せることの無いイアンの背を追った。
 イアンは神殿と中庭の境目の所へ来ると、そこで足を止める。
「ひとまず、神殿内は私が見ているから、あんたには、こっちの中庭の警備を担当してもらおうと思う」
「……なるほど。食えない奴だ」
 シャノンがそう言って小さく笑うと、イアンもふと笑みを見せた。
「お互い様だ」
 その言葉に目線で返して、シャノンは左右に視線を送る。彼の右側は丁度戴冠式が行われるであろう、神殿内だ。中庭では、従者達がばたばたとしているのに対して、そこは今日も不気味なほどの静けさを誇っていた。
 その奥に、小さく四色の焔が、ちろちろと光を見せているのが見える。
 高い窓から斜めに切り取られる光を見つつ、そこに立つイアンの姿を少しだけ眺めた。
 イアンは、前に喫茶店で見た時と同じように、抜かりのない立ち振る舞いを見せている。
「……そういえば、縁がある、と言っていたが。それはどういう事だ?」
 ふと、つい先程の会話を思い出したシャノンはぽつりと呟いた。その言葉に、ちろりとイアンが視線を寄越す。
「最初に会ったのは……あの時か。ホーディス様が誘拐された時だったかな。中々スリル溢れるひと時を過ごさせて頂いたよ」
 イアンの言葉に、シャノンは過去の記憶を掘り返していた。そして、視線をイアンの腰に提げられている剣へと向ける。
 あの時、これと良く似た装飾を持つ剣をした男が、彼に向かって剣を振り下ろしてきた記憶が唐突に甦った。
「……そうか。その時から、既に始まっていたのか……」
「まだあの時は、そこまで手出しはしていなかったがな」
 そして、イアンの声が、ふと過去を懐かしむかのような、そんな響きを帯びた。
「あの方の心は、すっかり砕けてしまわれたのだ……」

 *

 なるべく足音を消すように、そおっと神殿内に入って来た女性がいた。香玖耶だ。門を通り過ぎて、玄関ホールをそっと覗きこむ。
 せわしなく動く人々の中で、彼女に視線を向けている者がいない事を確かめると、香玖耶は玄関ホールへと足を一歩踏み出した。
 ――だが。
「ようこそいらっしゃいました」
「ヒイッ! あ、こ、こんにちは」
 香玖耶は唐突に彼女の横に現れた男性に叫び声を上げそうになりながらも、何とか挨拶を返す。
「本日は戴冠式のイベントへとお越し頂き、ありがとうございます」
「は、はあ……」
 どことなくぎこちない挨拶を返しながらも、香玖耶は忍び込むようにして入って来た目的を告げようと、唇を開いた。
「あ、あの……戴冠式の前に、少し書庫を見せて頂きたいんだけど……大丈夫かしら……」
「? ええ、書庫はいつでも開かれておりますので」
 男性は、どことなくぎこちない香玖耶の姿に、首を傾げるようにしながらも言葉を返した。拒否されなかった事にほっと安堵した香玖耶は、そそくさと書庫へと足を向ける。
「あ、ひとつご忠告が」
 書庫への扉を開こうとして、香玖耶は後ろから唐突に声を掛けられ、足を止めた。
「どうぞ、書庫の本をご覧になる際は、周りに十分お気を付け下さいますようにお願いいたします」
「はあ……」
 そろそろと振り返った香玖耶に、従者は声を潜めてそれだけ告げると、では、と一礼をしてその場を去っていった。
「……とにかく、気をつけろってことよね……」
 小さく呟いた香玖耶は、うん、と頷くと、書庫への扉を手で押し開けた。
 普段は開かれているその扉は、幾分錆付いた音を立てて、開かれる。
 書庫へ入る前に、首だけ突っ込んでキョロキョロと左右の確認をするが、そこには誰もいる様子がない。
 書庫も、この前来た時と、変わった様子は見られなかった。
 よし、大丈夫。心の中でひとつ頷くと、こっそりと足を忍ばせながら、書庫へと足を踏み入れる。この前、大量の本が置かれていた受付のカウンターには、誰かが綺麗に本をしまい込んだらしく、何も置かれていなかった。
 高窓から差し込む光を頼りに、本棚のひとつへと近寄る。
 香玖耶がここへ来た目的は、今は石化しているという精霊の特徴を調べる為だった。もしリーシェが語っていた精霊たちが開放されるとしたら、それに対抗するのに最も有効な手段が何か残されてはいないか、と調査をする為に訪れたのだ。
 日本語で「精霊・妖精」と書かれた札が貼ってある本棚を見つけ、そこまで歩く。
 鼻に、古い本の独特の匂いが漂うのが分かった。
 香玖耶と同じ位の年代を経て来たであろう、幾つもの本達を見上げながら、背表紙を見ていく。そして、その中で「ラストニアの精霊」というタイトルの本を見つけ、本棚から引き抜いた。
「うーん……大雑把な情報、だけか……」
 香玖耶は目次をざっと見てひとり呟きながらも、その精霊の特徴を調べる為にページを捲っていく。
 そこには、簡単な精霊の特徴などが書かれている。
 それによると、神殿にいる精霊は、主に大規模な魔法を使役するものが多いとの事だ。四体それぞれ、別々の属性を持ち、それぞれの相反する属性の精霊達が二人組で攻撃を行うと書かれていた。
 つまり、相手の属性を見極めて攻撃をしなければならない、という事なのだろうか。そんな事を考えながら、斜めに文章を拾っていく。
 また、精霊は神官と契約し、その神官は精霊の祝福を受けてより多くの魔法を使うことが出来る。神官の言霊によって石化した体を動かすことが可能になる、と書かれている。
 だが、石像に戻す術や、その石化を解く魔法については詳しく書かれていなかった。文章からは著者自身も知らないように見受けられる。
 つまり、神官しか知らない事なのだろう。
「うーん……開放された書庫じゃあ、大したことは書かれて無いわね……」
 香玖耶はひとつため息をつくと、本を棚へと戻した。他には、神官が王の命令を拒否できる可能性や方法について何か書かれたものは無いものかと考えたが、リーシェの話を反芻して、足を止めた。
「……拒否するも何も、操られている術か何かをなんとかしないと、その可能性も難しくなるのね……」
 やはり、戴冠式そのものを止めることは難しいのだろうか、と考えていた彼女の耳に、書庫の奥から微かに響いてくる足音が届いた。その音は、次第に大きくなってくる。香玖耶の元へと、近付いているのだ。
 香玖耶は踵を返し、本棚のひとつに身を潜めた。そこは陽が差し込まない暗い一角となっている。
 やがて、足音が近付いてくると同時に、話し声も響いてきた。
「怪我のある人はいるかい?」
「いいえ。大丈夫です」
「そうか。じゃあ、気をつけて持っていってくれ」
「はい」
 数人の足音が香玖耶の横を通り過ぎていった。彼女の視線の先に、数人の従者が、箱のようなものを手にして歩いていくのが僅かに見える。
 そして、足音がひとつ、遅れてやってきた。それは香玖耶が身を隠している本棚の横を通り過ぎようとして、ぴたりと止まる。
「――君は、裏切らないよね?」
 その足音の主はそれだけ言葉を残すと、再び歩き出す。
 本棚の後ろから見える後ろ姿は、マレナスのものだった――。

