★ 【Sol lucet omnibus】強欲希求譚 ―精緻な脳髄― ★
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
管理番号102-8458 オファー日2009-06-29(月) 02:45
オファーPC 昇太郎(cate7178) ムービースター 男 29歳 修羅
ゲストPC1 ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
<ノベル>

 さわさわさわさわ。
 明るい光に照らし出された大地に広がる、一面の草海が、笑いさんざめくように揺れている。
 風が頬を、鼻先をくすぐっている。
 風は、瑞々しい緑と、どこか朴訥な太陽の匂いがした。
(あァ――……)
 男はとろとろと微睡みながらかすかに笑った。
 傍らに――否、男を包む世界のすべてに、『彼』の気配が満ちている。
 手を伸ばせば届く位置に、『彼』がいるのが判る。
 『彼』が、自分を見て笑っているのが感じ取れる。
 臓腑の奥まで、穏やかな充足で満たされる。
 男は小さく欠伸をした。
 傍らで、『彼』が微笑んだのが判って、自分も笑う。
(でも、何で……こんなに、眠いんだ……?)
 もうずいぶん長い時間、ここで微睡んでいる気がするのに、休息ならばもう充分なはずなのに、目を開けていられないほど眠い。それを訝しく思う暇もなく、意識はゆるゆると蕩け、心地よい至福に拡散していく。
 『彼』の指先が、頬を撫でた。
 ――それだけで、男の、他への疑念も、不安も、不審も、とろりとろりと融けていく。

