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<ノベル>
1.不思議な扉から
その日、ディーファ・クァイエルの家には友人である李白月が遊びに来ていた。
ハピネスというケーキ・ショップで働いている白月が、店長から借りてきたという分厚い製菓図鑑を持ってきたので、それをふたりで眺めながら、あれもいいこれもいい、こんなのも美味しそうだという話に花を咲かせていた。
分厚く大きな本は、有名な製菓専門学校の校長が、フランスの有名パティシエとともに作ったものであるらしく、写真の一枚一枚、説明の一言一句が新鮮で美しく、そしてリアルだ。
良質のバター、玉子、小麦粉に砂糖、生地をしっとりさせるためのほんの少しの蜂蜜、色とりどりの果物、滑らかな口当たりのクリーム、香ばしいナッツ、深いコクのチョコレート、ふわりと香る洋酒の数々。
見ているだけで楽しくなり、手にし口にすれば幸せになれるのは、菓子という存在が持つ偉大な功績だと言えるだろう。
しかし、そうすると、当然、実物にお目にかかりたくなるのが人情というものだ。
白月はハピネスでは製菓にも携わっているから材料や道具さえあれば不可能ではないし、自分で手作りすると百倍美味いと彼に言われて、ディーファもすっかりその気になったのだが、――問題がひとつ。
「ああ、でも、材料がほとんどないんです」
冷蔵庫や戸棚を調べ、ディーファが残念そうに俯いた。
「グラニュー糖に粉砂糖、シロップ、コアントローくらいしか」
一緒に冷蔵庫を覗き込んで白月が唸る。
「そんだけじゃやたらと甘いカクテルくらいしか出来ないもんな。買いに行く……しかないだろうけど、やっぱ、作るからにはいいものを使いたいし」
「そうですね。どこのお店が一番いいんでしょう」
「うーん、うちの店が材料を仕入れてる問屋は一般客お断りだしなぁ」
「おや……何の話かな」
そこへ現れたのはこの家――実際には、カフェとダイニングを兼任したバーと、スタッフ・ルームの一室というべきか――の主たる悪魔の男だ。
彼は博識で強大な力を持つ悪魔だ、彼ならばいい案を示してくれるに違いない、と、ディーファは主人に助言を求めることにした。
「あ、はい、実は……」
ディーファにとっては主人であるのと同時に恩人でもある彼は、ディーファの説明を丁寧に聞いたあと、目を細めてふたりを見つめた。
「なるほど、それでお前たちは何を作りたいのかな?」
「ええと、あの、ショートケーキです」
「ショートケーキ?」
「はい」
「それは、イギリスの伝統菓子? それとも、この国にだけある“ショートケーキ”かな?」
そもそもショートケーキとは、イギリスのショート・ブレッドにクリームや果物をはさんだ菓子のことを言った。それがアメリカを経由して日本に伝わり、いわゆるスポンジケーキを下地としたものに変化して落ち着いたのが日本のショートケーキなのだ。
だから、菓子の本場・フランスに、日本のショートケーキは存在しない。
悪魔がわざわざ問うて来たのはそれゆえだろうが、無論、彼らが作りたいのは後者である。
「あの、この国にだけある方です」
ディーファが言うと、悪魔は愉快そうにくすりと笑った。
「フォレ・ノワールでもオペラでもシャルロット・オ・ポワールでもビスキュイ・ド・サヴォワでもミルフーユでもピティヴィエでもピュイ・ダムールでもシュー・ア・ラ・クレームでもパリブレストでもウ・ア・ラ・ネージュでもなく、ショートケーキなのだな?」
すらすらと菓子事典を諳(そら)んじるように様々なスイーツの名を挙げ、数あるフランス菓子を脇に避けてショートケーキを選ぶのかと確認してくる悪魔に、白月は首をかしげ、ディーファは大きく頷いた。
「確かにとてもシンプルなケーキではありますが、素材のよさが一番よく味わえるのではないかと思うのです」
「まぁ、それに、シンプルだからって簡単ってわけでもないよな。スポンジケーキって、正直結構手間だし。だからこそやり甲斐があるし、達成感もあるんじゃねぇの?」
「そうですね、白月さんの仰るとおりです」
その達成感を味わってみたいのだと微笑むディーファに、
「そうか、ならば私も多少なりと手伝いをしようか」
笑った悪魔が指をぱちんと鳴らすと、唐突にふたりの前に大きな扉が現れた。
ゴシック調とロココ調の合間のような、華麗で華美でいて荘厳で壮麗な、かなりの長身に位置する悪魔ですら背を屈めることなく潜り抜けられそうな大きな扉だった。
扉は自らかすかに光を放っており、また、ドアの向こう側から何か音が聞こえて来る。
「うわ、なんだこれ」
「あの……?」
不思議そうに見上げるディーファに、悪魔は目を細めて笑った。
「この扉の先に広がる世界は、お前たちが材料を求めるのにちょうどいい場所だ。……ゆっくり探しておいで」
ディーファは、こういうとき、主人が偽りを言わないことを知っている。
そしてこの悪魔は、こういう場合、大抵において詳しいことは教えてくれないので、一体どんな世界が待っているのかは判らないが、あの扉を行けば、結果的にはほしいものはすべて揃うことになるのだろう。
だからディーファは嬉しげに微笑み、ありがとうございます、と言った。
「では、行って参ります」
「ああ、気をつけて」
「……はい。じゃあ白月さん、行きましょう」
「ん、ああ」
静かに笑う悪魔に見送られ、ふたりは大きな扉をくぐる。
ふわりとした浮遊感と、漂ってくる甘い香りに、ディーファはまた微笑んだ。
何か、とても楽しいことが待っているような気がしたからだ。
2.朝の世界【パストラル】
目を開けるとそこは大平原だった。
視界の一面が、どこまでもどこまでも続く緑の海と、目に痛いくらい鮮やかな青空が広がる、切なくなるほど美しい光景で埋め尽くされていた。
純白の雲と蒼穹とのコントラストが眩しい。
空気はきりりと澄んで清浄で、この世界が今、早朝なのだということを教えてくれる。
「綺麗なとこだな……」
周囲をぐるりと見渡した白月がつぶやき、ディーファは言葉なく頷く。
特にディーファは滅び行く世界を描いた映画から実体化したムービースターだ、こういう、プリミティヴな、人間の魂の奥底に訴えかけてくるような情景とは無縁だったし、また、銀幕市に実体化して様々な経験を重ねた今でも、あまり慣れてはいない。
だからこの風景は、ディーファにはまるで奇跡のように思えた。
彼の今の主人である悪魔が、彼に日々見せてくれるたくさんのものと同等に。
「……ええ、本当に」
