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<ノベル>
破られた道標は泥にまみれ
シャーペンを挟んだ指先で、トントンとテーブルを叩く。頭に幾つもの出来損ないの詞が浮かんでは消え、丁度良い言葉を捕えては、ペン先をノートへ走らせた。想い描いたリズムと重ね合わせ、インスピレーションの在るがままに、単調な罫線の上で曲と詞を調和させていく。その繰り返し。
破られた道標は 雨に
――雨。
ふと浮かんだ単語に、何故だか違和感を覚え、彼は顔を上げた。窓の外は冷たい雨が降り頻っている。
「そういや……」
脳裏を過ぎったのはあの少女の横顔だ。
あの時も、雨が降っていた。
ぴしょ。
木の葉が擦れ合う密やかな音、風の吐息、ガードレールを伝う微かな残響。
巡り逝く季節を受け入れる為に、全てのものは少しずつ死を迎え、少しずつ生まれていく。そうして生きながらに作り変わっていくのだ。
世界は繊細に出来ている。
ある日突然、何もかも変わってしまったら、きっとガラスのように砕け散ってしまうだろう。だからこうして、静かな雨音で掻き消してしまうのだ。変わり逝く音が誰にも気付かれないよう……冷たく柔らかに、全てを包み込んで。
春も終わりを迎え、街を染めた薄紅の群れも、何時しか若々しい緑色に移り変わっていた。天上は雲に覆われ、しとしとと透明な雫を降らせている。
雨に濡れるショーウインドゥ越しに空を眺めながら、来栖香介は閉ざされた街を歩いていた。騒がしい日常の音は無く、微かな雑音でさえ、雨音が支配している。
ノイズまみれの静寂。
傘の内側は思いのほか静かで。
まるで世界は、此処だけ切り離されたかのよう。
「………」
曇天を映し出す水溜まりの側まで来れば、その向こうに、十字架のモニュメントが聳える小さな教会が建っていた。
「なんかな…」
雨音に消え入りそうな声で来栖がぼそりと呟いた。
憂鬱。
過去はずっと昔に通り過ぎて行った。あれは似た形をしているが、別物なのだ。
けれど胸の内に居座る記憶は、あの十字を目にする度に、未だ飽きもせずざわめき始める。
お前は憎んでいるのではない、恐ろしく思っているのだと囁かれているようで、心底胸糞が悪い。
(……やっぱ、帰るか)
何もわざわざこんな雨の日に来る必要は無かったのではないか。考えた途端、何だか妙に馬鹿らしくなってきて、足を進めるのが億劫になる。よし帰ろう。マジで帰ろう。此処まで来ておきながら来栖が教会に背を向けた。
その時だ。
「――?」
雨音に掻き消されてしまいそうな微かな旋律が、彼の耳に届いた。
――あの声は。
引き寄せられるように歩み、来栖はいつの間にか教会の門を潜っていた。
花弁の死骸が石畳に降り積もっている。咲き乱れるサツキの中庭に、歌声の主は居た。
知らない歌だ。けれどその旋律を、来栖は聞き覚えがあるような気がした。
湿った地面を踏み締める音に気が付いたようで、彼女が振り返る。
影の薄い、儚い雰囲気の少女。鮮やか過ぎる紫色のサツキは、彼女の生気を吸い取ってしまいそうだった。
「…誰だ?」
来栖が尋ねた。
「誰だと思う?」
透き通った柔らかな声を響かせ、少女が来栖に尋ね返した。
来栖は少しの間考える。知り合い……ではなかった筈。そもそも他人にあまり頓着しない為、他者の顔もいまいち覚えが悪かった。だがさっきの歌声は……
思い出した。彼女の名前は――