 *

 戴冠式の見学に訪れて、中庭へと案内されたコレットは、きょろきょろと周りを見回していた。
「……いない」
 礼拝堂のような作りの、祭壇がある場所にも、探している人物の姿は無い。ここにはいないのだろうか、と思い、忙しく準備をしている従者達の動向を探りつつ、コレットはこそりと、住居部分と思しき廊下へ足を踏み出した。
 たまたま出払っているようで人気の無い廊下をこそこそと進んでいく。すると、一つ目の廊下の曲がり角で、コレットの腕を掴む者がいた。
「きゃっ!」
 そのまま腕を引っ張られて引きずり込まれて、コレットは小さな悲鳴を上げる。思わず転びかけた所を細い腕にがっしりと支えられた。
 コレットは腕を引っ張り上げた人物へと顔を向けて、驚きの表情を浮かべた。
「リーシェさん……! どうしてここに!」
「……一応ここは、私の家なのだが……。その言葉をそっくりそのままお返ししよう。ここは住居棟だ。どうしてここにいる?」
 昨日、リーシェが横になっている部屋に戻った時には、既に彼女は消えてしまっていたので、どうして安静にしていないのか、という意味を込めて言ったつもりだった。だが、逆にリーシェに問い返されて、コレットはそのまま黙り込んでしまう。
「……あなたの双子のお兄さんの、ホーディスさんに会えないかと思って来たの……」
「ホーディスに?」
 リーシェは、意外そうな表情を見せた。それから、口の端を下げて危ないぞ、と忠告する。
「今、ホーディスがどんな状態になっているかは私にも分からない。兄に操られているかもしれない」
「でも……もし、可能性があるのなら、ホーディスさんに会いたいの。会って、伝えたいことがあるの……!」
 忠告してきたリーシェに、コレットは必死に食い下がった。
 確かに危ない橋を渡っているのは分かっている。
 それでも、自分に出来ることをしたいのだ――。
「……分かった。だが私も一緒に行く。何かあったら危ないからな」
「本当ですよ」
 リーシェが渋々了解の言葉を出した時、唐突に何も無い空間から声が響いた。
「……?」
「え……?」
 突然聞こえた声に、コレットはきょろきょろと辺りを見回すのだが、そこにはリーシェと彼女以外、誰もいない廊下だけだった。
「ここですよ」
 コレットの行動を見透かしてか、再び彼女の近くで声がした。そして、空気がゆらりと動いた気がする。
 そう思った次の瞬間、ぐにゃり、と彼女が向けていた空間が歪んで、良く見る人物が現れていた。急に現れた人物に、コレットは驚きの声を上げる。
「ファレルさん……!」
 声を掛けられたファレルは、ここに来てからヒヤヒヤさせられます、と小さくため息を吐いた。
「たまたまリーシェさんがいて下さったから良かったものの……。部屋に入って、急に襲われたらどうするつもりなんです?」
「ご、ごめんなさいっ」
 コレットはファレルのもっともな言葉に、小さくなってしまった。それを見て、まあいいです、とファレルは言う。
「私もついていきます。ホーディスさんの部屋はどこなんですか?」
「こっちだ」
 そうして、リーシェは二人を廊下の奥へと案内した。細長い廊下を歩いていく。左右を等間隔で部屋の扉が流れていくのを視線に入れながら歩いていくと、ひとつの扉の前で止まった。
 その扉は、今まで見てきた扉とは少しだけ違うものだった。分厚い木肌に、不思議な模様が刻まれている。
「ここがそうだ。少し中の様子を見てくるから、二人はここにいてくれ」
 リーシェはそれだけ告げると、ぎし、と扉を開いて中へと消えていった。しばらくの後、扉を大きく開いて二人を招く。
 コレットは恐る恐る、部屋へと入っていた。王子だから豪華な部屋なのか、と漠然と考えていたコレットの考えに反して、そこは驚く程質素な部屋だった。
 本棚と机がひとつ、そしてベッドがひとつ。
 そして、部屋の主のホーディスは机の前に座って、身体をこちらに向けていた。
「……こんにちは。今日はどうやらご迷惑をお掛けしてしまうみたいで、すみません」
 ホーディスは穏やかな表情でコレットを見つめていた。
「い、いえ……」
 あまりにも穏やかな表情に、コレットは少しどぎまぎした気持ちを抱えながら、リーシェが持ってきた椅子に腰掛ける。
 コレットの隣に腰掛けたファレルが、ホーディスに問いかけてきた。
「今は大丈夫なのですか? その、貴方の兄に操られている、という事は?」
「大丈夫です。……おそらく、王冠などの道具は地下書庫にあるので、それを取るために私まで手が回らない状態のようですよ」
 地下書庫は罠が沢山ありますから、とホーディスは微笑んだ。なるほど、とファレルは納得したように頷く。
「……それで、話したいことがあるのだろう?」
「あ……」
 リーシェに促されたコレットはひとつ頷いて、小さく深呼吸をする。
「あの、今日は、ホーディスさんに聞きたいことがあって……。昨日、倒れていたリーシェさんから、色々とこの戴冠式についての事情を聞いたの」
「そう……だったんですか」
 コレットの言葉に、ホーディスはリーシェをちらりと見て、苦笑を見せる。
「それで、あなたは本当に、神官役をやるのか聞きたくて……」
「……そうですね。色々と考えてはいるのですが、それは避けては通れないようですね。あまりやりたくは無いのですが……」
 ホーディスはそう言って、穏やかな表情を再び浮かべた。その表情に、コレットは次いでの言葉に迷い、口ごもってしまった。
 本当は、リーシェの事で色々と騙して、ここからホーディスを遠ざけようかと思っていた。そうすれば、少しは戴冠式が出来なくなるのでは無いかと思っていた。
 だが、今リーシェはここにいる。そして、何よりも彼の表情を見て、そのような小手細工は効かないのだという事が分かってしまった。
 彼は、何かを覚悟しているのだ。決して揺らぐ事の無い、何かを。
「私は、マレナス王子とやらがそれを望んでいるのであれば、やれば良いと思いますよ」
 口ごもっている間に、隣のファレルはそう口にした。そして、僅かに口の端を上げる。
「――ただ、その精霊とやらは完膚無きまでに叩きのめさせて頂きますがね」
 ファレルの言葉に、ホーディスは僅かに頷く。
「今、私も幾つか方法を考えているのですが、どの方法も、精霊が復活してしまうのです。どちらかと言えば、戴冠式を通さずにする方法の方が、精霊の攻撃の規模を小さく出来ると思うのですが。――どちらにせよ、お手を貸して頂けると幸いです」
「勿論、そのつもりですよ。被害を大きくする訳にはいきませんからね」
 仕方ないです、と言うファレルに、ホーディスは困ったように笑った。
 コレットは、その会話を聞いて、顔を上げる。
「――もうひとつの方法?」
「ええ」
 ホーディスは小さく頷いて、自分の額と、鎖骨を指差した。
「私は精霊との契約を交わすことで、精霊を自在に操れるようになります。その契約を解消すれば、戴冠式によって王となった兄が精霊を私を介して操ることは出来なくなります。……その代わり、私の魔力によって捕われていた精霊が開放される事になるのです」
「……なるほど、それでどちらの場合も、という事ですか」
 ファレルが納得したように頷いた。その言葉を聴いて、コレットはしばし考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「……私は、皆を助けることが出来るのも、マレナス王子を助けるのも、ホーディスさんの力が必要だと思ったの。だから……」
 そうして、声に揺ぎ無い覚悟を込める。真っ直ぐにホーディスの瞳を見据えた。
「……私が、代わりに神官役をやるわ」