 心配せんでえぇ

 『彼』の穏やかな声が聞こえる。
 『彼』の声の隅々に、男への友愛が満ちている。

 お前のことは、俺が守ってやるけぇ
 なァんも心配せんと、眠れ――――
 なァ……ミゲル

 『彼』が男の名を呼ぶ。
(――……あァ……そうだな、昇太郎…………)
 男は充足の至福に甘くかすれた呼気を吐き、そして意識を、また、眠りに委ねた。

 * * * * *

「それで、どないした」
「厄介なことになったようだ」
 鉄塊都市(テッカイトシ)から迎えが来た時、昇太郎(しょうたろう)の胸に兆したのはわずかな不吉と、不安だった。
「じゃから、何が、どないしたんじゃ、壱衛(イチエ)」
 最古の廃鬼師(ハイキシ)とともに、復興の続く――そう、最後の日々の、最後の瞬間まで、この都市の人々は、希望とともにここを蘇らせ続けるのだろう――鉄塊都市内部を歩きながら、昇太郎は重ねて問うた。
 昇太郎の肩に留まった金色の『鳥』が、初めてここを訪れたときに比べればずいぶん明るくなった都市を見渡して小さく鳴く。『鳥』のつぶらな目が、都市居住区のあちこちに設けられた『畑』、地上世界にはありえない色の野菜を栽培するそれを映しているのを見て、昇太郎は少し笑った。
 滅びに瀕していた頃、人の住める場所がシャングリ・ラしかなかったころとは違い、都市居住区はずいぶん規模を大きくし、人々の生活は広がっているようだ。
 出産や子どもの成長が地上世界とは違う世界なので、人口も増えているらしい。
 明るい顔の人々と擦れ違うたび、昇太郎の胸を安堵が過ぎる。
「……あぁ、そうじゃな。俺も、この世界の復興が嬉しい」
 しかし昇太郎はそこから意識を切り離すと表情を引き締め、傍らでともに進む壱衛を見遣った。
「壱衛。ミゲルがどないした言うんじゃ」
 女神となったリオネから魔法の終焉が告げられて数日。
 ミケランジェロは、ダークラピスラズリの人々に乞われて、都市の大回廊を飾る巨大な壁画、銀幕市に実体化した鉄塊都市で起きた出来事を精緻に描き出したそれを、小さな――と言っても、縦に三メートル、横に八メートルという、一般的に言えば大サイズだが――キャンバスに写し取り、様々な要素を描き足して残すための仕事に従事していたはずだった。
 鉄塊都市の人々は、この街で救われた自分たちと、自分たちの世界の姿を残したいと、一連の歴史を記録したこの絵を、地上に飾って欲しいと願ったのだという。
 狂い暴走した都市の姿と、おぞましく物哀しい廃鬼たちの姿と、追いやられてゆく人々と、那由多機構の戦いと、地上の人々から差し伸べられた手と、廃鬼師たちの献身と、――そして再生し作り直されてゆく世界とが、順番に、彩り豊かに描き出されたそれには、昇太郎にも覚えがある。
 再生した都市を――滅びかけていた地下世界の再興を、ひび割れた己が故郷と重ね合わせ、我がことのように喜んだ彼は、たびたびこの地下世界を訪れていたから、馴染みと言ってもいい。
 だから、その絵が、魔法の終焉後も残るのなら、それはとても素晴らしいことなのだろうと思い、ミケランジェロを応援していたくらいだ。
 ――それが、
「タマの姿が見えなくなった……恐らくは、都市の深部に取り込まれた」
 まさか、こんなことになろうとは。
「取り込まれた、っちゅうのは……どういうことじゃ」
「私たちにも、判らん」
「何じゃて?」
「外部からの力が絡んだらしい……タマの手伝いをしていた者の話によると、彼が姿を消す数時間前、藍色の妙な被り物をした男が、タマと話をしていたというが、不思議なことに都市機能のどこにも、その男の記録が残っていない」
「ミゲルは、その男とどんな話をしとったんじゃ」
「残念ながら、手伝いをしていた者の記憶も曖昧でな。記憶、夢、覗く、内側から引き出す……そういった断片的な言葉だけを覚えていた。タマは喧嘩腰だったようだが、その男は楽しそうに笑っていたそうだ。笑って、姿を消したと。そのあと、タマも消えた。目を離した、ほんのわずかな隙に消えていたそうだ。だが……それもまた、都市機能の記録には残っていない」
「そうか……そいつは別の世界から来たムービースター、っちゅうことか。それで、ミゲルの行方に心当たりはあるんか? 俺をここに呼んだんは、ミゲルがまだこん中におるて判っとるからなんじゃろう」
「お前が聡くて助かる、清い修羅よ。――……臨界記憶野(リンカイキオクヤ)の様子がおかしい」
「おかしい?」
「酷く膨張しながら、そのくせ内へ内へと向かっている。現段階では、我々数字持ちの廃鬼師ですら、あそこに入ることが出来ない……外部からのスキャンでは、中に大きな神的エネルギー存在の反応があることと、強大なエネルギーの螺旋が観測された」
「……それは、つまり」
「タマはそこにいる。だが……何かに囚われて、そこから出ることも出来ずにいる。脳波が一定に凪いでいるから、眠っている、もしくは眠らされている可能性もあるな。エネルギー螺旋の拒否反応で、他の誰も入れず、従ってタマを助け出すことも出来ない」
「アンタらぁだけじゃァどうにもならん、いうことか」
「そうだ。恐らくは、核となったタマとの親和性の問題だろう。だから、お前を呼んだ」
「なるほど、話は判った」
 昇太郎は頷き、足早に、灰色と鉄塊と石塊で出来ていながら、弾むように活き活きとした世界を下っていく。
 あちこちで変わらずに放電している姿が見られる電骸(デンガイ)すら、どこか誇らしげに光を放っているようだ。
「臨界記憶野言うのんへは、どうやって行くんじゃ。確か、界果墓標群(カイハテボヒョウグン)とは違って、地上人でも自由には入れんのじゃったな」
「ああ。本来、あそこに入れるのは、特別なコードを持った技術者と、我々数字持ちの廃鬼師だけだ。特殊な空間なのでな、それ以外は弾かれてしまう。もっとも、都市そのものが感謝を捧げるお前たち地上人ならば、心の底から強く望めば可能なのかもしれないが、少なくとも、今は無理だろう」
「……せやったら、どないするんじゃ」
「お前は親和性が高いと言っただろう。あそこは今、恐らくお前を『呼んで』いる。だから……タマが作業をしていた大回廊へ辿り着けば、何をするまでもなく引き寄せられるのではないかと思っている」
「そうか……」
 推測のように口にしつつ、その実確信めいた壱衛の言葉に頷き、昇太郎は歩みを速めた。
 無論、ミケランジェロが心配だったからだ。
 昇太郎にとってミケランジェロは無二の存在だ。
 心配性のミケランジェロの、口うるさい小言や説教、世話焼きに呆れ、辟易したこともあったが、様々な事件や戦い、穏やかな日々を経て、強い絆で結ばれている現在、彼が自分の幸いを願ってくれているのと同じくらい、昇太郎も彼の幸いを願っている。
「しかし……」
 足早に階層を下りながら、昇太郎はぽつりと呟いた。
 肩の上の『鳥』が、彼の心を察してか、小さく鳴いた。
「……前にも、なんや、こないなことがあったような気がするんじゃけどな……?」
 眠りの中に囚われて目覚めぬ友。
 眠ったままで、大切なものを呼んでいる友。
 内へ内へと閉じる世界。
 内へ内へと閉じながら、眠った友を守るように抱え込んでいる世界。
 昇太郎の中に、それはごくごく曖昧な、記憶ですらない漠然とした感覚としてしか残っていないが、そう遠くない昔に、今のこれと似たような状況があった……ような気がする。
「いや……今はえぇ」
 細かいことはどうでもいいのだ。
 ただ、ミケランジェロを助けねばならない、と思うだけで。
「行こう、壱衛」
 前を真っ直ぐに見つめ、昇太郎は言う。
 そして、頷く廃鬼師とともに、時折光の奔る階層を下っていく。

