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<ノベル>
強引に喩えるなら、レヴィアタンは魚、ベヘモットはムカデだった。
ならば今、銀幕市という箱庭を睥睨するマスティマは何に喩えられるべきなのだろう。虫一匹逃すまいと目を光らせるこの奇怪で冷酷な獄卒は。
だが、あれが人の心の集まりであるというのなら、そもそも形あるものになぞらえようとすること自体が無意味であるのかも知れない。
ギャリック海賊団のキャプテンは頭上の絶望と戦うことを決め、その決意表明も早々に済ませた。彼に従うと決意した団員も多く、既に戦いの準備を始めている者もいる。それを除けば海賊船の中では概ねいつも通りの時間が流れていたのだが、海賊喫茶はいつもと様子が違っていた。
「やれやれ」
甲板に設えられた客席の掃除をしながらハンナは大きくかぶりを振った。
「何だってんだい、このザマは」
閑古鳥が鳴く。そんな形容がよく似合う。毎日毎日従業員の海賊たちが目の回るような忙しさでくるくると立ち働いていたというのに、昼下がりのこの時間に二、三人しか客がいないとは。
威勢良くまくったハンナの腕にはいつも通りの緑色のバンダナ。トレードマークのように抱えたモップもいつも通りだ。そして、睨み上げる空には巨大な絶望の姿。ティータイムには格好の時間帯だが、この異形に見下ろされながらお茶を楽しもうなどと考える者はそうそういないだろう。
「……ま、だからって掃除をしなくていいってわけでもないしね」
無言のマスティマの眼下でハンナは黙々とモップをかけ始めた。緩やかな潮風が男たちの笑い声やどら声を運んでくる。こんな時に騒いでいる者がいるようだが、それもこの海賊団らしいということなのだろう。
客席の掃除を一通り終えれば次は船の中だ。あの騒ぎの様子だとまた掃除の箇所が増えているのだろう。やれやれと再び呟いたハンナであったが、その横顔に疲れの色は見られない。
(おや)
視界でふと見覚えのある人影が動き、船内に戻ろうとしたハンナは足を止めた。
(ヴィディーじゃないか。洗濯物でも取り込んでるみたいだけど……)
つばの大きな帽子と美しい衣装を纏ったヴィディス バフィランも表向きは平静だった。この状況で心が波立たないといえば嘘になるが、うろたえたところでいいことはない。穴の開いた団員たちの服を繕ったり、新しい服を仕立てたり、お守りのための腕輪をこっそり作ったりしながらいつも通りの時間を過ごしている。
その合間を縫って大切なバンダナの虫干しをしておこうと思い立ったのはきたるべき戦いに備えるためだったのかも知れない。これを身に着けて戦いに赴こうと無意識のうちに考えていたのかも知れなかった。
「……あ」
だから――そのバンダナが破れてしまった時は、自分の顔から血の気が引く音を聞いた気がした。
ほんの一瞬の出来事だった。ほんの些細な原因だった。物干し用のロープの端にバンダナを干していて。それを取り込もうとして。そうしたら、ロープを結わえつけてある柱がすぐ傍にあって。柱からは釘が一本飛び出ていて、その釘にバンダナを引っかけてしまった。
「嘘……だろ」
その瞬間の感情を何と名付ければ良いのだろう。恐怖だろうか、戦慄だろうか。とにもかくにもヴィディスは凍りついたようにその場に立ちすくんでいた。
震える手からバンダナが滑り落ちたことにすら気付かない。無残の姿のバンダナが無情な潮風にさらわれ――そうになった時だった。
「おっと」
という大らかな女声が不意に耳朶を打った。逞しく日焼けした腕が伸びて来て、風に飛ばされそうになったバンダナを、ヴィディスの心を、しっかりと捕まえる。
「何ぼーっとしてんだい。飛んでっちまうじゃないか」
バンダナを差し出す彼女の笑顔がまるで太陽のようだったから、
「……ハン、ナ」
安堵して、涙が込み上げそうになって、ヴィディスは慌てて唇を引き結んだ。
「ほら、ちゃんと持って。大事なもんなんだろ」
「あ……うん。ありがと」
「どうしちまったんだい、そんな顔して。……大事なバンダナなのかい?」
ヴィディスの顔とちぎれたバンダナを見比べながらハンナは首をかしげる。帽子を深くかぶったヴィディスは「うん」と応じて小さく唇を噛んだ。
「……大切な人の形見なんだ。俺の親同然の人の」
育ての親であり、ヴィディスの才能を見出して育んでくれた恩人でもある気さくな仕立て屋が使っていたのがこのバンダナだ。彼の形見として銀幕市に持ち込めたのはこの品だけだった。
それに――この街の命運が決定付けられようとしている時に大切なバンダナが破れてしまったのだ。不吉な寓意を感じずにはいられない。
