★ 銀翼の十字架 ★
クリエイター亜古崎迅也(wzhv9544)
管理番号447-3644 オファー日2008-06-29(日) 15:09
オファーPC アルシェイリ・エアハート(cwpt2410) ムービースター 男 25歳 キメラ、鳥を統べる王
<ノベル>

 覚えていますか。
 約束を果たしに来ました。

 鳥の、鳴き声がする。
 夕焼けは直視出来ない程に眩しく、燃え上がるような炎の光彩を放ちながら、同時に言いようの無い静けさを纏っている。
 届く限り夕日は紅い色を空へと拡げ、届かぬ処からは、細かな星がひっそりと煌めき、薄い紫の夜色が満ち始めていた。その中間は奇妙に滲み、二つの空色が混ざり合い、濁っている。
「空は、こんなに鮮やかね」
 やがて太陽は海底に沈み、青白い月が上空を支配するのだろう。蝶や鳩は安息の眠りを求めて巣を目指し、蝙蝠や梟は翼をはためかせ闇夜に蹂躙するのだ。
 天上はもうすぐ反転する。
「ねえ…覚えてる?」
 柔らかい、優しい声に問い掛けられ、アルシェイリはこくりと頷いた。
 白よりも眩しい、色彩は白銀。織り立ての絹糸のような髪をした女が、暖かい笑みを浮かべながらアルシェイリの前に佇んでいる。
 肌は雪のように白く滑らかだ。彼女の背中には一対の――白銀の翼が羽根を伸ばしていた。
 夕焼けと夜色の狭間で、二つの色彩に染まりながら、天使の純白の翼は酷く輝いて見えた。
 忘れもしない、白くて美しい人。
 永い永い時を経ても尚、心の中で生き続けていた人。
「ひとつだって、忘れた事は、無い」
 アルシェイリが彼女を真っ直ぐ見つめ返す。彼の、宵闇に煌めく銅藍のような瞳は、夕焼けを浴びて不思議な色に輝いた。銀色の瞳孔が彼女を捉える。眼光は鋭く射抜くような視線だったが、白い天使は嬉しそうにはにかんだ。彼の瞳が、悪意や敵意の無い純粋な眼差しだという事を、心から理解しているかのように。
「どれくらい…どれくらいかしら。私達が近くに居られなくなってから、どれくらい」
 分からない、とアルシェイリは首を振った。
「でも、でも。こうしてまた、出会えた…」
 天使は目を細めた。アルシェイリも同じように目を細める。
 沈み逝く太陽と瞬く星明かり。
 女の白銀の髪は赤々と輝き、男の暗銀の髪は密やかに煌めいた。
 それからゆっくりと……空から光が失われていく。
 過去を懐かしむ穏やかな表情のまま、天使が告げた。
「約束を。果たしに来ました」
「………」
 アルシェイリが僅かに目を伏せる。
 こんな日が、何れやってくるとは思っていた。
 いや、運命や宿命と呼ばれるものがあるのなら、少なからず彼のゆく道に敷かれているものだったのかもしれない。
 あの時。天使は苦しみに身を焼かれながら、彼に約束をさせたのだ。物語の最後で告げられたその言葉は、礎となって今も彼の中に息づいている。
 そして彼女は、物語を離れこの地に実体化して尚――彼の人生の一方で、深い闇を背負っていた。
 彼の前に彼女が現れた理由。
 二人の邂逅は、懐かしいなどと言う穏やかなものでは無かった。
 そして、
「私は分かるの。私はもう、貴方の知っているどの私でも無いの」
 アルシェイリが思っていた以上に、運命はあまりにも残酷だった。
「貴方に出会えて良かった」
 天使が美しい微笑みを浮かべた。その頬を涙が伝う。
 薄いエメラルドグリーンの瞳から零れ落ちた、どす黒い絶望の涙。
「私、わた、私」
「ネヴァイア」
 アルシェイリが手を伸ばした。天使はふらりと近づいて――強い力で、アルシェイリの胸にしがみ付いた。
「…っ」
 首をがしと引き寄せられて。
「―――」

