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<ノベル>
その言葉と風景とが、今でも心に熱く残っている。
$仕立て屋と海賊$
〜 1 〜
「ヴィディス! ねぇ、ヴィディスったら!」
ヴィディスは困ったように眉を垂れて、傍にまとわりつく少女を見遣った。
「マーチ……俺、いま忙しいんだけど」
「昨日もそう言ってた!」
そう、マーチが口を尖らせたので、ヴィディスは嘆息の代わりに片目を閉じる。
赤髪、紫目の線の細い少年だ。
彼は大量のビーズが収まった袋を抱えて歩いていた。
石畳を踏む。
漆喰の接げ掛かった煉瓦造りと土塗りの間の小路。
影が高くて、正午を過ぎた陽射しが上の方にある。
二人の足音が小さく鳴る万年影の小路には、涼しくカビの匂いが潜む。
「エヴィやサンのとこに行きなよ」
「だって、あいつらは乱暴だし、時々わたしを仲間外れにするし、それに、刺繍ができないもの。ねぇ、このまえ縫ってくれたダッフォディル、すっごく評判が良かった!」
「評判?」
小路を抜けて、大通りに出る。
建物の影が開けて、急に明るくなる。
色彩豊かな壁と屋根、出窓に飾られる花々、通りの中央を行き交う馬の蹄と馬車の軋む音、日傘を差し帽子の羽飾りを揺らして歩く淑女。
道の端には広げられたひさしの下に樽や木箱が並び、果物や豆や野菜から肉や魚、花、鍋に至るまで様々なものが売り出されており、時々、威勢の良い声が飛んでいる。
華やかなアクセサリーや服を並べたショーウィンドウの横、路傍の背の低い階段に腰掛けた老人はパイプをふかしながら屋根の上を歩く猫を眺めていた。水夫らしい屈強な男達がその目の前を笑い合いながら抜けていく。
色が重なるように入り組んだ屋根と煙突とが連なる向こう、少し丘になったところに白く佇む王城。
正反対の方を見遣れば、穏やかに下っていく坂と街並みの先に青く線を描く海があって、大小の船の姿が見える。
明日の式典を控え、街の至るところで建物の間を交錯する紐に掲げられた赤や青や黄色の旗が空に踊っていて一層華々しい。
「僧院で見せびらかしちゃった」
マーチが嬉しそうに言う。
「……恥ずかしい」
「職人でしょ? 人に見られるのを恥ずかしがってちゃ駄目よ!」
「まだ見習いだってば。テディの足の爪先にも及ばないし」
「テディと比べたら街のほとんどの仕立て屋がママゴトになっちゃうわ」
と。
「ヴィティス!」
色とりどりの果物を並べた店の奥から声を掛けられる。
見れば恰幅の良い女性が林檎をこちらに放ってくれる。
「持ってきなァ」
「わ、と」
ヴィディスは手早く袋を抱え直しながら飛んできた大きな林檎を取って微笑んだ。
「ありがとう、ユナ」
「テディはまだ篭もってるのかい?」
「うん、最後の仕上げだからね」
「たまには顔出しなって言っといておくれ。うちの旦那が寂しがって鬱陶しいんだ」
「あはは、伝えておくよ」
それから、もう一度、林檎の礼を言って歩き出す。
「ねぇ、ねぇ、王様の服よね! もう出来上がってるの? 見たいなぁ」
マーチがまた後を付いて声を弾ませる。
「明日の式典には見れるのに」
「みんなより早く見たいの!」
「ふぅん? そういう乙女心って分からないなぁ」
ヴィディスは笑いながら言う。
マーチの膨れッ面を横目に職人通りの方へと渡れば。
「マーチッ!」
男の怒号が鳴って、マーチがギャッと肩を竦めながら悲鳴を上げる。
そちらの方を見ると大きな体をしたマーチの父親が肩を怒らせながら、行き交う人の間を彼女の方へ、のっしのっしと歩んできて。
「お前、手伝いもしないでほっつき歩きやがって! それどころか、まぁたヴィディスの邪魔をして!」
「じゃ、邪魔なんかしてないもん!」
と反論したマーチは襟首をつかまれて、ひっぱられ、ひょいっと男の小脇に抱えられてしまう。
「やぁだああ、降ーろーしーてー」
「悪かったな、ヴィディス。忙しい時期だろうってのに」
「あ、いや、今は買出しぐらいしか俺に手伝えることはなかったし」
「出来たのか?」
「テディがもうすぐ仕上げ終わるよ。後は不備や針の抜き忘れが無いか確認をしたら終わり」
「頼むぜ。明日の式典、今年もビシッと男前の王を見せ付けてやってくれ」
「はは、俺に言われても」
「何言ってんだ。聞いてるぜ? もうだいぶ任されてるって話じゃねぇか。テディが言ってたんだ、こんなに物覚えの良いヤツァ居ないってな。なによりセンスが抜群に良いってよ」
大きな手にくしゃくしゃと髪の毛を混ぜッ返され、ヴィディスは、揺れる髪先に片目を閉じながらぼやぼや笑った。
「えっと……酔っ払ってたんじゃないの? 同じ内容を二回繰り返すようになったら正体が無くなってる証拠だけど」
「ははははは、じゃあ、怪しいところだな。一回転半で止めてはいたがよぉ」
「降ろしてよぉー」
父親は腕の中でよじよじともがくマーチの頭をコツリとやってから、ヴィディスへと視線を戻し。
「しっかり励めよ」
言って、マーチを抱えたまま花屋の方へと歩み出していく。
「うん。ありがとう」
ヴィディスは父親の腕の中で、どうにかこちらを向いて手を振っているマーチへと小さく手を振り返しながら頷き、よいしょっと袋を抱え直してから、職人工房が連なる通りを抜けて仕立て屋へと向かった。
そして、仕立て屋の扉を押して、掛けられたカウベルが鳴るのを聞きながら中に入る。
「ただいま」
陽射しの中から屋内に入ったことで感じる薄暗さに目を僅かに細めながら、ヴィティスは、そこで真剣な表情をして作業しているテディに声を掛けた。
「ああ、おかえり。ヴィディス」
丸眼鏡をかけたおっとり顔がこちらを向いて笑む。
体格のイイ、無精髭に笑顔が良く似合う気優しそうな優男だ。
明るい栗色の髪を短く少し撫で付けている。
確か、三十半ばの年齢の筈だが歳よりは少し若く見える。
彼の家に住み込んで、もう数年になる。
◇
幼い頃に両親が居なくなってから、ヴィディスは大通りの見える廃墟の屋根裏に一人で住んでいた。
煙突掃除や手紙の配達、靴磨きの手伝いなど、子供でもやれる仕事はなんでもやった。
そうして、稼いだ僅かな金で買ったパンや、ユナ達、街の顔見知りから分けて貰った残り物を廃墟の屋根裏で食べて暮らしていた。
華やかなショウウィンドウや、通りを行き交う街の人たちや、王城へ向かう貴族達、港からやってくる異国の人々、それらを遠くに眺めながらの、一人きりの食事。
ヴィディスが十歳の時、街に王国御付として呼ばれた有名な仕立て屋がやってきた。
仕立て屋は職人通りに店を構え、そこで王や王妃の服を仕立てては城に納めるようになった。
彼の名前はT・D・バンス(トルド・ダーケ・バンス)。人当たりの良い彼は、すぐに街の人間に好かれ、皆からテディと呼ばれるようになる。
ヴィディスが、彼の店を覗いたのは偶然だった。
窓から見えたテディの仕事風景に興味を引かれて、なんとなく、じっと見ていたのだ。
彼の鋏が布を切り分けて行く様が鮮やかで、ついつい見入ってしまっていた。
ふと、テディがこちらに気付いて、顔を上げる。
(――怒られるっ!)
