★ 夏の陽射しのほとりで ★
クリエイター志芽 凛(wzab7994)
管理番号136-3974 オファー日2008-07-21(月) 16:49
オファーPC 簪(cwsd9810) ムービースター 男 28歳 簪売り&情報屋
<ノベル>

  

 ミン、ミンと蝉がけたたましく鳴く中をひとりの着物を纏った男がゆるりと歩いていた。彼が行く黒に近い灰色のアスファルトの地面からは、もうもうと熱気が立ち上っている。
 その男は、足を止め、そして空を見上げた。
 そこにあるのは、暴君のごとくに光を浴びせる太陽がひとつ。自然と目を細めてしまう強さの光だ。
「……あっついですねー……」
 彼は背中に背負っていた笈をよっこらせと独り言を呟きながら背負い直すと、前髪を軽くはらった。そして再び歩き出す。
 彼にとって、歩く事は趣味であり、好きなことではあったけれども、こう暑いとさすがに外を歩くことに疲れてしまう。
 ――自分がかつていた世界は、こんなに暑かったか。
 そう想いを馳せて、そして薄く苦く笑った。
「たまには、涼しい場所へ行ってみましょうか」
 彼はぽつりと呟くと、再び歩みを進めた。
 この銀幕市に実体化してからは、彼がもといた世界では見たことが無い、突飛な機械があちこちに設置されていたが、彼はあまりその機械がある場所へは足を運ぶことは無かったのだ。
 だが、たまには、そんな場所へ行ってみても良いだろう。
 そう思ったのは、暑いから、だけだったのだろうか。
 それは今の彼にはそこまで深く考え込む由があるはずもなかった。
 ゆっくりと歩く隣で、灰色の息を吐いて車が通り過ぎる。その車体に暴力的な陽射しが反射してぎらり、と車体が輝いている。
 彼の横を買い物袋を提げた主婦達が通り過ぎる。
 それは、今の彼を取り巻いている光景。

 やがて彼の目の前に、涼しげな音が聞こえ、そして細かい水しぶきを立てながら滑り落ちている噴水が見えてきた。
 ざばざば、という音を耳にしながら、ふと思い出すのはかつての世界の水琴窟の音。あの、柄杓から零れ落ちた水が立てる、可憐な、高い音。
 
 ――きん、きんきん、きん。

 脳裏にその音を思い浮かべた時、彼の視線はひとりの男性へと移って、そしてそこではた止まった。
 まさか。脳裏に浮かんできた考えを一瞬だけ打ち消す。だが、見れば見るほど、それはかつての世界で会った事のある男性にそっくりだった。いや、同じだった。身に纏っている服を変えれば、きっと気付かないだろう。
 ぼんやりとそこまで考えていた時、その男性の目が、彼の方を向いた。視線が結ばれ、その男性は些か訝しげな視線を彼に向ける。そしてしばしの後、男性は目を丸く見開いて、彼のところへと歩み寄ってきた。
「――なあ、唐突な質問で悪いんだが、あんた、ムービースターってやつか?」
「……ええ、そうですよ」
 彼の返答を聞き、男性はしばし考え込んでいるような仕草を見せた。
「――……俺が昔出させてもらった映画に、何だかあんたみたいな奴を見た事があるんだよな。――名前は?」
「あちきですか? 簪と申します」
 笈を背負った彼――簪は、そう言って僅かに微笑んだ。

 そう言えば、あんたみたいなのもいたかもな。簪と出会った男性は、そう言って笑った。
「まさか、本当に出会えるとは思っていなかった。俺は、『偽形』の二作目の主人公を演じさせてもらった、橘です」
「はあ。これはこれは。奇遇ですね」
 簪は、表面上は先程と同じようににこやかに笑みを浮かべていた。心の中に、僅かに波がざわりと立つのを感じながら。
「なあ、折角こうして会った縁なんだ、どこかでお茶でもしないか」
 だから簪は、彼がそう提案した時、ほんの僅かに眉をひそめてしまった。それは、この俳優に対する不信感だから、だろうか。それとも不快感、だからだろうか。
 簪が沈黙を続けているのを躊躇していると受け取ったらしい橘は、手を軽く振って、にこやかに笑みを浮かべた。
「折角だから銀幕市の生活の事とかを聞かせて欲しかったんだけど……どうだい?」
「……そうですね。折角の縁ですし、しばらくの間、ご一緒させて頂きます」
 簪は何でも無かったかのような笑みを浮かべると、俳優と共に歩き出した。
 ふたりが歩く度に、簪の足下からカラン、コロンと軽やかな音が響いていく。


