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<ノベル>
(済まない)
心からの詫びに、幼い刀冴は答える術を持たない。
(ごめんね)
いくら詫びられても、肯くこともかぶりを振ることもできやしない。
それなのに――ああ、彼ら彼女らは、どうしてこんなにも満ち足りた表情をしているのだろう?
(大好きよ)
(ありがとう。楽しかった)
(幸せだった)
幼い刀冴を独り遺して逝くことを詫びながらも、家族たちの顔に浮かぶのは紛れもない充足と至福と安堵、それから、確かな誇り。
(どうか……達者で)
傷だらけの父の腕が伸びて来て、小さな体がきつくきつく抱き締められる。
答える術などあろうはずがない。あらゆる感情が胸と喉を塞いで、口を開けば一気に奔流となって溢れてしまいそうだった。
雪が。
雪が降っている。
今この瞬間に目の前で家族が失われようとしているのに、こんなにも静かだなんて。
幼い体を抱き締める腕からはどんどん力が失われていく。そのままずり落ちそうになる父の腕を、離れていくことを拒むように小さな両手で懸命に繋ぎ止める。
かつてぶら下がって遊んだ逞しい腕は意思を失い、鉛のような重さを伝えてくるだけだ。
それでも――まだ、温かさを留めている。
雪だ。
雪が降っている。
音もなく舞い降りる雪が、静かに、無情に、家族の温もりを奪って行く。
刀冴は家族たちの手を取り、震えながらも懸命に温め続けた。
雪はとても冷たいから。雪に晒されたのでは冷え切ってしまうから……。
(冷たい、だって?)
そこでふと我に返る。意識が急速に追憶の海から浮上して、刀冴の目に、耳に、皮膚に、今という現実を伝える。
雪だ。
銀幕市に雪が降っている。
冬の空気はクリアだ。しかし冷たさも寒さも感じない。純血の天人の血を引く刀冴は、成長した今では雪にすら祝福され、愛される。
小さな雪の精が次々と舞い降りて、刀冴の髪に、刺青に彩られた頬に、逞しい肩や腕に、次々と口づけや抱擁を落としては消えていく。
(ああ)
雪は美しい。嫌いではない。それでも、舞い降りる雪にあの日の家族たちの姿が重なる。
あの日流れた血が。目の前で急速に失われていく温もりが。
そして、安らかで穏やかなあの顔が。
「……判ってる」
思わず声に出して呟く。銀幕市民たちはクリスマスを間近に控えて忙しく市街地を行き交い、ぽつぽつと独りごちる刀冴を顧みる者はない。
「皆……誇りと充足の中で斃れたって」
刀冴に感謝し、刀冴と過ごせた日々に感謝し、刀冴を守れたことに満足と矜持を持って家族は死んだ。そんな両親やきょうだいにただひとつ気がかりがあるとするならば、それは刀冴という愛する存在を独り遺して逝ったことだったのかも知れない。
澄んだ雪が柔らかに降り続く。
あらゆる自然からの恩恵と祝福を受ける刀冴を雪が傷つけることはない。それでも、一人でいる時に雪を見るとほんの少しやるせない。
目の前で家族を失ったのもこんな日だった。家族を失った後は戦禍に追われながら雪に埋もれ続けた。
降り注ぐ雪はあまりに無垢で、脆弱だ。無言で雪を愛でながら刀冴は独り街を歩く。
耳元で囁く雪の精に向ける双眸には、ほんの少し哀切が滲んでいる。
もうじきクリスマスという行事があるという。クリスマスとは即ちケーキをたくさん食べられる日のことだ。少なくともスルト・レイゼンはそう思っている。
(……結構するんだな)
あちらこちらの洋菓子店をはしごし、スルトは値札の数字に顔をしかめた。しかもこの時期はもっぱらクリスマス向けに製造・販売されているのだろう、豪華なデコレーションケーキの類は大半が予約制ときている。
「出直し、か」
大きなケーキの購入を諦め、仕方なく帰途に着いたスルトの目にちらりと青い色彩が映り込んだ。
そして目を疑った。
小さな広場の隅に座り込んでいるその人物には見覚えがある。しかしなぜ彼は雪にうずもれてぼんやりと座っているのだろう?
