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<ノベル>
それは青白い三日月がかかる夜のことであった。
ふらりと酒場に入った男は店の隅に見知った顔を見とめ、次いで目を疑った。
隅の席で喧騒を避けるように身を縮めている彼はまだ二十代の筈だ。それなのに、一体何があったというのだろう。美しかったブロンドが今や老人のように真っ白になってしまっているではないか。
「久しいな。どうしたんだい、その頭」
と言って肩を叩くと、白髪頭の若者はびくりと体を震わせた。
「なんだ。俺の顔を忘れたのかい?」
「あ……いや」
「ま、確かにここんとこずっと顔を合わせてなかったが。――で、どうなんだ。仕事のほうは」
男は盗品を扱う商人、若者は盗人。もちつもたれつの関係だった。客船や機関車に乗り込み、金払いの良い客に狙いをつけて“仕事”をする若者は男の店にいつも上等な品を流してくれていた。
「……仕事はやめた」
「へえ? まっとうな職にでも就いたってのか」
揶揄するように唇の端を曲げると、若者は消え入りそうな声で「いや」と答えた。
「生活には困ってないんだ。だからあの仕事はもうしない」
「どういうこった。おまえさん、そんな暮らしはしてなかっただろうが」
若者は答えない。頭を抱えてうなだれるだけだ。ただごとではない様子に男は首をかしげたが、対面の席に腰掛けて給仕を呼び、葡萄酒をひとつ注文した。
その途端、若者がはっとして顔を上げた。
「やめてくれ」
若者は上ずった声で身を乗り出し、男の腕に縋った。注文を取りに来た給仕が目をぱちくりさせて男と若者を見比べている。
「葡萄酒は……葡萄酒は嫌だ」
「あ?」
「見たくない。嫌だ。頼む」
「何だよ。どうしちまったんだ、一体」
男は仕方なく注文を取り消した。給仕が立ち去ると若者は全身の力が抜けたようにとすんと腰を下ろした。
「おまえさん、葡萄酒が好きだって言ってなかったか?」
「……今は違う。もうずっと飲んでない。あの夜から一度も」
若者は震える手で顔を覆い、呻くように付け加えた。
「葡萄酒は……血の色をしているから」
「何言ってやがる、馬鹿馬鹿しい」
いらえはない。目の前の若者は白髪を震わせてうなだれているだけだ。
男は軽く眉根を寄せて卓の上に肘をついた。
「どうしたんだ、本当に。何かあったのか?」
「……内緒にしてくれるか」
「ああ。慣れてるよ、そういうのは」
男は軽い気持ちで請け合った。おおっぴらにできない商売をしていれば人の後ろ暗い部分を目にしてしまうことも多い。
「もう……ずいぶん前になる。仕事のために客船に乗った時の話だ……」
白髪頭の若者は全身をがたがたと震わせ、掠れた声で語り始めた。
◇ ◇ ◇
三日月は死人の顔の色で、注がれる葡萄酒は血の色のようだ。金髪の若者はぼんやりとそんなことを考えていた。
「おや。どうしたのかね」
若い男の対面、赤黒いワインの向こうで初老の紳士がゆったりと微笑んでいる。
自然に、しかし丁寧に整えられた灰色の頭髪。痩せた体躯を包むのは上等な仕立ての三つ揃え。グラスに伸ばされる手は若くはないが、美しい。この一等船室を借りるにふさわしい高貴な風情が全身から醸し出されている。
魅惑的な男だ。その金色の瞳で微笑みかければ男女問わず虜にしてしまうのではないかと思うほどに。
しかし――どうして彼の顔はあの三日月と同じ色をしているのだろう。
「どうしたのかね」
もう一度問われて、ぎくりとした。
――あんたは何者だ?
