★ リアリティブレイク ─彼らの魔法─ ★
クリエイター冬城カナエ(wdab2518)
管理番号106-7480 オファー日2009-04-26(日) 21:01
オファーPC 栗栖 那智(ccpc7037) ムービーファン 男 29歳 医科大学助教授
ゲストPC1 流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
<ノベル>

 拳をギュッと握りしめて。
 少年は俯いている。
 14、5才ほどの、中学生とおぼしき少年である。紺と白のストライプの、長袖のシャツの両袖は、まくり上げられていて。その視線は机の上の、ただ一点だけを見つめている。
 そこはテーブルと椅子だけの、がらんとした部屋だ。少年と向かい合って座っているのは、流鏑馬明日である。
 彼女は刑事という自分の職務をこなすために、椅子に身体を預けていた。
 すなわち、そこは取調室であった。
 明日は、じっと目の前の相手を見つめ、その横顔に湿った髪が張り付いているのに気付いた。
 ああ、そうか。
 この部屋の中は暑い。
 それもじっとりした湿気に覆われている。
「ねえ、暑い? エアコン、入れようか」
 ようやく明日は少年に声を掛けた。が、相変わらず返事はなかった。少年はただ俯き、沈黙を続けている。
「……」
 彼女はため息をつく。年齢が一番近いということから、この件を担当することになった明日だったが、何を話しかけても少年は何も話そうとはしなかった。彼はずっと沈黙を続けている。
 ここ銀幕署に連れてこられてから、少年は一言も口を聞いていない。しかし明日は刑事であり、彼に関する必要最低限の情報をもっていた。
 少年の名前が、佐和野信一だということ。
 年齢は13才で、中学一年生。
 東京都在住で、父親の佐和野良助と共に一週間も家に戻らず、母親から捜索願いが出されていること。
 そして失踪している佐和野良助が、ある大学の研究者で、細菌学──それも病原微生物学の権威であること。
 彼が失踪した夜、その研究室が火災に遭い、現場近くで警備員が一人、死亡していたこと。
 明らかに事件性があった。少年の父親が何かの事件に巻き込まれている可能性は非常に高いと言えた。
 そして昨日。信一少年は、どういうわけか、この銀幕市に来ていて、市役所の映画問題対策課にいるところを保護されたのだった。
「信一くん、あのね」
明日は、少し身を乗り出しながら少年に顔を近づけて言った。「あたしたち──いいえ、あたしはアナタの力になりたいの」
 返事はなかった。構わず、明日は彼の俯いた顔を見つめながら続けた。
「銀幕市に来るのは初めてでしょう? この街はね、東京とは違うの。もしかしたら、お父さんを早く見つけないと、危ない目に遭ってしまうかもしれないわ」
 少年はそれでも、こちらを見ようとしない。
 明日は無言で席を立ち、彼の脇まで行くとしゃがんで少年の顔をのぞき込むようにした。
「ねえ、信一くん。アナタはどうしてこの街に来たの? どうしてあの対策課にいたの? アナタは何かをするために、この銀幕の街を選んだんじゃないの?」
 そう尋ねると、ようやく少年は明日をチラとだけ見た。
「それとも、何かを探しに来たの? 捜し物があるなら、あたしが見つけてきてあげる」
 少年は明日の顔を見下ろした。しばらく。
 そして一言だけ。つぶやくように口を開いたのだった。


 * * *


「魔法使いを連れてきて──か」
 口端を歪めて、栗栖那智は笑った。
「子供らしいセリフじゃないか。最近の子供らしくなくていいね」
「彼は真剣よ」
 明日は立ったまま、腰に手を当てて那智を見下ろしていた。銀幕署内の別室である。
 机の上には、様々な写真がところ狭しと置かれていた。白いシャツ姿の那智は、椅子に寄りかかるようにしてその写真を代わる代わる手に取っては、しげしげと眺めていた。時折、おっ、などと声を上げながら。
 まるで、合コンの相手の写真をみているような態度だが、その実はまったく違っていた。
 彼が見ているのは死体の写真だった。
 佐和野教授──信一少年の父親が失踪した後に、研究室の外に倒れていた警備員の死体である。そして、その検死結果と思われる何らかの臓器の写真等、等、等。
「──それで、アナタの判断は?」
「うん、おそらくは火災の前だな」
「ということは──」
「この警備員は火に巻かれる前に死亡していたか、すでに昏睡状態にあったと判断できる」
 明日の問いに、那智は写真に目を落としながら専門家として答えていた。

