★ 母の愛、その基準は ★
クリエイター西(wfrd4929)
管理番号172-5495 オファー日2008-11-27(木) 15:10
オファーPC 栗栖 那智(ccpc7037) ムービーファン 男 29歳 医科大学助教授
<ノベル>

 栗栖那智がその看護婦と出会ったのは、単なる偶然からだった。
 臨時で付属病院の手伝いに借り出されていた時、たまたま担当の部署が同じで、顔を合わせた。一時の、仕事での関わり。彼にとっては、それだけの関係に過ぎない。
「小川智恵と申します。よろしくお願いしますね? 栗栖先生」
「……よろしく」
 だが、彼女にとっては、ひどく大きな意味合いのある、出会いだったようで――。限られた期間内でも、智恵は活発に動き、那智に接近して行った。
「仕事が終わったら、一緒に食事なんてどうです? 個人的に、話したいこともありますし……」
「私の勤務が終わるまで、夕食を遅らせるつもりか? そこまで君を付き合せる義理は、ないと思うが」
「はい。ですから、個人的な行為です。――ご迷惑、でしょうか?」
「……好きにしたまえ」
 それはもう、子供が親に懐くも同然の、付き合いとなった。最初は那智も、彼女を苦手に思っていたが……何となく、邪険に出来ない何かがあるようで、いちいち相手にしていた。
 やがて手伝いは終了し、付属病院とも縁が切れたのだが……今度は智恵の方から、那智の病院へと通うようになった。

――私のどこが、お気に召したというのだろうな? 一応、己が朴念仁であるという、自覚くらいはあるつもりだが。

 いささか過剰ともいえる、彼女の懐きように、那智は戸惑っていた。しかし、決して不快ではない感覚があり、個人的に少し付き合う程度なら、許容できると思っていた。
 結果として、二人は何となく、良い雰囲気を作り上げるようになり、よく話す様になる。機会を作るのは、いつも智恵の方からで、那智は特別に動いたことは一度も無かった。
 それでも、二人の仲が壊れることはなく、関係は続く。この辺りで、知り合いの医師や看護師などに『恋人が出来たか?』と冷やかされるようになるが――。
「その発想は無かった。……が、くだらないな」
 と一刀両断した。那智は、智恵を性欲の対象として見たことはない。そもそも、そのような欲求の処理自体、必要かどうか疑われるような男である。
「一応いっておくが、嘘ではないぞ。恋人にするつもりなら、もっと積極的に、こちらから動いているだろう。……まあ、そちらが恋愛に幻想を抱くのは、勝手だがな」
 無表情の、真顔でそう返されれば、冷やかす側としては面白くないことこの上ない。では別方向から攻めるべき――と。野次馬は智恵に取り付くのだが、こちらの成果もまた、かんばしくなかった。
「憧れの人ですから」
 男女間の付き合いに、恋愛以外の感情が絡むことは、ありえるのだろうか? 凡人は、誰もが自分を基準にして、物事を考える。
 そうであるからして、この二人の関係も、何かしらの下心が絡んでいる……と。そう推察する者が、大半を占めていた。
「わからん奴には、好きに妄想させるがいいさ。別に勤務に差しさわりが出るわけでも、ないのだから。君も、それが嫌になったら、いつでも私から離れていいんだぞ?」
「それこそ、愚策、って言うものじゃないですか。わざわざ世間に合わせる為に、私が好きな人を嫌いになる必要が、どこにあります?」
 智恵は、よくこうして那智への好意を口にするが、そこに女としての劣情は感じられない。那智もきちんとこれを理解しているから、特に感想も述べることなく、軽く流した。
 皮肉なことに、周囲がどれほど低俗な噂を立てようが、二人の関係は変わらなかった。那智は出会ってからこれまで、智恵の身体には、指一本たりとて触れてはいない。これからも、そうだろう。
 元々、偶然から生まれでた関係なのだ。いつ消滅しても惜しくはない、と那智はたかをくくっている。執着しているのは智恵の方なのだから、もし彼女が考え違いでも起こしたら、その時こそ関係を解消させれば良い。

