★ 十字路 〜シ枡ノ糸巻〜 ★
クリエイター亜古崎迅也(wzhv9544)
管理番号447-7676 オファー日2009-05-24(日) 23:07
オファーPC 紀野 蓮子(cmnu2731) ムービースター 女 14歳 ファイター
ゲストPC1 榊 闘夜(cmcd1874) ムービースター 男 17歳 学生兼霊能力者
<ノベル>

 ざう、ざう、ざう。

 夕暮れ時が訪れる。
 やかましい人混みでごった返していた昼間の街も、いつの間にやらすっかり日が落ち、人の姿が失せてしまった。誰も彼もが神隠しにでも遭ったかのように、人間の姿だけが街からぽっかりと抜け落ちている。
 辺り一面に、陰と闇を携えた火の色が滲む。
 昼間と同じ街の形をした、されど似ても似つかぬ『抜け殻』にもの悲しげな沈黙が降りる頃、

<あまずぱいにおいがする>

 ざう、ざう。

 乱れた毛束を引きずるような気味の悪い音を立てながら、奇怪な影がぞわぞわと物陰で蠢いていた。

<ようみのっておる。こんなとこにはえとろうとは。しらなんだ>

 常闇を思わせる暗い物陰からそろりと頭(かしら)だけ覗かせ、それは目を細めてじいと街並みを眺めた。

 日が傾き、電灯の細長い陰がずうと地面をなぞる。地平の彼方は琥珀色の陽炎が揺らめき、物言わぬ街はいよいよもうひとつの顔を露にした。
 地面に画かれた、橋を模した白い縞模様の絵が四方に列び、街の中央に囲いを作り上げる。夕焼けを浴びる平たい地面以外、何も無い筈の四角の真ん中を眺め、それはまるで笑っているかの如くざわざわと身体をうねらせる。

<さりとて、くうにはまだまだうれておらん>

 ぎゃあぎゃあと、烏がけたたましい鳴き声を上げて羽根を毟り合っている。

<あかがくろにかわるころ――んまいんまい、あまずぱい、くいごろとなろう。たのしみじゃて。たのしみじゃて>

 琥珀色の夕日を浴びたそれの滑らかな毛並みが、何とも上品な黄金色に輝いた。
 やがて街は静寂の牢獄に閉ざされる。

 *

 ちかちかと信号が点滅する。

 きゅっ、きゅっ。

「………?」

 聞き慣れぬ音に気が付き、通り縋りの男ははてと首を傾げた。
 つるりと肌触りの良い衣を擦り合わせたような、か細くも甲高い音色が聞こえる。
 何処から聞こえるのだろう――辺りをぐるりと見回してみるも、見慣れた街に見慣れた建造物が建ち並ぶばかりである。楽器を鳴らす者も居らず、不思議な声で鳴く生き物も居ない。
 音の正体は掴めない。

 きゅっ、きゅっ。

「………」

 段々と気味が悪くなり、男はついに足を止めた。そうしてようやく……己の歩みに合わせて、その音が鳴っている事に気が付いた。
 靴に何か付着しているのだろうか。靴の裏を見ようと足元に目をやった男は

「―――!!」

 戦慄した。
 己の靴が、両足が、ぬらぬらと怪しく光る粘っこい糸に被われていたのだ。

 気持ち悪さに総毛立ち、男は慌ててその場を離れるべく足を振り上げようとしたが、いやに頑丈な糸がそれを許さない。

(何だ、これ――)

