ねえ、せっかくだから六月に挙式しようよ。
冗談じゃないわ、蒸し暑い季節に締め付けのきついドレスを着るなんて。髪の毛だって湿気でまとまらないし、最悪。雨の中を正装で来なきゃいけないゲストだってかわいそうじゃない。
それはそうだけど……。でも女の憧れじゃないのか、ジューンブライド。
そんなもの、ブライダル業界のでっち上げよ。
だって、神話に出てくる家庭の神様はジュノーっていうんだぜ。
ただの偶然。ヨーロッパにはそんな風習なんかないんだから。バレンタインと同じよ。
そんなことないよ。必然だよ。きっと六月はジュノーにあやかってジューンって名付けられたんだよ――
◇ ◇ ◇
そういえば第一次結婚ラッシュか、と二階堂美樹はぼんやり考えた。
流れるような毛筆の宛名。くるりと封筒を裏返せば『寿』の文字。
昨今は晩婚化の傾向が顕著だそうだが、美樹の元には同級生からの結婚式の招待状が複数届いていた。結婚ラッシュは二度訪れるという。一度目は二十五歳前後。二度目は三十歳手前。昔ながらのそんな風習は今も根強く残っているらしい。
式の日取りはいずれもこの六月。言われるまでもなくジューンブライドを意識しているのだと分かる。結婚式場の繁忙期は概ね秋と春だし、この時期ならある程度予約を入れやすいという事情もあるのだろう。
(わざわざこんな時に結婚式やらなくてもね……)
そんなふうに思ってしまうのはしとしとと降り続く雨が鬱陶しいせいなのだろうか。
「あーあ……どうしよ」
ソファにどさりと体を投げ出す。無造作に放られた招待状をサニーデイのバッキーだけが不思議そうに見つめていた。
――人の結婚を素直に祝えるほど傷は癒えていない。
窓の外は相変わらず陰鬱な灰色に沈んでいる。
中央病院の地下に赴いたあの日。美樹は大切な人を亡くした。
何一つ残らなかった。形見はおろか、痕跡すらも。ガスマスクをかぶった彼はムービーキラーと化し、ぼろぼろの黒いフィルムになって消えてしまったから。
ロマンチックな出会いなどではなかった。サーカス事件の際に捕虜として捕まった彼の前に美樹が質問に立ったのが始まりだった。
「女は大人しいほうが好みだ」
「元気のいい女の子だっていいって言わせてやるわ!」
そんな喧嘩腰のやり取りから始まって、美樹はことあるごとに彼にちょっかいを出すようになった。
だが、美樹が自分の気持ちに気付いたのはだいぶ後になってからのことだった。そして、自覚した時には遅すぎたのだ。
バスジャムの匂いとアロマの香りが漂い、柔らかなパステルカラーが溢れている。そんな雑貨屋の一角で品物を手に取る美樹の姿はありふれた買い物を楽しんでいるように見えるだろう。しかし彼女の手つきはやけに機械的だったし、いつも溌剌としている筈の横顔にも生彩がなかった。
休日の雑貨屋めぐりは美樹の日常だ。しかしこんな雨の日にわざわざ外に出なくても良かったと思う。湿気のせいでヘアスタイルも決まらない。遊ばせた毛先も意図しない方向にうねりながらはねるし、いいことなど何一つなかった。もっとも、平素の美樹ならばきちんと湿気対策を行っていただろうが。
それでも気晴らしに外に出たかった。自宅にこもっていれば結婚式の招待状が嫌でも目に入る。同級生たちの幸せを素直に祝えない自分が……嫌だ。
「いらっしゃいませ。今日は遅かったですね」
「あ、はい……」
顔馴染みの店員が声をかけてくるのを曖昧な笑顔でかわし、そそくさと陳列棚の間に入り込んだ。
愛らしい小物たちに挟まれて漏らす溜息は空模様のように重い。
(……何やってるんだろ)
気分転換をしに来たのではなかったか。人を避けて一人でいるのなら自宅に居るのと変わらないではないか。
気を取り直すように持ち上げた目がテディベアのマスコット付きストラップを捉えた。
「あ。可愛い」
思わず呟いて手に取り――目を揺らした。
『今人気の花嫁ベア。シックなものから姫デザインまでドレスも豊富!』
カラフルなポップがそう謳っている通り、それはウエディングドレスとヴェールを纏った真っ白なマスコットだった。ティアラを頭に乗せているベアもいたし、赤やピンクのカラードレスを身に着けているベアもいた。
「………………」
知らず、唇を噛む。手が震える。
掌に収まる大きさの花嫁ベアを元の位置に戻し、美樹は逃げるように店を後にした。
まとわりつくような霧雨が執拗に降り続けている。
雨雲の下に押し込められた街並はモノトーンに沈んでいた。休日だというのに人出は今ひとつだ。ぽつりぽつりと見える雨傘が唯一の彩りだろうか。
さらさらと。しとしとと。傘の上に注ぐ雨音はひどく控え目だ。
雑貨屋を出た後で美樹はアクセサリー店を覗いた。適当に時間をつぶした後でコーヒースタンドで一服し、今は目的もなく街をぶらついている。スタンダードな、しかし事務的な休日の過ごし方だった。
