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<ノベル>
対策課では、二人が同じ依頼が書かれた紙を前に佇んでいるようだった。その内のひとり、シャノン・ヴォルムスが、ひゅっと眉を上げる。
「……それにしても、不可解としか言い様がない依頼だな」
「あなたはこの彼の事を知っているの?」
さばさばとした口調でシャノンに問うのは、香玖耶・アリシエートだ。彼女は至って冷静な表情を浮かべて、その依頼内容を見返しているようだった。
「ああ。それなりにな。ロクでも無い事ばかりで顔を合わせて来たが、ひとまず常識は持っているように思ったがな……」
「……そう。まあ私は面識が無いから、あくまでも客観的に調べさせてもらうわ」
香玖耶がぽつりと頷きつつ告げる。
そんな時、彼等の背後から、ふふ、とひとつ笑いを告げながら、ひとりの女性が現れた。鬼灯柘榴である。
「こんにちは。……ああ、これですね」
柘榴は挨拶を告げると、何やらひとり納得したように、依頼書を読み始めたようだった。どうやら、ほの暗い気配をこの市役所に感じて、彼女はこの場を訪れたようである。
しばらく彼女は読み進めていたが、最後まで来た時にどうしてか、笑いを隠せなくなったようであった。くすくすとやや苦い笑みを浮かべている。
「マレナス……マレナス、ですか」
「……どうした?」
シャノンの問いに、いえいえ、大したことでは、と首を振る柘榴。ようやく笑いの種も治まってきたのか、気を取り直した様子で、彼らに向き直った。
「私もこの依頼を受けます。――お二人も? えーと……」
柘榴はそう言って、香玖耶に向けて首を傾げた。軽くお互いの自己紹介を済ませた後、香玖耶は二人に向き直る。
「とりあえず、私はこの依頼をしてきた、マレナスって人に会おうと思っているんだけど……あなた達はどうする?」
「そうですね……では私は先に、神殿に向かうことにします」
ではまた後々。そう告げた柘榴は、二人に軽く会釈して対策課を後にしていた。
「奴等の事は不審な点があるように感じる。ひとりでは何があるか分からないし、俺も行こう」
「それはありがたいわ。……じゃ、行きましょうか」
香玖耶とシャノンも、そうして対策課を後にして、マレナスがいるというらしい、喫茶店へと歩き出す。
*
喫茶店に面する、大通りを二人は歩く。幾人かの人とすれ違いながら、ふたりはぼそぼそと会話を交わしていた。
「私、一応、正式に依頼を受ける前に、映画をチェックしてきたんだけど……。マレナスっていうのは、彼等の映画の舞台となる国の、第一王子、らしいわね」
香玖耶の言葉に、シャノンも肩を竦めて頷いた。
「そうだな。それも、本編の時には、少ししか出ていないから分かりにくいが、どうもあの神殿に住んでいる従者に探りを入れたところ、本編時には彼等の住む神殿にはいなかったらしい」
「だから、神殿には住んでいないのね」
香玖耶は、吹き付ける冷たい風に眉間を寄せながら、ぼそりと呟いた。
「……ああ。どうやら、面倒な話になりそうだ」
シャノンも自然と眉を潜めつつ、大通りを音も無く歩いていた。
しばらく大通りを進み、小さな路地へ入ると、少しだけ寂れた、濃い茶色の喫茶店の看板が視界に入った。
「……あれね」
香玖耶は目を細めてそれを見て、厚ぼったい扉に手を掛けた。扉は、幾分錆付いた音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
「いらっしゃいませ」
カウンターの端に立っていた、女性の店員が二人を認め、にこやかに挨拶した。少し照明が落とされた店内には、ありふれたジャズが掛けられている。
「ここに、二人組の客は来ている? ――ああ、いたわ」
香玖耶は店内にざっと目を向け、店の隅、窓際の席に腰掛けている二人組を見つけたようだった。シャノンに軽く目配せをしつつ、店内に足を進める。シャノンは素早く店内に視線を走らせつつ、香玖耶の後について店内に足を踏み入れた。
この店全体にぴり、とした、どこか異様な緊張感を感じていた。
この店の店主らしき人も、店の入り口で二人を迎えた店員も、さりげなくグラスを拭くような動作を見せながらも、こちらに意識を向けているような気がしてならないのだ。それは、自分の気のせいだろうか。そう考えながらも、シャノンは二人組へ視線を向けた。
「初めまして、かしら」
香玖耶がすっと、奥でカップを手にしている青年に視線を向ける。青年――マレナスは、どこか愉快そうに、青い目を返した。
「依頼を受けてくれるんだね?」
「ええ。それで、いくつかあなたに確認したいことがあるのよ」
「そうか。……何でも答えよう。まあ、とりあえずは座って」
ほら、そこあけて、と向かい側に座っている青年に、彼は手で合図する。青年は、は、と小さく答えると、マレナスの隣に腰を下ろした。
その時、シャノンは、かちゃ、と長い上着で隠れている青年の腰付近から、金属音を聞き取っていた。おそらく、軍人なのだろう。よく見ると、左手で隠すように鞘に入った剣を持っているようだった。
二人が彼等に面して腰を落ち着けると、では、とマレナスは切り出した。
「僕に何を確認するのかな?」
「そうね。……まずは、あなたがホーディスって人がヴィランズだと思う理由をもっと詳しく聞かせてほしいわね」