 口にしかけた言葉を飲み込み、男はひっと小さな悲鳴を上げた。
 背後に、己の背後に何かが佇んでいる。地面に落ちる影がその存在をしらしめた。
 およそ人のものとは思えぬ醜悪な影が、ぞわぞわと蠢きながらゆっくりゆっくり男の元へ近付いてくる。
 逃げようにも逃げられない。
 ひたひたと冷たい脂汗が背筋を滑り落ちる。その存在が男の五感の全てを支配した。どくどくどく、早鐘のように心の臓が鳴る、恐ろしい早さで血潮が全身を駆け廻る。どくんどくん。そいつは自分を餌にでもするつもりなのか。振り返ろうとしたがもはや首が言う事を聞かない。
 耳元で何かが鳴っている気がした。
 どくんどくんどくん。
 そいつはすぐ側まで迫っている。
 ぼ、そぼ、
 逃げろ、振り返るな、振り返れ、脳が目茶苦茶な要求を全身に送る。強張った身体は僅かに痙攣するばかりで、何をどうする事も出来ない。
 そぼ、そぼ、
 ただ、それはゆっくりと近付いてきて、

「あーそーぼ」

「あぇ」

 叫び声はたったの一音にしかならなかった。
 白い糸の塊ががばりと男の口を塞ぎ、ぐげっとくぐもった鈍い音と共にその首を折り取った。
 行き場を失くした断末魔の咆哮が、虚しく空気の中に溶けていった。

 あーそーぼ。あそびましょ。

 幼い子供達は笑い声を上げ、からんからんと下駄を鳴らして物陰の奥に消えていった。
 再び、ちかちかと信号が点滅する。


<甘酸っぱい香がする>
<生娘の血色が、女の髪によう似た艶やかな黒に変わる頃>
<甘い甘い、甘酸っぱい、食い頃の実が撓わに実るじゃろう>
<楽しみじゃて。楽しみじゃて>

 *

 人の波に軽い目眩を覚え、少女はそっと息を着いた。
 背広の男、幼い少年、学生服の娘達、大勢の人々が思い思いの速さで道を渡っていく。ほとんどの者が通り掛かりに、道の端で立ち竦んでいる少女にちらと視線を送ったが、直ぐに何食わぬ顔で自分の世界に戻っていった。
 きっと袴の緋色は人目に付きやすいのであろう。巫女装束と儚げな雰囲気を纏った少女、紀野蓮子は、何をするでもなく道の端に佇み、辺りを行き交う人々を眺めていた。
 人を待っているのだ。神事である地鎮祭の奉仕の依頼を受け、案内役であるという人物と落ち合う為に此処に居る。
 待ち合わせに遅れぬよう所定の時刻よりも早めに来てしまうのが蓮子の性分で、この度も相手方より一足先に着いてしまったようである。
 いや、遅れないというのは決して悪い事ではない。
 蓮子は背後に振り返り、鉄柵の下に広がる風景を眺めた。
 蓮子が居るのは歩道橋の上である。
 当たり前ではあるが、高い所から視線を送ってくる少女の姿に気付く者は居なかった。
 暖かくも涼しい、初夏の風が頬を撫でていく。
新芽の柔らかそうな青々しい街路樹が等間隔に植えられ、あちこちに色々な大きさの、色々な用途の建物が建ち並んでいる。

 ざわざわ、ざわ。

 信号の色が変わると共に、人々が一斉に白い横断歩道を渡り始めた。
 ざわざわと雑多な音を引き連れ――聞き耳を立てれば、それらひとつひとつが形有る音なのだと気が付く。
 こつこつ、そういえばさあ、ごほ、ごほん、がたがた、昨日の映画って、ぶーぶー。微かな足音ですら幾重にも折り重なり、ひとつの塊を作り上げていた。
 これを雑踏と呼ぶのだろう。
 ひとつひとつに意味のある音色を紡ぎながら、舗装された地面を何度も踏みしだいていく。
 何度も何度も。前の者に続き、後ろの者も我知らず見えない足跡を刻み付けていく。
 何度も、何度も。
 こつりこつりと。

