★ カラカラの手 ★
クリエイター八鹿(wrze7822)
管理番号830-6837 オファー日2009-03-02(月) 01:30
オファーPC ファレル・クロス(czcs1395) ムービースター 男 21歳 特殊能力者
ゲストPC1 コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
<ノベル>

 その夢には決まって少年が出てくる。
 真っ暗闇の中にはっきりと浮かぶ黒い髪の少年。
 何かを喋っている。何も聞こえない。口が動いているのだけ見える。舌の動き。
 て。
 て、に、き、お、つ、け、て。
 手に気をつけて。
 どういう事かは検討もつかない。聞きたくても声が出ない。自分の身体がそこには無い。
 音の無い、匂いも無い、温度も無い、少年の姿だけがある夢。
 ただ強烈な不安感だけが圧し掛かるように迫り、そうして、ファレルは目覚める。
「――は、っ」
 天井。
 カーテンの隙間から漏れるやや曇った薄白い朝日。コゥ、と鳴る風の音。
 カラカラの喉、大きな呼吸、外を走る車の音、鳥の声とはばたき、汗の感触。
 湿って額に張り付いた髪先を退かしながら起き上がり、薄らめた眼で時計を見た。
 朝六時。秒針がコツコツと回っている。
「……完全に、起きてしまった」
 あの夢の所為だ。
 五日前から五連続であの少年の夢を見ている。
 夢から覚めた後は必ず胸に嫌な感じが残る。
(そろそろ……夢診断でも受けますか)
 小さく息を付いてベッドから降りる。
 カーテンを開け、曇り空の光を招き入れたら、薄ら埃の浮かぶ部屋の中を洗面台へ向かった。
 顔を洗って、鏡に映る己の顔を覗く。
 茶色の髪に紫の眼。寝癖の飛ぶ顔がつまらなそうにこちらを見ていた。生い立ちの所為か、この表情が変わる事はほとんど無い。
 頭から水を被って、それをタオルで拭きながら棚を開いて珈琲豆のストックを確かめる。
 豆の入った瓶の口を摘みあげて、溜息一つ。
 瓶を振れば残り僅かな豆が瓶の底をころろっと高い音を立てて転がった。
「買出しに……」
 呟きながら窓の方を見る。
 カーテンの開かれた窓の外では、薄灰色の空からほつりほつりと白いのが降り落ちていた。
 溜息を付く。


 『本日は休ませて頂きます』。
 と、書かれた張り紙を思い出しながら、ファレルは寒風の吹く道を歩いていた。
 ダークブラウンのジャケットの上から首元に巻いたマフラー、その灰色の淵を口元まで引っ張り、黒のデニムで黒いカジュアルブーツを鳴らす。
 間の悪い事に、いつも使っている珈琲ショップが休みだった。
 彼のお気に入りの豆が売っているのは、ここらではあのショップとデパートの中にある専門店くらい。
 それほどこだわるつもりも無いのだけれど、どうせ決まった予定があるわけでもないのでデパートの方へと足を伸ばす事にしたのだ。
 ファレルの歩む歩道にじわじわと人の通りが多くなっていく。通りを行き交う車の数も増えてくる。
 薄灰の空を背景に見えたデパートの側面には幾つかの垂れ幕が下がっており、『本日はポイント3倍フェア』『羽崎永一郎展 近日公開』『春の新生活応援セール』などと大きく書かれていた。
 デパートの正面口の横に飾られた大判の洒落た彫刻の前を大勢の人が行き来している。
 新型の携帯電話の街頭宣伝が行われている横を抜けてデパートの風除室に入ると、温風に当たって冷えて固くなっていた頬がやわんだ。耳と鼻先にじんっと温度が通る。
 と、斜め前を歩く人物に見覚えがあった。
「コレットさん」
「え?」
 声を掛ければ、彼女がこちらに振り返る。
 金色の長い髪と、赤いリボンが揺れた。白いフードコートに淡い暖色ピンクのマフラー、細い肩には白色バッキーのトトが乗っかっている。チェック柄のスカートから伸びるブラウンタイツの足元は紺色のスェードブーツ。