 * * *


 俳優は簪に気を使ったのかどうかは定かではないが、ここにしよう、と選んだ場所はひっそりと銀幕市に溶け込んでいるお茶屋だった。
 店内に足を踏み入れると、たちまち冷たい風が彼等の身体を取り巻いて、冷やしていく。その急速な温度の変化に、一瞬だけくらり、と視界が歪んだ気がした。
「こちらへどうぞ」
 軽やかな声と共に、店内の一角へと二人は案内される。その店内には、磨かれた木の壁に、さまざまな絵などがぺたぺたと貼られていた。
 かつての簪がいた世界に少しにた雰囲気に、自然と簪の肩に入っていた気が抜けていくのを感じる。
 橘も同じ事を思っていたのだろうか、ああ、と呟いていた。
「確か、こんな雰囲気の中にあんたはいたんだな」
「ええ、まあ」
 曖昧に語尾を濁し、簪はお品書き、と書かれた表を眺めていた。橘はそれ以上その話を続けることはせず、肩を竦めながらお品書きを覗き込む。
 そこには、あんみつや抹茶など、おそらく和風を売りにしているお店なら、どこにでもあるだろうごくありふれたものの名前が並んでいた。
 二人はそれを眺め、簪は抹茶とあんみつの組み合わせ、彼は宇治金時と書かれたかき氷を選んだ。注文を受けた店員が、少々お待ち下さい、と言い残して去っていく。
 二人はその店員の背中をしばらく目で追って、そしてどちらともなく話し出した。
「……そういや、ここに突然実体化してきたんだろ? ここでの生活は大丈夫なのか?」
「そうですねえ……初めこそは流石に驚きましたが、結局あまり変わった生活は送っていませんねえ」
 彼の言葉に、簪はしばし目を泳がせて、実体化してからのことを考えているようであった。
 確かに初めは、唐突に見たこともない景色の中に放り込まれた心持で、幾分戸惑っていたような記憶もあったものだが。結局は放浪したり、突然消失したりと、ふらついているところはあまり変化していないような気もする。
「それは何よりだが……いつも何してるんだ? 仕事とかは?」
「いつもですか? とくに変わったことはしていませんねえ。ふらふらしているぐらい、でしょうか」
 のほほんと彼の質問に答えた簪に、橘は呆気にとられたような、そんな表情を簪に見せた。
「……よく生きていけるな、それで……」
「ふふ。何とかなるものですよ?」
「……そんなものなのか……」
 そんな二人の目の前に、つかつかと、小さな足音が届く。
「お待たせ致しました」
 彼等の前に、先程注文していた抹茶とあんみつ、そしてかき氷が置かれた。簪の前には落ち着いた灰色の器に、薄い緑色の泡が広がっているお茶と、彼の前には、涼しげな半透明の器にふわりと氷が盛られ、抹茶のたれとあんこが載せられている。どちらも涼しげだ。
「美味しそうですね」
 ふふ、と笑んで簪は抹茶の入った器を手に取った。口に含むと、たちまち濃い苦さのある味が口の中に広がる。
「……ところで」
 簪は器を一旦置き、首を傾げた。
「橘さんの住んでらっしゃるところは、どんな感じなのですか?」
「……そうだなあ……」
 橘は氷を口に運んでいた手を止め、スプーンを宙にぷらぷらとさせながら腕組みをした。どう説明すれば良いのか考えているのだろう。
「ここも、大分賑やかな所だけど、もっと賑やかな所だな」
「……賑やかなんですか」
「そう。ただ、銀幕市みたいに、おかしな事件がおきているとか、人が賑やかさを発しているんじゃない。周りの広告の音とか、そんなものが賑やかなんだ」
 簪は、広告というものを頭の中に浮かべてみた。簪が、かつての世界にいた頃の広告は、今この銀幕市にいる自分から考えてみると、一種の芸術品だった、というような気がしてくる。
 版画で一枚一枚刷られた絵。控えめながらもその美しさが艶やかに表現された絵は、今考えてみても、確かにその場で魅入ってしまうものもあったかもしれない。
