★ 花嵐 ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-6865 オファー日2009-03-08(日) 00:20
オファーPC 栗栖 那智(ccpc7037) ムービーファン 男 29歳 医科大学助教授
ゲストPC1 吾妻 宗主(cvsn1152) ムービーファン 男 28歳 美大生
<ノベル>

 バーテンダーの視線は少し前から感じていた。だからといってこの店を出る理由にはならないし、ましてや飲酒を中断するきっかけになどなりはしない。
 有線から控え目に奏でられるジャズすら疎ましい。暖色のダウンライトの下、ボトルやグラスが無言できらめき、煙草やアルコールのにおいが絡まり合いながら空調に吸い上げられていく。カウンターに陣取っているのは栗栖那智だけだ。奥のボックス席ではくたびれた風情の男女が肩を寄せ合い、密やかに囁き合っている。睦まじげな様子に無関心な一瞥をくれ、那智は更に水割りをあおった。
 握り締めたスマートなボトルはフォーローゼス。だが、酒の銘柄などが那智の興味を惹くことはない。
 「……お客様」
 ボトルが空になる頃、カウンターの向こう側でグラスを拭いていたバーテンダーが見かねた様子で口を開いた。
 「そろそろおやめになったほうが」
 「そこのヘネシーを」
 那智はそのオーダーをもって答えとなした。ローゼスの前に空けたのはシーバスの18年だったのだが、那智はそれすら記憶していなかったかも知れない。覚えていたとしても頓着しなかっただろう。種類も味も関係なく、ただ目についたボトルを注文しているだけだ。
 呂律の回らぬ口調と呻くような声音にバーテンダーは軽く眉を顰めたが、すぐにボトルを手に取って開封した。新しいグラスに薄い水割りを作ってボトルとともに差し出す。那智はそれをほぼ一気に飲み干し、バーテンダーの制止も聞かずに二杯目をロックにして口に運んだ。
 きちんとグラスを掴んでいる筈の手が覚束ない。口元から琥珀色の液体がこぼれ、顎を伝い、ワイシャツの胸元に染みを作る。バーテンダーがおしぼりを差し出すが、那智は眼鏡の奥から無機質な視線を向けただけで更にボトルを傾けた。
 味などとうに分からなくなった。ただ熱いだけの感覚が食道を滑り落ちていく。酒である必要すらなかっただろう。忘れるための最も手軽な方法が飲酒だったというだけのことである。
 食道を流れたアルコールが胃に到達し、火照った体に更に灼けるような熱が宿る。
 ああ、そうだ。
 このまま灼かれてなくなってしまえばいい。この身も、汚泥のように凝るこの感情も、何もかも。
 不規則に揺れ始めた視界の中、グラスに残った琥珀色に舐められて、武骨な氷が緩慢に身をよじらせた。


