★ 【カレー屋GORO】これからのレシピ ★
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
管理番号100-8452 オファー日2009-06-28(日) 15:06
オファーPC 槌谷 悟郎(cwyb8654) ムービーファン 男 45歳 カレー屋店主
<ノベル>

 挽きたてのクミンの香り。
 午前11時。
 コリアンダーが転がる音。
 ドアベルの音。
 何も語らない、レジのそばのバッキーのぬいぐるみ。
 すべてがカレー屋『GORO』の日常そのもの。
 今日も、あるカレー屋の、何の変哲もない一日が始まっていた。開いたドアから、客がとたとたと入ってくる。
「いらっしゃい」
 悟郎はカウンターの中でがりがりとスパイスを挽いていたので、客の顔も人数もろくに見ていなかった。
「よお、ゴロさん」
 だが、聞き覚えのある声が親しげな調子で飛んできたので、悟郎の作業の手はすぐに止まった。
「お、……おおお、ナベさんじゃないか。久しぶりだねえ」
 今日の最初の客は、団体だった。しかも、団体を率いているのは、悟郎の知人と来たものだ。
「なんだよ、それ。幽霊でも見たような感じだな。そんなに驚かなくたっていいだろ?」
「いや……でも、もう、10年になるんじゃないか。まあ、座って。よく来たね。今、東京だろう?」
「ああ。仕事でな、来たんだよ」
 悟郎は本当に幽霊でも見たような気分だった。渡辺は昔の仕事仲間だ。
 適当に「10年ぶりじゃないか」というようなことを言ってみたが、ひょっとするとそれ以上会っていないかもしれない。最後に会ったときよりも、渡辺はけっこう太っていたが、それくらい時間が経っていれば致し方のないことだ。努力しなければ中年は太るものである。
「この人が槌谷さんだ。『秘伝陽炎斬り』で一緒にやってから、5年くらいずっと世話になったんだよ」
 渡辺は連れに悟郎を紹介した。
 懐かしいタイトルだ、と悟郎は思った。
 大江戸を舞台とした本格時代劇。観客動員数こそさほどふるわなかったが、評論家からは良い評価をもらえた作品だ。役者がとてもいい仕事をしてくれたし、撮影も特にトラブルも起きずスムーズに進んだから、悟郎にとってはいい思い出のひとつになっている。そう、この作品で渡辺と知り合えたのも、確かな収穫だったと言っていい。
「こんにちは」
「はじめまして」
 渡辺が連れてきた団体の中には、若い男女がひと組混じっていた。ほとんど少年少女と言っていい年の頃だ。悟郎にとっては子供同然だった。ふたりとも顔立ちが整っていて、スタイルもいいし、挨拶もハキハキしていて元気がいい。ちょっと緊張しているふしはあるけれど。
 新人だ。
 業界を退いて久しい悟郎でも、すぐにわかった。
「噂は聞いてたんだ。引退したゴロさんがえらくうまいカレー屋やってるってね。よりにもよってあのゴロさんがカレー屋だなんて、って思ったもんだ……ああ、いい匂いだなー」
「よく見つけてくれたものだよ。人数は……」
「6人だ。すまんな、大勢で押しかけちゃって」
「お客は多ければ多いほど嬉しいものさ。謝るのはこっちのほうだ」
「なんで?」
「うちは禁煙なんだよ」
「はははは。そうか。まあ、カレーは香りが命だもんな」
「そういうこと。適当に座ってくれ」
 渡辺たちは店の奥の一番大きいテーブルを占拠した。悟郎は6人分の水とメニューを用意する。いろいろなことを……昔のことを考えながら。
 渡辺はヘビースモーカーだった。一日にひと箱以上は吸っていたはずだ。久しぶりに会った彼は煙草くさいままだったので、相変わらず吸っているのだろう。
『秘伝陽炎斬り』……『戸隠忌憚』……『ゴージャス☆美容室』……『聞こえない声』……『警部沢村辰二郎劇場版』……注文のカレーを作っている間も、槌谷プロデューサー時代の思い出は、尽きることなくあふれ出てくる。渡辺と一緒に携わったものも、そうでないものも。ずいぶん昔の、遠い国での出来事のように思えた。あの頃悟郎は、銀幕市と東京とロケ地を行き来し、必要とあらば海外にもすぐに飛んでいた。ほとんど自宅には戻らなかった。
 なかば必死で働いていたが、それは金や生活や名声のためではなくて、本当に映画が好きだったからできたことだ。
 だから、映画業界から身を引いた今でも、銀幕市に住んでいる。
「はい、お待ち遠様。本日の特製カレー。これで注文は全部揃ったかな?」
「ああ、うん。どうもな」
 渡辺たちは、新作映画の企画について話しているようだった。
 プロデューサーを辞めてカレー屋を始めたばかりの頃は、こうした業界人が客として来ても、つい会話に聞き耳を立ててしまったものだ。今は、かかわりあいになりたくない、と拒絶しているわけでもないのに、不思議と聞く気が起こらない。カウンターの中に戻って、厨房に引っ込み、他の客の注文を消化したり、スパイスを挽いたりするだけだ。幸い、店は繁盛していた。暇をもてあます暇はない。
「いやあ、うまかったよ! 今度はひとりで来るかな」
「それはどうも。……ということは、しばらくここに?」
「そういうことになりそうなんだ。あ、『白鳥プロ』で領収書切ってくれ」
 悟郎は領収書を切った。渡辺は帰りがけに、レジの横に置いたカレー屋『GORO』のショップカードを取っていった。
 白鳥プロダクションは、銀幕市に本社を置いている映画制作会社だ。なかなか規模の大きな会社だったから、領収書を切りながら、悟郎はひそかに感心していた。渡辺もずいぶん偉くなったものだ、と。
 渡辺が率いた団体が、挨拶を残して店を去っていく。
 新人の若い女優が、レジ横のバッキーを撫でていったのを、悟郎は見た。

