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<ノベル>
頭上に広がる曇天を見上げ、森部 達彦(モリベ タツヒコ)は深く息をついた。
学校からの帰り道である。
普段より下がり気味の肩から落ちかける鞄を何度も掛け直しながら、足早に達彦は居候先の薄野家へと向かっていた。
アクション映画『銃の見た夢』から実体化したムービースターである達彦は、齢14ながらも殺し屋の見習いである。それと同時に、彼は学生だ。
学校に通いながら一人前の殺し屋を目指し修行していた達彦は、映画の中と同様実体化後のこの銀幕市でも、綺羅星学園に通っていた。
師匠の命だった。
殺し屋を目指すと決めた時、すぐにでも本格的な修行に入りたいと主張した達彦と兄弟弟子の退学希望を、彼らの師は許さなかった。
『俺から得られない物は、そこで学び取ってこい』
そう言って笑った尊敬する殺し屋の教えは、実体化後でも変わることはなかった。
その為達彦は今も、昼は学校、放課後は修行という生活を送っている。
今日も帰宅後は稽古の予定だった。
古流武術の使い手である達彦の為に、師匠は特別メニューの組み手を考えてくれた。今週から新たに突きと二段蹴りを取り入れたコンビネーションが加わっている。
早く習得したいし、毎日続けている基礎体力向上の為の鍛錬ノルマもある。
先生のように強くなりたかった。早く一人前になりたかった。
時間は幾らあっても足りなかった。
それなのに……。
「はぁ〜」
空は今にも降り出しそうな程暗く、肩から提げる鞄はどこまでも重い。
「もう、どうしよう……。あれ?」
前方に見知った背中を認め、達彦はため息を飲み込んだ。
同じ師の元で学ぶ、兄弟弟子の古辺 郁斗 (フルベ イクト)である。制服姿と時間帯から見るに、彼も学校からの帰りのようだ。
それまでの沈んだ表情から一転、感情を読ませぬ無機質な色に面を変え、達彦は駆け出した。
すぐさまルールに則り、気配を絶ち方向を転換する。
ここから薄野家へ向かう経路はそう多くない。ならば郁斗が辿るであろうルートも自ずと絞られてくる。
頭の中でここら一帯の地図を展開させながら、達彦が向かうのはこの先の細い小路。隣接した民家の隙間で猫くらいしか通らない道だが、ここからなら先回りが出来る。
素早くその隙間に身体を滑り込ませ、達彦は路面を蹴った。
向こうはまだ自分の存在に気付いていない。郁斗の歩く早さから接触は家の手前の、角のポスト。不意打ちを狙うには格好の場所だ。
(勝った……!)
勝利を確信し、口の端に笑みを浮べたその時。
「――取った」
「!!」
細道を抜けた瞬間だった。
下方からの声と気配に、反射的に身体を捩り足を振るう。
手ごたえは掠ったつま先の僅か。空に血が飛んだ。
避けるその軌道さえも読んでいたのか肩の辺りで衝撃が弾ける。
「ああっ」
アスファルトの上、これが実戦ならば自分を確実に貫いていたであろう輪ゴムが音もなく落ちた。
悔しさに顔を歪める達彦の視線の先には、路面にしゃがみ込んだ郁斗がこちらに向け指を構えていた。
「ちぇっ。急所は外したか」
「気付いてたんですかぁ?」
血の滲んだ頬を手の甲で擦りながら、郁斗は立ち上がった。
「あんな住宅街のど真ん中でいきなり気配消したらバレバレだっての」
「うぅ〜」
入門してからこれまで、幾度となく繰り返されてきた2人の勝負だった。
――狩る者として、狩られる立場になってから初めて分かる事もある。
これも、彼らの師の教えだった。
ルールは放課後、スタートは相手を見つけたその瞬間から。先に先制攻撃を加えた方の勝ち。
初めの頃こそ、高い身体能力を有する達彦の方が勝利する回数が多かったが、最近は郁斗も『風読み』の能力を使い大気の流れから相手の存在を察知し、今日のように巧みに達彦を出し抜くようになってきた。