 *

 どうやら準備が整ったらしく、どこからか緩やかな音楽が流れてくる中庭。相変わらず空は曇りだったが、それでも庭にある木は鮮やかな色を見せている。
 どうやら、このイベントには少ないながらもそれなりの人が集っているようだった。純粋に興味を持った者や、魔法に関する事を追求する者がそれぞれに固まって、情報交換に興じている。
 その会場の片隅で、マイクは細長いグラスを揺らしながら佇んでいた。ふと横を見ると、手に白い皿を持ったまま、何もせずに考え込んでいるらしい麗火が立っている。
「……何かお考え事ですか?」
「……ああ、まあな」
 そっと傍に近付いたマイクに、麗火はゆっくりと首を動かしてこちらを見た。
「いや……、あのマレナスが一体どんな目的でこんな事をしたのかが気になっててな……」
「そうですね……今、ここにはいないようですしね……」
 マイクは首を動かした。ゆるゆると会場にいる人々の中に、今、主催であるマレナスの姿は無い。
 麗火の頭の中には、昨日観た映画のシーンが頭に残っていた。
 物語の中で、ホーディスが臣下などから異端という目を向けられる時に、幾つかの回想シーンが流れていた。
 その中でも、幾つか気になったのは、小さい頃のマレナスが出ているシーンだ。
 初めてあの双子と会った時のシーン、そして、マレナスが父達の会話を盗み聞きするシーン。リーシェが言っていた通りに、その時の彼の表情は、慈愛に満ちていた。
 彼は直接そのマレナスを見ていなかったから分からないが、本当に彼はあの双子を憎んでいるのだろうか。映画でマレナスが関わるシーンは、ホーディスが臣下と、敵国にマレナスがいるという情報を話し合うだけに留まっている。
 ちらりとそれらしき人物が一瞬出てきたシーンもあったが、フードを被っていたし、はっきりと彼とは断定されていない。
 一体、彼は捨て身で何をしたいのだろうか。
「……彼等の映画の設定では、マレナスはホーディスの回想シーンと、後は冒頭にちらっと酒場か何かを訪れるシーンしか描かれていない。……回想シーンはリーシェの言う通り、かなり仲良くやっていた。だが、終わりの方には、敵国にいるという話が流れてきて、ホーディスがそれを国に流すことを止めるシーンで終わるんだが……」
「……なるほど。マレナスは鍵となる人物でありながら、本編では隠れた存在で終わってしまっている訳ですね」
「そうだな。ここを破壊する、という事は相当ここに思い入れがあるのか、それともここが憎いのか……」
 麗火はぼそぼそと言いながら、周りに目を向けた。そしてとある一角に視線を向けた時、そのまま視線が止まる。
 礼拝堂と中庭の境目で、金髪の青年が腕を組んで、佇んでいるのを見つけた。彼の目と、麗火の記憶にある瞳が重なる。
 麗火はその気になる記憶を確かめに、彼の下へと足を運んだ。足音に気がついた青年が、顔を上げる。
「……何か?」
「……なあ、どっかで会ったこと、あるよな」
 近付いて彼の表情を見れば見るほど、言葉の確信が持ててきた。そもそも、麗火には「忘れる」という概念が無いのだ。
 青年の方は、麗火の表情をしばし読み取っているようだったが、やがて思い出したようで、ひとつ頷いた。
「そういえば、そうだな。……あの不思議な空間で、会ったな」
「あの空間で、一体何をしていたんだ?」
「あの方の命令に従ったまでだ。ホーディス様を監視せよとの。少し面白い場面に遭遇したから、少しばかり手を出したら返り討ちにあったな」
 その青年は、少しだけ懐かしむような表情を見せて苦笑した。
「あの方って、マレナスの事だろ。お前は一体……」
「一言で言えばリーシェの同僚。マレナスでの一番近くにいる護衛役だ。今となっては、ただひとりの、な」
 青年の言葉に、映画の冒頭、マレナスらしき人物と一緒に出てきたフードの人物を思い出した。そういえば、あのフードは、あの時も被っていた事を思い出す。
「……幾つか聞いても良いか?」
「答えられる事ならば」
「昨日、どうやらここの従者らしき人が殺されたんだが、その時、最期に二人に自由をって言ってフィルムになったらしい。もしあの人が本当にここの従者なら、あの二人って一体誰なんだ?」
 麗火は、お前なら分かるだろ、と確信めいた眼差しを見せた。その眼差しを受けて、青年は静かに息を吐く。
「……おそらく、マレナス様とホーディス様では無いだろうか」
「その自由、とは一体どういう意味だ? お前らの映画を観て思ったが、マレナスとホーディスは本来は仲が良かったんだろ? それを――」
 麗火はそこまで言って言葉を呑みこんだ。この青年は今はあくまでもマレナス側の人間なのだ。あまり言い過ぎると、マレナスの思い通りになるのだけは腹立たしいから避けたい、という麗火の思惑が伝わってしまうかもしれない。
 そろりと青年を見上げるが、彼はどこか遠い眼差しを見せていた。過去の記憶でも呼び起こしているのだろうか。
「どこから負の螺旋は起こっていたのか……あの二人が、あの二人として生まれてしまったからかもしれないな。もし、マレナス様にもっと魔力があれば、あまりにも王妃に似過ぎた顔立ちをしていなければ、……ホーディス様が銀髪でなければ、父王にあまりにも似過ぎた顔立ちをしていなければ……、この螺旋は始まらなかったのかもしれないな」
「……?」
 麗火は初めは青年の言葉に首を傾げたが、その言葉に、記憶にしまっていた彼等の映画のワンシーンを呼び起こさせた。
 それは映画の回想シーンの部分で、かなり大きくなったホーディスが、マレナスからの手紙を読むシーンだった。
 ――その手紙には、父は自分に関心が無いと書かれていなかったか。
 魔術に興味が無く、そして何よりも顔立ちがあまりにも母に似ているからだろうと。
「あの方は、いつも、いつもひとりだったのだ。……けれどもあの方は、ある時に守りたいものを見つけた」
 その言葉に、麗火はハッとして、顔を上げた。
「それは……もしかして、ホーディス達の事なのか……?」
 小さい頃に、初めて自分へと浮かべた笑顔。そして、影で聞いた父の会話に、自由が無い事を知って、拳を握る姿。麗火の脳裏に、ひとつのシーンが浮かぶ。
「けれども、あの方は成長していくにつれて、自分に出来ることは皆無だと知った。例え父が死んだとしても、あの国では戦争の武器となる神官に据える事を拒否することは難しいことを知った。――だから、国を変えようと、あの方は全てを捨てることを選ばれた」
(――だが、神官長となる事をホーディスが了承して、正式に模様も刻む儀式も済んでいよいよ王族の位を返還することになった時、唐突に兄上は王城から消えてしまった)
 昨日のリーシェの言葉が浮かぶ中、青年は麗火を見つめて、静かにこう問う。
「もし、たったひとりだった人が守りたいものを見つけて、その為に全てを捨てたのに、ある日自分を裏切っている事を知らされたら……。弱い人間の心は、どうなってしまうと思う?」
「イアン」
「はい」
 青年――イアンの隣に、小さな足音を立てて、もうひとりの金髪の青年――おそらくマレナスだろう、がやってきた。ゆったりとした儀式用であるらしい衣服を着て、イアンを見上げる。
「そろそろ始めようか。ホーディスを呼びに行く」
「……は」
 マレナスは、イアンを連れて中庭の中を横切っていった。麗火はその二人の後姿を静かに眺める。
(何をおっしゃっているんですか! この国は、あなたを次の王として認めて、そして動き出しているのですよ! それを今更――)
 不意に、映画の言葉が浮かんで、麗火は小さく、ああ、と呟いた。彼の隣に、いつの間にやってきたのか、マイクが静かに佇んでいる。
「きっと、従者達が捻じ曲げた事実を伝えたのだろうな――」
 小さくなっていくマレナスの背中から、声無き悲鳴が聞こえてくるように感じるのは気のせいなのだろうか――。
「雨が降りそうですね」
 マイクが、ただ、小さく呟いた。

