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<ノベル>
空を見上げれば、いつもは青々と晴れている筈なのに、今日に限って鈍い曇天だった。ルースフィアン・スノウィスは、その空を見届けると、ひとつ息を小さく吐く。
彼の目の前には、来る者を拒むかのように、日光を通さない分厚い葉が茂る高い木が、幾重にも並んでいた。おそらく、庭を囲む垣根のつもりなのだろう。垣根の外側には、ぐるりと黒い門。そしてその木々の向こうから漂ってくる、濃厚な負の気配。
ルースフィアンはそれを肌で感じ取り、そして再び小さく息を吐いた。
彼がここにいる理由は、簡潔に纏めれば、対策課からの依頼であった。
どうやら最近、夜も更けた頃に、人――特に力の弱い人を優先して――攫われているらしい。その事件と同時期に出現したこの庭の向こうの館。人が住んでいる気配も無く、そして何よりも人を寄せ付けない、この怪しい雰囲気に、ターゲットを絞られて捜索する事になったのだ。
ひとまず簡単な捜索ということで、ルースフィアンはひとりでその館へと向かっていた。だがルースフィアンの脳内では、その場で片をつける事が出来たら片付けてしまいたい、という思考を巡らせている。人が攫われているのならば、出来るだけ早く解決した方が良いからだ。
彼がひとりで現場へ向かうことに、対応していた対策課の職員はやや不安そうな眼差しを向けていたが、彼はやる気に満ちている訳でもなく、気負っている訳でもなく、ただ事実として淡々と、ひとりで大丈夫だ、と告げ、現場へ向かっていたのである。
通りをゆっくりと歩いていくと、その大きな木々には不似合いな小ささの門が目に入った。そこに向かうにつれ、明らかな魔力の気配を感じ取っていたが、それでも彼は迂回して違う場所から突入、という事はしなかった。
門に手を掛け、そして視線を遠くに向ける。
そこに見えるのは、尖った屋根がいくつも並ぶ、洋館。
黒々とした壁が、そしてその館の前に整然と広がる薔薇の庭が、どことなく威圧感を感じさせる。隅々まで手入れがされているくせに、人気のまったくない庭に艶やかに咲く、白い薔薇と赤い薔薇。
ゆるりと葉が、風に揺れた。その温い風にルースフィアンは小さく眉を潜める。
「――さて、何が出るやら……」
誰にともなく呟いた彼は、ふ、と洋館に向けて笑むと、その濃厚な魔力が張り付いている門をゆっくりと開いていった。
どこかでぴり、と何かが壊れたような音が、耳に響いていた。
* * *
そこに彼がいたのは、今日、空が曇ることと同じくらい、まったくの偶然であった。曇天な為、いつもよりも気温が下がって過ごしやすい日であったが、彼――レドメネランテ・スノウィスにとっては、「まだまだ暑い」感覚であるようで、その腕にはしっかりと、ペンギン模様の水筒が抱えられていた。
そんな彼は、たまたま偶然、通り道としてその道を歩いていたのだが。
「――う、わっ?」
レドメネランテは、唐突に声を上げ、そしてその場に止まった。彼の前に、一匹の、漆黒の巨大な狼のようなものが不意に現れたからだ。
その狼の毛並みはふかふかで。普段なら、思わず駆け寄って抱きしめたくなる衝動に襲われるかもしれないのだが。明らかに、その身体からは不穏なものが漂っているように感じて、彼はたじろいだ。
その狼のようなものは、じ、と彼を見つめていた。不意に訪れた邂逅に、レドメネランテの額にぽつ、ぽつと冷や汗が吹き出ている。
温い風に乗って、甘い薔薇の香りがどこかから運ばれてくる。そう感じた瞬間に、それは動いた。
小さく前足を蹴って、力の貯めを作ったかと思うと、あっという間にそれは飛び掛ってきた。
「へ? ……――ッ!」
レドメネランテの手から、水筒が滑り落ちた。カランカラン、と道路に叩きつけられて抗議の声を上げていたが、それに構う間なんぞは当然ない。
彼はすんでのところで、棒のようになった足を動かし、転がるようにしてその狼を避けながら、手を振った。
