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<ノベル>
『冬はつとめて』とはよく言ったものである。
刀冴がそれを知っていたかどうかは定かではないが、ともかく彼はその日の早朝、杵間山の清流のほとりで剣の鍛錬に励んでいた。
太陽はまだ生まれたばかり。クリアなスカイブルーの底に、真っ白な光に染められた山の稜線が威風堂々と浮かび上がっている。枯れた梢の間から落ちてくる朝日は弱々しいが、静かで、清冽だ。
降り積もった新雪が足の下でさくさくと鳴く。今はからりとした冬晴れが広がっているが、昨夜は未明まで雪が舞っていた。この冬一番だあらゆる自然から祝福を受ける刀冴が寒さや風の冷たさに悩まされることはない。ただただ透き通った空気が全身を満たしていくのみだ。
澄んだ沢がさらさらと流れる。
深紅の剣が朝露をまとってきらきらと輝く。
凛と透き通った空気の中に黒く長い髪をなびかせ、刀冴は剣をふるい続ける。
『冬はつとめて』とはよく言ったものである。
スルト・レイゼンがそれを知っていたかどうかは定かではないが、ともかく彼はその日の早朝、杵間山へ散策に出かけた。
砂漠の民であるスルトにはそれほど縁がなかったが、この世界に来てから雪というものの美しさを知った。殊に先日刀冴と一緒に見た雪は格別に綺麗だった。雪が降った後に清々しく晴れ渡った今朝、人の往来がない山中に行けば美しい雪景色が見られるだろうと早い刻限からやって来たのだが……。
「……っくしょん!」
小さなくしゃみに小さなこだまがかかり、かすかに静寂を震わせた。
それなりに着込んで来たつもりだったのだが、痩せた体にこの冷え込みはこたえる。そういえば雪は冷たいものだし、寒さもつきものだ。刀冴と並んで雪を眺めた時は寒さも冷たさも全く感じなかったからすっかり忘れていた。
軽く鼻をすすり上げて白い息を吐く。
寒い。が、悪くない。
わざわざ山の中に踏み入った甲斐があったというものだ。平地では道路が薄白く染まる程度だったが、標高の高い山の中には別世界のような白銀が広がっていた。
この雪と寒さの中でも裸の木たちは真っ直ぐに立っている。枯れた梢にも雪が積もって、そのままきんと凍りつき、静かに固まっていた。天のものと地のものが一体となって佇んでいる様子はどこか荘厳ですらある。白くきらめく世界の中にちらりと覗く可憐な赤は南天か何かだろうか。
この国の古人はこういった景色を指して『風流』や『趣がある』と表現したのかも知れない。わざわざ山の中に踏み入った甲斐があったというものだ。
近頃の杵間山では不穏な力の動きが見られるという。念のために剣を携えてきたのだが、この静けさと穏やかさの中で剣を抜く必要はなさそうだ。
(へえ……雪をかぶっても枯れないのか)
呪布に覆われた手を伸ばし、雪の結晶を纏った南天の実に触れてみる。雪と寒さに濡れた赤い実は、しぼむでも凍えるでもなく、生き生きと輝いているようにすら見えた。
(強いんだな。こんなに小さい実なのに)
緑の葉と赤い実の色の対比が鮮やかだ。冷たい雪を払ってやってから手を放すと、小さな実はどこか嬉しそうにしゃらんと揺れた。
踏みつけるのを躊躇うほどまっさらな雪の中を進むスルトの前に不意に足跡が現れる。比較的新しいとおぼしきそれは明らかに履物の形をしていた。
こんな時間に、自分の他にも人がいるのだろうか。
何とはなしに足跡を辿ってみたスルトは、そういえば刀冴と彼の守役の住まいがこの山にあったことを思い出す。
しばらくすると不意に視界が開けた。
心地良く耳朶を打つ水音。急に寒さが遠のいた気がする。
ああそうか、これが天人の力だったかと思い出すのと、剣をふるう武人の姿が目に飛び込んで来たのはほとんど同時だった。
アイスブルーの天と白銀に染まる地の間で、夏空のような青と燃えるような赤が舞っている。
舞っているように、スルトには見えたのだ。
いつもの青い衣装の中で長い黒髪が音もなくなびく。烈しくもきらめくような光を放つのは大剣【明緋星】。目にも留まらぬ速さで振り抜かれている筈なのに、スルトの目には柄から下がるふたつの根付が龍の形をしていることすらはっきりと見てとれた。ひとつは精緻な龍の彫り物を伴い、飛翔する龍を象ったもうひとつは青い色の石で作られている。
