★ 燈籠流し −精霊祭― ★
<オープニング>

 冷たい乾いた風が外を支配する中にも、ホーディス達の住まう鎮国の神殿内は、どこも暖かい、まるでどこか懐かしい家庭を思わせる空気に満ちていた。
 その暖を取る方法は、昔ながらの暖炉に火をくべる、という方法なのであったが、不思議な事に、暖炉が置かれていない部屋においても、暖炉がある部屋と同じくらいの暖かさが保たれている。
 その神殿内の一室、書庫の入り口にて、いつものように本を読み耽っているホーディス・ラストニアをリーシェ・ラストニアは遠くから、いささか訝しげな眼差しで見つめていた。
 彼が読書に多大なる時間を費やすのは、いつもの事であるのだが、最近は、いつもにも増して読書に費やす時間が多い気がするのだ。本日も、彼が座っている受付の周りには、幾重にも分厚い本が積み重ねられており、彼の頭はもう少しでその中に埋没してしまいそうであった。
 ――まあ、出納帳を手に追い掛け回されるのも面倒だから、それはそれで良いのだが。
「そろそろ、燈籠流しの時期ですか」
「え?」
 ホーディスが、いきなり本の山から目を放す事も無く言ってきたので、リーシェには最初彼が何を言っているのかを理解しかねた。数秒反芻し、それからようやく合点が言ったように頷く。
「――ああ、そうか」
 そう言いながら、丁度ホーディスの後ろの壁に掛けられているカレンダーを見やる。
 そのカレンダーは二つあり、ひとつは銀幕市に来てから購入したもの、もうひとつは、実体化する以前から掛けられていた、一枚しかない古ぼけた色のものだ。
 銀幕市のカレンダーは十二月を指しているのだが、もう一つのカレンダーは海羽の月――こちらで言うと、だいたい八月を示していた。
 このカレンダーには勿論魔法が掛けられていて、同じ紙に、その月の日程や予定が自動的に書き込まれるものである。おそらく実体化してからも、そのままの時を刻んできたのだろう。
 そしてその日付には、丁度一週間後に「精霊祭」を示す言葉が、青のインクで書き込まれていた。
 ラストニア国では、魔法を初め、様々な恵みに精霊達が大きく関わっている、とされている。清き水も、強き火も、恵みのある大地も、清らかなる風も、全て。
 そんな訳でラストニア国では、数年に一度――つまりは、彼の後ろにあるカレンダーに「精霊祭」と記された年に、精霊達に感謝を示すと言う事で、夕刻から夜にかけて、精霊の焔を万物の創生する場所――海へと送る儀式が行われるのだ。いわゆる燈籠流しである。
 燈籠流しの時には、よく精霊の焔の力による影響からか、流した人と縁のある亡き人の幻影が浮かび上がる事もあると言われていた。そんな訳で、彼等の国ではその行事には、亡き人を偲んで参加する人も多かった事をリーシェは覚えている。
「ここは銀幕市ですが――まあ、この送るべき焔はここにありますし、海も幸いながらありますし。これを行わないという理由はないでしょう」
 彼女はようやく本を閉じて立ち上がったホーディスの言葉に頷きつつも、露骨に嫌そうに眉を顰めていた。
「――という事は、剣舞をしなければならんのか……」
 そう。そこでのひとつの名物が、リーシェが率いる舞踊団による、剣舞と舞踊であった。ちなみにかの国では、王女直々に民衆の前に出てくるとあって注目度も高かったのだが、裏では剣舞と舞踊を踊るのが好きではないリーシェは毎回直前に脱走し、毎回ホーディスに捕獲されるという事態も発生していたりするのは王家の秘密だ。
「今回は脱走しないで下さいよ?」
 ホーディスににっこりと微笑まれ、リーシェは苦虫を噛み潰したような表情になった。
 ――非常に逃げたい心境ではあったのだが、今回ばかりはヤツに借りがありすぎる。
「――分かった。幾人かにも、話を通しておく」
 その言葉に、ホーディスは再び微笑んだ。
「浜辺での振る舞い物の準備もしなければなりませんね」
「そうだな、――折角だから、何か温まる物が良いだろうな、汁物系で」
「それもお願いしますよ。では、私は市役所に告知をさせて頂くよう、お願いしに行ってきますから」
 そう言って、立ち去るホーディスの背中をリーシェはぼんやりと見つめるのであった。


 ――精霊祭前日――


 ホーディスは、神殿内の祭壇が置いてある部屋にいた。これから、精霊が祀られている祭壇にある焔を取り出そうとしている所であったのだ。
 風の精霊の祭壇の、重厚な石造りの壁に備え付けられている扉をそっと開き、中に大切にしまわれている小さな燭台ごと、その消える事の無く、彼の魔法による媒介なくしては別の物に燃え移る事も無い、濃い深緑の色をした小さな焔を取り出そうとした。
 だが。
「う、わっ!」
 彼の驚きの声と共に、ぴょん、とその焔が燭台ごと飛び上がったのだ。燭台はかつん、と音を立てて一度石造りの床に着地すると、もう一度ふわりと浮き上がり、凄まじい速さでその部屋を飛んでいく。
「ちょ、と、止まれっ!」
 そう言うと同時に、瞬時に魔法陣を宙に描き、その燭台に魔法をぶつけたのだが、燭台に魔法がぶつかる直前に何らかの力が作用したらしく、バチッという音と共に魔法は弾き飛ばされていた。
「……結界?」
 彼がそう呟くと同時に、他の精霊の祭壇の壁に備え付けられている扉が勝手に開き、先程と同じように、中から赤と青と、そして茶色の焔を灯した燭台がぴょんと飛び出てきていた。
「え、え、えええっ?」
 宙を飛んでいくそれらを慌ててホーディスは追い掛けて行く。
 四つの燭台は書庫へと辿り着き、さらに地下への階段の扉をどうやったかすり抜け、地下の螺旋階段をふわふわ漂いながら降りていっていた。
「ま、待ってくださいー!」
 彼は半ば泣きそうになりながらそれらを追いかけた。焔はその四つしかない。それがなければ、燈籠流しは行えないのだ。
 だが、彼の尽力むなしく、燭台は地下の、もはや一種のムービーハザード地区とも言うべき書庫の扉をすり抜け、彼の視界から消えてしまっていた。
「……そんな」
 地下の書庫は、彼の魔力の制御の及ばぬ暗黒地帯。実はその書庫が何階建てなのか、どんな本が置いてあるのか、それさえもホーディスは把握出来ていない。
 それでも何とかしなくては――。ひとまずリーシェの力を借りようと思って、しょんぼりと肩を落としながらも地上に戻ってきてみたホーディスであった。
 しかし。
「たたた大変だホーディス!」
 普段無表情を貫き通しているリーシェが、珍しく慌てた表情を見せて書庫へと飛び込んできたのだ。
「……どうしましたか?」
「わ、私と一緒に踊る筈だった踊り子達が……! 全員原因不明の熱を出して……! しかも身体の節々が痛むって言うんだ……!」
「……もしかして、それって銀幕市で流行しているインフルエンザなんじゃ……」
 彼の懸念をよそに、リーシェはあわあわとその場で飛び跳ねている。
「とにかく、無理させて踊らせる訳にはいかない。どうすれば……」
 ホーディスはさらなる事態に、しばし腕組みをして、何事かを考案しているようであった。そして、ひとつため息を吐き、彼は仕方ありませんねと眉を顰めて呟いた。

「こうなったら、誰かを巻き込むしかありません」

 ――どうやら彼の思考は、はた迷惑な方向に行き着いてしまったようである。



種別名シナリオ 管理番号331
クリエイター志芽 凛(wzab7994)
クリエイターコメントこんにちは、そしてはじめまして。

今回、ラストニア家では精霊祭を行う予定なのですが、どうにも怪しい状況になっているようです。
という訳で、精霊祭を成功させるべく、よろしければ皆様のお力をお貸しくださいませ。

内容的には、前日の騒動、そして当日の燈籠流しの場面を描く事になると思います。それを受けて、プレイングに盛り込んで頂きたい事が幾つかございます。
1、前日の行動について
・どうやって巻き込まれるか。(ホーディスのはた迷惑な電話を受けた、市役所に掲示してある精霊祭の広告に書き加えられた「助けて下さい」的な言葉を見てきた、たまたまその場に居合わせた、などなど)
・で、何を手伝うか。(焔を捜索しに地下へと踏み込む、舞踊団を助けるべく奮闘、むしろ舞踊団に加わって当日踊ってみる、など)※ちなみに地下書庫は、侵入者を撃退する為の魔法による罠が大量にあります。もしかしたら何か他にもいるかもしれません、お気をつけ下さい。
ちなみに地下書庫へはホーディスが、舞踊団にはリーシェが同行します。

2、当日の行動について
・何をするか(燈籠流しは基本全員行って頂く予定ですので、それ以外で。舞踊団として踊る、普通に参加者として楽しむ、など)
・燈籠流しの際の、精霊の焔の色(赤、青、緑、茶色の四色です)
・燈籠流しの際、思い入れのある、亡き人がいらっしゃる場合、その方と、その方に対する思いを描写して頂けると嬉しく思います。

何か盛りだくさんになってしまいました。。。捏造OKな方は、その部分を省いてしまっても大丈夫です。あ、あと、当日は御飯も付きますのでvv

なお、今回もやや多めに執筆期間を頂きたく思います。ご了承くださいませ。

それでは、よろしくお願い致します。

参加者
レイド(cafu8089) ムービースター 男 35歳 悪魔
ハンス・ヨーゼフ(cfbv3551) ムービースター 男 22歳 ヴァンパイアハンター
ファーマ・シスト(cerh7789) ムービースター 女 16歳 魔法薬師
李 白月(cnum4379) ムービースター 男 20歳 半人狼
ディズ(cpmy1142) ムービースター 男 28歳 トランペッター
シュウ・アルガ(cnzs4879) ムービースター 男 17歳 冒険者・ウィザード
<ノベル>