瑞々しい、青い匂いを含んだ風を胸いっぱいに吸い込み、ディーファは微笑む。
実体化した当初はあまり感情を持たず、理解せず、人形のようだったディーファも、個性豊かな銀幕市民たちのお陰で、今では、浮かべようと思って浮かべるのではない、心の底からの、美しい、自然で可憐な微笑を浮かべることが出来るようになった。
彼のその微笑を愛するものは少なくなく、白月もまたディーファが微笑んだのを見て笑顔になった。
「よし、じゃあ、ちょっと探してみるか。あの人の言うことなら間違いないんだろ?」
「はい、きっと素敵な材料が手に入ると思います。でも、何があるんでしょうね、この世界には」
「さあなぁ。――……お」
「どうしました、白月さん」
「ん、あっちの方から、何か大きな生き物が立てる音がしたような気がするんだ。何かの鳴き声だったかもしれない。行ってみようぜ」
白月が指し示すまま、一面の緑に覆われた平原を歩くこと数分。
小高い丘を越え、下方を見下ろして、ディーファは目を見開いた。
「……すごい」
「ああ、なるほど」
同じ光景を見て、白月がポンと手を打つ。
「これなら、生クリームとバターが手に入るな」
白月の言葉にディーファは瞬きをし、じきに深く納得した風情でうなずいた。
「じゃあ……お願いしに行かないと」
「だな」
顔を見合わせたあと、なだらかな緑の丘をゆっくりと下り始めるふたりの視線の先には、何百頭もの牛の姿がある。
大きなぶち模様のある、白と黒の、スタンダードな牛もいれば、何故か、白地に鮮やかなオレンジで花柄の入った牛や、白地に苺柄の牛、黒地にソフトクリームを思わせる渦巻き模様の入った牛もいる。
牛たちに共通しているのは、そのどれもが雌で、そのどれもが子持ちであることだった。
赤い首輪に大きなベルをつけ、大きな乳房を持った母牛たちの周囲を、色とりどりの模様を持った仔牛たちが駆け回り、または乳を吸い、または草を食んでいる。
牧歌的な、のどかな光景だった。
「牧場、なのかな、ここは。それにしちゃ、牧人がいないけど」
体裁は確かに牧場なのだが、ぐるり見渡してもヒトの姿はない。
「そうですね。誰にお願いして分けてもらえばいいんでしょう」
と、ディーファが小首を傾げるとほぼ同時に、ふたりに気づいたのだろう、母牛たちが一斉にこちらを向いた。
「どうなさったの、お客人?」
白地に苺柄の入った母牛が口を開いた。
銀幕市という不思議な場所で生きている昨今、動物が喋ったところで驚くようなことでもなく、ふたりは手早く事情を説明し、牛乳を分けて欲しいとお願いした。
「あら、それなら」
苺牛が口の端を持ち上げる。
微笑んだか、優しく笑った、という状態のようだ。
愛嬌のある表情だった。
「わたしたちのお手伝いをしてくださるのなら、差し上げてもいいわよ。ねえ、皆?」
苺牛の言葉に、周囲の母牛たちが頷く。
苺牛がディーファと白月に向かって器用にウィンクをした。
「ね?」
ディーファが目を輝かせ、白月は肩をすくめて笑う。
「それで、何を手伝えばいい? まぁ、力仕事くらいなら任せてくれよ、慣れてるから」
白月が言うと、苺牛は他の母牛たちと顔を見合わせ、そして、
「じゃあ……子守をお願いしようかしら。わたしたち、ゆっくり朝食を摂りたいから、その間、あの子たちと遊んでやってくださる?」
色とりどりの仔牛たちを、蹄でもって、器用に呼び寄せた。
「おいで、ぼうやたち。このお兄さんたちが、遊んでくださるのですって」
その途端、
「ほんと!?」
「やったあ!」
「遊ぼう遊ぼう!」
「なにする?」
「おいかけっこしよう!」
「かくれんぼは?」
「プロレスごっこも!」
「秘密の場所、おしえてあげる!」
あちこちから可愛らしい歓声が上がり、すわ地震か、というような地響きとともに、百を超える色とりどりの仔牛たちが、ふたり目がけて突進してきた。緑豊かな草地だったので砂埃が、ということはなかったが、地面が盛大に揺れた辺りから、その規模の大きさが知れるだろう。
事実、あまりの数にディーファは目を丸くしたし、白月はほんの少し顔を引き攣らせてしまった。これだけの数をふたりで、となると、子守というレベルではない気がするが、引き受けてしまったからには仕方がない。
「……よし、やるか」
「はい」
ふたり、腕まくりの仕草で、仔牛たちと向き合う。
つぶらな、純真な目が、一斉に彼らを見上げた。
子守は子守というよりもバトルだった。
「待て待て待てっ、ハクのおじちゃああああんっ!」
「待てそこは聞き捨てならん俺はおじちゃんじゃねぇハクのおにいちゃんって呼べえええええっ!」
「あ、そうなんだっ。じゃあ、待て待てっ、ハクのおじにいちゃあああああぁんっ!」
「って、オ――――イッ!? 何かめちゃくちゃ混ざってるじゃねぇかっ!? 何だよそのおじにいちゃんって! どっちなんだかはっきりしろよ! っつか『じ』が多いんだよ、『に』だけでいいんだっつの!」
「えー、難しいなあもうっ! じゃあ、待て待て待てっ、ハクのおばちゃあああああああんんんっ!!」
「今度はなんか性別変わってるだろうが――――ッ!?」
歓声だか怒声だか怒号だか悲鳴だか判らない声が賑やかに巻き起こる中、母牛たちが隅っこで食事をする大平原のど真ん中を、物凄い勢いで駆け抜けてゆくのは白月だ。
その背を、数十頭の仔牛たちが物凄い勢いで追いかけている。
その大半は雄の仔牛だ。
なんだかよく判らないが肉体労働係を受け持ってしまった彼は、仔牛たちとかくれんぼをしてからプロレスごっこに興じ、いかに仔牛とはいっても最大で百kg前後の重さのある彼らに次々のしかかられて――悪気があるわけではないので邪険にも出来ず――ちょっぴり彼岸を見かけたり、秘密基地と称して底なし沼に案内され(仔牛たちは沈むことなく楽しげに遊んでいたが)、どんだけ危険な遊び場だと全身全霊で突っ込んだりした。
そして今は、奇妙な呼称を量産されながらおいかけっこに汗を流している。
結構な質量を持った仔牛たちに全力で激突されると、それほどウェイトがあるわけではない白月など軽々と吹っ飛ぶので(というか、普通は死ぬ)、ほのぼのしているようでいて決して侮れない遊びである。
ある意味戦いと言って過言ではない。
「こ、子どもって……なんでこんなに元気なんだ……!」
かくいう白月とてまだ二十歳、完全に子どもの域を脱したとは言い切れない年頃だが、それでも、人間年齢でいうところの十歳前後の子どもというのは、底なしのエネルギーを秘めた塊だと思う。
汗だくになって仔牛たちと駆け回る白月とは違い、ディーファは、雌の仔牛たちに歌やお話を聞かせていた。