声が出ない。一言そう問うてみれば良いだけなのに、声が出ない。蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように、抗おうとすればするほど心身の自由を奪われていく。
魔物。その二文字がふと脳裏をよぎる。
「悲しいね……そんな顔をされては。私は君との親交を深めたいと思っているだけだというのに」
ああ、そうだ。やはり魔物に違いない。この紳士は魅力という名の魔力をもって目の前の獲物を籠絡しようとしている。
「飲みたまえ。上物の葡萄酒だよ。何、毒など入っていやしない」
紳士はグラスを傾けて酒を含んでみせた。蝋細工のような唇が赤い液体で濡れる。奇妙に艶めかしい色の対比があの時の記憶を呼び起こし、若者は思わず身震いした。
海はひっそりと凪いでいた。この部屋は船の中でも高い位置にあるため揺れも激しい筈なのだが、不思議と波を感じない。ここが船の上であるということを忘れてしまいそうになる。
静かな夜だ。――不気味なほどに。
「ああ、やはり素敵だね」
甘い囁き。何の前触れもなく顎に訪れるひやりとした感触。
「ひ」とかすかに悲鳴を上げるが、席を立つことすら許されない。いつの間にか傍らに立っていた紳士に顎をすくい上げられ、肩を抱かれ、若者は上等な椅子の上で小鳥のように震えるだけだ。
「私の目に狂いはなかったようだよ。君はいい目をしている。怯えと抗い、相反するふたつの感情が交錯した魅力的な眼差しだ」
顎の先を愛撫していた指先が首筋へと降りてくる。と思ったらぴりっと痛みが走り、悲鳴を上げた。ほんの少しの痛みだったのだが、今の精神状態では針でつつかれた程度の苦痛すら断末魔の叫びに変わる。
「おや……失敬。つい爪を立ててしまった。血が出てしまったね、もったいない」
ひたり。
冷たく湿った感触がうなじを――正確には、うなじから染み出した血の上を這った。
初めて男に触れられた生娘のように体を震わせると、首筋に顔を埋めていた紳士は密やかに、しかしほんの少し悪戯っぽく笑みを含んだ。
「君があんまり素敵な目をするものだから、少し興奮してしまったようだ。手荒なことはしたくないのだけれどもねえ……」
「う……そ、だ」
ぱりぱりに乾いた舌がようやく言葉を押し出した。
紳士は軽く眼を見開いたが、その表情はすぐにあの微笑へと取って代わる。
「私は嘘は言わない。嘘をつくようでは紳士とは呼べないだろう? だが、人の数だけ嗜好はある。乱暴に扱われることに快感を覚える人間もいるそうだからねえ。もし君がそうだというのなら尽力は惜しまないよ」
首筋に歯を当てられる。耳朶を甘噛みされたかのような、恍惚にも似たあるかなしかの痛み。
甘い悪寒がぞくりと脊髄を奔り抜けた。
「さあ、望みを聞かせてくれたまえ。今宵は君のお気に召すままに……」
うなじに二本の釘を打ち込まれたかのような痛みの後、紳士の艶っぽい囁き声が緩やかに遠のき始める。視界がぼうやりと霞んでいることに気付いたのはその更に後だった。
夜空には青白い三日月。紳士の顔と同じ色の月光が波間の客船をひそりと照らし出している。
薄ら寒い、しかし抗い難い陶酔に意識を委ねながら、若者は初めてこの紳士とまみえた時のことを思い出していた。
その時、若者はラウンジで働いていた。
「そこの金髪の君。ちょっといいかね」
という声に呼び止められて振り返り、その後で小さく息を呑んだ。
上等な三つ揃えに身を包んだ初老の紳士が隅の席で手を挙げている。
「――はい、ただいま」
若者は逸る心臓を抑えて笑顔を作った。今の自分はこのラウンジの給仕だ。怪しまれてはならない。
「君はいつもこういった仕事を?」
青白い顔をした紳士は葡萄酒を所望した後で唐突にそう問うてきた。
