★ アゥル=カマゥ 〜銀幕大捜査線〜 ★
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
管理番号100-6955 オファー日2009-03-09(月) 23:02
オファーPC 流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
ゲストPC1 桑島 平(ceea6332) エキストラ 男 46歳 刑事
ゲストPC2 赤城 竜(ceuv3870) ムービーファン 男 50歳 スーツアクター
ゲストPC3 二階堂 美樹(cuhw6225) ムービーファン 女 24歳 科学捜査官
ゲストPC4 レオンハルト・ローゼンベルガー(cetw7859) ムービースター 男 36歳 DP警官
ゲストPC5 レイ(cwpv4345) ムービースター 男 28歳 賞金稼ぎ
ゲストPC6 朝霞 須美(cnaf4048) ムービーファン 女 17歳 学生
ゲストPC7 ランドルフ・トラウト(cnyy5505) ムービースター 男 33歳 食人鬼
<ノベル>

 言の葉を駆る六の舌 時限の色彩を見抜く十二の瞳
 深淵を這い登り 深淵へ還る
 彼の者は〈深淵の色彩〉なり 十二の瞳を用いて色彩を見抜く
 永劫の眠りの中 深き叡智の夢をみる者
 彼の者は〈深淵の識才〉なり 六の舌を用いて真実を語る
 時限の色彩を与うことなかれ
 彼の者は深淵に棲まい 深淵に眠る



『わたしをだして  しがつここのか ごぜんいちじ66ふん』


 謎めいた手紙が、ある日――正確に言えば4月5日のこと――銀幕署に届いた。さらに正確に言えば、銀幕署だけに届いたわけではなかった。それは、銀幕市のほうぼうに届いていたのだ。たとえば、賞金稼ぎのレイのもとにも届いていたし、赤城竜のもとにも、朝霞須美の同級生のもとにも届いていた。ランドルフ・トラウトは、いつも日雇いの仕事をまわしてもらっている事務所に届いていたのを、「これ、へんな手紙だろう」と見せてもらった。
 わたしをだして。
 銀幕署の刑事課の刑事2名が、手紙に興味を持った。悪戯かもしれないが、誰かが本当に誘拐されて助けを求めてきているかもしれないのだ。

 その手紙に触れた誰もが、まさか銀幕署にも届いているものだとは思わなかった。単なる妙な、しかし不思議と興味を引かれる手紙にすぎなかった。銀幕市では、ちょっと気になる妙な出来事というのは、矛盾しているようだが――実にありふれたことだった。
 現に、レイはすぐにダイレクトメールやパチンコ店のチラシといっしょにゴミ箱に捨ててしまったし、赤城は「なんじゃこりゃ」の一言でやはりゴミ箱に放りこんでしまった。ふたりはそれから、いつもの、何の変哲もない午後を満喫した。
 須美は同級生がそんな手紙を受け取ったという話を聞いて、「ふうん、へんな手紙ね」ですませてしまい、ランドルフも「へんな手紙ですねえ」ですませてしまった。
 彼らは本当に、何も知らなかっただけなのだ。知らないことは罪ではない。
 それどころか、知らないほうがいいことも、世の中には、存在している。



■4月6日 午前8時30分  銀幕署


「マズイことになったぞ」
 朝一番に聞いた桑島平の台詞はそれだった。
 流鏑馬明日にとっての先輩兼相棒になるこの刑事にとっては、今の銀幕市で起こる事件のほとんどすべてが「マズイこと」だ。だから、こんな開口一番の台詞も、いつもの日常の幕開けにすぎない。明日はいつもどおり冷静に判断しようとしたが、やめておいた。
 桑島の顔は朝っぱらからひどく青褪めて、目も充血していた。二日酔いかとまで思わせる顔色だが、息は酒気を帯びていない。
「何か事件ですか?」
「おまえは聞いてなかったか。菅山と西原が、昨日……いや、今日か……4時ごろだからな。死んだんだよ。殺された……」
「そんな」
 確かに、朝っぱらから青褪めてもおかしくない報せだ。銀幕署の刑事課に勤める者であれば、「青褪めなければならない」と言うべきでもあった。何しろ、菅山と西原というのは、刑事課に所属する刑事なのだから。明日と桑島が、毎日のように顔を合わせていた同僚だった。
 どちらも30代で、警察の仕事にも死体にも銀幕市の現状にもすっかり慣れていたはずだ。ムービースターではないし、明日のようにバッキーも持っていない。市役所では、桑島同様エキストラと分類されている銀幕市民だ。彼らは銀幕市に魔法がかかる前から、そして明日が警察を志した頃から、銀幕署に属して、このまちの秩序を守っていた。
「そんな……」
 冷静な明日も、しばし言葉を失った。桑島はいつもの癖でぼりぼり頭を掻いているが、いつもよりもその手つきが乱暴だ。
「現場は?」
「ダウンタウンの工場だ。いや、廃工場だな。もう現場検証はだいたい終わってる。ホレ、DPの連中が手伝ってくれたから、早く済んだそうだ」
「なら、状況を聞いてからでもよさそうですね」
「おいおい、まだ俺たちが担当って決まったわけじゃ――まあいいか。どうせ署を挙げて捜査することになるんだ……」
 桑島のボヤキの後半は、ただの独り言になっていた。明日はさっさとデスクを離れ、通称『DP部屋』に向かっていったから。
 いつも数人のDP警官が詰めているその部屋は、かつてはただの小会議室だった。映画『ディヴィジョン・サイキック』のDP警官が立て続けに実体化してから、そこは『DP部屋』なのだ。彼らは彼らのオフィスを持っているのだが、銀幕署と連携することも多くなっていて、いつの間にか署内に彼らの「出張所」ができてしまったわけだ。
 町に魔法がかかるまで、「超能力捜査」など、テレビの特番の中にしか存在しないものだった。しかし今の銀幕市では、立派な操作方法のひとつだ。「もう全部やつらに任しちまおうぜ」と言っている刑事も、いるとかいないとか言われている。一部のDP警官からは、そんな兆候を嘆く声も上がっていた。
 少なくとも、人間が起こした事件くらいは人間でカタをつけろ、と。その言い分はもっともだ。明日にもわかる。
 ただ、明日は少なくとも、桑島がボヤいているのを聞いたことがあった。「もう全部やつらに任せちまったらいいんじゃねえか」。それが本心からの言葉ではないと、わかっているつもりだ。なぜなら桑島は警察をやめていないし、自分なりの仕事のスタイルを変えようともしていないからだ。明日もまた、ムービースターや対策課に丸投げすることは、考えたこともなかった。
 彼らは、強力な味方である。この町には、警察が必要だ。