何事かと慌てて駆け寄ると、青い衣裳を白く染めた刀冴は「おう」と親しげに微笑んだ。それでも立ち上がろうとする気配はないし、頭や肩、立てた膝に降り積もった雪を払おうとすらしない。
「こんな所で……いったい何を?」
「何も」
「何も?」
「ああ。何も」
答えて、刀冴はゆったりと視線を持ち上げる。スルトもつられて頭上を仰いだが、鈍色の雲を低く抱いた空から雪が落ちてくるだけだ。
首をかしげて視線を戻しても、刀冴はただ静かに雪を眺めているようにしか見えない。一体どうしたというのだろう。陽気で闊達な印象ばかりがある将軍が、今日はやけにしんみりと物静かではないか。
「……もしかして、雪を見ているのか?」
「ああ」
「それならもっと暖かい場所で見ればいいんじゃないか」
「寒くねえから平気だ」
言われて初めて、スルトは自分もまた寒さを感じていないことに気付く。舞い散る雪の中にそっと手を差し出してみても冷たさは感じない。刀冴の周囲には精霊の力が満ちているからだろうとようやく気付いた。天人の傍らにいると暑さ寒さを感じることなく快適に過ごせるのだと人伝に聞いたことがある。
かすかに笑んだスルトは動こうとしない刀冴の隣に座り込んだ。
「……何だ?」
「俺も雪を見る」
あっけらかんと答えたスルトに刀冴の眉がひょいと持ち上がる。
「珍しいんだ、雪は。俺は砂漠で生まれ育ったから」
スルトは薄い肩を軽く揺すり、白い呪布に覆われた手で痩せた首筋を掻いた。「それに、寒さを感じずに雪を観賞できるなんてなかなかない機会だからな」
刀冴は一瞬きょとんとしたようだったが、すぐに人なつっこい笑みを浮かべて「くくく」と笑った。
「おもしれえなあ、あんた」
「………………っ」
親しげに肩に腕を回され、スキンシップに慣れぬスルトは一瞬硬直するが、もちろん刀冴はお構いなしだ。
動いた拍子に、刀冴の髪から、肩から、積もった雪が静かにこぼれ落ちていく。
刀冴が弟のように可愛がっている修羅の青年――修羅と呼ぶには些か無垢すぎる男だが――の親友がスルトだ。スルトが纏う、呪布に包まれた外見のせいだけではない不思議な雰囲気に気付いてはいるが、刀冴は特に気にしていなかった。
大の男が二人、小さな広場の片隅に座り込んでただ雪と空を見上げている。往来を行き交う人々が時折好奇と怪訝の視線を投げてよこすが、刀冴もスルトも意に介さなかった。
「不思議な気分だ」
スルトは律儀に雪の中に座り込んで刀冴に付き合い、しげしげと雪を眺めている。その横顔は大半が呪布に覆われ、表情は読み取れない。しかし白い布の隙間から覗く黒い瞳には少年のような素直な感動と好奇心が満ちていた。
「雪というのはこんなに優しいものなんだな……」
知らなかった、と静かに微笑むスルトは砂漠の生まれだ。砂漠の民の目には雪そのものが新鮮に映るに違いない。
相槌の代わりに浅く笑みを浮かべ、刀冴もまた空を仰いだ。
雪の空というのは真っ白ではない。どこか重苦しい、薄墨のような色をしているものだ。それでも、薄暗い空から落ちてくる雪はこんなにも白く、絹のかけらのように優しい。
(刀冴、あんまり遠くまで行っちゃ駄目よ)
(早く来いよ! 置いてっちまうぞ!)
