★ Today is so fine! ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-6051 オファー日2008-12-22(月) 22:18
オファーPC フェイファー(cvfh3567) ムービースター 男 28歳 天使
ゲストPC1 北條 レイラ(cbsb6662) ムービーファン 女 16歳 学生
ゲストPC2 吾妻 宗主(cvsn1152) ムービーファン 男 28歳 美大生
ゲストPC3 新倉 アオイ(crux5721) ムービーファン 女 16歳 学生
ゲストPC4 ルドルフ(csmc6272) ムービースター 男 48歳 トナカイ
ゲストPC5 ヴィディス バフィラン(ccnc4541) ムービースター 男 18歳 ギャリック海賊団
ゲストPC6 ウィズ(cwtu1362) ムービースター 男 21歳 ギャリック海賊団
ゲストPC7 ユダ・ヒイラギ(cnnf2246) エキストラ 男 31歳 聖ユダ教会の神父
<ノベル>

 春の女神が顕現したあの日。告白というより決意表明のものだと桜の下でレイラは告げ、フェイファーはそれに応じてくれた筈だった。
 「俺のことなんか忘れちまいな」
 だから――後からそんなふうに言われた時は、言葉が出なかった。
 きっとフェイファーにはフェイファーなりの考えがあったのだろう。あっけらかんと、まるで天気の話でもするかのように無造作に放たれた言葉はもしかすると彼の優しさだったのかも知れない。
 分からなくはない。分かっている。だけど、それでも。
 あの春の日、あの桜の下で、この覚悟を受け入れてくれたと――フェイファーも同じように覚悟を固めてくれたのだと、そう思っていたのに。


■scene 1 preparations■

 冬の港に浮かぶ海賊船。ギャリック海賊団が住まう船内の一角はひどく異様な雰囲気に包まれていた。
 「まだこもってやがるのか……」
 「怪しいなオイ」
 「なあ、誰か知ってるか?」
 ひそひそと囁き合う団員たちの視線の先には、『これより先、立入禁止』と朱書きされた手製の看板がでんと仁王立ちになっている。
 この看板がお目見えしたのは三か月、否、それよりもっと前だっただろうか。看板の先にあるのは『仕立て屋ヴィディー』ことヴィディス バフィランの部屋である。
 ここ最近のヴィディスは様子がおかしい。目の下にくまを作り、昼間もぼんやりと何かを考えていることが多く、夜は夜で遅くまで部屋に明かりが灯っている。食事も忘れて部屋にこもっていることもあるほどだ。平素から毎晩のように規則正しいミシンの音を響かせているヴィディスだが、今の状態は些か異常である。どうしたのだと問うても曖昧な答えが返ってくるだけだった。
 人に言えない秘密を抱えているのではないか。いや、怪しげな儀式の準備でもしているのでは――。憶測が憶測を呼び、今やヴィディスはちょっとした時の人になっていた。
 団員たちは今日も今日とてヴィディスの部屋の前にたむろしている。頑なに閉じられた扉からはただならぬ気配が漏れ出しており、声をかけることはおろかノックすることも躊躇われるかのようだ。
 「はいはーい、どいてどいてー」
 陽気な声を響かせ、団員たちの中に軽やかに割って入る人影がある。尖った耳と、左側だけに下がる特徴的な三つ編み――ウィズだ。何やら段ボール箱を抱え、鼻歌を歌いながらいともたやすく立入禁止の看板を乗り越えて行く。
 「いいのかウィズ。立入禁止って――」
 「いーのいーの。オレはと・く・べ・つ」
 ぱちんと悪戯っぽくウインクをしてみせるウィズに団員たちは顔を見合わせる。
 「ってことで、こっちこっち。早くおいで」
 ウィズの呼びかけに応じ、人だかりを掻き分けて一人の少女が顔を出した。ショートカットにした赤い髪の毛と気の強そうな顔立ちに何人かの団員が目をぱちくりさせる。海賊喫茶で短期アルバイトをしている新倉アオイではないか。
 屈強な海の男たちを掻き分けてようやくウィズの元に辿り着いたアオイは、息継ぎをする水泳選手のように「ぷは」と息を吐き出した。
 「何コレ。なんでこんなに人集まってんの?」
 「ごめんねーうるさくて。ただの野次馬だから気にしないで」
 二人はノックもせずにドアを開け、まるで当たり前のようにヴィディスの部屋へと入って行く。二人を迎え入れたドアはすぐに閉じてしまい、野次馬たちが中の様子をうかがうことはできなかった。
 だが――扉が閉じられる直前、最前列にいた団員は確かに見た。
 下瞼にべっとりとくまを貼りつかせ、頬をこけさせながらも、つばの大きな帽子の下で喜悦に目を輝かせている仕立て屋の姿を。


 それは天使だった。少なくとも、焼けたつるばらがまとわりつく壁にもたれ、ぼんやりと冬空を見上げている四枚翼の男を見て、ユダ・ヒイラギはそう思った。
 「ああ、天使様。何ゆえ当教会を選んでご降臨を――」
 「あん?」
 目を閉じ、胸の前で厳かに十字架を切ってみせるユダに――さすがは現役の神父であるだけに、そのしぐさは非常に様になっていた――、癖のある黒髪を長く伸ばした天使は目をぱちくりさせた。
 「勘違いしてねえか? 俺は別に……」
 「分かっておりますとも。そのラフな格好は俗世に溶け込むための仮のお姿というわけですね」
 「えーと、まぁ、なんつーか」
 ジーンズにざっくりとしたジャケットといういでたちの天使は人なつっこい苦笑いを浮かべて頬を掻いた。
 「わりーけど……加護を与えるために来たとか、そんなんじゃないんだわ。聖ユダ教会ってここだよな?」
 「ええ」
 「イエスを裏切ったユダじゃなくて、タダイのユダ……“絶望の守護者”」
 ええ、と肯きつつ神父は静かに目を眇めた。日本というこの国、それも初めての来訪で正確にその点を指摘できる者はそう多くない。
 「頼みてえことがあるんだ」
 そう前置きして天使が口にした頼みごとにユダは驚き、そして次に満面の笑みを浮かべ、その後でやや不安そうに表情を曇らせた。
 「喜んで承りますと申し上げたいところですが……当教会は見ての通り、お世辞にも豪奢とは言えない有様です。オルガン演奏も聖歌隊もご用意できません。それを理由に当教会を敬遠される方も少なくないのが実情でして。加えて、先頃の不吉な事件――」
 「ん。全部知ってる」
 日々教会の認知向上に努めている筈なのに正直に短所を並べる誠実な神父を遮り、天使は小さく笑った。
 「派手なことがしてえわけじゃねーんだ。この教会ですることに意味がある。――何とか頼めねえかな」
 「何と有り難いお言葉。そういうことなら喜んで」
 ユダは今度こそ破顔して申し出を快諾した。こちらを見つめる金の双眸が胸に痛いほどの切実な思いを宿していたことにはあえて気付かぬふりをして。
 「よろしければこれから下見などいかがでしょう?」
 「いいのか?」
 「ええ、是非。――そういえば、お相手さまの姿が見えませんね」
 「あいつはちょっと別件でな」
 「……さようですか」
 深く追及はせず、ユダは穏やかな物腰を崩さぬまま天使の先に立った。「それでは今日は簡単な御説明だけにいたしましょうか。詳しくは後日、お二人が揃ってからということで」 
 「ああ、頼む」
 神父の先導で庭を突っ切り、天使は教会へと向かう。
 新緑の季節になればラベンダーで埋め尽くされる庭も今はむき出しの土の色を見せて眠っている。きたるべき季節に備えて滋養を蓄えるために。


■scene 2 the eve■

 冬から春へと、季節は静かに移りゆく。
 春爛漫というには少し早い時節である。心地良くひんやりとした、しかしどこか心を浮き立たせるような花の香りと温もりを孕んだ早春の夜、北條レイラは静かに自室に座して髪を梳いていた。
 いつもより時間をかけてトリートメントを施し、ドライヤーの風もできるだけ柔らかく当て、ドレッサーの前で丁寧にブラシをかけた。レイラの髪の毛は元々充分に美しいのだが、それでも手入れをしたくなるのは当然かつ必然の心理と言えるだろう。
 鏡の中でナチュラルに背筋を伸ばしている少女はいつものレイラだ。長く美しい黒髪、白い肌に青い瞳、ネグリジェを模した清楚な白いパジャマ。その後ろに映り込むのは見慣れた自室の風景。ベッドに机にクローゼット……。何もかもが平素と変わらない。
 (少しくらい気が高ぶっても良さそうなものですのに。不思議なものですわ)
 鏡の中の頬は白いままだ。胸に手を当ててみるが、アンダンテの速度で刻まれる拍動が感じられるだけで、思わず小さな苦笑がこぼれた。
 (もっとも、こうやって落ち着いていたほうがいいのかも知れませんわね)
 自分に言い聞かせるように内心で独白したレイラだったが、引き結んだ筈の唇がわずかに綻んでしまうのが分かって、また苦笑してしまった。
 だが、苦笑する必要などどこにもありはしない。明日はたくさんたくさん笑おう。明日という日はそのためにある。
 泣きはしない。たとえ歓喜の涙であっても、明日という日を涙で曇らせたくはない。泣くのはあの時で最後にすると決めたのだから。
 ――おまえの為なら死んでもいいと思った。
 あの時、泣きじゃくるレイラにフェイファーはそう言った。レイラの苛烈な行動に眉を顰めることもなく、きちんと正面から向き合って、心の底からの返事と口づけをくれた。
 清楚でたおやかな外見に似合わず激しい性格だと呆れられることが多い。だがフェイファーは違う。見た目ではなく、北條レイラという人間そのものをきちんと見てくれている。それを再確認することができたから、嬉しくて、言葉が出なくて、レイラはまた泣いてしまった。
 涙はもう流しつくした。だから、明日は笑顔だけをフェイファーと皆に贈る。
 ひとつ心残りがあるとすればアオイのことだろうか。明日という日を控えた今夜、親友とのお喋りをかねて一緒に食事でもしながら過ごしたかったのだが、「明日に備えて早く帰って寝なよ」とあっさり言われてしまった。その気遣いは嬉しかったが、本音を言えばほんの少し寂しかった。
 「……さ、もう寝てしまいましょう」
 自らを促すようにわざと独りごち、日記を書いてからベッドにもぐりこんだ。
 (夜更かしは美容の敵ですものね)
 冗談めかして口の中で呟いた後でくすりと笑みがこぼれた。容姿の手入れに躍起になることなどないレイラだが、明日は生涯で一番美しい自分でいたい。
 自分のために。そして、相手のために。もちろん外見ごときを問題にするような相手ではないと分かっているけれど、それでも、明日は何もかもがとびきりであるべきの日だ。