水筒の真上にぴし、と大気が震えるような音と同時に白い氷の塊が幾つも出現し、狼の行く手を遮る。狼は突如現れた氷にその体をぶつけ、地面に激突し、しばらくそのままであった。
だが、その瞳が、明らかな憎悪と殺意を持ってレドメネランテを睨みつけてくる。
「……う、うわあぁぁあああああッ!」
レドメネランテは、ようやく自由になった喉で思い切り叫びながら、その場から駆け出していた。
――何か、叫び声のようなものが聞こえた気がして、ルースフィアンはつと足を止めていた。入って来た方へと首を向けるが、そこには何もない。
「……?」
しばし首を傾げてみたが、魔力の気配も残っていない。その事を確認すると、ルースフィアンは再び前へと向き直った。
そして、軽く息を吐く。
つい先程まで、ルースフィアンの目には、どこか無為に広がる庭しか映り込んでいなかった。どこまでも丁寧に整えられた、人工の庭。
だが、今は。彼の右側と左側に一体ずつ、魔物の姿があった。大きな犬のような、狼のようなものともとれる。彼の後方にも濃厚な気配を感じるので、おそらく狼の群れなのだろう。
「……どうやら早速歓迎して頂けるようですね」
ルースフィアンは小さく呟いて、そして微笑んだ。それを見てかどうかは分からないが、魔物達は一気に飛び込んでくる。
だが彼は慌てる事無く、右手の指をつい、と振った。その青い目が一瞬、ぞろりと光を帯びる。
彼が指を振った瞬間に、その周りの温度が一気に下がっていった。と思うと、彼の周りを囲むように、青い氷の槍柱が出現していた。
その柱は飛び掛ってくる魔物達の動きを阻め、魔物達は地へと落ちる。それを目にしつつ、ルースフィアンはさらに指をつい、と振った。
中空から音も無く、鋭い氷の矢が一体の狼目掛けて降りかかる。その氷は狼にぶ、すり、と突き刺さり、初めて存在を表していく。
狼は悲鳴ともとれる声を上げながらその体内の魔力を放出し、その氷はどす黒い血の色に染まっていく。
ルースフィアンは、ただ、魔物が溶けていく様子を冷たく光る瞳で見つめ、そして再び指を動かした。
鋭い咆哮を上げながら飛び掛ろうとしていた狼へ、再び氷の矢が襲い掛かる。
「ギャンッ!」
どこか犬らしい叫び声を上げながら、地でのた打ち回る魔物達。
その中で慌てることも、叫ぶこともせず、着々とルースフィアンは襲い掛かってくる者達を撃退していた。
ふわり、と風が吹くと思うと、次の瞬間にはそこに氷の刃が現れて、狼の身体を抉り取っていく。刃がぶつかる衝撃で後方へ吹き飛ばされた魔物は、白い薔薇で飾られている生垣へと突っ込んでいった。
ぽつり、と赤い鮮血が、そこに咲き誇る白い薔薇を赤く染める。
それはまるで、おとぎばなしの一場面のように。
「うわぁぁあぁあぁっ! くるなあぁあぁ!」
ふ、とルースフィアンの口元に浮かびそうになった微笑が、唐突に耳に届いた叫び声に途中で止まった。辺りの気配に気を配りつつ後ろへ振り返る。門の向こう側で、ひとりの少年が辺り構わず叫び声を上げながら、狼から逃れている光景が目に入った。
「……」
ルースフィアンはほんの僅か、その場で魔法を放つのを逡巡した。その一瞬の隙を見てか、一体の狼が彼に飛び掛ってきた。右腕にかぶり付こうと、その口を開く。
「……――」
がっ、と小さな音がして、右腕に熱さが奔った。
無表情に見下ろす視線の先には、じわじわとシャツの腕に赤い染みが広がるのが見える。
彼はそれに躊躇する事も無く、その右手を軽く振った。すると、狼の体に、何の前触れも無く氷の刃が突き刺さる。それはその身体を突き破り、飾りのように、赤い色を纏わせてその身体を彩っていた。
ずるり、と右腕から刃が抜けたことを感触で確認すると、ルースフィアンはくるりと後ろを振り返った。
そこでは、先程までと同じように、少年がなりふり構わず魔法を放っているのが目に入る。
遠くからでも分かる、強い魔力。
もっと制御の方法を覚えれば、上手に魔力をコントロールできる筈、なのに。
……仕方ないですかね、と独り呟くと、ルースフィアンはそのふっくらとした、美しい唇を開いた。
「もっと魔力に働きかけないと、自在に操ることは出来ませんよ」
「……えっ?」