――しかし、彼女は聡明だ。それがまた、世間の馬鹿な女とは違って、好ましく写る。

 むき出しの感情を見せて、無条件慕ってくるという……子供のような一面が、智恵にはある。それがあまりに強烈だから、他人にはわからぬのだろう。
 彼女の本質は、実に明確で、論理的。かつ、那智の好みに合うほどには、知性と感情のバランスが取れていた。そもそも懐く理由からして、余人には真似できぬものであり――彼は、それを面白く思ったものだ。
「一番能力のある人を、一番未熟な人が憧れるのは、当然の図式じゃないですか」
 簡単に言うが、分別があって、恥と見栄をがちがちに身につけた大人としては、なかなか言えぬ台詞である。
 これは那智にはありえない部分で、その点も彼は評価している。また、これで言動が一貫してぶれることがないのだから、見事と言うほかない。

――飾りはいらん。中身が重要だ。……それを真の意味で理解できる異性がいたとは、なかなか愉快な驚きではある。

 今も、付き合いは続いている。一般的な男女の関係としては、まず見られない形態であったろう。那智にはそれが新鮮で、手放しがたく思えた。出来るなら、長続きして欲しいものだと、感じる程度には。
 智恵もまた、現状に満足している。
 こう断言できる辺りに、那智の信頼の度合いが、見て取れよう。いずれ変化するとしても、それは遠い未来のこと――。どちらかが、異性のパートナーを見つけた時だろう。そしておそらく、見つけるのは、彼女が先になる。那智は、これを確信していた。

――あれほどの、女性だ。他の男が放っておくはずも、ないだろうよ。

 そう、彼は思いたかった。だが、それが幻想に過ぎなかったことを、すぐに思い知ることになる。
 結果的に、関係を崩すのは那智で、原因も彼の方にあった。いわば、神の悪戯とでもいうべき、運命の皮肉によって……二人の関係は、微妙にこじれてしまうのである――。



 まさか、智恵の母親と病院で会うことになろうとは。
 これが意図的なものでないとしたら、何と言う神の采配であろう――と那智は思う。
「私が担当することになったのも、何かの縁か」
 智恵の母親は、家事の途中で倒れ、一日寝込んでいたという。翌日になって病院で見てもらうことにしたのだが、ここで大事を取って、検査入院することになったのだ。

――家族には、愛されているらしい。良い母親のようで、何よりだ。

 普通は、ここまで心配されることはない。彼とても、家族という関わりについて、さほど習熟している訳ではないが――。ちょっと体の具合が不振だからといって、即検査入院を勧めるものだろうか?
 例としては、間違いなく少数派だろう。そう思えば、この母親に向けられた、家族の思慕の強さに、改めて驚いたものである。
 那智は、母親という存在を、良くは知らない。愛するものか、愛されるものか、その違いさえ、わからなかった。だから、間近で見て、体験できる智恵が、少しだけ羨ましい。

――私には、サンプルがないからな。執着するほどのことでもないが、興味はある。

 彼自身の、複雑な家庭環境を鑑みれば、複雑な感情が渦巻いて、良い場面である。それを冷静に考察の対象に出来るのは、那智の精神が、成長した事を示すのか。
 ともあれ、彼は仕事にかからねばならぬ。思案も考察も、その後のことだ。
「おや……?」
 基本的に、医者は患者と個人的な関係を作ることはない。だから、那智が智恵の母親と対面することになったのは、意識してのことではなく、単なる偶然の産物であった。
 ちょっと通りがかった、病院のロビー。そこで彼は、智恵と、その母親を見つけてしまったのである。
「あ、那智さん。奇遇ですね」
 話しかけてきたのは、智恵の方からだった。今日は業務で来ているわけではないし、ちょうど休日でもあったのだろう。私服姿の彼女は、那智から見ても、悪くはなかった。
「どうも。栗栖那智です。よろしく」
 智恵とは個人的な関わりがあるだけだが、母親や、その家族に対しては、初対面である。軽く会釈して、口調は丁寧に。医師が患者に接するのと同じような態度で、彼は臨んだ。
「奇遇といえば、確かに奇遇だな。今日は、見舞いか」
 しかし家族の前でも、智恵への対応は、変わることがないらしい。この部分のけじめのつけ方は、まことに彼らしく、いびつな形になっている。
「……何? この人」
 家族と一緒に、見舞いに来ていたのだろう。母親らしき人の傍には、もう一人。女性の姿があった。
 おそらく、智恵の妹なのだろう。顔立ちは似ているが、やや幼い。那智の目には、十代後半くらいに見えた。母親の入院に駆けつけるほどである。その心根は、きっと優しい物を持っているのだろう。
「家で話したこと、あるでしょう? 前に病院で、お世話になった人よ」
「ああ、それからも、ちょくちょく会ってるんだっけ? ――ふぅん」
 何かを見定めるような視線で、彼女は那智を見ていた。多少居心地の悪い思いをするが、那智はそれを許容できぬほど、了見の狭い男でも、ないつもりだった。