「はあ……」
 冬の空の下、レイドは眉根を寄せながら、彼の使い魔的存在、ケルベロスのヴェルガンダと共に通りをふらふらと歩いていた。
 彼がどうして、こうして眉根を寄せるような事態になったのかというと、少し前、お祭り好きな彼の相棒が、どこから仕入れてきたのか精霊祭の話とそのポスターを手に迫ってきた事が原因であった。
 おまけに、参加するだけなら大した問題ではなかったのだが、その相棒が放った言葉は「舞踊団に参加しよう」との事である。
 それは勿論踊り子になるなんてまっぴらごめんな彼は、断固否定してそそくさとその場を逃げ出してきたのだった。
 ただ、今の彼には二つ程、気になる事があった。
 ひとつは相棒が手にしていた広告である。その広告には、最初に書いてあった精霊祭の告知の他に、明らかに手書きの、しかも走り書きで、まずはよく分からない言葉が書かれていた。そしてさらにその文字を消し、その上に、幼稚園児のような文体のひらがなで「たすけて」と書かれていたのだ。
 いくらなんでも、いたずら書きで「たすけて」なんて書く輩はいないだろう。
 ――だとすると。
 レイドの脳裏に、何とも言いがたい嫌な予感が引っ掛かかった。
 そしてもうひとつは。それはこの広告と共に広まっているであるらしい噂であった。
 どうやらその噂、この祭りでは、死んだ自分の大切な人に会うことが出来るらしい、という事であった。
 その噂を聞いた瞬間に、彼の脳裏にはひとりの大切な人の姿がぼうやりと浮かんで。
 彼に、かけがえのないものを与えてくれた、あの人――。
 そんな訳で、彼はケルベロスと共に、相棒には内緒で市役所に向かっていたのだ。
 後々、その嫌な予感は、微妙な部分で当たる事となる事に、まだ彼は気付いていない。
 幸いにも。



 市役所の対策課に置かれているボードの片隅に、何とも不思議な広告を見つけた一人の青年が、首を傾げて立ち止まった。李白月である。  
 そこには、精霊祭とその日時が書かれた広告が貼られていた。どうやらこの前知り合った(というか戦った)ラストニア家の双子が主催する祭りであるらしい。
「へー、精霊祭か。面白そうじゃんって……?」
 白月は、そこに書かれていた明らかに場違いな「たすけて」の文字に目を引き寄せられた。
 どう見てもこれは後からマジックで付け足したかのごとくの文字である。しかもまだ何か油性ペン独特の匂いがするのは気のせいだろうか。
 そんなこんなで首を傾げていると、背後でごそりと何かが動く音がした。
「げっ」
 白月がその声に振り向くと、そこにはレイドと連れのケルベロスが佇んでいた。レイドはあからさまに後ろに仰け反っている。白月はさらに首を傾げる。
「俺、何かしましたっけ?」
 白月の心底不思議そうな質問に、レイドはハッと自分の今の状況に気が付いたようだ。
 どうやら彼の相棒の事で、レイドの中では一方的に注意報が発令されているらしい。おそるべき、反射神経。
 しかし今は隣に相棒はいない。その事で、新たに微妙な心持ちに襲われながらも気分を取り戻した彼は、首を横に振った。
「いや、な、何でもない。そうだ、……やっぱりそれ、気になったか?」
「ああ……一応この二人は知った顔だしな。やっぱり何かあるんじゃないかと思ってた」
 白月は広告を指差して言ったレイドに頷く。
「これはちょっと、行ってみるか」
 こうして二人は地図を片手に、鎮国の神殿へと向かう事になった。



 精霊祭の主催者のひとり、リーシェは凄まじい速さで市役所から神殿への道のりを全力疾走していた。手には黒い○ッキーペンを抱えて。
 ひとまず市役所の広告に全部「助けて」と書いてきたはいいものの、まずこれで人が集まるかどうかは分からない。しかも最初の広告の何枚かは、自分達の国で使っていた言葉でうっかり書いてしまい、怪しさ満点な広告に化けているのである。
 後は自分の力で誰かに助けを求めるしかない。
 そう考えていた時、彼女の視界に、丁度ふらふらしている青年が目に入った。
 彼はブルーグレーのスーツを着込み、青のラインが入ったグレーのソフトフェルトハットをかぶっている。
 そして彼の手には、青いトランペット。
 それを見た瞬間、リーシェはこれだ! とどうやら頭の中で閃いた事があったようであった。
 そしてその青年に近付き、ぐいと肩に手を掛けた。
「なあ、お前、演奏家だろ?」
 急に肩を掴まれた青年は、突然の言葉に振り返り、やや戸惑いながらも頷いた。
「ああ、勿論……だけど、何でだ?」
「いや、良かったら、精霊祭で演奏してくれないか、と思って」
「精霊祭? 何だそりゃ」
 いきなり素っ頓狂なリーシェの言葉に、青年はさらに戸惑った表情を見せていた。無理も無いだろう。誰だって、いきなり見ず知らずの人にそんな事を言われたのだったら、戸惑うに決まっている。
 だが、残念ながら今のリーシェにはそこまで頭を回す余裕が無かった、というかそこまでの脳は無かった。
「私達が主催で開こうと思っている祭りの事だ。ちなみに参加者にはその日の晩飯つきだぞ」
 いささか眉を顰めてその話を聞いていた青年であったが、「晩飯つき」の所でぴくりと眉根が持ち上がった。
 油断無くその様子を伺っていたリーシェは、よしとばかりに彼の腕を引っ掴み、その彼女の細い腕からは想像もつかない強さの力で、ずりずりと引っ張り出した。
「ちょ、オレまだ行くって言ってな……!」 
 ずりずりと引っ張られながら、青年は思わず抗議の声を上げる。途端にその腕が放されていた。
「そうか。……手伝ってくれるのかと思ったんだが……残念だ」
 リーシェは無表情の中にもいささかしょんぼりした雰囲気を醸し出して、青年に背を向け、とぼとぼと歩き出していた。その姿を見た青年は、やや慌てながら、彼女を追いかける。
「いや、行かないとも言ってねえだろ?」
「……という事は……」
「晩飯つきって本当か?」
「ああ」
 リーシェは彼の言葉に頷く。青年は、その動作に笑みを浮かべた。
「よし、なら手伝ってやる」
「本当か? ……ところで、お前、なんて名前なんだ?」
 今更ながらの言葉にも、青年はに、と笑いを見せて答えた。
「ディズだ」

 ★

 当事者達にもよく分からない騒動が起きている鎮国の神殿に、半分首を傾げながらそろそろと入ってくる一人の青年がいた。ハンス・ヨーゼフである。
 彼のやや鋭い目つきからか、どことなく凛々しい印象を与える風貌は今、何処と無く翳っているように感じられた。ちなみに口には当然のように煙草が差し込まれている。
 その理由は、今彼が受けている依頼の事であった。
 すこし時間を遡った頃、彼が働いている会社の社長というか父親に入ってきた一本のメールであった。
 ひとまず行ってこいという事でその依頼を受けたハンスであったが、その時の、彼からのアドバイスがアドバイスとも取りにくい、何とも言えないものであったから、という事もある。
 しかも、依頼内容も普段彼が請け負っている仕事からは物凄くズレた位置にある内容であったのだ。
 ――何だかよく分からない。
 そんな第一印象を受けつつ、小さくなった煙草をもみ消すと、事件が起こっているにしては妙な静けさを誇る神殿の中へと足を踏み入れていった。
 だが、中に足を踏み入れた途端、彼の頭の中にあった、一瞬にして妙な静けさという印象は吹き飛ばされていた。
「うわっ、とにかく氷を用意しなくては!」
「ぎゃー、これ誰の魔法ですかっ?」
「すいません、それ私ですー」
 神殿内部では、かつて、王国での従者と思しき人達がわらわらと走り、さらには彼等の頭上を誰かの魔法によるものなのか、氷がふわふわと浮かんだりしている。端からみれば、まさに超常現象だ。
 ハンスはしばしその様子を傍観していたが、彼等の中で、ひときわ異彩を放っている青年を見つけて、ゆっくりと彼に近付いた。
「あの、あなたが依頼人……?」
「ええ。……えーと」
「ああ。ハンス・ヨーゼフ。依頼を受けて来たんだけど……」
 やや戸惑いながらの言葉に、青年――ホーディスはそれは助かります、と微笑を浮かべた。
「精霊祭の手伝いって聞いたんだけど……具体的には何をすれば?」
「そうですね。地下書庫に精霊祭で必須な焔が逃げられてしまったので……」
 ホーディスは簡単に今までのあらましを説明する。ハンスは腕を組みつつその話を聞いていた。やがて、話が終わると、ううん、と唸りを上げる。
「なるほど。……焔を探しに行く方が俺向きかな。病気とかは専門外だしな」
「どちらにしても助かります。よろしくお願いします」
「ああ。……」
「?」
 ホーディスは苦笑しつつ頭を下げた時、ハンスは頷きながらもどことなく、疑問の表情を浮かべていた。
 顔を上げたホーディスはその表情に気付く。小首を傾げて見せると、ハンスは我に返ったかのように目を瞬かせた。
「いや、ちょっと……変わったアドバイスを聞いたものだから」
 ハンスはここに来る前に聞いてきたアドバイス。
 それはホーディスは守銭奴、リーシェは破壊魔だから巻き込まれるなよ、というものであった。
 だが、目の前のホーディスからはそんな雰囲気はしないのであった。まさかそのアドバイスを本人の前で言って困らせる訳にもいかないので、仕方なしにハンスは心の中で首を傾げるに留めておいた。
 そんな時、ハンスの後ろから、ひょっこりとひとりの男が顔を出した。漆黒の髪をさらりと揺らし、片手に杖を持ったその青年――シュウ・アルガである。
 彼はホーディス達のもとまでひょこひょこ歩いてきた。
「へえ。ここが噂の書庫つき神殿かー」
 彼はホーディスの向こう側に広がる書庫をひょっこり覗き、感嘆の声を上げたりしている。ホーディスが微笑を浮かべつつ、小首を傾げていた。
「えーと……書庫に御用ですか?」
「いや、書庫にも興味はあるんだが、今日はこの広告を見て、気になったもんだから、来てみたんだ」
 シュウは手に持っていた広告をひらひらとホーディス達に見せた。勿論、○ッキーで「たすけて」と書き込み済みのものである。
「精霊祭にも興味はあるが、一体この言葉はどういう事なんだ?」
「それはですね……」
 疑問を呈してきたシュウに、ホーディスが再び説明しようとした時、さらに彼等の後ろ、神殿の入り口からレイドと白月が入ってきた。瞬時に彼らの手にもシュウと同じ広告が握られているのにホーディスは目聡く気が付く。にこにこと彼らに近付き、ぺこりと頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。お二人も助けてくださるなんて、本当に私は恵まれていますね」
 にこにこ微笑みながらホーディスは二人をシュウとハンスの所へさりげなく引き摺ってくる。
「ちょ、ちょっと待て……」
「え……あの……まだ何も言ってな……」
 レイドが戸惑いながら呟く横で、白月が目を瞬かせながら引き摺られていた。
 どうやら、彼らはホーディスが微笑みの中に隠している腹黒さには未だ気が付いていないようである。
 彼が微笑みながらお辞儀ばかりしている時は、警戒注意報が発令されると言う事を。
「これだけいらっしゃれば、あの悪魔の巣窟のような地下書庫も鬼に金棒ですね!」
「は? 悪魔の巣窟?」
 シュウがぼそりと呟くが、ホーディスは一向に頓着しない様子で、ええと頷いた。
「実はですね……」
 彼がそこまで言いかけた時、入り口から、そっとひとりの女性がそっと姿を現した。ファーマ・シストだ。
「こんにちは。電話を頂いて来たのですけれども。一体どうされたのですか?」
「あ、ファーマさん」
 ホーディスがにこにこと頭を下げた時、さらにその後ろからばたばたと騒々しい足音が響いてきた。
「ちょ、速いから! そんなに慌ててマラソンしなくても!」
「そんな悠長な時間はない! 事件は現場で起こっているんだ!」
 どこかで聞いたような台詞を吐きながらディズとリーシェが全力疾走で神殿内に駆け込んできたのであった。
 さすがかなりの戦闘力を持つ二人である。言葉からしてかなりの長さを走ってきたであろうに、息切れひとつしていない。
「どうだ? ホーディス」
 リーシェの言葉に、ホーディスはにこりと微笑んだ。
「順調ですよ」
 ……ちなみにその言葉の裏に「折角の人材を逃がしてたまるか」という言葉が隠されている事を知ったのは、この場ではリーシェのみであるようだ。
「――そうだホーディス、舞踊団の方はどうすれば良いか?」
「ええ。ファーマさんがいらして下さったので、彼女にお願いしようと思います」
「わたくしにお任せくださいな。このファーマ、薬師として力を尽くさせて頂きますわ」
 リーシェはファーマの方へと顔を向けた。よろしく、と言って頭を下げる。
「それにしても、治療はさせて頂きますが、やはり病み上がりの方には療養して頂くのが一番だと思いますけど……」
「そうだよな……。やはり誰かに頼んで踊りもやってもらうしかないか……」
 さりげないファーマの言葉にリーシェは眉根を寄せたかと思うと、次の瞬間、近くにいたレイドの腕を掴んでいた。
「え?」
 腕を掴まれたレイドは、戸惑いの表情を浮かべながら、リーシェの方を向く。
「よければ明日、踊ってみないか? 元々男性が少ないんだ、うちの舞踊団には」
 そう言いながらも既にズルズルと文字通り彼の身体を引き摺り始めていた。
 彼の相棒に踊ろう、と誘われて必死の思いで逃げてきたレイド。再び必死に抵抗を始めるしかない。
「断る! こんなオヤジに躍らせて何が楽しいってんだ!」
「年齢は関係ない。ただ少し衣装が際どいかもしれないが」
「そんなのもっと嫌だあアアアア!」
 あれやこれやの準備で騒がしい神殿内に、一際輝く、尾を長く引いた絶叫。