 少し面白くない。それがルドルフの率直な感想であった。
 姪のように可愛がっているレイラの門出は喜ばしいことには違いない。しかし、である。可愛がっているレイラだからこそ複雑な思いが消えない。
 まさに娘の結婚を控えた父親の心境である。
 だからというわけでもないのだが、根城にしている公園を出たルドルフは新倉家の庭の芝生を食べにやってきた。やけ酒ならぬやけ草食いだ。
 (何だ。まだ帰ってないのか、あのワイルドキャットは)
 22時を回ったというのに新倉家には人の気配がない。最近のアオイはずっと帰りが遅い日々が続いている。一緒に暮らしている父親などは真っ暗になってから帰宅する娘をたいそう心配しているようだが、どこで何をしているのか、アオイは「大丈夫だってば」と言うだけだった。
 いや。何をしているのかは大体見当がついている。きっと“準備”をしているのだろう。
 (準備……ねえ)
 ルドルフの口の端がかすかに吊り上がった。ルドルフにも準備しなければいけないものがある。誰に強制されたわけでもなく、自分の意志で決めたことだ。
 しかし――やはり複雑な心情は拭えそうにない。少なくとも、今はまだ。
 「……やれやれ」
 ほうと溜息を落とし、ニヒルなトナカイは軽くかぶりを振った。
 (安心しな、跳ね馬ちゃん。明日はとびきりイカしたプレゼントを贈ってやるぜ。だから今だけは許してくれないか。今だけは……)
 自分で自分に苦笑いをこぼしながら、ルドルフはゆっくりと草を食み続けた。


 同じ頃、ギャリック海賊団が住まう船の中。ヴィディスの部屋でウィズが陣頭指揮をとり、アオイも交えて準備が着々と進んでいた。
 「えーっと、んじゃ最終チェックいくよー。ウェルカムボードは?」
 「OK」
 「了解。それから二人のマスコットに、パンフ……あ、部数は大丈夫?」
 「うん、揃ってる」
 「よっし、これで大丈夫かな。じゃあこれ持ってってね」
 「……うん」
 リスト片手に最終チェックに余念のないウィズから手渡されたその品をアオイはやや緊張した面持ちで受け取った。
 (あたしが緊張することじゃないんだけど)
 それでも無感慨ではいられない。気を抜けば手すら震えそうになる。
 レイラは今頃どんな気持ちでいるのだろう。
 「ウィズ、アオイ。ちょっと」
 必要な品々を手際よく段ボールに詰めるウィズの背後でミシンを使っていたヴィディスがふらりと立ち上がった。名を呼ばれて何気なく振り返ったウィズであったが、大きな帽子の下に覗く顔を見とめてかすかに口許を引きつらせる。
 「うわっ……大丈夫かヴィディー」
 「ん……? 何が?」
 「顔、顔。目の下、ひどいクマ。そういや最近ろくに寝てないんじゃないの?」
 「ああ……うん、大丈夫。今日寝れば治る」
 ふふ、と微笑んでみせるヴィディスだったが、その顔は少し痩せたようだ。無理もない。仕事の合間を縫い、夜なべまでして熱心に制作にいそしんできたのだ。
 しかし彼の顔に疲労はない。大きな仕事をやり切ったという誇りと満足に満ちた表情だけが浮かんでいる。
 「どうかな」
 とヴィディスに促されてそれを見たウィズとアオイは目をみはり、次いで顔を見合わせ、笑顔を弾けさせた。
 「サイコー! すっごい、超絶マジキレイ!」
 「やるじゃん、ヴィディー」
 「世界一のドレスになったかな」
 「ああ、世界一だ。これを着るレイラも世界一綺麗に決まってる」
 「だけど、一緒にデザインしてくれたのはウィズだから……」
 「何言ってんの、ヴィディーの腕がなきゃここまでキレイにできないって!」
 頬を紅潮させたアオイに褒められ、首にウィズの手を回されて、ヴィディスは少し照れたように微笑んだ。レイラから報告を受けた時は手にしていたカップを取り落としそうになったほど驚いたものだ。そして「俺が腕によりをかけて世界一凄いドレスを作ってやるよ」と請け合い、ウィズと一緒に綿密なディスカッションを熱心に重ね、レイラに一番似合う気高いドレスをと寝る間も惜しんで作業を続けてきた。
 (レイラ……明日、これ着るんだ)
 一方、真っ白なそのドレスの前に立ち尽くしたアオイは熱いものを懸命にこらえる。
 不安が全くないといえば嘘になる。だが、泣くものか。明日は泣くための日ではない。
 自分に何かできることがあればと準備を手伝ってきた。ヴィディスやウィズのレクチャーを受け、レイラに身に着けてもらうための品もアオイが手ずから作った。
 ぽんぽんと肩を叩かれて我に返ると、そこにはいつものウィズの笑顔がある。
 「今日はもう帰って寝なよ。ちゃんと寝て体力回復して、明日はとびきりいい日にしようぜ。そのために準備してきたんだから。な?」
 片目を瞑って親指を立ててみせるウィズに、アオイは笑顔で肯いた。