「…Sora」
色素の薄い大きな瞳が、何か遠くの世界にあるものを見つめるように、じっと来栖を見上げてくる。
「あんたの名前は、Soraだ」
少女の名前はSora。
こうして二人の歌い手は、スクリーンを越えてようやく邂逅を果たしたのだった。
ただそれは二人にとって、あまりにも意味の相逸れぬものだったのだが。
少女はその雨の日以降、自らをSoraと名乗るようになった。Soraとは歌手としての名で、本名は別にあったのだが、
「あ。貴女、映画『ソラハナ』の**さんでしょ!」
と言うファンに出会えば、決まって必ず、静かに首を横に振るのだった。
その名で呼ばないで、と。
例えばあの雨の日、彼がもし、彼女の名前をSoraとは呼ばず、**と呼んでいたのであれば……SoraはSoraと名乗る事は無かったかもしれない。
(あの人にとってあたしは――)
その理由の本当の意味は。彼女の心の中だ。
一人きりの窓辺で そっとシーショアのグラスを傾ける
耳を失くしてしまったのか 波の音が掻き消したのか
足跡はまだ遠く 雫を零したハワイアンローズ
歌は美しいものだと。歌は傷ついた心を癒してくれるものだと、心から信じさせてくれる少女が居た。
彼女の歌は高らかに空を渡り、枯れた花に生命の息吹を与えた。荒ぶる憎しみを沈め、生きる気力を失した者は、再び温かい涙を流した。
人々は彼女を『奇跡の歌姫』と呼んだ。
姫君が紡ぐ、奇跡の歌声。
「奇跡と言うものがあるならば、彼女こそが奇跡そのものだ」
彼女を知る者は、口を揃えてそう言った。
乳飲み子を抱えた母のような愛情深い唄も、世界中を旅した流浪の賢者のような夢の唄も、ほとんどが無機質な白い病室で書かれたものだったのだから。
残酷にも奇跡の歌姫は、その若さにして、重い病魔に命を蝕まれていたのだ。
だからこそ彼女は必死で歌い続けた。
(ただ少しでも生き永らえる為に生きるくらいなら)
例え水槽を飛び出す事になっても、あたしは空を泳いで逝きたい。
そして潮の飛沫を散りばめて、二度と消える事の無い虹を、空に。
限られた自由の中で生きてきた少女は、音楽を通して自分の存在を証明しようとしたのだった。
歌姫の魂の歌声は、多くの人間に深い感銘を齎した。
そして歌姫は。死へのカウントダウンを抱えたまま、夢の街へと実体化した。
それはとても残酷な、現実の仕打ちだった。
「知ってる?あそこの病室、Soraが入院してるんだって」
「Soraって?」
「ほら、あの来栖香介が音楽担当した映画の歌姫!」
「え、本当に!?」
映画「ソラハナ」。主人公の名前はSora。音楽を愛する少女が、病魔に侵されながらも命の燃え尽きる最後の最後まで歌い続けた、奇跡のシンガーソングライターとして―――
映画「ソラハナ」に登場する数々の歌を作曲、担当したのは注目の若き音楽家・来栖香介!類い稀なる音楽の才能を持ち―――
「………っ!」
Soraは耐え切れずパンフレットを床に叩き付けた。例え事実は変えようが無くても、刻まれた名前を踏み躙らずにはいられなかった。
Soraは映画の中の人間で、
Soraの歌は全て彼が作ったもので、
「…なんで……っ」
Soraは。虚構の歌姫で。
「……あ、あたしは……!」
空のように高らかで、花のようにはかなく散っていく『設定』なのだと。
魂を費やして歌ったきた唄も、全て。
偽物。
(あたしは、何の為に――!?)