「は?」
「おっと、不躾だったかな。先程からずっと見ていたのだけれども、随分滑らかな足取りで歩いているものだから。船の揺れに慣れているように見受けられてね」
金色の目をした紳士は柔らかく微笑みながら顎の下で両手を組んだ。世間話でもしようというのだろうか。
若者は内心でほくそ笑んだ。
(……カモのほうから声をかけてくるとは。取り入って油断させるのも手だな)
しかし、もちろんそんな心情はおくびにも出さない。適度な笑顔を作って無難に会話に応じる。
「出航してもう二日ですから。少しは慣れました。お客様はお顔色がすぐれないようですが……」
「船酔いのせいかも知れないね。おかげで食欲もないのだよ。葡萄酒くらいしか口にできなくてねえ」
「お薬をお持ちいたしましょうか?」
心配するふりをしながら素早く紳士の体つきを観察した。痩せた男だ。袖の下の腕にも張りや筋肉はうかがえない。
「いや、結構。薬を飲んでも気休めにしかならないだろう。何せ部屋が揺れの激しい場所にあるものだから」
「揺れが激しいとおっしゃいますと、もしや船尾の一等船室……」
慎重に、しかしさりげなく尋ねると紳士は「よく知っているね」と微笑んだ。
「この船に乗っている者なら皆知っております。お客様は有名人ですから」
若者も愛想笑いを返して頭を下げ、いったん紳士の元を辞した。
べらぼうに高い一等船室を一人で数室借り切った紳士がいる――。出航の準備をしている時から乗組員たちはその話題でもちきりだった。さぞかし高貴な身分なのだろう、もしかすると愛妾を何人も連れて来るのではなかろうか。そんな憶測ばかりが広まった。そして出航当日、当の紳士が一人の供もなくこの船に乗り込んできたものだから噂は更に大きくなった。
――ごらん、あの紳士の服。やんごとなきお家柄の出身に違いないよ。
――それなのにどうして供がいないんだろう? お忍びの一人旅にしても不用心すぎる。
――きっと船内で誰かと待ち合わせているんだよ。人に言えない相手だったりして。
だが若者はそんな下世話な話に興味はなかった。若者の興味は紳士の懐の中身にのみ向けられている。今回の航行は二週間ほどの予定だ。必要経費としてかなりの金銭を持ち込んでいるに違いない……。
「注いでくれるかね」
葡萄酒のボトルを手に席に戻ると紳士は微笑を絶やさぬまま言った。
ボトルの開栓はさして難しい作業ではないが、綺麗に手際良く行うには慣れとコツがいる。給仕をしていれば客の前でコルクを抜かねばならないことも多い。しかし若者は動揺しなかった。客に怪しまれぬよう、給仕に必要な技術はある程度身に着けてある。
コルクに刺さったスクリューがきちきちと音を立てながら回転する様子を紳士は目を細めて眺めていた。
「やはり手慣れているねえ。見事なものだ」
「恐れ入ります」
「この仕事はもう長いのかね」
「それなりには。しかしまだまだ若輩者です。――失礼いたします」
片手でしっかりとボトルを支え、傾ける。深い赤の色をした葡萄酒は船の揺れに影響されることもなく静かに注がれた。
「お待たせいたしました」
すっとグラスを差し出した手の上に紳士の指が触れた。グラスを持ち上げようとした紳士の手がたまたま触れてしまっただけのようにも思えたし、偶然を装ってさりげなく手を重ねてきたようにも見えた。
どちらなのかは分からない。高貴な血筋を思わせる紳士は相変わらずゆったりと微笑んでいるだけだ。
「ああ、深いね。いい色だ。やはり葡萄酒はこうでなくては」
紳士の手の中でグラスが鈍く輝いている。グラスの中では赤黒い葡萄酒が静かにたゆたっている。
「まるで血の色のようだ。そうは思わないかね?」