 壁にぺたりと貼られた、一枚の美人画。足を止めてよくよく見てみれば、絵の端に商品名がさらりと記されていて、広告となっている。
 しばらくの間、それを静かに見つめる簪。周りでは、バタバタと行き交う人々の姿。煤けた色の家屋の中には、裸足で歩き回る女性の姿がある。
「……広告、ですか……」
「まあ、そうだな。特にすごい所は、建物の壁全体がスクリーンになっていて、それでそこに映像が映し出されるものもあるし、あとは――そうだな、トラックみたいな大きな車が広告を背負って運転してるのもある」
「……それはすごいですね」
 簪はそう呟いて、再び抹茶を口に含んだ。賑やかな広告と聞かれても、あまりそういった所には近付かない簪にとっては、いまいちピンと来ない。
 灰色のビルの壁に貼られた巨大な広告。見た目には美しく仕上がってはいるものの、思わず立ち止まって見入るほどのものとは、どうしても見えない。
 そして排気ガスを上げて走る車の通りを行く、巨大なトラック。やはりそこには、鮮やかな広告が貼られているが、美しい、とはまた別のもののような気がする。
 彼は、沈黙しながらあんみつを口に運んでいる簪の隣の席に置かれた笈に目を止めていた。正確には、簪の隣の席に置かれた笈からはみ出て見えている、簪などの装飾品だ。
「……そういえば、今はお祭りのシーズンだな……」
 装飾品を見てその事を思い出したらしい橘は、ぽつりと呟いた。
「お祭り……ですか。橘さんが住んでいらっしゃるところでは、どういった感じなのでしょう?」
「……そうだなあ……」
 橘はスプーンを口に咥えたまま、どう説明しようか考えているようである。しばらくの後、ぽつりぽつりと説明を始めた。
 彼が説明してくれる、「お祭り」は、簪にとっては、どこか懐かしさを覚えるような感覚だった。
 普段は穏やかに、静けさを保ったままの、神社の境内一杯に立ち並ぶ夜店。
 ふわりと漂う、甘い匂い。
 賑やかな笑い声。
 境内を行き交うのは、紺や、青、白などの浴衣を着た人々。浴衣に描かれた様々な花模様が、華麗さを醸し出している。
 そして、闇空に打ち上がる、様々な色合いの花火。大輪の花が、一瞬の美しさを演出して、そして消えていく。
 その闇空に浮かび上がる、様々な人々の面。
「……へえ、何だか素敵そうですねえ」
 簪はそう言って、静かに微笑んだ。橘も、ふと笑む。
「そうだなあ。何かこう、年に一回の、伝統行事っていう気がするからな。普段は着ることの無い浴衣を着て、普通に通り過ぎるような所をワクワクしながら歩く。うん、そうだな」
 彼はそう言いながら、うんうん、と頷いていた。
「その時には、女性は沢山の簪などで着飾っているのでしょうね。今は一体どんなものがあるのでしょうか、少し気になりますね」
「……色々だなあ。昔から変わらないつくりのものもあるし、そうだな、変わったものでは、着物の綺麗な柄をアクリルに閉じ込めて作られたものもあるな」
 簪はふむ、と聞いていたが、耳慣れない単語を聞き、首を傾げていた。
「あくりる? ……あくりる、とは一体なんでしょう?」
「あー……そうだな」
 橘は簪の言葉を受けて、店内をきょろきょろと見回す。しばしの後、店内の一角に置かれた兎の小物を指差した。その小さな兎の小物は、透明で、どこまでも涼やかに出来ている。
「多分、あれとかアクリルで出来ているんじゃないかな。ああいうガラスに似せて透明なプラスチックみたいなので出来ているのを言うんだ」
「へえ……」
 簪はその兎の小物をじっと見つめていた。どこまでも透明な、澄んだ色の置物。その中に閉じ込められた、着物の切れ端は、どんな色を見せてくれるのだろうか。
 涼やかな水の中を泳ぐ、金魚の姿がふと簪の脳裏に浮かんだ。
 それは軽やかに、そして鮮やかに進む。