香玖耶がそう告げた時、すっと横から女性の店員が、二人に水の入ったグラスを出していった。マレナスは、その店員の背を静かに見つめ、見た目ではにこやかに話し始めた。
「……神殿を知っているかい? 彼等が主となって暮らしている神殿」
「……ああ」
マレナスの問いに、シャノンは頷く。
「あれはね、鎮国の神殿という名前だけあって、本当は非常に危ない所なんだ。城の一番奥の、奥の最深部にね、大いなる破壊をもたらすものが眠っている。あんたは見たことないかな、その一部を」
「――さあ、それを言うなら、銀幕市のどこでも、危ないところになり得る。俺には区別しがたいな」
シャノンは肩を竦めながらも、そういえば、とどこかで聞いた話を思い出していた。
――あの神殿には、地下書庫が隠されていて、そこには危ない生き物がうようよ蠢いている、なんて話を。
頭の隅に引っ掛かったものを確認している間に、香玖耶は、それで、と続きを促す。
「あの神殿は、そもそも僕が本当の主だったんだ。でも、銀幕市に実体化した時、たまたま僕はあそこにいる事が出来なかったからね。――それで、あれに、挨拶に行ったんだけど」
マレナスは、そこで言葉を切って、くすり、と苦笑した。
「門前払いってやつをされてねぇ。これは何か企んでるな、と思って、調査を頼んだわけですよ。なんせ、僕じゃ門前払いされるからねえ」
あそこの皆の結託は強いもので、と小さくため息を吐いて、マレナスは話を締めくくった。
香玖耶は話を聞きながらも冷静に表情を読み取っているようだったが、静かな湖面のように凪いだその表情からは、何も読み取ることは出来ない。
「……話は分かったが……それでホーディスをヴィランズと決め付けるには、少々短絡的にも取ることが出来る気もするが……」
シャノンの言葉に、マレナスは首を竦める。
「この銀幕市にとってはどうかは分からないけどね。元々あれは、僕の一族では敵対すべき存在だったんだ。策士だからね。まだ行動を起こしていないだけかもしれない」
「敵対すべき存在?」
映画じゃ主人公なのに、という言葉は辛うじて呑み込んで、香玖耶は呟く。その言葉に、マレナスは苦笑した。
「気がつかないかい? あれと、僕は、これでも兄弟なんだよ? 公式上は腹違いでも何でもない、同じ血が通った兄弟、なんだよ?」
うわ、鳥肌立ってきた、とマレナスは呟いて、腕をさすっていた。不思議な言葉に眉を潜める二人をよそに、彼は壁に掛かった時計を見て、そして立ち上がった。
「わ、もう時間だ。悪いけど、これから用事があるから、僕は行くね。じゃあ、よろしく」
余程時間が切迫しているのか、それだけ告げると彼は足早に店の扉へと歩いていった。その後ろを、立ち上がったもうひとりの青年が追いかける。
彼がシャノンとすれ違うその時、ぼそり、と一言呟いたのをシャノンの耳は捉えていた。
「愛と、憎悪は同じだ。気をつけろ」
足早に去っていく二人の姿を見届けて、シャノンは小さく息を吐いた。香玖耶はなにやら小さなメモを取り出して、話を整理しているようである。
「……どちらにせよ、神殿には行かないと分からないということか」
「そうね」
カラン、と氷が水に染み出して、小さな音を立てた。
* * *
神殿へと続く路地では、幾つかの足音が小さく響いていた。時々それに、冷たい風が加わる。
「うー、さむ」
真正面から風を受けて、小さく吐息を零したのは、墺琵琥礼だ。その横では、バロア・リィムが何やら難しい表情を作りながら、歩いている。
「それにしても、ホーディスを退治とは、一体何を根拠にそんな事を言い出すんだろうね?」
バロアの言葉に、琥礼は腕を組みつつ、首を傾げた。
「うーん……ひとまずその依頼をしてきた二人、というのが気になるが……まあ神殿にもうひとりいれば、何か分かるだろうな」
「だと良いんだけど……」
ふわ、と木から飛んだ枯れ葉が、二人の間を舞う。その葉の向こうには、神殿が見えていた。
神殿の門付近まで歩いてくると、反対側から深紅の着物を着た、柘榴の姿が二人の視界に入っていた。
「……あら、もしかしてお二人も、対策課の依頼を受けて、ですか?」
柘榴の問いに、琥礼が肩を小さく竦める。
「まあ、そういう事だ。……という事は、あんたもか。まあ、よろしくな」
「……ええ」
門の前で、軽くお互い紹介を済ませ、会釈を交わして三人はゆっくり神殿の中へと足を踏み入れた。
「……誰も、いないな」
玄関ホールと思しき場所で、バロアはきょろきょろと辺りに視線を飛ばすが、いつも以上に神殿内はひっそりと静まり返っているようだった。
「……リーシェ、って奴もか」
「……これじゃ、リーシェがいるかどうかも聞けないな」
仕方ない、とバロアは呟くと、普段から出入りしている書庫へと足を伸ばしていた。
リーシェの居場所が分からない、と知った琥礼も、眉を潜めつつその後を追う。どちらかというと、書庫の方に関心を寄せている柘榴も、その後を追って歩いた。
書庫の入り口は、開け放してあった。カウンターの部分には、椅子が見えないほどにうず高く本が積まれている。
ただ、肝心の主は不在のようだった。
「……いない、か」
それを見たバロアは小さくため息をつきつつ、奥の棚へと足を進めた。琥礼は、カウンターの所に目を留めている。
「……何だか、ついさっきまで、ここにいたような、そんな感じだな」
「……そうですね」
柘榴も、カウンターに伏せられた本や、うず高く積み上げられた本の名前を追いながら同意した。