 いつしか雨が降り出していた。
 花冷えというほどではないにしろ、雨の夜ともなれば幾分肌寒い。だがそれも酒で火照った体には苦にはならなかった。閉店時刻を迎えたバーの扉を押し開け、傘を持たぬ那智はふらりと雨の中に迷い出た。
 丑三つ時の街は雨音と寂寞に支配されている。時折、酔客を求めるタクシーのヘッドライトが闇と雨の中に滲み出すだけだ。無表情にアスファルトを叩く雨は白くしぶき、那智の足許を汚していく。視界が奇妙に歪んでいた。酔いが回っているのか、それとも間断なく降りしきる雨が眼鏡を濡らしていくせいなのか。
 この大雨の中を傘も差さずに歩いていればあっという間に体温を奪われるだろう。しかし那智は雨を避けるそぶりすら見せずに闇と静寂の中を彷徨う。
 ざあざあと降る雨が淀んだ大気を洗い流していく。春の空気というのはどうしてこうまでも潤んでいて、ぼんやりと暖かいのだろう。全身にまとわりつくような中途半端な湿気と温度がひどく鬱陶しい。
 そういえばあの夜もこんな雨だったのではなかったか。それならば今宵と同じで不快指数も高かった筈だ。だが、あの夜は――あの頃の那智は、天候を気にかけることなどできなかったかも知れない。
 (馬鹿馬鹿しい。たかが雨で何の感慨に捉われることがある)
 些細な天候を不快に思えるほどの余裕がある今の生活は平穏には違いない。記憶を中学生時代に運ばれそうになって、思わず自嘲した。
 どこをどう歩いたのか、いつしか河川敷脇の遊歩道へと辿り着いていた。風が出て来たようだ。ざあざあと鳴るのは雨か、並木か、逆巻く川面か。酩酊状態の聴覚ではそれすら判然としないが、鈍麻した嗅覚はかすかに甘い匂いを捉えていた。
 濡れた道路に白っぽい破片がへばりついている。ひとつやふたつではない。黒々としたアスファルトを白く染め上げるほどの欠片が遊歩道に散らばっていた。
 それは桜の花びらであった。そう認識して初めて、桜並木の中を歩いていることに気付いた。
 ざあざあと鳴る雨と風の中、舞台で舞う紙吹雪のように花びらが舞っている。花の重みでしなった枝はうねるように波打ち、ひどく無表情に次々と花弁を手放していく。よく薄紅色などと言われるが、桜の花は薄紅よりも白に近いだろう。夜桜となれば尚更である。墨色の闇をバックにわななく花は奇妙なまでに白っぽく、人魂のような燐光さえ纏って妖しく浮かび上がっている。しかしこの風雨では花の命も長くはあるまい。
 それでも桜の樹下はこんなにも甘い香りに満ちている。日本人の性だろうか、この花を仰ぎ、この香りを嗅ぐと心がざわめく。雨を吸った花は重い。無邪気な子供が見せる笑顔のように上を向いて綻ぶ筈の花たちは無情な雨に打ちひしがれ、一様にうつむいてぼんやりと地面を見下ろしていた。つられるようにふと地面に目を落とせば、散った花びらに混じって空き缶やプラスチックのパック、雨と泥で汚れた紙コップなどが無造作に吹き散らかっている。おおかた昼間にこの場所を訪れたマナーの良くない花見客が落として行ったのだろう。喧噪に満ちた宴の後にはいつだってこんな空しさとわびしさだけが取り残される。
 ――昔、家族と一緒にこうやって花見をしたことがあったのだろうか。
 不意にそんな感慨が胸に入り込み、冷えた全身をぞわりとしたものが貫いた。
 鼓動が速まる。酩酊している筈の脳が急速に回転を始め、あの女と再会した時の記憶をひどくクリアに再生する。
 そもそも那智は感情の起伏がはっきりしているほうではない。それでもあの女が自分の母親であることを知った時、憎しみという名の情動が確かにこの身を焦がした。
 母親などという単語を口にするだけでも反吐が出そうだ。あの女は那智を捨てた。社会的な力を一切持たぬ子供であった那智が生きるためには、父親という名のろくでなしのための玩具に成り下がるしかなかった。
 玩具であったのだろうか。玩具ならば――持ち主が興味を失えば放り捨てられる運命にあるとしても――ある程度は存在を顧みられ、尊重された筈であるのに。
 一方、あの女はどうだ。善良な配偶者を見つけ、二人の娘とともに温かい家庭を築いている。那智が胎児のように体を丸めて暴力と罵詈雑言の嵐に耐えている間、あの女は家族と一緒に安穏と暮らしていたのだ。
 優しく温かな家庭などというものは自分には一生無縁だと思って生きてきた。三十路を目前に控えた今でも結婚や家庭というものに対して夢も希望も持てはしない。強がりなどではなかった。母親などという生き物はいないことが当たり前で、那智の意識から完全に除外された存在であったからだ。
 だから、顔も知らぬ母親に対しては何の感慨も抱いていない筈だった。もし彼女が築いた“幸せな家庭”を目の当たりにしたとしても、いつものように無感動な一瞥をくれてやるだけだった筈だった。
 それならばなぜ忘れたいと思っている。なぜひたすら酒に溺れ、雨の中を傘も差さずに彷徨っている?
 ――憎むなら、私だけに、してください。
 ざあざあと渦巻く風雨の中であの女の声が聞こえた気がして、ちらちらひらひらと翻弄される花びらの向こうにあの女の背中すら見えた気がして、奥歯をきつく噛み締める。
 それでも憎み切ることができない。あの女の今の家族に暴露することはたやすいのに、それすらもできずにいる。
 「――――――」
 びょうと風が轟き、ざあと雨が鳴り、どうと桜が波打って、那智の絶叫を掻き消した。
 ちらちらと。ひらひらと。
 ほろほろとこぼれる涙のように桜の花びらが落ちてくるのは、那智が幹に拳を叩きつけたせいであったのだろうか。