若者は答えなかった。ただ、紳士の指先が触れた手を無意識に体の後ろに隠して愛想笑いを浮かべた。
嫌な冷たさが手の上に残っている。まるで――死人に触れられたかのような。
その翌々日、すなわち出航して四日目の夜は月が出ていた。満月の後の、半月よりも少し肥った月だった。
静かだ。風も波もぴたりとやんで、帆を張った客船は海の上に完全に停滞していた。これだから帆船は勝手が悪いのだと若者は舌打ちした。蒸気機関とマストを併用する帆汽船ならこんな夜でも滑らかに海の上を渡っていけるというのに。昔気質の船長が帆船は浪漫だと上機嫌で話しているのをちらりと聞いたことがあるが、若者にはそんなこだわりは無意味に思えた。
浪漫では飯は食えない。だから若者は食い繋ぐためにこの“仕事”を続けている。
“本業”は窃盗だ。盗品を売って生活している。客船で給仕をしているのは乗客を値踏みし、船倉に潜む仲間を手引きするためにすぎない。深夜になれば備蓄食料を取りに行くふりをして船倉に降り、相棒と打ち合わせを重ねた。
今回の標的はラウンジで声をかけて来たあの紳士。乗船客の中では最も金を持っていそうだからだ。あの後もラウンジで幾度か言葉を交わした。紳士は相変わらず顔色が悪かった。船に酔ったと言って食事にも殆ど口をつけず、わずかばかりの葡萄酒を飲むだけであった。
「……待ちくたびれたぞ」
決行の手筈を整えて知らせに行くと、相棒の男はげっそりした顔で船倉から這い上がって来た。彼は若者とは違い、人目を避けて船に忍び込んだ身だ。乗組員にも乗客にも含まれない彼は暗く湿った船倉でネズミと一緒にジャガイモをかじる生活を続けねばならず、ひどく疲れているようだった。
「悪かった。おかげで準備は万端だ、頼むぞ」
「ああ」
相棒はどこか覚束ない足取りで船尾へと姿を消し、彼を誘導した若者は見張りに立った。
――そして今、若者は船尾付近を散歩するふりをしながら時間と焦燥をやり過ごしている。もう半刻が経つというのに相棒は戻って来ない。
ポタージュのように静かな夜だ。潮は動きを止めたままとろりと凪いでいる。機械的に動かす足の音すら思いがけぬほど大きく反響し、間延びしながら消えていく。
若者も相棒も場慣れしている。今回の仕事は楽な部類に入るだろう。痩せた初老の男を相手に相棒がしくじるわけがない。
たやすいことだ。たやすい仕事である筈だった。
それなのに何故相棒は戻って来ない?
ひんやりとした夜風が這うように行き過ぎた気がした。窓は閉まっている。それでもどこかが開いているのではないか。窓が開いていればいい、ただの風であればいいと思いながらうつろわせた視線が不意にこわばった。
窓の外には、月。青白い色の半月。
あの紳士の顔と同じ色の月が無言で船内を覗き込んでいる。
「………………」
無意識のうちに月から目を逸らし、手を暖めるようにこすり合わせた。あの時触れた紳士の指の冷たさが奇妙な生々しさをもって手の上に甦っていた。
相棒は未だ戻らない。
何度その場を行き来しただろう。恐怖にも似た焦燥ばかりが肥大していく。抑えようとしてももはや歯止めが利かず、若者はとうとう船尾の一等船室に忍び込んだ。
きぃ……い。
上等な扉は拍子抜けするほどあっさりと若者を迎え入れてくれた。
明かりは消されていた。燐光のような月光ばかりが室内を控え目に照らしている。船内の外れ、静まり返った闇ばかりがある空間で若者の心臓ばかりがプレストの速度を刻んでいる。
目の暗順応には少しの時間を要する。数分にも満たないわずかな刻が永遠にも感じられるのはどうしてなのだろう。
「おや……光栄だね」
密やかな微笑が不意にしじまを震わせた。まるで若者の目が慣れる頃を見計らったかのようなタイミングで。