 天使は耳元で、千切れそうなか細い声で、悲痛な叫びを囁いた。
「約束を、果たしに来たの……」

「どうか私を……殺して…?」

 胸が焼かれそうなほど愛しくて、懐かしくて、
 残酷な言葉だった。

 約束です。
 もしも、再び出会う事が出来たなら、その時は――


  
 ああ、生まれた。
 やっと出られたのか。独りは長くて辛かっただろう。おめでとう。皆が喜んでいる。
 俺も嬉しい。
ああ……逝ってしまったのか。もう少し、もう少し居られたら。遅かった。もう少し早く来られたら…彼はもう逝ってしまったよ。泣かないで。どうか泣かないで。
 俺も……悲しい…。

 すすり泣きを始める少年を、無機質な人工の明かりが冷たく照らし出す。
 吐き気がするほど白く清潔な「箱」の中で、少年は一人、ぽろぽろと澄んだ涙を流していた。
 彼が泣くのはいつもの事だ。広い箱の中で――生きていく上ではあまりに狭い世界の中で、少年は目に見えない出会いを想い、触れる事の出来ない別れを惜しみ、何度も涙を流した。
 彼には彼にしか分かり得ない優れた感覚がある。他人の感情を肌で感じ取れる程の繊細な感受性は、もはや床や壁を透過して何処までも根を広げ、世界中の感情を集めてしまう。まるで大樹が地中の水を吸い上げるように。喜びも悲しみも、等しく彼の元へ集まるのだ。計り知れない感情の山は、幾度となく彼の心優しい人格を揺さ振った。
「ほら、泣かないで」
 幼い少女の、優しい声。
 彼が涙を流す時、必ず傍に彼女がやって来る。
 しゃがみ込んで俯いている少年の頭をとんとんと叩いてて、背中を、その背に生えている銀色の翼ごと抱き締めた。
「……ネ、ネヴァイア」
 涙の嗚咽が苦しくて噎せる少年の背を、静かに撫でる。
「大丈夫?怖い夢でも見たの?」
 少年は首を振る。
「じゃあ、楽しい夢でも見たの?」
 少年は首を振る。
「そうじゃ、ない。とても嬉しかった、だけ」
「それだけ?」
「あと…悲しかった。だけ」
「ふうん……」
 少女は白銀の髪を揺らして暫し首を傾げていたが、まあいいや、と言わんばかりににっこり笑んで、少年の翼にばふりと顔を埋めた。
「難しい事は分からないわ」
「……難しくは、無い。ただ」
 泣き腫らした目で、少年は天井を見上げる。箱のような室内の上部に、一部四角く切り取られたような穴が開いている。透明な板が嵌め込まれており、外に出る事は出来ない。
 穴の向こうに見える星空を見つめながら、少年は呟いた。
「ただ。俺も、そこへ行けたらいい……って」
 思っただけ。この翼がもし、空の向こうへ何処までも…飛び立てるのであれば。