だが、「そうかい」とだけ応じたハンナはいつものようにどんと自分の胸を叩いてみせたのだった。
「じゃあ、あたしが縫ってあげるよ」
「え」
「大事なバンダナなんだろう? それに、破れたままだと縁起が悪いじゃないか。だから縫って元に戻すのさ」
「元に……戻す?」
「ああ、そうだよ。悪くなった縁起は元通りにしとかなきゃ」
「……その発想は、なかった」
「何言ってんだい」
ハンナが親しみを込めてヴィディスの背中を叩くと、細身の彼の体はわずかにかしいだ。
「そりゃ本職のヴィディーにはかなわないけどさ、あたしにだってこれくらいできるんだよ。黙って任せな、あはは」
だから心配するなと。そんな顔をするなと。
帽子の上からくしゃくしゃと頭を撫でられて、ヴィディスはようやく笑顔を見せた。
「しかし、すごい部屋だこと。デザイナーの部屋ってのはみんなこんな感じなのかい?」
「ん……他の人のことは分からないけど、俺はこのくらいのほうが居心地がいいよ」
裁縫の道具や材料、資料で溢れ返ったヴィディスの部屋で二人は縫い物にいそしんでいる。ハンナが「バンダナを縫うついでだから」とヴィディスの仕事の手伝いを申し出たのだった。
普段は自分が一手に引き受けている作業を今はハンナにして貰っている。彼女の気遣いが嬉しくて照れ臭くて、ヴィディスはくすぐったいような温かいような心持ちに包まれていた。
時折休憩を挟み、ティーカップを片手に他愛ない会話を交わしながら作業は続く。
「しかしこの部屋、本当に船長室の隣なんだねえ。夜はちゃんと眠れてるのかい? あの人、いびきや歯ぎしりがすごいらしいじゃないか」
「安らげるんだ、すごく」
「へえ? いびきでかい?」
「うん。あのいびきがないと眠れない」
ヴィディスの口調はいつもより幼かった。年齢相応の少年らしい笑顔さえ浮かべていた。海賊団に入る前、ストリートチルドレンであった頃に何くれとなくヴィディスを気にかけてくれた中年の女性にハンナは似ているのだった。だからヴィディスはハンナには初めから気を許していたし、ハンナのことが大好きだった。
「ずっと聞きたかったんだけど……ハンナって、昔は海賊だったんだろ?」
「昔は、ってどういうことだい。今だって海賊団の立派な一員さ」
「ごめん……そういう意味じゃないんだ。昔は前線に立って戦ってたって……」
「ああ、そういうことかい。そうだよ、昔は美人女海賊として腕を鳴らしたもんさ。棒を自由自在に操って荒くれどもをバッタバッタとぶちのめして回ったんだから」
「美人……女海賊」
「……何だいその目は」
「べ、別に」
「失礼だねえ。言いたいことが顔に書いてあるじゃないか、あっはっは」
ハンナもまた若い団員のことを我が子のように愛してやまない。もちろんそれはヴィディスに対しても例外ではなかった。
「そういえばさっき、上でみんなが騒いでたんだけど……何してたんだろう」
「また喧嘩でもしてるんだろうさ。まったく、よくやるよ。元気なのはいいことだけどねえ」
「喧嘩か。何が原因なんだろ?」
「さてねえ……また賭けごとでもめたとか、そんなところじゃないかい? あいつらの喧嘩なんて半分はじゃれ合いみたいなもんさ」
軽快なミシンの音。よく研がれたハサミが小気味よく布を裁って行く音。そこにあるのは絶望でも悲壮感でもなく、いつも通りの空気と笑顔。
「ハンナ……そろそろお腹空いた」
「ん? おや、もう夕方かい」
「夕飯、何かな」
「ゲン担ぎにカツなんか食べたいねえ」
「カツって、パン粉を付けて揚げた肉だっけ? それがどうしてゲン担ぎ……?」
「こっちの世界では大事な日の前にカツを食べることがあるらしいんだ、カツを“勝つ”に引っ掛けてね。今なら“マスティマにカツ”ってとこかねえ、あはは」
ヴィディスの手が初めて止まり、ハンナもつられるようにして「どうしたんだい?」と顔を上げた。
――静寂が落ちる。
船底を洗う波の音。たたんだマストが潮風を孕む音。どたどたと船内を行き来する団員たちの足音すら遠のいた気がした。
戦うことを決めたキャプテンに異論はない。二人とも船長と一緒に正面から立ち向かうつもりだ。
だがヴィディスにもハンナにも不安はある。……“家族”が誰一人として欠けることなく居られるのか、と。
「……俺は。みんなの力は信じてる……けど」
犠牲者を出さずにマスティマに打ち勝つのは不可能だと言われている。ヴィディスの目の前のハンナや、ハンナの目の前のヴィディスが無事でいられる保証などどこにもない。