ルースフィアンがそう言葉を発すると同時に、レドメネランテの周りに分厚い氷の壁が立ち並んでいた。そして、彼を追いかけていた狼に、氷の槍が突き刺さる。
一瞬の内に起こった出来事に、レドメネランテは、ぽかん、と口を開いてその場に立ち尽くしていた。
「ほら、今の内にこちらに」
ルースフィアンが小さく手招きをしているのに気がついて、レドメネランテも屋敷の庭へと足を踏み入れる。
「それにしても……折角魔力をお持ちなのですから、もっと上手に操らないと……」
小さく眉を潜めながらの言葉に、レドメネランテはしゅん、と傍目にも分かるように落ち込んでいた。
「うん……でも、どうしてもまだ、うまく使えないんだ」
この世界に来る前も。この世界でも。いつも上手く身体に満ちている魔力を扱えない。もっと上手に魔法を使うことが出来れば良いのに、と幾度歯がゆい思いをしたか。
それを知ってか知らずか、ルースフィアンの眉が、ふと上がった。
「では、よろしければ僕が教えましょう」
「ほ、ほんとに……?」
「どうせ相手は雑魚のようですから」
ぱっと顔を輝かせたレドメネランテに、ふんわりとルースフィアンは笑んだ。
その時、じわり、と辺りに魔力が満ちるのに、二人は気がついた。
辺りに目をやると、今まで、人気のなかった目の前の洋館の一部屋で。大きい窓に掛けられたカーテンがちらり、とめくられて僅かだが人影が揺らめいた。
その人影が消えたとき、洋館の一番高いテラス部分に、ごそりと蠢くものがあった。目を凝らしてみると、それは今まで対峙したものよりもひと際大きな狼のように見える。
狼は、遠くからでも分かる鋭い眼光をこちらに向け、そして空に向かって身体を反らしていた。
「……!」
その場にビリビリと響く、狼の遠吠え。その声の大きさに、レドメネランテが思わず身体を揺らしてしまう。ルースフィアンは相変わらず冷静な表情のまま、素早く自分達の周りへと視線を奔らせていた。
どうやらその狼はボスのような存在らしい。その遠吠えを聞いて、庭の影から狼、はたまた虎のような形をした魔物が現れる。
まあ、確かに狼は群れで生活しているけれども。
「ようやく本番といったところですかね……」
だがルースフィアンは動じる事無く、小さく口の端を上げた。
* * *
「ど、どうするのっ。何か、さっきよりもたくさんきたよっ……?」
整然と整った、美しい西洋風の庭園の真ん中で、レドメネランテは怯えたように声を上げた。その横で、ルースフィアンは魔物をじっと見据えるかのようにして立ち尽くしている。
「……それは好都合ですね。魔法の練習をするのに丁度良いです」
ルースフィアンは怯まないばかりか、にこりと笑みを浮かべて右腕を上げた。その右腕からは、痛々しいまでに赤い血が滲んでいたが、彼はまったく気にかけていないようである。
そうこうしている内に、屋敷の屋根部分から飛んできたらしい、大きな鳥の形をした魔物が二人に目掛けて急降下してきた。
「う、うわああっ!」
怯えと焦りで、無我夢中で魔法を使おうとしたレドメネランテの腕を、思いがけない素早さでルースフィアンが掴む。真摯な瞳が、レドメネランテを捉えた。
「もっと落ち着いてください。……一瞬で魔法が出せる利点を、上手く利用するんです」
「で、でも魔物がっ!」
レドメネランテがあたふたと叫ぶ。そう、空を急降下してきている彼らは、今にも二人の首筋へと噛み付きそうな位置に迫っていたのだ。
「ここはもっと引き付けて、こうするんです」
ルースフィアンはそう呟きながら、指をつい、と振った。
すると、大気の温度が一気に下げられ、魔物達の翼が凍りつく。それはあっという間に身体まで到達して。
ぱきり、という小さな音と共に、あっけな空から迫っていた魔物達は地へと堕ちて行った。カラン、と地面で乾いた音がする。おそらくフィルムへと変じていった音だろう。
だが、それを確認する間もなく、今度は庭のあちこちから様々な形をした魔物達が一斉に飛び掛ってきた。恐らく狼の姿が一番多いようである。
「う、わっ……! また、出てきたっ」