「検体No.3>d5、精神面の著しい変化が見られました」
カタカタカタ。
 モニターに表示されたデータを管理していた男が、一点を凝視する人々に声を掛ける。
 壁に取り付けられたスクリーンのような大きなガラスを、白い上着を羽織った者達がじっくりと眺めていた。幾つもの淡々とした冷たい目が、ガラスの向こうの白い箱の中に居る、少年と少女を観察する。
「ただの情緒不安定――人間としての年齢相応の変化かもしれない。現段階では、何も確証が無いな」
 白髪混じりの壮年がモニターに目を向けた。数値化された複雑なデータが、画面上で減ったり増えたり不安定な動きを繰り返している。
「No.3>d5に組み込んだ遺伝子は、花鶏科に分類される小鳥・金糸雀の野生種、遠方神話で言う鳳凰の子孫だと言う伝説が地方に残っているからな。上手くいけば、軍事機関に高く売れる兵役部隊が量産出来るかもしれない」
 無論、副産物としてだ。壮年は口の端を歪めてほくそ笑んだ。
「ですが……金糸雀との遺伝子結合に成功したのは彼だけでは…」
「だからこそ、だ。結合出来たと言う事は、成功の可能性が高いと言う事だ」
 眼鏡の女の書類を引ったくり、舐めるように眺めてからモニターの管理者へずいと渡す。
「これまで造り上げてきた合成獣(キメラ)とは訳が違う、あれは神の器なのだ。新たな種を誕生させ世界の基盤を操作する事も思いのまま、神と成り得る可能性を秘めた器なのだぞ!」
 くははは、と笑い声を上げながら、壮年は白い研究室の内部を歩き始めた。
 瓶。本。瓶瓶瓶。
 大型の透明な容器の中に、大量のコード線に包まれた…角の生えた猿が入っている。水の中で眠るように浮かんでいる姿は、まるで母の子宮で誕生の時を待つ胎児だ。
 それだけではない。蝙蝠の翼を持つ蛇、鶴の羽根を持つ亀、炎に包まれた孔雀、研究室内に並ぶ容器はどれも――醜悪な、哀しい実験動物達が眠っていた。
「No.<4@3は…どうなさいますか?依然として変化の兆しが見られません。経過観測を続行しますか?」
「……」
 壮年は眉間の皺を更に深くし、苛立った、苦々しい顔を作る。
「あれは元々合成獣との掛け合わせだからな。片方の性質が失われた可能性も考えられる……仔馬と白鳥を掛け合わせた時点では、ある程度の大気操作や周波数を放っていた。それを人間に組み込んだのが失敗だったのかもしれない。神聖動物と乙女の融合――理論的には、神の器としての強い期待を抱いていたのだがな」
「ではやはり…廃棄処分にしますか」
 カタカタカタ。キーボードを淡々と叩く音が響き渡る。
「いや。今あれを処分しては、No.3>d5の精神に余計な負荷が掛かる。今は現状を維持するのが望ましいだろう」
 大型モニターの前で何らかのデータ観測を行っていた男が、壮年の方に振り返った。
「大規模な地盤の歪みの位置情報を特定しました。内戦区域です。微量の圧力で大災害へと発展するでしょう」
 壮年はにやりと楽しげに笑んだ。
「…検体の能力を試す時が来たな。世界との同調が可能かどうか、或いは…能力開花の刺激となるか」
 ガラスを観察する者達や、モニターを管理する男や、書類やファイルを区分している女達に向かって、壮年の男は両手を広げ、笑んで見せた。
「我々の手で、神の創成は可能なのだと。全世界に知らしめてやろうではないか」
 壮年を見つめる幾つもの目は――どれも、歓喜と感動に涙ぐんでいた。

 人は罪深い生き物だ。
 万物の大いなる進化の連鎖に誕生した「過程」に過ぎないと言うのに、「最終地点」を見誤ってしまった。
 自分達こそが、生物史上最も優れた生き物だと。或いは――摂理の内に誕生した生き物だと言う事を、永い年月の間に忘れ去ってしまったのかもしれない。
 世界の起源が何処に在るのか。
 命の起源は何処から来たのか。
 この世の真理を追い求める研究施設が在った。
 人間の探究心は尽きる事を知らない。やがて彼らは一つの謎に辿り着く。
 神は果たして存在するのか?
 人間は只の動物ではない、信仰や希望を抱く事が出来る生き物なのだと言う、ある意味の証明でもあったのかもしれない。
 探求、追究、問答、答えらしきものは見つからない。謎はあまりにも大きすぎた。
 ならば。
 見つからないのならば。我々人間の手で、神を創成してしまえばいい。