 フェイファーが高い所を好むのは天使だからなのだろうかと時々思う。そういえば初めて邂逅したのもこのマンションの屋上だった。
 夕食を済ませたフェイファーが「ちょっと風に当たってくる」と言って部屋を出てから二時間は経つだろうか。吾妻宗主はさして心配することも迷うこともなく屋上へと足を向けた。
 「フェイ?」
 声をかけると、給水タンクの辺りで見覚えのある足がぶらんと揺れるのが見えた。
 「何してるんだい」
 「なんでもねー」
 気のなさそうな声に宗主はふと微笑を滲ませる。その気配に気づいたのか、給水タンクの上に仰向けになっていたフェイファーが怪訝そうに体を起こした。
 「何笑ってんだ?」
 「ん。出会ったばかりの頃も同じことを言われたな、って思っただけ」
 「そうだったか? 昔のことなんざ忘れちまったぜ」
 「昔……そうだね。随分前のことに思える」
 昔と呼ぶほど昔の話ではない。銀幕市に魔法がかかった後のことなのだから。それでも、出会ったあの日のことが昔に思えるほど充実した時間を一緒に積み重ねてきた。まるで幼馴染か何かのように錯覚してしまうことさえある。フェイファーという同居人は、宗主にとってそれほど身近で自然な存在になっていた。
 「寝ないのかい」
 「眠くねーんだ。っていうか俺、人間じゃねえし? 寝る必要ねえよ」
 「ちゃんと寝ないと肌に出るよ。明日は晴れの舞台なのに」
 「だからだーいじょうぶだって。人間とは違うんだから」
 人間とは違う。からりと繰り返されるその言葉がほんの少し胸に刺さる。
 宗主はその痛みを紛らわすようにタンクに背をもたせかけ、煙草をくわえて火をつけた。ライターの小さな灯がほんの刹那闇を照らし出す。街のネオンも家庭の灯も数珠繋ぎになった車のライトもこの屋上には届かない。米粒のような星屑だけが無言で二人を見下ろしている。
 早春の夜風はまだ少し肌寒い。細く吐き出す紫煙は潤んだ大気に絡め取られ、静寂の中に溶けていく。宗主の手の白さと煙草の先端だけが暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
 「人間じゃない……か。だけど、彼女はそれを受け入れているんでしょ? 多分、きみを好きになった瞬間から」
 フェイファーは「ん」と曖昧に言葉を濁しただけだった。受け入れるまでに時間がかかったのはフェイファーのほうではないかと宗主は思う。覚悟という名のその感情を固めるまでに時間を要したのは彼女のことを大切に思うからこそだろうけど。
 だが宗主は何も言わない。フェイファーのことは一番近くで見てきた。彼の考えることは訊かなくても分かるから、わざわざ言葉にして尋ねはしない。
 「そうだ、フェイ」
 代わりに、ナチュラルな微笑を浮かべてフェイファーを振り仰いだ。「俺もね。ここで初めてきみと会った時はとても人間には見えなかったよ」
 「あ?」
 「酷い有り様だったよね。動物か何かみたいだった」
 フェイファーはこの屋上に“落ちていた”。落ちていたとしか思えないほど無造作に倒れていたのだ。酷い手傷を負ってまるで襤褸雑巾のようになっていたフェイファーの姿は、一見しただけでは本当に獣としか思えなかった。煙草を吸いにたまたま屋上に出てきた宗主が発見しなかったらどうなっていたか分からない。
 すぐに部屋に運んで介抱したところ、どうにか意識を取り戻してくれた。目を開いて宗主と視線が合った瞬間にひどく驚いていたフェイファーの顔を今でもはっきり覚えている。
 ここが銀幕市という場所であること、この街にかかった魔法について一通り説明した後でフェイファー自身のことをいくつか尋ねてみたが、答えてはくれなかった。声というものを持っていないのだろうか、それとも何らかのショックで失語症のような状態に陥っているのかと訝ってしまうほどに頑なに口を閉ざしたままだった。
 どこかに行くにしても動ける状態ではなかったので、ともかく一晩泊めてやることにした。弱った体に負担の少ない物をと、ありあわせの材料を用いて薄味のリゾットを作った。味はどうだと尋ねても答えてはくれなかった。それでも無言で全部平らげてくれたから、ようやく少し安堵した。
 傷が塞がって動けるようになるまで居ればいいと勧めたが、翌朝、フェイファーは無言で部屋を出て行った。
 「よかったらまたおいで」
 血に染まった包帯が痛々しい背中にそう声をかけたが、やはりいらえはなかった。
 しかしそれ以来、フェイファーは時折ふらりと宗主の元を訪れるようになった。そんな時には決まって温かい食事を作って一緒に食べた。初めのうちはやはり口を閉ざしていたが、それでも少しずつ言葉を交わしてくれるようになった。「ああ、ちゃんと喋れるんだ」と安堵したものだ。一緒に過ごす時間が徐々に増えていき、やがて使っていなかった部屋を与え、一緒に住むことになった。
 フェイファーは気さくで、人なつっこい男だった。ソファに寝転んでテレビを見て、料理番組に登場したメニューを宗主にねだる様などは些か怠け者に見えたが、憎めない奴だった。
 ただ、出会った時のあの怪我の理由だけは未だに知らずにいる。尋ねても「なんでもねー」という答えが返ってくるだけだったから、いつしか訊かなくなったし、気に留めないようにした。
 「あの時……黙って出て行ったきみがまた来てくれた時、嬉しかったよ」
 「よせよ、今更そんな話」
 「はは、そうだね。ちょっと感傷的になってるのかも」
 「何だ? 今日の宗、ちょっとおかしいぜー?」
 「そうかな。うん……そうかも知れない」
 明日は特別な日だから、と宗主は言葉少なに付け加えた。
 例えばそれは、子の結婚式の前夜、子とともに過ごした日々の記憶をたぐりながら笑顔を浮かべたり涙を流したりする親のように。
 よきルームメイトであるフェイファーを子のように思うのは大袈裟だろう。そもそも天使であるフェイファーの実際の齢は三千に近いのだ。それでも、傍で見守り、見守られながらともに過ごしてきたことには変わりない。そんな相手に対して同居人以上の深い絆を感じるのは不自然なことだろうか。
 「じゃあ、俺はそろそろ戻ろうかな」
 とりとめのなに会話を交わし、二本目の煙草がだいぶ短くなった頃、宗主はいとまを告げた。
 「ああ。――宗」
 立ち去ろうとした宗主をタンクの上に胡坐を掻いたフェイファーが呼び止めた。緩やかに振り返った宗主は視線だけで続きを促す。
 「ん、その」
 人なつっこいはずの天使は視線を伏せ、どこかばつが悪そうにがりがりと頭を掻いた。
 「……よろしくな、明日」
 「こちらこそ。楽しみにしてるよ」
 宗主はくすりと微笑んで返した。実はちょっとしたサプライズを用意してあるのだが、それはここでは明かさない。口に出してしまったらサプライズではなくなる。
 「綺麗だ」
 穏やかな夜空を仰いで宗主はそっと目を細めた。「きっと晴れだね、明日」
 降ってくるような、とまではいかないが、頭上には透明な星空が広がっている。早春の潤んだ大気の中で滲んだような光を放つ星々は静謐で、美しい。
 「――ああ。晴れだな」
 フェイファーがほんの少しはにかんだように笑ったから、宗主は嬉しくなってもう一度微笑んだ。


 フェイファーとレイラの結婚式前夜。
 新郎新婦と、二人に近しい者たちは、それぞれの想いを抱きながら眠りに就く。
 心に過ぎることは様々であったが、誰もが、明日を最高の日にすることを誓って。


■scene 3 the finest day■

 陳腐な言い方をすれば、天気までもが二人を祝福しているようだった。
 しかし陳腐であろうと構いはしない。喜ばしい日に空模様など関係ないとしても、やはりすっきり晴れ渡ってくれたほうが気分も高揚するというものだ。
 春という季節には人の心を浮き立たせる魔力のようなものがあるのかも知れない。適度に湿った暖かい風はほのかに花の香を含んで、心地良い。五月の薫風とは違う甘やかさが何とも言えず、そよそよと吹き渡りながら心と体を柔らかく撫でていく。
 「はーい、こっちこっち。あ、そっちの小さい箱は礼拝堂の前にヨロシクねー」
 神父の手によって念入りな掃除と手入れが施された聖ユダ教会に軽快なウィズの声がこだまする。ラフなジーンズ姿はもちろん作業に備えてのこと、準備が済めばきちんと着替えるつもりだ。ウィズの脇で黙々と準備を手伝っているヴィディスやユダ神父も普段着同然の格好をしている。
 「ふむ。見れば見るほど素晴らしいですね」
 ウィズお手製のパンフレットを眺めながらユダは感嘆の息を漏らした。「まるで業者さんに頼んだような出来上がりですね」
 「あはは、どうも。印刷所とかにはちょっとしたツテがあるからさ」
 「このイラストもウィズさん自ら?」
 「まーね」
 「いや、見習いたいものです。教会のアピールのために私も手描きイラスト付きのパンフレットを作製したのですが、あまり評判が芳しくないようでして」
 「そりゃ、神父さんが描くイラストじゃ……」
 「よせって」
 ぼそりと突っ込みを入れたヴィディスを肘で小突き、ウィズは神父に向かって愛想笑いを投げかけた。
 パンフレットもウェルカムボードもウィズが腕を振るった。パンフレットには二人の写真を始め、馴れ初めのダイジェストや互いのプロフィールなどが事細かに記されている。ウェルカムボードはあえて手書きのラフさを残し、手作り感を大事にした。カラフルな文字と花が踊るボードにはウィズお手製のフェイファーとレイラのマスコットがちょこんと備え付けられている。フィギュアと呼んでも差し支えないほど精巧な――秋祭の際に出店したフィギュアくじの景品にも劣らぬほどの――出来の品だ。
 「あれ……ルドルフのおじさんは?」
 さっきまで黙って荷物運びをしていたトナカイの姿がないことに気付き、ヴィディスが首を傾げる。
 「ああ、トナカイの旦那ね。ちょっと外の空気に当たってくるってさ」
 何だか複雑な気分みたいだぜ、とウィズは悪戯っぽく肩をすくめてみせた。


 「少なくとも、法的に根拠のある手続きは……」
 対策課の職員はそこで言葉を濁したが、最後まで聞かなくとも結論は容易に推察できた。
 以前から言われ続けていることだが、ムービースターは法的には人ではない。だから法的拘束力のある婚姻届を受理するという手続きは事実として行えない――。単純明快な筋道だった。
 「ただ……民間でなら、婚姻届のようなものを受理する代行サービスの類を手掛ける企業はあるかも知れません」
 「民間で、ということは」
 職員の言葉を反復し、レイラは静かに目を上げた。「とにかく、届け出の受理は役所では行われていないということですのね」
 「そういうことになります」
 申し訳ありません、と小さく詫びた職員を制し、レイラはアオイを促して対策課のカウンターを離れた。
 しばらく二人とも黙っていた。フェイファーは一人で式場選びに出かけたと聞かされていたが、レイラがなぜフェイファーではなく自分を誘って市役所にやって来たのか、アオイには何となく分かったような気がした。
 法的人格のないムービースターとの婚姻届は受理してもらえない。
 即ち、世界に認められることはないということ。
 それは、ムービースターが“いずれ消える存在”であることを大前提としているから。
 「――民間企業では物足りませんわね」
 「え」
 平素と変わらぬレイラの声で沈みかけていた思考を引き戻され、アオイは目を揺らす。視線が合うと、レイラは青い瞳を静かに細めて微笑んだ。
 「わたくしはいついかなる時でも“本気”をモットーにしておりますの。民間での代行サービスではそれこそおままごと、玩具のようなものですわ」
 「……レイラ」
 「誰かに認めて欲しくて結婚するわけじゃありませんもの」
 凛と背筋を伸ばした姿も、真っ直ぐに前を見つめるシャープな目許も、眩しいくらいいつものレイラで……知らず、アオイは足を止めて親友の横顔を見つめていた。
 「公認なんてなくても構いませんわ。気持ちで……魂で結ばれているという証さえあればいい。後悔はしたくない、だから式を挙げたい。そう思っているだけですの」
 レイラはアオイが立ち止まったことに気付かぬまま歩を進めているから、アオイとの間にほんの数歩の距離が出来てしまった。
 同い年だ。レイラとアオイは間違いなく同い年だ。それなのに、見慣れている筈の親友の背中が、どうしてこんなにも凛々しく、美しく見えるのだろう。
 「あら。アオイ?」
 さすがに気付いたのか、レイラが不思議そうに振り返る。
 アオイは「何でもない」とかぶりを振り、小走りにレイラに追いついてその手を握った。
 「ね、レイラ。おめでとう。最初はびっくりしたけど、レイラらしいや」
 「……アオイ」
 「おめでとう。おめでとう。ああ、ダメだね、本当の“おめでとう”は本番までとっておかなくちゃ」
 「アオイ。あら」
 首に抱きついたアオイに面食らったレイラであったが、すぐに微笑んでアオイを抱き返した。
 「おめでとう。いっぱいいっぱいお祝いさせてね。他の誰が何言ったって、あたしたちはおめでとうって言うから」
 「ありがとう、アオイ。アオイたちの祝福さえあれば充分ですわ」
 「レイラ……」
 ほんの少し、しかし確かにアオイの声が震える。
 「アオイ? あら、どうしましたの?」
 「……何でもない。ちょっと息が苦しくなっただけ」
 とん、と少し勢いをつけてレイラから離れ、アオイはくるんとステップを踏んで背を向けた。
 「そうと決まったら準備、準備! あーあ、こりゃ当分忙しくなるわ」
 「まあ」
 大袈裟に拳を突き出してみせるアオイの姿にレイラはほんの少し照れたように微笑んだ。
 だからレイラは気付いていなかった筈だ。背を向けたまま殊更に明るい声音で宣言してみせたアオイが、口の中に広がる切ない味を懸命にこらえていたなどとは。