狙った心臓は外したが、それでも郁斗の輪ゴム銃は確実に達彦を捕らえた。対する達彦の蹴りは、郁斗の頬を掠めただけ。
今日の勝負は、郁斗の勝ちだ。
これで13勝13敗6引き分け。
昨日までは達彦がリードしていた。でも今日でまたイーブンだ。
「さってと。帰るか……」
勝ったはずなのに、乱暴な動作で制服を肩に担ぐ郁斗の表情はあまり晴れやかではない。
「どうしたんですかぁ? あまり嬉しそうじゃないですね」
「あ〜……」
2人肩を並べ帰路につく。
小柄な郁斗と、中学生にしては背の高い達彦。
2歳差の2人。どちらもまだ成長期の途中ではあるが、こうして並ぶとその高さは同じになる。
口を尖らせた子供っぽい表情のまま、郁斗は深く息をつく。
「宿題が出てよ……。もう全っ然分かんねぇの。稽古もあるってのに、あ〜頭痛ぇ」
「え〜? 郁斗もですかぁ?」
「……ってお前も?」
頷く達彦の顔も、郁斗に負けず劣らず暗い。
「難しくてお手上げなんです。もうどうしたら……」
その時、頭に浮かんだのは家の大人達の顔だった。
まるで下宿のように数多くのムービースターが同居する、居候宅。頭数だけは揃っている。
浮かんでは消えていく彼らの顔。
もしこの先あの家が襲撃される事があっても、すぐさま返り討ちだろう。それ位あの家にはツワモノ達が揃っている。
しかし、事勉強となると途端誰もが頼りなく感じる。
唯一頼りになりそうなのは、家主のあの人くらいだろうか……?
しかしこの時間は恐らくまだ大学だ。
「はぁ〜」
2人揃って盛大にため息をつく。
今にも泣き出しそうな空は、まるで自分達の心のようだった。
一方その頃。
薄野家の居間では、殺し屋見習い達の師である小暮 八雲 (コグレ ヤクモ)と、ちょうどその日遊びに来ていたレイドとルシファが居間でまったりと寛いでいた。
「あはは、ハレくすぐったいよぉー。頬っぺたじゃなくって、コッチ! ホラ、ジャンプ! ジャンプぅ!!」
薄野家の愛犬ハレとじゃれ合いながら、可愛らしい声を上げているのはルシファだ。
自分の2つに結わかれた白い髪のひと房を手に取り、仔犬に向け振ってみせる。
しかしハレが興味を示しているのは、ルシファ自身。どうやら仔犬は少女の事が大好きなようだ。
千切れんばかりに尾を振りながら、しきりにルシファの顔目掛け小さな前足を伸ばしている。
無垢な少女の笑い声に、愛らしい仔犬の姿。心和む光景だった。
その傍らには、ソファに身を沈めるレイドの姿がある。
レイドは悪魔だった。そしてルシファは天使である。
互いに互いを憎み、滅ぼし滅ぼされる宿命を背負った2つの存在。
しかしその世界で、男は少女と出会い、共に生きる道を選んだ。それは揃って銀幕市に実体化してからも変わらなかった。
レイドにとっては既に生きる意味でもある、穢れ無き少女。
そんなルシファの片割れであり、保護者でもある悪魔の男は、いつものように彼女にだけ向ける優しい眼差しで、愛しむようにルシファを見つめ……
「俺、この間また腰から変な音した」
……ては、いなかった。
前のめりで両膝に肘を乗せ顎の下で手を組んだレイドは、虚ろな目で虚ろなため息を漏らす。
「……おかしい。なんかもうどんどん悪くなっていく気がする。年、年なのか、俺…? もうそろそろ引退…? って、いやいやいや俺はまだまだヤれるゼ現役バリバリ……って、だああぁ、うっせぇ! 頭の中に勝手に湧いてきて勝手に好き勝手な事言ってんじゃねぇ、お前ら!! 俺はオッサンでもお父さんでもロリコンでも変態でもねぇって言ってんだろ、コラアァァッ!!」
何やら勝手に受信し、それに対し何やら勝手にブチ切れているレイド。
どうやら大分疲れとストレスが溜まっているようだ。