 人は罪深い生き物だ。
 偉大にして愚かな目的を掲げる研究施設に、捨てられた男女の赤ん坊が届いた事もまた…罪の始まりだったのだろう。

 罪は少しずつ、大樹の中に蓄積されていく。


 小さな喜びが溢れている。彼は笑みを零し、喜びを祝福した。
 小さな哀しみが満ちている。彼は涙を一滴零し、哀しみを憐れんだ。
 広い大地に散らばる沢山の感情が、彼の中に入り込んでくる。喜びばかりではない、どうしようもない哀しみに苛まれる事もあった。
 けれど彼はそれらを憎んだり、煩わしいと思った事は無かった。天使のような優しさで、全てを慈悲深く包み込んだ。
 だから流れ込んでくる「その感情」も――温かく受け入れ続けてしまった。
罪は少しずつ…大樹の中に蓄積されていく。

「……音が」
「どうしたの、痛いの?」
 耳を抑える青年の元へ、ネヴァイアが駆け寄る。
「少し、揺れただけ」
「揺れた…って。それじゃ分かり憎いわ。いつもそんな言い方なんだから」
 白銀の髪を揺らして、ぷん。とそっぽを向いた。
「……怒ると、髪が抜けるらしい。こう、ばさばさと」
 青年が無表情のまま妙なジェスチャーを見せる。
「え…!そ、そんなの嘘に決まってるわ……」
「嘘、多分」
「……どっち?!」
 可愛いらしい反応に小さく笑みを漏らし、青年が彼女の頭をぽんと叩いた。
「…ねえ。あのね…」
「…?」
「何でも無いわ」
 ネヴァイアは何かを言い掛け、言葉にするのをやめた。言葉にせずとも伝わっていると思ったし、きっと変わらず、何時までも今のままで居られると思ったから。青年も深く追及したりはしなかった。
「…また、音が」
「大丈夫?」
 今度は僅かな苦悶を顔に浮かべる彼を、ネヴァイアが心配そうに見詰める。
「何かが、俺の中に増えている」
「何かって……」
「何か、形の見えない、哀しみに似た――少し違う、何かが」
 
 ゴゴゴ。
 ゴゴゴ。ゴゴ。
「……あ、あれ……?」
 ネヴァイアがキョロキョロと部屋の中を見渡し始める。
「俺は、これが何かをよく知らない。知っているのかもしれない、けれど。…どうしたらいいのかも分からない」
 ゴゴゴゴゴゴ。ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
「ね、ねえ……揺れてる、揺れてるよ……ねえ!」
 二人が居る箱のような部屋が、ぐらぐらと大きく揺れていた。不安そうに天井や壁を見回しながら、ネヴァイアが彼の肩を揺すった。彼は頭を抱え、ぶつぶつと一人何事かを呟いている。
「分からない……これが何かが分からない。分からない、でも…見えてきた」
 泣きたいような、けれどもっと違う――言いようの無い誰かの苦しみが、彼の中に溢れてくる。

 白い箱が揺れている。
 大地がぐらぐらと震えているのだ。
 沢山の悲鳴が上がる。人が地の底に落ちていく。
 食糧が奪われる、女子供が攫われる、人が殺される、山が焼き払われる。動物達が炎の中を舞い踊る――

「…あぁ………」

 そうか。そうだったのか。ようやく分かった。長きに渡って体内に降り積もってきた感情の正体が。今やっと分かった。

「……く、あぁ……っ」

 憎しみ。妬み。
 そして怒り。
 どうしようもない、殺意。
 世界中から吸い上げてきた負の感情が今、憎悪となって爆発する。

「あああぁぁぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「駄目!いけないわ………っ!」
 ネヴァイアの制止を振り払い、彼はガラスのスクリーンに突っ込んでいった。