 彼は数十分前に、ここ銀幕署にやってきたばかりだった。医科大学の助教授である那智は、彼にしては珍しく、警察の捜査に協力するために銀幕署に足を運んだのだった。
 知り合いの法医学の教授に声を掛けられたのは今朝のことだ。君にうってつけの事例があるぞ。そうは聞いたが、要するに警察からの捜査協力要請だった。
 面倒だ、行きたくない。──そんな言葉が喉まで出かかったが、銀幕署のある刑事がこの事件を担当していると聞いて彼は態度を変えた。
 那智は人付き合いが得意な方ではない。しかし、彼は目の前の女刑事を友人だと思っていた。
 それが、彼がここにいる理由だ。

「──ある大学の研究室が火災で燃えた。そこで夜勤をしていたはずの教授本人はおらず、見つかったのは窒息死した警備員の遺体が一つだけ。……この状況から察するに、研究者当人である佐和野良助が“重要参考人”であることは間違いないだろうな。警察の見解は正しい。私も同感だ」
 そう締めくくると、彼は手にしていた写真を明日に差し出してみせた。
 自分の身体を抱きこむようにして息絶えている例の警備員の写真である。火災からは免れたものの、顔面は、うっ血したような赤紫色に変色していた。それは絞殺死体にも似ていて、見るからに尋常な死に様ではない。
「ウィルスだろうな」
 医科大学助教授は、淡々とした口調で告げた。
「それとも殺人ウィルスと言い換えた方がいいかな。実に興味深いよ」
 じろり、と明日が彼に目を向ける。しかし那智は彼女の視線をものともせず、説明を続けた。
「検体がなく、検死報告だけで判断するのは難しいが、おそらくはある種のファージだ。細菌を食らって感染していくタイプのウィルスで、タンパク質の外殻に遺伝情報を担う核酸を持っていて──」
と、那智は明日の表情を見て、説明を省略した。「──要するに、このウィルスは口や鼻などから気管支を通って肺に到達してから効力を発するタイプの可能性が高いということだ。肺に到達してからは、取り入れた空気を酸素化する能力を極度に低下させる。吸った空気を身体に取り込めなくなれば、人間は窒息してしまうだろう?」
 一息ついて、前髪をかき上げる那智。
「患部の写真を見る限り、ウィルスにより肺房が変質している。火災による一酸化炭素中毒による死亡ではない。……恐ろしいな」
 明日は目をしばたたいた。彼が珍しい言葉を口にしたからだ。
「特殊なウィルスなの?」
「ああ、そうだ。これを生物兵器として見た場合でも、非常に優秀な代物だ。状況から判断するに、このウィルスに感染すると人間は数分で呼吸困難による昏睡状態に陥るようだ。そのまま放っておけば数十分で命を落としてしまうだろうな。速攻性、そして致死性が異常に高い」
「殺人ウィルス……」
 何か考え込むように、明日は視線を床に落とした。
「ある種の人間にとって、それが非常に役立つものであることは確かだ」
 一つ息をつきながら那智は、冷めたような目つきを窓の方へと向ける。彼にとって、これはあくまでただの研究対象にしか過ぎなかった。その口調は冷めたものだった。
「そう考えると、佐和野教授が“研究成果”とともに拉致された可能性も捨てきれないだろうしな」
「そうね」
 素直にうなづく明日。
「信一くんは何者かにお父さんを人質に取られ、この銀幕市に何かを探しに来たという可能性もあるわね」
でも、と彼女は続ける。「あんな子供に何かをさせようというのも変な話だわ。あたし、信一くんはお父さんの居場所を知っているんじゃないかと思うの」
「……と、言うと?」
「魔法使いを連れてきて、って信一くんは言ったわ。お父さんを探して、ではなく」
 明日は那智の横顔をまっすぐに見つめた。
 わずかな逡巡の後、女刑事は自分の推論を口にする。
「栗栖さん、こんなことを言うのは何だけど……。佐和野教授は、もう亡くなっているんじゃないかしら」
 ひたと動きを止めて、那智は女刑事を見返した。いぶかしげに眉を寄せ、怪訝な表情を見せながら。
「なぜ、そう思うんだ?」
「信一くんが独りでいるからよ」
 あくまでもこれは推測なのだと、明日は注意深く声のトーンを落とす。
「もしかすると、彼はお父さんの作ったウィルスをこの街に持ってきているのかもしれない。だからこそ、信一くんは対策課に──」

 ──ドンドン!