必殺・独り言から脳内弄られエアー逆ギレ。傍から見るとかなり怖い。
弄られツッコミ体質の彼は、銀幕市に来てからはそういった意味で忙しい日々を送っていた。
そんなギリギリの状態の客人を目の前にして。もてなす側である筈の八雲はその向かいの席、突如咆哮するレイドの様に、慌てるでもツッコむでもフォローするでもなく。
ただ1人、
「最近、鎮さんがコーヒーを入れてくれない……」
勝手に愚痴っていた。
「え、なんでだろ。俺なんかした? なんか鎮さんの気に触るような事したか? ……ハッ、まさか! 生ゴミ新聞にくるまず捨てたのバレた? ハレの散歩サボったのバレた? 言われてたクリーニング忘れてて、1日遅れて取りに行ったのバレた?」
自分で言っている内に、どんどん色を失くしていく八雲。
「……で、なければ。もしかして。もしかしなくても」
その顔色が、青から土色に変化を遂げた時。
「鎮さんのお気に入りのカップ割っちまったの、遂にバレたッ!?」
ギャー殺されるー、と。恐ろしい悲鳴を上げながら、凄腕の殺し屋は頭を抱えソファの上ごろんごろんとのた打ち回った。
いい年した男2人が、である。黙っていれば、迫力もオーラもある壮年の格好良い男達であるというのに。
そんな大人達の姿を目の当たりにし、しかしルシファは笑っていた。
「あはは、見てみてハレ。レイドとやっくんは今日も仲良しさんだねぇ! 楽しそう!」
この家では、こんな2人の様は日常茶飯事のようだ。
阿鼻叫喚の平日のひととき。
そんな男達の錯乱に終止符を打ったのは、少年達の帰宅の声だった。
「たっだいま〜……」
「戻りましたぁ……」
「あっ、いっくんとたつ君帰ってきた! おかえりなさぁーい」
「おう、お帰り」
「邪魔してるぜー」
「あ、レイドさんにルシファさん。いらっしゃいですぅー」
賑やかな出迎えに、弟子2人組はレイドとルシファに向け頭を下げた。
いつもならすぐさま稽古をつけて欲しいと強請ってくる2人が、何故か今日はどこか暗い表情のまま沈んでいる。
「どうした、お前ら?」
その異変に、八雲が弟子達に声をかける。
途端、表情を歪ませて郁斗と達彦は泣きついてきた。
「先生ぇ、助けてください」
「なんだなんだ?」
「宿題出されたんです。達彦も、自分も」
「宿題?」
「もう凄っい難しくて。今日中に終わるかどうか自信ないんですよぉ。早く稽古したいのに」
「先生、教えてくれませんか?」
「……宿題って、なんだ?」
眉を寄せる八雲に、2人は声を揃えて答えた。
「数学です」
奇しくも、それは同じ教科だった。
「す、数学……」
呟く声が、薄野家の居間の重く響き渡る。
窓の外、空を覆っていた雲は更にその厚さを増し、暗く銀幕市を陰らせた。
何故か急に張り詰めた空気の中、レイドが恐る恐る声を発す。
「……け、計算、だよな? 足すとか引くとか掛ける、とか」
「すごい! レイド掛け算出来るのっ!?」
キラキラと瞳を輝かせるのはルシファだ。
レイドとルシファが元いた世界には義務教育など無く、もちろん2人は学校に通った事はない。
レイドは幼い頃共に暮らした恩師に習い算数が出来る程度、ルシファに至っては1から20までの足し算、引き算が出来るレベルでしかなかった。
レイドは恐る恐る八雲を窺った。
闇の世界で、死と血の海の中生きてきた彼。殺し屋のこの男が、学校に通っていたという話は聞いた事ないし、想像も出来ない。
しかし、目の前には窮苦に瀕した若い弟子達の姿。
師として長として、一体彼はどのように答えるのだろうか。
苦労人同士同盟の盟友が見守る中、八雲は落ち着いた仕種で静かにソファに身を沈めると鋭く眼光を光らせた。
「――ここに」
ともすれば、背後に暗雲を背負い、ゴゴゴゴゴと効果音でも聞こえてきそうな緊迫した表情で、
「リンゴが1個あります」