 DP部屋には、常に何人かが詰めている――はずだったが、明日と桑島が訪れたときには、中にはレオンハルト・ローゼンベルガーしかいなかった。いや、もうひとりいたのだが、彼女はDP警官ではなかった。科捜研の二階堂美樹だ。
「あっ、おはようございます、明日さんに桑島さん!」
「おはようございます。もしかして、二階堂さんも――」
「ごめんなさい、私、もう一回現場に行かなくちゃ。それじゃ!」
 挨拶もそこそこ、とはこのことだった。美樹はトレードマークの白衣をひらめかせて、大急ぎで会議室を飛び出していった。
「いいな……若いってのは。朝っぱらからあんなに元気で……」
 桑島には、挨拶を返す余裕すらなかった。
「今朝は慌しいな。留守番のほうが忙しいとはどういうことだ」
 レオンハルトは仏頂面で――いや、若干不機嫌そうだろうか――座っていた。彼の前の長テーブルには、大量の写真といくつかの遺留品が並べられている。
「おはようございます、レオンさん」
「今朝の事件のことだろう」
「はい」
「仲間を失ったことには深く同情する。だが、たったひとつの事件に署ひとつが総出というのはいかがなものかな。このまちでは、一日につきひとつずつ事件が起きるというわけでもあるまい」
 レオンハルトは表情を変えずに、軽い苦言を呈した。彼は自分を――引いてはDP、ムービースターそのものを――いたずらに頼る警察には、いつもいい顔をしていなかった。能力を出し惜しみしているわけではない。彼の心情や信条によるものだ。少なくとも、人間が起こした事件くらいは人間でカタをつけろ。そう主張しているムービースターのひとりである。
 だが、そんな彼も、明日と桑島の顔を見つめるうち、やがてため息をついた。
「知りたければ、これらを見るといい。説明もできる」
「ありがとうございます」
 明日は礼を言い、現場の写真を手に取った。
 映画の中でしか観たことがないような死に様だった。この写真がサスペンスやサイコホラーの小道具であると言われたら、万人が納得するだろう。それくらい現実離れした現場写真だ。悲しいことに、そんな非現実的で、いかにも映画然とした悲惨な出来事も、ここ銀幕市ではよく起こる。
 ふたりの刑事は裸で背中合わせに縛りあげられ、倉庫の天井から吊るされていた。奇妙なのは、まるで千手観音のように、合計4本の腕を上げ下げした格好で固定されていること。また指も、印を結んでいるかのように、曲げられたり伸ばされたりしている。死後硬直で固まっていた、とレオンハルトは説明した。死体からは両目がくり抜かれ、舌が切断されていた。胸や腕、太ももには、文字のような模様のようなものが刻みつけられている。ナイフでただ切りつけられたものではない。肉が深く抉られていた。巨大な彫刻刀でも用いたというのか。
 明日も桑島も、顔をしかめていた。こんな死体が現実のものであるということすら信じたくはないのに、この死体は昨日まで一緒に仕事をしていた同僚なのだから。
「死亡推定時刻は午前2時頃。だが気になることがある」
「なんです?」
「DP警官のいかなる能力をもってしても、過去視ができなかった。いや、妨害されたというべきか。だが、まだ試していない方法はある」
 レオンハルトは言った。
「降霊だ」
 明日と桑島は顔を見合わせた。さすがに口には出せなかったが、明日は幽霊というものが怖いあまりに、幽霊の存在を認めないことにしているのだ。桑島もまた、若い相棒が霊アレルギーだと知っているので、言葉を選ばなければならなかった。
「降霊……ってーことは、菅山と西原の霊を呼ぶってことか?」
「そのつもりだ。試してみる価値はある。科学的な検証は、さっき出て行った科捜研の女に任せておけばいい。私には、私にふさわしいやり方がある」
 レオンハルトは手元に死体写真の一枚を引き寄せた。背中合わせにされたふたりが、もっとも鮮明に写っている「ベストショット」だ。
「そこでだ。悪いが君らに手伝ってほしいことがある」
「オレには何の力もねえぞ?」
「なに、部屋の外に出て、しばらく誰も中に入らないように見張りをしていてくれたまえ。少々、精神を統一したいのでね」


 そういったわけで――、明日と桑島はおとなしく小会議室を出た。レオンハルトは、5分ほどでいいと言ったきり目を閉じて、何も反応を示さなくなったからだ。
 5分間、部屋に通じるドアの両側を固めるふたりもまた、ずっと、何も語らなかった。
 写真の中、変わり果てた仲間の姿。ぽっかりとうつろな眼窩と口。あまりにも作り物めいた、虚無的な死体。さんざん苦しんだのか、それとも安らかに死んだのか、それすらもうかがい知れない、ひどくおぞましい死体だ。ふたりのことを考えていると、自然と言葉は失われた。

『おう、明日。昨日はお手柄だったそうじゃないか』……。
『桑島さん。ヤツをあげたんですって? 今晩はおごりますよ』……。
 ふたりは、昨日届いた奇妙な手紙を調べ始めていたはず。
 桑島はただの悪戯だろうと言ってあまり取り合わなかった。明日は、別件で忙しかった。手紙のことは、ちょっと聞きかじっただけ。
『わたしをだして』……。

 そして、5分が過ぎて、10分も過ぎた頃、桑島はようやく口を開いた。
「もういいんじゃねえか、これ。中入っても」
「レオンさんは何も言ってきてませんよ」
「全ッ然、物音ひとつしてねえぞ。おかしくないか? 普通降霊って言ったら、ウギャーとかキャーとかなるだろ?」
「レオンさんがそういう声出すとは思えませんが……」
「入るぞ!」
 明日の遠まわしな制止を振り切って、桑島はドアを開けた。
 空だった。
 中はもぬけの殻。
「――レオンさん?」
「オイオイ、イリュージョンかよ!? 何がどうなってんだ、ドアはコレひとつだけだぞ」
「桑島さん。あれ」
 明日はホワイトボードを指した。
 事件のあらましがびっしりと書かれていたはずのホワイトボードには、今、「現地集合」と赤いペンで大きく書かれているだけだった。



■(4月5日 ??時) 「わたしをだしてといったはず」


 今日の仕事は、夜まであった。
 体力自慢のランドルフだから、軽い疲れを覚える程度ですんでいる。ムービースターは人間ではないというのをいいことに、奴隷のようにコキ使う企業も少なくなかった。
 幸い、ランドルフがいつも世話になっている建築会社は、さほど悪質ではない。残業は多いが、ちゃんとそのぶんの賃金は払ってくれている。当然といえば当然のことだが、昨今は人間にすら残業代を支払わないところも珍しくないので、ランドルフは素直に感謝していた。
 ――おかげさまで、あのお店のツケを払えそうです。
 人がいいのもあって、こんな時間まで働かされたことには、彼はさっぱり腹を立てていないのだった。懐が温かいというのは、誰でも嬉しいものだが。
 不意に、生ぬるい風が吹いた。
 海から吹いてきているのか、ひどく磯臭かった気がする。
 何気なく空に目を向けてみると、月が藍色の雲の中に隠れていくところだった。
 早く帰ったほうがよさそうだ――急に沸き起こってきたその考えは、本能的なものがもたらしたのか。
 空から道の先に目を戻す。
 すると、ついさっきまではいなかったはずの若い女が、道の真ん中で座りこんでいた。
「ど……どうかしましたか?」
 ランドルフは驚くと同時に、彼女に駆け寄っていた。
「ろく、のした、じゅうに、のめ」
 灰色の服を着た女だった。
「ろく、のした、じゅうに、のめ」
 ランドルフが女の前に立ったときだ。ぶつぶつと呟いていた女は、ガバと顔を上げた。
「!」
 ランドルフが息を呑んだのは一瞬だ。その一瞬のあと、彼は何もわからなくなってしまった。食人鬼として覚醒したときとは違う、意識の暗転。女の顔が、見えた気がする。そして――。
「おい、ランドルフ! ランドルフじゃねェか?」



■(4月5日 ??時) 「おい、ランドルフ! ランドルフじゃねェか?」


 深夜の道ばたで赤城が見たのは、間違いなくランドルフ・トラウトだった。あの体格と声は間違えようもない。
 夜のバトルシーンの撮影を終えて、赤城は家路についているところだった。途中で知り合いと出くわしたなら、ガード下のおでん屋あたりに誘って、一杯飲んでから帰ってもいいと考えていた。
 しかし、そんな折に見かけたランドルフは、飲みに誘えるような状態ではなかった。彼は赤城には気づかず、誰かに声をかけ、大急ぎで走っているところだった。
 大丈夫ですか、とか、どうかしましたか、とか、そういった類の言葉だった気がする。となると、誰かが倒れていたのかもしれない。赤城があれこれ考えていると、突然、ランドルフはものすごい咆哮を上げた。獣の断末魔のようだった。
「お……おい!?」
 ランドルフはそのまま倒れ、赤城はほとんど反射的に走りだしていた。ランドルフが倒れたので、彼が声をかけたであろう人影が、赤城の視界にも飛びこんできた。
 この夜中でもグレーとわかる色の、あやしいローブを着た人物だ。フードをすっぽりとかぶっていて、顔はまったくわからない。顔がないのでは、と思えるほどに、フードの中は暗黒だ。男なのか女なのかもはっきりしない。
 そんな謎の人物の前に、屈強なはずのランドルフは、なすすべもなく倒れていた。赤城が見ていたかぎりでは、ランドルフは武器や魔法の類で攻撃されていた様子はない。何が起きたのか、彼にはわからなかった。だが、その、灰色の人物が、ランドルフに「何か」したのは確かなのだ。ランドルフは道で突然わめいて倒れるような、そんな危うい男ではないはずだから。
「てめェ、ランドルフに何した!?」
「ろくのした、じゅうにのめ。しんえんよりいづるものをたたえ、おそれ、むかえいれるためのにえ」
 赤城が声を荒げても、フードの人物はぶつぶつと呟いているだけだった。声は――女のもののように、聞こえたが。
「じげんのしきさいをあたうことなかれ」
「おいッ!」
 まるで呪文だ。言っていることが、赤城にはまったく理解できなかった。しびれを切らして、とうとうその灰色の肩に赤城が手をかけたとき、
「!」
 フードの中という暗闇の中に、顔らしきものが浮かび上がった気がした。
「だせ」