 その時、二人の会話を割るようにドアが外からノックされた。それも強く、乱暴に。
 足早に明日が近寄ろうとするが、その前にドアが開き同僚の刑事が顔を出した。
「例のやつ、ウィルスかどうか、分かったのか?」
「それは──」
「大変だぞ! ふれあい通りで通行人がバタバタ倒れてるって通報が入ったんだ」
「えっ!」
「ギン・カフェって知ってるか? どうもそのインターネットカフェが中心になってるようだ。救急車も出てるが、ガスマスクを付けていかねえとすぐにやられちまうらしいぞ!」
 驚く明日。人が次々に倒れているとは、まるで──。まさかという言葉が彼女の口をついて出る。
「症状は!?」
 彼女の横で、鋭く質問を挟む那智。すると刑事はすぐに答えてくれた。
「息苦しくなって、そのまま気を失っちまうらしい。先生、あんた心当たりあんのか?」
「──!」
 明日と那智は、思わず顔を見合わせていた。


 * * *


「くそっ!」
 止める間もなく、那智は取調室へと走っていた。
 勝手に鍵を開けてドアを蹴破るようにして室内へと飛び込む。中にいた信一少年は驚き、目を丸くして乱入者を見た。

「お前のせいで人が死ぬぞ! それも大量にだ」

 栗栖さん、やめて! と、明日が叫んだが、彼は聞いていなかった。信一が怯えて立ち上がろうとする前に、その襟首を両手で掴み上げる。
「佐和野教授のウィルスをどこにやったんだ!」
「ぼ、僕……」
「信一くん、聞いて。お父さんのウィルスが漏れ出して、この街の人たちに感染し始めたの」
 那智を止めるに止められず、明日は早口に説明した。
「銀幕ふれあい通りの“ギン・カフェ”っていうインターネットカフェだそうよ。アナタはそこにいたの?」
「……あ……」
「どうなんだ!?」
 少年は目を白黒させながらも、うなづいたようだった。あまりのことに理解が追いついていないようにも見える。
 そっと明日が那智の手に触れ、手を緩めるようにと目で訴えた。彼は今にも怒鳴ろうとしていたところだったが、仕方ないといった様子でそれに従う。
「あ、預かってもらってたんだ……」
 するとようやく、信一は話し始めた。
「誰にだ!?」
「栗栖さん」
 問いつめようとする那智を手で制し、明日は、先を促すようにそっと少年の両肩に手をおいて、腰を屈めて視線を合わせた。
「……親切にしてくれたから。力になってくれるっていうから、それで」
「誰が?」
「店長さん。ギン・カフェの。僕、泊まるお金を持ってなかったから、カフェに居させてくれた。だから、いろいろ話したんだ」
 明日は那智と目を合わせた。
 なるほど、こういうわけだ。中学生の信一は、独りで銀幕市にやってきて宿泊場所に困り、インターネットカフェに行ったのだろう。そして、その店長に優しくされて、自分の事情を話してしまったのだ。
 店長に悪意があったのかどうかは分からない。
 しかし現に、ウィルスはそのカフェを基点に、街へと漏れ出している。
「──いいか、よく聞け」
 やがて低い声で那智が口を開いた。彼はまっすぐに冷たい目で少年を見下ろした。
「私は、お前の父親と同じような研究をしている。被験体が手に入れば、ワクチンを作ることもできる」
 本当に? と、少年は、すがるような目になって那智を見上げた。
「私が言いたいことは分かるな? あのウィルスに感染した人たちは、何もしなければそのまま死んでしまう。だが私なら彼らを助けることができる。だから──」
 彼は、少年に視線の高さを合わせることをせず、あくまで上から彼を見下ろしたまま、続けた。