「ディーファおにいちゃんは、おうたがとってもじょうずね。すてきだわ」
「え、あ、その」
「わたし、おにいちゃんのおうた、だいすきよ」
「――……うん、ありがとう……」
あちこちで聞いたたくさんの歌や、メロディや、様々な物語を、仔牛たちはうっとりと聞き、また笑ったり哀しんだりはらはらしたりして楽しみ、その紡ぎ手であるディーファに惜しみのない、率直で真っ直ぐな賞賛と憧れの眼差しとを向けた。
そんな風に褒められたり扱われたりした経験の少ないディーファは、友人の家で頭を撫でられたときのように真っ赤になり、けれど仔牛たちが喜んでくれたことがとても嬉しくて、にこにこと笑った。
「おにいちゃんのおうたを聞いていると、いろいろな風景があたまに浮かぶの」
「海や、鳥や、風の声がほんとうに聞こえるみたいだわ。素敵ね」
「そう、かな?」
「そうよ、素敵なことよ。わたし、とっても嬉しい」
「……僕も、そう言ってもらえると、嬉しい」
照れて頬を赤らめるディーファは、大層愛らしい。
それを見て、おしゃまな仔牛たちは顔を見合わせてくすくすと笑い、
「おにいちゃんは、おにいちゃんなのに可愛いわね」
そんなことを言っては、またディーファを赤面させた。
――子守が始まって、二時間ほど経った辺りだろうか。
仔牛たちがようやく少し疲れた頃になって、母牛たちが、非常にゆっくりとした食事を終えた。
「ありがとう、ふたりとも。ゆっくりとお食事させていただいて」
にこにこ笑った(と思われる)苺牛が、同じ柄をした二頭の仔牛を呼び寄せながら頭を下げる。
「い、いや……うん、お役に立てたなら、さ、幸いだぜ……」
「白月さん、大丈夫ですか? すごい汗ですよ?」
「正直、師匠にブッ倒れるまでしごかれた時並に疲れた……」
「仔牛さんたち、元気でしたもんね」
「ああ、うん。まぁ……それで牛乳がもらえるんなら、仕方ねぇよな」
「はい、そうですね」
ふたりが顔を見合わせて笑うと、どこからともなくガラスのビンが現れた。一リットルほどの液体が入りそうなそれが三本ばかり、陽光を受けてきらりと輝いている。
「じゃあ、牛乳搾らせてもらって、バターと生クリーム、作ろうか」
「はい。遠心分離機は多分、用意できると思います」
「あら? おふたりは、牛乳をそのまま使うのではなくて、バターと生クリームが必要なの?」
「え、あ、はい。あの……ケーキを作りたくて、その材料に」
首を傾げた苺牛の問いにディーファが答えると、
「それなら」
彼女は、白地に長方形のぶち模様が入った牛と、黒地に雲を髣髴とさせる模様が入った牛とを、蹄でもって器用に指し示してみせた。
「あそこの奥さんたちに頼んでご覧なさいな。バターと生クリームを出してくれるから。ああ、あっちの、渦巻き模様の奥さんはソフトクリームが出るから、間違わないようにね」
「へ」
「え」
「いいから、いいから」
言われるままに、白月が白地に長方形、ディーファが黒地に雲の牛のもとへ行き、乳絞りを開始する。と、
「うわ」
「わぁ」
白月のビンには少しやわらかめのバターが、ディーファのビンには牛乳とは明らかに濃度の違うクリームがゆっくりとたまってゆく。牛乳より濃度の濃い物体を搾り出さねばならないので力は要るが、概ね作業に問題はない。
問題ないが、釈然としない。
何たる理不尽な生態。
「……なんで?」
白月が思わず素で突っ込んでしまったのは当然と言えた。
「牛なんてそんなものじゃないかい? アタシは生まれてこの方バター以外出したことはないよ?」
「うおおすげぇ普通のことっぽく断言された。ってことは、あんたの仔牛はバターを飲んで大きくなった、ってことか。そういや、あんたと同じ模様の、いたな。びっくりするくらいでかかった」
「そりゃあ、栄養満点だからねぇ」
心持ち誇らしげに胸を張るバター牛に、白月はそこ威張るとこなんだと遠い目をし、クリーム牛から生クリームを搾っていたディーファは感心したように頷く。
「……こういう世界なんですね」
苺牛が器用にウィンクした。
「そうね、かくいうわたしは、苺ミルクが出るのよ。とっても美味しいの、よければ持って帰って?」
「あ、はい、じゃあ遠慮なく」
「うーん、便利なのかシュールなのか判んねぇなぁ……」
と、白月が、バターを搾りながら再度遠い目をするものの、お陰でフレッシュなバターと生クリームが手に入ったことは確かだ。
「ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそどうもありがとう。また遊びに来てね」
ビンにたっぷりと目的の品物を詰めたふたりが、感謝を込めて一礼すると、牛たちは親しげに目を細めて器用に前脚を振った。
「はい、また」
「ハクのおじにいちゃん、バイバイ」
「ぅおッそれで定着しちゃったのかよ!? マジで!?」
ふたりの目の前に、また次なる扉が現れる。
牛たちに再度手を振った後、ふたりはそれをくぐった。
「次は、どんな世界かな?」
「……楽しいところだといいですね」
「そうだな」
そして、また、ふわりとした浮遊感。
甘い香りが鼻をかすめた。
3.昼の世界【サニー・ハニー】
目を開けると、そこは、森の中だった。
眩しい太陽が辺りを照らし、何もかもが輝いて見えていた。
ここもまた美しい世界だった。
「わあ……!」
ふたりの眼前には巨大苺の畑が広がっていた。
その強大さ当社比三倍。
成人男性の拳よりもなお大きい。
苺と言うよりはちょっと大きめの三角形をした林檎のように見える。
林檎は地面にはならないが。
「すっげー。甘くて瑞々しい、いい匂いだな。色も綺麗だし、ツヤもハリも申し分ないし。ちょうどいいじゃん、これ、もらっていこうぜ」
「ああ、本当ですね。とても美味しそうな、いい匂いです」
素晴らしい苺を目にしてご機嫌のふたりは、どこからともなく湧いた大きな籠を手に、特大苺の採集に取りかかる。
手に取ってみるとそれはしっとりと艶やかで、ずしりと重く、瑞々しい。
色は、まるでルビーのようで、天辺から降り注ぐ陽光に、鮮やかに……どこかなまめかしく輝いている。
「これで飾ったケーキは、さぞかし綺麗でしょうね」
「だな。余ったら、これでコンフィチュールでも作ろうか。ちょっと砂糖を多めにして、保存の利く奴を作ろう」
「わあ、それも美味しそうですね」
甘い香りに包まれて、苺を採集していたふたりは、あまりにも夢中だった所為で、自分たちが周囲を取り囲まれていることに気づくのが遅れた。
