|
|
|
|
<ノベル>
「な、なにすんだよ、この!」
「やんのかー!」
「ちょ、ちょっとお客さん……!」
寒い夜だった。
真冬である。
夜半も過ぎた頃の風は身を切るように冷たく、それが独り身ならばなおさらだ。
そんなとき、ガード下にぽつんと灯る赤提灯はこのうえなく暖かく感じられるものだ。まして屋台の暖簾の向こうから、おでん出汁の匂いと、楽しそうな笑い声とが聞こえてきたら、ついふらふらと吸い寄せられてしまう。
だがその日――、ガード下に響き渡ったのは荒々しい怒号であって。
げし、と、男の拳が、もう一方の男の頬をしたたかに打った。
どが、と、打たれた男の反撃の蹴りが下腹に返ってくる。
争っているのは壮年の男ふたりだ。
ひとりは背広の上にくたびれた薄いコートをひっかけた男で――それなりに精悍な風貌である。対するは、こちらのほうがいくぶん年上のようだが、体格のよい男だった。ジーンズにダウンジャケットの、ラフないでたちだ。
殴り合うふたりの間に、屋台のおやじが割って入った。
「やめてください、お客さん!」
入ったタイミングがわるく、どちらかの拳がおやじを巻き添えにしてぶっとばした。
もしも――、銀幕ジャーナルの熱心な読者がいたなら、ずいぶん前に一度だけ、このおでん屋の小さな記事が載ったのを覚えていたかもしれない。
そして、おや、と眼を丸くしたことだろう。そして首を傾げる。
争う男たちは、桑島平と赤城竜だ。
ふたりはとても仲の良い――仲が良すぎてちょっとへんな噂が立つくらいの――親友同士ではなかったけ、と。
喧嘩に至る経緯を知るには、すこし時計の針を巻き戻す必要がある。
要するに、その夜も桑島と赤城はガード下のおでん屋で落ち合って、飲んでいたのだった。平日の夜でも、どちらからともなく誘いの電話をしているのだから、そりゃあらぬ噂も立つだろう。それ以前に、ガード下のおでん屋は美味いし、ふたりはこの店の常連だったから、約束しなくても暖簾をくぐれば顔を合わせるということがたびたびある。
そんなわけで、その夜も、ふたりの儀式である煮卵の分け合いをして、桑島は焼酎を、赤城はビールと、あとから日本酒を、いい感じにくいくいやっていたのだった。
おでんは今夜もうまかった。
大根には味がしみ、牛スジはコリコリしていた。
そして今夜も酒がうまかった。
舌がなめらかになって、いつものように桑島は愚痴をこぼし、くだをまき、赤城はうんうんと頷いて桑島の肩を抱き、背中を叩いて励ましていた。
そこまでは、まったくいつも通りの展開であったと言えよう。
いつもなら、そのままいい気分で帰路につき、それぞれのねぐらへと別れる。
そうはならなかったのは、桑島のこんな一言が始まりだった。
「中央病院のさ……赤城さんも知ってるだろ、ほら――」
彼が口にしたのはムービースターの精神科医の名だった。赤城は頷く。
「やつがどうしたって?」
「いや……あいつがどうかしたってわけじゃなくてだな……。なんだ、その……」
「なんだよ、はっきりしないな。ズバッと言えよ、ズバッと」
「ん……。あいつのことがよ……、好き――みたいなんだな」
「俺も好きだぜ? 頭いいし、あれでなかなか」
「いや、違うんだ。そういう意味でなく……男女の話で」
言ってから、ちょっと生っぽすぎる言い方だったかな、と桑島は言いよどんだのだが、赤城はといえば、目を見開いて、
「って、おまえら男同士じぇねぇか!」
と大声をあげた。
「……!? いや、違うって、俺がじゃなくてさ!!」
根本的に話が伝わっていなかったことに気づいて、桑島はあわてて言い繕った。
そして、彼の相棒である女刑事の名を口にするのだった。
「なんだって。そうなのか?」
赤城は目をしばたいた。
彼女のことなら赤城も知っている。まだ若いのに優秀な刑事だ。ベテランの桑島と組んで相棒役を遜色なく勤め、しかも美人だ。
「そうかそうか。まだ若いもんなァ。恋かァ。恋って若さだよな! 若いって恋だ! ためらわないことだ!」
例によって酒がまわっているので、わけのわからないことを言いながら、赤城は何度も一人合点で頷いた。むう、と桑島の眉が八の字に、口がへの字になった。
「だからさ、赤城さん……俺ぁ心配なんだよ」
「心配って?」
「やつは悪人じゃないかもしれんが……、やっぱ、つりあいってもんがあるだろ」
「つりあいって、おまえ……」
「俺は思うんだが、こと恋愛に関しちゃあ、頭が良すぎるのはいいことがない」