 * * * * *

 ――引きずり込まれた。
 そう称するのが相応しい反応だった。
「うう、乱暴しよってからに、ミゲルのアホウめ……」
 大回廊に踏み込んだ途端、全身を絡め取られてぶん投げられ、もみくちゃにされて三十回ほど上下に回転させられ、そのまま勢いよく落とされた。熱烈な歓迎にもほどがある。
 受身を取る暇もなく放り出された先で全身を満遍なく打ち――基本、戦闘以外では不器用なところが禍(わざわい)したようだ――、呻きながら腰を擦っていると、
「まったくだ。どうやらタマは相当私のことが嫌いらしい……哀しい気持ちになるな」
 本当にそう思っているのか釈然としない、淡々とした壱衛の声がして、アンタも入れたんか、と傍らを見上げた昇太郎は、思わず言葉を失った。
「……壱衛、大丈夫なんか、それは」
 何故なら、漆黒のスキンスーツに身を包んだ廃鬼師が、左の腹部から左胸部にかけてと頭頂部の三分の一をごっそりと抉り取られ、さらには右腕を引き千切られた、壮絶極まりない姿になっていたからだ。
「肉体の損傷は我々廃鬼師にとってさほどのダメージにはならない。特に、ここが地下都市である限り」
 本人が言うとおり、それはすぐに再生し、傷口もあっという間に塞がってしまったが、昇太郎には、ミケランジェロが核となって囚われているというこの世界が、友人をこうまで傷つけたという事実に愕然としていた。
 昇太郎のその胸の内を察したのだろう、
「気に病まなくていいぞ、修羅。これは自然な反応だ。自分の内面世界に、求めるもの以外を組み込みたくないという、自然な排除行動というだけのこと」
「じゃけど、」
「……タマが目覚めたら思う存分仕返しさせてもらうから問題ない」
 不可抗力に近い立場にいるミケランジェロが聞いたら目を剥くようなことを壱衛が言い、昇太郎はそうか、と生真面目に頷いた。
「問題ないんならええんじゃ」
 もしもこの場に本人がいたら、いいのかよ!? などと突っ込んだだろうが、残念ながら、昇太郎の親友が転じた存在である『鳥』を含め、ここには傍迷惑なほどに生粋のボケしかいないので、誰も今のやり取りを不思議には思っていない次第である。
「しかし……ここが、臨界記憶野、なんか……?」
 美しい世界だった。
 鮮やかな色彩が洪水のようにあふれる、ひどく満たされた気分になる世界だった。
 見つめていると自然と涙がこぼれそうになるほど青い、どこまでも澄み渡ったカシミール・サファイアのような空。
 その真ん中であかあかと燃える太陽は、ファイアオパールのように不思議な遊色をたゆたわせながら、決して目を射ることのない、それなのに地上すべてをあまねく温める、不思議な光を降り注いでいる。
 絹糸のように滑らかな光沢を放つ純白の雲。還り遅れたのか、空のあちこちに瞬き輝く星は、メテオライトを思わせる硬質の鉄色をしている。
 大地は琥珀、大地を覆う草海は濃緑なるエメラルドと若草のごときペリドット、そしてやわらかなるクリソプレーズ。
 あちこちにそびえ立つ大樹は、金の幹と銀の枝を持ち、ラブラドライトの葉とレッドスピネルの花を咲かせながら、シトリンとガーネットの色をした瑞々しい果実をたわわに実らせている。
 風はアクアマリン、陽光はプレシャスオパール、草花に輝く水滴はブルートパーズ、もしくは永遠のようなダイヤモンド。
 どれもが、奇跡を思わせる、瑞々しく輝く色彩で満ちていた。
「いや……そうだな、間違ってはいないが、正しくは、これはタマの内面世界だ。臨界記憶野に彼の精神状態が反映された世界と言ってもいい。臨界記憶野は、喪われた人間のアストラル体に干渉し、その者の記憶を引き出して展開し、一定の整理を行ってから収納する機関だ。本来は死者にしか効果のない『場』だが……恐らく、タマと話をしていたという男の力が絡んで、暴走めいた流れを引き起こしたのだろうな。だからここには、タマの記憶と心が反映されている」
「ミゲルの? なるほど……つまり、アイツは、えらいロマンティシストっちゅうことか。ずいぶんきらきらしとるんじゃな、アイツの中っちゅうのは」
「そこでその感心の仕方と言うのも面白いが、タマがそれだけ佳い記憶を積み上げてきたということだろう。とはいえ、あの男は確かにロマンティシストではあると思うぞ。いや、ロマンなどというやわらかなものではないのかもしれないな、友人への愛に身を捧げられる男なのだから」
「なるほど、そういうもんか」
「そうとも、だから修羅、お前は幸運な男なのだと思う」
 やわらかな草を掻き分け、琥珀の大地を真っ直ぐに進みながら壱衛が言う。
「この世界の美しさは、タマが、お前を愛しているという証明でもあるのだから
 直截な物言いに、昇太郎ははにかんだような笑みを浮かべてそうか、とだけ返した。