唐突に八雲は言い放った。
もちろん、空を掴むように握られた彼の手には何も無い。
「……ないだろ」
「あります」
「いやねぇって」
「あ、忘れてた。はい、リンゴ! おみやげだよ。いっくんとたつ君にもどーぞ。えっと、いつもお世話になっていますです」
「これはご丁寧にどうも」
ビニール袋をガサガサさせ、両腕で差し出したルシファはペコリと頭を下げた。
つられるように、達彦も受け取り頭を下げる。
ルシファのたどたどしくも懸命な姿に、親馬鹿ぶり全開でレイドはよしよしちゃんと言えたなエライぞ、と目を細めている。決して口に出してはいないが、突如ぶわっと溢れた優しいオーラに彼の心中は駄々漏れである。
ルシファにリンゴを握らされ、八雲は満足そうに頷いた。
「よし、あります。おいレイド、これ六等分にしろ」
「ああ?」
「いいから早く」
ルシファを見て相好を崩していたレイドは、八雲の指名に面倒臭そうに立ち上がる。
人遣いが荒い家だな、と文句を言いつつも、レイドはテーブルの上のリンゴを愛用の腰の剣でキレイに割った。
「リンゴを切った銀幕太郎はこれの半分を……」
「切ったのはレイドだよー?」
「おう、んじゃ銀幕レイド太郎はこれの半分を」
「ぶっ。何だそりゃ!?」
「あはは。レイド太郎だってぇ、レイド」
「銀幕花子はこれの3分の1を食べました」
「ええー私も食べたいー」
「よし。んじゃ銀幕ルシファ子はこれの3分の1を食べました」
「やったぁ!」
「リンゴはあとどれだけ残っているでしょうか?」
「んんー? 俺が半分に、コイツが3分の……」
シャリシャリシャリ。
「甘くて美味しいねー」
「あ、ルシファ食いやがった!」
「えへへ、食べちゃった」
「あーもう問題分かんなくなるだろー?」
「あ、コラ、まだそれ芯取ってなかったろ!? 馬鹿、ペッしろ。ぺッ!」
「もう飲んじゃったよー」
「ったく。美味くなかったろ。今こっちの剥いてやるから」
「あ、じゃあねじゃあね! レイド、ウサギさんにして!」
「おう、ウサギさんな」
「うわぁい!」
ショリショリショリ。
「……しょーがねーなー。リンゴはこっちの紙に書いておくか」
きゅ、きゅきゅー、きゅきゅ。
「八雲…お前絵下手だな……」
「うるせぇ。分かればいいんだよ、分かれば。……よしっと。さあ、これでどうだ?」
「俺が半分。コイツが3分の1」
「全体の3分の1な」
「えっとぉー。これがレイドの分でしょぉ? で、私がこっち。残り……ちょっとだけ?」
「それじゃ具体的にどれ位か分かんないだろ。リンゴは6つに分かれてんだ。で、3分の1ってーのは、3つに分けた内の1つだ」
「おお。3分の1は、6分の2と同じって事なんだな」
「えっとぉ。じゃあ、レイドは1、2、3と。私は1、2で。残り1つ。……6分の1?」
「そうだ」
「「おお〜!」」
天使と悪魔から上がる感嘆の声。
それを受け、ニッと口角を引き上げた八雲は傍らに立ち尽くしたままの弟子2人に振り返った。
「どうだ?」
どや顔全開で、胸を反らす八雲。
「どう……」
どうだと、言われても。
それは宿題の問題とは何も関係ないし、今のやりとりを自信満々に見せられても何の役にも立ちはしない。
「先生……」
何より一番の違いは。
「すっげぇ言い難いんだけど。算数と数学は違います」
「ええっ!?」
だってそれは分数で、小学生レベルの問題なのだ。
先生の事は尊敬している。殺し屋として、学ぶべき物はたくさんある。
もちろん完璧な人間など居ない事は分かっているし、現に八雲がこの家の家主にからかわれている所なんか、それはもう見ていてかなり情けない。
そんな師匠の姿を見るたびに、達彦は憤慨し、郁斗は家主の方に尊敬の念を抱き始めている。
だからと言って、八雲への尊敬と信頼は、決して2人の中で変わる事はないのだけれど……。いや、でも。これは…酷い……。