 まるで計算されて描かれた絵画のようだ。この風景にあつらえたのではないかと思わせるほどに、風雨に打ち震える桜とその下に佇む吾妻宗主はナチュラルで綺麗だった。
 紙吹雪のように舞い落ちる桜の中で柔らかな銀色がちらちらと見え隠れする。それは髪の毛だった。湿気を吸った髪の毛は重いが、風と雨に乱されて流れる様すら美しい。どこか色香さえ感じさせる乱れ髪の下、蝶の形をしたピアスがちかりと瞬いた。
 「ずいぶん風が出て来たね」
 緩く傾けた傘の下で緑色の瞳がかすかに顰められる。肩に乗ったピュアスノーのバッキーが相槌を打つようにことりと首をかしげた。
 闇の中にあって静謐に、しかし鮮烈に己の存在を主張する筈の桜。湿った風に乗ってたゆたう甘やかな香りに引き寄せられるようにして外に出て来たのだが、この分ではすぐに散ってしまうだろう。
 くるりと傘を回し、斜めに吹きつける雨風に顔をしかめるでもなくゆったりと歩き出す。
 降る雨は幾分冷たい。それでも次の季節への予兆だろうか、ほのかな温度を孕んでいるようだ。宗主の鋭敏な感覚は敏感にそれを捉えていた。
 (雨の中の夜桜も風情があると思ったけど)
 この分ではすぐに散ってしまうだろう。桜の花に赦された時間はあまりに短い。それなのに、ようやく満開を迎えたと思った傍からこんな仕打ちを受けることになろうとは。古人が花の短さを儚む歌を多く残した理由が何となく理解できた気がした。
 どうどうと逆巻く川の音。ほのかに甘い花の香に混じり、水と草の匂いがかすかに鼻腔に届く。桜の樹下にあれば湿った雨のにおいさえも心地良い。ぼんぼりのように白く浮かび上がる木はびょうびょうと鳴る風に身をよじらせ、惜しげもなく花びらを散らす。吹きつける風は些か無遠慮だが、まだ帰る気にはなれず、川沿いの遊歩道をただそぞろ歩く。
 桜並木をゆっくりと辿る宗主の足がふと止まった。
 ――花吹雪の向こうにちらと人影が覗いた気がした。この雨の中、こんな刻限に、自分以外にも桜見物に興じる者がいるとはにわかには思い難い。
 しかし相手もこちらに気付いたようだ。絶え間なく舞い落ちる花吹雪の屏風の向こうで、黒い髪の毛と体温を失った白い顔が宗主に向けられる。
 ざあと風が吹き、雪のように踊り狂う花弁を吹き飛ばした。
 「……栗栖さん?」
 そこにいたのは栗栖那智であった。だが、宗主がわずかに語尾を持ち上げたのは、そこにいた男が彼の知る栗栖那智とは些か様子が違っていたからだった。
 傘を持っていないのだろうか。黒い髪の毛はびっしょりと水を吸って顔に張り付いている。濡れて汚れた眼鏡の向こうにある筈の涼しげな目許は外からは窺えない。いつものシャープで理知的な雰囲気は見る影もなく、ただ能面のような表情で立ち尽くす男の姿がそこにはあった。
 「どうしたんです? こんな所で……」
 それほど親しくはないが、幾度か言葉を交わしたことがある間柄だ。小走りに近寄って傘を差しかけると、那智は無表情な視線を宗主に向けた。
 「そっちこそ、こんな夜中に何を?」
 「ちょっと夜桜を見に」
 「こんな嵐の夜にか」
 「ええ、まあ」
 宗主は小さく苦笑した。「ゆっくり桜を愛でたければ人のいない時間帯を狙うしかありませんから」
 この場所はちょっとした花見スポットだ。昼間は家族連れやカップルでごった返す。夜は夜で無粋な酔客が喧噪を撒き散らす。落ち着いて桜を堪能できるのは深夜や明け方しかないだろう。
 「……酔狂なことだ」
 「栗栖さんこそ」
 宗主は穏やかに目を細めた。那智の体から漂うアルコール臭に気付かぬほど鈍くはないが、それを明確に口にするほど無遠慮でもない。
 「ああ……それにしても、不思議ですね」
 視線を那智から桜へと移し、わざと何気ない口調で話題を転換する。
 「桜を見るとどうして気持ちが落ち着かなくなるんでしょうね。心がざわめく、とでもいうのかな」
 那智は答えない。眉尻をわずかに持ち上げて応じただけだ。
 「ほら、よく言うじゃありませんか? 桜の木の下には死体が埋まっている、だからこんなに妖しく美しく咲くのだ……と」
 相変わらず沈黙を保つ那智の頬がかすかに、しかし確かに痙攣した。
 表情が険しくなったことには気付かぬふりをして、宗主は緩やかに視線を戻す。
 「俺の部屋、この近くなんです」
 「……だから?」
 「雨に打たれる桜も風流ですが……このまま濡れるのも何ですし、寄って行きませんか? 着替えとお茶くらいは出せますよ」
 那智はやはり無言のままであったが、拒絶の気配はない。
 くるくると嵐に翻弄されて那智の肩に着地した花弁を、バッキーのラダが物珍しそうに見つめていた。