レドメネランテが慌てて魔力を放出しようとした時、ほら、落ち着いて、とルースフィアンが小さくたしなめるような声が聞こえた。
「慌てて魔力を放出すると狙いが定まらないです。落ち着いて周りを見ることが、戦闘での大事な事です」
彼はそう呟きながら、目の前に迫ってきた狼へと魔力を放出していた。
その狼の丁度首辺りに、ぶわ、と大きな氷の刃が出現して、ぞぶり、と柔らかい音を立てて突き刺さる。その音に思わず身を竦ませたレドメネランテの前で、首を絶たれた狼がフィルムへと姿を変じていった。
「……っ、でも、そんなに上手く出来るかな……」
怯えの色を濃厚に見せたレドメネランテは、それでも魔法を出すために手を上げようとしていた。隣で、相変わらず、彫刻のような美しさのまま、淡々と魔法を放っているルースフィアンはぽつりと呟く。
「出来る出来ないの問題では無く、やる、のですよ」
彼はそのまま、自分の全面に氷の壁を作り出し、そしてその壁の向こうに大量の槍を出現させた。音速で出現したそれらは、確実に魔物の身体を貫いていく。
げほっ……。
それらを視界に収めつつも、ルースフィアンは小さく咳払いをした。隣にいる人物に悟られることの無いよう、出来るだけ小さな咳に収める。
先程から魔法を行使してきたので、その反動が少しばかり来たのだろう。勿論彼は、このくらいでへこたれるような精神の持ち主ではないが。
――また、心配を掛けてしまいますか、ね。
そう思った彼の口元に、自然と微笑みが生まれるのを感じていた。
それでも。ルースフィアンはそっと後ろを振り返る。
今、ひとつ壁を乗り越えようとする者が、ここに、いる。
彼と正反対の道を歩む、もうひとりの、少年が。
レドメネランテは先程ルースフィアンが呟いた言葉を繰り返し脳内で反芻していた。
そう、既にここは戦場。出来る出来ないの問題では無く、やらなければ、ならないのだ。そう考え、そして覚悟を決めようとしていた彼の下に、いくつかのピューマを模したのだろうか、どちらかというとネコ科に属するであろう魔物が迫ってきていた。
それらは狼のように脳に触る声を上げる事は無かったが、それでもレドメネランテを焦りへと導くには十分なものを持っている。
一瞬焦りかけて、そして再び先程の呟きを思い出し、放出しようとしていた魔力を体内に留めた。
そう、今こそ、落ち着かなければ。そう思い直して、再び腹部に力を入れた。
「えいっ!」
一声叫んで、魔力を放出する。放出された魔力は、レドメネランテが思い描いた――ようにはいかなかったらしく、魔物の身体を突き抜けるように大きな氷の柱を創り出した。
「……うーん……そんなすぐに思う通りにはいかないか……」
若干眉を潜めて不満そうに呟く。横目でそれを見ていたらしいルースフィアンが、自らも魔法を繰り出しながら再び説明していた。
「それは魔力を使えるだけ使ってしまうからですよ。敵に応じて、魔力を絞るんです」
つい、と指を振ったルースフィアンの前で、今まで襲ってきた魔物に比べれば若干小さめな体格の魔物の身体に、細い矢のようなものが突き刺さっていた。
今まではかなり大きい魔法を使っていたルースフィアンが出したその繊細さに、レドメネランテは目を見開く。
「……すごい……」
目を見開いている彼に、ルースフィアンは今まで見せていた笑みとは明らかに違う類の笑みを見せた。
それはどこか艶めいた、僅かに狂気が覗くような、そんな笑み。
「ぼうっとしている間に、ほら、来てますよ」
僅かに頬を赤くさせてしまったレドメネランテは、彼の言葉にふと我に返った。先程地に落とした魔物を乗り越えて、新たに狼達がやってくる。右方から、数体。
レドメネランテは再び目を見開くが、今度は焦って魔法を放ったりはしなかった。
相手は二体。じっと目で追って、そして――。
「えいっ!」
レドメネランテは叫びながら、大きく手を振った。すると、前を走っていた狼達の足の部分、胴体の部分にやや細めな、氷の槍が突き刺さる。
「ガアアアアッ!」
魔物は断末魔の呻き声を上げつつ、空中でフィルムへと変わっていった。