 次第に行き交う人々の黒い頭部が蟻の群れに見え始め、気分が悪くなって蓮子は思わず目を逸らした。

「大丈夫ですか?」

 声を掛けられ、はっとして振り向いた。歩道橋の柵に手を付いて身を屈めた蓮子の隣に彼は立っていた。

「あ、はい。大丈夫です……すみません」

 立ち上がり、柔和な笑みを浮かべる男にぺこりとお辞儀した。

「貴女様が、きのれんこ様ですね?」
「はい……では、貴方が」

 ええ、と男は頷いた。蓮子は男に再度頭を垂れる。

「どうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそ」

 彼が待ち人のようである。



 只の通り縋りであった。
 別段、理由が在って此処を訪れた訳ではない。強いて言うならば、うたた寝に丁度良い、どっしりとした安定感のある樹木を探していたのかもしれないが。
 ただ、街中にそんな樹が在るとは思っていないし、本当に単なる通り縋りであった。
 だから――多少の霊気は感じていたのかも分からないが――、こんな人っ子一人居らぬ交差点で足止めを食うとは思わず、

「………」

 不機嫌魔の榊闘夜の眉は、より一層苛立ちの形に寄った。

 きゅっ。

 静まり返った夕暮れの街に奇妙な音が響く。靴の裏にへばり付いた粘着質の細い糸束が、闘夜の歩みを地面に繋ぎ止める。強引に踏み出そうと踵を擦り付ける度に、ぬらぬらとした粘っこい見た目に反してきゅっ、きゅ、と甲高い音が鳴った。
『まるでとりもちに掛かった獲物だな』
 連れである狼霊鬼躯夜の空気を読まない笑い声に、闘夜がぎろりと睨んだ。
何処から湧いてくるのか、糸はいつの間にやら量を増し、しゅるしゅると闘夜の足を白い塊に変えていく。
「蜘蛛?」
『いや、違う。こいつは――』
 不快感を露に、闘夜がぼそりと疑問を口にする。言葉を返し掛けた狼霊は、不意に両耳をぴくりと動かした。朱色をした獣の双眸を細め、闘夜の背後に目をやる。

「あーそーぼ」

『闘夜』
 鬼躯夜に呼ばれる前から既に、闘夜自身も気が付いている。
 何の恐れも無く肩越しにちらと視線を送れば、彼の背後に佇んでいたそれは、

「かげふみしーましょ」

 面妖な仮面を被った、幼い子供であった。
『危ねぇ臭いはしねえから、ただの浮遊霊だな』
 鬼躯夜はふんと鼻を鳴らし、子供の形(なり)をしたそれにおい、と声を掛けた。
『小僧。お前の親玉は何処に居る?』
「親」ではなく敢えて「親玉」と問う。それの意味する処はただ一つ、

「―――」

 だが、仮面の幼子は首を振り、顔を上げて宙に浮かぶ狼霊を見遣った。
 面に隠された表情は窺い知れないのに、その目がこちらをじっと見据えてくるのが分かる。
 やがて小さな手を虚空へと伸ばし……狼霊である鬼躯夜を指差した。
『……何だよ?』
 訳が分からず鬼躯夜が眉間に皺を寄せた刹那、


<――甘酸っぱい、香がする……>

 ざらついた舌を舐め擦り回すような音と共に、その『声』はぞわりと耳の奥に響いてきた。

<――よくよく熟れた、気高い豊潤な香がする。よう漬けた果実酒のようじゃ――>

 ざう、ざう。ざう。

 毛束を擦り引くような音が聞こえる。闘夜の背後に居た子供が、ぱたぱたと駆け出す代わりにすぅと影の中へと姿を消した。
空気が、変質している。

「………」

 何も言わず、闘夜はただ背後に視線を送る。深い深い、闇と朱色の入り混じる夕暮れを纏い、「それ」は道の遥か先に佇んでいた。
 ざう、ざう。夕日がそれの輪郭を眩しい黄金色に縁取る。細長い影がずうと伸び、闘夜の背に薄暗い闇を落とした。