 思ったよりも体温を奪われていたようだ。全身を叩いている筈のシャワーの感触もどこか遠い。それでも湯に打たれていると少しずつ感覚が戻ってくる。アルコールによる熱とは違う温かさが体の芯にぽっと灯ったような気がして、詰めていた息を吐き出した。
 酔いはほんの少し遠のいただろうか。酒が抜ければその分だけ理性が戻ってくる。それが果たして喜ばしいことなのかどうか、今の那智には分からない。
 壁に手をつき、前髪から滴り落ちる水滴をぼんやりと眺める。
 ――よく言うじゃありませんか? 桜の木の下には死体が埋まっている、だからこんなに妖しく美しく咲くのだ……と。
 宗主は単なる世間話のつもりでそんなことを言ったに違いない。そうに決まっている筈だ。だが、彼はどことなく不思議な風情を纏っている。あの静かな双眸は何もかも見透かしているのではないかとすら思う。
 それでも悪い印象は持っていない。友人と呼べるほどの交流はないが、ある程度内心に踏み込まれたとしても不快には感じないだろうという漠然とした確信があった。
 回る。ぐるぐる回っている。シャワーから降り注いだ湯が渦を巻いて排水口に吸い込まれていく。いびつなマーブル模様をえがく記憶が徐々に像を結び、自我を絡め取っていく。
 春。雨。雷。
 ネクタイ。意外に脆かった頚部。
 担いだ父親の重さ。
 「栗栖さん」
 すりガラスのドアの向こうで宗主の声がして、那智の意識は急速に引き上げられた。
 「着替えとタオル、ここに置きますね」
 那智は「ああ」とだけ答えて尚もシャワーの滝に甘んじる。
 絶え間なく降り注ぐシャワーはまるで雨のよう。あの夜もこんな雨だった。今夜も雨が降っている。