 *

 遠くから近付いてくる足音に、コレットは小さく息を呑んだ。どうしても震えてしまう右手をぎゅっと押さえる。そして、何度も心の中で復唱している言葉をもう一度、復唱した。
 大丈夫。私は今、神官役。
 ホーディスの佇まいを何度も頭の中に思い浮かべ、小さく深呼吸する。
「大丈夫ですよ」
 その時、彼女の耳に、小さいが確実な声が響いてきた。
「私は、ここにいますから」
「……うん」
 顔を隠す薄布の向こうには、ただガランとした部屋があるだけで何もいない。だが、カチコチに緊張していた心が僅かに和らぐのが分かった。
 そして、扉がゆっくりときしみながら開かれていく――。

 *

 ふい、と小さく大気を揺らして、鼠のような身体に天使のような羽をくっつけた精霊が香玖耶のそばへとやってきた。その精霊がもぞもぞと喋る言葉を聞いて、精霊に小さくお礼を告げる。
「……厄介な場所にあるなぁ……」
 小さくため息を吐く。香玖耶は、先程の書庫で見た、何かを運んでいるものの場所を突き止めていたのだった。
 おそらく、予想が正しければあれは戴冠式で使われる王冠などの道具だろう。そう思って精霊に、その後を追わせていたのだが、その予想は当たりだったようだ。
 彼女の精霊は、その在り処を、神殿の片隅だと言っていた。あの祭壇がある所の丁度裏の部分になるらしい。
「隠してみれば時間稼ぎとかにならないかしら……」
 小さく呟きながら、礼拝堂へと足を踏み入れた。ざわざわと会話がその大気を満たす中で、視線を彷徨わせる。
 祭壇のある場所は、彼女が立っている場所の丁度眼前にあった。問題は、どうやってその場所へと辿り着くか、だ。
「む、むずかしいわ……」
 そして、ふと横を見た時、忙しそうに動く従者の姿が目に入った。
 
 *

「……これは、一雨来そうな雰囲気だな……。雨の匂いがする」
 シャノンは、ふと空を見上げてぽつりと呟いた。この中庭の雰囲気とそぐわない空模様。
 灰色の雲は、更に黒さを増していた。
「ここは、雨が降っても大丈夫なのでしょうか」
 す、と、空を見上げていたシャノンの近くに柘榴が訪れた。シャノンは視線を戻して、どうだろうな、と返す。
「ここは魔法だらけだからな。この目には見えないだけで、実は透明な膜が掛かっているのかもしれん」
「ふふ。そうかもしれませんね」
 柘榴は特別何かを食べる、という訳でも無く、訪れた時に渡されたであろう、既に空になったグラスを手持ち無沙汰に持っているようだった。
「そういえば、あの時、この茶番を壊すのは面白そうだって言ってたな。それは一体、どんな方法を取るつもりなんだ?」
「……それは一体、どんな魂胆を持ってのお言葉なのでしょうか」
 警備もしているんでしょう、と言外に意味を匂わせて柘榴は言った。その言葉に、シャノンは小さく肩を竦める。
「まあ、ここをぶち壊した挙句、クライアントが死んだ、では俺の沽券に関わるからな。一応聞いておこうかと」
「それもそうですね」
 シャノンの言葉に、柘榴は小さく頷く。左右に視線を送って、会話を盗み聞きされていないか見ているシャノンの表情を見やって、彼女は口を開いた。
「ご安心くださいな。あの方に手を出すつもりは無いですし、その価値も無いと思っていますから。――私は真意を確かめようと思っています」
「真意?」
「ええ。本当の気持ちを」
 柘榴はそう答えて、中庭から見える、神殿の一角を振り仰いだ。

 *

 いつもの服の上から、大分ダボダボの従者の服を纏った香玖耶は、祭壇近くに陣取って機会を伺っていた。
 この服をお借りする事になった従者には悪いが、正義の為と思って頂こう。柱に縛り付けてきてしまった従者を思い出した香玖耶はちょっぴり沸き起こる罪悪感をむりやり正当化して、祭壇の隣にある扉を見据える。
 もう一度、周りをきょろきょろと見回して誰も自分に興味を示していないことが分かると、彼女は思い切って扉の向こうへと飛び込んだ。
 扉を閉めてひとつ息を吐く。
 香玖耶が飛び込んだ空間は、六角形の形をしているような空間だった。
 天井は、先程の場所と同じくらい高くて、飛び込んできた扉以外の五面全てに、高窓が付けられていて、ステンドグラスから僅かな光が舞い込んでいる。
「わー……」
 そして、その部屋の中央には、大事そうに置かれた道具達があった。
 ごてごてと、様々な石を付けられ、そして金属の部分には、魔法を発動する引き金となる、紋様が刻まれたものたち。
 宝剣、王笏、王杖、指輪や手袋、そして、中央に大事に鎮座された王冠。
「これは……全部は隠せないわね……」
 それを移動させようとして手を触れた時、エルーカとしての能力からか、香玖耶の脳裏に様々な光景が広がっていた。
 ――それは、王が泣きながら神官へと命令を下す光景であったり。
 ――あるいは、胸を張る王に、神官が暗い表情で王冠を被せる光景であったり。
 ――あるいは、神官と王共に、周りに集う人々を嘲笑う笑みを見せながら戴冠する場面であったり。
 そこに広がった光景は、どれもが負へと繋がるものばかりだった。
 精霊によって縛り縛られ、王と神官同士が腹の探りあいをし、そして戦争になる度に兵器として駆り出される神官。
 それは積もり積もって螺旋となり、この二人へと繋がっているのだろうか。
 精霊を用いて人を傷つけようとし、さらに唯一の兄弟である筈のホーディスをも堂々と貶めようとしている、マレナスへと。
 だとしたら。
 それはとても悲しい事だと、香玖耶は感じた。
 そして脳内に流れる光景が収まった時、ぎい、と鈍い音がして、香玖耶が入って来た扉が開かれていった。
「!」
 しまった、と感じた時には既に遅かった。振り返った先には、イアンと初めとする従者を幾人か引き連れたマレナスが立っている。
 彼は、香玖耶を見て、目を細めた。
「……君は……ここの者じゃないね。前にも会ったことがあったしね」
 もし香玖耶が、マレナスと初対面であれば、もしかすれば従者としてこの場を切り開く事が出来たかもしれない。
 だが、彼女は不幸にも、マレナスと面識があった。
 よって、その方法も不可能だ。
「ここで何をしようとしたのかな? まあ、道具は無事みたいだけど……」
 マレナスは彼女の後ろにある道具へと視線を向け、にこりと微笑んだ。
「ちょっと……興味があったから……」
 苦し紛れに香玖耶もつられて笑う。
 不意にマレナスの笑みが止まった、と思った次の瞬間。
 脳内への衝撃と同時に、香玖耶の視界は急激に狭まっていき――そして、暗転した。
 そして、意識が暗転する前に、彼女の耳にどこからか、遠い声が聞こえてきた。

 コウナッテシマウコトハワカッテイタ、ノニ、ドウシテモナガレヲカエルコトハデキナクテ。

 それは幻聴なのか。それとも精霊の嘆きなのか。
 それとも――。


 chapter.4


 中庭に緩やかに流れていた音楽が静かに止んでいった。祭壇の方に人がぞろぞろと集まっていく。
 それを見て、柘榴が静かに笑みを見せた。
「いよいよですね……。楽しい時がやってきます」
「まあ、楽しいかどうかは分からんが……。さて、どうなるか……」
 シャノンは銃の位置を再確認する。柘榴は静かに歩き始めた。
「行くのか?」
「ええ」
 そう言った彼女は小さく口の端を上げていた。祭壇のある部屋へと入り、静かに事の成り行きを見守る。
 丁度、その空間では祭壇に幾つもの道具が運ばれてくる所だった。
 マレナスがこちらに背を向けて祭壇に立ち、顔を隠した神官が、祭壇の向こう側に立っている。
 そうして、幾つもの道具が運び終わると、さざめいていた話し声が消え、その場に静寂が満ちた。いよいよ戴冠式が始まるのだろう。
 そうしてマレナスがそっと手を伸ばして。