 ファレルの顔を認めれば、彼女はふわっと笑んで
「ファレルさん」
「こんにちわ。お買い物ですか?」
 ファレルは人の流れの邪魔にならないようにデパートに入った入り口の横へと逃れる。
 コレットも同じように人の流れからはみ出しながら、「ううん」と小さく首を振った。
「絵の展覧会を観に来たの」
「展覧会?」
 一階フロアに流れる薄い香水の匂い。食料品売り場へと下るエスカレーターへ向かう主婦の一団。
「うん、ここの六階の催事場で、明日からが本公開なのだけれど……」
 言いながら、コレットがカバンの中を探って一通の封筒を取り出す。
「招待状を、頂いて……羽崎永一郎展、もう随分と前に亡くなられた画家さんの絵の展覧会」
 手渡された封筒には『羽崎永一郎展 招待状』と書かれていた。
 宛先は大学。宛名はコレット・アイロニー。消印は五日前のもの。
「大学の関係ですか?」
「そう、大学の大先輩でこの展示設営を指揮している方が居て、その縁で……ううん、というより、今回は運の要素が強い、かな?」
 何かしら思い出してかコレットがコロリと笑う。ファレルが小さく首を傾げる。
「突然届いたものだから、お礼と一緒に確認しようと思って電話を掛けたの。そしたら」
 コレットは両手をぱちりと合わせて
「間違えた、だって」
「間違え?」
「あ。あのね。本当は私に招待状を出す予定なんて無かったところを、間違って私に送っちゃってたみたいなの。なんでそんな間違いをしたのか本人もわかってなくて……きっと忙しくてぼぅっとしてたのよね。こういう展示の設営は大変なんだっていうし」
「そういうものなんですか」
「うん、先輩の声も何となく痩せてた……。えっと、それで、うっかり私に送っちゃったみたいだけど、折角だからおいで、って言ってくれて……折角なのでお言葉に甘えて、来たというわけなの」 
「なるほど、それは幸運でしたね」
「ええ、先輩には少し申し訳ない気はするけど。絵を観るのは好きだし、中々こういう機会って無いから……あ、ファレルさんは買い物?」
「はい、珈琲豆が切れたので」
「……呑み過ぎは身体に毒だわ」
 コレットが冗談っぽく眉をひそめる。
 ファレルは無表情のまま目が逃げた。
「分かってはいるのですが……それにしても、デパートで展覧会、ですか」
 話題を変える事を思い付いて、ファレルは視線をコレットに戻しながら言う。
 そんなファレルの様子を可笑しそうに小さく笑ってからコレットが頷く。
「うん、ここではそういう催しをよくやるの。簡単なものが多いけどね」
「何度も来ていたのに全く気づいていませんでした。やはり、意識に無いと気付けないものですね」
「ファレルさんは、あんまり絵に興味が無い?」
「どうでしょうか?」
 ファレルが首を傾げ、その前でコレットも同じように首を傾げる。
「なにぶん、そういったものに近づく機会が少なかったものですから……」
 物心付いた時には政府施設で特殊訓練を受けさせられていた。それからずっと、こちらの世界に実体化するまで戦いの中。
「自分が絵を見て楽しむ人間なのかどうか、解らないんです」
 試そうと思った事も無い。
 と、コレットが顎先に軽く指を当てながら、ンーと考えるようにして、それから、ファレルの方を改めて見上げた。
「あの、時間があったら……」
 トトがコレットを真似て、彼女の肩からじっとファレルを見上げている。
「もし時間があったら、一緒にどうかな?」
「……いいんですか?」
「うん、良かったらお友達も一緒にって言われてるの。だから。あ、でも、何か予定があったりするなら――」
「いえ、大丈夫です。何もありません」