(――……)

 不意に、名前を呼ばれたような気がして立ち止まり、振り返る。
 だが、そこには、誰もいない。
 ただ、鮮やかな世界が、息づいているだけだ。
「どうした、修羅」
「いや、なんか……ミゲルに呼ばれたような気が、したんじゃが……」

(――……昇太郎)

「!」
 声が響いた。
 昇太郎が再度立ち止まると同時に、昇太郎を包み込む世界が輝きを増す。

(昇太郎)

 出会った日の記憶は赤。
 はじめのころの思い出には、鉛のような灰色が時折差し込む。
 街の色、森の色、海の色、空の色、火の色と血の色。
 武骨な、不器用な気遣いは透き通った淡い青。
 背中を叩いて笑い転げた記憶は、鮮やかな黄色とオレンジ。
 兄と慕う男の住まいに、嫌がる親友を引っ張っていった時の記憶には、目の奥にきらめきが残る緑と、美味な夕飯の匂いがこびりついている。
 背中合わせで剣を揮ったときの記憶は、ほのかなぬくもりと鋭い銀。
 ――そして、胸を満たす充足の熱。

(昇太郎……)

 呟きのひとつひとつに、穏やかな友愛がにじむ。
「ミゲル、どこにいるんじゃ!」
 空に向かい、呼ばわったが、応えはない。

(お前を、守ってやりてェ)

 ただ、朴訥なまでに真っ直ぐな言葉が、ぽつり、とこぼされただけだ。

「ミゲル、」

(お前が幸せであるように。お前が傷つかずに生きられるように。お前の笑顔が、ずっと曇らずに済むように)