 ★ ★ ★



 そんなこんなで、すったもんだの騒動の末、ホーディスを加えた男六人組は、地下書庫に通じる壁に沿った螺旋階段を降りていた。未だにそんなに被害を受けていないシュウ、白月、ディズは半ばこの事態をのんびりと見ているようであった。ハンスは元々依頼を受けているとあって、そんなに顔に疲れのようなものは浮かんでいない。
 しかし、既に被害を受けつつあるなレイドは疲労の色が大分濃く顔に浮かびつつあるようであった。
 そんなレイドの肩をディズがばしりと叩く。
「って」
「まあまあ、気にすんなってさ。ちょちょっと手伝ってやれば良いんだし」
「あんたは相変わらず危機感ねえなあ……」
 にへ、と笑っているディズをレイドは半ば呆れた目で見返した。
「ま、こんだけいれば大丈夫だろ。オレもいるしな」
 その後ろではシュウが杖を担いで笑っている。
「とか言っても、一番最初に引っ掛かるのはあんただったりして」
「そしたら白月をその中に放り込んでやる」
「うわっ、ひどっ、暴力虐待!」
「……暴力虐待……?」
 手を口にあてて非難する白月の横で、やや真面目な性質のハンスがぼそりと呟く。
「ノリってやつだよ、ノリ」
「せめてツッコミと言ってくれ」
 にやり、と不敵な表情を見せたシュウに対し、白月が冷静にツッコミを入れる。
 そういった訳で、ホーディスを除く五人が後ろを向いたりしながら階段を降りていた。ほぼ前方不注意である。
「ぶっ」
「ぎゃ」
「うげ」
 そして事件は当然のように起きたようである。
 ホーディスが書庫の扉の前で足を止めたのにも気付かず、ディズが彼に衝突。さらにそれに気付いて足を止めたレイドの後ろで白月が気付かずぶつかってきた。そんな訳でレイドも巻き添えを喰らってしまう。
「……着きましたけど……大丈夫ですか?」
「ああ」
「……」
 ホーディスが振り返ってそろそろと五人の顔を伺った。既に約一名、疲れきった表情の男性がいる気がする。気のせいか。きっとそうだろう。
「……それでは、開けますね」
 ホーディスはそう言うと同時に、扉に自らの手の甲をくっつけて、その扉の「鍵」を開く。
 鉄が錆びたような音と共に、ゆっくりと地下書庫の扉が開かれていった。
 一斉に、ひんやりとした空気が流れ出していた。
「へえ。ここが地下書庫なんだな」
 シュウが興味深そうに書庫の中を覗き込んだ。彼は知人からこの書庫について聞いていたこともあって、前々から興味を持っていたのである。
 壁際についている灯りがかろうじて通路を照らすその場所は、ほぼ天井までそびえ立つ本棚が、えも言わぬ威圧感を醸し出していた。ほとんど闇に包まれている為、全体を見て取る事もできない。
「それにしても、一体どこに焔があるんだ?」
 そう言いながら、ディズがのんびりと興味深そうに書庫に足を踏み入れた。
 だが彼の足元には小さな模様のような光が見え隠れしている。
「あ、そこ踏まないようにして下さいね。それ罠ですから」
 ホーディスがその行動に注目して、そう言った瞬間だった。

 カチリ。

「……今、何か音がしたな」
 レイドがぴくりと片眉を吊り上げた。
 その次の瞬間、轟音と共に白煙が立ち昇り、犬ほどもあろうかという赤いトカゲが彼等の元に飛び込んでくる。獰猛な刃と、ちろちろとした舌が、おぼろげな薄暗い光に浮かび上がった。
「うわっ」
「えっ、て、い、ぎゃああああ! 何で俺ぇぇぇぇっ?」
 罠を踏んだディズと、たまたま近くにいた白月がトカゲに追い掛けられ、素晴らしい勢いで書庫の奥へと走り去って行ってしまう。
 カチリ。カチリ。
 しかし奥からも、あわや不運な声。
「ぎゃああああっ! なんでこんなにぃぃぃ!」
 何回もの罠が作動される音と共に、主に白月の叫び声が奥から響いてきていた。
 そんな中、その場にいた四人は、どちらともなく、顔を見合わせていた。
「……どうする?」
 ハンスがやや驚いた表情を見せながら奥を見やった。その先は、ほとんど灯りが少ない場所とあって、闇に包まれている。時たま、叫び声が聞こえるだけであった。
「図面とかは?」
 レイドの言葉に、ホーディスは首を横に振った。
「昔のままのものならありますが……この神殿は、既にあちこちに掛けられている魔法によって、色々と変えられているんです。地上部分は私が何とか制御できるのですが、地下の制御は難しくて」
「まあ、あの二人なら大丈夫だろ。何とか戻ってくるんじゃねえ? ひとまず、オレ達も焔を探しに行こうぜ」
 シュウは眉を上げてそう言うと、通路を見ながら歩き出した。
「奥の方で、また会うかもしれないしなぁ」
 ハンスも自分の腰に括りつけられている長剣、そして銃を確かめると、奥へと歩き出した。
「……良いのか?」
 二人の行動に、レイドが首を傾げた。彼の言葉に、ホーディスは肩を竦める。
「最悪、気配を探す魔法を使って見つけ出しましょう」
「そうか」
 そしてレイドとホーディスも、地下書庫の中へと足を踏み出していった。
 彼等の背後では、ぎいい、と錆びついた音を再び立てて、扉が閉まっていく。



 ★ ★ ★



「まずは、この部屋だ」
 リーシェはそう言いながら、二階の一室の扉を開いた。ファーマは既に、縮小薬で縮めていた様々な材料や調合器具が入った鞄を大きくし、しっかり抱えている。
 二人が入った部屋は、幾つかのベッドが並べられた、清潔そうな雰囲気の部屋であった。
 ベッドの上をちらと見ると、ほっそりとした雰囲気の女性達が赤い顔をして横たわっている。時折うんうんと唸り声も聞こえてきた。
「隣の部屋には男がいる。ひとまず、この部屋から頼む」
「ええ」
 ファーマはそう言いながら、ベッドの隣に置いてあった小さな机と椅子を引き摺ってきた。そしてその机の上に鞄の中からガラスで出来た繊細なつくりの調合器具や、粉末にされた材料などを並べ始める。かつり、かつり、と小気味良い音が響いた。
「わたくしの調合した治療薬と栄養剤を投薬させて頂ければ、たちどころに回復される筈ですわ」
「そうか。それはありがたいな」
 リーシェは生真面目に頷きながら、じっとファーマが薬を調合していく様を眺めていた。
 ちなみに、彼女は以前のとある事件の事が頭に無かったから知らないが、ファーマの未実験の薬は、時にトンデモ効果を起こすのである。
 そして、今回の治療薬は、未だ未実験。どんな効果が起きるのかははたまた神のみぞ知っているのだろう。
 ファーマは黙々と澱みない手つきで、材料を調合していった。
 時折ぼわん、ぼすっと怪しげな爆発を起こし、何とも言い難い匂いが部屋の中に漂っていたりする。
 横たわっている女性、ほとんどがリーシェと同じ映画から実体化してきた従者達であった。なので、彼女達の中では、幾人かがファーマの薬の効果を目にした事もある。幾分、いや、かなり不安そうな目でその様子をじっと見守っていた。
 最後にぼわん、と不思議な煙を立てて試験管の中に、白い色の粉末が出来上がった。
 見た目はそんなに悪い出来ではない(と思われる)。
「ひとまずこれで治療薬は完成ですわ。さ、どうぞ」
「はあ……」
 ファーマはその粉末を薬包紙の上に乗せ、ひとりの女性の下へと差し出した。リーシェがその横で、コップに水をついで差し出す。
 薬を渡された女性は、恐る恐るその薬を見つめ、ゆっくりと薬を水で胃の中に押し流した。
「いかがですか? 即効性のものにしてみたのですけれど……」
 次の瞬間、当然の如く事件は起きた。