 ――神官の顔を覆っていた布を剥がしていた。

 そこに現れた神官の顔に、静寂で満たされていたその場に、一気に雑音が入る。そこに現れたのは、ホーディスではなく、可憐な女性――コレットの顔。
 周りの従者がざわめき立ち、そして神官の隣に不意にファレルが現れ、マレナスの手から庇おうとする光景が起きても、それを柘榴は冷静に眺めていた。
「今でしょうか。……珊底羅」
 そして、彼女が小さく呟くと、柘榴の背後に、ぬ、と大きな影が現れていた。それは紺色の姿を見せ、身長より大きな蛇の形を取る。
 そして、それは大きく吼え声を上げた。吼え声と同時に、耳をつんざくような音が響き渡る。
 そして、眩しいばかりの光が、祭壇すぐ近くを襲った。一部の石の屋根が壊れ、土煙があがる。
「な、何が起きている?」
 周りが突然の事態に、完なるにパニック状態へと陥っていく。
 それを眺めつつ、柘榴は再び影に棲む使鬼に命じた。
「真達羅」
 ふわ、と風が空間内を揺らした。
 そしてその風と共に現れた、平たい、三つの尾を持つ不思議な生き物が二人の元へと飛んでいく。そうして二人を攫って真達羅は柘榴の元へと帰ってきたが、周りから響く叫び声に、柘榴は僅かに眉をひそめた。
「面倒ですね……。波夷羅」
 柘榴がそう言うと、彼女の影からゆっくりと、立派な角を持つ黒い羊が姿を現した。
 その羊の赤い眼が周りをゆっくりと見回すと、彼女達に向けられていた視線が不安そうに彷徨うのが分かる。
「……これは……一体……?」
 突然の出来事に、未だに把握し切れていないらしいコレットがそう呟く。
「ひとまず、この茶番を壊す同志のようでしたので助けてみました。今、幻覚によって、私達の姿は見えなくなっています」
「――ありがとうございます」
 ファレルは冷静なまま、柘榴に感謝を述べると、真達羅の背からゆっくりと降りた。
「私は戴冠直前に、本物をこうして攫って、本当にどうしたいのか聞いて身の振り方を考えようかと思ったのですが……。本物はどこに行きました?」
 そう言いながら中庭を振り返ると、そこに走り込んでくるホーディスとリーシェの姿があった。その二人に、麗火とマイク、シャノンが近付いている。
 祭壇の周りに集う人々が、中庭の面々にも気が付き始めたようなので、柘榴は素早く幻覚の効果を広げるように告げる。
 そして、ホーディスに近付いていった。
 近付いてきた柘榴を見たホーディスは、静かに苦笑していた。
「やはり、完璧にはいきませんでしたね。――でも、ここからです」
「私は、ホーディスさんが本当にどうしたいのか聞こうと思っていたのですが……これが、あなたの答えなのですね」
 柘榴の言葉に、ホーディスは頷いた。
「兄と私の間には大きなねじれが生じてしまいました。この状況を解決する為に、初めは、私がただ、全ての責を追って死ねば良いとも考えていました。――確かにそれは、ある意味でとても美しい生き方だと」
 けれども。
「醜くても、泥の上を這いずる生き方でも良い……。例えどんなに重いものを背負う事になろうとも、どんなにみっともなくあがいても生きていく事こそが、本当に生きる事だと思ったのです」
 そうして、ホーディスは静かに頭を下げた。
「――こんな私ですが、どうか、力を貸してください。出来るだけ、私も早く終わるように、力を尽くします」
 その言葉にやれやれ、とため息を吐きながら伸びをしたのは、麗火だった。
「周りに迷惑掛けずにやって頂きたいもんだが、ここまで巻き込まれた以上、最後まで付き合うしかないか」
 マイクは、閃光弾が入った銃を手に、静かに口を開いた。
「勿論手伝いますよ。マレナスさんに聞きたいことがありますし。私は、出来れば、彼の心を救いたいのです」
 シャノンは、小さく肩を竦めた。
「まあ、上手く収まれば良いのだがな……」
 柘榴は、小さく笑う。
「負の気も得ることが出来そうですね。一石二鳥です」
 ファレルとコレットは、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
 そう呟いたホーディスは、頭を上げ、静かに右手を額にあてがった。その手には、小さなナイフが握られている。

 ――ずしゅり、という鈍い音と共に、彼の額にある紋様が切り裂かれていた。

 *

 どおおん。どおん。
 何か、大きな音が響いている。その地響きを受けて、香玖耶は目を静かに開いた。
「……ん……」
 どうやら、石の床に倒れこんでいたらしく、右の頬が冷たい。その冷たさを受けて段々と頭が覚醒してくる頃、再び、石の床から地響きが聞こえてきた。
 慌てて身体を起こす。どうやら、直接的な攻撃を受けた訳では無いらしく、身体に異変は見られない。
 部屋には誰もいなかったが、入ってくる時は静かだった扉の向こう側が、今はひっきりなしに轟音が響き、誰かが騒ぐ声が聞こえていた。
「な、何が起きたの……?」
 もしや戴冠式が行われ、既に精霊が動いてしまっているのだろうか。その考えが頭に浮かび、香玖耶はがばりとその身を起こした。
 だぶだぶになっている従者の服を頭から脱ぎ捨てると、扉を勢い良く開く。
「な……」
 扉の向こうに広がっていたのは、どこか異様な光景だった。その光景に、香玖耶は絶句する。
 高い天井の近くには、二体の石像と同じ形をしたものが漂っている。おそらく精霊だろう。
 その精霊の姿に、初めは精霊が動いてしまったのか、と思ったのだが、祭壇の周りの光景にちょっとした異変を感じた。
 悲鳴を上げて逃げ惑う人に、従者と一緒に神官の服を着た女性――あれはコレットだ、が必死に避難する場所を叫んでいた。
 その近くでは、リーシェがイアンと激しい斬りあいを繰り広げていて、その近くでは、マレナスとマイクが対峙しているようだった。
 そして、二体の精霊に、シャノンとホーディスが向かい合っている。こうして見る限り、ホーディスの瞳は、虚ろなものでは無くて、きちんと光が宿っているようだった。
 そして、その額にはナイフで切り裂いたような傷が広がり、そこから血がひっきりなしに零れている。
 どうして精霊に命令を下せる筈のホーディスが、精霊に攻撃をしているのだろう。そこに最大の異変を感じながら、香玖耶は二人の下へ駆け寄った。