「内戦区域にて大規模な震災及び火災が発生した模様です。高電圧放出は成功しました!」
「…No.3>d5、精神面に著しい変化が見られました!」
 叫ぶように現状報告をする所員達に、壮年の男が笑みを見せた。
「…これで確証が取れたな。検体は世界との同調が可能だ!」
 わあぁ、と研究所内のあちこちから歓喜の声が上がる。
 ついに。ついにやったぞ。
 我々は神の器と成り得る存在の足元に辿り着いたのだ。
「雲を掴むようなものだと思っていた……!」
「道を信じて突き進んだからだ!苦労が報われたのだ…」
 研究所は地震の余波でぐらぐらと揺れていたが、所員は皆、喜びのあまり地震など気にも留めなかった。
「ははは、本当にやったぞ……!」
 そして。
 罪の代償――運命の時はやって来る。

 ―――ガシャァァンッ!!

「うわぁぁ!……何だッ?!」
 突如、派手な音と共にスクリーンが砕け散った。近くに立っていた者は慌てて顔を伏せたり、棚の後ろへ身を隠した。
「!!データが………」
 モニターに表示されていた数値が全て限界値を越え、データが重みに耐え切れずショートした。画面が真っ暗になる。
「何だ、何が起きた……!」
 風。
 目を見開く所員達の間を、涼やかな風が通り抜ける。

 さああぁぁぁあぁ。
「…あぁぁ……ろす…」
 割れたガラスの奥から――銀の翼を背負った『神の器』が、ゆっくりと現れた。
 身に纏う気配は、深く緩やかな風と…圧倒的な殺意。暗銀の髪はざわざわと揺れ、青みを帯びた銅藍のような瞳は怒りの色に染まっていた。
「検体が……反乱を起こすと言うのか…!?たかが、たかが実験動物の分際でッ!」
 壮年の男が後退りしながら吠えた。神の器はぎらりと男を睨み、
「殺す……ッ!」
 刹那。数歩で間合いを詰め、手からすらりと生やした銀翼の刃で、男の腹を貫いた。
「うぅぐ、ぐああぁ……!」
 真っ赤な血飛沫。
 所員達の甲高い悲鳴が上がる。
 さあぁぁぁあ。
 ざあぁぁぁあぁぁあぁぁあああああぁぁざああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

「死ね、ああああああアアアァァァァァァァァlッ!」

 ざああぁぁあぁぁあああああああッ!!
「ぎぃやああああああぁぁぁぁぁ!」
 風は勢いを増し、鎌鼬(かまいたち)となって研究所内のあらゆるものを切り裂いた。
「ぎゃああ、うぐがああああ………!」
「ぐぇ、だ、だすげ………げはッ!うぁぁぁ……」
 血の海。破壊音。破裂音。
「死んで、死んでしまえぇェェェェェッ!」
 赤く染まった刃を男の体から引き抜いて、彼は走り出した。モニターや機材をざんざんと切り裂く。ばりばりと青白い火花が散り、派手な破裂音が響き渡る。

ゴォォオオォォオォォォォ……
 白い研究所内は瞬く間に真っ赤な炎に包まれた。
 彼の暴挙は止まらない。
 逃げ仰せる所員達を捕まえては、次々に銀翼の刃で斬り伏せた。
「……せない、死ねぇぇえぇぇぇぇ………!」
 破壊と惨殺のハーモニーを奏でながら、炎の中を舞い踊った。
 許せない。全てが許せない。
 人間が憎い。生きるもの全てが憎い………!
「何故、創った、俺を……ッ!?」
 それは果たして彼の叫びだったのか。
 神の器は大声で喚きながら、並べられた大型の容器を破壊する。
 水が溢れ出て、中に収まった実験動物が剥き出しになった。彼はそれをがしりと両手で掴み――