そう思って、わたたっと通り向こうへと逃げ掛けたヴィディスの背に飛んだのは、予想に無い暢気な声だった。
「やあ、チョコが余っているんだが、食べていかないかい?」
「え……?」
おそるおそる振り返ると丸眼鏡をかけた無精髭の顔が人懐こく笑っていた。
「チョコレート。……ああ、もしかして苦手だったかな?」
言われて、ヴィディスはブルンブルンと首を振る。
「それは良かった。是非、食べていきなさい。いや、ね。王妃からいつも、土産にと甘味を貰うんだが……俺は甘いものがどうも苦手で――」
困っていたんだ、とテディは楽しそうに笑っていた。
そんな出会いを経て、ヴィディスはテディの店に通うようになった。
最初は行く度に出される高級な御菓子が目的だったけれど、段々、テディの笑顔に会いたいがために行くようになって、いつの間にか店の手伝いをするようになっていた。
その内に、そこで住み込みの見習いとして働くようになって。
ヴィディスは二人で摂る食事は、廃墟で一人食べるそれの何倍も美味しいという事を知った。
テディは色んな事を知っていて、食事の時、ヴィディスが見たことも聞いたこともない様々な国の人々の生活や建物や事象、劇や衣装や芸術などを話して聞かせてくれた。
話を聞いただけではとても信じられないものも多くて、ヴィディスは、それらをいつか自分の目で見てみたいと夢想した事もあったけれど。
それはまだ、ずっと先のことで良いと思っていた。
〜 2 〜
「ええー、皆々様に置かれましては日々これ誠心誠意を持って精進のことと思いますがぁ――」
「あんたァ、無駄に長いんだよ」
ユナが、乾杯の音頭を取ろうとした旦那の頭を思いっきり引っぱたく。
「ってぇ!?」
ど、っと酒場に集まってる人たちに笑いが起きる。
「いいぞー、ユナー。30年前だったら俺が結婚してた!」
ヤジが飛んで、また盛り上がる。
叩かれた頭を摩りながらユナの旦那が、渋々、ジョッキを掲げ直し。
「んじゃあ、手短に。テディの納品と、明日の式典を祝してぇー……かんぱーい!」
かんぱーい、と大きく声が重なって、わぁっと人々の笑い声と話し声と食器の音とが一気に溢れ返る。
大通りから少し小路に入った場所に在るこの酒場は、ここらの街連中の溜まり場になっていた。
いつも、事あるごとに何だかんだ理由を付けて集まっては女房達の持ち寄った料理に舌鼓を打ちながら酒を飲み交わしているのだ。
「今回のデキはどうだった?」
鍛冶屋の親父がぐいっとジョッキを傾けた後に、ドンとそれをテーブルに置きながらテディに聞いてくる。
「はは、いつも通りだね」
「カッカッカッカ、そうか。まあ、アンタの仕事に間違いはねぇだろう」
「ヴィディスー、マーチが口利いてくんないだよぉ」
裾を引かれたのでヴィディスがそちらを見遣ると、エヴィがヘコたれ顔で立っていた。
「また仲間はずれにしたんだろ? 今日、怒ってたよ?」
「だって、戦争ごっこだぜ? おんなはいれらんないよぉ」
ますますヘタレたエヴィの顔を横に、ヴィディスは鳥のソテーを一切れ口に含んだ。
「というか、俺に言われても困る……かな」
「ほら、なんでかヴィディスの言う事なら素直に聞くじゃん、あいつー」
「そうでもないと思うけど……」
鳥を噛みながら昼間の事を思い返して、ヴィディスが軽く眉を顰めるとエヴィが首を振って「そうなんだってば」と重ねる。
隣で、鍛冶屋が「そういやぁ」と零して、テディの方へ。
「東の戦争は帝国が取ったらしいな」
「ああ、らしいね。これで、鉱山地帯を手に入れて、連中は益々勢いが付く」
「……後は海、か」
「かねてからの希望さ。彼らにとって陸路が手詰まりなのは、もう何十年も前から分かっていた事だよ。その上、二年前から帝国と、この国の陸路は封鎖されてる」
「攻めてくるかな」
「そうしたい所だろう。しかし、この国に下手に手を出せば同盟国全てを相手にする事になる。それに、この国にはあの王が居る。今回のことも前々から予想していたようだし、連中が仕掛けてきたとしても、また二年前のように同盟国と連携して巧く納めてくれると思うがね」
「クックック……あの時、肩スカしを喰らった帝国の連中の顔を見たかったぜ。まあ、例え攻められたとしても、我が国の精鋭が負けるような相手じゃあ無いがな」
「いや、戦争は……避けられるものなら避けるべきだよ」
エヴィの泣き言を聞きながら、そんな大人達の難しい話を半分ずつで聞いていたら、
「ん……まぁな、そりゃ違ぇねぇか。 ……おい、ヴィディス!」
頭の上に鍛冶屋の手が置かれて、くしゃくしゃと撫でられた。
「お前、テディのとこに住み込んで、もう何年目だったけなぁ。ちったぁ役に立つようになったか?」
「えっと……」
急に言われて、応えに困ってテディの方を見たが、テディは楽しそうに見ているだけ。
と、少女の声が飛ぶ。
「あ、居た居た、ヴィディスー! げ、エヴィ……」
横から大人たちの背中を掻き分けてやってきたマーチがエヴィを見て、明らかに嫌そうな顔をする。
「げ、ってなんだよぉ」
エヴィがとうとう泣きそうな顔になる。
鍛冶屋がジョッキを揺らしながら、からかうように笑って。
「なんだぁ? マーチ。ヴィディスは今、俺と『おしゃべり』してんだから邪魔するなよォ」
「おっさんと話してて楽しいわけないじゃない」
マーチがベェっと舌を出して、ヴィディスの腕を取る。
「ママがね、クッキーを焼いてきたの。あっちにあるから食べに来て。こんな男くさい場所に居たってつまんないでしょ!」
「え、いいよ。俺、テディと……」
「テディとはいっつも居るじゃない!」
「あはは、付き合ってあげたらどうだい? ヴィディス」
「テ、テディまで……」
と――。
バンッッ、と酒場の扉が乱暴に開かれて、喧騒が波のように引いた。
全員が視線を向けた酒場の入り口、夜気と一緒に入り込んできたのは、国の兵の格好をした男達だった。
軍靴が床板に場違いな足音をばら撒く。
彼らと共に酒場に入ってきた大きなフサ付き帽子の男が顰めた目で、そこに居る全員を見回す。
そして、靴音が止む。
「トルド・ダーケ・バンス!」
静まり返った酒場にフサ付き男の硬い声が響く。
その名前を呼ぶ響きの硬さに、ヴィディスの心臓は冷たく跳ねた。
突きつけられた不安感に息を飲む。
「俺だが……?」
テディが静かに立ち上がると、間を置かずに兵達がズカズカと寄ってきてテディを両脇から拘束した。
「な――」
思わず席を立とうとしたヴィディスをテディが掌で制する。
「……何の用かな。納品は夕刻にキッチリ済ませた筈だろう?」
テディがおっとりとした表情でフサ付きの男を見遣りながら、静かな、落ち着いた声で問い掛ける。
クッ、とテディを拘束している兵士が感情を抑えるように呻いた。
フサ付きの男も、感情を押し殺そうとする様子で震える息を吸い、手に持っていた書状を広げた。
「先刻――……王が……ッ。王が、身罷られた」
「――え?」
王が、死んだ。
一瞬で、兵士達を除くその場に居た全員に動揺が走った。
兵の幾人かは辛そうに歯を噛んで鳴らしている。
フサ付きの男は続ける。
「死因は、明日の式典に用いる衣装に仕込まれていた毒針である。よって、仕立て屋トルド・ダーケ・バンス。貴様を拘留させてもらう」
「そんなッ!! テディが犯人だっていうのかよ!?」
席を蹴らん勢いでヴィディスは立ち上がり、声を荒げた。
「控えろ! 子供!!」
フサ付きの厳しい声と視線が返る。
マーチが不安げにヴィディスの裾を摘む。
「ヴィディス……」
その声に見向きもせずに、ヴィディスはフサ付きに尚も喰って掛かった。
「そんな馬鹿な話があるわけないよッ! テディがッ、テディがそんな事する筈ない!! 皆だって、そう思うだろ!?」
「……あ……ああ、確かにそうだ!」
「テディはそんな事ォするヤツじゃ――」
声と席を蹴り立つ音とが沸き上がり、兵士達に嫌な緊張が走り掛ける中、
「ヴィディス、皆」
テディの静かな、しかし、良く通る声が渡る。
それは、皆の言葉と勢いを奪い、視線をテディへと集めさせた。
「大丈夫だよ。俺が行って、ちゃんと話をすれば分かる事だから」
それで、皆黙ってしまう。
ヴィディスも、テディがそう言ってしまうなら、大丈夫だって言うなら、従うしか無かった。
「連れて行け」
フサ付きの指示が響き、兵士達がテディを連れて酒場を出て行くのを、全員が不安と動揺の混じった視線で見送る。
兵士達が全て出て行って、扉が閉まっても、しばらくは誰も何も喋らなかった。
皆、とても動揺していた。
テディに容疑が掛かったこともそうだが、なにより、あの王が死んだという事実が皆の心に重く圧し掛かっていた。
言い知れぬ不安が立ち込める中、ヴィディスは泣き出してしまいそうな己を必死で堪えようと歯を食い縛りながら胸を強く握った。
「……ヴィディス……テディなら、きっと、きっと大丈夫よ。すぐに帰ってくるわ」
マーチがどう触れたら良いものか戸惑っているように、細く声を掛けてくる。
「……うん」
ヴィディスは締め付けられる喉を鳴らしながら、微かに頷いた。
だが、結局、テディは朝になっても帰って来なかった。
〜 3 〜