深紅の剣は蜂のように鋭く、速く。それなのに、揚羽蝶のように優美に見えるのはどうしてなのだろう。筋肉に覆われた肉体は頑強なのに、ひどくしなやかだ。
まるで剣までもが刀冴の一部であるかのような。金属でできた切っ先にまで微細な神経が通っているかのような。
雪を割るように流れる清流の傍、細密な絵画のような光景にスルトはしばし言葉を失う。
澄んだ沢がさらさらと流れる。
深紅の剣が朝露をまとってきらきらと輝く。
戦いのための鍛錬である筈なのに、剣をふるう将軍の姿は、美しい舞を披露する踊り手のようだ。
刀冴のほうもスルトの来訪には気付いていた。だが、彼が邪魔をしないようにと気を遣ってくれているらしいのが何となく分かったから、声をかけることもせずにそのまま稽古を続けた。
一区切りついたところで剣を下ろすとスルトが静かな拍手を贈る。刀冴はいつものように親しみのこもった笑みで応じた。
「いたんなら声くらいかけてくれりゃ良かったのに」
「済まない。つい見惚れてしまって」
「はは、そいつぁ光栄だ」
「しかし、不思議だな。ふるっているのは間違いなく剣なのに、舞のようにも見える。鋭いのにすごく綺麗だった。うまく言えなくて申し訳ないけど……」
苦笑しながら頭を掻くスルトは、映画の中での“呪われし者”という肩書きからは想像もつかぬほど温和で優しげだ。
刀冴はもう一度快活に笑った。
「似たようなモンだからな、俺にとっちゃ」
刀冴の剣の師はあの守役だ。故郷へ戻るにあたり、その二年前から、どこでも生き抜けるようにと徹底的に叩き込まれたものである。天賦の才と地道な努力を厭わぬ勤勉さもあってか、愛情深くも厳しい守役の指導のもとで刀冴はめきめきと頭角を現した。剣の腕前だけなら今や守役すら凌ぐほどだ。
「この剣も俺の大切な人がくれたんだ」
「家族か?」
「いいや。元の世界の国王さ。俺が将軍に就任した記念にって、鍛えさせて下賜してくれた」
160センチの愛剣を慈しむように撫でる刀冴の目にふと懐古の色が滲んだ。王は刀冴の主であり、絶対的な信頼と愛情を寄せる友人でもある。
「国王自らか。将軍になったのを喜んでくれたんだな、きっと」
「俺も嬉しかった。将軍職なんざぁ不本意だったが、この剣をくれた気持ちだけは素直に嬉しくてな……」
ほんの刹那追想に耽った刀冴の傍らでスルトはそっと微笑む。
きっと、刀冴には大事な相手が沢山いるのだ。同様に、刀冴のことを大切に思う人たちもまた多いに違いない。そしてその者たちの存在は確かに刀冴の中に息づき、彼を形作っている。今までもこの先もそれは決して変わりはしないのだろう。
「羨ましいな」
「あ?」
「そうやって、剣の師匠や剣をくれた相手がいることがさ」
「ん、まあな」
少しはにかんだように頬を掻いた刀冴は、照れ隠しのように「あんたはどうなんだ?」とスルトに水を向ける。
「俺も剣は扱うが、誰に習ったわけでもない。完全に我流だよ。旅をするうちにやむにやまれず身についたというか」
砂漠を彷徨い、幾多の戦いと出会いを経ながらスルトの剣技は磨かれた。騒擾に巻き込まれ、自分を守るため、誰かを守るために剣をふるった。
「ってこたぁ、あんたの剣にはあんたが歩んできた人生が詰まってるわけか」
笑顔とともにもたらされた思わぬ感想にスルトは眼をぱちくりさせたが、すぐに首肯と微笑みを返した。
辿ってきた道は違えど同じく剣を手にする者どうし。互いに興味を惹かれ、剣術談議と剣の話に華が咲く。
「話を聞くだけでも面白いけど――」
語り合ううちに砂漠の血潮が静かに滾ってきたのだろうか、不意にスルトが立ち上がった。
「実際に剣を交えてみればもっと面白いと思わないか?」
腰から抜き放たれるはひと振りの剣。散策とはいえ不穏な噂のある杵間山に踏み込むということで、護身用に携えてきたものだ。砂漠の部族が用いるのは幅の広い曲刀。三日月のように美しく反り返った刀身に刀冴は「へえ」と感嘆の息を漏らした。
「いいぜ。ひとつ手合わせ願おうじゃねえか」
そしてすぐに【明緋星】を抜いて応じる。剣士の血が騒ぐのだろうか、美しい刺青に彩られた闊達な面には楽しげな笑みが浮かんでいた。
生き生きとした闘気と闘志を漲らせる刀冴の前でスルトは浅く苦笑いした。
「いや、あくまで小手調べ程度に頼む。あんたに本気を出されちゃこっちが危ない」