 がぶ、ぶしゅり。
 その肉を食い千切った。

「ぅが……許せないぃ……が、がふっ」
 何が許せないのか。
 何が。
 口を真っ赤な血色に染めた彼の身に、変化が起きた。
 翼が……翼が生えたのだ。背の上部に、銀色の翼と並ぶようにして、皮膜状の黒い蝙蝠の翼がばさりと広がった。
「皆消えてしまえ、醜い、醜い……!」
 実験動物の残骸を投げ捨て、更に別な容器を破壊する。金属質の鱗を持つ魚の実験体を手で掴み、がつがつと喰らった。
 彼の背に、ぎらりとした鉄の質感の、ヒレのような翼がぶわりと咲いた。
 水と血に塗れた手で、隣の容器を破壊する。
 燃え盛る炎を纏った孔雀を掴み、首を噛み千切った。
 花開くようにして、彼の背に炎の翼が出現する。

 血と水と、焼け焦げた臭いが侵食する。
 燃え盛る炎の中に立つ男はもはや……異形としか言いようが無かった。血に塗れながら背中に幾つもの翼を咲かせた姿は、背筋が凍るほど醜く、吐き気を催す程美しかった。

「ぐ、ぐあああぁあァァァアアアアアァァァァァああああああああああッ!!」
 
 慟哭。

「駄目、駄目……!」
 喉が割れんばかりの雄叫びを上げる彼の腰に、白く細い腕がしがみついた。
「これ以上は駄目、お願い………!」
 ネヴァイアは必死に首を振りながら、彼を止めようと非力で華奢な体で抑え込もうとする。白銀の髪や翼に、真っ赤な血がじっとりと染み込んでいく。

「ぐ、ぐぁぁぁぁぁ……」
 彼の動きが止まった。しがみつく彼女を真っ直ぐ見つめ――
 その首を片手で締め上げた。

「………っあぅ……っ!」
 ネヴァイアが苦悶の表情を浮かべる。首を掴み上げられ、とうとう両足が地を離れた。

「私を、殺すのね……?」
 彼の顔は憎悪に醜く歪んでいる。
 透明な涙。その両目にはもう、彼女の姿は映っていなかった。
 翼の刃が振り翳される。
「ずっと、これからも、一緒に居たかった………」
 ネヴァイアは優しい笑みを浮かべ、彼の首を引き寄せ、

「目を覚まして―――愛してる。兄さん」

 彼の唇に、そっと口付けた。


 体の中に溢れ返っていた憎悪が、静かに引いていく。
皆の哀しみ。誰かの憎しみ。彼の怒り。
 世界の苦しみ。
 全ての――膨張した全ての負の感情が、彼の中から跡形もなく吸い取られてしまった。

「ネヴァイ、ア………」
「良かった……元に戻った」
 どういう顔をしたらいいか分からず戸惑っている兄に、白い妹は優しく微笑んだ。
「貴方の痛みは、全部…私が貰うね」
 エメラルドの瞳から、苦しみに彩られた涙が溢れてくる。
 彼には分かった。彼女の体内に、とてつもない負の感情が満ちていた事を。けれどそれを理解する事は、彼にはもう二度と出来ない。
 二人の周囲を炎が猛々しく燃え盛っている。
 翼が。髪が。瞳が。赤々と輝いた。
「……貴方は、生きるの」
 苦しさに胸を抑え、瞳から涙を流しながら、精一杯の笑みを見せる。
「生きて、生きて、生き続けて。貴方が背負った命ごと」
 その背に輝く幾つもの『翼』を見つめながら、告げた。逃げる事すら赦されない、心の弱い者にはあまりにも酷な――強くて温かい願いだった。
 そして彼女は、彼に一つの約束をさせた。
「もう一度、出会う事が出来たなら――その時こそ」
 彼にそっと、耳打ちをする。