 浴室を出ると清潔なバスタオルが出迎えた。傍らに添えられた長袖のTシャツとコットンのパンツは宗主のものだろう。ありがたく拝借して着ることにする。脱ぎ散らかした筈のワイシャツとネクタイはハンガーにかけられてリビングに吊るされていた。
 同居人の天使は不在らしい。宗主はキッチンに立っていた。かすかに鶏ガラの匂いが漂ってくる。
 「軽いものでもどうです? お酒の後ですし、あまり負担にならないようにと思ったんですけど」
 小ぶりの器に盛って差し出されたのは中華粥だった。
 「……腹が空いていると言った覚えはないが」
 「だけど、その様子だと食事も摂らずにお酒を飲まれたんじゃ?」
 穏やかな緑眼には下世話な好奇心は窺えなかった。那智が酒を浴び続けていたことをただ客観的に見抜き、空腹なら食べれば良いと勧めてくれているにすぎない。
 那智は短く礼を言い、促されるままテーブルに着いた。
 粥は鶏ガラをベースに塩とコショウで味をつけただけのシンプルな物だった。所々に覗く小さなむき海老と色目を整えるように添えられた青梗菜が唯一のアクセントだろうか。だが、機能が低下した胃腸にはその質素さがありがたい。控え目な味を纏った柔らかい米は緩やかに、しかしすとんと胃の腑に落ちて行く。
 雨脚は未だ強いようだ。風もおさまらぬ。だが、上等なマンションの一室であるこの場所にいれば粗暴な雨音や風の唸りも他人事のように遠い。
 「花嵐ですね」
 という宗主の言葉に那智はふと我に返る。目が合うと宗主は静かに微笑んだ。
 「せっかく満開になったところなのに。もしかして、桜が咲く頃を狙ってこんな嵐がやってくるのかな。ままならないのが世の常とはいえ……意地悪なものですね」
 ひとりごちた宗主の手許で急須が湯気を立てている。やや遅れて日本茶の穏やかな香りが鼻腔をくすぐった。
 「花嵐……桜の花が咲く頃に吹く、花を散らせる強い風」
 「または、桜の花が嵐のように散ること――ですよね」
 国語辞典の一節をそらんじるように呟いた那智に宗主が続く。那智の前に湯呑茶碗がことりと置かれた。
 「――だが、雷は鳴らないのだな」
 「雷?」
 かすかに首をかしげた宗主の肩からほつれた銀糸が音もなく滑り落ちる。
 那智は答えずに湯呑に口をつけた。落ち着いた緑茶の香味は酔った体の邪魔にはならず、好ましい。
 感傷に浸っているわけではない。そもそも感傷に耽るような類の記憶ではないだろう。それでもこんな春の嵐の夜は無感慨ではいられない。それだけのことだ。
 宗主のほうも詮索する気はないらしい。沈黙のカーテンがただ緩やかにたゆたう。
 バッキーのラダが宗主の肩から滑り降りた。宗主の手元の湯呑茶碗にとてとてと近付き、突き出た鼻面を押し付けている。愛らしいしぐさに微笑む宗主の瞬きの音さえ聞こえてきそうな静寂。
 「……済まない」
 ゆっくりと時間をかけて茶を飲み干し、那智は軽く額に手を当てて呻いた。「すっかり長居してしまった。そろそろ失礼する」
 「もう遅いですし、泊まって行かれたらどうです?」
 「そうもいくまい」
 「じゃ、傘を――」
 荒れ狂う嵐はそのタイミングを狙い澄ましたのだろうか。
 獰猛な風がどうと轟き、傘を持って行けば良いと勧める宗主の言葉を掻き消す。そして――何の前触れもなく部屋の明かりまでもが奪われ、湿った暗闇が落ちて来た。
 「……停電か」
 「みたいですね。風で電線でも切れたかな」
 眼の暗順応には時間がかかる。とはいえ那智も宗主もこれしきのことで慌てふためくほど小心ではない。宗主は肩にしがみつくバッキーをなだめながら「懐中電灯を持って来ます」と言い置いてキッチンに向かった。
 「待ってくれ」
 だが、その背中を那智が呼び止める。
 この暗闇では互いの顔すら判然としない。それでも色の白い宗主のおもてはほのかに浮かび上がって見えたし、宗主の目にも那智の姿がぼんやりと見えていた。
 「……このままでいい」
 「え?」
 「暗いままにしておいてくれ」
 那智がどさりとソファに腰を沈める音だけが暗闇を揺らす。
 風雨の音が急に近くなった気がした。