「だから、一つだけ教えろ。お前は、自分の父親をどうした?」

 少年は目を見開き、那智の顔を穴のあくほど見つめた。
 しかし、それは一瞬だけだった。
 すぐに彼の瞳は輪郭を失い、目尻が震える。涙だった。少年は目を潤ませ、それでも那智を見上げ続けた。
 ほろり、と涙の雫がこぼれ、彼の肩に置かれた明日の手の甲を濡らす。
「僕──」
 明日も、彼を安心させるようにうなづいてみせる。
「あの……」
 少年は、意を決して。小さな声で話し始めた。
「……僕は、お父さんを止めようとしたんだ。お父さんはあれを素晴らしい発見だって言って」
 彼は言う。一週間前、父親の研究室に行ったことを。
「僕があれを取り出して燃やそうとしたら、お父さんが──」

 少年は二人に話した。そこで、何が起こったのかを。

「そうか」
 那智はうなづき、少年から目をそらした。何か胸の中にたまっていたものを吐き出すように長く息をつく。
 それから、自分を見上げている明日と視線を交わした。
「ふれあい通りに行こう」
「ええ、分かったわ」
 何か考えがあるのだろう。そう思い、明日は彼に何も尋ねなかった。
 少年からは興味を無くしたように、那智は時計を確認した。まだ間に合うな、と独りごち、そして最後にもう一度、明日を見る。
「そうだ。一つ、足りないものがあるんだが、行く前に調達してきてくれるか?」
「何を?」

「──魔法使い、さ」

 不思議そうな様子の明日にそう言うと、彼はとびきりのジョークを言ったかのようにニヤリと笑ってみせたのだった。


 * * *


 そして、事件当日から二週間が経った。

 明日と那智は、病院の廊下で久しぶりに再会していた。例のウィルスに感染した患者たちの病室の前である。昼間の病院は和やかな雰囲気に包まれており、患者たちは歩いてこそいないが、ベッドに静かに横になっていた。
 彼らの容態は快方に向かっていた。

 ──つまり、全員が助かったのだった。

 やあ、と那智が言い、明日はただ無言で微笑みを返す。
 二人がしばらく会えなかった理由は、ウィルス事件で一人の死者も出なかったことに深く関係していた。
 那智はずっとワクチンの研究をしていたのだ。
 それが完成したからこそ、患者たちは命をとりとめた。誰も死ななかったのだった。
「アナタは本当に凄いわ」
 明日がそう誉めると、照れたのだろうか。那智は何も答えず、彼女に近場の椅子に座るよう促した。
「ちゃんと寝ているの?」
「今夜から、ぐっすり寝るよ」
 ドサッと自分の身体を投げ出すように座る那智。明日はそんな友人の姿を微笑ましそうに見つめた。

「──感染した人たちを凍らせる、なんてね」

 ふと明日が当日のことを振り返るように話を始め、那智は少しだけ口元に笑みを浮かべてみせた。
「魔法を使える人間が実在する、銀幕市ならではの対処法だろう?」
 あのガキのアイディアを拝借したのさ──。那智は視線を合わせずに話を続ける。
「ウィルスも生物といえば生物だ。乾燥と紫外線には、すこぶる弱いからな。あの周囲の環境だけ砂漠のような環境に変えた上で、感染した人々が死なないように凍らせる……コールド・スリープの要領だな。ファンタジー映画出身の魔法使いなら朝飯前というわけだ」
「ええ」
 うなづく明日。
「この街には、魔法使いが多いものね。すぐに見つかって本当に良かったわ」
 あの日、銀幕署を飛び出した二人は、本当に魔法を使えるムービースターを連れて現場に急行したのだった。
 那智の指示で、魔法でウィルスが死滅するような環境を作りつつ、感染した人々を凍らせたのである。
 それは彼らに根本的な治療をするための、ワクチンを開発する時間を稼ぐためだった。
 作戦は功を奏し、銀幕市では死者を一人も出さずに終わった。
 二人の機転の勝利である。