<どれどれ、ひとぉくち>

 いやらしい舌舐め擦りが聞こえ、辺り一面に真っ白い霧のような――酷く艶やかな細い糸束が降り注ぎ、しゅるんしゅるんと闘夜の周囲を覆い始めた。
『おっと!』
 糸の塊がびゅるん、と触手のように鬼躯夜へと飛び掛かり、狼は素早い動きで飛び退いた。
『何だ?こいつぁオレを喰らう気か?』
 何処か楽しそうに鬼躯夜が声を上げる。闘夜はいつの間にか呼び出していた槍でざくざくと足元の糸を断ち切りながら、溜め息を吐いてあっさりと言い放った。
「喰っていい」
『おいおい、相変わらず冷てぇなァ』
 鬼躯夜は呆れるような笑い声を上げ、半ばからかうように闘夜の顔を眺めた。
 足の拘束を解いた闘夜がじろりと鬼躯夜を睨み付ける。不機嫌全開である。

<――おぉ、甘酸っぱい――>

 闘夜が操る槍を目にした途端、再びあの舌舐め擦りが聞こえ、びゅるんと鞭のように伸びてきた糸束が――闘夜のそれを文字通り雁字搦めにした。
 舌打ちし、闘夜が獲物を地面に放る。
『こいつ、どうやら思念やら霊力やらを餌にしてるみてぇだぜ』
 鬼躯夜が鼻を鳴らし、何処かへと引きずられていく槍を楽しげに眺めた。
『って事はまァ……あれの本体を何とかしねぇ限りは、お前も此処を出れないだろうなァ?だってお前、力の塊みてぇなもんだしな』
「………」
 はぁ、と闘夜は溜め息を吐き、疲れたような表情で夕焼け空を仰いだ。
 厄介事が彼を尾け回すのか、彼が厄介事を引き寄せるのか、原理は知らないが好い加減、面倒事にもうんざりなのであった。

 *

「境目」は分からなかった。
 足を踏み入れた途端、周囲に漂う空気があっという間に異質なものへと姿を変える。蓮子ははっと顔を上げ、前方を歩む案内人を呼び止めた。
「あの」
「もうじき到着致しますよ。きのれんこ様。さぁ、お早く」
 案内人は振り返る事なく歩み続ける。
 しばし戸惑いはしたが、再び蓮子も後について行く。
 やがて二人は、その場所に辿り着いた。
 案内人が立ち止まる。蓮子は顔を上げ、息を飲んだ。
 夕暮れの灯がちりちりと景色を焼き尽くしていく。夜辺と灼熱が滲み合う空は美しい混沌の色を見せ、遥か上空に横たわっていた。
「着きました。きのれんこ様」
 逆光で男の顔は見えづらい。
 影を帯びた暗い笑みで蓮子を見下ろすと、彼はそっと背後に目を遣った。
「………!」
 蓮子は見た。案内人の背後に広がる場所は、二つの道路が交わった、間違いなく交差点であった。
 だが、そこは。四つの横断歩道が縞模様の枡(ます)を象る、その中央には。

「…………」

 神事の祭壇も司祭も、社も無かった。
 ただそこには、在る筈もない一本の、

 大樹が、生えていた。

<甘酸っぱい香がする>

 香しい果実の芳香が鼻孔をくすぐる。
 信号が、誰も居ない道路へ向けてちかちかと点滅する。
 蓮子は一歩後退った。
 男は柔和な笑みを浮かべると、老婆のような声色で、そうっと、

「生娘の血色が、女の髪によう似た艶やかな黒に変わる頃、甘い甘い、甘酸っぱい、食い頃の実が――」

 蓮子は踵を返し、一目散にその場を後にした。



 逃げなくては。頭の中で警告音が高らかに鳴り響く。
 神事も何も、偽りだったのだ。全ては蓮子をおびき寄せる為の罠に過ぎなかった。
(何故……!?)
 理由は分からない。見当も付かない。ただ、少なくとも解る事は、
 ――此処に居ては、危険なのだと。彼女の直感が告げていた。