「ひとまず、この書庫を調べれば、誰かいるかもな」
琥礼はそう言うと、バロアの後を追って本棚へと進んで行った。その場に残された柘榴は、本の名前の部分にそっと指を走らせて、少しだけ笑みを浮かべる。
「人形……、これも……これも。……どれも、呪術に関する本ですね」
*
いつもは少しだけ人がいる書架の部分も、何故だかは分からないが今日に限って人の姿は見受けられない。
バロアは見知った本の背表紙を眺めつつ、自然とため息を吐いていた。後ろからは琥礼が、天井付近まで並ぶ本に圧倒されながら、バロアの後を追っている。
「誰も……いないな」
どうしてだ、と琥礼が呟いた時、バロアはふと、妙な力が奥の方で働いているのを感じていた。魔力にも似ているが、どこか違う、何か……。
「……何か、あるみたいだ」
バロアはそう呟くと、琥礼の姿を振り返る。
「行ってみよう」
琥礼は頷き、二人はその妙な力を追って、書庫の奥へと入り込んでいった。
くねくねと曲がる棚の奥へと入り込んでいくと、やがて、二人の前に不思議な回廊が現れていた。
――天井も、壁も滑らかな鏡の空間なのだ。
「なんだ、これ」
目を見開く琥礼の横で、バロアは眉をひそめていた。
「怪しい……怪しすぎる……。妙な魔力みたいなものが、天井からも壁からも放出されているし、さらに奥からは、もっと強い力を感じる……」
「そうか……どうする?」
バロアは壁の前で、真剣にその壁と天井を目で追い、何かを考えているようだった。
「うーん……ひとまず、鏡と言うからには、何かを映し出すのだろうから……」
そこで言葉を切ると、バロアは小さく呟いた。
「我に属す影よ」
ざわ、と地に佇む影が、ぞわり、と大きさを増して、前の回廊へと広がっていく。闇はぞわぞわと広がっていき、やがて、その回廊全てを闇で満たしていた。
「よし、これで進んでみよう」
指の先に、僅かな光を灯したバロアは、先陣を切って、その回廊へと乗り込んでいった。
「おお……真っ暗だな……」
琥礼も、バロアが灯す明かりを頼りに、恐る恐る中へと踏み込んでいく。
「うん。鏡が、映し出したものに何かをするんじゃないかと思って、この空間を闇で満たしてみたんだ」
「成る程。闇のせいで、鏡には何も映らないって訳だな」
うんうん、と頷く琥礼。ちらりと、光が映る鏡に目をやる。
――鏡の中の自分の、目が合って。
ざわり、何かが蠢く。
「え?」
琥礼が気がついた時、前にはバロアの姿はなかった。
「しまった……!」
一声叫んで振り返った時。彼の目には。
燃える、炎が。
ざわ、と背後で何らかの力を感じ、振り返ったバロアは、後ろ向きに佇む琥礼の姿を見ていた。彼の目前には、何やら炎が上がっているような、そんな光景が広がっている。
「……!」
バロアは、琥礼の元へと足を一歩踏み出して。
そして、――琥礼の体をすり抜けていくのを感じていた。
「え……?」
信じられない感覚に、琥礼の姿を認めようと振り返った時、そこには彼の姿は無かった。
*
バロアと琥礼の後ろから、書庫の本を眺めつつ歩いていた柘榴は、時間が経っても現れない二人の姿に、僅かに眉を潜めた。
「おかしいですね……。もしかして、迷子になってしまったのでしょうか」
どちらが迷子になったか、という事には敢えて深入りせず、柘榴はそっと呟いた。ひとまず、歩いていれば何かに辿り着くだろうと思い、書架の奥へと入っていくのだったが、少しずつ、焦げ臭い感覚のする負の気が辺りに満ちていく事に気がついていた。
「何があったのでしょう……?」
口調だけは深刻に、だがどこか嬉しそうに、柘榴は歩を進める。
少し歩くと、彼女の前に、闇で満たされた回廊が見えてきた。
そしてそこには、小さな光のみを従えて、佇むバロアの姿。辺りには負の気が充満している。
「あら……一体、どうしたのでしょうか?」
「……あ」
柘榴の姿を見つけたバロアは、どこか途方に暮れたような表情を浮かべた。そして、小さな声で、呟く。
「ここに、来てはいけない……」
「……?」
あまりにも小さな声だったので、よく聞き取れず、柘榴はゆっくりと前へ進んだ。そして、闇で満たされた空間の中を進み、バロアの傍に寄る。
「これは一体……」
柘榴の言葉に、ゆっくりと顔を上げたバロアは、小さく頭を振った。
「どうやらここは……、自分の中の何かを映し出す場所、みたいだね。……見えるんだ。少しの光に、あの光景が、……」
バロアの言葉に、柘榴はその光を見ていた。
灯りに映し出される鏡から、深紅の、着物が。
浮かび――。
* * *
マレナスに会って、ひとまずの情報を入手してきた香玖耶とシャノンは、神殿の前まで来ていた。
「……ここが、その神殿ね」
「ああ。普段なら、書庫の入り口にホーディスはいる筈だ」
ひとつ頷いたシャノンは、書庫の入り口へと足を進める。
カウンターには、うず高く積み上げられた本、主のいない、からっぽの席が、二人を迎える事になる。
「いない、か……」
ぽつりと呟いたシャノンの横で、香玖耶は本棚の列に、目を自然と輝かせていた。
「これほとんど、魔法とか、精霊とかに関する本だわ。すごいわね」
一番近い本棚に足を運び、本を手にとってぱらぱらとチェックし始める香玖耶。一方、シャノンは書架に誰かいないか、くるりと回って調べているようであった。円形の棚をくるりと一回りして、そして入り口側に戻ってくる。
「誰もいないか……」