 ★ ★ ★



 レイド、ハンス、シュウ、ホーディスの四人は、慎重に書庫のやや狭い通路の中を進んでいた。もう既に幾つかの階段を降り、大分地下に降りてきている。
 書庫は中央のやや大きめな通路を挟んで、本棚がびっちり並び、小さな通路へと枝分かれしていた。入り口付近の階は、まだ大きな通路がまっすぐ並んでいたりとそれなりに整っていた。だが、階を降りるにつれ、通路は曲がりくねっていく。まるで方向感覚を迷わせる森のような印象を与える書庫である。
「何だか不気味な所だな……。それにしても、焔の場所は分かるのか?」
 レイドがきょろきょろと辺りを抜け目なく見回しながら言った。
「多分こっちだとは思うのですが……。焔はかなり強い魔力を帯びているので、その魔力を辿っています」
 ホーディスの鎖骨に刻まれている刺青が、ぼうと色を浮かべていた。シュウもその言葉に頷いてみせる。
「なるほど。何となく強い魔力なら俺も感じるな……うわっと!」
 足元の魔法陣に気を取られていた彼は、通路と通路の間に張られた細い糸に唐突に引っ掛かって転びかけた。何とか持ち直し、その場所を見やる。
「これも罠? 切っちまったけど」 
「なんつー初歩的な……」
 ハンスとレイドがやや呆れながらも油断なく迫る罠に対して構えを取った。
 ずずず、となにか崩れるような大きな音が彼らを囲んでいく。
「くそ、何が出るんだ? 今度は蛇か?」
 シュウが呟いた瞬間、ぼろり、と彼の足の一部が抜けた。
「!」 
 それをきっかけとして、床の足場がぼろりと一気に崩れ落ちる。
「うわああ!」
「今度はこれかよ!」
「糸に引っ掛かるだけでこれとか、ありえないだろ普通っ!」
 その言葉と共に、彼らは下の闇へと呑み込まれていった。
 誰もいなくなった通路に、砂埃がもうもうと立ち込めていった。



「げほげほっ」
「うおっ」
 同じ地下書庫の別区画では、ディズと白月が、急に巻き起こった砂埃に咳き込んでいた。
 最初の罠に引っ掛かり、パニックに陥って走り出した白月によって、余計に幾つもの罠を作動され、二人は白煙と、どこからともなく飛んでくるナイフと、得体のしれない生物に襲われながらも何とか回避し、生き残る事に成功していた。
「あー、何とか回避成功かあ」
「それにしても……どうする? 一旦戻るか?」
 白月はそう言いながら後ろを振り返った。
 淡い灯りしかない書庫の為、既に彼らが走ってきた道は闇に包まれていた。おまけに、初めて来る場所であったから、余計に方向感覚が掴めない。
 だがそんな状況におかれていても、ディズは至って能天気であった。
「ひとまず行けるとこまで行ってみようぜ。最悪、向こうが見つけ出してくれるだろ」
 そう言うと、颯爽と奥へと歩き出す。白月は若干不安そうに前の闇に目を凝らした。だが一瞬後にはどうしようもない、と開き直ったらしく、軽快に歩みを始めていた。
 しかしその三秒後。
「お、また罠だな、こりゃ」
 ディズが自分の足元にほんのりと魔法陣のようなものが浮かんでいるのを発見したようである。
「ほんとかー、大変だな、こ……」
 カチリ。
 白月が何か言いかけた時、その罠が作動する音がした。一瞬白月の身体が固まる。
「今、踏んだか?」
「ああ、踏んだな」
「わざと?」
「気にすんな。たまたまだ」
 のんきに話すディズからは、明らかに楽しんでいる風にしか見る事が出来ない。
「どうして、そう毎回罠を自分から踏んでいくんだあんたはってうぎゃああアアア!」
 白月の言葉は、途中から悲鳴に変わっていた。それと同時に全力疾走を開始する。
「お、またナイフか」
 ディズも身を屈めて器用に避けながら、のんびりと呟いた。
「うわあああまだ追っかけてくるよおおおお!」
「身を屈めれば簡単に避けれるみたいだぞ」
 叫びながら逃げ惑う白月に、口に手を当ててディズはアドバイスをしている。
 闇の中、彼等の後方からは白月の悲鳴にかき消されていたが、ばさ、ばさと羽音のような音が響いてきていた。



 ★ ★ ★



 ぽんっと瓶からコルクが抜けるような音がその部屋に響いた。
 ファーマは女性が起き上がる様子を手に頬を当てながら眺め、リーシェはただ驚きに、瞳を丸くしている。
「お加減はいかがです?」
 静かに寄ってきたファーマを見て、女性はひとつ頷いた。
「ええ。何だか先程までのだるさや寒さが嘘のように消えてます」
「ひとまず、治療薬としての効果は果たしているみたいですわね」
「そ、そんな訳ないだろ!」
 ひとつ頷いたファーマの後ろで、リーシェの震えた叫び声が上がった。彼女は驚きに身体を震わせながら、その起き上がった女性を指差した。
「だ、だって……――何か生えてる!」
「え?」
 女性が指を指されて振り返ったその視線の先、背中には。
 綺麗に着ている衣服を切り抜いて、どこかのアニメで見たような天使の羽が姿を見せていた。かなりのデフォルメサイズで、きゅるんと可憐で可愛らしい。
 だが、問題はそこでは無い。
 天使の羽は、彼等は持っていない。
「きゃああ!」
 叫び声を上げた女性に近寄り、その羽をリーシェは掴んでむんずと引っ張ろうとするが、勿論抜けない。
「いたっ! いたた痛いです王女様! ややや止めて下さい! ただでさえ王女様は怪力であらせられますのにこれ以上引っ張られたら背中の皮が剥けてしまいます!」
「もう少しの辛抱だ! 人間、我慢も大事だ!」
「いやだああああ!」
 リーシェと女性が叫びを上げているその横では、ファーマが何事か思案しているようであった。二人の騒ぎも耳に入っていない様子である。
「これは失敗なのかしら……。しかし、回復はされているようですし。きっと副作用ですわね。ひとまず、問題ないですわ」
 やっぱりここはタ○フ○を使った方が良いのかしら、でもそんな事では私の薬師としての名が廃りますわと呟きながら次の調合に入るファーマ。
 その場に横たわっていた他の女性は必死に心の中で、いやタ○フ○を使ってくれええ! と叫んでいるに違いない。
 ファーマの肩の上で、カエルに不思議な羽を付けた姿の不運なミヒャエル王子が、哀愁たっぷりに鳴いた。
 ケロローン。



 ★ ★ ★



「いて……」
 瓦礫の山が積みあがり、廃墟のようなその場からひとつ、呻き声が上がった。そして不意に瓦礫の一部が持ち上がり、ひょっこりと赤い頭が覗いた。ハンスである。
 掛け声と共に自分の周りの瓦礫の山をどかし、何とか這い出ると、周りからも、瓦礫が動かされ、それぞれの頭が覗き出していた。
「あたた……今日は何か俺についてるのか?」
 ぼそりと愚痴をこぼしながらレイドが這い出て、その隣からは頭に埃を盛大に被ったシュウ、そしてホーディスが這い出てくる。
「皆さん、お怪我はありませんか?」
「怪我なんてしねえが……それにしても随分荒っぽい書庫だな、ここは」
 シュウが頭の埃をはたき落としながら、ぼそりと呟いた。ホーディスはその言葉に、困ったように首を傾げる。
「生まれてから何回もこの書庫には足を踏み入れてますが、正直こんな罠は初めてです」
「案外、誰かの仕業だったりして。何か思い当たる事とかは?」
 ハンスも黒い服に浮かび上がった埃をばしばし叩いて落としている。
「うーん……心当たりがあり過ぎますねえ」
「あり過ぎるのかよ」
 思わずレイドがツッコミを入れた、その時だった。
 立ち上がった四人の耳に、またもやゴゴゴゴ、と何かが蠢く音が届いた。
「うわっ、またかよ!」
「今度は何だ?」
 思わず床に目をやる四人。
 だが次の瞬間、彼等の目の前に信じがたい光景が広がった。
「み、水?」
「そんなの一体どこから……」
 彼等の丁度前方から、どこからともなく大量の水が迫ってきたのだ。
 その水の流れは、丁度夜に見る川の濁流と似た、ぎらぎらとした光を持っていた。
 その勢いのある水が一気に迫り、四人は再び足を取られて流されていた。
「うわっ!」
「くそっ! 流れが速い!」
 立ち上がろうとするも、まるで意志を持ったかのような水に翻弄される四人。
 シュウとホーディスも流れに呑まれそうになっていたが、何とか流れの中から指を出し、顔を出して魔法を詠唱しようと試みていた。
『風よ、飛翔させよ』
 シュウの短いながらも力強い詠唱が響き、ホーディスが唯一自由になった手で魔法陣が描かれる。
 二人の魔法によって、瞬間に四人の身体はざば、と水から離れ、宙に浮かんでいた。
 水に流されながらも何とか掴む所を探していたレイドとハンスはしばらくその状況に、戸惑っていた。しかし、今浮かんでいることが、二人の魔法によるものだと分かり、ほうと安堵のため息をつく。
 水はそれでもごうごうと叫びをあげて流れ続けている。
「何なんだこの水は……」
 ハンスが水で濡れそぼった髪をかき上げつつ、呟いた。レイドも忌々しそうに服の袖を絞っている。
「本当にどんなつくりなんだろうな、一体。しかもあちこち水びたし……って何でそこの二人は一滴も濡れちゃいないんだ!」
 レイドが魔法使い二人を見て再びツッコミを入れた。シュウとホーディスはお互いの顔を見合い、そしてレイドとシュウの姿を見、思い出したかのようにああ、と呟いた。
「そうだった。忘れてた」
「ええ。すっかり忘れていました」
 二人は頷き、ホーディスが素早くすっと緑の魔法陣を描く。すると、ふわり、と風も無いのに衣服が持ち上がり、一瞬にして水気が吹き飛んでいた。
「はあ……やっと生き返った感じがする」
「確かに。それにしても、いつこの水は引くんだろう」
 ため息をついたレイドとハンスが下を見る。その場所は未だ水が溢れ出す、川のようであった。
 だが、そのぼやきが通じたのか、四人がしばし空中に退避している内に、その川の流れは徐々に収まり、やがてちょろちょろと小川が流れるかのようになっていた。
「……もう大丈夫なのか……?」
 シュウが用心深そうに魔力を探る。
「ひとまず、降りてみましょうか。いざとなったら、また飛翔すれば良いですし」
「そうだな」
 四人は頷きあう。二人が魔法を解除したようで、ふわりと衣服をはためかせながら、静かに四人は地に降り立った。警戒して辺りを見回すが、水かさが先程のように増える事は無さそうである。轟音が響く事も無い。
「ひとまず、大丈夫そう、だな」
「……進みましょうか」
 こうして再び四人は歩き出したのだが、彼らが歩みを始めてから数歩。再び歩みは止まっていた。
「……何か、いる」
 ハンスが腰の長剣に手を当てながら呟く。レイドも頷いて、背中の剣の柄を自然と握り締めていた。
「明らかに人間の類じゃないな」
「しかもやたら強い魔力を感じるな。こんな狭い所でか。面倒だな」
 シュウも杖をかざして、自然と目を細めていた。
 次の瞬間。
 ごおうううううん。
 書庫内に、物騒な叫びが轟いた。明らかに前方から聞こえてくる。
 そして、地響き。闇の中にまず、一対の青い瞳が現れ、そしてそれは大きな質量を伴って影として現われ、やがて完全に姿を現した。
「……トカゲか? 竜、か?」
 その姿は、二、三メートルの全長を持とうかと思われるトカゲのようであった。だが顔の部分に魚のひれのようなものがある。さらには、全身が薄っすらとした光を浴びてぬめりのような光を帯びているようであった。
 そのトカゲと思しき生物が、口を開く。そこにあったものに思わずホーディスが叫びを上げていた。
「あれは! 精霊の焔!」
 口の中にぽんわりと浮かぶのは、燭台ごと放り込まれた青い焔であった。よくよく見ると、身体の中で、茶色の焔が蠢いているようにも見える。
 その言葉を受けて、シュウが杖を身構えた。
「つー事は……あれを倒さなきゃいけないんだな?」
 風を切る音と共に、きらりと闇にふたつの銀の光が煌いた。