あてもなくぼんやりと歩いていると、時に予想もしないトラブルに見舞われるものだ。
「……あ」
ばしゃん、ざあっ。
車道の大型車が跳ね上げた雨水が美樹のワンピースに直撃していた。
小さな花の柄をあしらったワンピースが台無しだ。ウエストから下の辺りが泥水を吸ってうっすらと黒ずんでしまった。せめて暗色の生地であればそれほど目立たなかっただろう。しかしこの日美樹が身に着けていたのはバッキーと同じ空色のワンピースだった。
せめて服だけでもと晴天の色を選んだのに、それも雨水で汚れてしまった。
「なんか……ついてないな」
馬鹿みたい。その一言は胸の奥にしまっておいた。
バッキーのユウジが気遣わしげに鼻面を押し当ててくる。頭にかぶせたDP帽を軽く直してやり、美樹は再び歩き出した。
だが、その足もすぐに止まってしまう。
泣きっ面に蜂というわけでもあるまいが、そこはブライダルショップの前であった。
不運なのか、皮肉なのか。それすらもこの雨のせいだと、思わず八つ当たりしたくなる。
(こんな時に……)
胸の辺りで回る感情をどう名付ければ良いのだろう。幾重にも折り重なってもつれ合うこの感情を。
磨き抜かれたショウウインドウの中、洋装に身を包んだ新郎新婦のパネルとともに純白のウエディングドレスが飾られていた。薄暗い雨空の下でその白はやけに眩しく見えた。
美樹は汚れたワンピースを纏ったままぼんやりとドレスの前に立ちつくした。
純白。花嫁の色。幸福の象徴。
いつか自分もこんなドレスを着る日が来るのだろうか。彼ではない相手とともに祭壇の前に立ち、誓いの言葉を述べることになるのだろうか。
回っている。ごちゃまぜの感情がぐるぐる回っている。無秩序な渦を描きながら、雨に打たれる絵の具のように。
緩やかに溶けて。流れて。形を見失いそうになる。
(……二度と会えないんだものね)
込み上げそうになる何かをこらえるように胸元を手で押さえる。
傍らに添えられたパネルの中で微笑む新郎役の顔がふと“彼”の顔に見えた気がした。しかしガスマスクの下の顔がどんな面立ちであったかすらもはっきりとは思い出せない。
それでも彼のことは覚えている。子供っぽいところも、すぐムキになるところも、とことんリーダーに心酔しているところも。
そう……そんなところもすべてひっくるめて好きだったのだ。それを自覚したのは彼が命を落とした後だったけれど。
もう永遠に届かない。伝えることすらかなわない。
「……っ」
鼻の奥がツンとした気がして、慌てて唇を引き結んだ。
(忘れて、しまうの?)
身を焦がすようなこの想いも。身を切られるようなこの痛みも、いつかは。
時の流れは緩徐だが、残酷だ。長い年月をかけて少しずつ岩肌を削り取っていく川のせせらぎのように。
二度とは会えぬ彼のことは忘れ、別の人の隣で笑うことになるのだろうか。魔法の終焉と同時にすべてを「夢だった」と割り切って生きて行かねばならないのか?
さらさらと。しとしとと。空は静かに泣き続ける。
「……駄目」
涙を落とす空の下、美樹は静かにかぶりを振った。
「嫌。できない。そんなこと……」
忘れたくない。忘れられない。たとえどれほど辛くとも、夢だったなどとは思いたくない。
すべてが大事なのだ。胸を刺す絶望も、大好きだった記憶も、何もかも。
――彼に向かう想いは一片だってなくしたくない。
ガラスの向こうには真っ白なドレス。穢れのない白。曇りすら知らぬ色。
雨水で汚れたワンピースのまま、幸福の象徴の前に佇む。
ガラス越しの純白に今の美樹は届かない。けれど今はこの痛みさえも大切だ。そんなふうに思える相手に出会えたことを誇りに思う。
喪った絶望さえも彼と出会えた証。ならばそれすらも抱き締めて歩いて行こう。魔法が潰えても、彼の想い出を語り合える相手がいなくなっても、ずっと。この痛みが愛おしい思い出に変わるまで、ずっとずっと。
たとえ世界が彼を「夢」と片付けても、自分はこの身に彼を刻み込む。
「……不幸なんかじゃないわ」
やがて美樹の面(おもて)をゆるゆるとした微笑が覆った。
「私は幸せよ」
手の中から傘が滑り落ち、湿った風に吹かれて転がって行く。
傘の下から現れた笑顔は半ば泣き笑いのようにも見えたが、美樹は真っ直ぐに背筋を伸ばし、胸を張ってドレスと向き合っていた。
◇ ◇ ◇
式場、来年の六月にまだ空きがあるんだって。ねえ、六月にしようよ。
だから、ジューンブライドなんて迷信だってば。
どうして迷信やでっち上げだなんて決めつけるんだ。もし迷信でも信じて実践すれば本当になるかも知れないだろ?
六月以外の月に結婚して幸せな家庭を築いてる夫婦だってたくさんいるわ。
……それはそうだけど。
ま、六月でいいんじゃないの。幸せになれなかった時の言い訳にされたくないし。
どういう意味だよ。結婚って幸せになるためにするものじゃないのか?
だったら式を挙げる月なんて関係ないじゃない。
……あ。
(了)