その様子を待たずに、さらに後ろから数等の魔物達が襲い掛かってきた。どれも地を走っている。レドメネランテはそれを確認すると、かっ、と目を見開いた。
瞳が、じわりと青みを帯びる。
「はああっ!」
地が震えた。と思うと、ぼこぼこ、と独特の地が割れていく音が響き、そして地の水分を利用して、巨大な霜柱が立ち上った。鋭いそれは、いくつもの魔物達を襲い、フィルムへと変えていく。
「ふうっ……」
彼らを襲おうとしていた魔物達が全てフィルムへと還っていくのを見届けると、ようやく張り詰めていた緊張の糸が解けていった。
やった、と喜ぶ彼の横で、ルースフィアンは僅かに目を細めていた。
「……ふむ」
「え?」
ぽつりと呟いたルースフィアンの言葉に振り返ったレドメネランテは、彼の視線を追って。
一番高いバルコニーから優雅に飛び降りる、その魔物の姿を瞳に捉えていた。
* * *
ルースフィアンは静かにその場に佇みながら、ゆっくりとやってくる魔物へと対峙しようとしていた。
その狼のような魔物は、一歩足を進める度に濃厚な魔力を漂わせている。おそらく、今まで二人を襲っていた魔物達を操る事くらいは造作もないと思うくらいだ。
おそらく、知力もずば抜けているのだろう。その証拠に、狼は二人との距離をじっと見て、一歩一歩着実に詰めてきているようだった。
「うわ……今までのよりも、ずっと強そうな感じが……」
「そうですね。この魔力の濃さですと、魔法が使えるやもしれません」
空に向かって吠えることは無かったが、歩みを進めるだけでもそれはかなりの迫力を持っていた。レドメネランテは、その狼が一歩足を進めるごとに、ぴくり、と身体を震わせている。
ざわり、と風が吹いた。どこまでも温い、眉を潜めたくなる風が。
その風に、ぱき、と何かを手折るような小さな音が響いている。それはあちこちでぱき、ぱきと響き、気味悪いことこの上ない。
「……?」
何かを手折るような……?
気味悪い音が響く中、ルースフィアンがふと思った考えに眉を潜めたとき、レドメネランテがひ、と小さく息を呑んだ音が聞こえた。
「……なるほど、そういう事ですね」
ルースフィアンは、やっと自分の考えに合点がいった様子で、ひとつ頷く。そして、自分達の周りを見回していた。
そこには、まるで風に屠られたかのように、幾つもの庭園の薔薇が舞っていた。
弱い日光に当たったその薔薇は、普通なら決して無いだろう金属質の光沢を見せる。
――薔薇に飾られているのは、倒してきた魔物達の血。
「なるほど。魔物の血を吸って、『生きる形』を変えたのですね」
「え……?」
ルースフィアンの言葉にレドメネランテが首を傾げて上向いた時、その薔薇達は一気に動いた。
ごう、と風が渦巻いて。それと同時にルースフィアンの瞳の青が、滲み出る。
狼の瞳と、ルースフィアンの瞳が、同時に交錯して、薔薇を舞わせている風の中に入り込むように、もうひとつ、風が渦巻いていた。
二人の髪が、服が、ざわりと風に弄ばれる。風の隙間から、その花びらを煌かせて薔薇が舞い、向かってきた。
幾つかの薔薇が、二人を襲う。
「くっ……!」
レドメネランテは唇を噛み締めながら、小さく魔力を引き絞って魔法を解き放った。ぱきん、と薔薇のひとつが急速に凍ることによって、簡単に砕け散っていく。
それでも、幾つかの薔薇二人の攻撃を掻い潜り、襲ってきた。その鋭利な花びらに、ざ、と浅く衣服の一部を持っていかれ、そして肌の一部に赤く傷を付ける。
ぷつり、と赤い線が庇った腕に浮かび上がる。だが、薔薇の攻撃は、それまでだった。
しばらく風の魔法同士が拮抗していると思うと、不意にひとつがバランスを崩し、跡形もなく消え去っていた。
「上手くいきましたね」
ルースフィアンが上空にただ舞うだけになった薔薇を見て、ちらりと笑んだ。
風の魔法をいう助けを無くしたそれは、彼等の周りを取り囲んで、ただ舞い落ちるだけのものとなっている。
ふわり、ふわりと赤い薔薇が舞っていく中。
ひとつ、短く咆哮を上げた狼が、襲い掛かってきた。
「はっ!」