――何か、勘違いをしたがっているような、そんな目だな。どうも、妹殿の器量は、姉のそれと比べて、随分と小さいらしい。

 冷笑的な感想であったが、それも那智の一面である。しかしここで正直になる必要もなかろうと、ごく常識的な言葉で、これにあたった。
「小川智恵さんとは……友人として、交遊を持たせて頂いている。実に類稀な人であり、付き合うに値する方であると、思っていますよ」
 自己紹介の機会に恵まれた事を、複雑に思いながらも、彼は答えた。智恵との関係については、少し迷ったが……こう評するのがもっとも正しいだろう、と考えている。
「友人? 交遊……ねぇ。まあ、いいか。わたしは小川美紀。お姉をよろしく頼みますよー」
 愛想良く接してくれるのは、まことに結構なことだと、思いはする。だが、意味ありげに微笑んで、関係を邪推するような態度をとるのは、いかがなものか。
「こら。余計な事を言わない。……すみません、那智さん。うちの妹が、変な事を言って」
 それは那智よりも、智恵の方が気に障ったようで、これを注意した。行儀のいい女性だと思っていたが、身内には厳しいらしい。
「変でも妙でもないだろう。友人として、健全な関係を維持して欲しい。そうとも取れる言葉で、あったのだからな。妙な方向に受け取るのは、君自身にそうした他意があるからではないか?」
 まるで智恵を試すような言い様ではあるが、それが那智と言う男であるのだから、仕方がない。直前までは、智恵と同じ感想を抱いていたのに、口に出るのは正反対の言葉。彼にしてみれば、この態度にもきちんと意味があるのだが……それを、彼女が理解できるかといえば、別問題であるはずである。
「どうなのかな? その辺は。ぜひとも、教えて欲しい」
 付き合うに足る相手であるからこそ、遠慮をしないで物を言う。そうする程度には、心を許している……とも言えるので、決して悪意があって言っているわけではないのだが――。
「うわー」
 美紀の方が、面白がっているような声を出して、笑う。智恵の方は反対に、笑い事ではなく、真剣に検討している様子だった。
 そして、口を開く。
「他意は、ないです。……那智さんこそ、わざわざそんな風に解釈するなんて、意識している証拠じゃありません?」
 まずまず、合格といってよい回答だった。ここで感情的にならないだけでも、那智には好ましく写る。
「ふむ。こいつは一本取られたかな? ……まあ、それはそれとして、家族の見舞いか」
「ええ。大事はないと、思うんですけど」
 そうして、智恵と那智は、母親に目を向ける。そこで二人は、思わぬものを、目にすることになった。妹の美紀も、これは想像していなかったらしい。
「……え? どうしたの? 母さん。顔が真っ青だけど」
「本当。どこか、痛いの?」
「あ――そ、そう? 痛くはないけれど、ちょっと、調子が悪いのかもしれないわね。ごめんなさい」
 先ほどまで異常を感じさせなかった、母親の顔。それが、吃驚するほどに青ざめている。これに対しては、二人の姉妹よりも、那智の方が驚きは大きい。

――何か、身体に変調をきたす原因が、今の会話に含まれていたのか?

 検査中なので確実にとはいえないが、彼はこれが、心理的な影響によるものだと、判断した。
 ただの経験則だが、当人の意識はハッキリしているし、病魔に冒された上での症状……とも思われぬ。呼吸にも変化は見られないし、何より会話の受け答えが出来ている。
 精神的な病を邪推することも出来るが、ああいう家族を持っていて、心を病むことなどあるものか。したがって、直前までの対応が、母親に影響を及ぼしたのだと考えられるのだが……。

――私は、心理学は専門ではない。当てにはならん分析を、ここでひけらかす必要も、ないだろう。

 ともあれ、智恵の母親に、緊急治療は必要ない。ならば、部外者はここで退いて、家族にケアを任せるべきだろう。
「長居しすぎたようだ。私はまだ仕事中なので、これで失礼させていただくよ。――しばらくたっても、気分が良くならないようなら、改めて担当の医師に相談するといい」
「はい。……すみません、本当に。仕事中なのに、お邪魔しました」
「なに、私は気にしていない。だから、君も気にするな。――では、また」
 軽く挨拶して、那智はその場を去った。彼は見送りの視線を背中に感じながらも、業務に戻る為、足を速める。

――引っ掛かるな。いや、はっきりと、怪しい、と言って良い。

 これからの時間的猶予と仕事量を比較し、計算しつつも……那智は、先ほどの事象について、思考を巡らせていた。
 患者に対応し、カルテを開き、ペンを走らせて。一切の支障が現れぬ範囲で、彼は考え抜き、結論を急ぐ。
 智恵の母親の採血は、那智が担当することになっていた。時間はまだあるが、それまでに迷いは断っておきたい。

――初対面の時、ほんの一瞬だが、顔がこわばっていた気がする。ネームプレートを注視していた様にも思えたが、あれは気のせいか……?