■(4月5日 ??時) 「電気羊でも夢を見るのさ」


 いあ! いあ!
 かのものはしんえんのしきさいなり!
 かのものはしんえんのしきさいなり!
 しんえんにすまい、しんえんにねむる
 かのものにじげんのしきさいをあたうべからず


 仕事とも趣味ともつかないネットでの作業を、今夜は早めに切り上げていた。
 そんなレイは、悲鳴さえ上げたくなりそうなほどの激しい頭痛に、叩き起こされていた。
 舌打ちをしながらため息をつき、髪をぐしゃぐしゃに掻きながら、現在時刻を確認する。午前2時だ。
  いかなる時計もレイには必要なかった。時計というものは脳内に搭載するのが、レイの知る世界の常識だ。時計程度の機能なら、脳に搭載して常時アクティブにしていても、大した負荷はかからない。
 午前2時。この時代、この世界の日本では、不吉な時間帯らしい。なんでも、草木さえ眠ってしまうとか。そのかわり、幽霊や物の怪が目を覚ますとか。
 ――なに非科学的なこと考えてんだ。頭痛がユーレイの仕業だとでも? どうかしてるぜ。
 偏頭痛は、ほとんどPC化した脳味噌のメンテナンスを怠っているせいだ。手間と金をかけて整備すればなんとでもなるだろうし、だいいち市販されている頭痛薬でもだいぶましになる。
 ――でも、寝てたのに飛び起きるほどの頭痛って、ヤバくないか? 軽く調べたほうがいいかもな。
 まだがんがんと軋んでいる頭を、頭痛薬で静めるのが先決だ。朝まで寝直すにしても、頭痛の原因を調べるにしても。レイはベッドから出て、頭痛薬を探した。
「おれのめはつかえない、じゅうにのめ」
 薬を探しながら、だった。レイの口から、そんな言葉が、彼の意思に反してこぼれ落ちたのは。
「おれのめはつかえない、したならなんとかつかえるだろうが。ろくのした」
 レイは薬を探す手をとめて、こめかみに拳を叩きつけた。
 びりり、と視界にも意識にもノイズが走る。
「……本格的にイカレちまったか?」
 奇妙で不安な現象は何とか治まった。頭痛もだいぶよくなったような気がするが、まだ無視できるレベルではない。痛み止めを飲んだほうがよさそうだ。
 しかし、再び頭痛薬を探し始めたレイの手は、また止まってしまった。
『わたしをだして』
 捨てたはずのその手紙が、引き出しの中に、頭痛薬のかわりに、入っていたのである。



■4月6日 午後12時  「夢を見たの」


 須美は、ちらと窓側の席に目を移した。
 見慣れたクラスメイトたちが、かりかりと無言で板書をつづけている。しかし、窓側の列の前から3番目の席には、誰も座っていない。
 どうしても、気にかかるのだ――昨日までその席に座っていた生徒は、豊川といった。豊川茉莉と。読書が趣味で、須美とはわりと気が合った。ミステリのおすすめを交換しあったこともある。
 茉莉は昨日、須美に、ミステリに満ちた手紙のことを話してくれた。
『わたしをだして  しがつここのか ごぜんいちじ66ふん』
 そんな内容の手紙をもらったと。
 そして明くる日である今日、茉莉は欠席している。授業をサボるような生徒ではなかったし、昨日は咳ひとつしておらず、体調が悪いようには見えなかった。茉莉の友人や知人の誰ひとり、欠席の理由を知らない。担任は何か知っているようだったが、何も語らなかった。今は誰もが何事もなかったかのように授業を受けているが、休み時間になれば話題は茉莉のことで持ちきりだ。噂によれば、彼女は失踪したらしい。
 須美が茉莉のことを気にかける理由は、まだひとつある。
 ――夢を見たのよ。
 誰にというわけでもなく、須美は「理由」を言い聞かせた。
 夢を見た。灰色の服を着た女と、灰色のローブを身につけた集団の夢だ。そして豊川茉莉も、かれらといっしょに、須美の夢の中に現れた。
「目玉と舌がいるのよ。知ってるでしょ、朝霞さん」
 茉莉はしかし、声だけしか現れない。灰色の集団は床と虚空に描かれた奇妙な図形のまわりを、ぶつぶつ何ごとか呟きながら、ぐるぐるまわっているのだった。あやしい儀式で唱えられているあやしい呪文の間から、茉莉のメッセージは須美の心を突き刺してくる。
「知ってるでしょ、朝霞さん。午前1時66分のこと……」
 知らないわ。
 夢の中でも、須美の思考は自由だった。夢をただ見ているだけでなく、考えることだけなら干渉できたのだ。身体も視点も思うように動かない夢の中、須美は茉莉を探そうとした。
「図形と深淵は銀幕市の中にあるの。でもお願い、わたしたちの色彩は絶対に、深淵に向けちゃだめなのよ」
 何を言ってるのかわからないわ。この夢はなに? 豊川さん、貴方が私にこの夢を見せてるの?
「何もかもが変わる。人間が考えだした神にすぎないけれど、深淵は、人間を凌駕する力を持っているから……それが本当の存在を得て、この世に顕現するとしたら、それって本当の神と言っていいはずよね?」
 ……なに、言ってるの。ひょっとして、貴方、豊川さんじゃ……ない?
「変わるのだ。すべては置き換わる。彼の者の名において、〈理〉は変わる」
 灰色の服を着た女の顔が、須美の視界を埋め尽くした。眼球のない、暗黒の深淵そのものと言っていい眼窩。舌も歯もない、単なる空虚と言っていい口。眼窩と口は大きく開き、耳もつんざくような叫び声を上げた。
 ローブの集団の回転は、惑星の公転速度よりも速くなった。かれらが囲む不可思議な図形は、暗黒色に輝く。
 どおん、どおん、どおんどおんどぅん。
 色とりどりの虹彩の眼球が散らばり、赤い肉片がびたびたと落ちる。ああ、舌だ。舌なのだ。
 叫び声は続いている。どこかで聞いたような、知っている人のもののような叫び声……。
 顔を上げると、女の顔は消えてなくなっていた。ぐるぐる回りつづけるローブの人影も、なくなっていた。ただ、相変わらず、意味のわからない図形はそこに存在していて――今度は、血の色のローブを身にまとった何人かが、ばらばらの方向を見て突っ立っていたのだった。
 須美がまばたきをすると、真紅のローブの人々は、一斉に〈図形〉に向き直った。
「囁きたまえ。大いなる深淵よ」
 そして、須美は目を覚ました。
 4時間目の授業の終わりを、チャイムが告げる。
 我に返った須美は、戸惑いながら手元に目を落とした。授業を真面目に受けていたつもりなのに、ノートには黒板の内容など一行も書かれていない。そのかわり、びっしりと奇妙な図形が書きこまれ、呪文めいた言葉が並べられていた。

 言の葉を駆る六の舌 時限の色彩を見抜く十二の瞳
 深淵を這い登り 深淵へ還る
 彼の者は〈深淵の色彩〉なり 十二の瞳を用いて色彩を見抜く
 永劫の眠りの中 深き叡智の夢をみる者
 彼の者は〈深淵の識才〉なり 六の舌を用いて真実を語る
 時限の色彩を与うことなかれ
 彼の者は深淵に棲まい 深淵に眠る

「……何かが起きてるんだわ。ここは銀幕市だもの、……ほんとの魔術なんかじゃありえない……きっとそうよ。映画に決まってる。〈深淵の色彩〉……調べてみれば、わかることよ」
 須美はノートの文字と図形を見つめながら、そう自分に言い聞かせた。
 映画が根底にあるのだと確信したら、最初に行くべきところは決まっている。警察や資料館よりも、市役所対策課だ。