 守ってやりたい、と、親友の声が言葉を紡ぐ。
 求めるものの訪れに気づき、歓喜の色彩を輝かせたミケランジェロの内面世界が、やわらかく芳しく、昇太郎を包み込む。
 気づけば、四肢を、身体を、ありとあらゆる色をした闇が捕らえ、昇太郎を世界の中に取り込もうとしていた。
「――……あァ……」
 狂おしいほどの愛情で満たされた、あたたかく居心地のよい空間。
 それに包まれていると、すべての思い、すべての感情、すべての愛が、自分に向けられていることが判る。
 このままここで、この心地よい闇にたゆたっていたい。
 胎児のようにすべてを預け、微睡んでいたい。
 そんな願いに、取り込まれそうになる。
 ――しかし、彼の肩で、不意に『鳥』が鳴き、
「やれやれ……修羅には甘い男だと思っていたが」
 聞き慣れた廃鬼師の声がして、闇が斬り払われる。
「……ッ」
 バランスを崩して倒れ込みそうになった昇太郎を、壱衛が支えた。
「本来ならば、これもタマの仕事ではないのか……まったく」
 斬り払われ、昇太郎を奪われた闇が、憤怒の声を上げ、壱衛の右腕に食いつき、引き千切る。
 びきびきびきっ、という生々しい音がして、金属片とコードが飛び散った。
「! 壱衛!」
 肩の上で『鳥』が鳴く。
 それで昇太郎は完全に覚醒し、驚くほどの怪力で壱衛を担ぐと、その場から跳んで退避した。
 極彩色の闇は、昇太郎を求めて咆哮を上げ続けている。
 ――じきに闇は、ぼこぼこ、ごぼごぼと音を立てはじめ、我が身から、数多の魔物を生み出し始めた。
 群れとなって現れた魔物たちも、目くるめく色彩の洪水によってかたちづくられていた。それらは、鋭い牙や爪や鱗、硬質的な翼や角を持つ、恐ろしい魔物の姿を取っていながら、先ほど昇太郎の胸を打った景色そのままの色を、その身に映し出しているのだった。
「この攻撃性……タマの記憶と願望に、何者かの力が絡んだ所為か……」
「どういうことじゃ」
「放っておけば、この世界は……この闇は、タマを核に取り込んだまま、狂おしい願望の赴くままに膨れ上がり、やがては破裂して、鉄塊都市や銀幕市にまであふれ出すということだ。それはもはや、修羅、お前を手に入れ飲み込めば満足すると言う問題ではない」
「……!」
 瞠目する昇太郎に向かい、『鳥』が、進め、と鳴いた。
 あのやさしい、心地よい闇に飲まれていれば、二度と苦痛などは味わわずに済むだろうが、
(あの時と、同じで)
 進まなければ彼を助けることも出来ないと、『鳥』の声が、語っている。
「判っとる……」
 『鳥』の言葉に頷くと、もとは親友であったそれは、ふわりと宙に舞い上がった。
 剣を構え、『鳥』を追って走り出した昇太郎の横に、壱衛が並ぶ。
 腕はすでに、綺麗に再生している。
「まったく、手のかかるタマだ」
「ホンマじゃのう。こりゃあ、アイツが目覚めたら、一杯奢らせにゃあならんじゃろうな」
 ミケランジェロ本人が聞いていたら、お前が言うのかよと遠い目をしそうなことを言い、昇太郎は、牙を剥いて襲いかかる魔物の一体を斬り払った。
「……手伝ってくれるか、壱衛」
「無論だ」
 端的な言葉とともに、壱衛が漆黒の腕から楔形をした飛翔片を生み出し、魔物の群れへと差し向ける。
「……物質は、鉄塊都市のもの、か。やりやすくていい」
 そんな呟きを脳裏に聞きながら、昇太郎は走り出した。
「ミゲル、どこじゃ、返事せぇ!」
 そして、『鳥』の金の羽ばたきを見上げ、心が命じるまま――直感の囁くままに、ミケランジェロの世界を進んでいく。

 * * * * *

 さわさわさわさわ。
 ざわざわざわざわ。
 ――風が強くなった。
「う……」
 風の音が意識を揺さぶって、ミケランジェロは呻き、目を開ける。
「俺は、何を……なんで、」
 頭が痛い。
 頭の上に、ずっしりと何かが乗っているような感覚がある。
 ざわざわ。
 風の音に妙に驚かされ、顔を上げると、一面の草海は、極彩色の闇に変わっていた。
「ここは」
 どこで、なんだった、と呟くより早く、眩暈が襲う。
「くそ」
 思考がまとまらない。
 ぞろり、と、またあの、甘くやわらかい眠気が這い上がってくる。
「駄目だ……目覚めねェと」
 何かがおかしい。
 自分は、何かを忘れている。
 焦燥がミケランジェロに告げる。
 だが……一体、何を?
「俺は、何故、何が……」
 弱々しく頭を振り、ぶよぶよと温かい地面を這いずって、何かを掴もうと手を伸ばしたとき、
『どないした、ミゲル』
 声がして、手が差し伸べられた。
「あ、……?」
 見上げれば、目の前に、蘇芳色の着物をまとった青年がしゃがみ込み、左右色違いの目で彼を見つめながら、ミケランジェロに手を差し出している。
『俺はここにおる……いつでも、お前の傍に。他に、何ぞ必要なんか?』
 いつものように、穏やかに微笑む青年の姿を目にして、ミケランジェロは無性にホッとした。
「いや……」
 苦笑し、首を横に振る。
 自分が今おかれている、異常な状況に思いが至らなくなり、それと同時に、また、甘い蠱惑的な眠気が、ミケランジェロを取り囲んだ。
『眠りゃァええ、ミゲル。俺がお前を守ってやるけぇ』
 ミケランジェロの頬を、肩を、あやすように青年が撫でる。
 目の前がふっと暗くなり、心地よい熱が――それが先ほどの、極彩色の闇だということには気づかなかった――ミケランジェロを包み込む。
(あァ……眠い……)
 彼が隣にいる。
 自分を守ってくれる。
 だったら、それでいいじゃないか、と、意識のどこかが呟く。
(そうだな、その通りだ……)
 ミケランジェロが、その意識に――眠りに、また身を委ねそうになった、そのときだった。