 「――どうしたの?」
 吾妻宗主の声でアオイはふっと回想から引き戻された。
 「あ、ごめんなさい。何でもないです」
 慌てて笑顔を作ってみせる。「ちょっと思い出しちゃって……レイラと一緒に市役所に行った時のこと」
 「市役所に?」
 「婚姻届を受理してもらえるかどうか、聞きに行ったことがあったんです」
 その説明だけで事情を察したのか、宗主は「そう」と柔らかく微笑んだだけだった。
 「それよりも、俺が一緒に行っていいの? 二人だけで積もる話があるんじゃないのかい?」
 「いいえ。一緒に来てください。……ご迷惑でなければ、ですけど」
 聖ユダ教会の礼拝堂に併設された控室の前、躊躇いがちに目を伏せたアオイに宗主はもう一度微笑を返した。
 「とんでもない。ちょっと得した気分だよ、新郎よりも先に花嫁の姿を見られるなんて」
 冗談めかした台詞とウインクを落とされ、アオイの緊張はようやく少しほぐれた。
 アオイよりもレイラのほうが緊張しそうなものだが、着慣れない衣裳を着ているせいもあるのか、どうしても体と心に力が入ってしまう。しかし親友の結婚式に参列するのだからめかし込むのは当然だった。アオイが身に着けているのは、肩をむき出しにした黒が基調のドレスだ。スカートの部分は左の腰の下から右の膝上の辺りまで斜めにカットされ、大胆に美しい。スカートの裾をふんわりと縁取るシフォンがシンプルなデザインの中に適度なアクセントを添えていて、華やかだ。
 目の前には『花嫁控室』という簡素なプレートが掲げられた小部屋がある。
 そして、この扉の向こうには、“新婦”としての準備を整えた北條レイラがいる。
 「開けようか?」
 ドレスに合わせた黒いストールを無意識にいじっているアオイの様子を見てとり、宗主が静かに言葉をかけてくる。
 「……いいえ」
 きゅっと唇を引き結び、両手の上に乗せた平たい箱をしっかりと持ち直してアオイは顔を上げた。
 「あたしが開けます」
 宗主はにこりと微笑み、アオイを促すように半歩後ろへと下がった。
 コンコン。ノックをふたつ。
 「レイラ。アオイだけど、入ってもいい?」
 どうにか声は震えずに済んだ。どうぞ、という涼やかな声がドアの向こうから返ってくる。
 ノブに手をかけ、できるだけさりげなくドアを開けると、そこには天使がいた。
 天使と呼ばれるべきはむしろ新郎のほうなのだが、アオイの目にはそこに座っていた新婦が本当に天使であるかのように見えたのだ。
 それほど美しかった。
 フィッティングなどしなくても、仕立て屋としての“能力”を持つヴィディスなら対象の体に完璧に合わせた衣服を作り上げることができる。だからこそ式の前夜までドレスを作り込むことが可能だったし、アオイも完成品をレイラより先に目にして絶賛したのだが……。いつかヴィディスが「人に身に着けられてこその服なんだ」と話していたことがあったが、その言葉の真の意味が今初めて分かったような気がした。
 上品でつややかな光沢は最上級のシルクならではのものだ。肩を大胆に露わにした、ごくごくシンプルなAラインのウエディングドレスである。ドレスのデザインについてああでもないこうでもないと議論したヴィディスとウィズであったが、結局、一番美しいのはドレスではなくレイラだという至極当たり前の結論に行き着いた。ならばドレスは花嫁の魅力に華を添えるためのものであるべきだという方針の元に作られたそれは、レイラの体だけに合わせ、レイラの美しさを引き立てる役割のみに徹するために余計な装飾は潔く排除してある。デコルテに施された白薔薇の刺繍が唯一のアクセントだろうか。ほっそりした体を包むドレスは胸元から腰へと美しい曲線を描き、ウエストから先の裾はすっきりとして甘すぎない広がりを見せている。スカート部分に控え目に、放射状に散りばめられた小粒のパールは人魚の髪に舞い降りた朝露のようで、レイラがバージンロードを歩けばしゃらしゃらと歓びの音を奏でてくれそうなほどであった。
 アオイが言葉をかけるのを待っているのだろう、一緒に部屋に入った宗主は口を開こうとしない。花嫁としての準備が整った親友の姿に言葉を失っていたアオイが我に返ったのは数秒後だったか、数分後だったか。
 「レイラ……綺麗。すごく綺麗」
 普段なら「超キレイ」と言っていたであろうアオイが懸命に選んだ言葉がそれだった。今のレイラを語るための言葉はそれしか思い当らなかったし、それだけで充分だった。
 「ありがとう、アオイ」
 レイラの顔に浮かぶのはいつも通りの微笑だが、何かが違う。薄く施された化粧のせいだとアオイが察するまでには数瞬の時間を要した。
 「髪はどうするの?」
 「おろしたまま、花飾りだけ挿すつもりですわ」
 「そうなんだ。うん、アップにしてゴテゴテ飾り付けるよりもレイラらしくていいと思う。――あ、それとね」
 本来の用件をようやく思い出し、アオイは手の上に乗せた箱をずいとレイラに突き出した。
 「はいコレ。届けに来たよ」
 「え?」
 「ドレスの他に何か足りない物、なかった?」
 「足りない物? ……そういえば、ベールをまだ見ていませんわね。後から届くと聞かされていたのですけれど」
 「うん。だから届けに来たの」
 早く開けてみてとアオイにせっつかれ、レイラの繊手が慎重に箱の封をはがしていく。
 「まあ……」
 中から現れたのは花嫁を包むためのベールだった。
 ほんの少しいびつなそれは不器用なアオイがヴィディスやウィズのレクチャーを受けながら手作業で作り上げたひと品だ。何度か大きな失敗をして生地を駄目にしてしまったこともあったが、親友の門出を一番近くで飾りたいという一心で丹念に織り上げた祝福の形だった。
 「これ……もしかして、アオイが?」
 「正直、見た目がちょっとアレだけどさ」
 アオイは答える代わりにばつが悪そうに襟足を掻いた。「使ってくれると嬉しいな。……駄目?」
 「どうしてそんな言い方をしますの?」
 苦笑とともに持ち上げられたレイラの瞳は濡れた膜でうっすらと覆われていた。
 「喜んで使わせてもらうに決まっているじゃありませんの。アオイが作ってくれた物なら、何だって」
 その後に添えられた「ありがとう」という一言に鼻の奥がツンとしたが、アオイは慌てて笑顔を作った。
 「じゃ、渡す物も渡したし、そろそろ行くわ」
 「あら、もう?」
 「ん、花嫁さんは色々準備もあるだろうしさ。また後でね」
 笑顔で手を振り、アオイは宗主とともに控室を後にした。次の休み時間にまた喋ろうねと約束して教室の自分の席に戻るような口調と表情を心掛けて。
 「――良かったの?」
 終始二人を見守るだけだった宗主が廊下に出た後で初めて口を開いた。他にも話したいことがあったのではないかと静かな緑眼が問うている。アオイはきゅっと唇を引き結び、かすかに首を横に振った。
 「……本当に言いたいことは本番までとっておきます」
 精一杯の背伸びと強がりを見抜いたのかどうか、宗主は「そう」と目を細めただけだった。
 準備を終えてこれから着替えに取り掛かるのだろうか、ウィズとヴィディスが二人の姿を見つけて小走りにやってくる。
 「ベール、渡したんだ」
 アオイの手から箱が消えていることに気付いたヴィディスが満足げに肯く。アオイは曖昧に微笑んで再び唇を引き結んだ。
 桜の木の下でレイラと頬を張り合い、互いの思いをぶつけ合い、固い誓いを交わしたのはちょうど一年前の春だった。
 ――わたくしは一期一会と言いたいのですわ!
 容赦のない平手打ちとともにぶつけられたレイラの“覚悟”は今もアオイの心を揺さぶる。
 今というこの瞬間がどれほど大切で貴いものか、それを忘れずに、後悔せずに生きたいのだとレイラは言った。永遠など手に入り得ぬと知っているからこそ、この魔法がいずれ必ず解けると誰よりも理解しているからこそ、レイラは毅然と背筋を伸ばして宣言したのだと思う。
 (だけど)
 だからこそ、多感なアオイの胸はきゅっと音を立てて縮んでしまいそうになる。
 (やっぱり……魔法が解けたら)
 ムービースターという存在は泡と消えてしまうだろう。レイラとフェイファーは夢の神子がかけた不完全な魔法によっていずれ引き離されることになるのだろう。
 だが、北條レイラという少女は誰に言われるまでもなくそれを知っている筈だ。そして、知っているからこそ挙式を望んだのだ。悔いのないようにと。今がいつまでも続かないからこそ最高の今を過ごせるようにと。きっとそれがレイラの“覚悟”の形なのだと分かってはいるけれど、それでも――
 「どうしたの?」
 ドレスの裾をきつく握り締めてうつむいてしまったアオイに気付き、宗主がふと振り返った。
 「アオイ?」
 「どした?」
 ヴィディスとウィズも怪訝そうにアオイを覗き込む。
 ――くしゃくしゃになってしまいそうなほど強く裾のシフォンを握り締め、勝ち気な少女はぱたぱたと涙をこぼしていた。
 「ちょ、何、なに? 感極まるのはまだ早いって」
 慌てたウィズが殊更に軽い口調でアオイの肩を叩くが、アオイは小さくしゃくり上げながら懸命に涙を拭うだけだ。
 「ゴメン……ゴメン、ゴメンね、ほんとゴメン」
 ああ、こんなにも声が震えている。こんなにも涙をこらえていたのか。絶対に泣くまいと、特にレイラの前でだけは決して泣くまいと固く決めていたというのに。
 「やだな、何コレ、こんなの……こんなのあたしじゃないね。ゴメン。今日は嬉しい日なのに」
 お祝いの日に泣いたりなんかしてゴメン、泣いたりなんかする日じゃないのにねと何度も何度も詫びるアオイに歩み寄ったのは宗主だった。言葉の代わりに幼子をあやすようにそっと背中を撫でてやる。しかしその温かい掌の感触が却って感情の堤防を決壊させたのだろうか、アオイはわっと声を上げて片手で顔を覆ってしまった。
 泣きじゃくるアオイをぽかんとして見ているヴィディスをウィズが促し、海賊二人はさりげなく背を向けた。人の視線がないほうが少しは泣きやすい。
 「うん、すぐ復活するから。ダイジョブ。二人の前では笑うから」
 だから、と辛うじて継がれた言葉は風船がしぼむように消え入って。
 「……もうちょっとだけ。もうちょっと……待って……」
 アオイを責める者も急かす者もいなかった。震える背中を宗主の白い手だけが静かに往復している。
 控室の中の花嫁に聞こえぬようにと必死で声をこらえても、溢れる涙と嗚咽は止まらなくて……宗主に背中を撫でられながら、アオイはしばらくの間泣きじゃくり続けた。