 間髪入れずに頷いたので、コレットはきょとんと瞬いてファレルの顔を見た。
 相変わらず表情無くつまらなそうな顔をしてコレットを見返している。
 新生活セールのアナウンスの流れる中、ベビーカーを押す女性が通り過ぎる。

 
 六階、エレベーターの前にはフロアの半分を仕切ってしまう白い壁が設けられていた。
 そこに等間隔に貼られたポスターには『羽崎永一郎展 幻影と孤独の世界』と銘打たれている。
 長机で作られた受付では腰の低そうなスーツの男性がパンツスーツ姿の女性に指示されて机上のパンフレットやファイルを揃えていた。
 スーツの女性が、こちらに気づいて片手を上げる。
「アイロニーさん。早かったわね」
 コレットがぺこりと頭を下げた。
 これがコレットに間違って招待状を送った先輩なのだろう。
「すいません……早く来すぎてしまったでしょうか?」
「いえ、大丈夫よ。もう観てもらえるから。でも……いきなりで驚いたでしょう」
「確かに驚きましたけど……おかげで羽崎永一郎さんの絵を見る機会を得たんですもの、感謝しています」
 コレットが招待状をスーツの女性へ渡す。
 彼女は招待状を中まで改めて、小さく笑みを漏らした。
「うん、やっぱり私が書いたものだわ。ああ、これ、本当に全く覚えてなくて……なにせ、ほら、ここ数日忙しかったから」
 ねえ、と後ろの男性に視線を振る。彼は苦笑を浮かべながら、でも実感の篭った調子で頷いた。
「デパートの催事場での展示は今回初めてやってみたけど……やっぱり色々と勝手がね」
「珍しいですよね。ここでこういう本格的な展示って」
 コレットが展覧会場の方を覗き込みながら、ほぅと溜息を漏らす。
 壁に完全に仕切られており、中の方は光量が抑えられていることもあってこちら側と雰囲気が違う。
「美術館に行くより気軽でしょ。羽崎永一郎は映画で知名度が上がったばかりだから、この機会に色んな人に観てもらおうって事よ」
「助かります」
 ファレルが頷く。
「それに、こういう所の方が画商も喜ぶ。長い間マイナー画家だったから秘蔵っ子がまだまだあの人達の手の中に眠ってるのよ」
 コレットの先輩が悪戯っぽく言って、あはは、とコレットが少し反応に困ったように笑う。
「まあ、見てって頂戴。まだ他の人も来ていないから、しばらくは貴方達の貸切りよ」
「こちら、資料になります。どうぞお持ちください」
 ありがとうございます、と礼を言ってカラー印刷の冊子を一部ずつ受け取って中に入った。
 中は、天井の光がフィルムシートによって抑えられ、明かりが薄い。まるで曇り窓で仕切られた昼間の部屋にいるような光量だった。
 通路は今回のためにあつらえられた仕切り板で細く形成されていて、床には光の反射を抑えるためかくすんだ色の薄いシートが引かれている。
 その通路の壁にポツポツと額に収まった絵が並べられていた。
「この展示はね、この絵達が描かれた環境の明かりを意識しているんだって」
 受付で受け取った資料をめくりながらコレットが言った。
「描かれた環境?」
「昔、羽崎永一郎が人生の大半を過ごしたアトリエの明かり。狭い倉の中、窓から差し込む明かりを頼りに描いていたそうよ」
「だから……こんな微妙な明かりをわざわざ」
「うん。あとね、距離。この通路の広さもちゃんと考えられていてね、通路の端から絵までの距離は、アトリエの中で彼が絵を確認していた距離と同じなんだって」
「……大変なんですね、絵を観るというのは」
 ファレルが小さな感嘆と共に頷く。
 と、コレットがくすくすと笑いながら小さく手を振った。
「ううん、確かに最近の展示方法は良く考えられたものが多いらしいけれど」
 言いながら、コレットは最初の絵の前で立ち止まり、資料の指定通りに通路の端から対岸の絵を見た。ファレルもそれに倣う。 