(「どこじゃ、ミゲル! 返事せんか、このアホウが!」)

 どこか遠くで、昇太郎が自分を呼ぶ声が聞こえた。
「……!」
 声はかすかだったが、ミケランジェロの意識を打ち据えるには充分だった。
『ありゃァまやかしじゃ……気にせず眠れ、ミゲル』
 親友の姿をしたなにものかが穏やかな声で言い、ミケランジェロの瞼を抑えて眠らせようとする。
「ふざけんな!」
 ミケランジェロは叫び、腕を振り払った。
 軋んだ音を立てて闇が退く。
 ――視界が晴れた。
 目の前に佇む『昇太郎』の姿が、ぐにゃりと歪む。
『ここにいりゃァ……幸せなまんまでいられる。何も苦しまんと、幸せなまんまで』
「そんなんじゃ、意味ねェんだ!」
 そろそろと這い寄ってくる闇を打ち据えるような声で、ミケランジェロは叫んだ。
「幻想の中に引きこもって、甘ったるい幸せン中にたゆたうくらいなら、血塗れでもいい、痛みにのた打ち回ったっていい、現実のアイツが選ぶ道を見届けてェんだ……アイツの隣で、あの無防備な背中を護っていてェんだよ……!」
 そうだ。
 ミケランジェロの生きる意味、意義、喜び。
 今や、そのすべてが、あの修羅とともにある。
 あの無垢で無防備な青年の、愚直に過ぎる生き様の傍らに。
 それなのに、何故、こんな場所に自分は囚われているのだろうか。
『そうか……なら、しゃあない』
 昇太郎の姿をしたなにものかが、ぞろり、と笑んだ。
『無理やり、力尽くで押し込めて、眠らせてやるけぇ』
 同時に、どろどろとわだかまった極彩色の闇が、ミケランジェロを取り囲む。

「ミゲル、どこじゃ! 迎えに行ってやるけぇ、さっさと返事せぇ!」

 また、昇太郎の声が聞こえた。
 ミケランジェロは大きく息を吸い込んだ。
「――ここだ、昇太郎! 俺はここにいる!」
 彼の姿を思い描きながら、全身全霊で、叫ぶ。
 ぐにゃりとうねった闇に押し包まれ、もみくちゃにされながら、ミケランジェロは手を伸ばした。
 何かの確信があったわけではなかったが、信じてもいた。
 それだけのことだった。

 * * * * *

「――ここだ、昇太郎! 俺はここにいる!」
 ミケランジェロの声がはっきりと聞こえて、昇太郎は眦を厳しくした。
 四方八方から襲いかかる闇を、手にした剣で打ち据え、斬り払う。
「ミゲル!」
 だが、それでも闇は、圧倒的な質量で持って昇太郎を取り囲み、我が身の中に押し込もうとする。まるで、昇太郎という最後の要素を得て、ミケランジェロという世界を完成させようとでも言うように。
「くそ、きりがねぇの……!」
 触手めいた動きをする闇を斬り落とし、上がりかけた呼吸を整えながらこぼすと、
「……任せろ」
 壱衛が両手を打ち合わせ、打ち合わせた手を地面に振り下ろした。
 途端、壱衛の周囲に無数の漆黒の楔が浮かび上がり、組み合わされて、トンネル状の空間を創り出す。トンネル内部には、闇は入って来られずにいるようだ。
 『鳥』が、あっちだ、と、鳴いた。
 トンネルの奥に、ミケランジェロがいる、と。
「すまん……頼む……!」
 闇に侵蝕されながらトンネルを維持する壱衛に短く詫び、昇太郎は走り出した。
「ミゲル、待っとれ……今行くけぇ!」
 みしみしと軋むトンネル内部を、飛ぶように走っていく。