 準備は整った。
 礼拝堂の入口から祭壇へと、花嫁を導くための絨毯が真っ直ぐに伸びている。その先、祭壇の上に控えているのは神父の正装に身を包んだユダ・ヒイラギ。背後に古ぼけたオルガンはあるが、奏者はいない。讃美歌の歌詞を携えて居並ぶ聖歌隊の姿もない。
 だが、花嫁と同じ白い花で飾られた参列席には親しい者が顔を揃える。新倉アオイ、ウィズ、ヴィディス・バフィラン、そしてトナカイのルドルフ。
 ルドルフはまるで聖夜に臨むかのような衣装を身に着けていた。赤いマントに赤いハーネス、金のベル、そして柊の飾り。これが由緒正しいトナカイの正装である。
 「ルドルフのおじさん、機嫌悪いのかな」
 自作のスーツに身を包んだヴィディスが隣のウィズにそっと耳打ちする。ヴィディスが仕立ててくれたスーツを着込んだウィズは小さく苦笑してみせた。
 「察してやれって。娘を送り出す父親の心境ってヤツさ」
 「おじさんはレイラの父親じゃないだろ?」
 「大真面目な顔して突っ込むところか? 喩えだよ、た・と・え」
 「内緒話なら声量に気を付けるかよそでやりな、海賊のボーイたち」
 ルドルフから舌打ち混じりの指摘を受け、海賊二人は小さく肩をすくめた。
 もっとも、ルドルフが舌打ちしたのは二人の言葉が的を射ていたからに他ならない。
 (近寄る男にゃ蹄キックをお見舞いしてやるつもりだったがな……)
 複雑な表情を作るルドルフの視線の先には、神父の前に立ったフェイファーの姿。
 祭壇に正対している新郎がどんな表情をしているかはルドルフたちには窺えない。軽く両足を開いた自然体で、ただ静かにその時を待っているように見える。
 「あれ。そういえば吾妻さんは?」
 参列者の面々を改めて見渡したアオイが首を傾げる。
 「サプライズだってさ。後から来るよ。本当はトナカイの旦那のほうがふさわしいのかも知れないけど」
 「何か言ったか、尖り耳?」
 「いいえ、なーんにも」
 トナカイってのは耳聡いかねなどという呟きは胸中にしまいつつ、ウィズはわざと大袈裟にお手上げのポーズを取ってみせた。


 新郎を前にした神父は黙っている。新郎もまた口を開かない。
 祈りを捧げるでもなく、気を落ち着けるでもなく、フェイファーは軽く眼を閉じて回想に耽る。
 レイラとの付き合いがいつから始まったのか、厳密に定義することは難しい。しかし、出発点のひとつとなったのは一昨年の夏、星砂海岸での出来事であるだろう。ペイント弾を込めたおもちゃのピストルを持ち、パレオ付きの白いビキニという眩しい格好で現れたレイラはフェイファーに勝負を挑んだ。
 「フェイファー様、一緒に遊んで下さいませんか? ただ……わたくしは強いですわよ」
 御覚悟なさいませ、と続けてレイラが浮かべたのは、不敵なようで悪戯っぽいとびきり魅力的な笑みだった。
 「お、強気な女だな。いいぜー?」
 そして、フェイファーも不敵な笑みを浮かべてレイラの申し入れを受けた。
 レイラはフェイファーに銃を握らせ、フェイファーはレイラの背に翼を与えた。フェイファーは銃の扱いに慣れておらず、レイラはもちろん飛んだことがない。これでトントンだと笑ったフェイファーに応じ、レイラも空へと飛び立った。
 「どうだ、空は気持ちいいだろ、レイラ!」
 そんな言葉を投げかけた瞬間の、楚々とした外見に似合わぬ無邪気で無防備なレイラの笑顔は今も深く記憶に残っている。
 以来、二人で色々な所に遊びに行った。人が入れないようなビルの屋上に入り込んで夜景を見たり、美しい森を散策したり……。レイラが行きたいと望んだ場所は銀幕市の中であればどこでも連れて行ってやることができた。
 だが、レイラの本当の望みに気付いたのはいつ頃だっただろう。あの春の女神が現れた時、あの桜の下でレイラを抱き上げた時の自分は、真の意味で彼女の決意を受け入れることができていたのだろうか。
 (命を賭けて……ってか)
 フェイファーの記憶はプロポーズを受けたあの冬の日へと飛ぶ。
 ――まさに“決死の覚悟”で告げられた想いであった。