 もっとかわいいものだったんだよ。

 悟郎は思わず、そう言ってしまうところだった。

 本物が確かに、いたんだよ。わたしの肩の上にも。

 結局、何も言えなかった。
 時間は正午を過ぎていて、渡辺たちとは入れ違いに、家族連れが入ってきた。これから2時間ばかりは、戦場のように忙しくなる。
「いらっしゃいませ」
 悟郎は家族連れをテーブルに案内し、渡辺たちがいた席を急いで片づけ始めた。



 カレー屋『GORO』は翌日定休日だった。
「あの日」以後、休日の悟郎は自宅でただ漫然と時間を過ごすことが多かったが、今日は外出することにした。そうは言っても、特に予定はないのだが。

「あの日」はすでに、1ヶ月以上も前のことになっていた。

 6月14日、銀幕市は、「ただの」映画のまちになった。
 3年前の状態に戻ったといえばそれまでだし、この世の常識を取り戻したという表現も当てはまる。しかし悟郎はなかなか心の底から割り切れずにいた。銀幕市はもとに戻ったのではない。多くのものを失ってしまったのだ。どうしても、そう考えてしまう。
 6月13日の深夜、ココア色のバッキーが、槌谷悟郎のもとから去っていった。店の常連になってくれたムービースターも、いなくなってしまった。
 ――もう、1ヶ月も経ったのか。年々、時間が短くなっていくな。1年さえあっと言う間だ。
 しかし、「あの日」がつい昨日のことのように感じられる反面、多くのものを失った本来の銀幕市に、早くも悟郎は慣れ始めているのだった。この切り替えの早さも、年経たことで得られたものなのだろうか。
 パニックシネマが目に入った。
 悟郎はふらりとパニックシネマに入り、何となく目についたポスターの新作を見て、何の予備知識もないまま、ポップコーンを片手に、有名な監督の新作映画を観た。ハリウッド製の、CGがふんだんに使われた、「普通の」SFアクション超大作だった。特に得られるものはないけれど、大迫力を楽しんで時間をつぶすにはいい映画だ。悟郎は観ている間、ついつい、この映画の製作費と同じくらいの予算をもらえたら、自分ならどんな超大作が作るか、どんな大物に主役をオファーしようか、そんなことを考えてしまっていた。映画を観ながらそんなことを考えるのは久しぶりだ。
 それもこれも、銀幕市が夢の魔法から醒めたせいだ。
 渡辺と会ってしまったせいもあるだろうか。
 パニックシネマのロビーには、ハリウッドや銀幕市の業界から発信された新作映画のニュースがあふれている。興行成績がぱっとしなかった駄作や、20年前のマイナー映画や、俳優と監督との間でいざこざがあって「全三部作」の話が立ち消えてしまった映画――要するに、「どうしてこれが」「どうして今さら」と思えるような映画の続編やリメイクの企画まで、次から次へと立ち上がっているのだった。
 魔法がかかっている間も、ずっと銀幕市にいた悟郎にはわかる。そんな映画が、どうして注目を浴びたのか。ムービースターがいたからだ。ムービースターは、大作、カルト作品、マイナー作品、果ては自主制作映画にいたるまで、ありとあらゆる映画から分け隔てなく生まれ出てきた。ムービースターは、ただ銀幕市に現れただけで、自分の出身映画を宣伝していたのである。
 貪欲な映画界が、それを利用しないはずがなかった。
 渡辺が東京からわざわざやってきた理由も、察しがついている。あの新人を起用して、何かの映画の続編かリメイクを作るのだろう。
 この傾向がいいことなのか悪いことなのか……悟郎は自問したが、すぐに答えを出せなかった。
「……」
 かつて槌谷プロデューサーが「これはひどい」とこき下ろした映画の続編も、製作が決まったようだ。悟郎は映画情報誌をラックに戻し、映画館を出た。
 渡辺から電話がかかってきたのは、悟郎がそろそろ自宅に帰ろうかと思っているときだった。
 休日、店の電話は携帯に転送されるよう設定してある。渡辺はショップカードに記された番号にかけたのだろう。
 ふたりだけで話がしたい、と彼は言った。
 渡辺が何を話そうとしているか、悟郎には手に取るようにわかっていた。