「心配なんだ。どうしても。みんなは、家族……だから。俺、昔は孤児だった。俺を拾ってくれた育ての親は……さっきのバンダナの持ち主は、処刑されたんだ。濡れ衣を着せられて。だから、今の俺の家族は……みんなだけ」
ハンナは静かに聞いているだけだったが、思わぬ過去の告白に少し面食らっているらしかった。
しかしそれだけだ。眉を顰める気配もヴィディスの言葉を遮る様子もない。
「だから俺、全員無事でいてほしいんだ」
ようやく掴んだ家族という絆がただ大切で、失いたくなくて。
「もちろん……ハンナにも」
切なる願いは儚い希望のようにぽろぽろとこぼれ落ちる。
「だから、ハンナ……」
だが、ヴィディスの言葉はそこで途切れてしまった。
――次の瞬間、ヴィディスの体はハンナの腕の中にあった。
「ありがとうよ、ヴィディー」
大きな手が帽子の上を優しく往復する。太い腕からは太陽の匂いがした。ボリュームのある胸で顔を塞がれて、呼吸ができない。
だが息苦しさなど感じない。ヴィディスは黙ってハンナの背に手を回した。ハンナの大きな体は細身のヴィディスの腕の中にはおさまりきらないが、それでも力いっぱい抱き返した。
「あたしだって同じだよ。親が子の無事を願うのは当たり前さ。だからヴィディーにも生きていてほしい、絶対にだ」
ハンナもより強く、優しくヴィディスを抱き締める。それが何よりの言葉となる。胸から下げたロケットペンダントがヴィディスの頭の辺りでかすかに揺れている。
「ハン、ナ……」
「ああ、何だいヴィディー」
優しく名を呼ばれると声が出ない。どうしても伝えたいことがあるのに、口を開いたら涙が溢れてしまいそうだ。
戦いの間じゅうハンナと一緒に居ることはできまい。だからせめて約束を――生き残ることを前提にした約束を。
「戦いが……終わって、帰ったら……」
「ああ」
「また……着てくれる? 俺の作ったドレス。俺、作るから。この腕輪に合わせたドレス……」
ヴィディスは大切にしまっておいた腕輪を取り出した。
そこにはめ込まれているのはトルコ石。目の覚めるようなスカイブルーはハンナの人柄をそのまま表しているかのよう。戦うことが決まった時から、お守りとしてハンナに渡すためにこっそり作っていた品だった。
突然の贈り物にハンナは面食らったらしかったが、闊達な瞳はすぐに愛おしげに細められた。
「ありがとう。約束だ」
そして大きな両手でヴィディスの気持ちを受け取り、
「嬉しいねえ、若い頃を思い出すよ。ドレスがかかってるなら何が何でも戻って来なきゃねえ、あっはっは」
豪快な女海賊はいつものように爽快に、大らかに笑ったのだった。
タタタタ……ン。タタタタ……ン。
静かな潮騒に規則的なミシンの音が重なる。時折キャプテンのいびきも入り込むが、ヴィディスにとってはそれすら心地良い。
「……ふう。もう少し頑張るか」
毎夜響くミシンの音はこの海賊船のちょっとした名物だ。戦いが起こるかも知れない状況の今もそれは変わらない。
タタタタ……ン。タタタタ……ン。
願わくば、戦いの後もこの日常を。トルコ石の腕輪に合わせたドレスを作るためにこのミシンの音を。
タタタタ……ン。タタタタ……ン。
仕立て屋の仕事は今宵も続く。
天空に君臨する絶望の王は未だ沈黙を保っている。彼の者を形作る数多の顔が叫んでいるのは憎悪にも殺意にも、断末魔や怨嗟のようにも見えた。
それでも今はこんなにも静かだ。この静けさの後に一体どんな嵐が訪れるのか、未だ誰も知りはしない。
残酷な猶予にじりじりと心身を焦がされ、ある者は煩悶し、ある者は覚悟を定め、ある者は滂沱し……それぞれに審判の刻を待つ。
(了)
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クリエイターコメント | ※このノベルは、『オファー時点での』PC様の思いを描写したものです。
ご指名ありがとうございました、宮本ぽちでございます。 【選択の時】をテーマにした企画プラノベをお届けいたします。
オファー主はハンナ様ですが、ヴィディス様の心情が詳しく書いてあったのでこのような形とさせていただきました。 しかしなぜでしょう。海賊団の皆さんのプラノベはとてもスムーズに筆が進みます…。
悲壮感や固い覚悟といった感情よりも、変わらない日常の雰囲気と少しの不安を重視して描写いたしました。 タイトルの embrace はわざわざ説明するまでもありませんね。 素敵なオファーをありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-05-07(木) 20:00 |
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