朝の瑞々しい風が、街中に飾られている色とりどりの旗を揺らしていく。
そんな爽やかな朝だ。
しかし、その下を行き交う者、店の準備をしている者、皆の顔に浮かんでいたのは悲しみと不安だった。
そんなわけで。
男は、朝っぱらから通りの真ん中で首を傾げていた。
「ああ? 今日は式典なんじゃねぇのかよ?」
空は晴天、風は温度も湿度も強さも程良い、何憂う事の無い式典日和。
だというのに、活気が皆無である理由が分からない。
めでたい祭りの日だと聞いていたが、それが始まる気配が一向に無い。
どこぞで気の早い連中が酒盛りでも始めていやしねぇかとヒッソリ期待をしていたが、そんな光景は欠片も見当たらなかった。
まるで、全員揃って親が死んじまったような顔をしている。
「なあ、こりゃ一体どういう――」
問い掛けながら男が振り返る。
が、そこに居る筈の仲間が居ない。
男は剛毅さを滲ませる顔の眉を少しばかり曲げた。
「……まぁた好き勝手に行動しやがって」
自分がはぐれたって可能性は無きにしも非ず、という事は、とりあえず捨て置いて。
彼は、すぐに「まあいいか」と笑って顎を上げた。
「なんにしろ、式典が始まるまでにはまだ時間があるんだよな……さて、どうすっか」
男は首後ろを掻きながら、ぶらりと歩き出す。
ひとまずは、適当にぶらつく事に決めたらしい。
◇
「いいかい? 例えば、こう使うんだ」
悪戯っぽく片目を瞑りながら笑んだテディが翳した掌に、ぼんやりと光が燈る。
そのテディは、今よりも少しだけ若かった。
だから、夢だと分かる。
テディは何故か剣の扱い方や魔法の使い方を知っていて、仕事の合間にそれらを少しずつヴィディスに教えてくれた。
そして、これは、初めて魔法を見せてもらった時の記憶だ。
作業台の端には雑貨屋で売っているようなリスの姿をした小物が置かれていて、彼はそこへ掌に現した光を振り掛けるようにする。
固唾を呑んで見守っていると、
「うわっ!?」
ふいに、くいっとリスが首を巡らせたので、ヴィディスは目を丸くして声を上げてしまった。
リスも驚いて怯えて、たたたっと素早くテディの手を伝って、彼の首の後ろまで登り隠れてしまう。
「はは、君はいいお客さんだね」
「い……生きてるの? それ」
ヴィディスがそろそろと挙げた指の先、リスがテディの首の後ろからひょこっと顔を出しては、また、隠れる。
テディは擽ったそうに首の後ろへと回した手でリスを取って、ヴィディスの前へと差し出して見せてくれた。
「そういう魔法なんだ。『物を生かす』魔法。期日が辛い時、君が手伝ってくれる前は、これを使って間に合わせて……ああ、これは内緒のことだから、誰にも言わないで欲しい」
と、また彼は丸眼鏡の向こうの穏やかな目を悪戯っぽく瞑って言う。
ヴィディスはこくこくと頷いてから、そろりとテディの掌の上のリスに手を伸ばした。
最初は警戒した素振りを見せたリスも、指をつんつんと鼻先で突いた後で、ととっとヴィディスの手に乗って、そのまま腕を駆け肩から頭の上にまで昇って行ってしまう。
「ちょ、わ、擽った、待って! あれ、どこ行った!?」
「ははは、君を気に入ってしまったようだね」
わたわたとリスを探して手をばた付かせるヴィディスを見て、テディは楽しそうに笑っていた。
「笑い事じゃなっ、あ、居た! このっ――あ、ねぇ、俺にも出来るかな?」
「魔法かい?」
「うん」
ようやく見つけたリスを摘みながら頷く。
「君が教えて欲しいというなら、教えるしかないなぁ」
「え……なんで?」
「君には秘密を知られてしまったから、ね」
テディはそう言って、やっぱり悪戯げに笑った。
――ガラスが叩き割られる音。
「――え?」
ヴィディスは、その音で、ハッと目覚めて、作業台から顔を起こした。
頭を置いていた腕がジンと痺れている。
一階の工房でテディの帰りを待っている内に、知らず寝てしまっていたようだった。
人の気配がザワザワとしている。工房の床には、表の窓が割られてガラスが散乱していた。
外の方を見て、ぎょっとする。
大勢の人が集まっていた。
あまり見た事の無い顔ぶれだったが、おそらくこの街の住人だろう。
殺気が渦巻いていた、皆、怒りと狂気に呑まれた、奇妙に歪んだ顔をしている。
「――潰しちまえッッ!!」
「悪魔の――ッ!!」
「――せッッ!!」
「全部――ッッ!!」
聞いた事も無いような金切り声の数々が混ざり合って響き合って、把握し切れない轟音となって耳を打ち、頭がくらくらとする。
ドンッ、と扉が軋む。
何度も。
その間にも窓ガラスが割られ、破片が飛び散り、石が投げ込まれ、片隅の瓶を割った。
中に詰められていたビーズがザラザラと床に広がっていく。
「な……なに……?」
ヴィディスには、何が起こっているのか分からなかった。
ただ、怒りで盛る人々の声と割れ、軋み、砕ける音の中に呆然と座り込んでいた。
「ヴィディス! こっち!」
裏手の方から唯一、聞き覚えのある声がして、ヴィディスはゆっくりとそちらの方へと視線を向ける。
マーチが裏口の戸をそっと開いて、手招きをしていた。
「早くッ! そこに居たら殺されちゃう!」
(殺される……?)
ヴィディスは聞き慣れないその単語を頭の中で繰り返し、それから、また、ゆっくりと外で騒ぐ人々の方を見た。
「殺せッッ!!」
そうして、初めて、その単語が叫びに混じっている事を知る。
「ヴィディス!!」
マーチの声。
それに弾かれるようにヴィディスは立ち上がり、裏口の方へと走っていた。
「マーチ! どういうこと!? 何があったんだよ!」
「ヴィ、ヴィディス! 落ち着いてっ! 落ち着いて聞いて!」
二人は裏口から小路へと抜けて走っていた。
マーチが続きを言おうとして、大きく息を吸う。
それから、少し戸惑ったような間があってから、彼女は辛そうに顔を顰めながら言った。
「テディが……罪を、認めたの」
「……え?」
マーチが、また可笑しな事を言っているんだと思った。
「それが皆に広まって――それで」
「マーチ……」
「自分で罪を認めたから、裁判はやらないんだって」
「マーチ……マーチ!」
「だから、今日の日没に、処刑――」
「マーチッッ!!」
怒鳴ってしまう。
マーチが声も無く肩を震わせて立ち止まる。
気付けば、ヴィディス自身も立ち止まっていた。
「マーチ。おかしいよ……だって、テディは、絶対にそんな事しない。そうだろ?」
「ヴィディス……わ、わたしだって……パパやママだって、信じたくないのっ! でもっ!! テディがそう言ったんだって、お城の人が言って、皆知って――ンッ!?」
「テディはッッ!!」
掌でマーチの口を抑え、彼女を壁に押し付けてしまいながら、
「絶対に、そんなことは、しない……」
どうしようも無く震える声で言う。
掌に熱いものが触れたのを感じて、見れば、それはマーチの涙だった。
ゆっくりと手を退かす。
「わた、わたしだって、わたしだって、しんじたいわよぉお」
マーチはそのまま泣き崩れて、小路の端壁を背にしゃがみ込んでしまった。
泣き蹲る彼女を見下ろしながら、今、起こっている事を少しずつ噛み砕いて、把握して。
ヴィディスは震える顎根を抑え込むように奥歯を噛んだ。
「居たぞッ!!」
怒号が響く。
ハ、と顔をそちらへ上げれば先ほど店を襲撃していた連中の何人かがこちらへと駆けて来るのが見えた。
「マーチ、立って!」
彼女の腕を掴んで引っ張る。
ヴィディスはマーチを引き摺るように、よろりと立ち上がらせて、追う者たちから逃げるために走り出した。
が、少女の足を連れてではすぐに距離を縮められてしまう。
「――ッ、マーチ、逃げて!」
ヴィディスは覚悟を決めて、彼女を先へと送り出し、自分は追う者達を立ち塞がるように立ち止まる。
「で、でも、ヴィディス」
「急いで!」
強く言う。
マーチが少し戸惑ったような気配の後で、ちゃんと逃げていく足音を聞きながら、ヴィディスはこちらに駆けてくる者達を睨み据えた。
彼らは、普段なら善良な一般人なのだろう、だが、今は怒りに身を任せたただの暴徒だった。
そういう目をしていた。
「何かの間違いなんだ! テディは――」
「煩ぇ!!」
ヒュ、と。
投げ付けられた酒瓶が頬を掠める。
それは、後方の壁に掠って派手に割れた。
「オマエもッ、オマエも、手伝ったんだろッ!!」
「罰を受けろよッ!」
「王を、王を返してくれよォ!!」
彼らは口々に言いながら飛び掛ってくる。
「他に犯人が居る筈なんだよッ!」
ヴィディスは、それら振り下ろされる火掻き棒や角材などを潜り抜け、飛び避けながら必死に訴えたが、彼らの口を出る呪詛のような言葉は変わらない。
壁に追い詰められていたと気付いたのは、自分が避けた角材が壁に当たってヘシ折れた音を聞いた時だった。
気付いた時は既に遅く、背に壁が当たる。
「――ッ!?」
反射的に反撃のためのイメージを頭に描きそうになって、それを慌てて押さえ込む。
だって、そうしたらテディの罪を認めた事になるような気がした。
でも、声は届かない。
聞いてくれない。
信じてくれない。
どうしたらいい?
どうすれば信じてもらえる?
何を言えば、何をすれば、一体どうしたらいい?