そう呟いて、香玖耶がいる本棚の列へと足を運んだ。
その時まさに彼女は、高い棚の本を取る為の足台に座り込み、熱心に本をチェックしているようであった。早くも、足下に本が積み上がっている。
どう見ても、調査の為にチェックしている様子には、見えない。
「……おい。何しに来たのか、覚えているか?」
いつもよりも少し低くしたシャノンの声に、は、と顔を上げた香玖耶は、慌てて本を棚に戻し始めた。
「あ、そうだったわね。ついつい。ごめんなさい」
てへ、と舌を出しながら本を戻した香玖耶は、入り口で手持ち無沙汰に佇んでいるシャノンへと早足で戻っていた。
「ひとまず、書庫には誰もいないみたいだから、別の場所を探すぞ」
「そうね。……ん?」
シャノンの提案に頷いた香玖耶は、カウンターに置かれた本をじ、と眺め、ぽつりと呟いていた。
「これ、全部呪術に関する本なのね」
*
書庫を出た二人は、玄関ホールから繋がっている廊下の内、取り敢えず、扉が開いていた右端の廊下から調査することにした。
「……さ、よろしくね」
香玖耶は名誉挽回とばかりに、蝶のような大きさの、細長い羽を持った精霊を幾つか神殿内に放ち、その精霊の声を聞きながら歩いていく事にしたようだ。
石造りの、どこかひんやりとした冷気を放っている廊下を歩いていくと、幾つかの扉が並んだ廊下へと繋がったようだ。
それとなくノックしてから中を確認してみたり、中の気配を探ってみたりしていたが、どうやら寝室らしく、誰かがいる気配は無い。
「皆仕事中なのかしら……それにしても、気配が無いけど」
「……」
シャノンは無言のまま僅かに眉を上げると、さらに奥へと足を進めていた。
相変わらずひんやりとした廊下が、彼等の前には広がっている。回りの窓が大きめでなければ、この空間は薄暗いものとなっていただろう。
そうして歩いていると、香玖耶の耳に、精霊からの声が届いた。
「……何かあるわ」
香玖耶が精霊の声の通りに、廊下を右に折れて小走りに進んだ。その後ろから、シャノンも辺りを警戒しつつ、その後を追う。
そうして少し歩いた先に、ようやく人らしきものが、不思議な、まるで別の空間が広がっているかのような場所で佇んでいるのを見つけた。
「……リーシェだ」
見知った顔である事に気がついたシャノンは、歩を早めて彼女へと駆け寄った。それに続いて、香玖耶も歩を進める。
「……おい、大丈夫か」
シャノンの声が、真面目な響きを帯びてリーシェへと呼び掛けられた。
ひとまず周囲を確認した香玖耶がリーシェを見た時、驚きに目を見開く。
「……ああ、とりあえず、五体満足ではある」
そう頷いて剣を握り直したリーシェの姿は、全身血に塗れていた。ぽつ、ぽつと地面に滴り落ちる血に、香玖耶の眉間は、自然ぎゅっと寄っていた。
「ひとまず、手当てしないと……」
似た容姿を持つリーシェに、どこか親近感を持った香玖耶がそっと手を伸ばすと、リーシェは首を横に振った。
「私は大丈夫だ。――それより、どうしてこんなところにいるんだ?」
「……お前の兄がヴィランズかどうか調べろと、依頼を受けた」
片手に銃を持ったシャノンの言葉に、リーシェの眉が潜められる。
「……誰からだ?」
どっちかと言うと、ヴィランズといったら私の方が近いな、と軽口を叩いたリーシェだったが、香玖耶の言葉に、表情を一変して凍らせた。
「マレナスって人よ」
「……――」
リーシェはしばらく沈黙した後、ぎゅ、と唇を引き結んだ。そうして大きく息を吐く。
「――成る程、な」
「あなたは、どうしてそんな怪我を? ここに何か敵がいるの?」
香玖耶がそう言い、シャノンは辺りを見回す。
リーシェの前方には、砂ですすけ、寂れた雰囲気の家屋が幾つか建っている、そんな光景が広がっている。
「人の心配をしている場合じゃないと思うぞ。相手はあの兄上どもだ」
後ろを見てみろ、というリーシェの言葉に、二人は振り返ると。
――そこには。
* * *
琥礼は、目の前の光景にひとつため息を吐いた。そこにあったのは、決して忘れることなど出来ない光景だったから。
彼の前には、かつて十三の歳まで暮らしていた、集落が広がっていた。その光景の懐かしさに胸の奥から込み上げるものを感じるが、今その集落の家々には、炎が赤々と燃え上がっている。
――そうだ、これは、あの時の。
自分の流浪の発端となる、人生の、ひとつの岐路。
それが脳内で理解されると同時に、彼の足は、自分が住んでいる館へと向かっていた。
あちこちで上がる叫び声が自然と彼の耳に入るが、その悲痛な叫びを彼はどうする事も、出来ない。
――何も出来ないのだ。
「……」
ぐ、と唇を噛み締めて、一度地面を見る。
そして、顔を上げた先には、また違う光景が広がっていた。
久しぶりにその場所を見た。少し傷がついた柱や、庭の姿。
そして、彼の前には、母の姿。
ひどく、懐かしいと思った。
この館の周りが、炎に巻かれていなければ、しばらくその場に佇んでいただろう。
母の口が開いて、何事かを呟いた。恐らく、早く行け、などと言っているのだろう。その証拠に、彼は母に背を向けて、妹の手を引きながら走り去ろうとしている。
「……っ」
彼の口から、小さな呻きが零れた。
母は、この炎の中、たったひとり、この場に残ろうとしているのだ。親としての務めを果たす為に。囮となって、この場に残ろうとしているのだ。