「………は、はっ…」

 息が苦しい。疲労で立ち止まりそうになる足を奮い立たせ、蓮子は走り続けた。

 冷たい汗が背中をじっとりと湿らせていく。
(………まだ……)
 ずっと足を動かしているのにも関わらず、夕闇の道はなかなか果てが見えてこない。

「………はっ、は…ッ」

 ――まさか。いや。
 出来ればそうでなければ良いと一抹の願いを抱きながら、蓮子は恐る恐る振り返った。
   見ては いけない
 心の臓がどくんと跳ねる。
 背後には、先程と同じ風景が――
 全く開けていない距離のまま、あの大樹の交差点が、蓮子の背後に広がっていた。

「なん、で……」
 息をするのも忘れて、ただ呆然と大樹を見上げる。
 途端、思わず足を止めた蓮子の周囲にしゅるしゅると細い糸が現れ、瞬く間に彼女の身体を覆い始めた。
 慌てて逃げようとする足は既に絡み取られている。体勢を崩し、蓮子はその場に転倒した。
「っっ」
 小さく悲鳴を上げる。が、口を押さえ込まれて音は出なかった。
 糸の束縛にもがきながら顔を上げれば、
 眼前に、すぐ目の前にあの樹が佇んでいた。
 蓮子は思わず手を伸ばしす。
 身体に纏わり付く糸が擦れ合い、きゅっ、きゅ、と甲高い音色を奏でる。
 瑞々しい枝葉を広げ、黒々と熟した木の実を実らせる大樹へ、
 その実をまるでもぎ取るように手を伸ばし、
 指先が、果実に触れた刹那。

「――――!!」

 果肉がどろどろと崩れ落ち、嗚呼、中から現れたのは

 人間のしゃれこうべ、であった。

 *

「甘ーい 甘ーい くわこが実る」
「よくよく熟れた くわこが実る」

 白い繭の中からうっすらと、仮面を被った子供達の姿が見えた。
 下駄をからんからんと鳴らし、楽しそうにこちらを窺っている。
「熟れたくわこを 鬼が食う」
 蓮子はまだ意識があった。滑らかな白い糸に全身を覆われ、青々しい大樹の枝に吊り下げられていた。その姿は蜘蛛に捕われた昆虫のようにも、白い繭玉のようにも見えた。
 周囲に同じような物体が幾つもぶら下がっている。恐らく捕われた者達であろうそれを目にし、蓮子が表情を歪めた。
 白い繭の幾つかは、赤や黒に変色し……木の実にしては大きすぎる、瑞々しい果実に姿を変え始めていたのである。
「………ぅ……」
 一気に胸が悪くなる。喉の奥から込み上げてくる吐き気を押さえ、蓮子は俯いた。
 その、足に。

<よう実った、芳香な――>

 かさ、かさり。

 大きな、白い毛の化け物が、艶やかな唾液を垂らしながらしゃぶり付いていた。

「―――――ッ!!」

 全身の毛が逆立つ。身動きは取れずとも必死で抵抗し、怪物の頭を振り払おうとする。
 恐らくは叫んだ。叫び続けただろう。
 何とか繋ぎ止めた、恐怖で吹き飛びそうな意識の中で、蓮子はある異変に気が付いた。

<甘い甘い、桑の香じゃ。女子供の、よくよく熟れた>

 怪物が縋り付くその足首に、不可思議な痣が在ったのだ。
 蓮子には分からなかったが、それは以前、彼女が受けた依頼の中で被ってきたものだった。山神を鎮める為に人柱とされた女子供の、言いようのない無念の塊が刻み付けられていた。
 怪物が蓮子の足に鋭い牙を突き立てる。
 嗚呼。食われる。足をもがれ、今に全身を食われる。
 半ば諦めかけたその時、