(ごめんな)
(しょうがないわね、ほんとにやんちゃなんだから)
(ごめんなさい。あなた一人を……)
(はは、重くなったな、刀冴)
(おまえは生きろ)
(大好きよ)
(どうか――達者で)
ちらちらと。ひらひらと。
無秩序に降り注ぐ雪にかつての記憶がごちゃまぜに重なる。幸せな団欒、明るい笑顔、そして目の前で事切れた家族たちの顔と言葉がばらばらに散らばっては消えていく。
交互に訪れる暖かさと痛みにほんの少し複雑な表情をしてしまっていたのかも知れない。ふと気付くと、スルトがじっと刀冴を覗き込んでいた。
どうしたのかとは問うてこない。ただ心配そうに、ちょっぴり怪訝そうに、白い呪布の奥から黒い瞳が刀冴を見つめているだけだ。
こうして雪をかぶっていると、家族が斃れた時の光景と、独りきりで雪に埋もれながら戦禍に追われたあの三か月の記憶がちかちかと脳裏に瞬く。
一人で見る雪はほんの少しやるせない。だけど、二人で見る雪はほんの少し優しく、柔らかい。
だからこそ思わず口をついて出ていたのかも知れない。
「……家族が死んだのが、こういう日だったんだ」
小さく呟くと、スルトがぱちぱちと目を瞬かせるのが分かった。
「そう、か」
予期せぬ述懐に面食らったのだろう、一拍置いてからようやくそんな答えが返ってきた。たった一言相槌を打つのが精一杯だったのだろうか。
刀冴は軽く肩をすくめ、穏やかに微笑んだ。
「もう、今更泣けねぇけどな」
泣かないのではなく泣けない。ほんの些細な言葉の差異に込めた真情を口には出さず、刀冴は再び空を仰ぐ。
悲しみが消えたわけではないし、消えることはないかも知れない。自分一人を置いてどうして、と思わなかったことがないわけでもない。
だが――誇りと充足に満ちた顔で斃れた家族は、刀冴の道行きに幸いがあらんことを何よりも望んでくれていたのだと確信している。
だから刀冴は前を向いて歩いているし、歩いていける。重苦しい過去と身を切り裂かれるような悲嘆や絶望さえ己を形作る愛おしい輝石なのだと、胸を張ってそう言える。
それでも雪は降り続ける。世界は静謐な白銀に染まり、空気はきんと音を立てそうなほど澄んでいる。浮かれた街の喧騒も今は遠い。
故郷に他国が攻め入って来たあの時。あの日の雪は冷たかった。冷たい雪の中で冷たくなっていく家族たちの体を思い出すと、今も腹の底がひやりとするような錯覚に捉われる。
温めれば生き返るかも知れないと思ったわけではなかった。ただ怖かった。何よりも大事なものを失うことが、どうしようもなく怖くて、悲しかった。
少しでも長く温もりを留めたくて……六歳だった刀冴は、必死で家族たちの腕を、手を、懸命に温め続けた。
血の気を失ってがたがたと震えていたのは刀冴のほうだったかも知れないけれど。
家族の死を受け入れることができなくて――どうしても受け入れたくなくて、目の前に残る手の温かさに少しでも縋りたかったのかも知れないけれど。
刀冴の青い双眸は快晴の夏空のようだと人は言う。だが、今は透明な冬晴れのようだとスルトは思う。翳りがなくどこまでも澄んでいるのは、包み込むように優しく降り注ぐこの雪のせいなのだろうか。
スルトは『普通の家族』というものを知らない。邪術を用いる一族にとって重要な『呪いの形代』という役割があったため死なない程度に世話はされていたものの、育児放棄に等しい状態で育った。スルトの痩せた体は栄養失調のまま過ごさざるを得なかった幼少期の名残で、傷痕だ。
スルトは呪い子で、呪われし者。部族に寄せられる呪いや負の感情の一切を受けて負う身代わりにすぎぬ。いわば呪いをその身に集めるための器であるスルトを家族が愛することはなかった。
だから、失った家族を今も尚追憶する刀冴の横顔はとても眩しく映る。痛みと悼みに満ちながら、決してそれだけではない穏やかな色……。そんな表情を浮かべることができる刀冴はどんなふうに家族を愛し、どれだけ家族から愛されていたのだろう。
いや、きっと今でも愛しているのだろう。死に別れた今でも刀冴は家族を愛し、家族もまた刀冴を愛しているのだろう。これまでも、これからもずっと。
しかしスルトも刀冴も口を開かない。舞い降りる雪と一緒に静かな沈黙が流れる。刀冴の髪がほつれて頬にかかる音さえ聞こえてきそうな、透き通った静寂。
ただ雪だけがしんしんと降り積もっていく。寒さも冷たさも感じることなく見る雪花は殊更に美しく、どこか現実離れしたような透明感をもって優しく触れては消えていく。