「見る距離まで指定してくるのは割と特別なんじゃないかな。それにあんまり難しく考えすぎない方が良いと思う」
 ピッタリ壁に背を付けながら二人並んでいるのが可笑しくて、小さく笑いながらコレットがファレルを見上げる。
「絵を見る時はね……眼と心の間に何も置かないようにするの」
「……ええと」
「見たものをそのまま心にすとんっと落とす感じ。後はそれがゆっくりと広がっていくのを待つの」
「難しい、ですね」
「うーん……どうかしら」
 と、そこでコレットが、クスッと小さく笑みを零した。
「コレットさん?」
 ファレルが首を傾げる。
「あ、ごめんなさい、なんていうか……いつも助けてもらってばかりの私がファレルさんに偉そうに教えてるなって……しかも、こんなことで。それが、ちょっと可笑しくなっちゃって」
「……私は、いつもコレットさんに教えられたり助けられたりしていますよ」
 ちょっとの間。
「……何かあったっけ?」
「ええ、沢山」
 無表情がこくと頷き、そして、絵の方を見る。
 霧に沈む穂畑だった。白くむせぶ霧の間に明るい色彩の穂揺れが淡く脆いタッチで描かれており、そこにポツリと娘が居た。スカートの膝を握りながら立って世界を強く見つめている。微かな筆の痕跡がひっそりと作り出す風の流れ、霧はやがて晴れる。
 柔らかで幻想的なのに何処かしら切迫している。
 隣を見ると緩い表情のコレットはまだその絵を見ていた。
 もう一度、絵に視線を返す。
 いつ歩き出せば良いのだろうか、とファレルの頭に疑問がよぎる。
 少し考えるように俯きかけた時、視線を感じて横を見るとコレットがこちらの顔を覗き込んでいた。
「次、行こうか?」
 彼女が小首を傾げながら笑う。
 二人はそれからゆっくりと次の絵の前へと進んだ。
 後から入ったらしい客が立ち止まらず、絵を歩き見ながら二人の前を過ぎ去っていく。
 いい時間になったのか、絵を見ている間、何人かの人が行き去った。
 時に、二人と同じように立ち止まってじっくりと見入っていく人もあれば、囁き合うように御喋りをしながら行く人も居た。
 二人は絵を眺め、歩み、立ち止まり、眺め、また歩む。
 そうしていく内に、絵の中にも時間というものがあるのだと知る。
 こちらとは別に流れる空気。匂い。温度。音。
 あの中にも風が吹き、土は香り、時は流れる。それを隣の人と共有する。
 次第に二人が歩き出すタイミングは次第に揃ってくる。そして、立ち止まり、意識無い呼吸で絵を見る。相手も同じだと感じる。
 そういう風に同じ絵を眺めている。
 絵の良し悪しというのは判らないけれど、こういうのはとても良いものだな、と思う。
 額の中で天使は檻の中、表情の無い兎に囲まれて眠っていた。

 
「そういえばさっき、映画云々という話が出ていましたが……彼の絵が映画に使われたことが?」
 展示フロアの中央、休憩用に設けられたベンチに腰を掛けながら聞いた。二人の両脇にはコートとジャケットが畳まれている。
 このスペースには絵が飾られておらず、代わりに次回展示の告知や羽崎永一郎記念館の案内などのポスターが貼られていたり、パンフレットなどが置かれていたりした。
 角では画商らしき人物と身なりの整った婦人とが分厚いカタログを挟んで話をしている。
 ファレルの隣に座って、足休めついでに資料に目を通していたコレットが顔を上げる。
「うーんと。私は見た事がないんだけど、ホラー映画にね」
「ホラー映画?」
 首を傾げる。
「怪奇的な絵には見えませんでしたが……」
「ええと……彼の描いた最期の絵が――待ってね、どこかに映画の話があったはず」
 コレットがパラパラと資料をめくり、あるページをファレルの膝に開いた。
 覗き込むと、彼女も顔を寄せてそこにある文字を読む。