■4月6日 ??時  「行き先はわかるな?」


 最初、自分がどこにいるのか――それどころではなく、自分が何者なのかさえ、わからなくなってしまった気がした。目を覚まし、揺れる意識と視界に耐えながら、落ち着いて……自分の名前を反芻してみる。
 二階堂美樹、二階堂美樹。自分の名前は、二階堂美樹。
 大丈夫、何ともない。酒を呑みすぎたあとよりもひどく意識が混濁しているし、視界もぐらぐら揺れているが、正気を失ったわけではない。ただ、自分の身に何が起きたのかを整理するには、多少時間がかかりそうだったし、さらに落ち着かなければならないようだ。
 服こそはそのまま――殺人現場に再び行ったときのまま――だったが、現場検証のお供のツールボックスはどこにも見当たらなかった。ポケットの中身は空だ。携帯電話はもちろん、ペンまでも奪われている。そして、バッキーのユウジもいない。
 一見して、自分がいる部屋は、ダウンタウンの倉庫ではないことは明らかだった。じめじめした石造りの牢獄だ。ダウンタウンどころか、平成の日本であるのかさえ疑わしい。こんな暗い石室は、ヨーロッパの遺跡か古城か、映画の中くらいにしか存在しないだろう。
 部屋の中には、窓はもちろん、ベッドさえもなかった。頑丈そうな鉄のドアがある。ノブを回すまでもない、きっとしっかり鍵がかかっているのだ。わかってはいても、ドアに飛びついて、ノブを回さずにはいられなかった。思ったとおり、ドアにはがっちり鍵がかかっていた。女が体当たりしたところで、このドアは破れそうにない。
 ――ムービーハザード?
 それしか考えられない。
 ムービーハザードに足を踏み入れることで、何気ない日常、いつもと変わりないいつもの道、それが突然反転することもある。美樹も何度も経験してきたことだったし、今さらパニックにはならなかった。
 だが、パニックにはならなくても、不安にはなる。
 ユウジもいないし、武器もない。ドアや壁の向こうに、何があるのかわからない。
 美樹はそろそろとドアから離れた。胸の中の不安が、急に膨張して、肺も心臓も押しつぶしそうになったのだ。まるでドアそのものが恐ろしいものであるかのよう。ただ、ドアの向こうにあるものの正体がつかめないことに、かすかな不安を抱いただけなのに。
 広くはない石室の中をうろうろ歩き回りながら、美樹は状況を整理した。
 レオンハルト・ローゼンベルガーは、黒魔術的な、儀式めいたものが事件に関わっていると推測していた。何の道具も用いない儀式というのは珍しい。何らかの痕跡があるはずだ。それを聞いて、美樹はもう一度、ふたりの刑事がぶら下がっていた現場を調べることにした。ツールボックスを広げて、しばらくは、死体が片づけられた倉庫内を、しらみつぶしに調べていたはずだったが――。
 ――そうよ。何か見つけたんだったわ。でも……、何だったっけ……?
 美樹は足をとめ、目を閉じて、自分の頭を叩いてみた。
 妙な術でもかけられたのだろうか。空腹も疲れも感じないし、拉致されて閉じこめられてからさほど時間は経っていないはずなのに、記憶が曖昧になっている。頭を叩いてみても、ほしい記憶は落ちてきてくれなかった。
 物音がした、気がする。
 美樹はひたと動きをとめ、息さえ殺した。自分の鼓動の音が聞こえるくらい、聴覚は研ぎ澄まされた。何の音だったかは見当もつかないし、どこから聞こえてきたのかもわからない。
 音がひとつだけではないことに、美樹は気づいた。
 ドアを叩く音。男が何ごとかわめいている。若い女が泣いているらしい。そして、いつの時代のどこの国のものともつかない、「呪文」としか呼べないささやき。
 ――私だけじゃない。何人かはわからないけど……、私以外にも、捕まってる人がいる!
 そして、未明の事件を思い出した。ふたりの刑事が、何らかの儀式を暗示させる、異常な状態で発見されたこと。あれは……有体に言えば……生贄のようではなかったか。少なくとも衝動的な殺意や怨恨の犠牲者ではなかった。頭のおかしい人間なら、理由もなく異常なことをやってのけるが、あの文字や死体の形状が、まったくの無意味だとはとても思えない。
 儀式。生贄。
 映画、漫画、小説、ゲーム。要するにフィクション。その中では、生贄などひどくスタンダードな「存在」だ。
 ここから逃げ出さなければ。「閉じこめられている」ことに気づいた時点で、自分の身に危険が迫っていることぐらいはわかりきっているのだが――美樹はあらためて、心の底から、そう思った。ここから逃げ出さなければ!
「ちょっと! 開けなさい! 警察にこんなことしたら大変なことになるのよ!」
 ばんばん扉を叩きながら、とりあえず叫ぶ。外に人がいようがいまいが、聞こえていようがいまいが関係ない。行動せずにはいられないし、抗議しないのも癪なのだ。
 は、と美樹は息を呑んだ。
 かすかな音を振り払いながら、足音が近づいてくるのだ。男のものか女のものかはわからない。だが、とても落ち着いた足取りであることは確かだ。つめたいドアの前で美樹が耳をそばだてる中、足音はとまった。美樹の前のドアの前で。
「……!」
 かち、ん。
 無言のまま、ドアの鍵が開いた。しかし、ドアノブは回らず、足音も動かず、美樹が戸惑うくらいの沈黙が流れるばかりとなった。
「……? ……ねえ、誰かいるの?」
 とうとう美樹はドアの向こうに声をかけていたが、返事はない。
 これは罠かもしれない。
 しかし罠だとしたら、いったいどんな意味の罠だというのか。
 美樹は、鉄製のドアを開けていた。
 ドアの向こうには誰もいなかった。燃えるロウソクと、磯の匂いが鼻をつく。空気は湿っていて、生ぬるい。密室の中では聞こえたささやきや叫びや嗚咽は、とたんに聞こえなくなっていた。逆に、壁の石や空気までもが、耳をそばだてているように思えた。自分の息吹までもが、正体のわからない「犯人」に、筒抜けである気さえする。
 ドアは、長い廊下に続いていた。同じ鉄製のドアはいくつもいくつも並んでいる。だが、やはり、人の気配はしないし、声も聞こえてこない。ドアの向こうに、自分同様監禁されている者がいるのかどうか、美樹にはわからなかった。
 しかし、それにしても。
 ドアを開けてくれた人間がいるはずだが、彼(彼女)は一体どこへ消えたのだろう。
 布が揺れる音……。
 はっ、と美樹が振り返ると、廊下の先に人影が見えた。20メートルほど奥の曲がり角から現れたようだ。少なくとも10人はいるだろうか。灰色のローブを着て、目深にフードをかぶっている。カンテラやロウソクを持っている者の他に、赤い布のようなものを持っている者、その赤い布を着ている者も数名いた。
 かれらは廊下に出ていた美樹を指さし、何ごとか叫んだ。たぶん、日本語ではない。
 美樹は考えるよりも先に、彼らが現れた方向とは反対側を目指して、一目散に走りだしていた。



■4月6日 午後12時30分


 ふたりの刑事の死体が見つかった現場は、騒然としていた。興奮や恐怖は、ずっと継続されていたわけではない。9時ごろに二度目の現場入りをした二階堂美樹が失踪したのがわかって、先ほどからまた騒がしくなったのだ。
 彼女が持ってきた科捜研のツールボックスだけが、ぽつんと現場に残されていたらしい。もちろん、現場には美樹ひとりしかいなかったというわけではない。現に警官が何人も、ツールボックスを広げて、床を調べ始めた美樹の姿を見ている。
 しかし彼女は、まるで神隠しにでも遭ったかのように、ふっと消えていなくなってしまったのだ――。
「警察が3人もいなくなるなんて、大事じゃないか。どうすんだ?」
 報せを聞いて戸惑う明日と桑島の耳に、この場にあまりふさわしくない声が飛びこんできた。ふさわしくない、というのは、警察関係者ではない、ということだ。声のほうを見て、桑島はぎょっとした。
「レイ!? お前何してんだ。ここは立ち入り禁止!」
「かたいこと言うな。協力者がいたほうがいいだろ? なあ」
 賞金稼ぎのレイだ。彼は確かに捜査全般に役立つ能力を持っているが、警察関係者ではない。何をどうやって警察の規制を突破してきたのかは不明だ。今回の事件は、身内に犠牲者が出ていることもあって、警察関係者は皆ぴりぴりしている。
 レイはひとりの女子高生まで伴っていた。明日はよく知っている――ほとんど友人と言っても過言ではない。だから、無表情な明日も、さすがに目を見張った。
「須美ちゃん。どうしてこんなところに……」
「対策課で、レイさんに会ったんです。偶然、目的というか……巻きこまれている事件が一緒だということがわかりました」
 朝霞須美。ミステリ好きではあるけれど、現実の殺人事件とはほとんどかかわりあいにならない女子高生にすぎない。彼女は聡明だ。しかし、刑事がふたりも殺された現場に来るべきではなかった。
「偶然、ってのはたいがいありがたいもんだ。今日もこうして、偶然、キレイな子と同じ事件を追うことになったんだからな」
「誰が首突っこんでいいって言った、誰が」
 レイは冗談めかして髪をかき上げ、サングラスを押し上げた。すかさず桑島が突っこんだが、レイはどこ吹く風で、コートのポケットから手紙を取り出した。
「同じものが警察にも届いたって言うじゃないか?」
「ん?」
 桑島はレイの手から手紙を取り、中身を広げた。