頭の中に吐き出された迷いが、隙を生んだ。
逃げ場を失ったヴィディスへと黒く光る鉄が振り下ろされ――
「ッッぁぎゅ!?」
鳴った、間抜けな声。
目の前に、にゅ、と出てきていたのは足だった。
その足が、ヴィディスに金物を振り下ろそうとした男の横ッ面を地面と平行に踏み蹴っていた。
蹴られた男は、その間抜けな声を残して地面に転がっていく。
「……なに?」
ヴィディスが目を点にした目の前に。
ずいっと黒いマントが現れる。
見上げれば、赤い海賊帽が見えた。
それが何やら呆れたような声を上げる。
「子供相手に大の大人が寄ってたかって何してんだ、なあ?」
「なっ……なんだ、てめぇは――か、海賊!?」
「あ? おう、そうだ! 俺はギャリ――」
「ひ――助けて!!」
「ああ! おい、ちょっと待て、名乗りくらい聞いてけ! な、おーい!!」
蹴り一つで一人昏倒させられたのを目の当たりにして気が醒めたのか、残りの暴徒らはマントの男が名乗る前に、得物を投げ捨てながら小路の向こうへと逃げて行ってしまった。
そして、建物の影に覆われた小路には、いつもの何処か冷めたような静かな空気が戻る。
ヴィディスは、再び、目の前の男の背を見遣った。
彼は若干スネたように「名乗りきれねぇとかよー、格好悪いよなー」などと、やたら大きな独り言を言っている。
「あの……あんた、誰?」
問い掛けると、男の大きな身体がこちらの方へと振り返った。
派手な柄のバンダナを頭に巻き、その上に赤い海賊帽を被った立派な体格。それが、サーベルと銃をぶら下げて、ドクロ入りの黒いマントに眼帯という如何にもな格好をしている。
正体を聞かれて嬉しいのか、男は豪快に口元を笑ませ。
「俺はギャリック海賊団のキャプテン・ギャリックだ!」
表情に見合う大声で名乗り、
「気軽にキャプテンって呼んでくれていいぜ!」
と付け加えた。
「ギャリック……さん?」
「さん付けなんて、んな堅苦しいのは無しだっての。キャプテンで――」
「あ、それより――あんた、なんて事をしてくれてんだよ!!」
ヴィディスは、ハッと思い出して、恨みがましく地面に倒れている男を指差しながら言う。
「お? 悪ぃ、もしかして仲間だったのか?」
「違うけど……これじゃあ……」
そして、ヴィディスは自分の目が潤むのを感じた。
奥歯を噛んで堪えると、ギッと嫌な音が頭蓋の奥で鳴る。
「なんだ、おい、どうした?」
うん、とギャリックが覗き込んでくる。
ヴィディスは、グゥと顎を上げて堪えようとしたが、駄目だった。
「……テディがぁ……」
零れる。
〜 4 〜
石塀の向こうに葉の少ない萎びた木々と荒れた雑草が見えている。
その向こうには、重たげな石と煉瓦で造り上げられた陰鬱な雰囲気の建物が在った。
ヴィディスは、ギャリックの仲間の合図に合わせて、苔の生える石塀の上に飛び乗り、忙しく視線を巡らせた。
と、向こうに兵の姿が見えたので、慌てて石塀の上に身を張り付けるように伏せる。
息を潜めながら兵が遠くへ行くのを見送ってから、ヴィディスは身体を起こしてホゥと溜め息を付いた。
「この先は安全だってよ」
何時の間にか隣に来ていたギャリックが言う。
彼は、塀の外の太い木の枝の上から、こちらに軽く手を振っている少年へと親指を向けていた。
彼の仲間らしい、耳の尖った男。
「安全……?」
ギャリックの方へと視線を返しながら首を傾げる。
「あいつが手回しをしてくれてる。こういう事が得意なヤツでよー、ああそうだ、今度、ちゃんと紹介してやるからな」
ギャリックが気楽な笑みを浮かべながら言う。
「彼は、来ないの?」
ヴィディスはもう一度、彼の仲間が居た方を見たが、その姿は既に消えていた。
「あいつには、もう一つ別の用事を頼んだ。さて、もたもたしてねぇで行こうぜ? ヴィディス」
ギャリックが笑みながら、ヴィディスの背を、ばん、と叩いて塀の内側へと飛び降りていく。
「あ、ああ」
少しよろけてしまってから、ヴィディスは彼の後に続いた。
荒れ放題の雑草を踏む。
そして、ギャリックの後に付いて、ヴィディスは手入れのされていない骨ばった木々と雑草の間を抜けて、奥の建物の方へと向かった。
――あの後、小路でヴィディスはギャリックに全てを話した。
「それで……俺……どうしたら、いいか……」
ギャリックに話しながら、ヴィディスは、本当にどうしたらいいか分からなくなっていた。
誰もがテディが王を殺したと思っている。
そんな筈は無いと、声を枯らして叫んでも聞き届けて貰えなかった。
何もかも、もう、自分の手には負えないような気がしていた。
「俺……わかんないよ……テディは、なんで……自分が殺したんだなんて……」
でも、受け入れることなんて出来る筈も無くて、胸が苦しくて、呼吸をすることすら辛くて、胸元の服を握り締める。
と。
「なら、本人に確かめてみりゃいいんじゃねぇか?」
ギャリックがこともなげに言う。
「へ?」
「ああ、だって、やっぱそれが手っ取り早いだろ」
ギャリックは、とつ、と拳を掌に置きながら己の言葉に頷いて、腰を下ろしていた木箱から立ち上がる。
「え、え?」
「どうした? 来ねぇのか? あー……」
そこで、何やら彼は眉を顰めて額を掻いた。
「……?」
ヴィディスが怪訝に首を傾げると、彼は額を掻いていた指をビシッとヴィディスに向け。
「名前」
「名前?」
「名前だよ、名前」
どうやら、名前を聞いているのだと分かって。
「ヴィディス……ヴィディス・バフィラン」
「よーし、ヴィディス。これから、そのテディのトコに行ってみようぜ! あーっと、そうなると先にあいつを探さなきゃな。お? どうした、時間が無いんだろ?」
ギャリックは、呆気に取られっぱなしのヴィディスの傍まで寄ってきて、ばん、とその背を叩いた。
「わっ!?」
そして。
「行こうぜ? ヴィディス」
彼は、その力強い笑みを口元に浮かべて笑った。
それで、本当に来てしまったのだ。
葉の腐って冷えた匂い。
中天に差し掛かる太陽。
蔦の這う壁には、地面から数センチ上に設けられた鉄格子窓が並んでいた。
それは半地下に造られた牢の窓。
「でー……ひぃ、ふぅ、みぃ……あそこらへんじゃねぇか。大体」
ギャリックが、その鉄格子窓を数え、明らか大雑把に言う。
その手元には先ほど、ここまでの道を案内した仲間から受け取った紙が握られていた。
「えっと……貸りるよ? ギャリー」
ヴィディスはギャリックの手から、その紙を取って、改めて自分で紙に記されたポイントと実際の窓とを見比べてみる。
「ギャリー……?」
ギャリックは紙を取られた事より、そういう風に呼ばれた事の方が気になったらしく、ヴィディスの肩をヘシヘシと叩き。
「いや、だからキャプテンと呼んでくれって――」
「これ……もっと先、かな?」
言って。
何か隣で呻いていた声には気付かずに、ヴィディスは不恰好な木々の間を進んだ。
ギャリックは何やら盛大な溜め息を零した後で、ヴィディスの後を追ってくる。
生い茂る萎びた雑草を掻いて進んだ先。
それと思しき鉄格子窓を見つける。
ヴィディスはギャリックと軽く顔を見合わせて頷いた後に、その窓の傍にしゃがみ込んで、そこへ顔を寄せた。
「テディ……テディ……?」
小さな声で呼んでみる。
「……ヴィディス? ヴィディスなのか――?」
「テディ!」
外の明かりが届かぬ闇から、声はひっそりと聞こえた。
昨日の晩から、さして時間は経っていないというのに、その声は酷く懐かしくて、ヴィディスは格子にしがみ付いて顔を寄せた。
早く顔が見たかった。
そぅ、とテディの顔が牢の中に差し込んだ僅かな明かりの中に覗く。
おっとりとした優しい笑顔は変わらずにあったが、いつもより少し無精髭が伸びている。
それに、掛けられた丸眼鏡にはヒビが入っていた。
頬が少し青く腫れている。
「テディ、殴られたの……?」
ヴィディスは、格子の隙間から伸ばした手でその頬に触れた。
「ああ、少しばかりね。心配はいらない、大した怪我じゃないさ。それより……ヴィディス、何故ここに?」
テディの顔が、今まで見た事の無い曇りを持つ。そして、彼はすぐに続けた。
「いや、ワケはいい。早くここを出るんだ。見つかれば、お前も捕まってしまう」
「もうしばらくは大丈夫だ。今なら、ここで海賊音頭を合唱したって聞き逃してもらえるぜ」
ギャリックが言う。
彼は、いつの間にか懐から取り出していた懐中時計から目を上げてニィと笑った。
テディはギャリックの方を見て、軽く目を丸め。
「誰だい?」
「えっと、彼は海賊で、こういうのが得意な仲間が居て、俺をここまで連れてきてくれたんだ」
「海賊だって……?」
「ああ。まあ、行きずりの海賊ってとこだ」
「俺、テディに確かめに来たんだ」
テディが目を細める。
「確かめに……」
「なんで嘘を付いたんだよッ、テディが王を殺そうとする筈ないじゃないか!」
「…………」
テディは何も喋らなかった。
ただ、黙ってヴィディスの目を真っ直ぐに見ていた。
ヴィディスは、それでも。
「そういう風に言えって、強要された? 殴られたりして……」
「…………」
「なんで何も言わないんだよ! 違うって言ってくれよ……大丈夫、俺はテディを信じてる。だって――」
「ヴィディス……」
テディの手が、ヴィディスの手に触れた。
指の一本一本を確かめるように触れて、それから、彼はいつもの優しい笑みを浮かべる。
「……お前が立派な仕立て屋になる事を俺は知っていた」
彼の手が格子を抜けて、ヴィディスの頬に触れた。
「あの時、お前が俺の店を覗いていて、俺には甘いチョコレートが余っていた。それは、きっと運命だった」
「テディ……」
「運命だよ……。俺はお前に出会い、俺はお前に服を作る事を教え、お前は……素晴らしい服を生み出すようになった」
「俺は……ただ、テディの傍に居たくて……」
「ヴィディス。お前の持つ感性、そして腕は素晴らしいものだ。誰もが望んで手に入るものじゃない。お前にしか生み出せないものがある。だからこそ、もっと多くのことを経験して欲しい。見て欲しい。感じて欲しい。……いつか、お前が旅立つ時が来たら、俺の剣を持っていくといい」
「テディ……違う、待って、違うよ。俺が今、聞きたいのは」
「ヴィディス、お前に会えて本当に良かった」
「時間だ」
ギャリックが懐中時計をポケットへ仕舞いながら短く言う。
「ま、待って!」
ヴィディスは慌ててギャリックの方へ言ってから、再び格子に顔を押し付けた。
「テディ! お願いだ! 言ってくれよ! やってないって!! 誰も信じてくれなくても、俺が必ず本当の犯人を連れてくるから! テディを処刑になんかさせないからッ!」
テディの手が格子の中へ戻っていく。
そうして、彼は薄く息を吸い込んで、言った。
「……俺がやったんだ」
音が全部遠くなる。
(嘘、だよね……?)