 「どした?」
 高層ビルの屋上に寝そべったフェイファーは傍らに座ったレイラにふと声をかけた。
 「……風が気持ちいいですわね」
 「ん?」
 「嫌いじゃありませんわ。冬の風は」
 物言いたげな青い瞳はすぐに長い睫毛の下に隠されてしまう。
 答える代わりにレイラはつと立ち上がり、屋上をぐるりと囲むフェンスへと歩み寄った。この場所からなら銀幕市を一望できる。レイラの眼下には精巧なミニチュアのように、作り物めいた整然さをもって区画された街が広がっていた。その向こうに見える海は夕焼けの色を映して茜色に染まり、冬らしからぬ穏やかさで静謐に凪いでいる。
 「どした? レイラらしくないぜー?」
 何か言いたいことがあるんだろ、と促しながらフェイファーも立ち上がった。
 「最近……不穏な出来事が多くありませんこと?」
 夏には絶望の王との苛烈な戦いが繰り広げられた。その後しばらくは賑やかながらも平穏な日常が続いたと思ったら、今度は地上への復権を企む神々が表れ、不穏の種がばら撒かれた。そのうちのひとつが綺羅星学園での暴動という最悪の形で芽吹いたのはつい最近の話だ。
 この街にどんな未来が待ち受けているのか、それは誰にも分からない。それでも……夢の終わりが近いのだということだけは分かっている。レイラにも、もちろんフェイファーにも。
 「――だからといって、焦っているわけではありませんのよ」
 やがて紡がれたレイラの声は震えてなどいなかった。冬の夜明けのように、凛として、どこまでも張り詰め、透き通っていた。
 「この“今”がいつまで続くか分からないからこそ」
 持ち上げられたサファイアの瞳は見る者を撃ち抜きそうなほどに真っ直ぐで。
 「フェイファー様。わたくしと結婚してくださいませ」
 己で決めた事ならば迷わず走れ、一瞬でも躊躇ったり迷ったりするような事は決心とは言わない。それが北條家の家訓のひとつだ。
 しかし、天使の金眼は人の子の覚悟を正面から受け止めることができず、かすかに揺らいだ。
 人と天使は生きる時間が違う。かつて禁を犯して口移しで生命を分け与えた“彼女”のことは過去ではない。それに、すべての人のために在る天使は人間という存在に対してどこまでも平等でなければならない。
 それはひどく残酷な宿命だ。天使という存在ではなくフェイファーという個人を見つめ、求めてくれる可愛い人の子に対してさえも“特別扱い”は許されない。
 ここでレイラという一個人を受け入れ、一度ならず二度までも禁則を犯すのか。そして……最後まで見守れぬ相手をまた作るのか。ムービースターはいつか消える身。この街で積み重ねた全てを、この愛しい記憶までをも無かったこととしてレイラの前から消えてしまうかも知れないというのに。
 「……俺のことは忘れちまえって前にも言ったろ?」
 しかしフェイファーはすべてを呑み込み、ただあの時と同じ言葉を告げる。
 天使という残酷な役目、過去の経験、そしてムービースターという不安定な存在であることがフェイファーの想いにブレーキをかける。レイラのことが大切だからこそ中途半端など許されぬ。
 だが、フェイファーの前で背筋を伸ばしたままのレイラの唇がかすかに歪むのが見てとれた。
 それは苦悶だったのか悲嘆だったのか、あるいは全く別の感情であるのか。
 「スターだから? いつか消えてしまうからとおっしゃりたいんですの?」
 涼やかな色の双眸が熾火のような色を孕む。「それは侮辱ですわ。わたくしはとっくに覚悟を決めているんですの。今更怖じるとでも思って?」
 「……いや。それだけじゃねーんだ。昔、ちょっとな」
 「彼女……ですわね?」
 フェイファーは沈黙をもって答えとなした。
 風が吹く。ひどく無機質で冷たい風が。ビルの谷間を吹き抜ける木枯らしは乱暴に二人の髪を乱して消えていく。
 「――ならば、フェイファー様」
 レイラは胸を張ったままだったから、毅然とした表情も変わらなかったから、フェイファーはつい気付くのが遅れた。
 レイラの繊手の中にいつの間にか拳銃が握られていたことに。
 止める暇もない。目にも留まらぬ速さで銃身から五発の弾丸が取り出され、目を閉じたレイラの手によってランダムに装填し直される。
 「嫌なら嫌とはっきりおっしゃって! それなら素直に諦めますわ! でも――」
 ああ。理知的な瞳が子供のように震え、真珠のかけらのような涙が白い頬をころころと転がり落ちて行く。
 「過去の運命に翻弄されるぐらいなら、今の自分の運に試されたいと思いましてよ!」
 自らの手で自らのこめかみに銃を突きつけ、レイラはきっぱりと布告した。
 それは脅しなどではなく、魂の底からのロシアンルーレット。レイラの想いそのものを乗せた危険で、苛烈な賭け。
 レイラの銃には平素から五発の弾丸しか装填されていないことはフェイファーも知っている。空砲を引く確実は六分の一。自分の力でその六分の一の運命すら引き当てられないようならフェイファーと結ばれることはできないと断じたレイラの潔さはサムライそのものであったかも知れない。
 だが、なんと激しい少女だろう。なんと激しく、強く固い想いだろう。
 「レイラ――」
 「お止めにならないで!」
 安全装置を解除する音がやけに大きく、無機質に響く。それでも自ら突きつけた銃口は微塵も震えていない。
 フェイファーの言うことは分かる。人の子の想いを受け入れるフェイファーにもムービースターを愛するレイラと同等の覚悟が必要なのだということくらい、分かる。
 だけど、それでも、忘れろと言われたのが悲しかった。忘れてしまえる程度の想いなのだと思われたことが悲しかったし、憤りのようなものさえ感じた。
 だから今度ははっきりと目に見える形で示す。これが自分の“覚悟”なのだと。
 とっくに決めた。だから迷わない、諦めたくない。原始的ですらあるその想いだけが今のレイラを突き動かしている。
 フェイファーは黙って唇を噛んでいる。自在に魔法を操れる彼がレイラの手から銃を奪うことはたやすいだろう。なのにフェイファーはそれをしようとせず、ただ真っ向から想いを受け止めんとレイラを見つめている。
 それでもフェイファーはどこか場違いな感慨に捉われていた。
 こんな時でも、レイラは身震いするほどに美しい。白いコートを燃え上がる茜色に染め、まっすぐに背筋を伸ばして自らの頭に銃をつきつけた少女の姿はまるで一枚の絵画のようだ。木枯らしに乱される髪の一本一本までもが、頬を転がり落ちる雫の一粒一粒までもが、涙で腫れ上がった目許までもが。何もかもがこんなにも美しく、愛おしい。
 「さあ……天使様。よくご覧くださいませ」
 レイラの人差し指が引き金にかかる。それでもレイラの表情は変わらない、わずかも揺らがない。
 「一発目、参りますわ!」
 凛とした、高らかな宣言が叩きつけられたその刹那。
 ごうと風が轟き、乾いた発砲音を掻き消して空へと巻き上げた。
 かすかに立ち上る煙。火薬のにおい。
 「――っ痛」
 「……フェイファー様」
 瞠目するレイラの前には眉間から一筋の血を流した天使の顔があった。
 「空砲……だったみてーだな。結構いてぇけど」
 レイラの右手は大きな両手でがっちりと掴まれ、銃口はフェイファーの眉間へと押し当てられていた。レイラが銃を発射する間際、レイラの手ごと銃を掴んだフェイファーが自らの眉間に向かって引き金を引いたのだ。
 「……本当は」
 焼けつくような銃口をとりのけようとしないまま、陽気な天使は顔を歪めてついに心底を吐露する。
 「寂しかった。恐かった。ずっと傍に居てえけど、居られねえから。もし俺がスターじゃなかったとしても、元々人の子とは同じ時間を歩めねえんだからって……諦めたふりしてやり過ごすしかなかった」
 ずっとこらえてきたのはフェイファーも同じだった。やりきれない感情が胸の底に降り積もっていたのはフェイファーも同じだった。だが、文字通り命を賭けて抗うレイラの姿に、とうとう想いを抑えることができなくなった。
 そもそも肉体という器を持たないフェイファーは銃で撃たれても死ぬことはない。エネルギー体であるフェイファーは事実上不死のようなもの。そんな天使にとって、“死”が持つ意味合いは人間とは根本的に異なるだろう。
 それでも。
 「おまえの為なら死んでもいいと思った」
 ――二人は己が手で運命を引き当て、掴み取った。
 その瞬間に笑み崩れたレイラの姿は、先程まで自らに拳銃を突きつけていた少女と同一人物とは思えぬほど無垢で、無邪気で、無防備だった。
 レイラの瞼から頬、そして唇へと、涙を拭うようなフェイファーのキスが優しく落とされる。しかしレイラの涙は後から後から溢れ、頬を、フェイファーの唇を濡らしていく。フェイファーは濡れた頬に頬を寄せ、額に額を押しつけて、レイラの一番近くで微笑んだ。
 「結婚しよう。……じゃねえな。結婚してくれ、レイラ」
 「ええ。結婚してくださいませ、フェイファー様」
 涙で顔をぐしゃぐしゃに汚した少女は、どんな女神も比肩し得ないであろうほど魅力的で、極上の、とびきり美しい笑顔で肯いた。