 *

 中庭では二体の精霊と、じりじりと三人は対峙していた。
 逃げ惑う人の中、異様な外見を持つ精霊達は、立ち向かう三人を攻撃の対象と見なしたらしい。
 す、と一体の精霊の周りに大気が揺らいで、次にその精霊から、長大な風の鞭が繰り出された。ひゅん、と鋭い音が大気中に響き渡る。
「風ねえ……。相手が悪かったな」
 そう言って口の端を不敵に吊り上げた麗火の回りに、音も無く風の渦が巻き起こった。
 それはたちまち巨大化し、外へと広がるようにして、風の鞭を弾き飛ばす。
 風の鞭が飛ばされたのを見てか、隣に漂う精霊の身体からは、水の珠が幾つも現れ始めた。それを見たファレルは、す、と右手を前に出す。
 すると、その精霊の身体の周りの大気が一瞬、蜃気楼が起きたかのようにぐらりと揺らいだ。
 そして、水の珠から、細い水の筋が繰り出される。
 だが、再び大気がぐらりと揺らぎ、水の筋はその大気に阻まれて、逆方向へと折れ曲がった。
「うお、なんだありゃ?」
「空気を使って、壁を作り出したんです」
 驚いた表情を浮かべる麗火に、ファレルは事も無げに答える。そして再び右手を出すと、精霊の後ろにある石の壁が、ぐにゃりと奇妙な形に歪んだ。そして、その歪みから、細い縄のようなものが生まれていき、精霊の身体をぐるぐると巻きつけようと動く。
 水の精霊はそれに反抗してか、凍った水の珠を幾つも出現させてきた。幾つかの珠をまとめて大きなものにし、石の縄へとぶつけていく。
 石と氷が砕け散る轟音が響いて、鋭い破片が彼等の下へ飛んできた。ファレルの足下にもそれは飛んできて、咄嗟に後方へと跳び退る。
「よ、っと」
 麗火の身体にもそれは襲い掛かってきて、彼がそれを避けるために動くと、その場に大きな焔が出現して、氷を瞬時に水へと変えていった。
「あらあら」
 柘榴のもとにもその石の欠片が飛んでくる。彼女が足を動かすと、その影から瞬時に、すらっとした身体を持つ兎が現れていた。その兎は鋭い耳を滑らかに動かして、石の欠片を弾き飛ばしていく。
「うーん……難しいですね。上手くいくと思った……」
 少しだけ声音に悔しさを滲ませたファレルの言葉が、不意に途切れた。同時に腹部に灼熱を感じて、よろめいた。
 耳に風を切るような鋭い音を感じ、よろめきながらも右へと避ける。
 その横を鎌のような、風の刃が通り過ぎていき、地面を抉るのを見ながら、ファレルは腹部にそっと手を当てていた。
 じくじくと、熱いような痛いような感覚に、僅かに苦笑する。
 彼の頬に、ぽつり、と雨の雫が当たっていった。

 *

 シャノンの足下に、びしり、と石を砕くような音と共に、岩に赤い炎で包んだものが飛んできた。軽く右足を後ろに流して、それを避ける。さらに、彼に飛び交ってくる、岩の礫に、銃を持った両腕を素早く向けた。
 まず初めに軽い音が天井を反響して、そのすぐ後に、岩が砕け散る音が響く。降ってくる岩の破片をさらに避けるように、彼は後ろへ後退する。
 そこへ、どこから現れたのか、香玖耶が走り込んできた。その顔中に、困惑と驚きを貼り付けている所から、彼女が何を考えているのかを一瞬で把握したシャノンは、そちらへ顔を向けた。
「詳しい事は後で説明するから、ひとまずこれを何とかするぞ!」
「……分かったわ」
 シャノンの言葉に、顔中に張り付いている困惑と驚きをひとまず呑み込んで、頷く香玖耶。そうして、す、と二体の精霊を振り返った。
 精霊はゆらり、と揺らいで、人間と似て非なる異様な身体に、幾つもの赤い炎を浮かべた。と思った次の瞬間には、その炎が勢いを増して、螺旋を描きながら襲い掛かってくる。
 隣で手をかざしたホーディスによって、幾つかの炎は消されたが、それでも消しきることが出来なかった炎が、石の床へと降り注いでいった。
 シャノンにも降り注ぐそれを右へ、左へ器用に身体を捻りながら避けていく。
 だが、雨のように降り注ぐそれは、庇いきれなかった右膝にかすり、衣服に穴を開けていった。じゅ、と肌が焼ける感覚に、僅かに表情を歪める。
 精霊からの攻撃が無くなった一瞬の隙をついて、香玖耶は高らかに叫んだ。
「いらっしゃい、青の鳥」
 その言葉と同時に、アーチ型の入り口からふい、と小さな羽音と共に、大きな鳥が現れた。鳳凰にも似たその鳥は、尾羽が長く、そして身体が何よりも美しい瑠璃色をしているのが特徴だ。
 その鳥はこの空間をふわりと飛ぶと、綺麗に宙返りをして香玖耶の元へとやってくる。
「手伝ってね」
 香玖耶の言葉に、その精霊は、優美な嘴を開くと、甲高く鳴いた。
 びりびりとその鳴き声が天井へと反響し、全てのものの動きがひと時、止まる。
 シャノンはその隙をついて、精霊へと照準を定めた。時をおかず、その銃から銃弾が飛び出、そして硝煙が上がる。
 まだ残響が残るその空間に、火の精霊の声と思しきものが聞こえてきた。
 シャノンの銃弾が命中した精霊は叫び声を上げ、ふわふわと飛んでいるその身体は地へと堕ちて行く。
 だが、流石はホーディス達の国を支えていた精霊だけあって、地にその身体をぶつける前に持ち直し、再びふわりと浮かび上がった。
 そして、隣の精霊の身体が、茶を帯びて輝いていく。そう思った時には、灰色の床から不吉な轟音が響き出す。
 全身が、危険という感覚を覚えて咄嗟に横に跳び退る。その瞬間に、地面が割れる鈍く、大きな音が神殿内に反響した。
 ――そして。
 石の床に亀裂がびっしりと入り、その瞬間には地面が大きく割れていた。
「うわっ……!」
 香玖耶は思わず叫び声を上げた。彼女の視線の先には、割れた地面に吸い込まれていく祭壇が見えていたのだ。
 祭壇はかなり深い亀裂が起きた底に落ち、あっという間に彼女の視線から消えてしまっていた――。

 *

 マイクは、ひらりと宙を飛んで、軽い音を立てて石の床に着地した。そうして、ゆっくりと顔を上げる。
 彼の前には、どこか虚ろな、それでも憎悪の視線を向けてくる、マレナスの姿があった。彼は短いナイフを手に、静かにマイクへと視線を向ける。マイクはその視線を受けながら、静かに口を開いた。
「貴方に聞きたいことがあったのです」
「……なんだい?」
 憎悪の視線を込めながら、どこか口調は飄々としていた。
「あなたは、戴冠式で王となり、精霊を今のように甦らせて……何をするつもりだったんですか?」
「……無だよ。この神殿と、ここに関わる者達を全て破壊して、無に帰そうと思ったんだ」
 やっぱり、僕には出来なかったけれどね、と言葉を続けながら、マレナスは滑らかに動いていた。素早く右手を繰り出してくるのをマイクは、頭を下げて避ける。そのまま、左足を前へと繰り出した。
 が、と鈍い音が響いて、左足は、左腕に受け止められる。マレナスは左腕を大きく払い飛ばし、そのまま右膝を前へと繰り出した。
 マイクは、それを後ろへ少し飛んで避ける。
 再び距離を開いた二人の視線が、静かに切り結ばれていく。
「……貴方はもし、思い通りに全てが滅んで、ここが無となったのなら何を作り出そうと思っていたのですか……?」
 マイクの言葉に、ぴくりとマレナスは反応していた。構えていた右腕が、だらりと下がる。
 彼は映画の中では、国を変えようと思って全てを捨てた。
「何を、ねえ……。何も、かな?」
 そんな事、考えてもみなかった、と初めて彼は笑みを見せる。それは自嘲の笑みだった。
 その自嘲の笑みは少しずつ大きくなり、そして不意にそれは途切れた。
「僕にはさ、眩しいんだよ」
「……え?」
 唐突なマレナスの言葉に、意表をつかれたマイク。
「眩しすぎるのさ。……弟は」
 マレナスはそう言うと、ぎゅっと右手を構え、飛び掛かってくる。マイクもそれに対抗しようと、軽い音を立てて地を蹴った。