炎が強さを増して、館を取り込もうとしている。自然、彼の表面にはぽつり、と汗が滴り落ちていた。
自分に、何かを変えることは――出来ない。
母の、強い想いを越えることなど、この自分にはできやしない。
ただ出来るのは、炎の中を逃げ切る事だけ――。
「……くそ……」
彼は一層、ぎゅ、と拳を握り締め、そして震わせた。その想いが消えない内に、景色は一瞬に暗転する。
彼の周りは、今まで見ていた故郷の館も無く、ただ炎だけがその場を満たしていた。轟々と燃え上がる炎。その炎の熱に、額から汗が噴き出ている。
琥礼の前には、今にも炎に巻かれようとする、母の姿があった。
あの時、故郷が襲撃に会う中、母を置いて逃げた琥礼には、母がその後どうしたのか、は分からない。
「琥礼――」
母の言葉に、琥礼はそっと、手を伸ばしていた。もう少し、あと少しの距離で、母に届く、その手。
ごう、とその手の先に、炎が燃え上がる。
「あつっ……!」
反射的に手を引っ込めた、琥礼の先で。
彼の母の、白い、腕が。
炎の中へと落ちて――。
「――うわあぁぁああぁあッ!」
炎に巻かれる、母の姿が脳裏に刻まれたその瞬間、琥礼の周りは闇に包まれた。影さえも無い、真の闇だ。
だからだろうか。ちらちらと、炎の色が、瞼に焼き付いているようで。
どうしようも無い、どろどろとした思いだけが、彼の胸には残っていた。
「――それが、あなたの後悔、ですね」
誰もいないのに、彼の周りからは声が響いた。
「ああ……そうだ」
琥礼は、どこの誰とも知れないその声に、小さく頷く。
「あなたはその後悔に、このまま浸される事を望むのなら。私はあなたに、安らかな眠りを約束致しましょう」
「――……俺は」
琥礼は、静かに下を向いた。もう、後悔する事なぞ、この心には抱きたくない。安らかに日々を過ごす事が出来るのならば。それは、人間誰しもが自然と思う本能。
「……どんなに後悔しようとも、前へ進む」
彼は静かに面を上げる。
後悔を負い続けても、その分の努めを果たして改めようと、掴もうとする信念、そして大切な者を守るための心。
これは、銀幕市で得た想いを糧にしたものだ。
後悔は、二度と元に戻らないことの証だ。
「だからこそ、この日々を無駄にしてたまるか」
瞼に浮かぶ炎の色をそっと心に納め、きっと前を見据えた彼の前で。
闇が、みしりと音を立てて砕け散った。
* * *
「……どうやら、僕達は取り込まれてしまったみたいだ」
バロアは力なく呟くと、指先にある光を解放した。不可思議な空間を包んでいた闇はずるりと彼の足下へと吸い込まれていき、代わりに光がその場を満たしていく。
「……成る程、そういうこと、ですか」
柘榴はぽつりと言葉を落とした。バロアと柘榴の二人の体を丁度中心にするかのように、別々の光景が広がっていた。
柘榴の前には、曼珠沙華の花が、一面に広がっていた。赤い空間。
その空間に、ふ、と柘榴に似て非なる人物が現れて、そして消える。瞬きをするとまた、柘榴に似た、人物が。
かつての、「私」が。
「……ああ」
柘榴の口から、小さな呟きが零れた。彼女の心の内に、複雑な想いが浮かんでは消える。
人生を悔いる事無く生きた「私」はどれだけいるのだろう。そう考えた彼女の前に、ふ、とひとりの人物が現れた。
彼女に良く似て、だが非なる人物。
「――もしかして」
柘榴は、その後の言葉を飲み込む。彼女の影に潜む使鬼達がざわめく動きを見せた為、その名を呼ばずとも確信していた。
紅。全ての、根源。
まだ紅だった頃の自分が、異世へ渡り、そして犯した大罪。
(――貴女の罪は、我らの罪でもある――)
そう言った、使鬼達。
「――そう、この姿は――」
バロアの前には、薄暗い聖堂の空間が広がっていた。今の姿の彼の前には、彼本来の姿の、バロアがその場に佇んでいる。
「――……」
愕然とした表情を見せる、かつてのバロアの周りには、かつての仲間達や、大神官が崩れ落ちていた。
瞬きをひとつすると、彼等の身体がひとつずつ消えていき、――そして最後には大人のバロアの身体も消えていく。
仲間達が倒れているあの光景など、二度とは見たくない。
けれども、かつての学び舎が、誰もおらず、ただぽつんとひとりで佇んでいる光景も、また堪えるものだった。
仲間が笑顔を見せてくれたその瞬間は、もう過去の彼方に過ぎ去ってしまったのだ。
どんなに願っても。
もう、それが戻ることは無い。
「――え」
そう感じた瞬間、バロアの目の前には、今願っていた、仲間達の笑顔が映し出されていた。それは、闇の魔導を探求する為に、大聖堂を離れた時の笑顔のままで。
思わずバロアの顔が綻びそうになった時、その笑顔は一瞬にして、まるで一枚の紙をくしゃくしゃにするかのように、痛みで歪み、そして彼の眼前から消えていった。
ばたり、と音がする。仲間達が彼等の前で、堕天使に襲われて倒れる音が。
この場に堕天使がいるのかと、あちこちに首を巡らせてみるが、その憎き姿は無かった。ただ、仲間達だけが、あの日のように倒れていく。
彼等の口が、何か言葉を発したように感じた。だが、その言葉はバロアにまで届かない。そのせいか、バロアにはどうしても、仲間達が恨み言を言っているようにも感じる。
そして、瞬きをした瞬間に、その仲間達の姿は跡形も無く消えていた。
ぽつんと残ったその場で。バロアはぽつり、と呟く。
「この姿は――」
「――後悔の証」