「君のほうから出向いて来てくれるとは」
かすかな衣擦れ。
ひたり、ひたり。濡れた音が間延びした雨垂れのように響く。
若者の目は凍りついたように動かない。それでも、こわばった視界の脇にだらんと投げ出された“それ”を辛うじて見つけることができた。
それは腕だった。窓辺の寝台の上、瞼を閉じた相棒が無防備に肢体を晒して横たわっていた。
死んだように動かない相棒の上にはこの部屋の主である初老の紳士がのしかかっていた。
ひたり……ひたり。
相棒の首筋から葡萄酒と同じ色の、しかし葡萄酒よりもねっとりとした液体が緩慢に滴り落ちていく。
葡萄酒の色に染まった相棒のうなじに口づけ、上品な紳士はゆっくりと体を起こした。寝台を軋ませ、蒼白の手が相棒の体から離れる。
ひたり……ひた……り。
「わざわざ済まないね。おかげで迎えに行く手間が省けたよ」
振り返った顔の中、金の瞳が優しく微笑んだ。
嗚呼――紳士はやはり月と同じ顔色をしている。
「やはり良いね。葡萄酒も美味だけれども、私の口にはこちらのほうが合うようだ」
唇を濡らす葡萄酒色を同じ色に染まった指先で拭い、舐め、紳士はいつものように微笑んだ。船酔いの様子など微塵も見られぬ、ぞくりとするほど美しい笑みだった。
寝台に横たわった相棒の男はぴくりとも動かない。死体のような仲間の姿と死人のような顔色をした紳士の間を若者の目がせわしなく行き来する。魔物。吸血鬼。そんな現実離れした単語がぐるぐると頭の中を駆け巡っている。
「君はいつもこういった仕事を?」
ラウンジで初めて顔を合わせた時と同じように紳士は問うた。
「考えたものだねえ。ここは船の外れだ。しかも高価な一等客室とくれば他者を心理的に遠ざける効果もある。そうであるからこそ“仕事”もしやすい……だろう? 何を隠そう、私も同じことを考えてこの部屋を選んだのだよ」
うっすらとした、しかしどこかひんやりとした笑みが整った面を覆っていく。
若者はごくりと喉仏を上下させて唇をわななかせた。
「あんたは……」
何者だ。
そう問うてみればいいのに、舌が動かない。怖かった。返ってくる答えが恐ろしくて詰問することすらできなかった。
笑い出しそうになる膝を懸命に抑えつける若者の前で紳士は優雅に目を眇めた。
「君の仲間には初日の夜から世話になっている。何せ私は水の上が苦手でねえ……どうしても体力が削がれてしまう、こればかりはどうしようもない。普段なら『食事』は週に一回程度で良いのだけれども」
水上が苦手。それは吸血鬼の特徴ではなかったか。
「ああ、仲間の彼については心配はいらないよ。君との打ち合わせに間に合うように深夜になればいったん船倉に帰していただろう? もっとも、薄暗い船倉で息を潜めているよりはここで私の相手をするほうがはるかにいい生活を送れるだろうがねえ。――だから」
死人のような顔色をした紳士は死人のように冷たい指で若者の頬に触れた。
「もうやめたまえ、こんな仕事は。生活のためにやむにやまれずしているのだとしても、盗みは良くない」
耳朶にかかる筈の吐息がまったく感じられない。呼吸をしていないとでもいうのか。逃げ場を求めるように視線を泳がせた若者は寝台の脇の鏡台を見とめてびくりと肩を痙攣させた。よく磨かれた鏡面に映り込んでいるのは怯えた自分の姿だけ。目の前にいる筈の紳士の姿は鏡の中のどこにも見当たらぬ。
「この航海の間だけでもこの部屋で不自由なく暮らしなさい。昼は給仕として働き、夜になったらここに来ればいい。それに、君の相棒は元々員数外なのだろう? 彼の身に何が起ころうと気に留める者はいやしない」
甘い声で囁かれる言葉は紛れもなく脅迫だった。誘惑という形を取った脅迫であった。
「……し……て……」