声にならなかった。
いや、声に出そうとして胸が引き攣って音にならなかった。
身体が拒んだ。
声に出して、それを否定されたら、後は……
「もう看守が戻って来る。引くぜ、ヴィディス!」
ギャリックに肩を引かれる。
「ま――待って!! 待ってよ! 俺はまだ!」
強く引かれる肩によろめきながら、テディの方を縋るように見る。
彼は、やや顔を逸らしていた。
眼鏡が光を返してその奥の瞳が見えない。
「俺はッ、俺は信じてるッッ!!」
ヴィディスが我を忘れて荒げた声が響く。
「ヴィディス、もう行くんだ。俺の事は――」
「テディッ!! 俺は信じてるから!! だからッッ!!」
「――仕方ねぇ」
ギャリックの、その声を聞いた。気がする。
「ッ!?」
次の瞬間には意識が遠のいていた。
暗く、落ちる。
何もかも暗く閉じ行く世界で、テディに触れられた手と頬の温度だけがぼんやりと、温かく燈っていた。
〜 5 〜
あれは。
ようやく覚えた刺繍を縫い付けている時のことだ。
テディの方へ顔を上げると、彼がこちらを穏やかに見返していた。
「ヴィディス」
「……なに?」
ヴィディスは首を傾げた。
どこか改まったような様子のテディに何となくドキドキとして、どこか間違ったかな、と手元の刺繍をちらりと確認してみたりする。
でも、彼に言われたのは。
「俺の元で本格的に仕立てを勉強してみてはどうかな」
「え?」
「二階に一部屋空いているんだ。今は物が散乱してしまっているが、片付ければ、それなりの広さにはなる」
「あの……」
唐突だったから、言っている意味が良く分からなかった。
それを気配で察してか、テディは一つ間を置くように優しく微笑んでから、小首を傾げてヴィディスを見た。
「ここに住みなさい、ヴィディス」
そう言われて。
ヴィディスは、初めて知った。
人間の身体は嬉しくても泣くのだという事を。
呼気が定まらないのは胸が震えているからで、指が熱く濡れるのは頬を伝った抑えられぬ涙の所為。
胸のじぃとした熱さが、喉まで燈って言葉が出なかった。
一人で。
ずっと一人で生きていくのだと思っていた。
あの廃墟の屋根裏で一人で、遠く、通りを行くきらきらしたモノ達を眺めて、ずっとずっと生きていくのだと思っていた。
暖かく輝いた場所に、自分の居場所なんてどこにも無いのだと、思っていた。
誰かが、それをくれるなんて、思っていなかった。
「ヴィディス……」
「お、おれ……おれぇ……」
刺繍を入れてる服端だけは濡らしちゃいけないと思って、針を入れたままのそれを両手で持ち上げる妙な格好で、ぐずぐずと視界が崩れていて、きっと顔も崩れていて、テディの姿が良く見えなくて、そうしたら、頭を抱いて、柔らかく叩く大きな手があって。
「お……おれぇっ、いいの……っ? こぉ……ここに、いてっ」
「もちろんだとも」
「て……でぃい……」
声も、顔も、言葉も、ぼろぼろになって。
テディの手が大きくて。
温かくて。
優しい。
それから。
テディの元で懸命に仕事を覚えて、沢山の服を作った。
テディが褒めてくれるから、喜んでくれるから。
そのたびに、自分はここに居て良いんだと、安心出来るから。
◇
「ああ、大丈夫だぜ」
――声が聞こえた。
だが、真っ暗で何も見えない。
声だけが聞こえる。
「元々大した事ねぇんだよ。こう見えて俺は力加減を得意として――あ? はははは、あん時はあん時だろ?」
ギャリックの声だ。
それと、もう一人、聞き覚えの無い少女の声。
ギャリックと何か話している。
首の後ろが、ズキズキと痛い。
「ん、ありがとな。 ……いや、だから、キャプテンって呼んでくれって……ああ、行っちまった。皆してキャプテンって響きにヤな思い出でもあんのか?」
扉の閉まる音がして、ギャリックの独り言だけが聞こえた。
ふと、暗いのは自分が瞼を閉じているからだと気付く。
(馬鹿だ、俺……)
「――て!?」
ヴィディスは急速に覚醒して、眼をかっ開きながらガバッと起き上がった。
「よう、やっと起きたか!」
すかさずギャリックの大声を聞く。
見れば、彼は椅子の背を前にして跨り座って、片手を挙げながらニッカリと大きく笑っていた。
ヴィディスは、けとりと瞬きをしてから周囲を見回した。
小さな部屋だった。
ヴィディスが寝かされている簡易なベッドがあって、木板で打ち合わせた壁には小さく丸い窓が付いている。
隅の方を見遣ればガラクタと価値のありそうな芸術品とがごちゃ混ぜに置かれていた。
そして、ぎぃ、と微かに全体が揺れている。
「ここは……?」
「俺達の船だ。そして、ここは一応ゲスト用の部屋」
「船……」
言われてみれば、昔、エヴィやサンと漁師の船にふざけて乗り込んでみた時の感覚に似ている。
ほぅ、と溜め息を付きながら、またしげしげと部屋の中を見回し……はた、と。
「俺……どうして」
「ああ、悪ぃ。ちっと眠ってもらってよ、担いで運ばせて貰ったぜ」
ギャリックが悪びれなく言う。
「……牢獄から」
「そうだ」
聞いて、ヴィディスは顔を顰めながら、己の半身に掛けられていた薄い掛け布団を握った。
牢で聞いたテディの言葉が、頭の中で繰り返される。
(テディは、自分がやったって、確かに言った……)
あの言葉と、彼の顔とが、黒く胸に渦巻いて、留まって、重い。
今でも、自分は彼がやったなんて、思ってない。正真正銘、たった一人で彼の事を信じている。
でも、何故、彼はあんな事を言った?