ふと呟き、ぎゅ、と掌で腕を握り締めた柘榴の前に、見たことのある人物が、佇んでいた。その人物はふ、と彼女に笑顔を見せる。
死んだ紅を捜して、五千年彷徨ったしるべの番人だ。
「――」
柘榴が彼の名を呼ぼうとした時、その人物の姿はふ、と掻き消えた。代わりには、別の人物がそこに佇んでいる。
「――師」
ぽつりと呟いた時、その人物も掻き消えた。
二人ともが、柘榴の前で死を願った。
二人も、そして呪印に刻まれた数多の鬼灯たちも。
――心が潰れる程に、狂おしく、そして憎く。また心が潰れるほど、切ないほどに愛おしい。
再び曼珠沙華が広がる光景を柘榴はそっと見つめた。
過去は、時が過ぎて、去ったもの。変えることなどできないし、そして、遠い記憶の罪が、今の自分であるならば。
背負った罪は甘んじて受け、そしていかなる苦渋も刻み込む。
だから柘榴は、使鬼の力も借り、そして呪い続けるのだ。使鬼もそのことを理解してくれるだろう。
何よりも、――それが柘榴だから。
彼女は静かに後ろを振り返った。
バロアは、そっと自分の姿を見下ろした。相変わらず景色は、かつての大聖堂の内部のままだ。
この姿が、かつて悔いた姿が、永遠に解けないのではないかと思う事はある。
「それでも――諦めはしないさ」
彼は天井を見上げて、呟いた。
確かにこの出来事は、悔いるべき人生の岐路であったけれども、彼にとっての岐路は、それだけではなかったから。
沢山の人との出会いが、彼にはある。ライバル、そして銀幕市での、出会い。
だから、彼は前へ進む。
進まなければならない。
バロアは傍らにいる筈の、柘榴を振り返った。
静かにバロアを見る目線と、バロアの視線が、合う。
「あなた達が、羨ましい」
どこからからの声が、二人の耳に届いた。どこかで聞いたことのある声に、バロアは思わず声を上げる。
「その声は……もしかしてホーディス? これは、君がやった事なのか?」
「……私にも……」
バロアの声への答えを待たずして、空間が砕け散った。
* * *
「……どうして、これが」
ここに、と香玖耶は呟きを零した。そのまま、一歩、一歩とその空間に足を進める。
「……兄上がいるとなれば、おそらく、ホーディスの最後の抵抗だろう。僅かばかり、のな」
「それで、お前はそんな姿なのか」
「双子だからな。思い切り引きずり込まれた。……それにしても、呑まれているのに、幾分平静だな」
「……どうだろうな」
香玖耶の後ろでは、どこか場違いな雰囲気を思わせる会話を繰り広げている中、香玖耶は一歩、また一歩、と足を進める。
香玖耶の前には、屋根が崩れ落ちた教会の姿があった。壁も、祭壇も、僅かばかりを残して崩れ落ちている。
そして、彼女の周りには、絶命した、小さな仲間達の姿。
これが本当に数時間前まで生きているのかどうかさえも分からない、辛うじて人の姿を留めている、仲間達の姿だった。
ただ、香玖耶だけが今の姿のまま、異質な雰囲気を持って佇んでいる。
「……こ、れ……は」
今の自分の根源となる、あの出来事。力が欲しいと心の底から願った、根源の出来事。
そして力を得た今なら、あの憎き人物を消す事が出来る事に気がついて、ふと周りを見渡した。だが、そこには、その人物の姿だけは、無い。
例えまがいものと分かっていても、それでもこの光景を変えることは、出来ない。
そして、力を望んだことも、力を得た事も。
それを持つ今でさえ、力を使役しようと、一瞬でも考えたことは事実だから。例え、その結果、人として生きる道を捨て、精霊を求めて永遠を彷徨う業を負う事を悔やんだとしても。
――悔やむという事は、決してそこへもう一度、本当に帰ることは出来ない証なのだ。
シャノンは、彼の前に浮かんで佇む女性の姿に、僅かに目を見開いた。
「……リィナ……」
彼女はシャノンの呼び掛けに答えるかのように笑みを浮かべた、次の瞬間に、その身体が揺らぎ、崩れ落ちていく。
あの時のように。
咄嗟に彼女の身体を受け止めようとして手を伸ばすが、彼女の身体は、シャノンの手をすり抜けて落ちていった。
たん、と彼女の身体が床に落ちて、僅かに弾んだ。
シャノンは触ることが出来ない、かつての婚約者の身体にもう一度だけ手を伸ばし、そしてその手を引っ込めた。
手を引くと同時に、床に落ちた彼女の姿は跡形も無く霧散する。
シャノンは静かに、彼女に触れようとした掌を広げて、じっと見つめた。
「……ここは、おそらく、かつて自分が後悔した場面を何らかの形で現す場所なのだと思う」
隣で剣をしまっていたリーシェがそっと呟いた言葉に、そうか、とシャノンはぽつり、呟いた。
「そうだな……後悔は、リィナが死んだ時から、ずっと付き纏っているな……」
まるで、寄せては返す波のように、消える事無く、いつも、いつも。
首から下がる十字架に、手を伸ばした。掌に十字架を載せた時、彼の前にまたひとり、女性が現れた。懐かしい、その姿。
「イライザ……」
十字架が載せてある手とは反対の手を伸ばして彼女に触れようとした時、またも彼女の身体がぐらりと揺らいでいた。
そして、まるで彼の身体をすり抜けて、前へと倒れていく。
それはまるで、護ることが出来なかった自分を嘲笑うかのように。
「……常に大切だと思う人を護ることも、添い遂げることさえ出来ない……無力だな」
そうして、何も無い虚空を見つめる。その静かな空間は、まるで空気さえ、じっとその場に佇んでいるように見えた。
「……何だか、こうしてみると、本当に情けなく思えてくるな」