 挨拶をした時から、ずっと無言であった。家族が声を掛けるまで、呆然とする……。そこまでさせる何かがあったとすれば、それは己以外にはない。あの場で、他の異物は存在しなかったはずである。
 那智が気になった部分について。自分が思い違いをしていないか……? といえば、これもまた、否だ。那智はそこまで自惚れが強い方ではないし、なにより冷徹な現実主義者である。彼の違和感に、間違いはないはずだった。
 なら、問題があるのは先方。智恵の母親個人に、何か隠し事がある。そう読んで、しかるべき事態であった。

――気になる。……が、どうしたものかな。はっきりさせて置くべきことなのか? そこまで執着する価値の、あるものなのか……?

 那智は、あの母親の採血を、後に控えている。考える時間は、充分にあった。結論を先延ばしにしたところで、問題はないだろう。
 冷静なつもりでも、正確な判断が出来ているとは限らない。頭を冷やした後で、また考えればいい。そう思って、彼は仕事へと復帰した。


 採血については、あっさりと終わった。規定の手順を踏み、正しく行う。那智はこれを何度も経験していたし、今更手間取る理由はない。
 相手も極めておとなしく、従っていてくれたから、まさに模範的な例である。この過程において、彼女は、何も異常など見受けられなかった。――少なくとも、表面上は。
「――ッ!」
 意図的に目をそむけているようだったので、あえて視界に入り、それを見せる。
「どうか、しましたか?」
「……いえ」
 那智のネームプレートを見ると、智恵の母親はこれに反応。驚愕の後、顔面蒼白となった。

――やはり、顔色が悪い。少しだが、驚きの色も見える。……確認したくなかったのか? 嫌な事実を突きつけられて、怯んでいる……そんな、表情のように、見受けられるが?

 わかったことといえばそれだけだが、この些細なことが、とても重要なことに思えた。己自身、明確な理由もわからぬまま、それだけのことが、大きく精神へ圧し掛かっている事を自覚する。
 やるべきことは行い、彼女は病室に戻った。相手の存在が遠ざかった後で、那智は改めて、その異常性に気が付くのだ。

――おかしい。こんなにも引っ掛かるのは。気になるのは……何が、理由だ?

 普通ならば、軽く流してしまうような、小さな違和感に過ぎない。それをこうも熟慮して、決意まで固めて相対する。
 冷静になって顧みれば、滑稽と言うほかない。だが、今でも笑い飛ばせぬ、硬いしこりが、彼の中に残っていた。

――明日の休憩時間にでも、見舞いに行ってやるとするか。とにかく本人と会って話してみれば、解決できるかもしれん。

 これを洗い出さねば、どうにも気持ちが悪い。そう思った那智は、すぐに行動を起こす。
 その日の業務が終わり、帰宅した直後。那智は、智恵に断りを入れて、見舞いに行く約束を取り付けた。
「友人として、君の母親に会ってみたい。私が勤める病院に居るのも、何かの縁だろう」
 いぶかしげに思っていたようだが、言われてみれば、拒否する理由も無い。智恵はこれを受け入れた。


 そして、当日。昼過ぎの休憩時間を利用して、那智は智恵の母親の元まで出向いた。
「小川唯(おがわ ゆい)……」
 名前を知ったのは、この時が初めてではないのだが。しかし改めて見ると、病室前に書かれていた、その名は。何故か、聞き覚えのある響きのように思われたのである。

――どこか……どこだ……? 私は、知っているのか。知っていたから、気になったのか……?