赤城は笑った。
「なに言ってんだ。若いもん同士のことはだな――」
「あいつは今まで恋愛なんか縁遠くってだ、そういうことにゃ長けてねぇんだよ」
「だからおまえ、ちょっと年上のがちょうどいいんじゃないのか」
「……」
桑島は続けて何か言いかけて――、やめた。
諦めたように、口をつぐんだのだ。
「なにも心配することなんかありゃしねえよ」
対して、赤城は語った。
「桑島は悩みすぎなんだ。そんなんじゃしまいにハゲるぞ」
「赤城さんには……」
ぼそり、と桑島は言う。
「俺の気持ちはわかんねぇよ」
「あん?」
「赤城さんに相談しようとした俺が間違ってたよ。赤城さん、結婚もしてないもんな! こんなこと、わかりっこないんだ」
「な――」
沈黙――。
おでん屋のおやじがふと手を止めて、顔をあげた。
「……」
桑島が見たのは、赤城の、それまで見たことのないような表情だった。
思いもよらぬ銃弾を受けて、自分のシャツの胸を血が染めてゆくのを、なにが起こったのかも理解できないまま、なすすべもなく崩れていく、刑事ドラマで殉職する男のそれに似ていた。
「なんだと……」
絞り出すように発せられた声はかすかにふるえていた。
「そんな言い方よせよ!」
「っ!」
あっ、と声を出したのはおやじだ。
赤城が、どん、と桑島をついたのである。大きな手には存外に力がこもっていて、背もたれのない屋台の椅子から、桑島は落ちて尻もちをついた。したたかに撃ちつけた尾てい骨に、冷え切ったアスファルトの冷たさがじんとしみる。
「な、なにすんだよ、この!」
次の瞬間、桑島は赤城に飛びかかっていた。
「やんのかー!」
「ちょ、ちょっとお客さん……!」
そして冒頭のひと幕に戻るのである。
★ ★ ★
それが昨晩のこと。
「ンだってんだよ、ったく」
桑島は、あちこちを腫らした顔で、聞き込みと称して街をうろついていた。署にいると、怪我のわけを訊ねられるし、まさか刑事が喧嘩をしたとも言えない。しかし足を棒にして歩きまわっても、仕事はちっともはかどらなかった。
本来、刑事の仕事は、相棒と行動をともにせねばならない。不測の事態にも対応するための大原則だが、今日の桑島は理由をつけて相棒を避けている。
いったいどんな顔で会えばいいというのか。
(心配しすぎ……か――。しかしなあ……)
ふと気付くと、無意識に、中央病院の近くにまで来ていたことに気づいて頭を掻く。
(……俺がカウンセリングにかかりたいくらいだよ)
内心でこぼした。
自分がおせっかいをしているのは、わかる。
彼女が誰とつきあおうが、桑島が口出しする必要などないはずだった。
しかし、まったく放っておくのも違う、と桑島は思うのだ。
それは言葉にするならやはり心配というより他はなく……。
鬱屈した思いのやり場はなく、煙草をふかせど、頭はすっきりしない。殴られたあとは痛む。
綺羅星学園の傍を通りがかって、たまたま知り合いの学生たちに出くわし、怪我の理由をしつこく聞かれて、うるせぇ、ガッコおわったんならとっとと帰りやがれ補導するぞゴルァ!と八つ当たりしたところ、はぁ、なにそれ、心配してあげたのにその言い方なんなの、サイテー!と逆ギレされて、しばらく低レベルな言い争いをした。
それでますます気分が悪くなってくる桑島である。
そして時間が経つにつれ……、その気分の悪さのほとんどは、自己嫌悪なのだと、思い知らされるのだ。
あの医者ならなんていうだろう。
娘さんを心配されるようなお気持ちなんですよね、とかなんとか、さらりと言い当ててしまうのだろうか。
気に食わない。
あの医者も――そして自分も。
父親が娘のことを心配するのも、娘の恋人を好きになれないのも普通のことだ。
結局、解決法などないのだろう。
ただ――
(赤城さんには)
ふう、と紫煙を吐いた。
(謝ったほうがいいよな)
もう、日が暮れる頃だった。
一方、赤城も、すっきりしない一日を過ごしていた。
それは一晩寝ればたいていのことは良くなっている、が身上の彼にしてみれば珍しいことだった。
おかげで、今日のステージではちょっととちってしまった。
食事に寄ったカレー屋のおやじにこの年で独身なのがそんなにいけないかと訊ねてみたが、これは聞く相手を間違えていた(「結婚したらしたで大変なこともあるしねえ」と乾いた笑いが返ってきただけだった)。
もやもやが晴れなくて、仕事がはねたその足で海岸へ行って、砂浜を走りまわってみたりもした。
(好きで独身なんじゃねえよ!)