 ――まだ、欲しいのか

 その耳に届いた声は、一体誰のものだったのだろうか。

 ――その身に神を飼いながら、まだ欲しがるのか

 声は嘲っているようでもあったし、不思議がっているようでもあった。
 理解出来ないと首をかしげているようでもあった。

 ――貪欲に過ぎはしないか、修羅よ

 どこか朴訥な問い。
 昇太郎は晴れやかに、朗らかに笑い、胸を張った。
「神じゃろうが魔じゃろうが関係ありゃアせん」
 トンネルの向こう側に小さな光が見えた……そんな気がした。
 あそこにいる。
 意味もなく確信する。
「ネヴァイアもミゲルもいとしい。そんだけじゃ。どっちも大事じゃけぇ、手放しとぅない。じゃから手を伸ばすんじゃ……そんだけのことなんじゃ」
 それは、何度繰り返し問われても変わることのない答えだ。
 たくさんの過ちと苦痛、苦悩を超えて手に入れた答えだからこそ、昇太郎は迷わない。
「知らんかったんか? 俺は、欲張りなんじゃ」
 そして昇太郎は、

「昇太郎、こっちだ!」

 トンネルの途切れる先、ミケランジェロの声が響くそこに向かい、手を伸ばす。
 ――闇の中に手を突っ込む。
 ぶわり、と、色彩が氾濫した。
 世界を、季節を、事物を、感情を、それらすべてを表現するかのごとき多種多様な色彩が、網膜を突き抜けていく、その中で伸ばした手を、大きな手が掴んだ。
「ミゲル!」
「……昇太郎!」
 ぐらり。
 闇が傾いだ。
 ミケランジェロひとりの精神から成り立っていた世界は、核であるミケランジェロと、昇太郎という要素が出会ったことで均衡を失い、一気に崩壊する。
 めくるめく色彩の洪水が、ふたりを飲み込み、薙ぎ倒す。
「――……!!」
 呼吸を忘れたまま、ミケランジェロの手を硬く握り、押し流されてゆく昇太郎の耳を、