「おや。どうしたのかね」
「ばらして、やる」
冷たい指から逃れるように後ずさる。足がもつれて、尻もちをついた。重厚な絨毯は若者一人分の体重などたやすく吸収し、物音ひとつ発してはくれなかった。もっとも、物音を立てたとて誰も駆けつけてはくれなかっただろう。この一等船室は他の部屋からは離れた場所にある。
「全部……ばらしてやる。あんたのしたこと、全部」
「私のしたこと、とは?」
「俺の……仲間を! 殺、し……っ」
「心外だね。私がそんなもったいないことをすると思うのかい? そもそも」
目の前に膝をついた紳士に顔を覗き込まれ、若者は「ひ」と声を上げて更に後ずさる。精一杯の虚勢と脅しはこの紳士の欲求をいたずらに掻き立てただけだったのだとようやく悟った。
「私は金払いのいい上客、君は乗組員の中でも末端の給仕。さて、どちらの言い分が信用されるだろうか」
くすくすと笑う紳士はどこか楽しげですらある。まるでカードか何かを楽しんでいるように……圧倒的有利のうちに遊戯を進めるように、嬲るようにこちらの精神を掌握していく。わざと時間をかけて反応を楽しんでいるのではないかとすら思えるほどに。
――どうあがいても逃げられない。そんな直感が悪寒とともに全身を貫いた。
「なに、案ずることはないよ。飲み干すつもりはない」
温度のない指先が頬から首筋へと這い降りていく。
「下船したらお礼はきちんとさせてもらうよ」
甘い囁き。「あ」と体を仰け反らせた時には、熱っぽい浮遊感とともに瞼が落ち始めていた。
月だけが見ていた。密やかに『食事』を行う魔物を、彼の顔と同じ色をした月だけが黙って見下ろしていた。
それから月は徐々に痩せ細って行った。しかし月も紳士も相変わらず死人のように青白かったし、葡萄酒もやはり血の色をしているのだった。
出航して何日経っただろう。一等船室の紳士に“呼ばれ”るようになってから何日目になるのだろう。
最初の夜の記憶は高熱に浮かされたような感覚に襲われたところで途切れていた。次に目を開いた時には上等な寝台に寝かされていた。夜は既に明けており、傍らではあの紳士が穏やかに微笑んでいた。慌てて船室を飛び出したが、紳士は追ってはこなかった。
若者は今夜も紳士の部屋に呼ばれている。拒もうといくら頑なに思っても、気が付けば足は船尾へと向いていた。まるで何かに操られているかのように、あるいは夢遊病者のようにいつの間にか紳士の部屋の前に立っているのだった。
「ああ、よく来てくれたね。入りたまえ」
紳士はいつだって穏やかに若者を迎えてくれた。相棒の男が先に部屋に来ていることもあった。乗員にも乗客にも含まれない相棒はおおっぴらに船内を歩き回ることもできず、結局一等船室でずっと紳士の相手をさせられているようだった。
「そう硬くならなくてもいい。取って食おうというわけではないのだから」
緊張をほぐすための言葉も差し出される葡萄酒も若者にとっては恐怖の対象でしかなかった。温和な微笑の仮面をかぶった魔物が目の前に居る。
魔物と知っているのなら逃げれば良い。だが、体も心も不可視の糸でがんじがらめにされてしまったかのように身動きが取れないのだ。
相変わらず静かな夜だ。出航して以来ずっと天候には恵まれている。風がやむことはあっても高波や嵐に見舞われることはなかった。航海は不自然なほど順調だった。
それさえも魔物の力なのか。そんな些細なことすら恐怖に結び付け、若者は一人おののく。
「おや。飲まないのかい?」
グラスの中の葡萄酒は相変わらず血の色をしていた。グラスの向こうの紳士は相変わらず月と同じ顔色をしていた。窓の外には痩せた三日月がかかっている。満月を過ぎた月は痩せていく一方だ。