 ★

 ディズは恐ろしいほどの耳の良さを誇っている。
 だから、白月の悲鳴にかき消されていた羽音も勿論耳に届いていた。
「やべえ、何か来るぞ!」
 ディズの今までとは違う真剣な響きに、叫びを上げつつ罠から逃げ惑っていた白月も、さっと棍棒を構えて身を低くした。
 そして、闇からたくさんの羽音と共に、突如何かの集団が出現した。身構えていたディズは間髪入れずに蹴りを上空に出す。がつりという手ごたえと共に、何かが地に落ちていた。
「……烏、か……?」
 その姿は、闇に溶けた色でよく判別がつかなかったが、羽音と、何となくの形からして、鳥の集団であるように思われる。
 白月も、急降下してきた気配に向け、棍棒を慣れた手つきで振るっていく。ぼく、という音と共に何羽かが地に落ちていった。
「なあ、烏にしては、何かでかくねえ?」
「ああ、それはオレも思った」
 二人は澱みなく、隙なく動き、確実にその鳥をしとめながらも、首を傾げていた。
 確かに、明らかにその大きさは異常であった。だからこそ攻撃がよく当たるから良いと言っては良いのだが、それにしても大きすぎる。普通の烏の二、三倍はあろうかと言う程の大きさである。
 一瞬、ディズの前の闇に赤い色がほのめいたような気がした。
「他にも何かいるのか!」
 ディズが叫びつつ、そこに向かって間合いを取ろうとする。
 白月も、彼の前方だけでなく、奥にも気配がある事を読み取っていた。何とか攻撃の合間に振り向いた瞬間、微かに視界の縁に、ゆらりと緑の色が浮かび消えたのが映っていた。
「こっちにもいるみたいだぞ!」
「辺りは闇だから油断していたが、いつの間にか囲まれてたみてえだな」
 じりじりとお互いの距離を狭めていく二人。ちなみに、この期に及んでも、未だディズには緊張感と言うものが欠片もなさそうであった。あるのは、ただ、楽しそうな感情、のみ。
 どさ、本棚が揺れ、本が落ちる音と共に、二人は同時に動いていた。
 急降下してきた風を感じ、一気に白月はくるりと後ろへ跳躍して回った。そして着地と同時に半身を後ろへ捻り、棍棒を凄まじい速さで振り切る。
 ディズも、音でその敵との距離を正確に測りつつ、さっと身を屈めた。そして丁度敵との距離が真上で一致した瞬間、下から蹴りを入れた。
 猛烈な速さでそれらは対象にぶつかり、ぼくり、という嫌な音を立てる。
 その二羽が落ちる瞬間、同時にカラン……といったその場に似合わない音が響いていた。
「ん?」
 ディズはその音にいち早く反応し、残っている烏の残党を蹴り飛ばしながら、慎重に音の下へと近付いていた。
 そこには、頭をおかしな方向に捻った烏が二羽、倒れているようであった。彼がそこに目をやった瞬間、それらは一瞬にしてフィルムへと変じていく。
 そして。
「おい、これ、探している焔じゃないか?」
 そこには、精巧な彫りが施された小さな燭台と、その先に赤と、緑の焔が灯されていたものがあったのだ。倒れても消えないところや、他のものに燃え移らないところからして、おそらくそうなのだろう。
「確かにそれっぽいな」
 白月も覗きながら、驚きに目を丸くした。
「すげー、オレ達焔見つけちゃったよ! さっすがー!」
「だけどな……」
 ようやく烏の集団を倒しつくしたようで、気配が無くなる。白月は棍棒を一回振って納めると、冷静なツッコミを入れた。
「どうやって戻るんだ?」
 ディズは片手に燭台を二つ指の間に挟んで持ち、に、と笑う。
「ま、何とかなるんじゃね?」
「なんねえよっ!」
 仄かに薄暗いその空間に、ずびし、という鋭い音が飛んでいた。

 ★

 突如四人の前に現れたトカゲのような生物に向かい、ハンスとレイドの二人がほぼ同時に剣を振るった。
 薄い光に煌いた剣に反応してか、敵は俊敏な動きを見せて後ろに飛び退いていく。
「うわ、思ったよりも俊敏な奴だな」
 後ろでそれを見ていたシュウがぽつりと呟いて、そして不敵な表情で微笑んだ。
 あの巨大な生物に一人で対抗するのは、この暗い場所では中々大変なものがあるかもしれない。
 だがしかし、ここには四人もの強者が揃っている。恐れるものは、何も無い。
 巨大トカゲは、だん、と地を踏んだ。次の瞬間、ごぼり、という音と共に、トカゲを中心として、水が湧き出で、半径五メートル程に渦を巻く。
「さっきの水は、もしかしたらこれが原因か」
「へっ、そんな小細工なんぞ通用しねえんだよっ」
 シュウは何事かを口の中で唱えたかと思うと、ひとつ大きく跳躍した。
 そして、敵の目玉を狙って杖を振る。強大な魔法を使うと言う手もあったが、それを使ってしまうと、大事な書物が甚大な被害にあってしまう為、避けざるを得なかったのだ。
 だがそれでも、的確に振られた杖は敵の目玉を潰していた。
 ギャアア、と声を上げてそのトカゲは首を振った。軽やかにその首の動きから逃れてシュウは後方、水の渦の外へと飛び出る。
「私がお二人に飛翔の魔法をかけます!」
 ホーディスはそう言うと共に、空中に魔法陣を描いていた。
 軽くレイドとハンスが地を蹴ると、彼等の予想以上にふわり、と二人の身体は地に浮かんでいた。
「これは面白いな」
 ぼそりと呟いたハンスが、胴体の部分を狙って剣を振るっていた。敵の前足がそれを阻もうと大きく振り上げられる。だが一瞬後には、ざくりという音と共に、その前足が真っ直ぐに切り飛ばされていた。 
「よし、俺は首貰った!」
 レイドはそう叫ぶと、垂直にその幅が広い愛剣を構えていた。迫ってくる顎を避けて、一気に横に剣を振りぬいていく。
 ザンッ。鋭い音が書庫内に響く。
 そして、彼が再び渦の外に着地した時、横に滑るかのように、長い首の、真ん中辺りから上が、地面に落ちていた。
 同時に水も急激に退き、いつの間にか辺りから消えうせている。
「結構楽勝だったな」
 彼等の前に、巨大トカゲがどん、と地響きを立てて地に伏せていく。じわりとどす黒い血が染みのように広がっていた。
 そして一瞬後、カランという音と共に、ひとつのフィルムと、二つの燭台が地に落ちた。
「無事に見つかって助かりました。ありがとうございます」
 ホーディスは大切そうに二つの燭台を拾い上げた。今度は、その燭台も動き出す事無く、彼の掌の中でじっと収まっているようである。
「それにしても……」
 レイドが一回剣を振るってから、ぼそりと呟いた。
「これも、罠だったんかね?」
「確かに。俺達スイッチなんて、踏んだかな?」
 ハンスがポケットから煙草を取り出し、口に含んだ。カチリと小さな音と共に、ライターの火が点く。薄暗い闇に、仄かに白い煙が広がった。
「……おそらくそうだと思われます。とにかく後二つです。それにあの二人もなんとかして探さなければいけませんし。行きましょうか」
「あ? まあそうだな、行くか」
 にこりと微笑んだホーディスに促され、ハンスとレイドの二人は階段を探るべく、歩き始めた。
「……」
「? シュウさん?」
「あ、ああ今行く」
 シュウだけが、何事か考えるかのように、その場にじっと佇んでいた。ホーディスが声を掛けると、思い出したかのように足を動かしだす。
 そして燭台を大事そうに抱えながら歩くホーディスを、時折ちらりと盗み見ていた。



