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<ノベル>
美しい夜だ。
星は鳴りを潜め、深紅の月だけが耿耿と照る。
広い校庭には木々の影が色濃く落ちている。
静かで、憂鬱な夜だ。
この上も無い馳走を腕に抱きながら、それは笑った。
今夜は素晴らしい夜だ。
ふらふらと獲物自らがやってきたのだから。
しかも、二匹。
だが、これとは別のもう一匹は、随分と面倒そうだ。
強い力を感じる。
ならば。
それは深く深く牙を沈めた。
ファレル・クロスは静かに、そして速やかに廊下を走った。
綺羅星学園。
そこには夜な夜な不振な影が飛んでいるとの目撃情報が対策課に届けられた。ファレルが請け負ったこの依頼は、影の正体を見極め、それが害を為すものであると判断したならば排除することである。
今のところ、何らかの被害があったとの報告は受けていない。だからこそ、迅速な判断とが必要になる。
ファレルは息を潜め、一つ一つの教室を確認しながら上へ昇って行った。
綺羅星学園と一口に言っても、幼稚園から大学院まであるその規模は相当なものである。校舎の中を飛んでいるという報告から、しらみつぶしに見て行くしかなかった。
大学に相当する校舎の一角。ふいに白い影が横切って、ファレルは咄嗟に教室の扉に隠れた。それはゆったりとこちらへ向かってきている。眼を凝らす。月明かりがその白い影を浮かび上がらせた。
「コレットさん」
それは見まごう事無く、コレット・アイロニーであった。金の髪に緑の瞳。そこまで見て取れるほど、今夜は月が明るい。誰もいない校舎に二人の影がくっきりと廊下に浮かび上がる。
コレットは小首を傾げてファレルの前に立った。
「ファレルさん? どうしたの、こんな夜中に」
「それはこちらの台詞です。噂を聞いていないのですか」
「噂……ああ、夜になると黒い影が校舎内を飛んでるっていう?」
ファレルは息を吐いた。それを知っているなら、なぜこんなところにいるのか。思わず咎めるような口調で強く言うと、コレットは表情を変えずに口を開いた。
「ごめんなさい。忘れ物しちゃって」
「だからってこんな夜中に一人で来るなんて」
「ごめんなさい。月が明るいから、きっと大丈夫だと思って」
うつむくコレットに、ファレルは目を眇める。
言い分はコレットらしいと言える。しかし、いつもはくるくると表情を変える彼女が、今はどこかぼんやりとしている。月明かりの下で、彼女の肌は青白いほどに見える。
ファレルは息を吐いた。
「ごめんなさい」
「もう、いいです。私も一緒に探しましょう」
コレットが顔を上げる。その顔は、ファレルを見ているようで見ていない。そんな風に感じた。
「忘れ物です。……一人にはしておけませんからね」
言うと、コレットは見た事も無いような笑顔を向ける。ファレルは思わずどきりとした。愛らしいその顔に、とてつもなく妖艶な色が覗いたから。
コレットは構う事無く、ファレルの腕を引いた。
「ありがとう。教室はもう見たの。無かったから、屋上へ向かおうとしていたところなのよ。ファレルさんが一緒なら、心強いわ」
「屋上?」
不振そうな顔をすると、コレットは上目遣いにファレルを見上げた。
「そう。友達とね、屋上でご飯食べたの。鞄も持ってたから、その時に落としたかもしれなくて」
無言で頷き、腕を引かれるままにファレルは歩き出した。
こんな状況で、しかしファレルは胸がいつも以上に高鳴っているのを自覚していた。
今まで、コレットと腕を絡めて歩いた事など、ないのだ。白い肌は月明かりに照らされて透き通ってすら見える。
こんな時に。
頭を振るが、ふわふわとコレットの髪が波打つたびに微かに香る匂いが思考を鈍らせる。
──何を考えているんだ。
ファレルはもう一度頭を振った。
今はそんなことを気にしている場合ではない。この時だって、黒い影は自分たちを狙っているかもしれない。
不用心にすたすたと歩いて行くコレット。
「待ってください、コレットさん」
立ち止まると、あの何とも言えない色を醸してコレットはファレルを見上げた。
「なぁに?」
緑の瞳がまっすぐにファレルへと向けられる。ファレルは表情を変えずに奥歯を噛み締めた。しっかりしろ。そう、言い聞かせて。
「先ほど言った通り、黒い影が私たちを狙っているかもしれない。もう少し慎重に昇りましょう」
「大丈夫よ。それにこんなに静かなんだから、音がすればすぐにわかるわ」
行きましょう、と言ってコレットはまた歩き出す。
ファレルは目を眇めた。いつもの彼女なら、危ないことは危ないとわかって行動できるはずだ。
ならば、原因は何か。
屋上。
行けばわかる、か。
ファレルの目に鋭い光が宿った。
「ここね、鍵が壊れてるの。本当は先生に言わなくちゃいけないんだけど、屋上へ出られなくなるから」
そう言ってコレットは屋上への扉を開いた。ひょおと風が吹く。
コレットの後に続いてドアから出た瞬間、ファレルは彼女を抱いて横へ飛んだ。高い金属音がして、振り返る。
「ふむ、やはり強い。餌を使った甲斐はあったというところか」
低い声。ゆらりと立ち上がるそれは、影だ。月を背後にしているせいで顔はよく見えない。足元を見れば、何かが突き刺さったような跡。
ふっと影が姿を消した。
視線を走らせる間もなく、反射でそこから飛び退く。金属音。腕に痛みが走る。今度ははっきりとわかった。爪だ。影の爪が、服を引き裂いて腕を切裂き、コンクリートで固められている屋上に突き刺さっている。
「やれやれ、なかなか素早い。生きが良いのは望む所なのだが」
言いながら影は常人のそれよりも遥かに長い爪をべろりと舐めた。
「ほう、これはまた甘美な。想像以上だ、これは楽しみ」
ファレルはコレットを背中に庇い、嫌悪に顔を歪ませた。屋上に出てからというもの、コレットはまるで人形のように沈黙している。先ほどの言葉をそのまま解釈するならば、コレットはファレルをおびき寄せる為に操られていたという事だ。
影はくつくつと笑い、黒いマントを広げた。いや、マントと見えたそれは腕。上げられた腕から胴までに薄い皮膜が張っており翼を形成している。にいやりと口角を上げて笑うその口端から鋭い牙が覗く。
「ヴァンパイア……っ!」
影が空へ舞い上がる。月を背景にしたそれは不気味なシルエットだった。
ファレルは腰を落とし、構える。ヴァンパイアはそれを目を細めて眺める次の瞬間、槍のように突進してくる!