 映画の内容は、羽崎永一郎が最期に描き残した絵によって起こる神隠しを軸に展開されるものだった。
 そして、そこには絵の背景として羽崎永一郎についての記述もある。
「羽崎永一郎は妻と娘を病気で失った。妻子が倒れた頃はまだ世間には見向きもされていなかったから、満足な治療を受けさせてやることができなかった。彼は自分自身を憎み蔑みながらも、それでも絵を描く事を止められず、後悔と孤独の中で何枚もの絵を描き続け、やがて、彼は最期の絵を描き終えると共に息を引き取る」
 その最期の絵は。
「『手』、という絵」
「手……?」
 手に気をつけて。
「うん、手。えっとね……これ」
 コレットがページをめくると、暗闇の中にか細い老人のような手の描かれた絵が掲載されていた。
「これは実際に存在していた絵でね。この絵の周りでは神隠しがよく起きた、という話はわりと有名みたい。都市伝説とか、よくある噂話……」
「存在していた、という事は、その絵はもう」
「うん、その絵自体はもうお寺で供養されながら燃やされてしまっていて、映画で使われているのはレプリカね」
「もうこの世には無い、んですね?」
「ええ、そうなのだけど……どうかした?」
「……いえ」
 微かに引っかかっていた五日前、という符号。
 彼女に招待状が来た時期と夢を見始めた時期とが重なる、そして、手という絵。
 それだけの事といえば、それだけの事だけれど。
 少し黙り込んだファレルの顔を、覗いていたコレットが立ち上がる。
「喉渇いてきちゃったね。飲み物買ってくるわ。さっき通ったトイレの方に自販機あったから」
 ファレルが、はた、と顔を上げ。
「あ、私が買ってきます」
「ううん、私が買ってくる」
 立ち上がろうとしたファレルの肩をコレットがふわっと押してベンチに戻した。
 ファレルは、けとん、とコレットを見上げる。
「でも――」
「付き合わせてしまったのは私だもの。奢らせてもらいます。ファレルさんは何が良い?」
「いえ、そういうわけには」
「いいから、ね」
「……すいません。じゃあ、珈琲で」
 押し切られる。
 コレットが元来た通路の方へ歩いていくのを見送って、一つ息を付き、ファレルはさっきの話を頭の中で反芻した。
 考え込むように床に視線を落とす。
 と、床の先に足が見えた。小さな男の子の靴先。
 顔を上げる。
 誰も居ない。
 周囲を見る。
 通路の端に小さな男の子が立っている。
 コレットが向かっていった方だ。
 黒い髪の少年の口が動いている。
 い、そ、い、で。
 悪寒に似た嫌な感じ。
 ファレルは飛び出すようにその場を立ち、通路の方へと駆けた。


 ◇


 軽い眩暈を感じた後、光量が更に落ちたような気がした。
(こんなに暗かったかしら?)
 シートで緩和されてくぐもった自分の足音が続く。
 何枚かの絵の横を過ぎていく内に、コレットはふと違和感を感じた。
(人の気配が……)
 通路の先まで人が居ないどころか、さっきまで微かに聞こえていたデパートの他階の喧騒もない。
 立ち止まって、肩のトトに触れながら、ゆっくりと振り返る。
 通路が続いていた。
 何処までも。
 絵の並ぶ通路が延々の果てまで続いている。
「……ハザード……?」
 視線を強めながらトトを肩から腕の中に抱き、壁に掛かる絵の方を見る。
 額の中は真っ黒だった。
 改めて通路に掛かる絵達の方へ視線を走らせれば、どれもこれもみな一様に真っ黒。
 コレットは、トトを抱く手を強張らせながら絵の飾られていない壁の方へと身を寄せていく。
 頭によぎるのは先程の話。
 突然、口を塞がれ、腕を掴まれる。
「―――!?」
 手。生きた人間の手とはまるで違う感触のか細い手が、見た目では想像も付かない力でコレットの口と腕を捉えている。
(神隠しッ!?)