複雑な表情のまま、2人は躊躇いがちに問題集を開いてみせた。
「自分は因数分解です」
「僕は二次方程式なんですよぉ」
「んなっ!?」
覗きこむなり八雲は素っ頓狂な声を上げた。
「何だよ、このバッテンとワイングラスは。狙撃ポイントかよ!?」
「……『x』と『y』です」
「馬鹿野郎、それくらい分かってる。え? で? これをどうするんだ?」
「当てはまる数字を計算するんです」
「はぁっ!? そんなモン分かるかっ! 俺は殺し屋だ、エスパーじゃねぇ!!」
ああ、やはり、と少年2人は同時に息をつく。
無駄だと分かってはいたが、一縷の望みをかけ、師匠の客人に瞳を向ければ、レイドは同じタイミングでついっと視線を逸らした。
「オレ、今、ムリ、腰イタイ」
「なんで片言なんですか、そんなキャラじゃねーだろ」
「ふえー何コレ。パズルみたい。私全然分からないよぉー」
郁斗とは同い年の筈あるルシファはあっさり降参した。
でも、と横の男の服の裾を掴み、疑うことを知らない純粋な眼差しでルシファはレイドを見上げる。
「大丈夫。レイドなら、分かるよ。ね?」
そのキラキラ光線は、期待と信頼に満ちていて、それに貫かれたレイドは、うっとその身を震わせた。
結果。
「ははは、ははははは!」
壊れた。
「ここここの俺が、ここここんな暗号くらい、分からないワケないワケないワケないワケないワケないワケない!!」
「もーどっちですかぁ」
「いや、暗号じゃねぇし」
「……仕方ねぇ。こうなったら最終兵器だ! 郁斗電卓持って来い!!」
「電卓、ですか? いや、でも……」
「よしよし、これなら一発だろ。えー…と…………。なっ、何故だっ! 何で『x』も『y』もねぇ!?」
「普通、ないです。先生」
「じゃあどうやって答え出すんだよ、こんな問題! アズマの研究所に忍び込んでスーパーコンピューターでも使えってか!?」
「そ、そこまで難しい問題ってワケでもないんですけどぉ……」
「あれぇ。やっくーん。さっきリンゴ描いた紙、裏写っちゃってるよぉ?」
「え? ああ、油性で書いちまったから…………ギャアアァァァッテーブルに写ってるッ!!!」
「あー……。コリャ落ちんな。バッチリ写っちまってる」
「ヒギャアアァァ、鎮さんに殺されるううぅぅぅッ!!!」
「姫ちゃーん、何か拭くものないー?」
「ああもう、どうしよう、宿題終わらないよぉー!!」
「馬鹿、達彦。コレくらいで泣くな!」
「郁斗だって涙目じゃないですかぁー」
居間の混乱が頂点に達したその時。
「――何してるの」
雷鳴が、轟いた。
窓の外から横から差し込む稲光に、浮き上がったのは美しくも端正な横顔。
いつの間に帰宅したのか。気配もなく戸口に腕を組み佇み、濡れた髪の先から雫が落ちるに任せたまま部屋の惨状に両目を細めるのは、この家の最強家主 薄野 鎮 (ススキノ マモル)だった。
「あ、まもちゃん、お帰りなさーい」
ルシファの挨拶が終わらない内に、
「ギャアアァァァァ、鎮さん、ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイイーーーーーッ」
突如臨界点を振り切った八雲が恐怖のあまり発狂し、そのまま昇天した。
「突然降られちゃってね」
郁斗よりタオルを受け取り、鎮は柔らかい笑みを返した。
ソファの中央に座る彼の隣、フローリングの上に正座した八雲はもう5回は死んだ顔でローテーブルの上写ってしまったマジックの跡を必死で消している。
八雲の様を哀れみながらレイドもそのオーラに気圧され、まるで貢物のように持参のリンゴを剥きそっと鎮に差し出す。
台所の方では、ルシファと達彦が揃ってお茶を入れている。
「数学、ね」