コレットを突き飛ばし、ファレルは空気を振動させ無数の刃を作り出す。ヴァンパイアには鋭い風が過ぎ去ったようにしか感じなかっただろう。しかしそれは確かな鋭利さを持っている。それでも影の勢いは止まらなかった。ファレルは小さく舌打ちをして横に跳ぶ。硬い金属音が響き、屋上に亀裂が入る。その一瞬にファレルは再び空気の刃を作り出し、撃ち放った。それが突き刺さると思った次の時、ヴァンパイアは霧と変じた。
「中々の上物です。命じた甲斐がありました」
ぴくりとファレルの眉が跳ね上がる。黒い霧の中、ただくつくつと笑う声が響く。
ふいに頬に熱い痛みが走った。撫でると、それは血だ。腕に、足に、細かな傷が刻まれていく。
「くくく……どこから狙われているかわかるまい。恐怖に戦け!」
声。ファレルは目を閉じた。ゆらと空気が揺らぐのがわかる。
「おや、もう降参かな。これは意外。だが私の楽しみはこれからだ」
「お喋りな方ですね。少しは黙りなさい」
ピンと空気が張り詰めた。
「虚勢。醜い足掻きは無駄というもの」
空気が揺れる。鋭利な鋭さを感じる。それが殺気を伴い空気を割いて迫り来る。カッと目を見開き、肌に届く直前、その鋭利な爪が止まった。
「なに?!」
「空気を固めました。その手はもう動きません」
ゆっくりと目を開き、ファレルは冷ややかな目でそれを見た。ヴァンパイアの顔がはっきりと見える。青白い肌、落窪んだ髑髏のような目。唇だけがやけに赤く、ファレルは目を眇めた。
「コレットさんに手をかけたこと、後悔なさい」
腕を振る。無数の空気の刃がヴァンパイアの体に突き刺さる。ヴァンパイアは悲鳴を上げた。空気の刃は目標物を傷付ければ掻き消える。体中から血を流し、ヴァンパイアは目を血走らせて奥歯を噛み締めた。
「これぐらいでは死にませんか。腐ってもヴァンパイア、ということですかね」
ファレルは鼻で笑う。ヴァンパイアは口端から血を流しながらファレルを睨め付け、ちらりとコレットを見やる。瞬間、空気で固められていた右手が奇妙な方向へねじ曲がった。悲鳴。
「次はその首を捻りましょうか」
ヴァンパイアは肩で息をし、それから赤い唇を歪ませる。ファレルは眉根を寄せて吐き捨てる。
「虚勢。醜い足掻きは無駄ですよ」
それに喉の奥で笑って、ヴァンパイアは自らの腕を切り落とした。ファレルは目を見開く。ヴァンパイアは一足飛びにコレットの傍らに立ち、その体を引き上げ首元に鋭利な爪をやった。
「コレットさん!」
「動くな。動けば小娘の命、無いと思え」
ファレルは唇を噛む。こんなに傍にいて、守れないなんて。
コレットはいまだ人形のように茫洋とした目で虚空を見つめている。ヴァンパイアはファレルが動かないのを見ると、引き攣った笑いを浮かべた。右手首からは血が滴っている。コレットの細い首を掴み、牙が月に光る。
瞬間。
ファレルの中で何かが切れた。
水素、酸素、 窒素、ヘリウム、ネオン。その他、空気振動によって必要な分子を掻き集める。
ヴァンパイアは危険を察した。それは本能によるものだ。今すぐ、この獲物から養分を吸収しなければ。いや、逃げなければ。
だが、遅い。
それは目映いばかりの光球。小さな小さな、太陽。
絶叫が響き渡る。
あまりに小さく、しかし人の身でそれを形成するには正しく命を削る所行。だが、このヴァンパイアを葬るには十分な。
ボロボロとその身体を崩し、乾いた音がコンクリートの床に転がる。瞬間小さな光球は霧散し、ファレルは崩れるように倒れた。体中から汗が噴き出し、喉が焼けるように熱い。さすがに無理をしたか。
視線だけを上げると、コレットが呆然としたようにへたり込んでいる。
ファレルは大きく息を吐き、立ち上がる。緑の瞳が虚ろにファレルを追った。それに微かな笑みを浮かべて、ファレルはその手を取った。
「家まで送ります。コレットさん」
しばらくぼんやりとその手を見つめていたコレットだが、やがてゆっくりと立ち上がった。
風が吹く。
カラカラと音を立て、プレミアフィルムは月明かりの届かぬ場所へと消えた。
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クリエイターコメント | お届けが遅くなり大変申し訳ありません。ただただお楽しみいただける事を切に願うばかりです。 |
公開日時 | 2009-05-19(火) 18:10 |
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