『女王陛下の領土で、無断で苺を取るたぁふてぇ野郎どもだ!』
空気を震わせるような羽音が複数、きりりとした凛々しい声は何故か江戸っ子口調だ。
ギョッとなったふたりが身構えるより早く、頭上から網が降ってきた。
「え、あっ」
「ぅえッ!? な、なんだよ……!?」
慌てて周囲を見遣れば、そこには、等身大の蜂が十数匹いて、ふたりに槍のようなものを突きつけている。
『……変わった虫どもだな。こいつぁ、女王陛下にご報告せにゃあなるめぇ』
一匹だけ金色の翅を持った蜂が、やはり江戸っ子口調でつぶやきつつふたりを凝視する。
頭部や脚は人間っぽくデフォルメされていたのでそれほど怖くはなかったが、リアルにこのサイズで蜂だったら、多分夢に見たはずだ。昆虫というのは、普通サイズだからこそ正視に堪え得るのであって、自分と同じ大きさともなればインパクトは大きい。
「ちょ、な、何す……」
暴れて網を解くことも出来ずにいるうちに、蜂たちに担ぎ上げられる。
『引っ立てぇい!』
「ぅおっそこだけお白洲っぽいッ!?」
白月が突っ込むが、誰も聞き入れるものはおらず、あとはもう、あれよあれよと言う間に、女王とやらの宮殿へ。
「おっかねぇよ、兵隊蜂……人間で言ったら強面のオッサンってとこかな……」
「でも、蜂の生態から言うと、兵隊蜂も雌ですよ」
「え、ってことはこいつらって」
「妙齢のレディです」
「やめてくれその言い方! なんつーか……女性へのウツクシイ幻想が失われるっ!」
などという白月の叫びが虚しく木霊する午後。
――王城は、すぐに見えてきた。
無論、蜜蝋で造られた、壮麗極まりない巨城である。
女王陛下は、デフォルメされた蜂の身体に、優美なベルベットのマントをまとっており、更に触角のある美女の頭部に黄金の王冠が載っているという、『いかにも』な恰好をしていた。
髪も目も、濃厚な蜂蜜そのものの美しい色をしている。
『そなたらがわたくしの森を荒らそうとした虫かえ。ふむ、確かに珍妙な姿をしておるわ』
豪奢な玉座に腰掛け、水晶のように美しい翅を侍女蜂たちに磨かれながら、蜜蝋の手錠をかけられて御前に引き据えられたふたりをけだるげに見下ろす女王は、ひどく退屈そうだった。
そもそも女王蜂など子を産むのが仕事のようなものだから、こうして大層な自我を持ってしまえば退屈極まりあるまい。
『賊は処刑するが鉄則だが……いかがしようかの?』
いきなり物騒なことを言い出す女王に白月が目を剥く。
「ちょっ、俺たちは単に、女王さんの森を荒らそうとかそんなんじゃなくて、あの苺があんまり立派だったから、分けてもらおうと思って……!」
『ふむ? 苺なんぞはわたくしの領土においては珍しくもないが、その苺でそなたら、何をするつもりだったのだえ?』
「な、何をって、そりゃ、ケーキを作るためだけど。なあ、ディーファ?」
「あ、は、はい。あの、勝手に森に入ったことはお詫びします。でも、僕たち、どうしても美味しいケーキが作りたくて」
『……そなたらは、料理人なのかえ?』
「料理人っつーか、菓子職人? の、つもりだけど」
『……そうか』
白月の言葉に、女王は一瞬何かを考えたようだったが、ややあって、
『では、その言葉、証明してみせよ』
どこか楽しげにそう言った。
「え?」
「あの、それは……」
『わたくしは退屈しておるのだ。わたくしの退屈を吹き飛ばすほどの料理を所望する』
「……ふぅん?」
『仮にも料理人を名乗るのならば、我が同胞の集めし蜂蜜を用いて何か美味なものを作ってみせるがよい。その出来がよければ、苺も蜂蜜も持たせて進ぜようほどに』
「本当か、それ」
『わたくしは嘘など言わぬ』
重々しく女王が頷くと、強面の兵隊蜂たちがふたりの手錠を外してくれた。
白月はディーファに手を貸して彼を立ち上がらせつつ、女王を見上げる。
「材料は?」
『厨(くりや)のものに申すがよい、何でもそろえてくれよう。――それで、どうする?』
「もちろん、やるさ。な、ディーファ?」
「はい!」
穏便に苺と蜂蜜が手に入るのならば、条件としては悪くない。
彼らは料理人ではないが、美味しいもの、ヒトを喜ばせるものを作るというセンスには自信がある。それは菓子職人の矜持と言ってもいい。
『ならば、わたくしに見せてみよ、そなたらの力量を』
女王の言葉とともに、シェフ蜂とでも言うのだろうか、あの帽子を被った蜂が現れ、ふたりを厨へと案内してくれた。
蜂のクセに、などといったら刺し殺されそうだが、厨は広く、清潔で、多様な食材と調理器具がきちんと整理整頓された気持ちのよい場所だった。誰でも、こんな場所で料理すれば楽しくなってしまうだろう。
『おめぇら、女王陛下の無聊を慰めて差し上げるってんだな? 姿かたちは妙だが、偉い虫だ。なんせ、あの方あっての俺たちだからな。俺たちは俺たちなりの、俺たちに出来ることで、女王陛下をお助けするしかねぇんだ、おめぇらはそれをよく判ってる。ほしいもんがあったら何でも言いな、俺が探して来てやるからよ』
職人気質のおやっさんっぽいシェフ蜂(でもこれも妙齢のレディだ)に励まされ、手伝ってもらいつつ、ふたりは作業を開始する。
こんなのも楽しい、とディーファがつぶやくと、肩をすくめた白月が否定はできねぇ、と頷いた。
そこから、およそ、一時間半後。
女王陛下の前には、シンプルだが素材のよさを最大限に引き出した料理が五品並べられていた。
『……ふむ』
蜂蜜色の目で皿を見下ろしたあと、視線だけで女王が説明を求める。
白月は咳払いをして一歩踏み出した。
「まず、手前の皿は、レーズンと胡桃が入ったパンにサンタギュールって青かびチーズを薄切りにしたのを乗せて、そのうえに蜂蜜をかけたヤツ。こうすると、塩辛さと甘さとが互いに引き立てあって、すごく食べやすくなるんだ。で、そっちの皿は、薄めに切ったフレッシュ・シェーブル……山羊乳のチーズと林檎の薄切りを交互に重ねて、そのうえに蜂蜜をかけたヤツ。シェーブルの酸味が、蜂蜜と果物の甘さを引き立てる。こっちのは、豚のあばら肉、つまりスペアリブを、特性のタレにつけて一旦こんがり焼いたあと、蜂蜜とオレンジ・マーマレードのソースで煮込んだもの。風味がまろやかでいくらでも行けるぜ。あと、見れば判ると思うけど、これはサラダな。黒酢に蜂蜜と塩コショウを加えたドレッシングで食ってくれ。で、最後に、ヨーグルトに生クリームを加えてよく混ぜたものに蜂蜜を垂らしたデザートだ。真中に沈んでんのは、あのでっかい苺な。まぁ、食ってもらえば判ると思うけど、どれもそんなに手間はかかってない。蜂蜜を使って、ってことは、蜂蜜の味が引き立って、他の食材もまた引き立てられなきゃいけないと思ったから、あんまりごてごて飾り付けたくなかったんだ。……ひとまず、味見してくれよ、女王陛下。気に入ってもらえると思うんだけどな?」