 吾妻宗主の声で名前を呼ばれ、レイラの意識は回想の海からゆっくりと浮上した。
 「考え事?」
 仕立ての良いモーニングに身を包んだ宗主が傍らで微笑んでいる。
 「プロポーズした時のことを思い出していましたの」
 きっとフェイファーも同じことを思い出している筈だと付け加え、レイラは目の前に佇む礼拝堂の扉を静かに見つめた。
 身を包むウエディングドレスは仲間の手作り。清涼な香りを控え目に纏うブーケはドレスと同じ純白のフリージア。繊細ながらもちょっといびつなベールの下、艶やかな黒髪に挿された青い花飾りはラベンダーをかたどったものだ。ラベンダーといえばこの聖ユダ教会のシンボルだが、あいにく今はようやく芽が出揃い始めた時期であるため、教会のものを使うことはできないのだとユダは残念がっていた。
 仲間たちの温かな気持ちに包まれた若き花嫁は小さく息を吸う。
 迷いはない。気負いもない。緊張がないといえば嘘だが、この胸に心地よく溢れる感情は緊張ばかりではないはずだ。
 「じゃ、行こうか。心の準備ができたら」
 「あら。準備ならとっくの昔にできておりましてよ」
 差し出された宗主の腕を微笑みながら取り、レイラは真っ直ぐに前を向く。
 そして、今。
 絶望の守護者の名を持つ教会の扉がゆっくりと開かれていく。
 決して広くも豪奢でもない礼拝堂は神父の手によって念入りに掃除がなされ、心地良い清潔感をもって花嫁を迎える。晴天に恵まれたおかげだろう、古ぼけた木の床の上にステンドグラスを透過した光が虹色に投影され、祭壇の中央に美しく優しい空間を作り出していた。
 祭壇へとまっすぐに伸びるバージンロード。両脇には親しい仲間たちの笑顔と祝福。その先には新郎の姿。
 レイラの目に飛び込んで来たのは四枚の天使の翼だった。この世のものならぬ天使の正装に身を包み、背中から四枚の翼を生やしたフェイファーがゆっくりと振り返る。確か、打ち合わせの段階では彼はタキシードを身に着けることになっていた筈だ。
 派手な入場BGMもドライアイスもない。オルガン演奏さえない。宗主にエスコートされ、仲間たちの拍手と祝福の真ん中を通って花嫁はゆっくりと新郎の元へと向かう。
 「……宗。何だよ、これ」
 祭壇の下まで辿り着いた二人を見てフェイファーはわずかに苦笑した。宗主は悪戯っぽくくすりと笑って柔らかな髪の毛を揺らす。
 「ごめんね、黙ってて。ちょっとしたサプライズだよ。本当はルドルフさんのほうがふさわしいんだろうけど」
 ――花嫁のエスコート? 無茶言うな、この体で人間と腕を組めって言うのか? それに、可愛い跳ね馬ちゃんを他の男の所まで連れて行く手伝いをするなんてごめんだぜ。
 そう言ってぷいとそっぽを向いたルドルフの横顔と苦笑していたレイラの顔を宗主は鮮明に覚えている。
 「だけど、俺にできるのはここまでだ」
 握ったレイラの手をそっと持ち上げ、宗主は二人の顔を順番に見つめる。
 「ここから先は、きみの……きみたちだけの領分だから。きみたち二人にしか歩めない道だから、きみたち自身の手で掴み取るんだよ。いいね?」
 通常はエスコート役が花嫁の手を握って新郎に差し出すものだが、宗主はそれをしようとしない。レイラ自身が、あるいはフェイファー自身が手を取るまで静かに待つつもりだ。
 「……レイラ」
 「はい?」
 打ち合わせと違う格好に驚くこともなく、レイラはベールの下のサファイアを静かにフェイファーに向ける。
 「綺麗だ。おまえのほうが天使みたいだ」
 「ふふ。天使様にそう言ってもらえるなんて、光栄ですわね」
 「これが真の俺だ。……よく見てくれ」
 タキシードの着用は直前で断った。天使であるフェイファーは、天使のままの姿で祭壇に上がることを望んだ。
 「――馬鹿にしていますの?」
 だが、レイラの口から半ば呆れ気味に放たれたのはそんな言葉だった。
 「そんなことは出会ったその瞬間から知っております。当たり前のことじゃありませんの。今更そんなことでわたくしが怖じるとでも思って?」
 挑むような口調だが、くすりと落とされた笑みは悪戯っぽく、無邪気だった。
 凛とした静寂を破るように呵々大笑したのはルドルフだ。
 「サイコーだぜ。跳ね馬ちゃんはそうでなくっちゃな」
 金のベルを軽やかに鳴らし、ずっと不機嫌だったトナカイは愉快そうに喉を鳴らす。
 「おめでとう、跳ね馬ちゃん。幸せになれよ」
 素直に放たれた祝福の言葉に、傍らのウィズとヴィディスは顔を見合わせて笑った。
 「それから、そこの天使」
 一転、厳しい表情を作ったルドルフは祭壇の上のフェイファーにしっかりと釘を刺す。
 「いいか。レイラを悲しませるような真似はするなよ? レイラを泣かせたらこの俺が蹄キックをお見舞いするぜ」
 「ああ」
 「ありがとう――おじさま」
 先に手を取ったのはどちらだっただろう。祭壇の上から伸ばされたフェイファーの手と宗主のエスコートを離れたレイラの手が触れ合い、しっかりと結びつき、花嫁は祭壇へのきざはしを上った。
 「お待ちしておりました。このよき日に立ち会わせていただけたこと、光栄に思います。――おめでとうございます」
 祭壇で二人に向かい合ったユダ神父は手元の聖書を開いて微笑んだ。
 「天使様の前では釈迦に説法ですが、誓いの言葉を」
 「誓いの言葉ってあれか? 病める時も健やかなる時も……ってヤツ?」
 「ええ。打ち合わせ通りです」
 誓いの言葉は新郎、新婦の順で読み上げられる。神父の朗読の後に続く形で二人が誓いの言葉を復唱するのは典型的なチャペルウエディングの光景だ。
 「あー……俺、あれあんま好きじゃねえんだよなー」
 「は?」
 ユダは美しい瞳をぱちぱちとさせながら天使を、そして花嫁を見やった。
 「花嫁側の誓いの言葉であるだろ? 夫を支え、夫に従い、ナンタラカンタラっての」
 「ええ」
 「あれ、嫌なんだわ。支えるのはお互い様だし、妻が夫に従うとか……そーいう言い方、根本的に何か間違ってるだろ」
 「あら、気が合いますわね。わたくしも常日頃同じ感想を抱いておりましたの」
 顔を見合せて笑う新郎新婦に、生真面目な神父は呆気に取られるしかない。
 「レイラらしいじゃん」
 参列席でくすくすと笑ったのはアオイだ。「ねー神父さん、堅苦しいことなんかナシでいいじゃん! 二人らしい式をさせてあげようよ!」
 「そうだ、そうだ」
 「二人のための式だろー? 細かい段取りなんかナシナシ!」
 アオイに同調するウィズとヴィディスにユダは困り顔だが、やがて苦笑して聖書を閉じた。
 「そうですね。確かに、対等な信頼という結びつきの元に互いを互いに委ねるのが結婚の本質でしょうから」
 「神父さん、話が分かる! さすが男前!」
 「よせよ」
 調子に乗って囃し立てるウィズをヴィディスが制する。ユダは参列席にも苦笑を向けてから新郎新婦に向き直った。
 「それでは、愛を誓う言葉だけ述べるということにいたしましょうか」
 「ああ」
 「ええ」
 期せずして声が重なり、二人は顔を見合せてまた笑った。


 誰もが一度は聞いたことのあるような誓いの言葉が神父によって厳かに読み上げられ、フェイファーがそれを復唱する。フェイファーが終われば次はレイラだ。いついかなる時も二人でともに在ることだけを誓う二人の背中を見ながらウィズがぼそりと呟いた。
 「……ウチの海賊船で結婚式プランニングとかやったら儲かるかも」
 「ウィズ」
 「じょーだん、じょーだんだって」
 ヴィディスに脇腹を小突かれて肩をすくめるウィズだが、全くの冗談であったようには見えない。
 アオイは無言であった。祭壇は新郎新婦しか立つことのできぬ場所。同い年のレイラが別の高みに行ってしまったようで、ほんの少し複雑な思いに捉われる。涙は懸命にこらえていた。泣くものか。涙は先程出し切った。レイラが祭壇を降りたら、たくさんの「おめでとう」だけを贈ろう。
 「いいねえ、初々しくて」
 姪のように可愛がっているレイラの門出を見守りながらルドルフは上機嫌だ。「可愛い跳ね馬ちゃんの結婚式とあっちゃ、感慨もひとしおってもんだぜ」
 「バージンロードのエスコート、本当に俺がやって良かったんですか?」
 「フン。トナカイの体じゃ人間とは腕を組めないだろうが」
 赤い鼻をうごめかせてニヒルに笑ってみせるトナカイに宗主は柔らかな微苦笑で応じただけだった。


 「――それでは、誓いの口づけを」
 絶望の守護者と同じ名を持つ神父が静かに告げる。
 アオイが作ったベールをフェイファーの手がそっと掬い上げ、ステンドグラスが作る陽だまりの中で新婦の顔が露わになる。
 はにかむでもなく怖じるでもなく、レイラは静かにフェイファーを見つめた。
 潔さを身上とするレイラも十六歳の少女だ。不安や怖れが全くないといえば嘘になる。しかしそれがレイラを怯ませることはない。不安を恐れるくらいであれば最初から決意などしていないのだから。
 だから――レイラは昨夜の日記に書き付けた。

 『例え、天使様が私の目の前から消えてしまったとしても、
  私達はずっと一緒に居るのだと思う。
  人の生活に信仰がある様に、心の中に神が住む様に、
  私の傍にはきっとずっと四枚の翼を持った天使が居る。
  私はそれで十分なのだ。
  どんな祝福を与えてもらうより、
  彼に会えたというその事が私は何より幸せだ。
  我侭だとも思うし、理解してもらえるとも思わない。
  彼でなくては嫌だ。……ただそれだけなのだから。
  銀幕市でのこの生活は私にとって奇跡であり、たった一つの宝物だ』

 夢はいつか醒める。だが、先の痛みを恐れて今を閉ざしてしまえば得るものは何もない。
 フェイファーも同じだと信じている。時間はかかったけれど、すれ違いはあったけれど、同じ帰結に達してくれたからともに祭壇に立っているのだと信じている。
 「レイラ」
 柔らかな七色の光に染められたレイラの頬にフェイファーの手が触れる。レイラはヌーディーなベージュのルージュを指した唇をくすりと持ち上げた。
 「こう改まると少し緊張してしまいますわね」
 「そうか」
 フェイファーはほっとしたように肩の力を抜いた。「実は俺もだ」
 「まあ。天使様が何をおっしゃいますの」
 「んー、それを言われるとな……」
 悪戯っぽく睨んでみせるレイラと、きまりが悪そうに頭を掻くフェイファーの姿に切なさや悲壮感はない。ただただ人生最良の門出に臨む新郎新婦の姿だけがそこにある。
 「……じゃ、いくぜ」
 「ええ」
 フェイファーの手がレイラの顔をそっと上向かせるのと、レイラが静かに目を閉じるのはほとんど同時だった。
 刹那、沈黙。
 目を閉じたフェイファーの唇がレイラの唇を精確に探り当て、重なった。
 そっと触れ合うそれは濃密でも官能的でもない、この春の日だまりのように優しく柔らかな接吻。
 ほんの数秒間であったけれど、レイラにはそれが数分にも数時間にも感じられて……フェイファーの唇が離れるよりも早く、感情が堰を切ってしまっていた。
 「あ――」
 思わず声を上げたのは誰だったのであろう。
 レイラは泣いていた。涙を流して泣いていた。
 泣くまいと決めていたのに。決して泣くものかと決めていたのに、どうしてこんなにも涙が止まらないのだろう?
 「化粧落ちるぜー?」
 そして、くすりと笑ったフェイファーはあの時と同じようにキスで涙を拭い、額に額を押し当てて一番近くでとびきりの笑顔を落とした。
 「ま、化粧なんかしなくたってレイラは綺麗だけどな」
 「……まあ」
 言葉が出ない。とめどない感情と涙が胸を塞いで、言葉が出てこない。
 「これで式は済みました」
 手元の聖書を閉じ、神父は温和な笑みを浮かべて胸で十字を切る。「おめでとうございます。結ばれたお二人に神のご加護を」
 たとえ世界は認めずともこの場にいる者全員が証人だ。親しい仲間たちと、絶望者を守護する聖人の名を冠した教会に二人の証が刻みつけられる。
 「おめでとう!」
 「レイラ、おめでとう!」
 「おめでとう、フェイ」
 神父の宣言を待っていたかのように参列席から次々と祝福が飛ぶ。賑やかに指笛を鳴らして盛り上げてくれるのはウィズだろうか。やがてそれはアカペラの讃美歌へと変わり、華やかに二人を包み込む。海賊二人組は肩を組み、アオイは事前に教わった歌詞を懸命に思い出しながら、宗主は微笑みとともに、低音を奏でるルドルフは曲に合わせて首のベルを鳴らしながら祝福の詞を紡いでいく。
 愛する者の目の前で、神父と親しき者たちに見守られながら泣きじゃくり、笑み崩れるレイラは、恐らくこの日、世界でいちばん美しかった筈だ。