「『戸隠忌憚』の続編を作ろうと思ってるんだ」
 バーの隅の席に着くなり、渡辺はそう切り出した。
「やっぱりね」
 悟郎はちょっと笑ってしまった。
「主人公とヒロインが揃って実体化したそうじゃないか」
「ああ。まあ。一度だけ店に来てくれたよ。わたしが『戸隠忌憚』を作ったひとりだと、どこかで聞いたらしかった」
「DVDに再販がかかってな」
「それはよかった。というかDVD化されてたんだね」
「連絡行ってなかったのか!?」
「もう足を洗った人間だよ。カタギは放っておいてくれるから、逆に助かってる」
「おいおい、この業界を極道みたいに言うのはよせって。そりゃあ、その……あんたは最後のほうは色々大変だったんだけど」
「いや、いいんだ。彼女のことは、わたしが悪かったんだから」
 沈黙。
 カウンターのほうから、妙齢の女とマスターの、控えめな笑い声が聞こえてきた。
「また、一緒にやらないか?」
 渡辺はウイスキーが入ったグラスを見つめながら、そう言った。
「『戸隠忌憚』は、ふたりでやった最後の映画だ。だから……その続きから、また始めたいんだよ。ゴロさんと」
 また沈黙。
 悟郎も、渡辺のグラスを見つめていた。
「……いつまで銀幕市にいる?」
「週末までだな」
「わかった。それまでには答えを出すよ」
「そうか!」
 まるで悟郎がYESと答えたかのように、渡辺は嬉しそうに笑って、悟郎が見つめていたグラスを手に取った。
 悟郎はぎりぎりまで考えるつもりだった。
 答えはもう出ているような気がしたが、それでも、考えることにした。



『戸隠忌憚』は戦国時代を舞台にした伝奇もので、悟郎が手がけた作品の中では1、2を争うほどのヒット作となった。だが、今まで、続編の話など一度も持ち上がらなかった。というのも、主人公とヒロインが死ぬことでストーリーは美しく完結したからだ。よほどうまく脚本を練らなければ、続編を作るのは難しい。逆に言えば、続編がないからこそいい作品なのかもしれない。
 ある日――悟郎が脚本家や渡辺と一緒に殺してしまった主人公とヒロインは、連れ立って、カレー屋にやってきた。
 悟郎に礼を言うために。
 自分たちがここにいるのは、槌谷悟郎というプロデューサーが存在していたおかげだと。
 悟郎にできたのは、腕によりをかけて作ったカレーをふるまうことぐらいだった。しかし戦国時代に生まれて死んだ彼らも、やはり日本人だったようだ――カレーの味をいたく気に入り、それからも、たびたび店を訪れるようになって……。
 心中同然で命を落とした恋人たち。
 脚本家はふたりを生かそうとしたのに、槌谷と渡辺が死の結末を採用した。そのほうがウケがいいからだ。昔から、悲恋心中ものは、日本人に受け入れられてきた。
 悟郎が殺してしまった恋人たちは、悟郎が作ったカレーを食べて、幸せそうに笑っていた。いつも、ココア色のバッキーを撫でてから、悟郎に礼を言って店を出て行く……。
 バッキーのチャツネは、店の営業中、レジの横に座っていることが多かった。悟郎の仕事の邪魔にならないよう、自分の意志で、悟郎の肩から下りているようだった。ふたりのムービースターだけではなく、会計をして出て行く客には、決まって撫でられていたはずだ。
 悟郎はついに、彼らに言えないままだった。