「それで──あいつはどうなるんだ?」

 ふと、那智は目の前の壁を見つめたまま、隣りの明日に問うた。
 信一少年のことか。彼女は目を伏せる。
「彼は母親と一緒に東京に帰ったわ。お父さんを、ちゃんと埋葬してあげるって」
「そうか」
 那智はいつもの癖で、前髪をかき上げようとして──やめた。
「馬鹿な奴だ。何でも一人でやろうとするからだ。ガキのくせに」
「そうかしら」
 そっと口を挟む明日。
「彼は殺人ウィルスを破棄しようとして、銀幕市に来た。この街の“魔法”なら、あのウィルスを何とかできると思って。信一くんは、ある意味正しい判断をしたのよ」
 ──本当に、どうにかなったんだから。明日は友人の横顔を見ながら言う。
「でも、彼がお父さんを事故死させてしまったのは事実。それが心の傷にならなければ良いけれど……」
「心の傷?」
 すると那智は、なぜか吐き捨てるような口調になった。
「そんなものになるわけがない。あいつの言い分を聞いただろう? あいつは尊敬する父親に、生物兵器の開発者という汚名を着せたくなかったんだ。だから、父親の研究室に忍び込んで、ウィルスを破棄しようとした。……もっとも、ウィルスが漏れ出して、父親自身を死なせてしまったのは誤算だろうがな」
「栗栖さん……?」
 息せき切ったように言い放つ那智。ただ、明日が不思議そうに自分を見ているのに気付いて、彼はバツが悪くなり、そっぽを向いた。
「いや──すまない。ただ、あいつの中で、父親は尊敬の対象のまま、ずっと残るのかと思ってな」
「そうかもしれないわね」
 友人から何かを感じ取ったのか。明日は注意深く相槌を打った。
「あたしが物心ついたころには、両親二人とも行方不明になっていたから。そういう気持ちがよく分からなくて」
「そうなのか」
 今度は逆に那智が驚いたように彼女を見る。明日が自分のことをこんな風に話してくれたのは、初めてのことではないか。
 初めて知る彼女自身の話に、那智はこの友人がまだ19才なのだということを遅れて思い出していた。
「父も刑事だったから、母共々何かの事件に巻き込まれたんじゃないかって」
 明日は淡々と自分のことを話していた。彼女はあまり自分の感情を表に出すタイプではないが、両親の話をしているときは特にそうだった。
 すまない、と、那智はもう一度彼女に謝る。
「いいのよ、気にしないで。もうずっと昔のことだから」
 友人を心配させてしまったか。明日は努めて笑みを浮かべてみせながら、口調を変えた。廊下を行く看護婦の様子を眺めながら、ふと時計に目をやる。
「わたし──そろそろ行くわね」
「そうか」
 那智もそれを止めない。
 立ち上がりかけ、明日は友人に別れを告げようとして、その姿に目を留めた。何日も徹夜をしたのだろう。目の下には隈が出来、ひどい有様ではあった。それでも、彼女には彼の姿は、何か誇らしいような、頼もしいようなものに映った。
「でもね、栗栖さん」
 彼の姿を見ていて、自然と言葉が口から零れ出る。
「あたし、信一くんがね、少し羨ましいなって思ったの」
「羨ましい?」
「尊敬できるお父さんがいるのって、羨ましいなって。変よね」
「そんなことないよ」
 明日を見上げ、那智は眼鏡を外した。彼の視力はあまり良くはないが、裸眼でも目の前に立っている女刑事の姿はよく見えた。
 背筋を伸ばし、しゃんと立つ彼女の姿が。
 眠さに目をこすりつつも、彼は重い腰を上げて彼女の前に立つ。
 
「君は別に変じゃないよ」

 そう言って、彼は笑った。
 それは那智にしては珍しい類の、柔らかな笑みだった。



                      (了)



クリエイターコメントありがとうございました!
少しお待たせしてしまいまして申し訳ございません……。

なんだか非常にタイムリーなネタのオファーでありがとうございました(笑)。
わたしもマスクをしながら書かせていただき、大変勉強になりました。
インフルエンザ、怖いですねえ……。

またまた会話劇になってしまいましたが、何かありましたらお知らせくださいませ(^^)
ではでは。
公開日時2009-05-23(土) 10:30
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