 思考の渦に身をゆだねながらも、ドアをノックする。部屋の中から、智恵の声がした。
 ノブに手をかけ、開く。
「失礼します」
 中には、患者である唯。そして智恵と美紀に加えて、一人の男性がいた。
「はじめまして。小川昭次と申します。栗栖那智、さんでしたか。……娘がいつもお世話になっております」
 礼儀正しい、初老の男性。落ち着いた雰囲気と、人を安心させるような、太く低い声の持ち主だった。
「いえ、こちらこそ……はじめまして、小川さん」
 那智は、ここで患者の夫と出会えたことについて、それが幸運なのか、不運なのか。とっさに判別は付きかねた。
「本当は、一度でも担当した医師が、個人的に患者と関わるのは、望ましくないのですが……。小川唯さんは、友人の母親です。まったくの無関係ではないですし、縁といえばこれも縁。見舞いの一つもしないようでは、人格が疑われましょう」
「お気遣い、感謝いたします。……栗栖さん。あなたが誠実な男性であった事を、ありがく思っています」
 昭次とやらは、那智にとって、別に嫌いなタイプの男ではない。良いことなのかどうかはさておき、今回は胸の内の不快感を拭い去る、良い機会でもあった。

――誠実で、ありたいと思っていますよ。少なくとも、隠れて悶々としているよりは、正面から当たろうと考えるくらいには。

 自分に対する唯の反応が、何を意味するのか。家族がそろっている前で聞くのも、どうかとは思うが……わからないままにも、しておきたくない。できれば、明確な返答を頂きたいところである。
「検査については、まだ進行中ですので、何とも申せません。ご理解ください」
「ええ、わかっていますよ。看護士の私がついていますから。家族にも、多少の医療知識は、ある物と思ってください」
 当人の代わりに、智恵が答えた。これは一番に言っておかないと、余計なことに時間を取られてしまうと思ったのだが……やはり、智恵は一味違う。
 那智と言う男の苦悩は、見て取れずとも。何が彼の障害になるかは、良くわかってくれているらしい。
「それは、なにより」
 さりとて感謝するわけでもなく、那智は唯に視線を向けた。
 うつむいて、おとなしくしている。……客の見舞いを許していながら、この反応。単純に落ち込んでいるだけ……とは、やはり言いづらい。

――私が話すたびに、表情が硬くなっているような気がする。……疑いは、正しかったのだ。後は何を秘密にしているのか。それさえ把握できればいい。

 あとは彼女の腹の内を探れば、目標は達成できる。大仰な言い回しだが、ここまで手を凝らしたのだ。今更、気取ることもないだろう。
 早めに切り出そうと思い、那智は自分の疑問を、素直に提示した。
「お元気が、ありませんね。やはり、不安ですか?」
「――え? ああ、いえ。別に、そういうわけでは、ないんですのよ?」
 どこかうつろだった表情も、那智の声で、通常に戻る。こうして見ると、どうということはない。普通の女性にしか思えないのだが……。

――どうするか? ここは直接的に、問い詰めてみようか?

 と、思いはするが、所詮下策である。正直に答えてくれるとは限らぬし、それに反応だけでも、やはり充分に思う。
「なにか、さっきから変だよ? 母さん」
「あ……? え? そう。私は普通にしているつもりなんだけどねぇ」
「……やっぱり。那智さんが入ってきた時から、なにかおかしいよ。無理してない?」
 智恵も美紀も、母の様子に不振を抱いている。それは別に悪意があるわけではなく、むしろ好意的な心配とも言えるものだが――。当人はそれを受け入れる余裕も、ないらしい。
「私がなにか、粗相を致したようで……無作法者で、申し訳ありません」
「いえ、良いのです。お気になさらぬよう。――こちらこそ、かえって居心地の悪い想いを、させてしまいましたな。お詫び申し上げます」
 昭次が、そういって頭を下げた。誠実で、朴訥な人柄であるのだろう。人を思いやり、身内に厳しく、正しい道を歩む事を知っている。
 そんな男の詫びに対して、那智に出来るのは、この場を立ち去ることだけだった。
 得られた情報は多くないが、相手の弱みに付け込んで居座るというのも、彼の美的感覚に反する。

――後は、個人的に調べるか。もう、疑いといえるような段階ではない。確信を得られただけでも、僥倖と思っておこう。

 必要だったのは、その確信だった。単なる疑いで動くほど、那智と言う男は無思慮ではない。
 病室を出たとき。彼の心は、決まっていた。

――なんとも、理想的な家族に見えたな。……そうか。家族とは、本当は、あんなに暖かいものなのか。

 なぜか、胸が痛む。本当に居たたまれなかったのは、昭次ではなく、那智の方であったのかもしれない。
 智恵は、あの中で育ったのか。だから、あんなに真っ直ぐなのか。那智には、想像できる。それについて、思うところは、ない。
 それよりも重要なのは、唯のことだ。まずは身元から調べよう。経歴についても、きちんとした場所に依頼すれば、かなりのところまで判明する。
 ……しかし、何故か先ほどから、妙に落ち着かない。胸が痛むどころか、時間を置くほどに、おかしな気持ちがこみ上げてくるようだ。