「はは。謙虚なのはいいが、自分を過小評価するもんじゃねえぜ」
溌剌とした笑みを閃かせ、将軍は長身の剣をぴたりと構える。これだけ長い得物を微塵のぶれもなくかざすこと自体、相当な鍛錬が必要だろう。
スルトも自然体で曲刀を構える。
三日月のような刀身が映すスルトの顔は相変わらず静かだが、それでもどこか楽しそうだ。
「はっ!」
きいん、ぎいいん。
鋭い気合いと足音。その合間を縫って響く高らかな金属音。
「ち――」
スルトの舌打ち。全身に重い筋肉を纏った長身の刀冴の動きは狼のように鋭く、速い。長いリーチから振り下ろされる長い得物も脅威だ。
しかしスルトとて負けてはいない。戦いに巻き込まれながら鍛えられた技は独特だが、正確かつ滑らかで無駄がない。刀冴のスピードを見極めて自分の間合いに持ち込めばスルトにも利はある。
「と、あぶねえ」
たんっと軽快に地面を蹴って刀冴は後方に跳ぶ。後退があと一秒遅れていたら鼻先を斬られていた。もちろん、スルトは刀冴が必ずよけると確信していたからその間合いで剣をふるったのだ。
幅の広い刀身の向こうでスルトが静かに、しかし楽しそうに微笑む。刀冴も深紅の大剣をふるいながら闊達な笑みを返した。
相手に傷を負わせぬよう配慮はしているが、決してお遊びではない。間と間合いを精確にはかった上での寸止めにも高度な技術が必要だ。相手の剣技を楽しみ、自分の剣がどれくらい相手に届くのか確かめ、相手の切っ先を受けてはその重さと鋭さを堪能する。切磋琢磨するようにふるわれる剣には互いの誇りと生命力が充ち溢れ、雪解けの沢のように瑞々しい。
それでも、なんと静かな光景であることか。雪の上で斬り結ぶ双頭の剣士の姿は、それこそ舞にでも興じているかのようだ。
澄んだ沢は相変わらずさらさらと流れる。
きらきらと輝くのは朝露か、それとも二人が流す心地良い汗か。
束ねられた黒髪がなびき、白い呪布と黒いマントがはためく。
少しずつ高く昇る太陽の下、青き将軍と砂漠の民は笑顔すら浮かべ、剣を合わせて舞い踊る。
ひとしきり打ち合った後に沢の水で喉を潤し、二人は雪の上に足を投げ出した。
「噂には聞いていたが、やはり大したものだな。来た甲斐があったよ」
「あんたのほうこそ。俺も早起きして鍛錬に出てきて良かった。早起きは三文の得ってなぁ本当だな、三文どころじゃなく得させてもらったが」
体が火照って、気持ち良い。何となく目を見交わせば、剣を介して共有した感覚と絆めいたものが漂い、互いにじんわりと微笑む。
「しかし……綺麗な剣だな。剣技も剣も鋭いのに、綺麗だ」
「はは、ありがとよ。剣は俺の魂で、誓いなんだ」
清らかな雪に濡れた赤い刀身を膝の中に抱え込み、刀冴は緩やかになり始めた朝日をそっと仰ぎ見た。
瞼の裏に浮かぶのは深い絆で結ばれた国王の姿。十も年上のあの王は刀冴が剣をふるう理由のひとつだった。王が創る幸いに満ちた国のため、刀冴は我が身が血を流すことも厭わずに戦いの中に身を置いた。
杵間山の上に広がる空は、国王とともに見上げた空と同じくらい青く、美しく、澄み渡っている。
「俺はやむを得ず剣技を身につけたようなものだけど……剣のおかげで守れたものや得たものも沢山ある、ってとこかな」
呪い子であり、呪いの形代という役割を負っていたスルトは人の負の感情というものに敏い。戦いは悪意や憎しみから引き起こされることもある。自ら好きこのんで剣をふるっていたかと問われれば、恐らく違うだろう。
それでも思い出すのは砂漠の友人たちの顔だ。戦いに巻き込まれながら剣をふるうことで彼らを救い、時には救われながら、生きる幸いを少しずつ見出した。
職業剣士と流浪の民。立場は違えど、剣とともに生き、戦うことで大切な何かを守り、見つけてきた点だけは変わらない。
「……よし」
静かに言葉を交わした後で、刀冴は勢いよく立ち上がった。「今日話せた記念だ。俺のとっておきを見てくれ」
「とっておき?」
「剣舞さ。昔、父親がいくつか教えてくれてな」
懐から取り出したるは清廉な輝きを纏った銀の鈴。複数の銀鈴を赤い絹紐で一つにしたそれは剣舞の際に必ず携えるもので、刀冴の舞を愛した国王より下賜されたものだ。
美しき将軍はすうと息を吸い、しゃんとひとつ鈴を鳴らした。
それは不思議で、どこか現実離れしているようにさえ感じられる光景であった。