 ★ ★ ★



 その後、強い魔力を手がかりに四人が書庫を探っていくと、燭台をひとつずつ抱えた二人に無事(?)再会する事が出来た。ようやく合流した彼等は、相変わらず罠を踏みまくるディズのお陰で色々なものに振り回されながらも、なんとか地上の書庫まで戻ってくる事に成功した。
「うお、光が眩しい」
 レイドが手を瞼に当てて、目を細める。
「あー、楽しかった、な」
「俺はあんたのせいで、ひどい目にあったよ!」
「何だ白月。本当に罠に放り込まれたのか」
「ひでえ! 皆俺をいじめて楽しんでるんだー! 最低!」
 ディズがばしばしと白月の肩を叩き、白月がそれに言い返すと、シュウが明らかに面白がっている表情で、白月をつつく。ハンスはしばし困った表情で、彼らを眺めていた。
「……俺は一体どっちの味方になれば良いんだ……」
「気にすんな。こういうのはほっとくのが一番だ」
 ハンスを見やってレイドがからからと笑っている。
「さて、私はちょっと祭壇に戻ります。またすぐ戻ってきますが、この神殿は地下書庫以外自由に出入り出来ますので、よろしければどうぞごゆっくりしていって下さい」
 ホーディスはぺこりと頭を下げ、燭台を連れて颯爽と去っていった。
「……皆、どうするんだ?」
 ハンスが首を傾げた。シュウがひょいと肩を竦めて周りに円筒形の壁に沿って設置されている、本棚を見回す。
「オレはちょっとここに用事があるな。リーシェも気になるが」
「そう言えばそうだったな。ひとまずオレは彼女の所に行くよ。本当は演奏の依頼だったし」
「じゃあ俺も行こうかな。ちょっと気になるしな」
 そう話す五人の頭上からは、冬のか細いながらも柔らかい光が差し込んできていた。

 ★

「……」
「うわー、何か凄え楽しそうな事になってねえか?」
「この状況が楽しそうに見えるのか」
 結局、シュウ以外の五人が舞踊団の様子を見に行く事となり、部屋を幾つか巡ってようやく舞踊団の人達がいる部屋に辿り着いた。
 だが、彼らが目にしたのは、何とも言い難い光景であった。
 ひとまず原因不明(多分インフルエンザ)の病に侵されていた舞踊団の面々は、(トンデモ)薬師ファーマの調合した治療薬と栄養剤によって、動けるまでに回復したようではあった。
 しかし。
 彼らが今いる光景は、ファーマ達が最初にいたベッドの部屋ではなく、丁度練習に使われていたような、部屋の中央に物が少ない、すっきりとした部屋である。幾人もの踊り子達が、その場に集結しているようであった。
「あら、皆様。焔の方はいががでした?」
 部屋で満足そうに舞踊団の面々を見て回っていたファーマが五人に気付き、近付いて来た。
「ああ、とりあえず焔の方は大丈夫なんだが……」
「こちらも皆様すっかり回復されて。さすが普段から鍛えてらっしゃるだけありますわね」
「……うん」
 生暖かい返事を返して、白月はもう一度、部屋を見回した。
 そこには、舞踊団の面々が念入りにストレッチをしているようであった。たまに床に突っ伏した男性も混じったりしている。
 その彼等の背には、ほぼ全員可愛いデフォルメされた天使の羽がぴったりとくっついていた。 どの羽も、何故か衣服を突き破り、その存在を勝手に主張している。
 さらには、羽だけでなく、ぴょこりと犬の垂れ耳や、うさぎのロップイヤーの垂れ耳がついている人もいた。女性がそれを生やしているのは愛嬌があって可愛いし、甘酸っぱいのだが、やや鍛えられた体つきの男性がそれを生やしているのは、もはや甘酸っぱいを通り越して痛い事になっている。
 さぞかし彼等は男泣きした事であろう。

 強く生きるんだ、男達よ。

 ディズとファーマ以外の四人は、心の中で静かに合掌していた。
「ああ、皆、無事だったのか。良かった良かった」
 抜き身の剣を手にしているリーシェが、口の端を僅かに上げて近付いてきた。
「それにしてもあそこは恐ろしい所だな。半死になりそうだったぜ」
「そうか?」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
 全く大変そうでないディズに、周りの四人がため息をつく。
「まあ、あの場所はホーディスも良く分かっていない場所だからな。私もたまに手痛い目に遭う」
 リーシェが首を竦めてそのやりとりを見守る。そして思い出したかのように。ディズを見た。
「そういえば。ディズだっけ? 本当に手伝ってくれるのか?」
「ああ。明日のご飯をだしてくれるんだろ?」
「勿論だ。助かる……」
 ディズに強く頷いた彼女は、続いてレイドとハンスの二人が持つ剣に、ちらちらと目をやった。
「なあ、舞踊団の皆が助かったのは良いんだが、ちょっと差し障りのあるおまけがついた関係で、剣舞の人手が足りないんだ。良ければ、踊ってくれないか?」
 普通の踊りを踊るぶんには問題無いのかもしれないが、どうやら剣舞には羽とか耳とかがついているのは問題であるらしい。まあ確かにそうかもしれない。
 ハンスは眉を寄せながらしばし考えているようであった。
「……俺は別に構わないけど……」
 そう言ってからちらりとレイドを見やる。レイドはぶんぶんと首を横に振った。
「嫌だ。何の為にわざわざ逃げ出してきたんだと思ってるんだ」
「逃げ出し……?」
「何でもない、まあとにかく、踊りは絶対にお断りだからなって、言ってる傍から引きずってくなああ!」
「まあまあ、細かい事は気にしない。さ、打ち合わせをするぞ。ディズとハンスも来てくれ」
「細かくないから! 嫌だアアア!」
 ずるずるとリーシェに引き摺られていくレイドとを見ながら、白月はぼそりと呟いた。
「俺、剣使いじゃなくて良かった……」
「あら」
 隣にいたファーマが、その言葉に反応して、鞄の中からひとつの怪しげな色をした液体を取り出してきた。
「女性が中心となって踊る舞踊の方達も、人数が揃わなくていらっしゃるらしいですわ。これは性別を転換させる薬ですの。よろしければお試しになって下さいませ」
「! ……いや、遠慮しておく」
 ずさささっと顔色を変えて、白月はその場から五メートルくらい飛び退いていた。

 ★

 ホーディスが祭壇の用意していた台にそっと燭台を置いた時、後ろからひとつの足音が聞こえてきた。
「……シュウさん。どうされましたか?」
 そこに現れたのは、書庫にいる、と言っていた筈のシュウであった。
「なあ、ひとつ確かめたい事があるんだが」
「はあ」
 シュウの瞳がやや剣呑さを帯びる。
「さっきのトカゲみたいなやつ……あれは確実にこの城のものとは異なる魔力を帯びてたな。……あれも本当に罠なのか?」
 ホーディスはその言葉に、ゆっくりと首を巡らした。しばしの沈黙が訪れる。
「もともと地下にかけられている魔法は、既に発動しているものです。この神殿に掛けられている私の魔力とは違う性質も帯びているものも多い」
「……そうなのか?」
 シュウは眉を顰める。ホーディスはシュウを見る事無く、誰にともなく、まるで独り言のように呟いていた。
「もしかしたら、僕……いや、私は思い違いをしているのかもしれません。……あまりこの事を予測したくは無かったのですが……」
 その呟きは、うっそうとその部屋に反射していた。



 ――精霊祭当日――



 冬特有の澄んだ星空が広がる中、星砂海岸の一区画にて、規模はやや小さめなものの、華やかに精霊祭が執り行われていた。
 小さなテントでは、参加者に振舞われる甘酒に焼きたてのパン、ジャガイモがメインに使われたスープやシチューなどが湯気を立てていた。
 どうやらこの国に合わせた物を用意しようという魂胆らしいのだが、何とも微妙な組み合わせになっている。
 そして他にも、幾つかの夜店がこの精霊祭に乗じて出店している。そして中央付近に、ひとつ、大きなかがり火が焚かれ、それを円形状に囲んで小さな燭台が並んでいた。それには未だ火は点けられていない。
 がやがやと人の喧騒が騒ぐ中、意気揚々とその場を訪れたファーマは早速炊き出しのテントに並ぶ。
 のんびりと順番を待っていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。振り返るとそこには、シュウが並んでいたようであった。
「あら、シュウさまもいらしていたんですわね」
 丁度ファーマの後ろに並ぶ事に成功したシュウはああ、とひとつ頷いた。
「なあファーマ、良かったら一緒にメシ食わねえ?」
「それは構いませんが……あら、シュウさまも舞踊のお手伝いを?」
 ファーマはシュウの手に、弦楽器が握られているのに気がついた。丸みを帯びた不思議な形で、ギターよりも多くの弦が張られている。シュウはその楽器を持ち上げてみせた。
「ああ。これリュートって言うんだけどな、俺もこれが弾けるって言ったらやってくれって言われてさ」
「あら、素敵ですわね」
「あーさむっ。やっぱ冬は冷えるなあ」
 三列に並んでいる炊き出しの列の隣に、いつの間にか白月も並んでいた。
 彼は隣の二人に気がつくと、おおと笑みを浮かべる。
「二人もいたのか。皆来てるみたいだな。……そういや、あの人はどうなったんだ?」
 白月の疑問に、シュウは肩を竦めて、にや、と笑った。
「さあな。どうなる事やら」