――気持ちが、悪い。あの女の声、しぐさ。一つ一つを思い起こすたびに、胸を締め付けるような……嫌な感覚が、駆け巡る。

 もしかしたら、自分は知ってはいけない事を、掘り返そうとしているのか。
 だが、そうだとしても、止まれないところにまで、彼は来ていたのだ。


「後戻りはできない、か」
 時間が開いてすぐ、興信所に依頼し、那智はその報告を待つ身となった。
 携帯に、智恵から何か連絡らしき物が来ていたような気がするが、これは無視した。今、彼女と会ったとしても、友人として接することが出来るかどうか。それさえ、不安であったから。

――人一人の人生を洗い出すのに、どれほどの期間が必要なものか……。わからんが、なるべく早くして欲しいものだ。

 苛立ちを押さえきれぬように、彼は表情を硬くする。それでも自ら調べようとしない辺りに、那智の複雑な胸中が現れているようだった。
 もし、見たくない事実に直面した時。自分がそれを素直に受け入れられるとは、限らない。こんな不安を抱えたままでは、とても調べ者など出来はしないだろう。興信所などに頼ったのも、それが理由である。

 しかし、個人の情報は、そう容易くは暴けないものらしい。最初の報告は一日と経たずに送られてきたが、さほど深いところまでは探れていなかった。
 それでも有益な情報は、小川唯が、以前に離婚歴があったという事実のみ。学歴と実家の住所も知らせてきたが、こちらはあまり興味を引かなかった。
「離婚、か。小川智恵は、それを知っているのかな?」
 これは、当人に確認させる価値のあることかもしれない。……だが、母の離婚暦を知らせることは、あの幸せそうな家庭に、波紋を投げかけることになるまいか。

――黙っておくか。そもそも、なぜ離婚暦など調べたのか? と問われれば、返す言葉もないのだから。

 なにより、智恵や美紀。それにあの父親にまで迷惑をかけることは、本意ではない。
 これは、個人的なわがままなのだ。他者を巻き込むのは、自重すべきであろう。
 那智は、ここで相手の心情を思いやれる程度には、健全な精神を保ちえていた。……もっとも、それは次の報告によって、容易く砕かれることになるのだが。

 二度目にして、それが最後の報告となった。この後、那智は興信所との契約を切り、母親をこれ以上探る事を断念したからである。
 それはちょうど、智恵の母親の退院日だった。検査の結果、大したことがないということが判り、昼にも自宅に帰ることになっている。
 この日の朝。那智はファックスの音によって、目が覚めた。それが興信所からのものであると確認し、彼は目を通す。
「……なに?」
 朝の、出勤を控えた時間帯。彼は軽く目を通したら、コーヒーでも入れようかと思っていた。
 だが、その内容は、那智をして絶句させる。

――最初の結婚相手の苗字は、栗栖。息子が一人。

 この時点で、那智と唯の関係を、興信所の方も察したらしい。当人よりも先に突き止めておきながら、その態度は何であるのか。微妙にオブラートに包んだ文章が、那智の癇に障った。
「……く」
 歯を、力いっぱい噛み締めた。砕けるのではないかと思うほど、噛み締めて。それから深呼吸することで、ようやく那智は自分を取り戻す。
 不愉快な現実でも、それが事実なら、受け入れねばならない。何よりも、まだ確認すべきことは、あるのだ。ここで怒りに任せて報告書を破けば、困るのは己である。
「ふぅ」
 頭を振って、彼は立ち向かった。さらに内容を読み進めて、これを受け入れる努力を続ける。
 結婚当時の住所は、那智が子供の頃に住んでいた住所だった。地名から番地まで、彼の記憶と寸分たがわぬ。
「次……」
 夫の名は、やはり父の物と同一だった。素行も、近所の評判も、那智が知るものと変わりない。
 あれが死亡した際の状況については、そっけなく、淡白に情報を並べているだけだが……これで依頼者を気遣っているつもりなのだろうか。

――私は、あれに同情したこともなければ、慕った覚えもない!