 私を。私を殺して。

「今の兄さん、赤ちゃんと同じ顔してる。…天使みたい、って言えばいいのかしら?」
ネヴァイアがくすっと笑った。
「……、俺は」
「何も言わないで。……傍に居てくれてありがとう」
 それは。
「大好きよ。本当に、本当にありがとう。楽しかった」
 それは……本当に、お前が言うべき言葉なのか。
「さあ、行って。兄さん」
 子供のように澄んだ無垢な眼差しで、彼は静かに頷き……星の煌めく宵闇へ、千の羽音を響かせ羽ばたいていった。
 哀しくは無かった。苦しくは無かった。
 ただ、朝露のような澄んだ雫が、頬を伝って流れていった。

「兄さんが感じ取っていたもの、本当は私も知ってた……」
「私はきっと、いずれ憎しみに我を忘れて、世界を壊してしまうから…きっと」
「だから、私が全てを壊す前に―――」

 約束を、どうか忘れないで。


 鳥の鳴き声がする。
 天上は何時しか暗い闇に覆い尽くされていた。星の下で身を寄せ合う男女の姿は、まるで恋人のようだった。
「兄さん」
 黒い涙を流しながら天使が小首を傾げる。
「………」
「ねえ、こ、こ、殺して?約束したじゃない」
 アルシェイリはただ、彼女を見つめる。
「私は穢れてしまったの。わか、分かるでしょう……?」
 夢の反転。ムービースターのキラー化。
 彼女が背負った闇は、こんな形で彼女を蝕んでしまった。
 なんと哀れな事だろう。なんと痛ましい姿だろう。
 けれどアルシェイリの瞳は、悲しみの涙を流せない。彼の闇は全て彼女の胎内にあるのだから。
 せめてもの救いとして…彼女がこれ以上苦しむ前に、彼女の願いをこの手で――

「俺には、出来ない」
「…な、ぜ」
 呆然とする天使の肩を抱き、アルシェイリは彼女を自分の体から引き離した。
「彼が居る。だから」
「か、れ………」
 彼女の命を奪うのは、物語でもこの街でもただ一人……全てを棄てて修羅の道を歩む覚悟を決めた、彼一人なのだと。だから、
「昇太郎の元へ。彼の元へ」
愛しい天使は深い闇に苦しんでいる。けれどアルシェイリには、彼女に安らぎを与える事が出来なかった。その足を血に染め、終わらない茨の道を歩んでいく彼を、例え炎に焼き尽くされようと絶対に歩みを止めない彼を、裏切る事は出来なかったから。
 罪滅ぼしと嘯いて、己を慰める事は容易いだろう。だが、アルシェイリにそんなものは必要無かった。彼は既に、重い十字架を背負って生き続けると心に決めていたから。
 何処までも。この命の限り。
 胸の中に息づく礎を与えてくれたのは、皮肉にも彼女だったのだが。
「……さぁ」
 行くんだ。アルシェイリに優しく背中を押され、戸惑いながらも天使は歩き出した。
 何度も振り返りながら、やがて彼女は空へと飛び立っていった。
 白銀の羽根が……雪のようにはらはらと舞い降りてくる。
 そっと掌で受け止め、アルシェイリは空を見つめた。
 再び悲劇を生む事になるかもしれない。けれど。いや――どうか。

 鳥の、鳴き声がする。沈み逝く太陽を目指して、一羽の白い鳥が飛んでいく。
 少し掠れた美しい歌声が、そっと……もの哀しい風景に、せめてもの華を与えた。

クリエイターコメント大変お待たせしました………遅くなってすみませんです(血涙汗)
銀、翼、美しい兄妹、素敵過ぎるキーワードが沢山あり、目移りしながら(?)書かせて頂きました。『背負っている十字架』を意識してみました。純粋さと背徳感、光と闇、愛と憎しみ、血と涙、涙を誘えるような深い物語に仕上がっていたらなと思います。鳥を統べる王様の、哀しくも美しい罪の物語、お気に召して頂けたら幸いです。
この度のオファー、誠に有難う御座いました。
そしてたくさんのお時間を頂いてしまい、申し訳ありませんでした。
公開日時2008-07-21(月) 23:50
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