レドメネランテが気合いを入れながら、手を振り下ろした。あちこちの地面からぼこぼこと、氷の柱が立ち昇っていくが、流石にその魔物は、器用に氷の柱が立ち昇る場所を予測して、それらを避けて飛び掛ってくる。
ルースフィアンがちら、と目をやった時、その狼が襲いかかってくるポイントに、分厚い氷の壁が出現した。
直前にその事に気がついたらしい魔物は、飛び掛るのを止め、じっとこちらを見据えてくる。
薄っすらと透ける壁越しに見える、その表情は、なまじ知力を持っているから出来る芸当なのだろうか。
「吼えないけ、ど……別の意味で怖い……」
レドメネランテがその視線に小さく息を呑みながら、一歩、二歩、と後ろへあとずさる。
その時、びし、と音がして、その壁にひびが入っていった。おそらく、その魔物が何かしらの力で開けたのだろう。
「……私達と同じように、『瞳』に何らかの力が篭っているのでしょうか」
相変わらず冷静にそれを観察しているルースフィアン。二人の前で、次々と壁にヒビが入り込んでいった。
そして。
「……うわあぁっ!」
ぱきぃん、と呆気ない音と共に、その壁は脆くも飛び散っていく。
氷の欠片が宙を舞う中、再び狼が飛び込んできた。
レドメネランテはその魔物の突進を咄嗟に横に避けることによって回避し、ルースフィアンは自分の前に氷の槍を出現させることによって、魔物の行く道を変えさせる。
とん、と入り口側に軽く音を立てて態勢を立て直したそれは、もう一度、ゆっくりと彼らを振り返る。
――三つの視線が、絡まりあい。
一番にそれに耐えられなくなった、レドメネランテがその狼に向けて、魔法を放っていた。
氷の礫が襲い掛かるのをひょい、と避け、魔物は勢い良くこちらへと向かってくる。
今まで静かに視線を合わせていたルースフィアンは、その狼が飛び掛ってくる寸前で、己の魔力を放出していた。
鋭く細長い氷の槍が、ぶつ、という何とも呆気ない音と共に、その魔物の胴体を貫通して。
「が、ぐ、ガア……」
槍に、じわりと赤い液体が滲み出る中、呻き声を上げたその狼は、じわり、と二人を射殺すかのような視線を見せて――そして、フィルムへと戻っていった。
カラン、と地に落ちるそれに目をやりながら、ルースフィアンは屋敷に目をやる。そして、じっとそれを見据えていた。
* * *
ゆるりと、再び風が吹いて。
静けさが戻った庭園には、ゆっくりと進むルースフィアンと、彼の後をちょこちょことついていくレドメネランテの姿があった。
「……さて、ひとまずあとは屋敷の中だけになるかと思うのですが……どうしますか?」
「ど、どうしますとは……?」
首を傾けたレドメネランテに、ルースフィアンは僅かに何かを言いよどむように口を噤む。
「私はここの調査を依頼されているので、屋敷の中まで行きますが、貴方は巻き込まれただけでしょうから、一応意思を確認した方が良いかと思いまして」
ルースフィアンの言葉に、レドメネランテはようやく合点がいったような表情を浮かべて、ひとつ頷いた。
「ボクも、行きます。……迷惑でなければ、ですけど……」
確固たる主張を見せたものの、魔法に関してはまだまだ未熟な自分を思い出したのか、最後の方でやたら自身が無さそうな声音になる。
ルースフィアンはその言葉を聞いて、ふふ、と短く笑った。
「……行きましょう」
ぎいい、と重厚な作りの扉を開く。二人は扉の向こう側の漆黒にゆっくりと呑みこまれ、そして。
再び錆付いた音を響かせながら、扉は閉まっていった。
後に残るのは、人気の無くなった庭。
――ふわり、と薔薇の花びらが、舞う。
今まで騒がしい中にいたせいもあるのか、屋敷の中は呆れるほどに静かだった。
玄関ホールと、二階へ続く階段と。見回してみても、洋風の、一般的な作りの屋敷のようである。
壁に目を向けると、そこには幾つもの写真が、きちんと額縁に入れられて飾られていた。
どれにも写っているのは、優しそうな風貌を持つ青年の姿だ。
だが。
「これは……」
ルースフィアンは、そこにある写真にぽつりと呟きを漏らしていた。
青年に寄り添うって写っているのは、先程までいた狼達だったからだ。
どれも魔物なのだろう。黒い毛並みに、複雑な模様が刻まれている。