 ――ならば、貪欲に求め続けるがいい、穢れた聖者、無垢なる修羅よ
 ――それが、お前の結露だと言うのなら

 誰のものとも知れぬ声が、打った。
 当然じゃ、と、胸を張って応えるよりも早く、昇太郎の意識は、静寂の中に飲み込まれる。

 * * * * *

 目を開けると、昇太郎が寄り添うようにして眠っていた。
「……おや、おはよう、タマ」
 千切れた左腕を、コードの垂れ下がる傷口に押し当てながら壱衛が言い、
「タマじゃねぇ!」
 健やかな寝息を立てている昇太郎を起こさないよう注意しながら身体を起こし、ミケランジェロはお約束めいた――しかし言っても効果はないだろうな、という諦観のある――抗議を口にする。
 その後、
「その腕……もしかして」
 自分を助け出すために昇太郎を手伝った所為なのか、と視線だけで問えば、
「何、タマが後日ダークラピスラズリの人々に一杯ずつ奢ってくれるとのことだ、礼としては充分だろう」
「俺がかよ!?」
 (本人は与り知らぬことだが)えらく規模を増した『謝礼』を口にしながら、壱衛が何でもないと首を横に振る。
 決定事項の匂いがする『礼』に、碌でもねェとぶつぶつこぼしていたミケランジェロは、
「……それに」
 小さく言った壱衛が、ほんのわずか微笑んでいたので、何度か瞬きをして天敵その三を見上げた。端正ではあるが淡々としたこの廃鬼師の笑顔を見たのは初めてのことだったのだ。
「なンだよ」
「……修羅の、可愛い寝顔も見られたことだしな」
「あー」
 ミケランジェロはがしがしと頭を掻き回した。
「その……まぁ、なんだ。面倒かけて悪かったな」
 すべてを覚えているわけではないが、ほとんどは把握している。
 昇太郎を以前夢に引きずり込んだ、あのふざけたウサギに、自分もまた夢に引きずり込まれた――と思ったら、その夢の力と臨界記憶野とが絡み、ミケランジェロの精神世界が膨張して、大事になったのだ。
 それらは決してミケランジェロの責任ではないが、彼の救出に際して力を貸してくれたのは確かなようだし、面倒をかけたことに違いはない。
 それゆえの詫びだったが、壱衛はかすかに首を横に振った。
「お前の修羅は、私たちの世界の恩人だ。その修羅が望むのならば、いくらでも」
「……おう」
 まだ眠ったままの――何やらいい夢を見ているのか、唇には無邪気な笑みが浮かんでいる――昇太郎を見下ろしながら、ミケランジェロが言葉少なに返すと、壱衛はそれと、と言って、手首の切れ目のような部分から何かを取り出した。
「ん?」
 見てみれば、地上世界の人々が使っている携帯電話だ。
 親しくしている地上人たちに持たせてもらったのだろうか、体内に通信機器を持っている廃鬼師が酔狂なことだ、と思っていると、
「タマの寝顔もちゃんと撮って、周囲に配っておいたぞ」
 どことなく自慢げに、慣れた手つきで画面を操作し、昇太郎と寄り添って眠るミケランジェロの写真を見せてくれる。
「お前な、腕を治してからにしろよ、そんなことは……んん!?」
 親友とともに眠る自分は、昇太郎のことを言えないような、自分自身でも驚くほど安心しきった無防備な寝顔で、ミケランジェロはちょっと気恥ずかしくなったのだが、それはまぁいいとして、……何故か、画面の中のミケランジェロの額には、『タマ』と、黒々とした大きな文字で書いてある。
「ちょ、おま!?」
 思わず額を押さえるミケランジェロ。
 恐る恐る手を見てみたら、黒い塗料がべったりとついて、ミケランジェロは軽く絶望した。猫のような髭を描かれなかっただけましだ、と無理やり思おうとしたが、残念ながら常識人でツッコミ気質のミケランジェロでは、自分に暗示をかけ切れない。
「写真を配ったって、誰にだ! 吐け、とりあえず吐け!」
「ん? 何、それほどたくさん配ったわけではないから、心配しなくてもいい。いつも世話になっている対策課の職員たちと、鉄塊都市再生に関わってくれた地上人すべて、それから彼らと行ったカフェ……『楽園』と言ったか、あそこの人々と、あとは地下都市民の希望者全員に」
「充分過ぎるほど多いっつーの!? なんなんだ、俺に何か恨みでもあんのかよ!?」
 額にタマと書かれたミケランジェロの、普段見せないような無防備過ぎる寝顔。
 多分、受け取った人たちの中には――例えばあのカフェの店員とか――、受け取っただけでは飽き足りず、別の誰かに転送したものもいるだろう。そしてその別の誰かが面白がって、また別の誰かに……という無限ループを想像すると、それ何て公開処刑、と前のめりに打ちひしがれそうになる。
「……タマの精神世界に降りた途端、肉体の実に二十%を抉られた。タマがそんなに私のことを嫌いだったとは、残念だ。――という切ない思いを込めてみた」
 ちっとも残念にも切なくも思っていなさそうな声で碌でもないことを壱衛が言い、携帯電話を仕舞い込んだ。
「だ……」
 うーん、と何ごとかを呟き、昇太郎が寝返りを打ち、そろそろ目覚めそうなのだろう、目がうっすらと開く。
 幼い仕草で、昇太郎がごしごしと目元を擦る。
 その傍らで、ミケランジェロはぶるぶる震えていた。
「だ、どうした、タマ」
 ――主に、怒りで。
「だから俺は、テメェが大ッ嫌いなんだアアァ――――ッッ!!」
 憤りのままぶちまけられた叫びに目を覚ました昇太郎が、命の恩人に大嫌いとは何ごとじゃ、と、ちょっと泣きそうになっているミケランジェロに小言を食らわせるのは、そこから三十秒後のことである。

クリエイターコメントオファー、どうもありがとうございました!
銀幕市での思い出を描くプラノベ群【Sol lucet omnibus】をお届けいたします。

分かち難い絆で結ばれたおふたりの友情、お互いを大切に思う強い友愛を軸に、すべてが昇太郎さんに向かうミケランジェロさんと、彼の内面世界を愛しく旅する昇太郎さん(+α)のお話を書かせていただきましたが、いかがでしたでしょうか。

もう今更ごてごてと書きたてる必要もないかと思い、お互いが向ける感情に関してはさらっと書かせていただきましたが、行動の節々に、それぞれがそれぞれを思う何かが満ちていれば幸いです。

ちなみに、シリアスな内容のはずなのにどうしてもコメディ色が混じるのは、記録者がミケランジェロさんの不幸体質を愛しているからです(迷惑な、という叫びは黙殺します)。

ともあれ、お二方の最後の日々に、このノベルが彩りを添えられているよう、祈ります。


それでは、オファー、どうもありがとうございました。
またいつか、きっと、どこかで。
公開日時2009-07-29(水) 18:30
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