重い筋肉に覆われている筈の体はしなやかに、優美に舞う。地を踏む足音すら感じられないのはどういうわけか。抜き放たれた鋭い剣さえもまるで繊細な扇か何かのよう。深紅の剣と長い黒髪の内側で、衣裳の青がまばゆいきらめきを放つ。しゃらんしゃらんと響く銀鈴の音だけが静かな剣舞に伴奏を添える。
世界すべてに感謝を捧げるためのこの舞は刀冴の父の一族に伝わるものだ。父は剣奴だが、彼の出身一族は神々や精霊、自然や世界に対して、音楽や舞をもって祈りや感謝を伝えてきたシャーマンに近い家系だったらしい。
スルトの目には、刀冴の周囲に常に満ちているという精霊が殊更に喜んでいるようにすら見えた。精霊の姿が見えるわけではないが、刀冴を包む空気が尚かぐわしく、清冽になったように感じられたのだ。それはまるで――剣舞という形で感謝を表された精霊が嬉しげに跳ね踊り、刀冴に対して惜しみない友愛の情を贈っているかのよう。傍らを流れる沢がやけにきらめいて見えるのは雪と太陽を照り返しているせいなのだろうか。
精霊の祝福と雪のきらめきと清らかな沢、そして澄んだ青空。贅沢な冬の自然美に囲まれて、凛と背を伸ばした武人は蝶のように美しく舞い踊る。
澄んだ沢がさらさらと流れる。
深紅の剣が、銀色の鈴が、黒い髪の毛が、透き通った陽光を受けてきらきらと輝く。
流れるように、滑らかに。美しい型ときらめきながらふるわれる剣、指先まで凛と伸びた刀冴の姿勢に感心しながら、スルトはどこか憧憬めいた眼差しで剣舞を見守っていた。
国王が下賜したという剣と鈴。舞は父が遺してくれたもの。刀冴の大切な者たちは刀冴の中に静かに息づき、彼を動かしている。
スルトも友人には恵まれた。だが、育児放棄を受けて育ったスルトには、家族というものによって血肉を作られた刀冴の姿がどこか眩しく映るのだ。
(俺もとっておきを披露するか)
一歩進み出たスルトは深々と息を吸い込み、腹に軽く手を当てて目を閉じた。
その口から紡がれるのは剣舞に合わせた歌。声量は特別大きいわけではないのに、腹の底から響かせているような声は素朴で、赤い大地のように力強い。この痩せた体のどこにと思うほどの逞しい声だ。旋律に乗せて朗々と歌い上げられる詞は砂漠の部族の言葉であろう、刀冴の耳には聞き取れない。
突然の歌唱にやや面食らった刀冴であったが、すぐにスルトの好意を受け止め、照れ臭そうな笑みだけを返して舞を続ける。
スルトの歌が刀冴の剣舞に華を与え、刀冴の舞はスルトの詞に静かな躍動感を吹き込む。
背景は空の青と雪の白銀。伴奏はしゃらんしゃらんと鳴る鈴と、雪の中をさらさらと流れる沢の音。スポットライトは穏やかな冬の太陽。自然の恵みに満ちたとびきりの舞台の上を、美しく静かな舞と灼熱の砂のような熱さを孕んだ歌が渾然一体となって席巻していく。
喜んだ精霊が無邪気に跳ね回り、次々と抱擁や口づけを落としてくれるのが刀冴には分かる。
くすぐったそうに笑いながらスルトに視線を投げると、スルトもまた柔らかな微笑を浮かべていた。
ゆったり流れる時間の中、穏やかな共感とほんの少し芽生えた絆を滲ませながら、剣舞と歌の競演はもうしばらく続く。
(了)
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クリエイターコメント | 二度目のご指名ありがとうございます、宮本ぽちです。 またこのお二人にお会いできるとは思っておりませんでした…!
風景をスケッチするような雰囲気を目指したつもり…です。 が、字数が少ない割には色々と捏造してしまいました。その最たるものが手合わせのシーンです。 「男は剣で語るべし!」のイメージが拭えなくて。ぐ。
その辺り含めて、不都合な点がありましたら事務局さん経由でお知らせくださいませ。ご希望に沿えるよう善処させていただきます。 尚、スルト様が剣をお持ちかどうかははっきり存じ上げないのですが…オファー文の内容からすれば持っていてもおかしくないと推測し、このような仕上がりとさせていただいたのですが、こちらもどんなもんでしょう…か。 |
公開日時 | 2009-01-11(日) 22:10 |
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