その写真には、どこと無く、青年と魔物達の間に確かな絆のようなものがあるように二人は感じ取っていた。
他の写真も、その青年は、ピューマのような魔物と共に写っていたり、ほとんどがその魔物と写っている写真ばかりが並べられている。
「……仲良しなのかな……」
「おそらくは。ひとまず、二階へ向かいましょう。――くれぐれも、気を引き締めてください」
「……うん」
二人は壁から目を離して、深い赤色の絨毯が引かれた階段をゆっくりと上っていく。階段が、人の体重を乗せてぎしり、と歪んでいた。
廊下を進み、そしておそらく人の気配があったであろう部屋の扉に手を掛けた。
ぎい、と音がして、その深い茶色の扉が開いていく。
「……思ったより、早かったですね」
扉の向こう側からは、柔らかい声が響いてきた。
向こう側に広がる部屋は、応接間に使われそうな、そんな家具の配置が成されている部屋だった。
豪華な絨毯が床に敷かれ、その上に、重厚さが意識された椅子やテーブルが置かれている。
先程まで閉まっていたカーテンは開かれ、柔らかい光がその部屋を満たしていた。
そしてその中央にぽつん、と立つ、ひとりの青年。
柔らかい、白い髪に、金を宿した瞳。
――写真の、彼の姿だった。
「こちらにお客様とは珍しい。一体、どのような御用でしょうか?」
彼はにこりと敵意のない表情でそう尋ねていた。その笑みに隠された凄みに怯む事無く、ルースフィアンが淡々と答える。
「ええ。最近、人が攫われる事件が多発しておりまして。貴方に疑いが掛けられているので、調査させて頂きたいと思いまして」
そう告げて、微笑んだルースフィアンに、青年はそうですか、とぽつりと呟いた。
「そういう訳ですので、率直にお尋ね致します」
――貴方が、その事件の犯人なのでしょうか?
二人の視線が、底に敵意を隠したまま、様々な思惑を込めて絡み合っていた。
その横では、二人のただならぬ様子に、レドメネランテがあたふたと慌てたような表情を見せている。
最初に視線を外したのは、青年だった。横を向いて、窓の外を見つめたまま、淡く笑う。
どこか陰のある、笑み。
「……やはり、そういう事でしたか」
彼が視線を二人に戻すと、部屋の隅で何かが蠢く気配がした。素早く身構える二人の前に、一頭のピューマのような、魔物が現れる。今まで見たピューマの中で、一番大きな体格をしているようであった。
「仕方ないですか……私達はどうやら、この街にも居場所はないようですし、ね」
「……居場所?」
「ええ。この子達と暮らす、私の居場所」
青年はクスリと笑むと、軽くピューマの背を叩いていた。
「この子達にはですね、どうしても人の血が必要なのですよ」
どこか不穏な一言と共に、ピューマが二人に飛び掛ってきた。
* * *
どうやら最後の一頭であるらしいそのピューマは、しなやかに体を反らせると、俊敏な動きを見せて飛び掛ってくる。
「あ、危ない……!」
咄嗟に叫んだレドメネランテは、その勢いで二人の前に幾つかの、氷の壁を浮かべていた。
ぷかぷかと空中に危なげに浮かぶそれは、確実に魔物の動きを殺すことには成功する。
ピューマは、どこか悔しそうな唸り声を上げると、音も無く絨毯の上に舞い降りていた。
「……居場所、ですか」
ルースフィアンの小さな呟きに、青年は柔らかく笑む。その前をピューマがひらりと横切っていた。
「……」
ルースフィアンは急に現れたピューマに驚くことも無く、魔法を解き放つ。
出現した小さな氷の刃達はピューマの周りにダイヤモンドダストのように煌いて、そしてピューマへと襲い掛かっていた。
今までの中で一番俊敏であるらしいその魔物は、集中攻撃も半分以上を避け、それでも幾つかの氷の刃にその体を掻き毟られながらルースフィアンへと飛び掛る。
と、そこに再びレドメネランテの魔法の気配がして、彼は一歩後ろに後退した。
今まで彼が居た場所に、鋭利なシャンデリアのように上空から氷の槍が降り注いでくる。
それにすんでの所で気がついたらしい相手は、器用に体を捻り、直撃から回避していた。流石ネコの仲間だ。体がとても柔らかい。