「なあ、スルト」
不意に呼びかけられてふと我に返る。小さく返事をして応じると、刀冴は天から地へと降り注ぐ雪の結晶をゆっくりと目で追い、呟いた。
「……聞いてくれて、ありがとな」
スルトは再び目をぱちくりさせたが、すぐに淡い苦笑を浮かべて肯いた。
「所で、どんな人たちだったんだ?」
「あ?」
「家族さ」
スルトの問いに刀冴はようやく顔を上げた。
「聞かせてくれよ、家族の話。知りたいんだ。あったかい家族って、どんなものか」
今度は刀冴が目をぱちくりさせる番だったが、それはすぐに微笑に取って代わる。
「話すのはいいが、ちょっと長くなるかも知れねえぞ?」
「構わない」
律儀に座り直したスルトの肩から新雪が滑り落ちていく。
刀冴はじんわりと笑みを滲ませてぽつりぽつりと話し始めた。スルトは傍らで静かに耳を傾けている。
雪色の天と地の間で、二人もまたさらさらと雪に染まっていく。
父は剣奴。母は半天人。母の母は純血の天人の高貴な姫君であったが、刀冴が祖母の元で暮らすことになるのはまた後の話。
「きょうだいはいたのか?」
「ああ。兄が三人と姉が二人」
「六人きょうだいか。賑やかだな」
「はは、まあな」
父の連れ子であるきょうだいたちとは半分しか血が繋がっていない。だが、絆は血縁と同等に、時に血縁以上に重要で濃厚だ。例えば肉親である祖母がついに“家族”にはなってくれなかったように。
「ん? 兄と姉がいたということは、末っ子か」
「ああ」
「だったらさぞ可愛がられただろう。末っ子は特に可愛がられるものだと聞いたことがある」
スルトの問いに刀冴はかすかにはにかんだ。末っ子だろうが長子だろうが全く同じように可愛がってくれただろうとは思うけれど。
故郷たる星翔国、その最下層民の集落に刀冴は生まれた。奴隷に近い階層ゆえ為政者や上級市民たちから理不尽な仕打ちを受けることも多かったが、家族や周囲の愛情に優しく包まれて成長することができた。
貧しくとも精神的には豊かで、幸いに満ちた家庭だった。家族の誰もが歳の離れた刀冴を愛し、慈しみ、刀冴もまた家族を愛した。暖かで幸せな団欒の記憶は、それを二度と手に入れられなくなった哀切と同等に刀冴の中に根付いている。
鈍く凝るこの痛みさえも家族と過ごした時間の証で、幸いに満ちたあの日々の証明なのだと今は思える。だから刀冴は、幸せな思い出も悲しみの記憶も等しく抱き締めて生きていく。
「そうだ。この世界にはクリスマスという行事があるだろう?」
「クリスマスがどうかしたか?」
前置きなく言ってぽんと手を打ったスルトに刀冴は軽く首を傾げた。
「クリスマスはおいしいケーキを食べる日でもあるらしいが……大切な相手と過ごす日だそうだ」
白い呪布に降り積もる雪はまるで砂糖菓子のよう。それを払うこともせず、スルトは傍らに座ったままにこりと笑みを浮かべる。
彼の言わんとすることを何となく察した刀冴はゆるゆると微笑んだ。
大切な相手ならたくさんいる。故郷のみならずこの銀幕市に来てからも、守るべき人、深い情や慈しみを向ける相手と多く出会えた。それと同等に、刀冴のことを大事に思ってくれる相手とも数多く巡り会うことができた。
だけど、もしも叶うのならば。
「――そうだな」
静かな色彩を唇に刷いた刀冴の呟きを聞いたのは、彼にまとわりつく雪の精だけだったかも知れない。
「……一度くらい、一緒にクリスマスを過ごしてみたかったもんだ」
(了)
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クリエイターコメント | オファーありがとうございました。珍しく早めにノベルをお届けいたします。 だいぶ短いお話ですが、雰囲気重視で静かな余韻を味わっていただけるようなものに仕立てた…つもりです。
クリスマスという単語はオファー文に一言たりとも記されていませんでしたが、趣旨からすればあっても許される展開かなと考えまして。 いらぬお節介だったかも知れないと感じなくもありませんが、お気に召してくだされば幸いです。 素敵な機会を与えていただき、ありがとうございました! |
公開日時 | 2008-12-13(土) 21:30 |
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