白月の言葉に再度皿を見下ろし、ナイフとフォークを手に取った女王が、デフォルメされた節足で上手にそれらを操って、白月とディーファの心づくしの蜂蜜料理を賞味する。
それをふたりは息を詰めて見守った。
失敗すれば苺と蜂蜜が手に入らないから、だけではなく、自分たちが力を尽くして作った料理がどう評価されるか、それがとても気になったからだ。
しばしの沈黙、そして、
『……ふむ』
顔を上げ、ふたりを見遣った女王の蜂蜜色の目は、笑っていた。
『素晴らしい』
言葉は端的だったが、そこには真情が込められていた。
ディーファが頬を紅潮させ、白月はやったね、とばかりに指を鳴らした。
『なるほど、そなたたちは真に料理人であるらしい。わたくしの積もり積もった無聊を、暗雲のごとくに垂れ込めていた退屈を、真夏の太陽のようにかき消してしもうたわ』
言ったあと、女王は、いとおしげに皿に触れる。
『それと同じく、思い知ったぞ。わたくしのために、日々、厨のものたちは苦労を重ねておるのだな。この料理を味わって、ようやく判った。彼奴らにも、わたくしは感謝せねばなるまい』
その言葉に、ずっとふたりを手伝ってくれていたシェフ蜂が、そっと目尻を拭う仕草をしたので、蜂って泣くんだっけ、と白月は思ったが、ツッコミは入れないことにした。せっかくのいいシーンだったからだ。
『そなたらは恩虫だ、褒美を取らせねばなるまいな。――約束のものを、これへ』
女王の声が高らかに響くと、謁見の間の両脇にある通路から、黄金に輝く蜂蜜がたっぷり入ったビンを持った蜂と、最高級のルビーのような輝きをみせる特大サイズの苺をたっぷり詰めこんだバスケットを持った蜂が現れ、それらをディーファと白月に手渡した。
それとともに、小さな丸いケースが差し出される。
『これは、最高級の蜂蜜を使って作った塗り薬です。お肌の荒れにも、火傷にも、傷にも、なんにでも使えます。どうぞ、どこかでお役立てくださいませ』
中には、ふわりと蜂蜜の香りが漂う、やさしい象牙色のクリームが入っていた。
断る理由もないので、ありがたく押し頂き、ふたりは蜂たちに別れを告げる。
「どうもありがとうございました、助かりました」
「まぁ、何やかや言いつつ、楽しかったわ。またな」
『うむ、いつでも参るがよい、そなたらならば、歓迎しよう』
女王蜂が笑うのへ笑い返してから、彼女への敬意を込めて恭しく一礼し、踵を返すと、目の前にあの扉が現れていた。
「それでは、また」
言って、扉をくぐる。
ふぅわり、と、浮遊感。
鼻孔を、食欲をそそるよい香りがくすぐった。
4.夜の世界【エピキュリアン】
目を開けると、ふたりは、規模こそ先刻の女王蜂の居城ほどではなかったものの、非常に優美で壮麗な概観の、明らかに多額の金銭がかかっていると判る大きな洋館の前に広がる庭に佇んでいた。
先ほどまで眩しいほどの太陽が輝いていたのに、ここはもう夜の帳に覆われているらしく、空には蜂蜜のような輝きをたたえた金色の月が鎮座し、暖かな月光を降り注いでいる。
空気はやわらかで寒さは感じなかった。
「……ここは……?」
つぶやき、ディーファはぐるりと庭を見渡す。
庭といっても、卑近な例で言えば、私立綺羅星学園の体育館くらいの規模がある館の、であるから、それはもう庭というよりちょっとした緑化公園である。丘があり林があり川まで流れている。ふと見遣れば立派な角を持った鹿の群が草を食んでいる。
土地の狭さに苦労している日本人たちならば、あるところにはあるのだと羨みそうな広大さであり、のどかさであり、豊かさだった。
「しかしでかい館だな。誰が住んでんだろうなぁ」
「そうですね、きっとびっくりするほどすごいお金持ちなんでしょうね」
「だろうな。あんなの、維持するだけでも大変だ。でもさ」
「はい、なんですか、白月さん」
「今までの流れからしたら、ここでも材料が手に入るってことだよな?」
「……ああ」
「ちょっと、誰かに訊いてみようか。玉子と小麦粉のいいのありませんか、って――……ん?」
「どうしました、白月さ――」
言いかけたディーファも、白月と同じ方向を見つめて口をつぐんだ。
「やあ今晩は、見知らぬ友人たちよ。私の館に遊びに来てくれたのかい?」
陽気なバリトンは館の方からした。
ディーファと白月が見つめるそこには、いったいいつの間に、という唐突さで、ふたりの傍に男が佇んで、楽しげに――親しげに笑っている。
彼は、麦穂色の髪に麦草色の目、小麦色の肌に、見事なカイゼル髭をたくわえた痩身の壮年で、身にまとった燕尾服の仕立てのよさや、長い手指を覆う手袋、手にしたステッキ、足元のエナメル靴、左目元を彩る鼻眼鏡の良質さ、何より男自身の持つ高貴さが、彼がただものでないことを教えてくれる。
とはいえ、どうやら男は完全な人間ではないようで、耳がとがっていたり、瞳孔が縦に切れていたり、ライオンを思わせる尻尾が生えていたりしたが、彼の醸し出す雰囲気に邪悪なものは感じられなかったし、人間ではない外見など、銀幕市においてはそれほど珍しいことでもないので、ディーファも白月も気にはしなかった。
「あの……?」
それでも、彼が唐突に現れて驚いたのも事実だったので、ディーファが可憐な瞳で見つめると、男は相好を崩し、恭しく一礼してみせた。
「ああ、しまった、私としたことが。お客を招待しようというのなら、まず私の身を明かさなくては。私はこの洋館の主、パスタ男爵と申す者。どうぞよろしく」
「ああ、はい、ご丁寧にどうもありがとうございます。僕はディーファ・クァイエルといいます。こちらは友人の李白月さんです」
「ディーファ君に白月君か……よい名前だね。ふむ、それで、何か、用事があって来たのかね? ああ、もちろん、用事がなくては来てはいけないというわけでは断じてないけれど」
「あ、はい、あの、実は……」
楽しげな笑みを浮かべるパスタ男爵に、ディーファが手早く事情を説明する。
ケーキを作るために、材料を求めて不思議な世界を移動してきたこと、生クリームとバター、苺と蜂蜜は手に入れたこと、あとは玉子と小麦粉が必要であること、そしてそれがここで手に入るのではないかと期待していること。
パスタ男爵は、小鳥のさえずりのようなディーファの説明を、カイゼル髭を指先で撫でながら聞いていたが、ディーファの話が終わると、