考えても、思い返しても、何も分からない。
根拠の無い、無意味に思える想像を幾つも浮かべては、馬鹿馬鹿しいと消し去る事の繰り返し。
もう時間は大分過ぎってしまっていた。でも、結局、何一つ進んでいない気がした。それどころか……。
焦る。そして、また欠片も掴めない彼の思いを探して、ただ、息苦しさが募っていく。
何処にも逃げ場が無くて。時間だけが過ぎていく。その時に向かって、願ったって、一寸だって止まる筈も無く、隅に押し遣っていた絶望が、最悪の未来の想像が、胸をドクドクと打ち鳴らし始める。
「……っ……」
そして、頭が冷静さを取り戻そうとした時には、もう遅いのだ。
心も思考も黒いものに捉えられ、ただ、気ばかりが焦って、ヒリヒリと血が焦げて、吐き出しそうになる。
と――。
「ヴィディス? 起きたんだからよ、早くベッドから降りて行こうぜ! なあ?」
ギャリックが、がたんっと勢い良く立ち上がりながら、さも当然とばかりに言う。
「……へ?」
唐突だったから、ヴィディスは結構な間抜け面になってしまいながらギャリックを見上げた。
「あ……あの……行くって、どこへ?」
ヴィディスが首を傾げると、ギャリックは目を細め口元をニィと伸ばした。
「『本当の犯人』を探しにだよ、日没まではまだ時間がある」
言って、彼は親指で窓の外を差して見せる。
ヴィディスはギャリックを見詰めた。
彼の目が真っ直ぐとヴィディスを見返してくる。
「でも……」
「俺は信じてる」
そう言ったギャリックの目には、嘘も同情も慰めも一切無かった。
その場しのぎで適当に言い放った言葉でもく、彼は本心から、そう言っている。そう感じた。問答無用に。
ヴィディスは彼の目を見詰めたまま、震える喉を鳴らす。
「テディが……自分がやったって言ったの、聞いたのに、なんで……?」
ギャリックは口元を力強く笑ませながらヴィディスの頭にくしゃっと、その大きな手を置き。
「だってよ、お前が信じるって言ってんだぜ?」
「――ッ」
「お前が信じるってんなら、俺は信じる! 何処の誰が何と抜かしやがってもだ! このキャプテン・ギャリック様がお前を信じ抜いてやる!! だから、お前は面倒くせぇ事なんざ考えずにてめぇが信じるままにやりゃいい!」
そして、彼は「なっ!」と言いながらヴィディスの背中をパーンと叩いて、豪快に笑った。
その瞬間。
パン――と風船が割れたような感覚がした。
不安も、迷いも、焦りも……胸に渦巻いていたもの全部、彼の爽快な笑い声に吹き飛ばされていくような。
嘘のように晴れた心に、ヴィディスはぱちくりと瞬きをして。
「ギャリー……」
改めてギャリックを見上げる。
そして、彼と出会ってから、おそらく初めて微笑んだ。
「ありがとう」
ギャリックが楽しげに笑んで、ヴィディスの頭をくしゃくしゃと掻き回す。
「しかし、ヴィディス。お前、目ぇ赤いし顔はぐしゃぐしゃだしよ、とりあえず一回、顔洗って来たほうがいいんじゃぇの? ついでに腹にも何か入れとけ」
「あ……そういえば」
朝から走ったり泣いたり怒鳴ったりで、ロクに食事も取っていない。思い出して、きゅぅ、と腹が鳴った。
軽く溜め息を零してベッドから降りる。
「そうしろ! な? 出たとこ右に真っ直ぐ行けば、調理場があって俺の仲間が居る筈だからよ。そこで水なり湯なり言やぁくれる。後はそこにある食べてぇもん何でも摘んで来い!」
「あ、ああ、分かった!」
そら行け、とギャリックに押し出されるままに、ヴィディスは勢い込んで部屋の出口に向かい扉に手を掛け。
で。
ズッパーン、と勢い良く押し開かれた扉に突き飛ばされた
床に尻を付く。
「――つぅ……」
打った鼻先と尻とを摩りながら見上げれば、扉の端から耳の尖ったあの男の顔が覗く。
彼は床に倒れているヴィディスを見つけると、あちゃーっと顔を顰めてから、謝りながらキュートにウィンクしつつ舌を出して見せた。
その一部始終をギャリックの楽しそうな笑い声が包む。
そして、ギャリックはひとしきり笑ってから、尖り耳の男に片手を挙げ。
「よう、遅かったじゃねぇか! 待ちくたびれてもう行っちまおうと思ってたとこだぜ! で――その顔は収穫があったって事だよな?」
ニィっと白い歯を覗かせた。
ギャリックの仲間が持ってきた収穫は二つの情報だった。
一つは。
昨晩、王城の周りを警備していた兵士が妙な男に出会っていたという話だ。
特に怪しい様子は無かったのだが、変な時間に見掛けたものだから、話し掛けてみたのだそうだ。
しかし、男は話しかけても相槌程度にしか喋らず、ふとした隙にそそくさと路地に入っていってしまった。
あ、と思って追ったが兵士が路地を覗き込むと、既に男の姿は無かったのだという。
その後で王が死に、もしやとは思って上に報告したが、テディが容疑者に挙げられ、すぐに罪を認めた事もあり、うやむやになってしまったらしい。
右耳の半分切れた、黒髪の男だったそうだ。
もう一つの情報は、王殺しに用いられた毒について。
ヴィディスは毒の事なんて知るはずも無かったが、ギャリックには思い当たる事があったようで。
「この国じゃあ馴染みがねぇだろうが、俺たち海賊の間じゃ有名な毒だ。帝国軍崩れの海賊気取りが好んで使ってる」
「それじゃ……犯人は帝国の人間?」
「おそらくな。この辺りじゃ帝国との陸路は二年前から封鎖されてる。封鎖以前からこの国に入り込んでいたか、北を回って船でこの国に入ってきたかだがぁ……兵士が、ほとんど喋らなかったっていう不審者を見つけているって話だから」
「黒髪の耳切れ男! そうか、喋らなかったんじゃなくて、喋れなかったんだ」
「ああ。そいつは北回りでこの国に入ってきたばかりで言葉が不自由だったか、訛りでてめぇの正体がバレるのを恐れた」
「北の国境を越える船が出るのは三日置きだよ。前に出たのが一昨日だから、次の出航は明日……」
「っし、野郎はまだこの街に居る!」
ギャリックが手を打ち鳴らして、マントを翻しながら立ち上がる。
「そういった連中の泊まれる宿なんざ限られてくる――ヴィディスッ、なんか思い当たるとこはねぇか?」
そして、彼はヴィディスに問い掛けながら、大きな股でずかずかと扉の方へと歩んで行く。
「う、うん、えっと……裏町の娼婦酒場くらい……かな。宿に使ってる奴も居る」
ヴィディスは慌てて立ち上がり、わたわたと彼の後を追った。
「よーし! そうとなりゃあ、さっさとトッ掴まえに行くとしようぜ!!」
◇
太陽は見えない。
カビと腐臭の混ざる淀んだ空気、冷たい石積みの壁と太い鉄の格子。
それらに囲まれた小さな部屋は薄暗い。
低い部屋の壁の中腹より少し上辺りに、積み石一つ分開いた小さな四角い窓がある。
そこからこちらへと洩れてくる日差しの欠片の位置が、僅かに変化していく様子から、自分の余命を知る。
数刻前、その窓から伸びていたのは少年の腕だった。
細くしなやかな指先。
自分と同じく傷だらけの指先。
まだ弱い、儚く、幼い指先。
「すまない……ヴィディス」
後悔はしないつもりでいた。
かつて、騎士だった事がある。
退役しても、ずっと心には、その頑なな道を持ち、いつだって己が果たすべき選択を迷う事無く選び取るのだと決めていた。
しかし、あの時……密やかな決断を迫られた時。
浮かんだのだ。
少年の顔が、声が、言葉が、共に過ごした日々が。
――彼を独り残すのか――
選択を決めた自分の声が震えていたのが分かった。
そして、今、やはり自分が零す息は震え、涙が、顔を抑えた手を伝っては、ぼろぼろと落ちていく。
〜 6 〜
陽気に踊るアコーディオン、立ち込める煙草と酒の匂い。
飛び交うスラングと罵声、嘲笑の混ざった酔いどれ達の馬鹿笑い、打ち鳴らされる質の悪いカップから酒が舞って散って零れた床を、女に寄り掛かられた男が踏んでいく。
裏町は娼婦酒場の一階フロアに広がっていたのは、そんな光景だった。
見れば、その奥と、吹き抜けになった二階にはずらっと扉が並んでおり、階段や通路にもダラリと色気を振り撒く女と酒に弛緩した顔の男達が蔓延っていた。
ヴィディスは、その喧騒の中をずかずか掻き分けていくギャリックの背を必死に追っていた。
目尻を垂れた女に手を伸ばされ、からかい声を掛けられるのを振り払いながら、そこら中にたむろっている連中を見回していく。
黒髪、黒髪……何人かの頭を見つける。
耳を確かめようと、つい真剣に見詰めてまっている内に、胡散臭そうに見返してくる男の険相と目が合って、慌てて目を逸らす。
今のは、ちゃんとした耳があった。
胸を押さえながらホゥと息を付くと、同時に、ドンとギャリックの背にぶつかる。
「ギャリー?」
ヴィディスが鼻先を抑えながら、立ち止まっていたギャリックの前の方を覗き込むと、彼の前には彼よりも一回り体格の立派な禿面の男が立ち塞がっていた。
出で立ちから、おそらくギャリーと同じ海賊だろうと分かる。随分と雰囲気は違うが。
「よぉ……ギャリック。てめぇもこの街に来てたとはなぁ」
「ファットか? 久しぶりじゃねぇか!」
禿面の険悪な声とは対照的にギャリックが楽しそうに笑う。
それを受けて禿面の表情が一段階、不機嫌になった。
「フリントだ!! イイ加減覚えやがれッ!! それに――昨日会ったばっかりだろうがよッ!!」
「ああ……? そうだったか? まあ、細かい事は気にすんな。な? 禿るぜ?」
「……相変わらずふざけた野郎だ……昨日、俺達の邪魔ぁしやがったこと、忘れたとは言わせねぇぞ……」
「邪魔? ……ああ、ありゃお前の船だったのか」
何やらヤバそうな雰囲気になってきてるようだったので、ヴィディスはギャリックのマントの裾を、掴んでチョイチョイっと引っ張った。