『わたしをだして  しがつここのか ごぜんいちじ66ふん』

「!」
 それはまさしく、死んだ刑事が捜査にあたっていた「謎の手紙」だ。桑島はすっかり血の気の引いた顔をレイに向けた。レイはなぜか鬼の首でも取ったような顔だった。
「『なんでそれを知ってる』って言いたいんだろう。500円賭けてもいいぜ」
「その手紙は、きっと他にも何通か、銀幕市中にばらまかれていると思います」
 須美が話の続きを引き取った。
「私の同級生も……それを受け取って、朝から連絡が取れません。私も、変な夢を見て……。レイさんに頼んで、手紙や夢に出てきたキーワードをもとに、映画のデータベースを検索してもらいました」
「おいおい、夢をアテにしちゃあいかんだろ。対策課にはまだ要請が行っちゃいない。人が殺されてるんだ、探偵ゴッコはオススメできねえな」
 桑島はツッコミに忙しい。今度は須美の熱に水を差さねばならなかった。大人に、しかもベテランの刑事にたしなめられて、須美はほんの少しばつの悪そうな顔になった。
 しかし、明日が須美に助け舟を出してきたのは、桑島にとって想定外だった。
「桑島さん。須美ちゃんは無鉄砲な子じゃありませんし、興味本位でここに来たわけではないんです。身近な人が巻き込まれてるんですから。わざわざ来てくれたということは、何か掴んだということだと思います」
「う? うー……そうか?」
「あー、メイヒはいつも話がわかるやつで助かるよ。その通りさ、糸口は掴んできた。『深淵の爪あと』っつうオカルト映画が絡んでそうなんだ」
 レイの口から出た映画のタイトルを聞いて、桑島はちらりと明日に目を向ける。明日はかぶりを振った。彼女は映画好きだが、ホラーはあまり観ない。『深淵の爪あと』というタイトルには、ひとつの心当たりもなかった。
 わたしをだして――。助けを求める声と、謎めいた時間の記述。須美は、それが銀幕市中にばらまかれていると推測していた。ほんの30秒後、彼女の推測は、その場の全員の確信となった。二階堂美樹の捜索で慌しかった警察の動きに、新たな緊張が走ったのだ。
「なんだ、どうした?」
「ちょっと聞いてくる」
 こういうときの桑島の行動は早い。明日が見習っているところでもある。桑島は倉庫の前に止まったパトカー数台に駆け寄っていって、すぐに全速力で戻ってきた。
「またコロシだ。どうやら嬢ちゃんの推理が当たったみたいだな。菅山と西原――ああ、ここで発見された被害者の名前だが――ふたりと似たような感じの遺体が見つかったそうだ」
「着々と生贄を捧げてるってわけか」
 レイが唸った。どういうことかと無言で尋ねた明日に、須美が説明する。
「『深淵の爪あと』の映画はよくあるオカルト・ホラーだったんですけど、原作はクトゥルフ神話なんです。邪神の復活をたくらむ教団がいて、映画では復活が阻止されましたが――」
「原作はバッドエンドなのね」
「くとるふってのが何だかわかんねえが、事件を起こしてるのはその教団ってことでよさそうだな」
「……このまちでは、素敵な夢も、嫌な夢も、現実になってしまうところだから……」
 明日はため息をついた。
 邪神の復活。銀幕市では、それさえ現実に起こりうる。桑島同様、明日もクトゥルフ神話については明るくない。復活しようとしている邪神がどんなものかも知らないが、いてもいい存在ではないのは明らかだ。それにかかわることで、何人も命を落としているのだから。
「おーい! 二階堂が見つかった!」
 倉庫の裏側から、刑事がひとり飛び出してきて、大声を張り上げた。
「ええ、なんだって!?」
「え、あいついなくなってたのか?」
 桑島とレイの戸惑いはベクトルが違う。明日はものも言わずに走りだしていた。
 美樹は確かに、この周辺をいくら探しても見つからなかったのだ。見つかった、ではなく、現れた、と言ったほうがいいのかもしれない。
 明日たちが駆けつけると、美樹は日の光も射さない倉庫の裏で、すでに数人の警察関係者に囲まれていた。明日と桑島が、今朝警察署で見かけたときと、服装は変わっていない。だがその服は汚れていて、あちこちすりむいたりあざを作ったりしていたし、そもそも意識を失っているようだった。
「ここ、さっき俺も探したところだぞ」
「目が節穴だったんじゃないか?」
「し、失礼だな!」
「ケガしてるの!?」
「二階堂さん! 二階堂さん」
 明日が呼びかけると、美樹は目を覚ました。そして、悲鳴を上げて手を振り回し、囲んでいた刑事や明日たちの手を振り払った。
「ひゃああああッ、やめて、離して!」
「二階堂さん、あたしよ。明日です!」
「えっ、ぅわっ!?」
 美樹の錯乱は軽いもので、彼女はすぐに我に返った。慌しい動きで、周囲を見回す。
「も、戻ってきたの……? ここ、現場……。な、何がどうなってるの?」
「原作によれば、邪神は時空を操るそうです。二階堂さんは……もしかしたら……違う次元に引きずりこまれたのかも」
「まさに神隠しってやつか」
「ど、どういうこと? 皆、何か知ってるの? わ、私、ヘンな牢屋みたいなところに行って……あれ?」
「大丈夫です、二階堂さん。まずは落ち着いて。……大きなケガ、ありませんか?」
 明日が静かに言うと、美樹はぺたぺたと顔や身体を撫でまわした。まだその表情には混乱が色濃く残っているし、視線も泳いでいる。
「私を助けてくれた人がいるの……でも、私の他にも、捕まってる人がいて……。ああ、なんだか、ちょっと、腕が痛いわ。かゆい……」
 ケガをしているのだろうか。美樹が白衣の袖をまくろうとするのを、そっと明日が手伝った。汚れて、かぎ裂きのある白衣と服。その袖の下から、美樹の肌が現れた。



■4月??日 ??時  「いあ! いあ!」


 ランドルフは、その大柄な身体を、血の色のローブですっぽりと包み隠している。彼の後ろにも、真紅のローブの人影。そして彼の前にも、真紅のローブの人影。
 エッシャーの絵画をそのまま立体化したような〈不可能な図形〉が、祭壇の役割を果たしているのだった。図形は自ら光と色を放ち、まるで身体をくねらせて踊っているかのように、ゆったりと回転している。
 そして、その回転する〈不可能な図形〉のまわりを、ローブの人々がゆっくりと列を成して歩いているのだった。それは、灰色の葬列のようだった。ところどころに真紅のローブの人も混じっているが、大半は灰色だ。
 暗い空間だ。部屋なのかもしれないが、部屋だとすれば途方もない広さで、恐ろしいくらいに天井が高い。
 須美は回転する儀式を、「部屋」の隅で見つめていた。身体がうまく動かない。まるで、夢の中にいるかのよう。うつ伏せに倒れている身体で、なんとか動くのは、その頭と指先くらいだった。