「だとしたら、この出会いはきっと運命なのだろう」
そう言って、悪戯っぽく、楽しげに、茶目っ気たっぷりにウィンクをしてみせた。ディーファと白月が顔を見合わせると、
「玉子も小麦粉も、我が館には最高級のものが揃っている。それを進呈しよう」
男爵はそう言ってまた笑った。
「本当ですか!」
「ああ。何せ我が館には、鳳凰の玉子と白金麦の小麦粉が常備してあるのだ、必ずや君たちの期待に応えられるだろう」
「うわあ、なんだか凄そうな名前ですね。ありがとうございます」
「うん、さぞかし美味いんだろうな。じゃあ、早速もらいにいってもいいかな?」
ディーファが目を輝かせて礼を言い、白月が身を乗り出すと、男爵はそうしてくれたまえと頷いたが、そのすぐあとに、
「家人に準備をさせる間、我が食卓で晩餐などいかがかね。私はお客人をお招きして食卓を囲むことが大好きなんだ、よければ同席してもらえまいか?」
と、ふたりを招く仕草をした。
「……晩餐、ですか」
「そうとも、世界一の料理でおもてなしをしよう」
「そういやちょっとハラ減ったよな」
「……そうですね」
「では、決まりだな」
うきうきと言った風情のパスタ男爵が踵を返す。
燕尾服の裾が翼のようにはためき、ふたりに風を届けた。
ふたりは顔を見合わせて笑い、男爵の、楽しげに揺れる尻尾を追って歩き出した。
洋館の中は、概観に勝るとも劣らぬ美しさと豪奢さとを持っていた。
据え付けられた調度のどれもが美しく、高価で、それでいて洗練され、見事な調和を醸し出している空間だった。
それらを興味津々の体で眺めていたふたりは、では私は晩餐の支度を、と言ってパスタ男爵が姿を消したあと、彼の執事と思しき老人によってとある一室へ案内されていた。
どうやら料理の腕を揮うのは男爵その人であるらしく、彼の『仕事』が終わるまでここで待てということらしい。
狭い部屋で申し訳ございませんが、と執事に通された場所は、日本のちょっとした民家が一軒丸ごと入りそうな広さで、白月などはこの資本家階級めっ★ などと執事が消えた扉に向かってプチツッコミを入れていた。
ともあれ、最後の材料がもう少しで揃うのだ、ディーファはにこにこと楽しそうに――幸せそうに、嬉しそうに笑っていたし、白月も満更でもない風だ。何より白月にとっては、弟として可愛がっているディーファが笑っているだけで嬉しいのだ、ここまで来た甲斐があるというものだろう。
「皆さんよい方ばかりでよかったですね、白月さん」
「だな。帰ったら、あんたのご主人にもお礼をいわねぇとな」
「はい、そうですね」
などと他愛ない会話を交し、触れがあるまでソファで休んでいよう、と、ふたりが見事なゴブラン織りのソファへと近付いたときだった。
『お客様、お召し替えを!』
声は、ちょうどソファの辺りからした。
「……?」
だが、そこにヒトの姿はなく、また気配もない。
顔を見合わせたふたりだったが、しかしまた声は響いてきた。
『晩餐のためのお召し替えをお願いしたく』
空耳ではないようだ。
『お召し替えのお手伝いをいたします』
今度は左、
『どんな素敵なドレスがいいかしら?』
聞き捨てならない言葉は右から。
ギョッとなってそちらを見遣れば、
「……なにその全自動クロゼット……」
白月が呆れたように呟くとおり、大きな衣装ダンスが、自ら立ち上がり、どこから生えているのか『腕』を伸ばして、様々に色鮮やかな衣装を取り出しては、ふたりに指し示しているのだった。
『お召し替えをいたしましょう』
立ち上がったのは椅子だった。
『お化粧も必要ね』
瀟洒な鏡台が引き出しからメイク道具を取り出しながら言い、
『パスタ男爵閣下の晩餐に相応しい衣装を』
テーブルが、コートかけが、キャビネットが、次々に立ち上がってふたりを取り囲む。
「え、ええと……?」
「いやいやいや何か色々間違ってるだろそれ。そもそも俺たちはドレスを着るべき性別じゃ――……」
『お召し替えを』
『お召し替えを』
『きっと、とても素敵なレディになりますよ』
『そうね、誰もがプロポーズしたくなるような』
『さあ、お召し替えを』
「……何か、ナニ言っても無駄な気がしてきた……」
問答無用、情け無用の雰囲気をひしひしと感じつつ白月が言うとおり、ふたりをぐるりと取り囲む家具たちは、目的を果たすまでは彼らを解放する気はないようだった。
「大人しく、装わされた方がいいのかもしれませんね」
ディーファが微苦笑を浮かべて言うのと同時に、衣装ダンスが、やさしい菫色のイヴニングドレスと、竜と麒麟が刺繍された鮮やかな赤のチャイナドレスとを探し当て、ふたりにずずいと突きつけた。
白月は溜め息をつき、ディーファはまた苦笑する。
途中棄権は不可、であるらしい。
――着替えにかかった時間は、メイクも入れておよそ三十分。
家具たちの仕事は早く、巧みだった。
あまり嬉しくはなかったが。
「最後の局面で女装って……どうなんだろうな」
「でも、そのチャイナドレス、とても似合ってますよ、白月さん」
「あー……そりゃ、ありがとよ。ディーファのそれも似合ってるぜ」
「ああ、はい、確かにとても綺麗な衣装だとは思うんですが……この場合、ありがとうございます、と言うのが正しいんでしょうか」
「まぁ……問題はねぇんじゃねぇの」
迎えに来た執事に食堂へと案内されつつ小声で会話を交すふたりは、現在、気品漂う姫君と中華美女へと大変身中である。
そもそもふたりとも綺麗な顔立ちをしているのと、鏡台のメイクが巧みだったこともあって、何の違和感もない。これもあまり嬉しくはないが。
何故とかどうしてとか何のためにとか、突っ込みたい諸々はあったが、突っ込んだところで無駄なような気がして諦めた。玉子と小麦粉を分けてもらうという大前提がある以上、とりあえずは、パスタ男爵主催の晩餐会とやらを巧くやり過ごすしかないのだ。
食堂と思しき大きなホールが見えてきた。
「あ、いい匂い」
「本当だ。――まぁ、精々、美味いもん食わせてもらおう」
言いつつ、執事の背を追って食堂へ踏み込む。
金の燭台が、穏やかなオレンジ色の火を宿して輝くさまは、美しい。
それは、さておき。
「うわ」
「……すごい」
ふたりが呆れとも感嘆とも取れぬ息を漏らすとおり、テーブルは、パスタ男爵自慢の手料理で埋め尽くされていた。
「ああ、とても美しいな、ディーファ君、白月君。思わず求婚してしまいたくなるよ」
「いやいやそのお言葉は大変ありがたいけど、のっぴきならない事情があるんで、求婚とかプロポーズとか嫁入りとかは全身全霊でお断りさせてくれ。なあ、ディーファ?」