 *

 ぽつぽつと、少しずつ、その雨は強さを増してくる。
「雨……」
 誰かがその言葉を発した。ざ、と暖かい大気に、冷たい風が混ざり込んでくる。
 ファレルは腹部から手を放して体制を立て直すと、ゆらりと雨粒の中揺らめく精霊を見据えた。僅かだった小休止は終了したようで、再び精霊の周りに、風が巻き起こる。その風は、小さな竜巻へと変化していく。
 その竜巻は、精霊の体中を覆っていたかと思うと、その次には彼等の下へと降ってきていた。
「だから、風で攻撃してお無駄だと思うんだがねえ……」
 呆れたように呟く麗火の前方に、再び風の渦が巻き起こる。
 そこに風の声を聞くことは出来ないが、その風の動きは、何だか楽しそうに見えた。
 精霊から放たれた竜巻は、中庭に咲く花々を毟り取り、石の柱を崩しながら進んできた。そこに、麗火の身を守っている風の竜巻がぶつかっていく。
 その風はお互いに威力を相殺して、まるで特急列車が通り過ぎた後のような暴風を残して、消えていった。
 風に、ざあ、と色とりどりの花びらが舞い、雨に濡れて地面へと落ちていく。
「水には雷撃が効くのでしょうか?」
 柘榴はぽつりと呟いて、水の精霊を指差した。すると、視界が一瞬白んで、辺りが真っ白になる。
 次いで響く轟音。
 ばりばり、と木が裂けるような音が響いて、そして地を揺るがす低音が響き渡る。
 白んできた視界が回復する時、ゆら、と地へと失速した精霊を見計らって、ファレルは再び右手を突き出した。
 脳内で幾つかの化学式が構築されて、ぐにゃり、と地面が揺れていく。そうして次の瞬間には、その地面から、再び太い縄が作り出されていった。
 その縄はまるで生き物のようにひゅるひゅると動いて、精霊の身体を捉える。
 今の雷撃を確実に喰らったらしい水の精霊は、その縄から逃れることが叶わずに、拒否の叫び声を上げながら縄に捉えられていった。
 それを見た風の精霊が、鋭い大振りの、風で出来た鎌を幾つも出してきて、自らにも迫っている縄を切り飛ばしていく為に動く。幾つかの刃は縄を切断するだけでなく、その場すり抜けて、こちらへと飛んでくる。
 水の精霊へと動こうとしていたファレルは、自分の前に飛んできたその鎌に、す、と右手を宛がった。
 ゆらり、と大気が歪んで、半透明の、細長い刃が彼の右手に現れる。
 ざ、んっ――。
 切れ長の音を残して、風の鎌は半分に切断されていった。
 身動きの取れない、水の精霊へとファレルはそのままの勢いで駆け寄る。その精霊を助けようとしてか、大きな身体をぐん、と動かして、風の精霊がこちらへと向かってきていた。
 それでも退く訳にはいかない。そう思ってじ、と風の精霊を睨みつける。緑の双眸が、ゆらりとファレルを見つめてきた。
 その瞬間、再び視界が白く覆われた。
 ――ドオオォゥン……。
 そして響く轟音。
「さあ――」
 轟音の中に、僅かに笑みが含まれた声がファレルの耳に届く。ファレルは真っ白の視界のまま、自分の感覚を頼りに地をしっかりと踏みしめる。
 そして、白んだ視界に、色が戻ってくる。目の前には、縄で覆われた水の精霊。
 ファレルは躊躇う事無く、その右腕を前へと突き出した。
 優雅に、半透明の刃が空中を奔る――。
 
 完全に色が戻った時、ファレルが手にした刃は、水の精霊の胸の辺りを刺し貫いていた。
 ――ぐ、と刃が鈍く進み、時が止まったかのような光景が広がる。

 麗火はその光景を目しつつ、ゆっくりと地へ失墜していく精霊へと目を向けていた。
「さて。こっちもだな」
 麗火がそう叫ぶと、ぐるぐると目の前で風が踊った。それは麗火の周りを取り囲んでいたかと思うと、彼の長い槍へとその姿を変化させていく。
 そして、地へ失墜していく精霊へとそれは勢いを付けて飛んでいった。そして、一本に収縮されていたその槍は精霊の目前で、荒ぶる風へと勢いを付けて広がっていく。
 それは精霊を巻き上げ、地に落ちかけていた精霊を空へと再び巻き上げた。
 そして。
 中央に浮かぶ風達が、精霊の身体を刺し貫く――。

 *

 そして地面が割れてすぐ、再び不穏な気配が上空で感じられた。顔を上に向けたシャノンは、そこにあった光景に、僅かに焦りの色を浮かべる。
「な……」
 そこには、地の精霊が大きな岩を浮かべている光景が広がっていた。どこからそんなものを持ってきたのか、と下に視線を送ると、丁度そこだけぽっかりと穴がある。
 そうして、ふわり、と燐光が浮かんだかと思ったら、その岩が勢いをつけて降ってきた。
「!」
 ここは大きく跳躍して避けるしかない、と足に力を込めた時、シャノンの前に香玖耶の精霊がふ、と割り込んできた。
 そしてその翼をばさりと振るう。
 その翼の一振りで、刃状となった水が、一斉に岩へと襲い掛かっていく。水の勢いは凄まじく、がが、と鈍い音を立てながら岩を粉砕していった。
 そして、大きな岩の欠片が、水の勢いに押されて逆方向へと飛び、高い天井に大きな穴を開けていく。
 辺りは一斉に土埃に包まれた。
 眉をしかめるシャノンの頬に、水の雫がひとつ、落ちる。
「何だかうるさい音がするかと思ったら、雨が降っていたのか……」
 シャノンは天井を見上げて、ぽつりと呟いた。
 天井からは、土埃を抑えるように、雨が幾つも落ちてきていた。
 そして、攻撃が緩んだ隙に、片方の銃に、水撃弾を詰める。
 ゆら、と二体の精霊が大きく動いた。その身体が、赤に大きく揺らいだかと思うと、波状となった炎が円形に広がり、こちらへと襲い掛かってくる。
 角度のついたそれをしゃがんでやり過そうとしたが、俄かにその時、地から大きな轟音が鳴り響いたかと思うと、シャノンの足下が大きく盛り上がった。
「くっ……!」
 盛り上がった地面によって、炎が彼の顔の部分へと襲い掛かってくる。シャノンはそれを避けるため、足に力を込めて跳躍した。彼の体は身長の高さに似合わず軽々と跳びあがり、折れかかかった柱へとその身体を着地させる。
 その隣で、香玖耶も何とか炎を避けていた。盛り上がった地面に、転げ落ちそうになりながらも、地に伏せて炎をやり過す。
「おねがいっ!」
 そしてそのまま精霊へと叫んだ。香玖耶の精霊は再び翼を振り上げると、その翼から鋭い水流を発射する。
 それは二体の精霊へと射程に入り、向かっていった。精霊はそれを避けようと、さらに床の大地を動かそうとする。
 大きな地響きが起きて、彼等の前に巨大な土の壁が立ち上がった。そしてそこに鋭い水流がぶつかって――。
 その土の壁に大穴を開けていく。土の壁は決定的な攻撃を受けてぼろぼろと崩れ落ちていった。さらにその水流は衰える事無く、土の精霊へと飛んでいく。
 再び神殿内に、精霊の叫び声が響き渡った。
 ほろほろと崩れていく土の壁と一緒に、一体の精霊が地へと堕ちて行く。
 シャノンはそれを横に、銃を滑らかな動きで構えた。静かに一度、瞳を閉じると、再び開いて引き金を引く。
 たん、という軽い音がひとつ。そこから飛び出た銃弾は、まだゆらりと浮かんでいるもう一体の精霊の胸の部分へと命中した。
 そして、残響が大きく残る中、もう一体の精霊の断末魔の叫び声が上がって。
 シャノンの目の前で、仕込んでおいた特殊な銃弾は、瞬間的に精霊の身体を凍らせていた。
「……」
 彼はもう片方の銃を構える。
 ――そして、引き金を引いた。