騒ぎの発端である宿題の問題集を開くと、鎮は特に考える間も置かず郁斗が指し示した問いをスラスラと解き始めた。
「す、凄い……!」
「さすが、鎮さん!」
「八雲さん、まだここ残ってる」
「あ、ハイすみません」
慌てて背筋を正す八雲。郁斗は鎮を見つめる瞳に尊敬の色を更に濃くした。
「簡単だよ。ただ公式に当て嵌めて計算すればいいだけなんだから」
そういって綺麗に笑った鎮は、次いでトレイにお茶を乗せ戻ってきた達彦からノートを受け取ると、そちらも同じように難なく解いていった。
「文系の僕にだって解けるよ。これくらい出来なくてどうするの」
そう言ってカップに口を付ける鎮は、銀幕市の私立大学に通う四回生だ。
女性のように小柄で整った顔立ちを有する鎮は、その外見とは裏腹かなり豪胆な性格だった。
その人柄は、物怖じなく八雲に接する時の態度や、実体化したムービースターを7人も平気で家に住まわせている事からも窺える。
「あ、そうだ」
そして何より、彼は楽しい事が大好きな性格だった。
唐突に上がった鎮の明るい声に、一同は顔を上げた。
「これから皆で勉強をしよう!」
「……え?」
「勉強?」
次々上がる訝しげな声。鎮はぐるりと見回すと明るく更に続けた。
「うん、決まりね。シャワー浴びてくるから。準備できたらすぐ出発」
「え? どこにですか?」
突然の展開にうろたえる八雲に対し、
「勿論、大学だよ」
その日初めて同居人に笑みを見せた鎮は、その顔に企みの色を深くすると、最近お気に入りである彼の師の口調を真似言い放った。
「我等が勉学の学び舎だ。行くぞ、八雲!」
激しく雨の降りしきる中、有無を言わさず連れてこられたのは鎮の通う大学だった。
空いていた講堂に入るなり、鎮から手渡されたのは紙袋だ。
「濡れちゃったみたいだから、これに着替えて。あ、ルシファさんはこっち。更衣室あるからそっち行こうか」
言うなり、鎮はルシファを引き連れて出ていった。
「うわぁ、凄いですねぇ〜」
「大学の教室って広いんだなー」
初めて足を踏み入れた大学構内に、達彦と郁斗は興味津々のようだ。
優に200人は入るであろう、半円形の広い講堂内を物珍しそうにキョロキョロと見上げている。
「あんまハシャいでんじゃねぇーぞ。鎮さんに怒られ…………うっ」
席と席の間の階段を駆け上がる弟子達を軽く嗜めながら、渡された紙袋を覗き込み、そして八雲は固まった。
隣では、レイドもまた同じように呻き声を上げている。
「これは……」
中から出てきたのは、制服だった。
黒い学生服の上着とズボン。それに白いシャツ。
所謂、学ランである。
「あ、それ、綺羅星学園の……」
紙袋の中身に、達彦が声を上げた。
見ればそれは彼が今着ている制服と同じ物だった。
「着るのか、これを?」
「……着るしか、ねぇだろーな」
既に諦めた表情で、八雲はガクリと肩を落とした。
着たくはない。冗談ではない。でも、鎮さんに『着替えて』と言われたからには、しょうがない。
しぶしぶ制服に身を包み、互いの姿に爆笑した後、自分の姿にうんざりする。こうして俄か学生に仕立て上げられたレイドと八雲達は、揃って鎮の帰りを待った。
「お待たせ」
「ちょっと鎮さん、これは一体……、んなっ!!」
程なくして戻ってきた2人の姿に、男子学生達は息を飲んだ。
「えへへ、レイド見てみてー!」
嬉しそうに駆けてきて、くるりとレイドの前で回ったルシファは白い半そでのセーラー服姿。淡い水色のリボンが胸元で弾んでいる。
それは綺羅星学園の中等部、女子の夏用制服だ。
そして、
「どうだ八雲。似合うか?」
八雲の師匠の口調を真似、悠然と腰に手を当てた鎮は、胸元が大きく空いたフリル付きの白いシャツに、黒のタイトなロングスカートだった。