 他にも細かな調査が述べられていたが、那智にはすでに価値のない代物と成り下がっていた。
 ただ一点、『小川唯は、小川智恵の母であり、栗栖那智の母親でもある』。……この真実の前には、全てが霞んだ。那智は震える手で受話器を引っ掴むと、興信所に連絡を入れた。
 以後の調査は必要ない。それだけ述べて、電話を切る。身の内から湧き上がる、熱い衝動が、那智の心を焦がしていた。
「そう、か。お前が。……貴様が、私の、母親か。――あいつの面影が、私の中にあったとでも言うのか? だとしたら……はッ! お笑い種だ。私は何一つ、あれから自由になっていないということか……!」
 唯の記憶に障害はない。ならば、名前を見ただけでも、自分が誰だか知るだろう。あとは全体的な印象を掴めば、当時の家庭を思い出すのに充分。
 青ざめも、するだろう。かつて切り捨てた、忌まわしい過去が、すぐ傍にあるのだ。まともに見られなくて、当たり前だった。

――あの女は、私を捨てて、夫から逃げて、今を幸せに生きている。……ふん。よくもまあ、上手くやったものだ。

 どう誑し込んだかは知らないが、あの人の良さそうな男のこと。ずるい女に騙された自覚なく、これまで良い伴侶としてやってきたのだろう。
 果たして、この事実を教えてやったら、どんな顔をするものか? 那智は、黒い喜びが、腹に溜まっていく感覚を覚えていた。
「どうして、やろうか」
 本当に生まれて初めて、那智の中で母親に対する憎しみが生まれた。

――お前だけが、あの男の呪縛から逃れることは許さない。そうだ。忘れさせるものか。私が受けた痛みと同じだけのものを、味あわせてやる……。

 那智は、ここでようやく、出勤時間が迫ってきている事を理解する。朝食を用意している暇は、ない。
 カロリーのブロックを野菜ジュースで流し込むと、早々に家を出た。
 復讐。その想いが、彼を突き動かしている。
 この憎しみが正当な物かどうか。それを追求するつもりは、那智にはなかった。ただ己が感じたことが全てである。
 憎いと思ったから、思い知らせる。復讐してやりたいと思うから、害す。それだけの、話だった。那智は病院に着くと、速攻で唯の病室へと向かう。真実を暴露するのもいい。脅迫すら思いのままだ。
「苦しめ」
 でなくては、自分が報われない。彼は、彼自身の為だけに、母親を追い詰めようと思った。その後どうなろうと、構わぬとまで、考えていた――。



 結論から言えば、那智の行為は未遂に終わる。
「こんな時間に、どうしたんですか? 那智さん」
「……知恵。どうして、ここに。面会時間はまだ」
「あれ? 夜にメールしたと思っていましたけど。――昨日、ここで泊まったんです。ベッドはないから、毛布で。……母さん、調子が悪いみたいだから、付いててあげたくて」
 病室を開けると、そこには小川智恵がいた。唯はまだ眠っているようで、布団の中で寝息をたてている。

――計算外にもほどがある! 出直すか?

 一言詫びて、退室する手もある。が、この感情の高ぶりを押さえてしまうのも、惜しい……と、このときはまだ、那智は復讐を諦めていなかった。だが。
「気分が悪いんですか? 那智さん」
「いや、それほどでもない。こんな朝早くに、悪かった」
「それはいいんですけど……本当に、大丈夫ですか? 顔、真っ青ですよ?」
「――まさか」
 手を顔にやる。それで色がわかるはずもないのだが、彼は反射的に、そうしてしまった。
「まるで、昨日の母さんみたいです。……どうして、しまったんでしょう。私の周りで、何が起きているんでしょう? ――最近、そんなことばかり、考えてしまいます」
 智恵は、心の底から、憂いていた。見ているこちらが、居た堪れないほどに。

――私が言うべき事を言えば、彼女の表情は、さらに陰るだろう。……だが、何を遠慮することが、ある。悪いのは、あの女のはずだ。躊躇う理由など……。

 それでも、最後の一歩が踏み出せない。何かに制止されているように、彼はそこから動けなかった。
「あの……それで、どうしてこんなに早くに?」
 智恵の疑問の声で、那智は己を取り戻す。
 取り繕うように、適当な言い訳で誤魔化すと、彼はそこから立ち去った。やはり、間が悪すぎる。
「……何故だ」
 病室から出て、今更、そんなことをつぶやく。
 決意は、事実を確認した時に固めた。それを今更撤回する理由を、那智は見出せない。
 智恵の存在は、障害にもならぬはずだった。ちょっと指摘された程度で翻すような、甘い覚悟でもなかったはずだった。……なのに今では、すっかり気が萎えてしまっている。
 少し前までの勢いは、もう失速してしまっていた。母親に詰め寄るのは、今日でなくともいい。だから、この場は退いた。
 機会は、また改めて……そう、思っていたのに。