 ★

「だぁから俺は嫌だって言ってるのに!」
 精霊祭が開かれている一角の目立たない隅に設置されているテントの一つで、未だに叫んでいる男がいた。
 レイドである。
 結局彼は今日も強引な双子に捕まり、舞踊団が待機しているテントに引き摺られる事となっていた。ちなみに、剣舞の方は前日にさりげなく完全にマスター済みである。
 もともと剣舞は、己の型が重要視されるので、さほど覚える事は少ないのである。
 ハンスも隣にいたが、彼はもともと依頼で来ていた事もあったので、大人しく渡された衣装に着替えていた。
 そのハンスの衣装をひと目見た途端、レイドの左目が一回り大きくなった。
 それで今の騒動に至っている訳である。
「なあ……俺もこれに着替えるのか……?」
 踊るのは嫌だと言ってるのに結局着替えの事を尋ねるのは性分と言ったところだろうか。彼の足元では、ケルベロスのヴェルガンダがそんな事尋ねるから巻き込まれるのに、と心で思っているらしく、完全に生暖かい視線をレイドに向けていた。
「勿論」
「……何か凄い身体の線を強調してないか、それ……?」
 その衣装は、不思議な幾何学模様が織り込まれたターバンを頭に巻き、さらに服にも時折ターバンの幾何学模様が織り込まれていた。
 丁度その人に合わせて作られているようで、身体の線にぴったりと沿っている。
 ちなみに男性の場合は、濃い赤を基調とした、高襟の、ノースリーブの上の衣装に、下は腰から赤い布地を足首の辺りまで垂らしている。動くとふわりと舞い、まさに踊り向きのようであった。 その布の下には、膝上までの、伸縮性のあるズボン、そして膝下からは細い布を足まで巻きつけている。靴はどうやらそれで代用するらしい。
 ハンスの姿は、その赤の髪とも相成って、鍛えた身体の線が流麗に映し出されていた。いやらしすぎない、絶妙なバランスでもって、独特な色気を醸し出している。
「ほら、これがレイドの分だ。昨日あの後大急ぎで作った」
 そう言ってリーシェは一揃いの衣装をレイドに押し付けた。ちなみにリーシェも既に衣装に着替えている。女性の場合もほぼ下は同じであったが、上が、首から胸の辺りまでの衣装で、へその部分が見えているのが違う部分であった。
「こんなオヤジに踊らせて楽しいか?」
「楽しいの問題じゃない。私だって逃げ出したい。でも、私達の踊りは、その場を清める役割がある。とくに刃物を用いる剣舞は重要だから」
 祭りとは言え、これは大事な儀式のひとつであるのだろう。
 レイドは自分用に誂えられた衣装を見て、ひとつため息をついた。

 ★

 舞踊団のテントの片隅で、ディズは炊き出しを大量に抱え込み、夕食に勤しんでいた。今日は統一性を出す為に、いつもの服では無く、演奏者専用の衣装に着替えている。こちらは舞踊団とは対照的な青の、どちらかと言うとゆったりめな服である。ホーディスが着ている神官服にも似ていて、高襟に長い裾、そして裾の奥にはストレートの長いズボンであった。結構な薄さがあるのだが、魔法を使用しているのであろう、寒さは感じない。
「ここ、良いか?」
 ディズと同じ衣装に着替えたシュウが、ひょっこりと炊き出しとリュートを持って現れた。
「ああ」
 ディズは湯気を立てているジャガイモのスープをよけて座る場所を作ってやる。シュウはその上にどっかりと座り込んだ。
「リーシェも誘ってやると思ったんだが、無理っぽいな、ありゃ。……それにしても、何だかんだ言って、無事に開催出来そうだな」
「ああ。これからが楽しみだぜ」
 ディズは軽快に頷いて、ちらりとシュウが持つリュートに目をやった。
 今日、演奏に使われる楽器は、多種多様なものが集まっていた。それが多種多様な人物が集まる、銀幕市らしいと言えば銀幕市らしい。
「本当に、どんな事になるんだろうな」
 シュウも微笑して、甘酒を一口、口に運んだ。



 ★ ★ ★



 ファーマが白月と、炊き出しを口に運びつつ、のんびりと会場を回っていると、不意に中央に設置されているかがり火から大きな火の粉が飛んで、ボッと音を立てて燭台に火を点けられていた。
「お?」
「もしかして、これから踊りが始まるのかもしれませんわ」
 二人は中央のかがり火に近付いていく。
 いつの間にか、かがり火から燭台までの間の場所に、人ひとりいなくなっていた。自然に移動したのか、はたまた魔法で移動させたのか、真偽は分からない。
 そして、次の瞬間、かがり火の周辺に、円を描くように青い衣装を纏った演奏者達が現れた。人々が一瞬どよめきの声をあげ、次いでそれは歓声に変わる。
 そしてさらに、一瞬にして彼らの外周に、女性の赤い衣装を纏った踊り子が現れた。
 地面にうずくまり、曲が始まるその時を静かに舞っているようである。ひっそりと背中に羽をつけ、何故か垂れ耳を生やしているのはご愛嬌だ。
 その姿を見てか、自然と、参加者の足もその中央へと向かっていた。
「あら、もしかしてあそこにいらしているのはディズさまとシュウさまかしたら?」
「うお、本当だ。何かこうして見ると、プロって感じだな」
「ええ」
 やがて、静けさを増した舞台の中から、悲哀のこもった弦の音が緩やかに湧き上がった。
 シュウのリュートと、ギターの音が静かに絡み合う。
 それと同時に、滑らかに踊り子達も動き出した。ふわり、と燭台の炎の勢いが静まっていく。
 やがてリュートとギターに、フルートに似た横笛が混ざり、一気にその場に戦慄が奔った。そしてディズのトランペット、さらにはサックスと言った現代の楽器も混じる。
 ディズがトランペットを吹いているからか、どこかジャズに似た、しかし異国情緒を漂わせる雰囲気の音が賑やかに零れ落ちていた。
 踊り子達の踊りも一気に激しさを増し、まるでその身体に神が降りてきたかのような動きを見せていた。艶やかに、衣装がはためく。
 そして、曲はディズのソロの場面に突入した。ぼわり、と音がして、一気に燭台の火の勢いが強くなる。
彼の吹くトランペットに合わせて、踊り子たちの動きも滑らかに、シンプルながらもどこか心を動かすような、そんな動きに変わっていく。
 彼の今までの陽気な演奏はやや鳴りを顰め、今は踊りを盛り上げながらも、どこか悲哀に満ちた音で満たしていた。どこか繊細さを持ち合わせた、それでいて澄み切った空気のように凛とした音の響き。
 その音のせいなのか、それともその場の空気のせいなのか、いつの間にか、意図せず、観客達の眦から一筋の涙が零れ落ちてきていた。そこには哀しみも憎しみも無い、ただ透明な感情があるのみで。
 ファーマも、そして白月も、眦からは一筋の雫が零れ落ちていた。
 それをそっと拭い、彼等は静かに微笑んで。
 ディズがソロを終え、トランペットを掲げて一礼して元の演奏に戻る。踊り子達の後方で演奏しているのにも関わらず、観客達からは盛大な拍手が湧き上がる。
 やがて再びリュートの静かな音色のみになり、哀愁がこもった音が響いていった。
 踊り子達の踊りも、ゆったりとした、終盤に差し掛かる踊りとなる。
 そして、ぽろん、とひとつ弦をつまびいて、踊りは終焉を迎えていた。

 ★

 踊りが終わると、演奏者の一部と、踊り子達がふいと消え失せていた。次の剣舞では出番が無いのか、ディズとシュウの姿も同時に消えていく。
 そして今度は、音も無く四人の剣舞者達が現れた。赤の衣装を身に纏い、手にはそれぞれが愛用する剣を持ち、厳かにその場に跪いている。
「結局レイドさまも踊る事になったんですわね」
「……ご愁傷様」
 二人が生暖かく見守る視線の先には、諦めた顔つきで、その場に跪くレイドの姿であった。オヤジだから嫌だとか言いつつ、結局身に纏った衣装は、何だかんだ言っても、鍛えられている身体に流麗に映えていた。
 今度は、先程の異国情緒漂った流麗な演奏と違い、太鼓の響きで始まる、何とも固い演奏であった。ぴしりとその場の空気が一気に引き締められる。
 太鼓の音に合わせて、四人が静かに動き出した。
 ハンスがその剣を掲げ、持ち前のしなやかさで、流麗に動く。
 リーシェもいつも受ける漢な印象からは真逆の、艶やかな印象の動きを見せていた。
 レイドも、二人とはまた違う、深みを帯びた動きで、ゆったりと舞っている。
 彼等の剣舞は、神がかっていた先程の踊りとは違い、独自の個性を存分に発揮した、力強いものであった。独特の、ゆったりとした動きが、不思議ながらも、しかしぴりりと場の雰囲気を一気に清めていく。
 途中、ハンスとレイドの剣がキン、と澄み切った鋭い音を立てて打ち合っていた。二人の剣舞は、戦うかのような強さを持ちながらも、どこか引き離すような冷たさをも持ち、見るものを引き込んでいく。
 無駄の無い、二人の動き。
 太鼓と笛のみの、静かなる空間。
 緊張感のある一瞬が、そこには描かれていた。



 ★ ★ ★



 踊りが終わると、不意に波打ち際の小さなテントの前に、ホーディスが現れた。と同時に、そのテントに、揺らり、と四色の炎が揺れる。
 ついに精霊祭のメインイベント、燈籠流しが始まったのであった。
 その炎につられて、中央付近に集まっていた参加者達が、ぞろぞろと移動を始めていた。
 ファーマはそれを見て、ゆっくりと立ち上がる。
「折角ですから、ホーディスさまにご挨拶して参りましょうか。ハクヅキさまはどう致しますか?」
 その時、白月はある一点をじっと見つめていた。ファーマに声を掛けられ、ゆっくりと首を巡らすと、ああ、と頷く。
「ちょっと見る所が出来たから、先に行っててくれ」
「分かりましたわ」
 ファーマが観客達の波に呑まれて行くのを静かに見届けると、白月はゆっくりと反対方向に動き出した。
 丁度砂浜と道路で分断される境目の近くまで歩くと、そっと近くにある物陰に姿を隠した。
 彼が様子を伺う先には、二人の青年が並んで立っていた。街灯の光だけな為、やや暗めで判別がつきにくいが、ひとりは腰に長剣を帯びた、がっしりとした青年、もうひとりは、ほっそりとした身体つきの青年であった。
 彼はたまたま二人が踊りの時から、同じ場所に立ち尽くしているので、何をしているのか気になり、興味本位で様子を伺いに来たのだが、近くまで来て、ある事に気がついた。
 思わずハッと息を呑みそうになる。
 気配が驚くほど、似ている人を知っていたのだ。
 だが、彼は――。
「いよいよ燈籠流しか。懐かしい光景が広がるな」
 ほっそりとした青年が、しずかに笑んで呟く。長剣を提げた青年も、ひとつ頷いた。
 街灯に二人の髪がひっそりと照らされる。 
 その色は、金。
「良いのですか? 何もなさらなくて」
 がっしりとした身体つきの青年が、剣呑な言葉を発した。だが小柄な青年は、静かに首を横に振る。
「ああ。あいつらも何だかんだ言って強さはある。今出て行くのは得策ではない」
 そう言って、彼はふと、笑んでいた。
「――あいつと僕と。どちらが生き残るか、狡猾な知恵比べといったところか。さあ行こう。これ以上、ここに用はない」
「……は」
 そして、静かに二人はその場を去っていった。立ち去り間際にひっそりと覗いた、彼らの眼の色は、美しい青の色であった。