人生を悟るには、少女はあまりにも幼く、誇りを棄てるには、あまりにも情熱を秘め過ぎていた。
病を抱えた小さな胸が、今にも破裂しそうに悲鳴を上げ始める。言葉は上手く喉を通らず、ひゅうひゅうと苦しげな呼吸を漏らした。
「…あたしの欲しいもの、全部、返してよ………っ!」
命も。歌も。走り出せる足も。
始めから奪われてなど、いなかったけれど。
ただ、病室の窓から覗く柔らかな水色の空だけが、彼女の絶望を知っていた。
やがて空からは、冷たい雨が降り始め。
「おや。では来栖殿は、彼女をご存知でしたか」
「まあな。…って言うかさ、気のせいかタイミングが良くないか?」
神父が煎れた紅茶を啜りながら、来栖がぼそりと呟いた。
「まさかそんな。偶然ですよ。まぁ……雨が降っていようとも、貴方はいらっしゃるだろうな、とは思ってましたが」
「てめ、それを謀るって言うんだろが…」
柔らかく微笑む神父にしてやられた気分になり、来栖が忌ま忌ましげにクッキーを貪り始める。
「彼女は…貴方に会いたがって居ましたよ。口では言いませんでしたが」
「そうか……」
ぽり。クッキーの胡麻の風味が、しつこいぐらいに口の中に広がる。
Soraを演じた女優も年若い少女だったが、ひとつの作品を完成させる為に全身全霊を込めて演じる、まさしくプロだった。そして来栖もまた、プロの音楽家として恥じぬよう、ひとつの仕事を全うした。
映画に対する拘りや思い入れと言うよりは、プロとしての誇りだ。
「あいつって……」
映画の中のあの少女は、もっと明るい雰囲気だった気がする。
「来栖殿。私は出掛けて来ます。…クッキー、全部食べないで下さいね」
「ああ」
何で客が居る時に出掛けるんだ、とは思ったが、敢えて口にはしなかった。
神父が部屋から出ていく。
廊下、入り口の陰に密かに立っていた少女の肩をぽん、と叩いて去っていった。
「……」
神父の後ろ姿を眺めた後、少女はそっと壁に背中を預けた。耳を澄ませば、室内に居る彼が歌を口ずさんでいるのが聞こえる。
やっぱり、上手かった。
彼の影から抜け出したくて、何度も曲を作ってみたけれど、Soraの音楽はどうしても彼を越える事が出来なかったし、どれも彼の曲に良く似たものになってしまった。
悔しい。けれど、聴き入ってしまうほどに上手かった。
そしてどうして、胸が苦しくなるほど懐かしく思うのだろう。
「Sora。居るんだろ、そこに」
「…!」
室内から歌の代わりに声が響いた。初めから気付いていたのだろうか。Soraは小さく唇を噛み締めてから、表情を無にして部屋の入り口に立った。
雨は止んでいたようだ。室内の窓から見える雲は淀んでいたが、差し込む光は眩しかった。
Soraが薄く目を細める。
「なんか。用とか…あったのか?」
「いいえ。別に」
本当は。来栖香介という音楽家に会いに来ただなんて事は、口が裂けても言わない。
「ふーん……」
来栖が半端な相槌を打つ。カップを片手に楽譜らしきものを眺めていた。
それで、唐突に。
「あれだ。やっぱりあんた、上手いよな」
「……?」
何の事か分からず、Soraが首を傾げた。
「さっき中庭で歌ってただろ。歌、上手いよな」
「………」
まさかの褒め言葉だった。
来栖としては、ただ単に感じた事を言っただけだったのだろう。お世辞などでは無かったが、本当に何となく、ふと呟いた言葉。
彼の一言を聞いて、Soraは一瞬きょとんとした後、
哀しむような祈るような顔をして、
照れと憎しみの入り交じる顔で俯いてから、
「―――ッ」
ぱたぱたと、走って部屋を出て行ってしまった。
「何なんだよ……?」
取り残された来栖は、訳が分からないまま、呆然と少女の走っていった方を眺めていた。
空色の窓辺で からんとシーショアのグラスが鳴った
声を失くしてしまったのか 雨の音が掻き消したのか
歩いた軌跡はSerenade 雨の季節のハワイアンローズ
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クリエイターコメント | 大変お待たせしました、遅くなって申し訳ありません……!(血汗) 雨に濡れる花のような、しっとりとしたお話を目指して書いてみました。芒洋とした背景に滲み出る何とも言えない虚無感や、彼と彼女の、特に彼女の複雑で愛しい心境が描けていたら、と思います。 この度のオファー、誠に有難う御座いました。お気に召して頂けたら幸いです。 |
公開日時 | 2008-05-20(火) 19:00 |
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