 いあ いあ
 かのものはしんえんのしきさいなり
 かのものはしんえんのしきさいなり

「だめ……」
 須美はレイと一緒に、原作を流し読みした。ネットの中に、データ化された全文が転がっていたのだ。英語だったが、それもレイが簡単に翻訳してくれた。お安い御用だと笑いながら。須美は、彼は少し「軽い」けれど、情報処理の腕前は信頼に値するものだとすぐに理解した。彼がいなければ、邪神の存在には辿り着けなかっただろう。
「「だめ……」」
 彼女「たち」の声は、かすれてしまって、声らしい声にもならなかった。
 邪神が、この世に現れてはならないものだということも、彼のおかげで知っている。
 銀幕市にかかった魔法は、手当たり次第にすべての『夢』を現実にしてしまうものだと思っていたけれど、それは微妙に間違っていた。顕現するために、設定どおりの段階を踏まなければならない『夢』も存在するのだ。
 邪神は、そんな存在だった。
 それが、都合のいいことだったのか悪いことだったのか、すぐには判断できない。誰が何もしなくても実体化してしまう邪神であったなら、今ごろ銀幕市には、次元を超えた狂気と恐怖がはびこっていただろう。けれど復活の儀式という段階を踏まねばならない存在であったからこそ、生贄として何人もの市民が拉致され、さらには、殺された。
「やめ、て……」
 灰色のローブと真紅のローブを着た人間が数名、ぶつぶつと呟きながら須美に近づいてくる。灰色のローブの人間は、真紅のローブを手にしていた。
 須美はまるで抵抗らしい抵抗もできない。須美の腕を掴んで身体を起こしたのは、大柄な真紅のローブだった。フードの中に見えた顔は、ランドルフ・トラウト。真紅のローブの人間がもうひとり、灰色の人間から真紅のローブを受け取って、ばさりと広げた。そのときに起こった風が、かれのフードを揺らす。見えた顔は、赤城竜のもの。
 赤城とランドルフの手によって、須美は制服の上から、血のような色のローブをかぶせられた。それきり、彼女の意識は混濁し、反転して、深淵の中に落ちる――。
 深淵の奥から、笑い声のような、うめき声のような、呪文のような「音」が、わんわんと反響しながら這い登ってきた。
「ドルフ? ドルフ、貴方、でしょ?」
 須美に真紅のローブがかぶせられるのを、明日はただ見ていることしかできなかった。そう、明日もそこにいて、
「だめ……」
 邪神の復活を、何が何でも阻止したかったのだ。須美と同じだった。須美が見ていたものと、まったく同じものを見ていた気がする。深淵、真紅のローブ、そしてランドルフと赤城。ここでは、時間や視点さえ、時空を超越する神の力によって歪められているのか。
「ドルフ……、赤城さん……、貴方たちも、ここに――」
 ランドルフのあの大柄な体躯は、真紅のローブをもってしても、知人の目をあざむけはしない。明日は手を伸ばそうとした。そんな単純なことすらうまくいかない。
 だが、大柄な真紅のローブは、ひたと硬直した。
「ドルフ。気が、ついた?」
 ランドルフは、正気に戻ってくれたかもしれない。けれど、確かめられなかった。明日にも、ばさりと真紅のローブがかぶせられたのだ。彼女にローブを着せたのは、赤城だった。いつも、どんな困難でも、豪快に笑い飛ばせる豪気な彼が、ぞっとするくらいの無表情だった。

 いあ いあ
 かのものはしんえんのしきさいなり
 かのものはしんえんのしきさいなり
 しんえんにすまい、しんえんにねむる
 かのものにじげんのしきさいをあたうべからず

「六の舌、十二の瞳。すでに充分な数が揃っています。それとも、まだ捧げる命が足りないと?」
 図形の前に立つ細身の人影に、灰色のローブのひとりがささやきかける。ささやきは女のものであり、また、ひどく艶めかしかった。
 彼女が話しかけた人影は、70代と思しき白人男性だ。ゆっくりと振り返り、女に笑みを見せた。
「供物が多すぎるということはないはずだ。そうだろう」
「御神がお喜びになるのであれば」
「ならば、問うな」
「は。お許しください」
「今しがた、新たに5つの人間が迷いこんだ。選別し、血か塵を着せよ」
「は。ただちに」
 灰色の女はうやうやしく頭を下げ、老人の前から立ち去った。
 老人はうっとりとした恍惚の面持ちで、存在するはずのない、不可能な図形を見上げた。そしてそのまま、まばたきすらもしなくなった。
「ここでは、現実になる。ここでは、現実なのだ。ラヴクラフトたちの想像の中だけに存在するものではない。ここでは現実だ。秘術は存在する……」