 きみたちは最後に死んだんだ。
 死んだほうがいいと意見したのは、このわたしだ。
 わたしはきみたちを……。

「ゴロさん。ごちそうさまでした。このお店、ずっとずっと続けてくださいね。この味がなくなると、寂しいです。きっと、みんな、寂しいですから」
 手を取り合って店を出て行く彼らを見ていたら、悟郎は、自分の下した判断が正しかったのか間違っていたのか、かれらは死ぬべきだったのか生きのびるべきだったのか、わからなくなってしまった。
 チャツネに聞いても、かれは答えてくれなかった。



 スパイスを挽き、玉ネギを刻んで炒め、大量の米を炊いて、客にメニューを渡す。本日の特製カレーの内容を考える。レジを開け、レジを閉める。
 テレビで流れる新作映画のトレーラーに、思わず反応してしまう。
 また、客の世間話が、不思議と耳に入るようになってしまった。美原のぞみが病院の中庭を歩けるくらい回復しただとか、SAYURIがまだ銀幕市にいて、タクシー乗り場で見かけただとか、祖母の畑でプレミアフィルムが見つかっただとか。
 ときどき、レジの横のぬいぐるみと目が合う。
 そんな数日間を、悟郎は過ごした。ずっとずっと、考えながら。
 そして彼は、土曜日の夜、店を閉めてから、電話の受話器を取った。
「もしもし。ナベさん?」
『おう、ゴロさんか』
「考えたよ」
『そうか。……で……?』
「……悪いんだが、本当に……悪いんだけど」
『……』
「わたしはもう、引退したからね。いや、復帰というのがみっともないことだとは思わない。でも、わたしはいろいろと満足しているんだよ」
『そうか……』
「あの子は自由になれた。銀幕市もだ。魔法がなくなって、捕まっていた日常が解き放たれた。……まあ……わたしはあの頃も、わりと普通にカレー屋をやっていたんだけど。でもナベさん、誘ってくれたおかげでわかったよ。わたしの日常は、ここでカレー屋を続けることなんだ」
『ゴロさん。でも正直、もったいないと思うんだ。あんたに戻ってきてほしいと思ってるのは、俺だけじゃないんだよ』
「それは、光栄だと思う。人手も足りないんだろう。わかってるつもりだ」
 悟郎はレジのそばに、クミンのシードが一粒落ちているのを見つけて、手に取った。
「でも今は……映画を作るより、観るほうが楽しいんだよ。ただのカレー屋だ。ただの映画好きさ」
 あとは、当たり障りのない世間話をした。
 カレー、本当にうまかったよ――渡辺は電話を切る前に、そう言ってくれた。
 きっと、もう、彼から電話が来ることも、彼の姿を見ることもないだろう。『カタギは放っておいてくれる』。
 そう思いながら、悟郎は受話器を置く。
 しばらくクミンのシードをいじっていたが、時計の針が動く音が聞こえて、悟郎は顔を上げた。そろそろ帰らなければ。明日の特製カレーは豚の角煮入りにしたから、早めに起きて仕込みをしなければ。
「じゃ、また明日。よろしく」
 悟郎はレジの横のバッキーを撫で、店の明かりを落とした。




〈了〉

クリエイターコメント素敵なオファーありがとうございました。映画の製作裏話については、映画好きとしての主観が入ってしまったかもしれませんが、ご容赦ください。いろいろと捏造した部分も多いです。気に入っていただければ幸いです。
公開日時2009-07-12(日) 18:00
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