 * * *


 どこかでちりん、ちりんと風鈴の音が聞こえたと思ったら、このお店の入り口に提げられているのだった。
 いつの間にか、二人の前に置かれた器の中身は、初めの時よりも半分以上減っていた。それと比例するように、二人の会話の間に、少しずつ笑顔が増えていった。
「最近は簪といっても、花を象った飾りを付けている人が多いかもしれないなあ」
「そうなんですか……。何ででしょうねえ?」
「そりゃ、最近の女の子は派手なのを好む子が増えたからなあ。花ってひとつつければ華やかだろ? だからそう見えるんじゃないのか?」
「そうですね……。銀幕市を歩く女性を見ても、確かに華やかな飾りをつけた方は多いですね」
 二人は祭りの話から、簪が興味をそそられている、装飾品の話へと移っていた。簪が日頃から銀幕市を歩いていて気になっていたことなどを尋ねると、橘からの目線の話を聞くことが出来て興味深い、そう思っていた。
 そんな時、そういえば、と橘がカキ氷の残りをかき混ぜながら呟いた。
「俺が出た、『偽形』の二作目の途中でもあんたは花を象った簪を手にしてたよな。今思い出したけど、あれはすげえ細かく出来てたんだよなー……」
「……――え?」
 唐突に、簪の記憶に無い、彼の姿が話の中に出てきて、簪は戸惑いの表情を隠せずに、ぽつりと聞き返した。彼の表情の変化で、簪がそれを知らないことを悟った橘は、困ったかのように頭をぽりぽりとかく。
「……知らないのか?」
「ええ」
「そうか。うーん、二作目の半分を過ぎたあたりだったんだけどなあ……どんなものだったか、話そうか?」
 戸惑いの表情を浮かべた簪の心情を気遣ってか、橘はそっと尋ねた。簪はきっぱりと首を横に振る。
「いいえ。折角ですけど、遠慮しておきますね」
「……そうだよな。そういう事は、気が向いたら知ればいいさ」
 軽くその場を取り繕って、肩を竦める橘。その場はそれで、何事も無かったかのように過ぎていった。

 簪は、手にしていた器の中にあった抹茶を飲み終えると、そうだった、と呟いて席を立った。横に置いてある笈をよっこらせ、と言いながら背負う。
「――そういえば、この後用事があるんでした。すっかり忘れてました」
 すみませんね。と言って伝票を覗き込もうとした簪に、橘はいいよいいよ、と声を掛けた。
「俺がおごるから、気にすんな」
「……でも……」
 少し躊躇う素振りを見せた簪に、橘はにっと笑う。
「――これも何かの縁だしな。それにここに誘ったのは俺だから、さ」
 彼の言葉に、簪はしばらく考えた後、では、と軽く頭を下げた。
「ご馳走になります。……それでは、失礼します、――またいつか会えるといいですね」
 そう言って微笑した簪に、橘もふと口の端を緩めた。
「――そうだな。またいつか、縁があったら」
 その言葉を聞いて、簪はゆっくりとその店の扉を開いた。ちりん、ちりんという風鈴の響きが境界線のように、じめりとした暑さが簪の身体を覆う。
「随分……冷えてしまいましたね」
 ぽつりと呟いて、風鈴を振り返った。
 そこには、透明なガラスの球体に、二対の赤い金魚が描かれている。
 ふわり、と風が吹いて、風鈴を揺らした。

 ――ちりん、ちりんちりん。


 * * *


 簪はその店を後にして、しばらく通りを歩いていた。じわり、じわりと彼の身体に暑さが纏われていくのを感じる。
 彼は小さな小道に入り、またしばし歩くと、人気の無い、空き地の前に辿り着いた。全く手入れがされていないその場所には、高々と青い雑草が生い茂っている。
「……」
 彼はその場に立って、ひとつ、深く息を吸い込んで目を閉じた。そして目を開く。
 ざわり、と風景が波打って、一瞬の内にその場は変化していた。