「うぉい、くそ! 何がどうなってるんだ、うぉい!!」
「こんな狭いとこでデカい声出さないでくれ、頭に響く」
「あーくそ! 出せ! 出せこの野郎、逮捕監禁の罪で逮捕するぞ!」
 はっ、と気がついてから数十秒後。桑島は恥も外聞もなく鉄の扉を叩きまくり、レイは部屋の真ん中で座ってこめかみを押さえていた。かすかにカビの匂いがする湿った石室の中には、ベッドも窓もない。桑島の叫び声は積み上げられた石で跳ね返された。レイは聞き耳を立ててできるだけ周囲の様子を探ってみたかったのだが、抗議しても桑島は黙らないのでどうにもならない。
 恐らく頭痛も、どうにもならないだろう。いつもの偏頭痛よりもたちが悪いようだ。非科学的な力で、べつの次元に引きずりこまれたのだろうから、身体に変調があってもおかしくない。
 ――このおっさんはちっともこたえてねぇみたいだがな。はー、デリケートな身体だと苦労するね。俺、この事件が解決したら、自分の身体をいたわろうと思うんだ……。
 自ら立てた有名な死亡フラグに苦笑しながら、レイは立ち上がって、桑島の肩に手を置いた。
「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ。あんまり怒鳴るとハゲますよ」
「ば、バカにすんな! なんだそりゃ」
 しかし、レイの手を振り払った桑島が次にその手をやったのがぼさぼさの髪の毛だったことにはきっと意味があるのだろう。レイは頭痛も忘れてにやにやした。
「しかし、まいったな。たぶんメイヒとかも俺たちと同じような状況だろう。このままじゃワケわからん邪神の生贄にされちまう。邪神なんて……非科学的すぎやしねえか。まったく……」
 レイの言葉を聞いて、桑島は歯ぎしりした。とにかくここを脱出するしかないのに、方法がまったく思い浮かばない。
 絶望しかけたその一瞬、部屋の中に完全な沈黙が降りた。そのおかげで、どうやら近くで騒いでいるらしい女の声が聞き取れた。
「ちょっと! 開けなさい! 警察にこんなことしたら大変なことになるのよ!」
 本当にかすかだ。だが、そう遠くではない。桑島とレイは目配せした。分厚い壁と扉にさえぎられているだけで、彼女は――美樹はすぐ近くにいる。
「おいッ! おい、二階堂! 聞こえるか、俺とレイはここだ!」
「待て。静かに!」
 桑島も美樹に負けじと叫び始めたが、レイがするどく制止した。
 足音だ。そして――どこかの扉の鍵が、開く音。
 かち・ん。
 すぐに、扉そのものが開く、重々しい音がつづいた。
 ざくざぐざぐざく、無数の足音。
 短い悲鳴。これは、すぐ近くから聞こえた。恐らくは、桑島が張り付いている扉のすぐ向こう側で。
「くそ、どうなってる!?」
 桑島とレイは、聞いていることしかできなかった。おそらく、扉を開けて外に出たのは美樹だ。悲鳴を上げたのも美樹だろう。無数の足音は――追っ手にちがいない。どうなっているのかわかっていても、桑島はそう毒づいた。
 かち・ん。
 鍵が開く音。
 桑島とレイはまた顔を見合わせた。考えていることは同じだったし、やるべきこともひとつだけだった。桑島は、ドアを開けた。
 ドアの向こうは廊下であり、すぐそこで、悲鳴を上がっていた。美樹が灰色のローブの集団から逃げようともがいている。集団は無言のままだ。美樹の白衣や袖を引っ張っていた。灰色のローブのひとりは真紅のローブを広げていて、美樹にかぶせようとしている。
 あれを着させられたら終わりだ。
 桑島とレイの直感がはたらいた。そう思ったことに根拠などない。ただ理由があるとすれば、あまりにも、その「真紅」が禍々しかったから。鮮血で染めたのではと思わせるほどの緋色であったから。
「やめろ! 二階堂から離れろ、おまえらッ!」
「女はもうちょっと丁寧に扱え!」
 桑島はローブたちを突き飛ばし、かき分け、倒れた美樹に向かって手を伸ばす。レイはここぞとばかりに鬱憤を晴らした。無用な頭痛に悩まされたのも、こんなところに連れてこられたのも、すべてこの邪教徒のせいだ。躊躇なく顎を拳で殴りつけ、すねや膝の裏に蹴りを入れて転がし、桑島を手伝って美樹を助け起こす。
「いや、やめて、離してッ!」
「二階堂、俺だよ! 桑島! しっかりしろ、立て! 行くぞ!」
「あ、ちょっと待――」
 レイは、視界の中に飛びこんできた真紅の影に気がついて、桑島に危険を報せようとした。が、吹っ飛んでいた。真紅のローブを着た人間が駆けつけてきて、見事な飛び蹴りを見舞ってきたのだ。
「いッ、て!」
「レイ!」
 反射的にレイを気遣った桑島が我に返ったときには、遅かった。レイを蹴り飛ばした真紅のローブは、つづけざまにソバットを放って、今度は桑島を吹き飛ばしていた。
 だが、まともにあびせ蹴りを食らうその瞬間、桑島はローブのフードの中の顔を見たのだ。
 赤城だった。何度となく酒を飲んだし、悩みも話したし、数え切れないくらい一緒に笑った。くだらないことでケンカをしたこともあるが、こんな、当たり所が悪ければ骨が折れるような蹴りをもらう仲ではない。
「あ、赤城さん!」
 かたい石造りの廊下を転がり、うつ伏せに倒れた姿勢で、桑島は真紅のローブを見上げる。
「赤城さん、俺だ! わからないか!?」
 しかし、返事は、蹴りだった。
 脇腹をまともに蹴られて、桑島はまた、床を転がりながら悶絶した。
「赤城……? あの、にぎやかなおっさんか?」
 衝撃で揺らされた頭を軽く振りながら、レイが立ち上がる。その頃には、ローブを着た赤城は、桑島の顔を蹴りつけようとしていた。
「やめろ、目ぇ覚ませ!」
 幸い、後ろは隙だらけだった。レイは赤城の背中に飛びかかった。赤城の抵抗はすさまじく、レイひとりだけの手には負えなかったが、そこで美樹が加勢してきた。我に返り、状況もすっかり把握したのだ。必死の形相で、赤城の腰にしがみつく。
 もみ合っているうちに、フードが外れて、赤城の顔があらわになった。
「赤城さん!」
 桑島が彼の名前を呼んだのは、それと同時だった。
 赤城が息を呑んだのが、彼の身体に触れているレイと美樹に伝わってきた。
「服だ、その赤いのを脱がすんだ!」
「男を脱がしたって面白かねえが、な……!」
 レイと美樹は、力いっぱい、赤城の身体を包みこむ真紅のローブを引っ張った。
 布はあちこち裂けながら、赤城の身体から離れていった。まるで生きた皮膚が引き剥がされていくかのようだった。当の赤城も、まるで生皮を剥がされていくかのような叫び声を上げていたのだ。
「赤城さん!」
 勢いあまったかのように前につんのめった赤城を、桑島が抱きとめる。が、筋肉質かつ長身な赤城は桑島の予想よりもはるかに重く、腰や腹を蹴られていた桑島は、支えきれずに仲良く倒れていた。
「あ、赤城さん……!」
 しかし、痛がっている場合ではなかった。桑島は、慌てて赤城を揺り動かす。頭を打っているかも、と考える余裕もなかった。
「うう……? ありゃ、ランドルフは……?」
 赤城は拍子抜けするくらい大丈夫そうで、まるで寝起きのような呑気な声を上げていた。目をしばたき、うめきながら、彼は身体を起こす。
 いつもの赤城がもどってきた。彼はころころと表情が変わる。良くも悪くも、感情がすぐ表に出るタイプだ。赤城は夢から覚めた面持ちで、桑島の顔を見るなり、素っ頓狂な声を上げた。
「な、なんだあ? なんで桑島が? つーか、ここどこだ? ん? レイに美樹じゃねェか! ああああ、一体なにがどーなってるんだあああ!?」
「お、落ち着いてくれ。大声も出さないでくれ。説明してるヒマもねえ。ランドルフって……、まさかドルフもここにいるのか?」
「くそ、また来たぞ!」
 赤城が混乱する中、レイが舌打ちする。
 廊下の先に、灰色のローブを着た人物が、今度はひとりだけ――立っていた。
 立っていた、と気づいた次の瞬間には、目の前にいた。この灰色のローブは、瞬間移動の類の力でも持っているようだ。
「行き先はわかるな?」
 女の声だった。背筋をぞくりと怖気が走るような、妖艶であやしい、妙齢の声。
 ローブを着た女は、ゆっくりと右腕を上げた。ほっそりとした白い腕が、灰色の袖からあらわれる。
 腕には、文字とも模様ともつかないものが、刃物によって刻みこまれていた。
 それを目にした瞬間、美樹が腕をおさえてうめく。美樹は痛みに顔をしかめながら、袖をまくりあげた。さっき集団でもみ合いになっているうちに、彼女も腕にその記号を刻みつけられていたらしい。
「あなたが……これを?」
 美樹は腕の緋文字をおさえながら、声を絞り出した。
「互いに頭数が必要だったはず。これは次元を超え、わたしとおまえを繋ぐ〈鍵〉のようなものだ。ご苦労だったな。司祭も納得する数の贄をそろえることができた」
「司祭?」
「さあ、時間だ。茶番を終わらせるときがきた」
 女は、もったいぶった動作で、ゆっくりと灰色のローブを脱ぎ捨てた。
 美樹と桑島は、あ、と声を上げる。レイと赤城には、まるで意味がわからなかった。
 ローブの中から現れたのは、声の持ち主としてふさわしい女ではなく、黒いスーツに長身を包んだ、壮年の男――レオンハルト・ローゼンベルガーであったから。



■しがつここのか ごぜんいちじ66ふん


 わたしをだして。
 わたしをだして。
 わたしをだしてと、いったはず。


 深淵の奥から、奇怪な声が聞こえてくる。
 意識の深淵。暗黒の中心。混沌の核。
 腕も、そして目も舌も持たない神が、づるりづるりと這いのぼってきているのだ。教団が唱える神への賛辞を聞き、生贄として捧げられた血と臓腑の香りに誘われて。
 けれど……その隙間から、嗅いだことのある匂いがやってくる。温かくて、知っていて、ほっとする匂い。声も聞こえてくる。自分の名前を呼んでいる声。
(明日さん)
(朝霞さん)
 びりびりと、薄い布が裂ける音。
 明日は大きく息を吸いこんだ。ひどい空気だ。それでも、やっと水中から顔を出したときのように、空気の存在がありがたく思えるような、そんな気がした。
「……ドルフ?」
「よかった。気がつきましたか」
「ドルフ、貴方、ケガ……」
「大したことはありません。本当に……大丈夫ですから」
 しかしランドルフは、どう見ても苦心しながら明日のそばに腰を下ろした。彼の服はぼろぼろで、あちこちから血が流れている。食人鬼としての姿と力を解放して、ひと暴れしたのは明白だ。明日には、ほとんど傷がなかった。少しだけ、頭が重いだけだ。
「何がどうなっているのか……私には、さっぱりです。ただ、あなたを……助けなければという気持ちだけが、湧いてきて……暴れまわりました。しかし、助けるべきだったのは、あなただけではなかった気がする。わかっていたのに、私は、あなただけを助けるために……。情けないかぎりです」
 ランドルフはうなだれていた。気落ちしているのか、満身相違のためか――その両方か。明日はそんなランドルフの手を取った。ランドルフが、びくりとかすかに飛び上がって、明日の顔を見つめ返してくる。
「ありがとう。貴方には助けられてばかりね。……貴方は優しいから、すぐそういうふうに自分を責めるけど。……でも、たまには、自分にも優しくしてあげてほしいわ」
「あ、あ、あの……その、明日さ……」
「事情を説明したいけど、時間がないわ。須美ちゃんを助けなくちゃ」
 明日はランドルフから手を離し、さっと周囲の様子を探った。
 明かりのない回廊だ。壁も床も石造りで、ひどく冷たく、湿っている。澱んだ海水がたまっている深淵のように、生臭い匂いが漂っていた。どこにも光はないのに、あたりの様子がうかがえる。この不自然で、「都合のいい」環境は、ムービーハザードによく見られるものだ。
「す、須美さんというのは、明日さんのお友達でしたね」
「ええ。いかにも儀式をする、って感じの大広間があったはずよね。どっちの方向かわかる?」
「危険です」
 明日の質問に、ランドルフは厳しい顔で即答した。
 だが次に、こう続けたのだ。
「しかし、明日さんは行くのでしょうね。……だから私は、ついていきます」
「ありがとう」
 明日の顔に、不器用な微笑が浮かんだ。
 ランドルフが一瞬で耳から頭のてっぺんまで赤くなったのだが、明日はまた辺りを警戒して視線をめぐらせたので、幸いというべきか――それを見ていなかった。