■scene 4 shower of gratitude■

 指輪の交換はしない。証を形にする必要などないし、形などいらない。愛する者との記念を欲しがるのが女心かも知れないが、後々まで残る形あるものをと望むことはいずれ離別が訪れることを前提にしているようで――別れを怖れて弱気になっているようで、レイラは良しとはしなかった。
 指輪などなくてもフェイファーはいつでもレイラの傍にいるし、レイラもフェイファーの傍に留まり続けるだろう。リングというちっぽけな金属の輪で縛られるまでもなく、魂に刻まれたこの想いが消えることはない。
 フラワーシャワーの祝福を受け、二人はゆっくりと教会の庭園へと出る。降り注ぐ花びらたちがきらきらと輝いているのは早春の陽光のせいなのか、それともフェイファーを祝福する精霊たちが風に色彩を与えてくれているのだろうか。
 「レイラ!」
 真っ先に新婦に飛びついたのはやはりアオイだ。
 「おめでとう、レイラ、おめでとう!」
 「アオイ――」
 「おめでとう。あたしも嬉しい。おめでとう、おめでとう」
 “おめでとう”の次は“お幸せに”が常套句だろう。しかしアオイは“お幸せに”などとは言わない。レイラならいつでも自分の力で幸せを掴み取れるに決まっているのだから。
 「アオイ、ありがとう。このベールもとっても素敵ですわ」
 「や、やめてってば、照れるじゃん」
 「ふふ。だから、お返しにこれを受けとってくださる?」
 レイラが差し出したのは白いフリージアのブーケ。花言葉は純潔、慈愛、親愛の情。
 「え……これって」
 アオイとてブーケトスの意味くらいは知っている。ちらりと脳裏をよぎったのは赤い瞳を持つ武将の少年だ。
 「あたしまだ結婚なんて――」
 「そういう意味じゃありませんわ。わたくしの覚悟を、次はアオイに託します」
 純白のウエディングドレスに身を包んだ花嫁は純白の花を差し出し、背筋を伸ばしたまま宣言した。
 「といっても、誤解なさらないで。わたくしと同じ道を選んでほしいだなんて言っているわけじゃありませんのよ。――このプレシャスな“今”を守るために……後悔しないために、これからもわたくしと一緒に歩んでほしいのです。いかがかしら?」
 静かにアオイを見つめるレイラは微笑んでいるが、涼しげな双眸には切ないまでに真摯な光が満ちている。
 ――アオイはくしゃりと頭を掻き、大袈裟に溜息をついてみせた。
 「何言ってんの、今更」
 「……アオイ」
 「なんでそんな言い方するかなぁ? そんなのさ、とっくに約束してんじゃん。去年の春に」
 レイラは幾度か目を瞬かせ、その後で満開の牡丹のような笑みを咲かせて肯いた。
 「ありがと。受け取るね。あたしとレイラの誓いの証、ってとこかな」
 フリージアを胸に抱き締め、エアリーな香りを胸いっぱいに吸い込む。勝ち気なアオイらしからぬ少女めいたしぐさに一同は顔を見合わせ、好意的な笑みをこぼした。
 「お二人さん、お疲れ。着替える前にちょっとこっち来てくれるー?」
 ギャルソンのようにおどけて一礼してみせたウィズが新郎新婦をエスコートし、庭園を進んでいく。
 「ウィズ様。トナカイのおじさまはどちらに? 外に出た途端、お姿が見えなくなってしまったのですけれど……」
 「だーいじょぶだいじょぶ、すぐに会えるから」
 ぱちんとウインクをしてみせたウィズの言葉通り、ほどなくしてレイラとフェイファーの視界にトナカイの角が現れた。
 「よう、お二人さん。待ってたぜ」
 とっておきのソリにカラフルな空き缶を数えきれないほど結び付けて待っていたのはルドルフだ。
 「おじさま。これは?」
 「俺からのプレゼントだ。ちょいと気が早いが、プチハネムーンと行こうじゃないか」
 フェイファーはひゅうと口笛を吹き、レイラは顔を輝かせてルドルフの首に抱きついた。一緒に銀幕市の外に行くことはできない二人にとっては何よりのプレゼントだ。
 他の参列者も見送りに駆けつけ、場が一気に華やかな空気に包まれる中、新郎新婦はオープンカーならぬソリへと乗り込んだ。
 「さあ、準備はいいかいお二人さん。この空の彼方まで連れてってやるぜ!」
 色とりどりの空き缶が高らかなリズムを奏で、正装したトナカイは空へと翔け上がる。手を振る仲間たちの姿が小さくなり、教会が遠のいて、銀幕市の景色が見る間に豆粒の大きさへと化した。
 蕾の下から控え目に色を覗かせる花の香りに染まった風と空は柔らかく、新しい季節への期待で膨らむ胸のように弾みながら二人を包み込む。あの夏の日、フェイファーによって与えられた翼で飛び立った時とは違う感動にレイラは目を輝かせ、アオイが作ってくれたベールを飛ばされまいと頭を押さえながら破顔した。
 「おじさま、素敵! こんな素敵なことって、他にありませんわ!」
 「何言ってるんだ、素敵なのは跳ね馬ちゃんのほうじゃないか。それ、ちゃんと掴まってな!」
 ご機嫌なトナカイはぐんぐんスピードを上げ、青空の中を駆け抜ける。触れ合う空き缶が打ち鳴らす軽快な旋律は心まで浮き立たせてくれるかのようだ。フェイファーの力なのだろうか、風や空気の精霊までもが惜しみない祝福を贈ってくれているかのようにきらきらと輝いていた。
 「なあ、レイラ」
 特等席で贅沢な空中散歩を楽しみながら、フェイファーがソリの縁に手をかけて立ち上がった。
 「結婚式の本当の意味、知ってるか?」
 「え?」
 「ちらっと聞いた話じゃ、結婚式ってのは本当はゲストが主役なんだそうだぜ」
 誤解されがちだが、結婚式とは新郎新婦が幸せを披露し、祝福を受け、着飾り、楽しむためのものではない。自分たちを育て、見守り、温かい気持ちを向けてくれたゲストに感謝の意を贈ることこそが本来のウエディングの意味なのだ。
 「だから、祝ってくれたみんなに……俺たちを受け入れてくれるこの街に、感謝を」
 魔法がもたらしたのは幸いだけではないと痛いほど理解している。ムービースターという存在が真実の意味で受け入れられているとは言い難いこともよく分かっている。
 だが、この不完全な魔法がなければレイラと出会うこともなかった。受け入れてくれる仲間たちがいなければ今日という日を迎えることもなかった。
 「――どうか、皆に幸いを」
 二対の翼が大きく開き、美しい唇がこの世のものならぬ詞を紡ぎ出す。
 その時間に外を歩いていた者がいれば、虹のかけらのように降り注ぐ光のシャワーと、空にたなびくオーロラのような光の幕を見た筈だ。
 フェイファーの体が纏うエネルギーは透き通った声に乗り、銀幕市の全域に優しく降り注ぐ。特殊な能力を持たぬレイラの目にさえも、彼の周囲で渦を巻くように舞い踊る七色のダイヤモンドダストがはっきりと見てとれた。風に舞うフェイファーの髪の毛の先一本一本までもに精霊がじゃれついているかのようだ。それにこのテノールは直に心に響く。体に入り込み、隅々まで広がって気持ちを揺さぶるような天使の声は人間とは異質だが、人の体に、心に、ひどく心地良い。
 天使がもたらす柔らかなきらめきに包まれる銀幕市はこんなにも美しい。その身に孕んだ混乱の胎芽さえも今は影を潜めているかのよう。
 ――だからこそ錯覚してはいけないのだと、幸福のさなかにあってもレイラは決意を新たにする。
 (終着点なんかじゃありませんものね)
 きっとこれから全てが始まるのだ。この街も、自分たちも。
 それでも……今はこのきらめきを目に焼き付けておこう。
 歌を紡ぐフェイファーの隣に立ったレイラは深く息を吸い込み、眼下の街に向かって高らかに宣言した。少女の決意は天使の歌とともに降り注いだが、肝心の内容は吹き渡る風の音にさらわれて聞き取ることができない。
 「レイラ。なんて言ったんだ?」
 「秘密ですわ」
 しかし、フェイファーの問いに悪戯っぽく答えたレイラの表情は、この空のようにどこまでも晴れやかだった。


 (了)

クリエイターコメントたいっへん、たいっへんお待たせいたしました!
年末にオファーを頂いておきながら結局締切間際の提出となり、申し訳ありません。
そして、おめでとうございます。
こんな大切な日の記録を託していただいた隅っこライターはいつもより更に隅っこに行って縮こまっている次第であります。

お式が始まるまでにどれだけ字数を割けば気が済むんだろうと自分でも頭を抱えましたが、そこはそれ、結婚式は準備期間も含めて結婚式でございます。
結婚するお二人はもちろんのこと、お二人を祝うゲストさんたちの気持ちが幾重にも織りなされるのが結婚式だと思っておりますので、皆様の想いをひたすら描かせていただきました。

むしろ、結婚式に至るまでの間に様々な迷いや葛藤があったのではないかと感じました。
そのため、お式の当日は晴れやかな祝福の雰囲気を強調いたしました。諸々のもやもやをふっ切ったからこそ結婚式という選択に至ったのではと拝察いたします。

それでは、繰り返しになりますが、この度は本当におめでとうございます。
そして、おこがましいようですが、このノベルが同じ立場にあるカップルさん達にとっても何らかの励みになれば幸いです。
公開日時2009-03-23(月) 18:40
感想メールはこちらから