『見つけたぜ。あれが親玉ってか?』

 聞き覚えのある声が耳に入り、蓮子ははっと前方を見た。夕焼けの十字路の先に、機嫌の悪そうな若い男と狼の姿が在った。
 白い怪物はぴたりと動きを止めると、男の方へ、正確には狼霊の方へ首を擡げた。
 絶好の獲物を見つけたとばかりに、嬉しげにざうざうと体毛をうねらせる。
  
<おおお、美味そうな――>

 途端、辺り一帯に再びあの白い糸が現れ始めた。男も大樹も、何もかも包み込むように、何とも艶やかな繊維が辺りを覆っていく。
『こいつ、幼生みてぇだな。白い繭をこしらえて――現世に還り咲く気か?』
 狼霊の鬼躯夜が鼻を鳴らした。
 降り積もる白い糸を槍で払いながら、闘夜が不快そうに眉を顰めた。

<ようやく、ようやくじゃ。今しがたようやく、この世に孵る事が出来る――>

 大樹にしがみ付く怪物の背に、つぅと切れ目が入り……その中から大きな大きな、純白の成虫がぬるりと頭を覗かせた。
 ぬるぬる、ずるずる。気味の悪い音を立て、それが白い羽を少しずつ伸ばしていく。
 
「……出られると思ってんのか?」

 金の双眸を細め、普段口数の少ないその男が言葉を放った。
『どうすんだ?闘夜』
 鬼躯夜の問いに特に目を遣る事もなく、

「焼き払えばいい」

 ぼそりと一言。担っていた槍を振り下ろすと――辺り一面に真っ赤な炎が出現し、糸も大樹も何もかも、全てが炎の中に消え去った。
 羽化をし損ねた怪物の、醜くも虚しい断末魔が響き渡った。
 
 *

 「有難う御座いました……」
 煤まみれの巫女装束の裾を直し、蓮子がぺこりとお辞儀する。丸焦げになったらどうしてくれるなどと憤る事もなく、ただただ感謝の念を込めて頭を下げた。
「別に。助けてない」
 闘夜は相変わらずの、愛想の欠片も無い顔で返事をし、けだるげに溜息を吐いた。
「そういえば……先ほど、子供達の姿を見掛けたのですが……あの子達は一体、何だったのでしょうか」
 辺りからは既に異質な気配が消え、元の交差点へと戻っていた。蓮子は周囲を見渡し、ぽつりと呟く。
 『人の集まる所ってのは、何かしらやってくるもんだぜ。得体の知れねぇ、そういうもんがな』
 鬼躯夜が後ろ足でぽりぽりと耳を掻きながら、蓮子の呟きに声を返した。
「そうですね……」
 蓮子は小さく頷き、足元に落ちていたフィルムを拾い上げる。
 その拍子に、ふと自分の足元のそれが目に入り、

「………!」

 ぞわりと。背筋に冷たいものが走った。
 足首に刻まれた痣は薄れていたが、
 そこに、まあるい、
 
 歯形が。残っていた。



 信号がちかちかと点滅する。
 交差点の四隅には、不浄のものが住み着くと言う。
 人の行き交う雑踏に、濁り切ったあらゆる思念が刻み付けられていく。
 繰り返し、何度も。何度も。
 まるで艶やかな絹糸を紡ぎ出すかのように。

「あーそーぼ」

 夕焼けの交差点に、幼い子供達の声と、からんからんと下駄の音が響き渡った。

クリエイターコメントお待たせ致しました!
和風でホラーを意識して、どきどきしながら執筆させて頂きました。何処まで怖い雰囲気を引き出せるかが勝負(?)だったかなぁと感じます。
お気に召して頂けましたら幸いです。
口調等気になる点が御座いましたら、お気軽にご連絡下さいませ。
この度のオファー、誠に有難う御座いました。
公開日時2009-06-25(木) 18:00
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