「あ、ええと、はい。あの……すみません、褒めていただけるのはとても嬉しいですけど、僕にはもうお仕えする方がおられますので……」
「……ディーファ、お前って、可愛いやつだよなぁ……」
「え、いえ、そ……そんなことは」
「そうか、それは残念だ。可愛い花嫁がふたりもいてくれれば、さぞかしこの館も華やぐだろうと思ったのだが、仕方がない」
残念といいつつ楽しげに、悪戯っぽく笑うパスタ男爵に促されるまま、ふたりが席に着くと、知らぬ間に、グラスに赤い液体が注がれた。
「腕によりをかけたものばかりだ、楽しんでくれたまえ。もちろん、全部平らげてほしいね、せっかくだから」
ご機嫌のパスタ男爵が、テーブルを埋め尽くす料理の数々を指し示し、ディーファと白月は、ナイフとフォークを手に、それらの攻略に取りかかる。
「じゃあ……いただきます」
「いただきまっす! あ、これ美味い」
牛の赤身肉とたくさんの香草で作るパヴィア風スープ。
アンチョビが溶けた熱々のソースで野菜を食べるバーニャ・カウダ。
魚の香ばしさがたまらない鱒とアーモンドのバター焼き。
様々な魚介を煮込んで作るパーティ・メニュー、リグーリア風魚介類の蒸し煮。
蕎麦粉のパスタにジャガイモのとろみとキャベツの甘味が絡まったピッゾッケリ。
まろやかな味わいの豚フィレ肉のミルク煮。
詰め物パスタをシンプルなスープとパルミジャーノでいただく、スープ入りトルテッリーニ。
幅広のパスタをコクのあるクリームソースと絡めた、海と山の幸のパッパルデッレ。
塩の旨味がストレートに出る牛肉のステーキ、トスカーナ風。
とろけるほどにやわらかく煮込んだトリッパのトマト風オーヴン焼き。
オリーブオイルと野菜の旨味が素直に味わえるグリル野菜のマリネ。
パンチェッタの旨味がたまらない、スパゲティ・カルボナーラ。
肉のデリケートな旨味を素直に引き出した、骨付きラムの熱々グリル。
デザートには、かの有名なるティラミスと、素朴な味わいの焼き菓子、アップルシュトゥルーデル。
どれもこれもが逸品で、どれもこれもが味わい深く、そして容赦なく大量だった。
ふたりは、パスタ男爵との料理談義に花を咲かせ、それ以外の話題で盛り上がり、よく笑い、よく食べた。
小柄なディーファですら、普段からすれば驚くほどたくさんの食物を摂取したのは、話し上手のパスタ男爵が聞かせてくれる様々な逸話につい引き込まれ、つられるように銀器を操ってしまったのと同じく、前の、ふたつの世界での『冒険』のお陰で疲れた身体が、美味な養分をたっぷりと必要としていた所為もあるだろう。
彼らは旺盛な食欲でたくさんの皿を空にしたが、さすがに、すべての料理を平らげることは不可能だった。
晩餐が始まって、三時間ほど経った頃だったろうか。
「も、もう……限界。これ以上は、はみ出る……ッ!」
白旗を掲げる白月の隣では、雰囲気に流されて少し食べ過ぎたのか、ディーファが口元を押さえて俯いている。
だが、テーブルには、まだ、料理が半分以上残っている。
残った料理だけで、もう一度晩餐会が開けそうな量だ、たったふたりでどうにか出来るような質量ではない。
しかし、それを見たパスタ男爵はひどく残念そうな表情をし、
「おや……そんな哀しいことを言うのかね」
カイゼル髭を長い指で撫でた。
「せっかく、この私が腕によりをかけたというのに」
「いや、だ、だってな、いくらなんでも限界ってもんがあるだろ」
「す、すみません、パスタ男爵。あの、これ以上は、もう……」
「ああ、なんと哀しい晩餐だろう、哀しみのあまり、玉子も小麦粉も隠してしまいたくなる!」
オペラの名優さながらに、大きな身振り手振りで言うパスタ男爵に、ディーファは青褪め、白月は目を剥いた。
「えっ、ちょ、そんなん聞いてねぇって!?」
「残念だ、ディーファ君、白月君」
「そんな、パスタ男爵……」
もちろん、『分けてもらう』身なのだから、パスタ男爵のそれを憤り、無理やり奪って帰るわけにも行かない。それではヴィランズと一緒だ。
ディーファが泣きそうな顔をしたのは、せっかく、ともにこんなに楽しい一時を過ごした男爵が、経過を見ずに結果だけを見て、その結果のために哀しいと言ったからだった。
それでは、この三時間の、晩餐会のすべては無意味だったのかと、あの楽しい三時間はパスタ男爵に何も残さなかったのかと、そう思うと泣きたい気持ちになったのだ。
「あっ、ちょ、泣くなよディーファ!」
ディーファが泣き出しそうになっていることに気づいた白月が慌て、
「な、頼むよ、パスタ男爵! そりゃ、全部食えなかったのは悪いと思うけど、でも、せっかくこんなに楽しい思いをさせてもらったのに、無理して詰め込んだ所為で、かえって悪い思い出になることをこそ哀しいと思うんだよ、俺たちは!」
パスタ男爵に向かって両手を合わせ、懇願する。
「ディーファに、世界一美味いケーキがどんなものなのか教えてやりたいんだ、一緒に作って一緒に食って、楽しい思い出をもっともっと作ってやりたいんだよ!」
白月としても、もちろん、可愛い弟分の願いを叶えてやりたいし、たくさんの辛い過去と虚ろを背負って生きる彼に、わずかばかりであれ、記憶の中で輝く光を与えてやれればと思うのだ。
それゆえの真摯な物言いを、パスタ男爵は若麦色の目で見つめていたが、ややあって、悪戯っぽく微笑んだ。
「……冗談だよ」
「え」
「君たちとのひと時があまりにも楽しくて、もう少し引き止めておきたいと思ってしまっただけだ。君たちを哀しませたいわけではなかった、私の我が儘を許してくれたまえ」
「……あ」
「そうだな、私も、とても楽しかったよ」
しみじみと言って笑った男爵が、ぱちんと指を鳴らすと、まるでそれを待ち構えていたかのように、執事の老爺が、銀のワゴンに、殻に真珠のような光沢のある玉子が詰まったバスケットと、星屑のようにきらりと瞬く小麦粉が詰め込まれた透明な袋とを載せて現れた。
「持ってお行き。そして、誰も食べたことがないくらい美味しいケーキを焼いてくれたまえよ」
魅力的な笑みでウィンクする男爵からそれらを受け取ると、また、背後に、あの不思議な扉が現れた。
「ありがとうございました、とても楽しかったです」
「自慢の手料理、全部食えなくてごめんな。でも、本当に美味かった。ごちそうさまでした」
「楽しい一時を本当にありがとうございました、感謝します」
「本当に助かったよ、どうもありがとう」
ふたりは何度も何度も礼を言い、