……赤城がそんなふうに思っていると知れば、周囲は驚くだろうか。
どんなことにも執着せず、泰然と生きているように思われているから。
実際、未婚のまま何十年も暮らしているから、生活上の不便などない。
それでも――、実は赤城の中には確かに結婚願望がある。テレビや映画の中の、人並みの、妻がいる暮らしを夢みることだってある。ショーを見に来る子どもたちを見れば、いつかは自分の子に父の舞台を見せてやりたいと思わずにはいられない(着ぐるみで顔は見えず、ヒーローに倒される役回りだったとしても)。
そんな夢をもとめるには、自分は年をとりすぎただろうか?
同年代に比べれば肉体の衰えのないことにかけては自信はあるが、それでも、仕事ばかりに打ち込みすぎて、過ごしてきてしまった時間を取り戻すことはもうできないのだ。
だから――
桑島が、息子の話をするのを、赤城はひそかにうらやましくもあったし、桑島はなにかと悩み過ぎで頼りないところもあるし話はわかりにくいし案外腰がひけているし風采もあがらないが、少なくとも家庭を築くという責任を果たしていることだけは、尊敬できる男だと、思っていたのである。
だから、その桑島に、結婚していないから、と言われたことは赤城にはショックだったのだ。
それが、赤城の中にある、唯一といってもいい――恐れのようなものだったから。
「うおおおおおおおおお」
それは弱さだ、と赤城は思った。
無意味な雄叫びをあげながら、砂浜を走った。
(こんなんじゃだめだ。強くなれ、俺!)
夕日が海に沈んでいく。
(あんなことでカッとなっちまったのは俺の弱さだ。桑島は――……桑島は悪くねえよな……)
★ ★ ★
「あ……」
桑島から、ため息が漏れる。
ガード下に、屋台はなかった。
謝らなくては、と思っても、電話をすることはどうしてもできなかった。
そのかわり、またここで会えるのでは、と思って足を向けたのだ。
しかし赤城はおろか、屋台自体が見当たらない。
昨晩、どさくさにまぎれておやじも殴ってしまったから……そのせいかもしれない。
なんてこった。とぼとぼと、肩を落としてきた道を戻る。今夜は夜勤だった。だから、その前に、屋台に寄って――と、考えていたのだが。
(ちくしょう、なんで俺はこうなんだ)
何と言って謝ればいいだろう。
許してもらえるだろうか。
桑島は心底後悔した。
そんなことをぐるぐる考えながら、銀幕署の建物が見えてきたその時。
「え」
桑島は目をしばたいた。
そこに、赤提灯がともっている。
屋台だ。
いつもガード下にいるおでん屋の屋台が、銀幕署の前にいる。
桑島は駆け寄ると、のれんをくぐった。
「……へい、らっしゃい!」
湯気の向こうから、威勢のいい声が桑島を出迎える。
「あー……ええと……?」
屋台には先客がいた。
彼は頬に絆創膏を貼って、照れたような、苦笑めいた笑みを浮かべた。どうも、と低い声で挨拶をする。
おでん屋のおやじであった。
「今日は俺がやる」
かわりに、おでん種の面倒を見ているのが、赤城だった。
「……どうしても、って――聞いてもらえませんで」
本来の店主が言った。
しばし、あんぐりと口を開け、店主と赤城を交互に見ていた桑島だが、やがて、なんだか拍子抜けしたように、椅子にかけた。
「今晩だけ、俺が屋台を買い切ったんだ。だから全部おごりな。なんでも食ってくれ。……桑島、昨日はすまん。俺が悪かった」
「……あ、いや……」
もごもごと、桑島は言った。
「俺のほうこそ……。俺が……言いすぎたよ……」
うつむいた桑島に、横合いからグラスが差し出される。
「ま、飲みましょう」
おでん屋が、ビール瓶を傾ける。
「なにからいっとく?」
一日店主の赤城が訊いた。
「……」
桑島の顔に、ふっ――、と泣き笑いのような表情が浮かんだ。
あんたにはかなわないよ、赤城さん。
そんなセリフのかわりに、
「そりゃおまえ」
桑島は言うのだった。
「煮卵だ」
(了)
|
クリエイターコメント | お待たせしました。 またお二人(とおでん屋)を書けてうれしく思います。 ちょっと暴走して、微妙にいろんな人も出ているような……?
|
公開日時 | 2009-01-04(日) 21:10 |
|
|
|
|
|