膝の上で拳を握り締めたままの若者を眺めた後、紳士はすいと目を細めて立ち上がった。
「どうだね。たまにはカードでも」
と言って取り出してきたのはトランプだった。
呆気に取られる若者の対面で紳士は静かにトランプを切り始める。こんな時でも流麗な手つきと美しい指先から目が離せない。若者の視線に気付いているのかどうか、紳士は相変わらず優雅な微笑を浮かべながらカードを切るのだった。
「とはいえ、二人では面白みがないねえ。君の相棒にも仲間に入ってもらおうか」
「……あ」
「大勢のほうが面白いだろう?」
結局、その夜は三人でトランプをしただけであった。若者には紳士の意図が読めなかった。悪魔のような酷薄さと神父のような優しさ。矛盾するふたつの人格が紳士の中に同居しているかのようにすら感じられた。
「君。ちょっといいかね」
拍子抜けしたまま給仕の仕事に立った翌日の夕刻、いつかのように若者を呼び止める声があった。
薄暮が忍び寄り始めたラウンジの隅の席で初老の紳士が手を挙げている。
若者は慌てて周囲に目を走らせたが、運悪く他の給仕たちは席を外していた。自分一人になったところを狙って声をかけてきたのだろうかという思いがちらと脳裏を掠めた。
紳士はいつものように葡萄酒を所望した。若者はあの時のように紳士の目の前でボトルを開封し、血と同じ色の酒をグラスに注いだ。
「どうしたのかね」
グラスを差し出す手に紳士の手がそっと重ねられた。ひんやりとした感触に飛び上がりそうになる。慌てて引っ込めようとした手がグラスにぶつかり、葡萄酒がこぼれた。
白いテーブルクロスが赤黒い色にじわじわと侵されていく。
「おや……」
「し、失礼いたしました」
慌ててグラスを持ち上げる。手が震えている。赤く濡れたグラスが指先から滑り落ち、床に当たってぱりんと砕けた。
「失礼いたしまし――」
「よしなさい」
身を屈めて破片を拾おうとした若者の手は青白い手によってそっと包み込まれていた。
びくりと体を震わせて顔を上げれば、目の前に紳士の微笑がある。息がかかりそうなほど近くに。
「迂闊に触れては怪我をしてしまうよ。血でも出たらどうするのかね」
ひたり……ひたり。
こぼれた葡萄酒が卓の縁から滴り落ち、手の上を赤く染めていく。
「血は夜まで取っておきたまえ」
海上の客船は絶海の孤島。逃げ場などどこにあろうか。
「――待っているよ。今夜、いつもの刻限に」
燃えるような太陽は水平線に溶け入り、代わりに青白い月がひそりと顔を出す。
一段と痩せた月だけが見守る中、今宵もまた――。
奇妙な生活は十日ほど続き、死人の顔の色をした月が病人の末期のように痩せ衰える頃、客船は目的地の港へ静かに滑り込んだ。
「やあ、今回は随分と順調だったな」
「毎回こうなら助かるんですがねえ」
「まったくだ。しかし、順調すぎても気味が悪いよ」
乗組員たちが陽気に話している脇で、月と同じ色の顔をした若者はのろのろと下船の準備を進めていた。顔色が悪い、少し痩せたのではないかと乗組員らに言われる度に船酔いだと答えてごまかした。
相棒の男は船を下りる乗客に紛れて姿を消した。航海の間じゅうずっと紳士の部屋に留め置かれていた相棒が何をされていたのか知る由もなかったし、尋ねてみる気にもなれなかった。
熱に浮かされたような足取りで陸に揚がると、いつの間にそこにいたのだろうか、港に面した倉庫の陰からあの紳士が現れた。
「ああ、怖がらなくてもいい。もう航海は終わったのだから」
凍りついたように足を止める若者の前で紳士は相変わらず静かに、慈愛の色すら浮かべて微笑んでいる。
「君には世話になったね。今度は私がお返しをする番だ。――さあ……こちらへ」
いざなわれるままに倉庫の裏に回ると、そこには重厚な黒塗りの馬車が控えていた。