 強く後方に引っ張られて、トトがコレットの腕の中から弾き飛ばされた。
(トトッ!)
 床に転がった衝撃でトトは気絶してしまっている。コレットの悲鳴は温度も質感も無い手に遮られて、篭った呻きにしかならない。
 己が引き摺られいく後方へ視線を走らせれば、そこには額が掛かっており、手はその中の暗闇から伸びてきていた。
 ――おいで――
(……え?)
 耳で聞こえるような頭の中に直接聞こえるような、声。
 ――もう、寂しい思いは――
 声は言う。
(――そういう事なのね)  
 ずぶりとコレットの半身が絵の中に沈み。


 ◇


 絵の並ぶ通路を駆ける。
 暗い路だった。
 奥の角、奥の角で黒い髪の少年が現れては、奥へ奥へと姿を消すのをファレルは追った。
 通路に飾られている額の中には何も描かれていない。真っ黒だ。
 風景の歪み掛けた角を曲がる。
 コレットが居た。
 彼女を捉えているのは、老人のような手だった。彼女の口を、腕を掴んでいる。
 壁に掛けられた一枚の絵の暗闇から伸びる手は、コレットを絵へと沈み込めようとしていた。床には気絶したトトが転がっている。
「――ッ!」
 ファレルは屈み込むような体勢で駆けながら、掌を床に滑らせる。頭の中にシートをひっくるめた床素材の分子構造を引き摺り出し、それを組み替える。
 強制的に存在を組み替えられていく床の一部が、ズルリと変化しながらファレルの手の中へと剥がれ刃を形造った。
 そして、一足飛びに距離を詰め。
 コレットの細い腰を片手で抱き引きながら、間に伸びた腕へと刃を振るう。
 感触少なく千切れた手の切れ端は床に落ちるまでの間に霧散した。腕の中でコレットの身体が咳き込んで震える。
「コレットさん、大丈夫で――」
 しかし、絵から伸びる腕は切り口が膨らみ再生していく。
「まだやりますか」
 ファレルがコレットを傍へ離し、刃と共に上半身を捻りながら大きく一歩踏み込む。
 ドス黒く変異した絵の手がズァと一瞬で視界一杯に肥大したのを、一閃。
 切り裂かれた手が黒い塵と果て散りいく横で、コレットがトトを抱き上げる。
「トト、トトッ!」
 コレットはトトに呼び掛けながらその場を離れ、ファレルが彼女を庇うように位置を取る。
 黒い塵は渦を巻くように集まり、再び腕の形を成す。
 そして、それは爆発するように何本にも分裂し、ファレル越しのコレットを狙って一斉に迫り来る。
 ファレルが分子構造を組み換え、手の中で造り直したのは両刃の長槍。それを面で回転させる。
 ヒュ、と切音。旋風と共に薙ぎ千切れて散らされいく黒い無数の手。
 その後方、名前を呼び掛け続けるコレットの腕の中でトトが目を覚ます。
「良かった!」
 ギュッと抱く。
 黒い塵はまたぞろ集まって一本の巨大な腕となり――それをファレルの槍が貫き、壁に繋ぎ止めた。
「コレットさんッ」
「うん」
 トトを抱えたまま腕が伸びる根元の絵へとコレットが駆ける。
 真っ暗な絵の中から伸びる腕は槍の楔から逃れようと震えている。
 おいで、おいで、と声が騒いでいる。それは、多分、コレットにだけ聞こえている。
 コレットは少し困ったように微笑んで
「……大丈夫なんです、私。今は皆が居てくれるから」
 腕からトトを離した。


 ムービーハザードの通路がザァと消え去る中。
「また、助けられちゃったね……」
 満腹のトトを抱きながら、コレットが申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい……それから、ありがとう」
「いえ、気にしないでください。私はコレットさんの無事が嬉しいです」
(本当に……)
 ハザードが一片残らず消えて、二人は先程の通路に立っていた。