 *

 僅かな空中で、マイクとマレナスの身体は交差しあった。そうして、マイクの振り上げた右足がマレナスの左肩にぶつかる。
「……!」
 それと同時に、彼の右肩に、鋭い、布を裂く音と同時に、ぶしゅりとナイフが差し込まれていた。お互いにそれを受けた二人は、その場に崩れ落ちる。
 しばし、その場には息を整えるための、激しい呼吸音が響いていた。お互い、鋭く相手を見詰め合っている。
「……はあ、はあ……」
 二人は、そのままゆっくりと立ち上がった。余談を許さない空気が流れる中、何とか息が整ってきたマイクが、静かに口を開いた。
「……それが、あなたの本心なのですね……?」
 その言葉に、マレナスの顔がはっきりと歪む。血に濡れたナイフを見つめて、はは、と小さく笑った。
「そうさ。そうだよ。あいつはすごいんだ。どんなに憎まれても、決して自分を見失うことをしないんだ。現に今だって、僕が操っていたのに、その隙をかいていとも簡単に、僕の目論見を崩してくれる。周りの視線にのっとって、どんなに憎んでみようとしたって、どうしても眩しく見えるんだよッ!」
 そうして、ぐん、と右足で地を蹴った。振り上げられるナイフをマイクの手が、がしりと掴む。
「……つ」
 ナイフによって傷つけられていく掌。ぽたぽたと、そこから地が溢れ出しているのを見て、マレナスの表情が僅かに歪んだ。
「……この、放せよっ……!」
 マレナスが俄かに慌ててそれを動かそうとするが、さらに抉られていくそれに、その行動さえも出来なくなり、動揺をその顔に浮かべた。
 それを見て、マイクは静かに微笑む。
「貴方は……優しすぎるのですね……。だから、多くの人から忌み嫌われているホーディスさん達を守ろうとして、裏切られていると思った時も憎みきれず……」
「違うっ! 違う違う違うっ……!」
 マイクの言葉を遮って、マレナスは首を横に振った。勢いあまって、マレナスの手からナイフが抜け落ちる。
 そこに、落ち着いた声が響く。
「違わないでしょう。だからこそ、ほら、今だって心を鬼にしようとしても憎みきれていない」
 その救いの声音は、断定の声音だった。
 カラン、と乾いた音を立ててナイフが床へと落ちていく。それと同時に、マレナスの身体もがくりと力を失って床へと崩れ落ちた。
「は、はは……。そうさ。裏切られたと知った時、僕の思いはひとりよがりなものだったと悟った。だから、どうせ憎まれるのなら……」
 自分から、全てを壊してしまえば良い。
 そうすれば――。
「僕は、結局は中途半端な人間なのさ……。国で一番の権力を持ってさえ、本当に救いたい人を救うことは出来ないんだ」
 そう言ってぎりりと石の床に爪を立てるマレナスに、マイクはそっと歩み寄った。
「それは、違いますよ」
「……どこが違うのさ」
「少なくとも、ホーディスさんは貴方に救われていたのだと思います……」
「え……?」
 マレナスは、静かに顔を上げた。ぽかんとした表情を見せるマレナスに、マイクは静かに微笑んだ。
 慈愛の笑みで。

 *

「大丈夫かな……」
 避難の手伝いを無事に済ませたコレットは、従者が制止するのも聞かずに、中庭へと繋がる廊下を小走りに進んでいた。
 皆が、頑丈に作られている書庫に避難した時、中庭の方面からはひっきりなしに轟音が響き渡っていた。
 皆が強いとは言え、心臓に良いものでは無い。心配するなと言われる方が難しい。
「……!」
 そうして、中庭へと足を踏み入れた時、彼女は確かにそれを見た。
 止め処なく降り注ぐ雨の中、緑と青の燐光が幾重にも折り重なって、木が枝を伸ばすように、その中庭に広がっていくのを。
 薄暗い中、それはとても神秘的に見える光景で――。

 *

「なるほど。そういう事だったのね」
 香玖耶は、天井に広がる、赤と茶色の二重奏を眺めながら、ため息をひとつ吐いた。二つの光は静かに絡まって、そして解けていくと思うと、唐突にフィルムへとその姿を変化させて消えていった。
 カラン、と乾いた音が幾つかの残響を持って響く。
「やれやれ。ひとまず一番の問題は片付いたが――」
 シャノンはすっかり濡れそぼった前髪を鬱陶しげにかき上げて、言葉をそこで切った。
 天井から、ぱらぱらと石が幾つか降ってきたのだ。
「――ひとまず、ここを出るわよっ!」
 その場にいた者達は、その石が降ってくる不吉な予感に、慌てて中庭へと飛び出した。
 その次の瞬間――精霊が納められ、戴冠式を行う筈だったその空間の天井は、支えを失って一気に地へと落ちていった。
 どおん、という轟音が響き渡り、中庭の地面がその音を浴びて揺れる。雨のお陰で、土埃は僅かに上がっただけだった。
「おー、危機一髪」
「そうですねぇ」
 中庭でその光景を眺めていた面々が、のんびりと話している。
 神殿から飛び出してきていた香玖耶は、大きく息をして乱れた息を整えると、後ろを振り返る。
 そこには、はは、と苦笑を漏らすホーディスと、彼の後ろにはマレナスがマイクに半ば抱えられるようにして立っていた。
「ねえ。ちょっと思ったんだけど、あなた達って喧嘩した事とか、無いの?」
「喧嘩、ですか?」
 香玖耶に問われたホーディスは、首を傾げた。
「そう。その二人。三人でも良いけど」
 香玖耶はそう言って、ちょいちょいと指を差す。マレナスは香玖耶に指を指されて、びくりと身体を強張らせた。
「あんまりしませんねぇ。なんせ、育ってきた場所も違えば、互いの立場も違いますから」
「だったら。それこそ、取っ組み合いでも喧嘩でも良いから、きちんと向かい合って話をした方が良いと思うわ」
 今回の発端はそもそもそれが原因だったのよ、と香玖耶はひとり頷きながら話す。
 異なった世界に実体化した今だからこそ、互いに背負っているものを下ろして話すことが出来るのではないか、と彼女は考えていた。
 ――それが、銀幕市では許されることなのだから。

 そして、彼等は見ていた。
「そうですねぇ……。……どうします、兄上?」
 ホーディスが、くるりとマレナスを振り返り、そして穏やかな笑みを浮かべたのを。
「………………――」
 ぎゅっと表情を歪めたマレナスが、何とか言葉を紡ごうと口を開くのだが、その口からどうしても言葉が出てこない様子を。
 どうしても、どうしても言葉が出てこないマレナスを――。

 そして、そんなマレナスに、ホーディスは笑ってこう言うのを。
「――お待ちしておりましたよ、あなたと共に空を見る事が出来る事を。……ずっと」

 雨はさらに強さを増して、中庭に立つ彼らの体に降りかかっていった。
 それはまるで、全てを洗い流すかのように。
 それでも彼等は言うのだ。
 ――雨も、悪いものじゃないな、と。

(終)

クリエイターコメント 大変遅くなってしまい、申し訳ありませんでした……! ノベルをお届けさせて頂きます……!
 今回、皆様に見せ場を、と考えた結果、史上最長のノベルをお届けする事になりました(注:志芽比)探索に始まり、推理、思索、そして画策、戦闘と、様々な要素を詰め込んでおります。
 そして何よりも、皆様の温かいプレイングによりまして、このようなラストを迎えることが出来ました。このノベルには、皆様の思いや活躍と共に、私の今考える「生きること」についての思いを込めて描かせて頂きました。

 それでは、ご参加頂き、ありがとうございました(礼)
 このノベルが、皆様の心に何かをお届けできることを願って。
公開日時2009-04-27(月) 09:00
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