「ああ、私も楽しかった、どうもありがとう。また、いつでも、遊びにおいで。玉子と小麦粉なら、いくらでも用意するからね」
少し名残惜しげなパスタ男爵の言葉に頷き、手を振って、そして扉をくぐる。
ふわり、という浮遊感。
洋館は掻き消え、しばし、どこでもない空間が彼らを包む。
「揃いましたね、材料」
「ああ、帰ったら、さっそく作ろう」
「……」
「どうした、ディーファ?」
「いえ、素敵な方々とたくさん出会えて、楽しかったなぁって」
「……ああ、そうだな」
顔を見合わせて笑うと同時に、見慣れた景色が目に入った。
ノブを掴んで扉を開き、降り立つ。
「……おや、お帰り」
悪魔がゆったりと微笑んだ。
壁の時計は、彼らが出発してから十分も経っていないことを教えた。
だが、それも、大したことではない。
特に、この街においては。
――ふたりが、自分たちが女装姿のまま帰ってきてしまったことに気づくのは、材料を手にいそいそとキッチンへ向かおうとした辺りだった。
5.楽しきガトー・マルシェ
「さて、スポンジケーキが焼きあがるまでもう少しだし、苺と生クリームの準備をしておこうぜ」
スポンジケーキ、フランス語で言うならパータ・ジェノワーズは、材料の質のよさと白月の技術力及び指導力、そしてディーファの手先の器用さのお陰で何とか成功しそうだった。
パータ・ジェノワーズとは、全卵を泡立てて作るスポンジ生地を言う。
卵黄と卵白を分けずに泡立てるため、泡が細かくなり、焼き上がりもきめ細かく、しっとりソフトな食感になる。
その分、泡立てをしっかりと行い、粉やバターを沈めないように、また、泡を潰さないように混ぜなくてはならず、これを失敗すると膨らまなかったりきめが粗くボソボソしたケーキになってしまう。
だからこそ、技術力と丁寧さが必要になるケーキなのだ。
「材料はたった四種類で」
「ん、どした、ディーファ」
「いえ……これだけの材料で、手順もそんなに難しいわけではないのに、手を抜くと何もかもが駄目になるお菓子だなぁと思って」
「ああ……そうだな」
シロップにコアントローと黄金の蜂蜜を混ぜ合わせながら白月が頷く。
「美味いものを作ろうと思ったら、手間を惜しんじゃ駄目なんだよな。ハピネスで働いてみて、初めて知ったよ」
「どんなことでもそうなんですよね、きっと」
ディーファは苺をちょうどいいサイズにカットしつつ、低い唸り声を上げているオーヴンにちらりと目をやった。ほのかな光に照らされた内部で、丸い金型を載せた天板がくるくると回っているのが見える。
ケーキはそう遠くなく焼きあがることだろう。
そのあとの楽しいお茶会を思うだけで、ディーファの胸はふわりと軽くなり、やさしい、甘い感情で満たされる。
「……でも」
あっという間の大冒険を思い出して、ディーファは無邪気に微笑んだ。
「ん?」
「楽しかった、ですよね」
「ああ、そうだな」
「皆さん、優しくて、素敵で」
「ああ」
「……また、会いたいです」
「そうだな。ケーキの出来がよかったら、お裾分けに行こうぜ」
「わあ、いいですね」
ディーファが本当に嬉しそうに笑ったので、生クリームを泡立てていた白月もつられて笑った。
この可憐な少年の笑顔は人を幸せにする、と、思う。
「……あの、ディーファさん」
「うん、どした?」
「また、別のお菓子も、作りましょうね」
「……ああ」
「今日みたいに、扉を出してもらって、材料を集めて」
「そうだな、また、色んな人に会えそうだもんな」
「はい」
「……今度は、何を作る? タルト生地を作るならアマンディーヌもとかガレット・ドランジュもいいし、パイ生地ならバンド・オ・フリュイ・ルージュとかアップルパイだよな」
「シュー生地は難しいんですよね?」
「そうだな。でも、成功した時の嬉しさったら、ないぜ」
「あとは……アイスクリームなんかどうでしょう。暖かい部屋で冷たいお菓子を食べるなんて、贅沢かな」
「はは、それもいいな。シャーベットとか、パルフェとか、プディングとかな。うん……またやろう」
「はい」
またやろう、の部分に、ふたり一緒に、という言葉が含まれていたことに、ディーファは気づいていたし、白月もディーファが気づいていることに気づいていた。
「楽しかった」
夢のようなこの日々、いつかは終わりを迎えるこの日々の中で、決して消えぬ何かを築き上げるために、映画という故郷を超えて彼らは出会い、こうして同じ日々を行くのだろう。
「ありがとう、白月さん」
「何が?」
「……いいえ」
はにかんだように笑うディーファの頭をくしゃくしゃとかき混ぜて、白月もまた笑った。彼が言いたかったことなど、全部、判っていたからだ。
――甘い香りがオーヴンから漂ってくる。
素朴で繊細で、穏やかな甘い香りだ。
「礼を言われるようなことじゃあないよな、お互いにさ」
「……はい」
その程度でいいだろうと思うのだ、気持ちは伝わっているのだから。
深い場所で伝わり合っているのだから。
――オーヴンが、高らかに、焼き上がりを告げた。
ふたりは顔を見合わせ、微笑み、揃って駆け寄る。
次の瞬間、上がった歓声は、どこか無垢で、無邪気だった。
そうして過ぎて行く、銀幕市の、何の変哲もない一日である。
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クリエイターコメント | 今晩は、プライベートノベルのお届けに上がりました。
とても可愛らしいオファーに、自分にこんな可愛いお話が書けるのだろうかと思ったのですが、大好きな製菓関連の内容だったお陰で案外すらすらと書けました。食べ物を作ることは生きる喜びに通ずると思う犬井です。
おふたりの目指しておられた不思議で可愛らしい世界観が出ていればいいのですが……どうでしょうか。少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。
よければ感想などお寄せくださいませ。
なお、今回の執筆に当たっては、『お菓子の基本大図鑑(講談社)』『おいしいチーズの事典(成美堂出版)』『イタリア 地方のおそうざい(柴田書店)』の各メニューを参考にしております。どれもとても素敵な本なので、今回のメニューに興味をお持ちでしたら、一度ご覧になってくださいませ。
それでは、オファーどうもありがとうございました。 また、ご縁がありましたら、是非。 |
公開日時 | 2007-11-13(火) 22:30 |
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