 薄明りの照明が静かな通路と並ぶ絵を照らす。
「でも……どうして私が襲われているって、分かったの? すぐだったよね」
 ベンチのあった休憩スペースに向かう途中、コレットが不思議そうに首を傾げる。
「それは、男の子が」
「男の子?」
「ええと……」
 そこで、ファレルはどう説明して良いものか悩み、ちょっとした間が出来た。
 そもそも自分自身、あれが何だったのか解っていない。
 歩きながら黙ってしまったファレルを暫く見ていたコレットがトトを肩に乗せて。
「そういえば、あの招待状……誰が私に送ったのか解ったの」
「……コレットさんの先輩ではなかったんですか? 受付で会った」
 コレットは視線を壁に掛かる絵の方に向けながら、軽く首を振った。
「私に招待状を送りたかったのは、あの『手』の絵のハザード。先輩は招待状を出させられただけ」
「ハザードに意識を操られて」
 多分そんな感じ、とコレットが頷く。
「あの手に掴まった時にね、声が聞こえたの」
 少し照明の光が広がる。
 休憩スペースのベンチには二人のコートとジャケットが置きっ放しになっていた。
「声……」
「もう寂しい思いはさせない……って言ってた」
 それぞれコートとジャケットを手に取って、そこに立ったまま顔を見合わせる。
 コレットが続ける。
「私、先輩に私が施設に居るって話した事があるの。先輩を通してそれを知ったあの絵は、私が辛い思いをしているって思ったんじゃないかな」
「……羽崎永一郎の、自分の子を救えなかった無念は、代わりに親に見捨てられた人を救おうとしていた……?」
「神隠しの噂の根底にあるイメージはそういうものだったんじゃないかしら。そして、それが映画に反映された」
「だとしても……その方法が神隠しというのは。結果的に辛く寂しい想いをする人間を増やしてしまうのでは本末転倒です」
 ファレルが静かに言う。
(もし、あのままコレットさんが連れ去られてしまっていたら……)
 そう考えると胸がキィと軋む。
「ホラー映画だったからね。それに私は、あれはあくまで映画の中や噂の間だけの羽崎永一郎像で、本当の羽崎さんはもっと違う考えを持った方だったんじゃないかって思うの」
 コレットが歩き出したのに合わせてファレルも歩む。
 まだ通っていない展示通路へと入ると、通路の入り口に年代が表示されていた。
 ここから先は彼の後期の作品が掛けられている場所。妻子を失ってから描いた絵達。
「羽崎永一郎の本当の悲劇は……描いた数々の絵よりも神隠しの噂が有名になってしまった事」
 最初に掛けられていたのは『自画像』とタイトルの付けられた絵だった。地の果てに沈みいく大きな月を背景に、風渡る草原を少年が必死に駆けている。
 少年の背に広がる風景は、端から風に吹き崩されるように散り散り崩壊していた。 
「彼の絵を見れば、彼が悲しみに打ち負かされたままの人だったのかどうか解るのに――……なんて」
 また偉そうにしてしまったかな、と少し恥ずかしそうにコレットがファレルを見上げる。
 ファレルは目の前の絵を見つめたまま「いえ」と置いて微かに頷いた。
「私もそう思います」
 駆ける黒い髪の少年の姿には見覚えがあって。
 彼女に夢の話をしなければ、とファレルは一つ目の言葉を探していた。







クリエイターコメントこの度はオファー有難う御座います。
可愛らしい二人をつらりつらりと書かせて頂きました。

心理描写、言動などなどイメージと異なる部分があればご連絡ください。
出来得る限り早急に対応させて頂きます。
公開日時2009-03-08(日) 19:20
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