 テーブルの椅子を引いて腰かけた宗主の手の中、もごもごと一人遊びをするラダの輪郭だけが白く浮かび上がっている。
 だいぶ目が慣れたようだ。ソファに視線をやれば、力なく片膝を抱えて背を丸めた那智の姿がぼんやりと見てとれる。
 電気が消えただけでどうしてこんなに暗いのだろうと考えて、外にも明かりがないからだと思い至った。今の街からは街灯すらも消え失せている。暴れ狂う嵐が行き過ぎるまで、あるいはこの闇が曙に取って代わるまで、息を潜めてただじっと待つしかないのだ。
 那智が何か事情を抱えているらしいことは宗主ならずとも察せられただろう。だが、宗主はデリケートな領域に思慮なく踏み込もうとするほど野暮な男ではなかった。
 雨音の沈黙が等しく二人をくるむ。
 だが、それを破ったのは那智のほうであった。
 「……こんな日に」
 という那智の声とともに、かちゃりというかすかな音が湿った静寂を揺らした。
 朝露に濡れる若芽の色をした双眸を持ち上げると、外した眼鏡をぼんやりと持て余したまま窓を見つめている那智の姿があった。
 窓が開いているわけでもないのにカーテンがかすかに揺れているのはどういうわけなのだろう。
 「父親を殺した。こんな雨の日に。……人に話すのは初めてだ」
 押し殺したような那智の告白があまりに平坦だったから、その言葉が意味するところを宗主が正確に解するまでには数瞬の時間を要した。
 「――そう、なんですか」
 さすがの宗主もやや面食らい、相槌が一拍遅れた。だが、驚いたように二、三度眼を瞬かせた宗主の顔も、あるじの様子に首をかしげたラダの姿も、この暗闇では那智の目には映らなかっただろう。
 「どうして俺に?」
 そして、なぜ殺したのかではなく、なぜさほど親しくない自分に打ち明けたのかと問うた。
 「理由が必要か」
 那智の返答は相変わらず無表情だ。「あえてこじつけるとするなら、酔っているから……だ。それでは不足か」
 「いいえ。充分です」
 「……更に言えば、先程の桜のせいで何となく気持ちがざわついている。桜を見ると心がざわめくと言っていたのはおまえだろう」
 「そうですね」
 宗主がそっと苦笑を漏らすと、暗闇の向こうから、那智がかすかに息を緩める気配が伝わってきた。
 「私を産んだ女はずっと昔に出て行った。以来、父親と二人で暮らしていた。いや……二人で、というのは些か語弊があるな。ほとんど一人暮らしのようなものだった。あの男は数か月に一度しかやって来なかった――」
 父親から受けていた仕打ち。父を殺した経緯。幸福を絵に描いたような家庭を築いている母……。那智はただ淡々と話した。感情的になるどころか主観すら交えることなく、まるで無機質に羅列されたデータでも読み上げるかのように。
 「だから、分からない」
 一通り話し終わった後で、那智の声が初めてかすかに震えた。「家族というものはそんなに大事なのか? 血縁があれば無条件に愛情を向けられるものなのか?」
 宗主の瞳が音もなく眇められる。
 以前、おかしなウサギに囚われた双子の姉妹の事件に関する記事をジャーナルで見かけた。妹を助けようと必死になる姉に、那智が似たような問いを向けていたことを今になって思い出す。
 「血縁って、人が思うほど重要でも絶対でもないかも知れませんよ」
 立てた片膝に押し付けられていた那智の顔がのろのろと上がる様子がわずかに見てとれた。
 「血縁と絆は別物だと思います。血の繋がりがあるからって自動的に絆が生まれるとは限らない。……俺も、良好な父子関係が築けていると胸を張ることはできませんから」
 密やかに疼く背中の傷が整った面立ちをわずかに曇らせる。デスマッチ。熱鉄線。父から受けたその“仕打ち”が心と体から消え去ることはないだろう。
 宗主はそれ以上を語らずに黙したが、那智も詮索する気はないようだった。
 「一理あるな」
 代わりにそんな答えが返ってくる。「……覚えておく」
 それっきり那智は口を閉ざした。