氷の槍が床へ降り注いで、繊細な、ガラスがはじけ飛ぶような音が響き渡った。床に砕け散った氷を見て、ルースフィアンの魔法が動く。
床に飛び散った氷たちは、役目を終える前にもう一度動き出し、そして部屋中に軌道を描いて、ピューマへと、飛び掛った。
流石に鋭利な刃は砕け散って、ほとんど塊のようなものだったので、その魔物の体を裂く事は出来なかったものの、それでも幾つもの氷の瓦礫をその体に浴びて、ピューマの体が揺らぐ。
それ以上その体勢を保つ事が出来なかったそれは、その場にゆっくりと倒れ伏した。
「――」
それを見て、青年が何事かを呟きながら、その魔物へと近付いていく。そして、倒れ伏したそのピューマの背中をゆっくりと撫でた。まるでそれを慈しむかのように。
「貴方達は、随分仲が宜しいようですね」
ルースフィアンの言葉に、顔を上げた青年は、薄らと笑った。
「勿論です。何せ、私が生まれた時から共に居ますから。私はそういう一族なのですよ」
そのせいか、他の人間からは、どうしたって嫌われてしまいますがね。と彼は呟く。
「――……誘拐した人達は、ここにいらっしゃるのですか?」
その言葉に、青年はただ首を横に振った。もう、いませんよ、と一言。後ろで、青年の言葉に反応してか、レドメネランテが、びくりと身体を震わせたような気配がする。
「私は所詮、人と魔物の子のようなものですから、ね。――それでも、これが私の、生きる覚悟なのです。それを変える事など、したくない」
そう言って、微笑んだ青年に、ゆっくりとルースフィアンは指を向けた。
「……素敵な覚悟ですね」
――彼の瞳から、魔力が放出される。
最期に見た青年のその目は、真っ直ぐだった。
どこまでも。
* * *
二人の手には、それぞれひとつずつフィルムが転がっていた。
「――すっかり、消えちゃったね……」
レドメネランテがぽかんと口を開いて、周りをきょろきょろと見回している。二人は、洋館ではなく、銀幕市にならどこにでもあるような、普通の公園の中に立っていた。
「これもムービーハザード、という事なのでしょうね」
ルースフィアンは手の上のフィルムを転がしながら、歩き出した。途中で口元に手を当て、激しく咳き込む。
「だ、大丈夫――?」
「いつもの事です。ひとまず、対策課に向かいましょうか」
「……――うん」
レドメネランテは何かを言おうとして、そしてそのまま口を噤み、ただ頷いた。そしてルースフィアンの横に並ぶ。
彼が何も言わなかったのは、言わずとも、ルースフィアンの答えが分かっていたから。そして自分も、その答えに辿り着くであろう事が、分かっていたから。
同じ覚悟を持つ者同士だからこそ感じ取れるもの。
――彼等の持つ、揺ぎ無い覚悟。
人は、幾つもの覚悟を根底に、それぞれの人生を築き上げるのだろう。例えそれに、縛られる事になっても。
「……結局、助ける事は出来なかった、ね……」
道をゆっくりと歩く中、ぽつりと呟いたレドメネランテの言葉に、そうですね、とルースフィアンは静かに同意した。
「それも、この世界の不条理のひとつなのかもしれません。――それでも、私達は、生きてゆく」
どこか似た魔力を持つ二人の影が、長く道路に伸びていく。
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クリエイターコメント | 大変お待たせ致しました。ノベルをお届けさせて頂きます。 今回、ヴィランズの方を随分と脚色(?)させて頂きました。こうしてみると、全編戦いづくしになってしまったような気も致しますが……少しでもお気に召して頂ければ幸いです。戦闘の間での、成長ぶりや、お互いの立場による気持ちなどが、上手く表現出来ていますと良いのですか……。 それでは、素敵なオファー、ありがとうございました! またいつか、銀幕市のどこかでお会い出来ますことを願って。 |
公開日時 | 2008-09-29(月) 19:30 |
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