 今度は小川唯の方から、那智に近づいてきたのである。退院する、間際のことだった。
「今回は、本当にお騒がせしまして、すみませんでした。……これからも、智恵をよろしくお願いします」
「……はい」
 わざわざ、病院内を探し回ってくれていたらしい。廊下で那智を捕まえると、すぐに声を掛けてきた。気の抜けた返事をかえして、周囲を観察する。
 今回、周りに家族はいない。智恵はもう、家に帰ったようである。

――今ここで、怒鳴り散らしてやろうか?

 出来乗せぬ事を、考えてみる。やはり、場が悪すぎた。ちょうどこの時間は、昼休みだが、那智は暇ではない。
 彼はもう、感情よりも義務を優先する程度には、精神の均衡を取り戻していた。それがまた、那智の不運でもあった。
「栗栖、那智……さん」
「何ですか」
 この女から名を呼ばれることに、相当の苛立ちを感じてしまう。さっさとどこかに行ってくれないかと、那智は半ばヤケになっていた。
「自身を、どうかいたわってあげてください。あなたには、それだけの価値があるのですから……」
「……なに、を」
「智恵を、よろしくお願いします。私の、自慢の娘です。……どうか、傷つけないであげてください」
 お前は、知っているのかと。
 わかっていて、自分と会っていたのか。そんな馬鹿げた言葉を、口に出すところだった。
「――ッ!」
 危ういところで口を塞ぐと、那智は母親をにらみつけた。自分の、母親を。
「……では、これで。あの子に、罪はありません。憎むなら、私だけに、してください。それだけが、私の望みです――」
 一礼して、母は去っていった。那智はそれを見送るだけで、何も言い返すことが、出来なかった。

――いま、さら。何を、今更……ッ!

 駆け出して、捕まえて。殴ることも、問い詰めることも、彼には出来たろう。
 なのに、那智は自分を押さえてしまった。彼は、感情のままに動く機会を、すでに逸してしまっている。己の理性的な性格を恨んだのは、この時が初めてだった。


 その日の夜、那智は病院からの帰りに、安酒を買い込んだ。
 自分でも、何をしていたのかわからない。これが逃避であると自覚はしていたが、この想いまで押さえつけることは、那智の精神の限界を超えていた。
 そして帰宅と同時に、着替えもせず、食事も忘れて、ただ酒を注ぎ、一気に煽った。

――忘れろ。忘れるんだ。

 那智の行動は、自己防衛の一つの形であった。
 許容量を超えたストレスの回避のために、ひたすら現実から遠ざかるために、彼は酒の力を借りねばならなかったのだ。

――あの女が、いい母親であるはずがない。あの言葉が、真実であるはずがない。憎まれてしかるべき、女であるはずなのだ。

 那智が酒に溺れたのは、生まれて初めてのことだった。他人に聞かれる恐れのない場所で、彼は自分の思いを、ここに吐露する。
「なのに、何故だ! なぜ、憎みきることが、できないんだ……」
 憎悪の情に、我を忘れていたつもりだった。本気で母親に、怒りを感じていた。なのに、ちょっとしたことで思いとどまって、こうしてその事実から逃げている。
 なんという、惨めさであろうか。己はここまで、弱い男であったのか。認めたくない現実を否定する為に、さらに那智は酒を入れる。

――知りたくなかった。こんな、ことは。ずっと、知らないままで、いたかった!

 意識を無くすまで、彼は酒気を浴び続けた。翌日のことなど、頭から吹っ飛んでいる。智恵のことも、母のことも。
 もう、自分自身のことさえ、忘れてしまいたかった。叶わぬと理解していながらも、今日の出来事を全て、なかったことにしようと。
 そう思って、ただひたすらに、逃避した。どうしたところで、何かが変わるわけでもない。わかっていながら、己を止めることも、出来なかった――。

クリエイターコメント このたびは、リクエストを頂き、まことにありがとうございます。
 ご希望通りの出来に、なっておりますでしょうか? 満足いただけたのなら、幸いに思います。

 本文、設定などで問題があるようでしたら、ご指摘ください。
公開日時2008-12-12(金) 18:20
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