苦く笑みを口の端に刻んだシャノンに、リーシェは首を横に振った。
「それでも、お前は生きているだろう」
「……単に、生きていて欲しいとの願いを叶える為に、今こうしてこの場に立っているんだ。こんな俺でさえ、願われている事は幸福なのだろう」
だから、――そう想われている事に、応えなければならない。
シャノンは、そっと手の上にある十字架を握り締めた。
「――生きるべき、理由がある。……この街で、それを理解する事も出来た」
手の上の十字架を、首から提げた位置に戻す。
しゃらん、と十字架は涼やかな音を立てた。
目の前の光景が一瞬にして掻き消え、何も無い、ただ鏡だけが貼り込められている空間に、香玖耶は立っていた。
壁を見ても、天井を見ても、香玖耶の顔が、写る。それを見た時、後ろから、じっとリーシェが彼女の顔を鏡越しに見つめてくることに、ようやく彼女は気がついた。
「――見てたの?」
「それとなくは」
その返答に、香玖耶はほう、とため息を吐いた。
「――確かに、人としての道を捨てる事を悔やんだ事もあった。悩んだ事もあった。でも」
人としての道を捨てたことで、得られた出会いもあったから。
幾つもの感情と、そして表情と。
「だから私は、――生きていくわ」
香玖耶がそう高らかに告げた時、天井と壁に貼り込められている鏡に亀裂が入り、そして繊細で脆い音を立てて、粉々に砕け散るようにして霧消した。
僅かな小さい破片が、ダイヤモンドダストのように空気中を舞う中、シャノンは近付いてくる。
「さて、行くか」
「――ええ。って、そうだ、手当て!」
香玖耶は全身血塗れだったリーシェの姿を見て思い出したかのように、彼女に近付いていった。あたふたとどこからか包帯を取り出していた香玖耶は、リーシェがぼそりと呟いた何かを聞き逃してしまい、手を止めて顔を上げた。リーシェは視線を受けて、もう一度言葉を言い直す。
「――悪いな」
「いいのいいの、気にしないで」
にっこりと笑みを見せる彼女。
だが、人を超える身体能力を身に付けているシャノンには、違う言葉をリーシェが呟いていたのを聞いていた。
「――どうすれば、空の向こうへ行けるのだろう」
* * *
闇が砕け散った先には、鏡を見る前に逸れてしまったバロアと、柘榴の姿があった。
「おお、無事だったのか!」
「まあね」
良かった良かった、と笑みを見せる琥礼に、バロアはいつもの調子で笑みを見せる。柘榴は、今までいた場所とは大きく変わった空間に立っている事に気がついて、辺りをくるりと見回していた。
三人がいるのは、書庫とは比較にならないくらい、高い天井がある空間だった。
窓は身長を越えた、遥か高い空間に、ぽつぽつとあるだけで、薄暗い空間となっている。そして、所々に並ぶ柱。彼等の周囲には、木で出来た長椅子が並んでいた。
そして、前方、一番奥の部分には、石造りの祭壇のようなものがあった。
「――ホーディス、なのか?」
その祭壇部分には、顔を祭壇部分に伏せるようにして、青年が座っているようだった。僅かな光の加減で、その髪が銀髪である事が分かる。その姿に、バロアは眉を潜めた。
「何か、おかしくないか……?」
おそるおそる琥礼が近付いてみると、白地の服は、べっとりと肩口から血に染まっているようだった。
「もしかして、怪我してるのか? おい、大丈夫か……!」
琥礼がその染みを血液と認めて近付こうとした時、彼の背後から凛とした声が響いた。
「駄目だ! 近付くなッ!」
「え……、ッ!」
不意を突かれて振り返ろうとした琥礼。その彼のわき腹に、大きい紫の、光の珠が撃ち込まれていた。
「がッ!」
光が発する熱と、衝撃をまともに受けて琥礼は後ろに吹っ飛ぶ。木の長椅子が並ぶ部分へと身体をぶつけ、がたがたと長椅子が崩れ落ちた。
背後から響いた声に、柘榴が自らの後ろを振り返ると、そこには香玖耶、シャノン、そしてリーシェが立っていた。
「ど、どういうことだ? ……どうなってる!」
バロアは、いつでも魔法が繰り出せるように臨戦体勢を取りつつ、叫んだ。
前には、机に突っ伏していたホーディスは、いつの間にかその身体を起こし、片手で次の魔法を捻り出そうとしている。どこか生気のない表情に、バロアの眉が僅かに上がった。
この場所に走りこんできたシャノンが、ホーディスの腕、ぎりぎりになる部分を狙って、銃弾を撃ち込んだ。
ホーディスはそれに気がつき、ぎりぎりの所でそれを交わそうとする。その為、捻り出そうとしていた魔法は、あらぬ方向へと飛んでいく。それは壁にぶつかって、大きな音を立てて、消えた。
琥礼は長椅子から立ち上がりながら、後ろを向いた。どこか困惑した表情を見せる琥礼に、香玖耶は叫んだ。
「気をつけて! まだ来るわ!」
そう叫び、鞭を構える。またホーディスの腕が、ゆら、と動いたからだ。
その横で使鬼を呼び、僅かに飛翔していた柘榴は、何かがぷちり、と途切れるような音を確かに聞いた。
次いで、この空間に蔓延していた、負の気がすう、と消えていくのを感じた時。
「……?」
全員が構えの姿勢を取った前で、ホーディスの身体がぐらりと揺らいで、床に崩れ落ちた。
「!」
いつでも魔法を出せる体勢を取りながら、一番近い場所にいたバロアが駆け寄った。後ろにいた面々も、ばたばたと足音をさせて駆け寄ってくる。
仰向けに倒れたホーディスは、光の消えた、虚ろな目をしていた。だがその目に、段々と生気が戻ってくるにつれて、何やら呻き声を上げる。