〈不可能な図形〉。それを通して、それは見ている。
 背中合わせに無理やりつなぎ合わされた人体のようにも見える、不吉でいびつな、存在して鼻いらない図形だ。
 真紅の布をかぶせられた供物が、大いなる〈瞳〉の前に立つのを。
 年老いた司祭は、真紅のローブのフードを外す。中から現れるのは、若い娘。利発的で大人びた顔立ちだった。涼しげな目は、半分ばかり開いているが、何も見えてはいないだろう。
 司祭は娘の顎に手を触れた。彼は何も言わなかったが、それだけで、娘は口を開ける。
(六の舌)
 司祭はどこからか、刃が湾曲した青銅の剣を取り、切っ先を娘の口に向けた――。


 激しく強い、制止の声。怒号。
 たいまつとカンテラの火がいくつも、儀式の間になだれこんでくる。


 それをも、深淵の中で、それは見ていた。色彩のない、まぼろしのような映像として。


 灰色のローブの一団が、一斉に振り向く。先頭を切るのは桑島だ。裂帛の気合とともに集団の中に突っこんだ。武器などなかったが、彼は、灰色のローブたちを力任せにかき分けていく。
 突然飛びこんできた4人に、儀式の間全体が驚き震えた。その一方だけを注視していた彼らは、ついさっき奥に逃げていった食人鬼が戻ってきたことにすぐには気づかず、数名がなすすべもなく背後から殴られて吹っ飛んだ。ランドルフと明日も、儀式の間に飛びこんできたのだ。
「嬢ちゃん!」
「須美ちゃん!」
(朝霞さん)
「須美ちゃん!」
「目を覚ませ!」
 は、ッ!
 祭壇の上、図形と司祭の前で、須美は息を呑む。身体は動かなかった。ひどい夢が、まだ続いているのだ。年老いた司祭は怒りで顔を真っ赤にし、青銅の円月刀を振り上げた。
「儀式が完成するという、まさにこのときに! 映画の真似事か、不届きな!」
「させるかッ、馬鹿野郎ッ!」
 赤城が手にしていたカンテラを投げつけた。
 司祭は慌てて身をかわしたが、カンテラは飛び続け、奇妙な立体に命中した。
「おお、神の象徴に――なんということを!」
 司祭が悲痛な叫び声を上げる。
 その頃には、ランドルフによって開かれた道を走り、明日が祭壇に飛び乗ってきていた。レイと美樹の援護で、桑島も司祭のもとに辿り着いていた。
 そしてカンテラは割れ、図形が燃え上がっていた。

 ――時限の色彩を与うことなかれ――

 図形は炎の色に光り輝き、深淵の奥底にいる者の視界が、まばゆい焔色の光に包まれた。十二の瞳を焼かれて、それは凄まじい叫び声を上げる。悲鳴でもあり、怒りの咆哮でもあった。
 それは目をそむけ、この間にも無限に膨張しつづける身体をひるがえす。
 色だ、焔の色。
 あまりにも強く、確かな色。
 かれはそれから逃げ出していった。
 かれが世界から、遠のいていった。

「これでいい」
 レオンハルトは深いため息をつき、儀式の間に背を向ける。
「これで人間が人間を裁けるだろう」
 その背後で、桑島が、老いた司祭を押さえつけていた。



■4月9日  午後2時6分


 まさかナンパが成功するとは思わなかった。
 レイは須美と一緒に、カフェスキャンダルにいる。
 先日解決した事件の真相を掴んだので、いずれ次に会ったときにでも、説明してやろうと思っていた。それが、またしても嬉しい偶然が起きて、レイは学校帰りの須美と、ミッドタウンの只中でばったり出会ったのだ。
 顛末を知りたいか、とレイが尋ねると、須美はほとんど迷うことなく頷いた。
「あー、とりあえずコーヒー」
「私も」
「私もそれで」
「俺はコーラがいいな!」
 しかし残念なことに、須美はランドルフと赤城を呼び出してしまったので、テーブルはむさ苦しいものになっていた。レイは本当に残念で仕方がなかった。ついでに言えば、事件の調査をしていて偶然(またしても!)知ってしまったにすぎないのだが、須美に「相手」がいるとわかったことも残念だ。いや、自分にも「相手」がいるだろうがと言われたら返す言葉もないのだが。
 注文したコーヒーやケーキが揃ったところで、レイは話を切り出した。
「皆でしょっぴいたじいさんいるだろ。司祭だかなんだかで、儀式をやってた」
「ええ」
「あいつ、人間だった。エキストラだったんだよ」
「なに!? じゃ、人間があんなとんでもねえ殺人やら誘拐やらやってたってのか!」
「そう。クトゥルフ神話フリークだった」
 赤城はテーブルを叩き、かすかに唸った。
「クトゥルフ神話ってのは、ぜんぶ架空なんだけどな。設定がやけに作りこまれてるから、小道具として使われてる魔術書や宗教が実在すると思ってるヤツもいる」
「あの司祭も、そんなカン違いした人だったのかしら……」
「しかし、我々は時空を移動させられましたよ。わけがわからないうちに気絶させられましたし、夢まで操っていたような気がします」
「そのへんはムービースターだろう。協力してたヴィランズがあの集団の中に何人かいたらしい。あのDP警官にサクッと始末されたみたいだな」
「レオンハルトさんですね」
「そう言や、知らん間にいなくなってたな。手を貸してくれたんだかはっきりわからなかったが、あいつはどういうつもりだったんだ?」
「さあねえ。やり方や考え方ってのは人それぞれだからな」
 レイは肩をすくめ、コーヒーを飲んだ。
 事件はとてつもない速さで風化している。どこの国のどこの時代でもそうだが、現在の銀幕市ではそれが顕著だ。次から次へと新しい事件が起き、ムービースターが現れては消え、抵抗するすべを持たない市民が巻きこまれている。
 須美は、コーヒーカップの中の黒色を見つめた。ミルクも砂糖も、まだ入れていない。
 自分の顔が映っている。目が泣き腫れていないかどうか、それが心配だ。
 豊川茉莉は、戻らなかったのである。生贄にされた――いや、殺されたのだ。どんな最期を迎えたか、調べることは簡単にできるのに、須美は知りたくなかった。彼女にとって、この世は真実を知りたい謎ばかりだ。だが、たまには、こうして知らないほうがよさそうなこともある。
「……明日さんと桑島さんと二階堂さんは、当然それを知っているんでしょうね。レオンハルトさんも……。もしかすると、レオンハルトさんは、始めから知っていたのかもしれませんが」
「人間がケリつけることになったんだな。何にしても、ひでェ事件だった」
「皆さん、きっと落ちこんでいるでしょう。……今日、会いに行ってみようかと思います」
「俺もそう思ってたとこだ。皆で銀幕署の前を張るか。――お前はどうする? ヴァイオリンのお嬢さん」
 須美は顔を上げた。ミラーシェイドのサングラスをかけているから、レイの目の表情はわからない。口元はかすかに笑っている。しかし、彼は真面目だ。一緒に事件を解決した仲間と、打ち上げをすることだけしか考えていないわけではない。もっとずっと、ちゃんと、考えてくれている――。
「行くわ、私も」
「決まりだな」
 今すぐ銀幕署に行っても、警察が仕事を終えて出てくるわけではないのだが、赤城は気合を入れてコーヒーを一気飲みした。


 誰も彼もが、この事件を忘れるわけではない。
 記録にも残る。
 明日と桑島と美樹が、連れ立って廊下を歩いていくのを、レオンハルトは黙って見送った。そして、山のような資料を抱え直した。
 しかし、ひとりで持ち歩くにはいささか量が多すぎたようだ。資料の間から、1冊の「資料」がすべり落ちる。ふう、と軽く息をついて、レオンハルトはその本を拾い上げた。
『アゥル=カマゥ』。
 どこをどう間違えたのか、この小説の実写版のタイトルは『深淵の爪あと』だ。映画業界が抱える大人の事情というものは、レオンハルトにとっては少々不可解だった。
 今度こそしっかりと資料を抱えなおして、レオンハルトは通称「DP部屋」に入っていった。
 彼の仲間が、いつもの挨拶を投げかけてくる。




〈了〉

クリエイターコメント大人数プライベートノベルのご予約、ありがとうございました。納期ぎりぎりになってしまい、申し訳ございません。
『太陽の爪あと』という映画が実在します。未見ですが、クトゥルフ神話『閉ざされた部屋』が原作です。例によって原作どおりじゃないんですけど。
サスペンスというよりはホラー、というかクトゥルフに仕上がっていますが、いかがでしょうか。時系列が混乱しているのも仕様です。楽しんでいただければと思います。
公開日時2009-05-22(金) 22:10
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