ギャリックが、ん?、とこちらを見下ろす。
「えっと……どうなってんの?」
「ああ、ちょっとな。昨日、連中がケチな商船相手に品のねぇ暴れ方してたんで、ちょっかい掛けてな。それを怒ってるらしい」
「……なるほど」
ヴィディスは頷いて、禿面の方をもう一度見遣った。
と。
禿の後方、の二階の廊下。
遠くに見掠める、黒い髪。
耳は――切れてる。
「ギャリー!」
ヴィディスはギャリックのマントを思いっ切り引っ張りながら、男の方を指差した。
「お、居るじゃねえか!」
「ギャリーック! 俺を無視してんじゃねぇ!! チッ――野郎どもォ!」
禿面がその手に持っていた酒瓶をテーブルの端に叩き付け砕く。
それを合図に、そこらに座っていた男数人が腰にぶら下げたサーベルなり銃なりに手を掛けながら立ち上がった。
「ヴィディス、剣は使えるか?」
ギャリックが禿面の方へと踏み込みながら問い掛けてくる。
「う、うん!」
ヴィディスはそれに応じながら、体勢低く踏み出していた。
二階の部屋の奥に消えていく黒髪男を見詰めながら、いきり立つ男達の隙間を抜ける。
「よし、これを使え!」
ギャリックが、禿面の腰にぶら下がっていたサーベルを引き抜きざまに、
「あ、てめぇっ!?」
フリントの一撃をかわしながら、それを空中へ放り投げた。
ヴィディスは、椅子とテーブルを順に踏み飛んで、空中で回転していたサーベルの柄を取る。
そして、銃を抜いていた男の顔面にワンクッション入れてから着地し、振り下ろされてくる刃をサーベルで捌いて流した。
と、幾つものテーブルが派手にひっくり返って大量の酒瓶が宙を舞った。
ギャリックに投げ飛ばされた禿面が突っ込んだのだ。
放り上げられた酒瓶らが、床に落ちて割れる頃には大乱闘で。
気付けば、フリントの一味以外の連中まで思い思いの得物を手に暴れ始めていた。
男達の怒号と悲鳴、女達の悲鳴と笑い声、飛び交う金属音と銃声と砕音。アコーディオンが、ぶんがらぶんがら踊り鳴る。
ヴィディスは、争う人混みの間を抜けて、目の前を掠めた鉛玉が柱に穴を開けたのを尻目に階段を駆け上がった。
その横を、いつの間にかフリント一味を叩き伏せていたらしいギャリックが並ぶ。
その服の所々に何やら紙切れや部屋の鍵が差し込まれている。
「ギャリー……どうしたの? それ」
ヴィディスが怪訝に問い掛けると、ギャリックは軽く眉を傾げ「わかんねぇ」と言い切った。
「女達が勝手に押し込んできやがった」
「それって……」
「そんな事より――どの部屋だ?」
階下にドンチャン騒ぎを残して、階段をだだだっと登り切る。
「あ、えっと、奥から三番目!」
時々、下から飛んでくる鉛玉がボロイ木の板を砕く中を駆け抜けて行く。
そして。
「ここ!」
「おっしゃぁああああ!!」
ギャリックが部屋の扉を蹴り飛ばす。
ズダーン、と薄暗い部屋の中に蝶番も鍵も破壊された扉一枚が蹴り倒されて巻き上がる埃に塗れて。
黒髪の男が、目を白黒させながら『外国語』で喚き立てている。
ギャリックはずかずかと彼の前へと歩んでいって――
ごん。
と、彼を叩いて昏倒させた。
「よーし、ヴィディス。こいつ縛り上げとけ!」
「ああ!」
ヴィディスがベッドのシーツを裂いて、それで男の手足を拘束していく。
その端で、ギャリックはテーブルの上に広げられていた空き瓶どもをザァッと払い落として、男の旅鞄をドンとそこに乗せた。
そして、鞄の中身を漁っていく。
収まっていたのは、着替えなどの生活用品に加えて、酒、煙草、蛙の置物、この国の城の見取り図、街の地図、帝国の出入国許可証、偽造された他国の証明書……そして。
「おい、ヴィディス! あったぜ!! 毒と針だ!」
「ッ!!」
ヴィディスがこっちに飛んでくる。
そして、テーブルに並べられたそれらを見て、声を震わせた。
「これで――これで、テディを助けられる!」
言って、ヴィディスが窓の外の方を見る。
窓の外、重なり合って風景を閉ざす建物の影の隙間に、赤く染まった空が見えた。
「もう時間が……ギャリー! 俺、先に行くよ! 処刑を待ってもらうように言わなくちゃ!!」
ヴィディスが早口で並べ立てながら部屋の外へと向かい始める。
「おう、急げ! 俺ァこいつを担いでそっち行くからよ!」
「ごめん、頼むよ!」
そして、ヴィディスはそう言い残して、まだ喧嘩囃子の騒ぐ部屋の外へと走って行った。
と、ひょこっと顔だけが部屋の口に戻り。
「ギャリー、ありがとう!!
嬉しそうな笑顔がそう言う。
ギャリックは大口開けて笑って。
「いいから行け! テディを早いとこ首切り台から引き摺り降ろしてやれ!!」
はっぱを掛ける。
「ああ、分かってる!」
元気の良い返事を残してテディの顔が引っ込んで、軽やかな足音が駆けて行く。
「さて、俺はこいつを連れて……」
ギャリックは、ベッドの足元に拘束されて転がされている黒髪男へと視線を巡らせ……ふと、止まった。
テーブルの上に並べた男の荷物、その中にある蛙の置物が妙に気になった。
そちらに視線を返し、それを掴み上げて、軽く振ってみる。
僅かな違和感。
置物を掲げて、角度を変えながらそれを観察して見る。
裏側に少し妙な形に欠けている部分がある。
ギャリックがサーベルの先を掛けて、力を入れると、カコっと蛙の置物の底から蓋状の物が取れて、折り畳まれた小さな紙束が落ちた。
「ああ?」
ギャリックは怪訝に眉を顰めながら、その紙を拾い上げた。
〜 7 〜
夕暮れ。
広場に組み上げられた断首台は、赤い空を背景にして影絵のように黒く在った。
重たげな刃の下。
一人の男の首が固定されていた。
男は後ろ手に縛られ、ほつれた髪を零しながら頭を垂れて、その時を待っている。
そこには多くの人達が居た。
ほとんどの人間が怒りと憎悪を持って、その男を見ていた。
時折り、罵声や泣き声交じりの恨みがましい声が飛ぶ。
男は、ただ静かに、それらを一身に受けていた。
広場から連なる大通りの先。
そこに広がる海の果てで、揺らいだ太陽の端は、その縁を水平線へと押し付け、尚もゆっくりとゆっくりと沈み続けていた。
少年の声が響いて。
「……ヴィディス……?」
男はゆっくりと、顔を上げる。
「待って! テディは王を殺してなんかいない!! 犯人を見つけたんだ! 俺達は王を殺したヤツを見つけたんだよ!!」
ヴィディスは、そこに集まる人々を押し退けながら、必死に叫んだ。
彼を中心にざわめきと動揺が広がっていく。
断首台の周りや上に居る兵士達の顔にも、同じように動揺が浮かんでいた。
「テディッ!」
ヴィディスはやっと人々の中から抜け出し、取り押さえようとした兵達の手をすり抜けて、断首台をよじ昇った。
群集に混じっていた街の仲間が驚きながらヴィディスの名を呼んでいるのが聞こえる。
ヴィディスは断首台の端に足を掛けた格好で、固定具に首を拘束されたテディの顔に手を伸ばした。
「……ヴィディス」
「テディ、もう大丈夫だよ! ギャリーと一緒に犯人を見つけたんだ!」
垂れた栗色の髪の奥で、彼の無精髭の生えた頬に触れる。
それから、ヴィディスは断首台の上に立ち、群集を見回した。
「皆、聞いてくれ!!」
大勢の人間の顔が様々な表情でヴィディスを見上げていた。
兵達も、今はヴィディスが次に言い出す言葉を待つように、その動きを止め、ヴィディスの方を見ている。
ヴィディスは肩で大きく息をして、落ち着かない口元を乱暴に拭ってから、そこに居る全員に、全ての人間に向けて。
「王を殺した真犯人は――――」
「俺だッッッ!!」
その声は。
思わぬ所から聞こえた。
「…………え?」
ヴィディスは、一瞬、何事か分からずに、ただ、ボゥっとそこに立っていた。
「俺だ!! 俺が王を殺した!!」
その声は、良く通る声をしていた。
ヴィディスは、震えを帯びながらゆっくりと、ゆっくりと、足元を見下ろしていく。
「テディ……?」
「他に犯人など居る筈は無い! 俺が王を殺したのだ!!」
「……何、言ってんだよ……?」
尚も、テディは叫び続ける。
「王は俺の仕立てた服に、ケチを付けた! 何も分かっていない愚か者だったッ!! 俺の素晴らしさの分からない者など生きていても仕方が無い! だから殺してやったのだ!!」
群集の怒りが、憎しみが、無数の罵声となって押し寄せ、広場を揺らし始める。
「テディ……テディ……テディ、やめろよ……なんで、なんでそんなこと言うんだよ……――ッ!?」
背中に痛みを感じて、ヴィディスは息を吐いた。
足元にヴィディスの背に当たった石が転がる。
それを皮切りに、そこら中から様々な物が罵声と共に断首台へと投げられ始めた。
「皆ッ、違うんだ! 犯人はッ、犯人は違うんだ! 帝国のッ!!」
誰も、ヴィディスの声を聞く者は居なかった。
兵士達がヴィディスを断首台から引き摺り降ろしていく。
「テディッッ! なんでッ! なんでッッ!!」
兵達に地面へ落とされても、ヴィディスは泣き叫びながらテディへと必死に手を伸ばしていた。
それも断首台へと押し寄せる群衆に飲み込まれてしまえば見えなくなる。
黒々と蠢く人の影が視界を埋め尽くす。
人々に押し潰されながら涙を流して叫んだ声が罵声に掻き消されていく。
何度も何度もテディの姿を求めて、手を伸ばして、喉が千切れるほど叫び続けて、大人達の身体に押され、引き摺られ、倒され、踏まれる。
それでも、叫び続けた。
と――。
大きな手が。
ふいにヴィディスの腕を掴んで、ぐっと身体を引っ張り上げた。
「ギャリー!?」
ギャリックは、揺れ動く民衆の中にあって、微動だにせず雄々しく立っていた。