 ★

「お疲れ様ですね、ホーディスさま」
 ファーマはにこにこと精霊の焔を参加者達の持つ燈籠――灯籠とも言うが、に移していくホーディスに声を掛けた。先程からホーディスの鎖骨の刺青がひっきりなしに光りを浮かべ続けている。
「ファーマさん、来てくださったんですね。よろしければあなたもいかがですか?」
 ホーディスに燈籠を差し出され、ファーマはやや戸惑いの表情を見せた。
「あら……でも、わたくしが受け取っても、宜しいのですか?」
 ファーマはやや戸惑いながらそれを受け取る。ホーディスは笑んで頷いた。
「もともと精霊に感謝の気持ちを示す為のお祭りですから。ファーマさんは薬師でいらっしゃいますし、地に関係のあるこちらの焔などいかがですか?」
「はい……」
 ホーディスは、そっとファーマの燈籠に、茶色の焔を移した。ぽうと、柔らかな灯りが点る。
「波打ち際にそっと置くだけで大丈夫ですので」
「はい」
 ファーマは、波打ち際まで歩くと、そっと燈籠を波に浮かべた。するとそれは、こちらに打ち寄せてくる波に反して、すいと奥へと進んでいく。
「まあ……綺麗……」
 既に海の向こうには、四色の焔がさまざまに燈籠を照らし、浮かび上がっていた。
 明かりの無い、夜の海に、ぼうやりと幻想的な光景が広がっていく。
 彼女の隣では、それをゆっくり眺めている人、何故か地に突っ伏して号泣している人など、様々な感情を持った人々が並んでそれを見守っていた。

 ★

 踊りを終え、着替えの済んだレイドも、手に燈籠を抱えていた。その色は赤。
 暖かな色が、燈籠を柔らかに照らし出す。
 彼は無言で、そっとそれを海の水に乗せていた。燈籠はすい、すいと進み、やがて奥に浮かぶ沢山の焔達と混ざろうとして。
 それをじっと見守っていた彼は思わず眼を見開いた。
 ――噂には聞いていたが、まさかそれは本当だとは。
 胸の中にそんな思いが湧き上がる。
 そこには、かつての彼の恩師であった、老人の姿がぼうやりと浮かんでいた。ただ口元に穏やかな笑みを浮かべた、あの時のままの姿のあの人が。
 彼の心は、懐かしい、そんな想いで一杯になる。
 あの時、自分を助け、生きる術を教えてくれた、かけがえのない、かけがえのない人。
 ――あの人がいてくれて、俺は幸せを知る事が出来た。
 レイドは、ゆっくりとその想いを噛み締め、静かに呟いていた。
「じいさん……アンタに出会えて、俺は幸せだったよ。俺はアンタに、かけがえのない大切なものを貰った」
 そして、ふ、と微笑した。
 脳裏に浮かぶは、あの、相棒の姿。
「……今度は、俺がアイツを幸せにする番だ」
 その言葉を聞いてか聞かずか、ゆっくりと老人の姿は闇に拡散していった。

 ★

 ハンスは、手に燈籠を持ったまま、その幻想的な光景を静かに見ていた。一旦煙草を手に持って煙を吐き、再びくわえると、静かに自らの赤い灯を放つ燈籠を波打ち際に下ろす。
 ゆっくり、ゆっくりと進んでいく燈籠。それをぼうやりと目で追っていたから、初めはその幻影に気がつかなかった。
 ゆっくりとその幻影に目を移し、そして彼はそこに浮かび上がっていた人物に、思わず煙草をぽろりと口から落としていた。
「……母さん」
 そこには、優しげな風貌に赤い髪を持った、紛れも無い彼の母親の幻影が浮かんでいた。いつも彼に浮かべてくれる微笑を浮かべ、ただただ、たゆたっている。
 懐かしさと、寂しさと、悔しさと。幾つもの感情が彼の胸に去来した。
 その幾つもの想いに締め付けられ、しばし言葉も発する事が出来なかったが、やがて、ぽつりとひとり、呟いていた。
「……あの時俺は子供で、何も出来ずに母さんを見殺しにしてしまった……凄く後悔しているんだ……。だからハンターになった」
 かつて共に過ごした、優しい記憶が呼び起こされる。
「ハンターになって、色んな事があるけど……俺は自分にとって良い人生を送れているから。だから……感謝してるんだ、俺がちゃんと望まれて生まれてきたんだって事に」
 幻影に浮かぶ、彼の母の笑みは変わることが無かったが、彼には苦笑しているように見て取れた。
 ハンスはひとつ下を向く。
「……そりゃ……父さんにも……感謝しないとかもしれないけど……」
 そう呟いて、再び顔を上げた先には、既に幻影は消えて、ただ焔が浮かぶ、幻想的な光景の海が見えるだけであった。

 ★

 後から遅れて行った白月も、しっかりとその手に燈籠を抱えていた。
 そっとそれを降ろし、海を行く、その青の燈籠をじ、と見つめている。
 幾つもの燈籠を見ながら、彼の心には、昔、自分の心の闇で死なせてしまった、親友の事を思い出していた。
 丁度彼がその事を思い出していたせいなのか、不意に、目の前の闇が、暖かな光を持ったかのように見えた。
 そしてその一瞬後、彼の目に、信じ難い光景が広がっていた。
 そこには、彼の親友が、ぼうやりと幻影となって浮かんでいたのだ。
 あの時、共に過ごしたその笑いを彼は浮かべている。
 その笑みに、懐かしいな、と思うと同時に、忘れることの無い、罪悪感をも思い起こしていた。
「……ごめん」
 ――ただ、ただ、謝りたかった。
 あの時、自分の心があんなにも弱くなければ。
 自分はかけがえのない、大切な人を殺さずに済んだのに。
 彼の命を奪ったのは、自分なのだ――。
「絶対、忘れねえ。お前の事も、俺の罪も」
 じっと見つめるその前で、ゆっくりと白月の親友は、闇に溶けていっていた。

 ★

 ディズは、興味深そうに燈籠を見下ろしながら、波打ち際を歩いていた。幾つもの波が寄せては返し、寄せては返す。
 彼はそっとその青い焔が浮かぶ燈籠を置いた。すいすいと進んでいく燈籠を、不思議そうに見つめる。
 その燈籠は、他の焔と混ざって――。
 彼はそこに、不思議な幻影を見た。
 そこには、かつて彼に音楽というものをくれた、旅の楽師の姿があった。
 しばしディズは瞳を瞬かせたが、その幻影が浮かんでいる意味を一瞬にして悟る。
 ――精霊のいたずらか、時折、自分に深い縁のある故人の姿が浮かび上がることがあるんだ。
 神殿で聞いた言葉が脳裏に甦り。そして愕然となった。
 彼は。彼は死んでしまったのだ。
 旅人は、ディズに向けてくれていたあの優しい笑みを浮かべている。
 別れ際に、今自分が握っているトランペットを渡したまま。
 また会えたら、この音色を聞いて貰いたかったのに。
 沢山、お礼を言うつもりだったのに。
 それさえも叶わぬまま。
 彼の心の中に、すっぽりと虚無感が溢れたかと思うと、次の瞬間には猛烈な感情が渦巻いていた。何とか言葉を総動員して、必死に思いを叫ぶ。
「生きている内に、オレの演奏を聴いてもらいたかった……、この楽器の限界を超えた音色を聴かせてやりたかったのに……!」
 ぽつり、と砂浜に一粒の雫。
「……どうしてアンタは死んじまったんだ……まだ、沢山言いたい事あったのに……!」
 そして、苦く、ディズは笑った。
「アンタがいなけりゃ、オレは音楽に出会えなかったかも知れない……」

 ありがとう――。

 淡い幻影は、ゆっくりと融けていく。

 ★

 シュウは、緑の焔がゆらめく燈籠を手にしながら、目の前に広がる光景をゆっくりと眺めていた。沢山の人の声は聞こえるのに、不思議な静けさに満ちたその場。
 彼はそっと燈籠を浮かべた。
 ゆうらりと波に逆らって進むその燈籠には、どうやら魔法が仕掛けられているようだ、とひっそり笑む。
「縁の深い、亡き人か……」
 そう呟いたシュウの前に、二人の幻影が浮かんでいた。
 ひとりは長く伸ばした黒髪に金の瞳の男性、そしてもう一人が、ふんわりとした赤い巻き毛を持つ、藍色の瞳の女性だ。とある帝国の皇帝とその妻で、二人とも彼の友人であった。 
 久しぶりの邂逅に胸が知らず熱くなる。
 彼らの娘をふと思い浮かべ、やはりそっくりだ、と思う。
 懐かしい、その笑みと、雰囲気を前に、シュウは珍しく、柔らかな笑みを見せた。そしてひっそりと呟く。
「……久しぶりだな。いざ、目にすると、何を言っていいのか……まあ、娘はしっかり面倒見てやるから、心配すんな。……ゆっくり、休んでくれ」
 そう言うと、何となく、二人の笑みが深くなったような、気がした。
 そして、二人の幻影は、そっと、波間に消えていった。

 ★

 ざざざ。ざざざ。

 静かに波打ち際に、寄せては返って行く波。
 目の前に広がる、ふうわりと幾つもの焔が漂う光景を見ながら、ホーディスは、ひとつ笑んでいた。
 彼の前には、誰もいない。否、見えないと言うべきか。それは彼にだけ、見えているのであろうか。
「……今思うと、あなたの言葉にどれだけの深みがあったのか思い知らされます。私はあの時、次々に起こる事に必死で、真相を追究することが出来なかった……。……あなたは一体、どうして死んでしまったのでしょうか……? そして……」
 その呟きは、幾つものざわめきの中に静かに消えていっていた。

 ざざざざ。ざざざざ。

 波は静かに寄せては返す。


 ――幾重もの想いを飲み込んで。
 


クリエイターコメントお待たせ致しました。ノベルをお届けさせて頂きます。

皆様のお陰で、どうやら無事精霊祭を開催するに至ったようです。ありがとうございました。
少しでも、大切な方へ、想いが届きます事をお祈りしております。

今回、前半はコメディ、後半はしっとりシリアスで纏めてみました。もっとギャグっぽくしてみたかったのですが……うーん。。。。

それでは、ご参加、ありがとうございました。
またいつか、銀幕市のどこかでお会いできる事を祈って。
公開日時2008-01-09(水) 18:20
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