太ももから入ったスリットは、際どく美しい曲線の足をむき出しにし、そこから覗くのは黒の網タイツ。スラッと伸びたその先はエナメルのパンプスが光沢のある輝きで足元を包み込んでいる。
眼鏡の奥の整った顔立ちには、薄っすら化粧が施されているらしい。
いつもは緩くカーブを描き頬を覆う艶やかな黒髪は、今はサイドから後ろに綺麗纏め上げられ、ピンで留められていた。
そこにいるのは、どこからどう見ても、女性。否、女教師の姿だった。
「言っておくけど、更衣室は別々でしたからね、ルシファさんとは。レイドさんはもう高等部の方は両方とも制覇したようなので、今回は中等部の制服を用意してみました」
胸元から銀のペンを取り出すと、それを伸ばしヒタヒタと掌に打ち付けながら、鎮は楽しげに言った。
「違……ッ!」
両方、の言葉に、少年少女達に視線を向けられ、レイドは激しく動揺する。
それは先日の、対策課の依頼での出来事だったが、その時の制服事件はレイドにとってもう忘れたい過去の一つである。
自分達はまだ分かる。生徒役だから。半分は、机を汚した自分に対する罰のようなものだから。
でも、何故、鎮までそんな格好を。
「鎮さんまで、どうして……」
どうしても師匠と重ね合わせてしまう、この街で自分を拾ってくれた恩人でもある鎮に、八雲は恐る恐る訊ねた。
返ってきたのは、やっぱり師匠の声音。
「この方が雰囲気出ていいだろう?」
そう長くない付き合いの中、日々鎮と接してきて八雲は確信していた。
この人、明らかに自分が楽しいから好きでやってる。
「……はぁ」
でも、それを指摘出来る程の勇気を、八雲は持ち合わせてはいない。
むしろあっさり肯定されそうで、それも怖い気がする。
「ん?」
「え…いや……」
正面の真下から、首を傾げ顔を覗き込まれ、八雲はドキリとした。
師匠に見えるが、師匠ではない。女性に見えるが、彼はれっきとした男だ。
しかしその色っぽい姿にドキマギし、動揺した自分に更に動揺してしまう。
「勉強……」
「うん」
「始めましょうか」
「うん! よし、じゃあ皆座って」
教卓に手をつくと、鎮は前に身を乗り出させた。
「教科書、68ページからね」
かくして、
「えっとぉ、ニイチガニー、ニニンガサンゾー」
「ルシファさん? それ違うよ?」
「あー何で俺まで……」
「レイドさん、ご希望であれば、ルシファさんとお揃いのLLサイズもありますよ?」
「スミマセン」
「ちょ、鎮さん! 教卓の上に座って足組み直すの止めて下さいっ!!」
大学構内で始まった、鎮先生の放課後特別授業。
彼らは鎮の出した問題が解けるまで、制服を脱ぐことを決して許されなかった。
「あ〜なんで授業が終わってからも勉強なんか〜」
宿題を教えてくれた事には感謝しているけれど、と郁斗は深く息をつく。
「あれ……?」
隣に並んで座る達彦が声を上げた。
彼の見つめる視線の先、つられ顔を向ければそこに広がるのは、窓の向こうの鮮やかな光景。
いつの間にか雨は止み、雲の切れ間から地上に手を伸ばすのは七色の輝き。
銀幕市を覆う淡い橙の陽の中、夕焼け空と大地を虹の橋がアーチで結ぶ。
まるでご褒美のような美しい光景に、彼らが揃ってそれを見上げるのは、その数秒後――。
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クリエイターコメント | この度はオファーありがとうございました! 制作期間ギリギリまでお待たせしてしまいスミマセン。 コメディテイストという事で、その分非常に楽しんで書かせて頂きました。 若干キャラの壊れている方もいらっしゃいますが……。(笑) 少しでも気に入っていただければ幸いです。 |
公開日時 | 2008-06-15(日) 22:50 |
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