 十数分後。再び部屋に明かりが灯り、宗主はソファで体を丸めて眠っている那智の姿を見た。
 ブランケットをかけてやりながら濡れた窓に目をやる。
 嵐は、少し遠のいたようだった。


 「おはようございます。眠れましたか」
 翌朝になって那智が目を覚ますと、昨夜と同じように宗主がキッチンに立っていた。
 「どうです。軽いものでも」
 そして、昨夜と同じ調子で朝食を勧めてくれた。
 那智はテーブルに出されたミネストローネとバゲットに視線をやり、その後で目の前の美大生の顔を見た。吾妻宗主という男のことをそれほど知っているわけではないが、いつものように緩く髪を束ねた彼は昨夜と同じように静かに微笑んでいる。
 勧められるままにミネストローネを口に運び、程よく焼かれたバゲットをちぎって頬張った。そんな那智の対面で宗主もまた同じように朝食を摂る。
 「今日は晴れるみたいですね」
 「そうだな」
 「二日酔いなんかは大丈夫ですか?」
 「ああ。……気分は悪くない」
 交わされる言葉も何気ない。淡々と朝食を終え、那智は短くいとまを告げた。
 「桜、もう散ってしまったでしょうね」
 玄関まで見送りに出た宗主はちょっぴり眉尻を下げて苦笑した。「あんな嵐の後にこんな晴天に恵まれるなんて……皮肉なものです」
 「花が散れば次の季節がやってくる。それはそれで悪くないことだろう」
 那智は相変わらず淡々と無表情だが、靴に足を突っ込んでちらと宗主を振り返った口許はほんのわずかに緩んでいた。
 「世話になった。――感謝はしている」
 思いがけぬ言葉に宗主がきょとんとしているうちに、那智はさっと背を向けて外に出て行ってしまっていた。
 「……どういたしまして」
 くすりと笑った宗主の声は、ドアがばたんと閉じる音に重なった。


 宗主が言っていた通り、今日は好天に恵まれそうだ。すっきりとした空に雲、朝日を受けてきらめく雨粒の名残。嵐の後の朝は爽快だ。地上に淀んだ不純物がすべて洗い流されたのだろうか、吹く風はただただ爽やかな心地だけを運んでくる。
 だが、天候や草木などが那智の興味を惹くことはない。無関心と無表情を保った准教授はアスファルトに残った水溜まりを無造作に踏みつけながら家路を辿る。
 ふと視界の端で白っぽい欠片が舞ったような気がして足を止めると、そこは昨夜宗主と出会った桜並木であった。風雨に一晩晒された桜は随分みすぼらしい姿に成り下がっていたが、あの嵐を耐え抜いた小さな花がぽつぽつと咲き残っている。
 平凡な花だ。眺めたところで特別な感慨など呼び起こされはしない。
 それでも、桜を見上げる紫の双眸はほんの少し凪いだ色を見せている。


 (了)

クリエイターコメントご指名ありがとうございました、そして大変お待たせいたしました。
滑り込みでノベルをお届けいたします。

…えー。
夜桜という指定は 一 切 な か っ た のですが、季節的にはアリかな、ということで書いてみました。
他、飲酒の場面や嵐の描写など、情景が心情を物語るような雰囲気を心掛けたつもりです。
ゲスト様に関しては「全部任せる」とのご指示を受けましたので、全部捏造させていただきました(いい笑顔)。

地味な情景描写をひたすら重ねるという宮本の得意パターンになってしまいましたが、楽しんでいただければ幸いです。
オファーありがとうございました。
公開日時2009-04-08(水) 19:00
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