「ああ……すみません……」
その口から出た言葉に、普段の彼に戻ったことを知った面々は、安堵ともつかないため息を漏らす。
「おい、大丈夫か?」
「一体、何が起きてるんだ」
「とにかく、まずどこかに運ばないと――」
口々に告げた言葉を曖昧に流しながら、ホーディスはよいしょ、と椅子に座りなおした。そして、面々の顔を眺める。
「えーっと……何か申し訳無い事をしてしまったような気がするのですが、……皆様揃って一体何の御用でしょうか?」
そう告げて、首を傾げた動作に、それぞれが、何から話したら良いのか分からないように顔を見合わせた。
「……覚えてないのか?」
シャノンの言葉に、何となくはしか、と返すホーディス。
そんな彼に、琥礼がぽつぽつと依頼の件を伝えることにした。
「……――そうですか。――やはり、兄上ですか」
「え? マレナスって奴は、キミの兄、なのか?」
二人にとっては予想外の言葉に、ぽかり、と口を開けたバロアと琥礼。そんな二人にホーディスは頷く。
「ええ。かつて私達が住んでいた国の、れっきとした第一王子で、次の王位継承者です」
私は第二王子な訳ですね、と苦笑を見せた。その言葉に、香玖耶は眉根を寄せた。
「でも、私がチェックした映画では、あなたが次の王として、動いているように見えたけど」
映画の内容を思い出すように、視線を空へと彷徨わせる。この空間には六人しかいないようで、他の人の声は聞こえてこない。まるで深遠の森のような静けさだ。
「リーシェにはありませんが、私には、王位継承権がありますから」
「――? それは女、だからか?」
琥礼は首を傾げた。そこで黙って会話を聞いていたリーシェが、琥礼の言葉に首を横に振る。
「私は、正式には王族の位を返還している、れっきとした、臣下だからだ」
まあ、いろいろあってな、と彼女は肩を竦めてみせた。
僅かに窓から差し込む光が、ふつり、と陽が翳ったのか、途切れた。ほとんど闇となった空間に、ぼ、と小さな音を立てて、柱に備わっている燭台が光を灯し始める。
「なるほど。マレナスが兄である事が確かであることは分かったが、その兄が話していた事は、どう捉えれば良いんだ?」
――本当なのか、嘘なのか。
僅かに眉を上げたシャノンに、ホーディスは、少し沈黙を続けた後、ぽつりと呟いた。
「――嘘ではありません。どうやら私は皆さんにご迷惑もお掛けしてしまったようですし」
「どういう事?」
バロアの質問に、ホーディスは柔らかな笑みをひとつ、その口元に湛えた。
「ただ、兄上が告げた事だけが、真実では無いと言う事です」
「――……もしかして」
今まで黙りこくっていた柘榴が、ぽつりと呟いた。
「あなたが、何らかの呪術を掛けられている、という事に関係しているのですか? 例えば――人形を操るかのような」
「流石ですね」
柘榴の言葉に、そう返したホーディスの身体が、大気に溶け込むかのように薄くなっていく。
「――これ以上皆さんといるとまた皆さんを傷つけて、ご迷惑をお掛けしますから。私は行きます」
「え? ちょ――」
唐突に、この場から消えようとした彼を仰いだ時、香玖耶は、どこからか声を聞いたような気がした。
アア。
ヒカリガ、マタカゲルノカ――。
それは精霊の嘆きなのだろうか。ただ、その声だけが彼女の耳に残った時、ホーディスはその場から姿を消していた。
どこか薄暗さを増したようなその空間で、六人は、そのまま立ち尽くしていた。
「――それにしても。どこまで報告とやらをすれば良いのかしら」
「これはまた、どうしようと面倒な事に巻き込まれそうだな――」
頭を捻って、何か考えているらしい香玖耶に、シャノンもふむ、と何事か、考えている様子だった。
「――リーシェは、――って、あれ?」
彼女に意見を仰ごうとしたらしいバロアは後ろを振り返って、そしてそこに彼女がいないことに、軽く目を見開いた。
長椅子に座っていた琥礼が、軽く入り口の方に顎をしゃくってみせる。
「私も行かなければ、とか呟いて、たった今、走っていったぞ」
アーチ型の扉が開かれたその空間には、誰かが通った事を示すかのように、僅かに砂埃が立っていた。
その下には、点々と、血の染みが続いている――。
その日を境に、その神殿に、主である筈の二人の姿を見ることは――無くなっていた。
ただその代わり、銀幕市のあちこちで起こる奇妙な事件――主に魔法を使われたらしいものが、少しだけ増えるようになる。
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クリエイターコメント | 大変お待たせ致しました。ノベルをお届けさせて頂きます。 今回は、皆様の岐路、という事で、色々な描写の仕方を考えつつ、皆様の岐路を描かせて頂きました。ちょっとあっさりめに、心理描写中心で描かせて頂いております。 そして何ともハッキリしがたい妙な展開になってしまいました(いつもか;) 色々類推して頂けると幸いです……。また次の事件が起こると思いますので……。 それでは、ご参加ありがとうございました! いつかまた、銀幕市のどこかでお会いできることを願って。 |
公開日時 | 2009-01-05(月) 23:10 |
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