「全部持って行きたまえ」
紳士は無造作にそう告げた。手綱を取っていた御者が荷物を下ろしにかかる。石畳の上に次々と積み上げられる骨董品の山に若者はただただ唖然とするしかない。
「おや……どうしたね、そんな顔をして。この量では持ちきれないかね? いっそ馬車ごと持って行ってくれても構わないよ」
「……どうして、こんな」
「どうしても何も。言った筈だよ、お礼はきちんとさせてもらうと。私は嘘は言わない。紳士たる者、約束は守らねばねえ」
うそぶくように微笑む紳士を若者は色を失った顔で見つめていた。
「それに」
ひんやりとした手が肩に置かれ、血の気のない唇が耳許へと寄せられる。
「――これだけあれば生活には困らないだろう? 二度と“仕事”をしなくても良い筈だよ」
甘いベルベットヴォイスに全身を貫かれ、髪の毛が一本残らず真っ白になっていく気がした。
「それでは、ごきげんよう」
ぽんと肩を叩き、優しい紳士は港街の雑踏に紛れるように姿を消した。
後には高価な骨董品の山と、ぼんやり座り込む若者だけが取り残された。
◇ ◇ ◇
――それ以来盗みはやってない。できないんだ……。
白髪の若者はそんなふうに話を結び、それっきり口を閉ざして震えるだけだった。酒場の喧騒の中で彼が再び口を開くことはついになかった。
(馬鹿馬鹿しい)
酒場を出て自分の店に戻り、故買人の男はかぶりを振った。
(怖い怖いと思ってりゃ風の音だって不死者のすすり泣きに聞こえちまうもんだ)
きぃ……い。
不意に店の扉が軋み、男は小さく息を呑んだ。しかし何のことはない。客の来店だ。あんな話を聞いた後だから神経質になっているのだろう。
(しかし……一等船室で寝起きした上に礼もたんまりもらえたんだろ。却って得したじゃねえか。羨ましい話だぜ)
男は客に向かって「いらっしゃい」とだけ声をかけた。こういった商いでは必要以上の愛想は邪魔になる。客は黒いフードで顔を隠していたが、こういう店ではそれも珍しいことではない。ただ、体つきからして痩せた男であるらしいことは見て取れた。
「店主。ちょっと」
不意に客が声をかけて来た。若くはないが、魅惑的とさえ思えてしまうほど甘く滑らかな声だった。
男は「へい」と応じ――ひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。
「この仕事はもう長いのかね?」
穏やかな声音。黒いフードの下で瞬く一対の金色。
小さな窓から蒼白な月明かりだけが差し込んでいる。
(了)
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クリエイターコメント | ご指名ありがとうございました。お初にお目にかかります、宮本ぽちでございます。 「大人の色香」が裏テーマのノベルをお届けいたします(オファー文にはそんなこと書いてありません)。
ほのかに艶っぽく、しかし上品さは失わずに、それでいて少し恐怖を…というさじ加減が難しくも楽しかったです。 長老様は最初から全部知っていて、盗みから足を洗わせるために今回の行動に出たのではないかと深読みしてしまいました。 もしかすると、若者にお灸を据える意味もあったのかな…とも。
冒頭からいきなりオファー文を無視してしまいましたが、以降は概ねオファー文に沿って書かせていただきました(末尾は捏造ですが)。 薄ら寒い雰囲気がほんの少しでも出ていれば幸いです。 素敵なオファーをありがとうございました! |
公開日時 | 2009-06-05(金) 19:10 |
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