「犯人は!? 犯人はどこ!? 犯人さえ突き出せばテディは!!」
「それは……出来ねぇ」
「――え?」
ギャリックの腕が、もう顔も服も頭ン中もぐちゃぐちゃになって泣くヴィディスの頭を強く抱く。
「全部分かってたんだよ、テディは」
周囲には、殺せ、とか、悪魔、とかそういった言葉が相応の熱を持って止め処なく膨れ上がっていた。
「黒髪の男が、帝国の密書を持っていた。そこには帝国の狙いが二つ書かれてたよ。一つは、王を失う事による混乱だ。もし、テディがすぐに『自白』をしていなければ、王殺しの犯人やその意図を巡って王室内は泥沼になっていた。指揮系統の混乱した国へ攻め入るのは容易い」
空には赤を追い遣る藍色が見え始めている。
「そして、もう一つ。もし、暗殺者が捕まったとしても……帝国に王を殺されたと知った王室と民衆が向かうのは……報復戦争だ。北の同盟の手前、この国から攻めちまったら他国は支援出来ない」
ギャリックは、真っ直ぐと断首台を見ていた。
「テディは王を殺した毒に気付いた時から、いや、捕まった時から、分かってたんだ。この国を守るにはそうするしかねぇって」
「待ってよ……だからって……だからって、テディが死ななきゃならないなんておかしいよ!! テディは何もしてないのに!!」
「あいつは守りてぇんだよ! ここに居る連中を!!」
断首台に向けられているのは、謂れの無い罵りと暴力、熱狂した蔑みと憎しみだった。
皆、何も知らないで、好き勝手に喚き散らしている。
ヴィディスはギャリックの胸元の服を掴み、涙を流しながら呻いた。
「――こんな奴らのためにッッ!! 嫌だよッ!! 失いたくないッ!! テディは俺の居場所なんだ! 俺のッ、たった一つのッッ! テディが居なくなったら、俺は、誰の為に、何の為に、服を作ったらいいッ!?」
二人で摂る食事は一人で食べるそれの何倍も美味しいということを。
誰かが傍に居て、分かり合ってくれることを。
ただいまを言える人が、おかえりを言ってくれる人が、そこに居る暖かさを。
自分の居場所を。
全部、全部、テディがくれた。
大好きだった。
ずっと傍に居たいと思った。
彼と過ごす日々を、なによりも失いたくないと思った。
でも、それが、奪われる。
こんな事で。
「こんな奴らを、守る、ために――」
「信じろ、ヴィディス」
ギャリックの手がヴィディスの頭をぐしゃっと撫でた。
「……え?」
見上げる。
ギャリックは、揺ぎ無く真っ直ぐとした瞳で断首台を見詰めている。
強く雄々しく彼の口は刻んだ。
「テディが信じて選んだんだ。お前が信じ抜いてやらなくてどうする! 何処の誰が何て言いやがっても、テディが守りてぇものを、選択を、信じ抜いてやれ!!」
そして、飛び交う罵声の中に、先ほどまで無かった言葉が混ざっている事にヴィディスは気付く。
――退けッ!!――
――邪魔だ! 何してんだッ!? ――
――庇うつもりなのかッ!? ――
ヴィディスは、断首台の方を見た。
「……皆……」
いつの間にか、身体を打つ物が少なくなっていて。
テディは口の中が切れて溜まっていた血をドロリと唇の先より垂らしながら顔を上げた。
そこには、ユナの旦那が居た。
断首台の前に手を広げて立っている。
妙に身長が高いと思ったら、下でユナが肩車をしていた。
そして、マーチが居た。マーチの両親が居た。鍛冶屋が居た。パン屋が居た。酒屋が居た。エヴィやサンに、皆が、居た。
まるで壁のようにぐるりと断首台を取り囲んで、飛んでくる石を受けている。
「よぅ、テディ。はは、ひでぇ顔だな」
鍛冶屋が笑う。
「あは、は……そうかい?」
「良い男が台無しだよ」
ユナが呆れたように言う。
「皆……何故、こんなことを……俺は、王を……」
「あたしたちゃ誰もアンタが王を殺したなんざ思ってないさね」
「でも、なんだか分かんねぇけどテディがそうするってんだ、止めやしねぇよ」
「なんたって、アンタの仕事に間違いはねぇからなあ」
鍛冶屋が言って、皆が笑った。それぞれボコボコと石をぶつけられながら。
テディは、
「はは……ありがとう。皆」
穏やかな笑みを浮かべて軽く笑った後に、微かに首を巡らせた。
「ヴィディスは――」
「あそこに居るよ」
ユナが旦那を肩車したまま横にずれる。
開いた視界の先、群集の中に一際目立つ海賊が立っており、その傍に泣きべそを掻いたヴィディスが居た。
この街で出会った、きらきらと光る宝。
「……テディ……」
ヴィディスはテディを見詰めていた。
優しい顔をしている。
いつもの。
「…………ッ」
食い縛った歯がガタガタと鳴っていた。
涙は止まらない。
どうする事も出来なかった。
罵声は止まない。
日はもうじき沈む。
テディは、もう決めているのだ。
だから、本当は、自分が一番、信じて、笑っていなきゃ駄目だった。
大丈夫だよ、って、俺は、心配、無いんだって……
でも。
「……そんなこと、できるわけ……ないじゃないか」
ぼろぼろと涙を零しながら俯く。
離れたくない。
もっと、沢山の日々を過ごしたかった。
もっと、色んな事を教えてもらいたかった。
「……ヴィディス、もっと、お前の傍に居てやりたかった……」
もっと、見守っていたかった。
もっと、沢山の事を教えてやりたかった。
テディは零すように寂しく微笑んでから。
彼の傍らに立つ海賊を見た。
その強く真っ直ぐな瞳。
『ヴィディス』を信じて、共に真相まで辿り着かせた男。
テディは大きく息を吸い込み、傷付き疲労した身体を震わせて、
「行きずりの海賊よッ!」
高らかに叫んだ。
「お前に、”俺”の大切な宝を託していいかッッ!!」
その声が、この熱狂的な大騒ぎの中で、綺麗に通って群集の間を渡って。
ギャリックは豪快に、盛大に、爽快な笑い声を上げた。
それは周囲の連中の狂熱を吹き飛ばすように鳴って、あれほど狂い騒いでいた罵声を黙らせた。
そして、ギャリックはニィッと大きく笑みを浮かべ、ヴィディスの前へと進み出る。
「キャプテン・ギャリックッッ!」
静まり返った暗がりの広場に、晴れ渡る晴天のような彼の声が響き渡る。
「そいつが、王殺しの大悪党トルド・ダーケ・バンスに宝を託される男の名だ!」
それは断首台の上へと真っ直ぐに届いて行く。
テディが口元に笑みを刻む。
「――ヴィディス」
ギャリックの大きな手がヴィディスの肩を掴み上げて。
ヴィディスは、涙で濡れた顔を上げた。
そして。
ギャリックは豪快に、言った。
「お前は俺の為に服を作れ!!」
その言葉と風景とが。
今でも心に熱く残っている。
赤と黒と紺色の混ざる空、影絵の断首台、黒々とした群集、ボロボロになって笑う皆、テディが最期に浮かべた笑顔――
ギャリックのただただ真っ直ぐに力強い瞳。
忘れえぬ出会いと別れの記憶。
悲しみと嬉しさが、残酷さと優しさが、混沌と入り混じる、大切な二人の男の記憶だ。
あれから、ギャリックの船で広い海へと出て。
テディの剣と共にギャリックと多くの仲間達と広い海を巡って、様々な場所へ行き、多くの冒険をした。
その間に船員達の服を繕って、時には仕立てた。
ギャリックの服は全てヴィディスの仕立てたものだったが、よくボロボロになったので他の船員達の倍は替えを作った。
仕立て屋の力を試そうとショーに出品した事もあって、好評を得、貴族の常客も付いた。
そうしている内に。
ギャリック海賊団の仕立て屋ヴィディー。
いつしか、そう呼ばれるようになっていた。
「……そういう、話さ。もう何年も前の」
隣の部屋では、相変わらずギャリックのいびきが鳴り響いていた。
ヴィディスは作業をしていた手を止めて、傍らでこちらを覗き込んでいるリスのような姿の雑貨を見遣った。
マッジと名付けたそれは、まるで生きているかのように首を、こてっと傾げて、その黒粒の瞳でヴィディスを見返してくる。
ヴィディスは、それにニコリと微笑みかけてから、疲れた目を閉じて、波の音とギャリックのいびきの音に耳を傾けた。
皆は信じられないというけれど、ヴィディスにとってギャリックのいびきは安らぎの音だ。
ぎぃ、と浅く傾く部屋。
明日には街に着く。
あまり長く留まる予定では無いから、なるべくなら今日中に作り上げてしまいたい。
「……ん、やるかな」
呟いて、瞼を開ける。
ヴィディスは短い休憩を終えて、再び、作業に戻った。
ミシンの音が、また響き始める。
◇
その街の外れの岬には、ひっそりと作られた墓がある。
それは賢王を毒殺した狂人トルド・ダーケ・バンスの墓だと言われている。
しかし、不思議なことに、その墓は大悪人の墓であるというのに、毎日、街の誰かによって新しい花が供えられているのだそうだ。
そして、時々、花と一緒に、妙に仕立ての良い服が供えられている事が、あるのだという。
:: :: :: ::
$仕立て屋ヴィディーとキャプテン・ギャリック$
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クリエイターコメント | この度はオファー有難う御座います。 少年と海賊の出会いを書かせて頂きました。 そして、長くなってしまいました……。 申し訳ありません。 しかし、読み終えてくださって、ありがとう御座います。
心理描写、言動、場面などなどイメージと異なる部分があれば遠慮なくご連絡ください。本当に。 出来得る限り早急に対応させて頂きます。 |
公開日時 | 2009-06-26(金) 18:30 |
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