 かつて華やかさで彩られていた後があちこちに残る、朽ちた色町。簪がかつていた世界。ただ、簪ひとりしかそこにはいない、色町。
 それを見ると、どこか不思議な気持ちになる。どこか懐かしいような、寂しいような。自分はここにいる人間なのだ、という気持ち。
 彼はその何とも言い難い感覚を味わいながら、一歩、また一歩、歩いていた。
 どうしてロケーションエリアを展開して、この町を見たくなったのかは、自分でも良くは分からなかった。だが、あの俳優との出会いで、ふと胸の内に、この町に会うことへの焦燥感と、そして自分という「つくりもの」への儚さが浮かび上がっていたことは、確かだった。
 あの俳優は、あんなにも確かに自分の前にいた。あんなにも確かに自分の前で、「彼」とは全く違う話をしていた。
 だから何だ、と言う訳では決して無いが、それでも自分の中に無視できない感情が生まれている事も、また事実である。
 簪は木の板が外れかかった建物が並ぶ茶屋小屋の通りをゆっくりと歩いていき、ひとつの建物の前で足を止める。
 ざらりと足下で砂が擦られる音が響いた。
 簪は落ち着いた動作で木戸を開き、中へと足を踏み入れた。簪の体重を受けて、木のざらついた床がみしり、と音を立てる。
 そのまま中を進み、階段を上って二階へと足を踏み入れた。同じような障子と座敷が続く中、そのうちのひとつの障子を開く。
 す、と小さな音を立てて開く障子の向こうの部屋は、かつて彼の母親が普段の生活にあてがわれていた部屋だった。
 足を一歩踏み入れる。素足の裏が、古びた畳の感触を掴む。
 部屋の中にあるのは化粧道具が仕舞われている木箱や、色鮮やかな着物が仕舞われている箪笥。そしてそこからはみ出ている着物の端。半分だけ開かれた、窓の障子。
 生活感だけ残っている、誰もいない部屋。
 簪は無表情なままそれを眺めた。
(簪……)
 ふと、彼を呼ぶ声が聞こえたような気がして首をめぐらせてみる。
 ――勿論、そこには誰も居ないことは分かっていながら。
 そこにあったのは、予想通り人が寄りかかってぴかぴかと磨り減った手すりと、古びた木で出来た床が広がっているのみ。
 彼はさらに足を進め、部屋の一角へと歩み寄った。そこには、おそらく母が仕事の時に使ったであろう、いくつもの装飾品が並べられていた。半分以上が簪で、どれも一級品の出来栄えである。
 そこのひとつに、ひときわ目を引く一品があった。鼈甲で削り出されたものだ。
 派手な出来栄えではないが、そこらに施されている彫りが華麗で、美しさを際立たされていた。
 ――父が作り上げたものだ。
(……これ、きれい……)
(これはね、あなたのお父様が作られたものなのですよ)
「……物語というつくりものでも、こんな風に感じるのでしょうか」
 簪はそれをじっと見つめたまま、ぽつりと言葉を落とした。その言葉は誰もいない部屋の中に広がって、そして消える。
 言葉にはし尽くせないような、そんな感情に包まれていた。これが簪がまみえた事の無い、父への思いなのかどうかは、分からない。
 寂しさと、懐かしさと、憎さと。織り交じって、心の中を満たしていく。
「……どうして、居なくなってしまったのでしょうかねえ……」
 こんなに素晴らしい一品を作り上げたのに。
 ――そっと、負の感情が溢れ出す。
 それでも、ここまでの、これほどの品を母に贈ったのだから、彼の全てを憎むことなど、出来るわけが無い。
 簪は、静かにひとつため息をついた。そして、そっとその鼈甲の飾りを手に取る。
 手に取った瞬間に、その簪から浮かび取れる父への懐かしさと、この飾りを手に取ってしまった行動への後悔に襲われた。
 ――めまいにもにたその感情に、彼はしばしその場に立ち尽くしたまま、それが収まるのをじっと待っていた。
 ようやくその感情が収まると、そっと窓のところまで近付いて、半分程開けられた障子を全て開いた。
 使い込まれて黒光りしている手すりの向こう側には、朽ちている色町の景色。
 彼は、そこから簪をそっと透かすように持ち上げ、そこから外の景色を眺めるかのように、じい、とそれを見つめていた。
 まるで、そこに、幾重もの感情や景色が見えることを期待しているかのように。
「……行きましょうか。こんな事をしていても、何か起こる訳でもありませんしね」
 簪はふ、と苦く、淡く笑むと、それでもしばらくその手にある簪を見つめていたが、それをそっと元の場所に置くと、外へと出る為に歩き出した。

 ちりん、とどこからか風鈴が鳴っているような気がする。建物の外に出た簪は、風が吹いてくる方へと首を巡らせた。

 ちりん、ちりん。

 その音は、誰かの心の中の、音なのだろうか。
 世界が変わってもただ変わることの無い空の下、風鈴の音がそっと響いていく。その中を、そっと一歩、簪は踏み出して、歩いていく。
 陽射しは、まだ焼け付くように強いままだ。



クリエイターコメント大変お待たせ致しました。ノベルをお届けさせて頂きます。
今回は、夏の和なども取り入れながら、全編通して静かな雰囲気で描かせて頂きました。色々な簪さんにときめきつつ、ドキドキしながら描かせて頂きました。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。

素敵なオファー、ありがとうございました。またいつか、銀幕市のどこかでお会い出来ますことを願って。
公開日時2008-08-11(月) 17:50
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