★ 名残桜、炎の如く ★
クリエイター木原雨月(wdcr8267)
管理番号314-7095 オファー日2009-03-14(土) 23:08
オファーPC 藤田 博美(ccbb5197) ムービースター 女 19歳 元・某国人民陸軍中士
ゲストPC1 セイリオス(chyz1032) ムービースター 男 18歳 盗賊
<ノベル>

 どうすればいいのか。
 どうしたいのか。
 それすらもわからず、ただじっと眺めている。
 それじゃ駄目だってわかってる。
 わかって、いるの。
 だから、会いに行こう。
 会えばきっと、わかるわ──

■Mission. 1:
 窓の外は、いつもの喧噪とは違うざわめきが満ちている。
 藤田博美はようやく包帯の取れた腕に、お気に入りのチュニックを通す。引き攣れた痕はまだ残っているため、それを隠すのにぴったりとした長袖のインナーを合わせている。下はボトムに可愛らしい花の刺繍が施された、すっきりとした七分丈のジーンズだ。
 微かな喧噪を聞きながら、博美は空を見上げた。それから視線を滑らせれば、オレンジ色の炎が灯るランプ。夕陽の色を映したような、優しい色。その向こうには、映画と呼ばれる博美が元居た世界でもらったチワワプリントのトートバッグ。元々ブランドものであるのに、さらにプレミアがついて大層高かったのだと聞いた。
 ランプは去年のホワイトデーに、ある盗賊団の一人に買い物につきあった礼としてもらった。
 そしてトートバッグは、映画の中で博美が淡い想いを抱いた青年からもらったものである。
 それらを目にするたびに、胸が詰まる。苦しくて切なくて、目を反らし続けてきた。そして今は、寂しくて触れる。じっと眺めて、手にとって、抱きしめる。
 ──決着を。
 この曖昧な気持ちに、決着を付けなければ。
 自分だけの整理でしかないことは、わかっている。
 それでもそうしなければ、どんな結果になっても必ず後悔する。
 曖昧なまま、終わらせたくない。
 メッシュデザインのパンプスを履いて、姿見の前で鏡の前で軽く髪を撫でつける。くるりと回って、それからにっこりと笑う。
「よし、いい女」
 気合いを入れるように声に出して、博美はドアを開けた。

  ◆

 博美が待ち合わせに指定したのは、市役所だった。連絡先も知らなかったので、対策課を経由して呼び出した。他の場所をとも思ったが、互いによく知っている場所と考えると、やはり市役所しか浮かばなかった。乙女としては、ちょっと切ない。
 博美が着いた時には、赤銅の肌に黒い髪、赤い瞳を不機嫌そうに空へ投げる青年の姿があった。セイリオス。特別気配を消して近付いていったわけではないが、深紅の瞳がすうと博美に向けられると、思わずどきりとする。
「おう」
 むっつりとした顔で、寄りかかっていた壁から体を起こす。博美はそっと息をついて、それから笑った。
「早かったわね、待たせた?」
「少しな」
 ここで「待っていない」とか言わないのが、セイリオスである。わかってはいるが、やはり乙女心としては「分かってない!」である。彼だったら、きっと微笑んで「今来たところだよ」と言ったに違いない。
「大丈夫なのか」
 文句を言おうとしたところで、セイリオスが口を開く。瞬きをすると、セイリオスはがしがしと後頭部を掻いた。癖なのかな、と博美は思う。思い返せば、口ごもる時はたいてい、そうやって後ろの髪をかき混ぜている。
「その、……あれだ、腕」
 ぶっきらぼうに言うのは、照れ隠しだろうか。博美は思わず笑った。
「なんだよ」
「別に。大丈夫、元々体は頑丈だから」
 言うと、「そうか」と言ってにやりと笑う。
「確かに、腕っ節はあるよな」
 博美はさっと頬を朱に染める。それに驚いたのはセイリオスで、しかしそれ以上に博美が驚いた。思わずセイリオスに背を向ける。
 どうして。いつもなら、文句の一つでも言って。年上風を吹かせて、引っぱたいてやるのに。
「お、おい?」
 おろおろとしているセイリオスの気配。ちろと視線だけ上げれば、本当に困ったような顔でわたわたとしている。それが可笑しくて、博美は笑った。
「なんだよ、ワケわかんねぇ奴だなっ」
 ぷいと顔を背けて拗ねるのが、またおかしくて声を上げて笑った。顔は無愛想だし眉間に皺は寄ってるし、ぶっきらぼうだし、それなのに妙にムキになるところなんかは特に子供っぽく見えるから不思議だ。
「ごめんごめん。行こう?」
 博美の軽やかな足取りに腕を引かれ、セイリオスは片眉を軽く上げてその小さな歩幅に着いていく。

「……おい」
 博美が店の扉を押し開くと、セイリオスは露骨に顔を引きつらせた。そんなセイリオスには構わず入って行くので、大きく息を吐いて博美に続いた。
 そこは近頃、女の子たちの中で流行っているスイーツの美味しい喫茶店。女の子に人気というだけあって、店内は女の子で溢れかえっている。愛らしくもすっきりとした装飾の店内は、不思議な落ち着きがあった。
 そんな店内では、セイリオスはすっかり浮いている。しかし、ここは博美のお気に入りである、相手が浮こうがなんだろうが、妥協する気は微塵もなかった。
「二名様ですか? では、窓際のお席へどうぞ」
 ウェイトレスはすっきりとしたエプロンの、穏やかな笑顔の女性である。女の子だらけであるのに落ち着いた雰囲気も醸し出すのは、こうした店員が揃っているからだろう。
 そんな落ち着きが、博美は気に入っていた。
「こちら、お冷やでございます。ご注文はお決まりですか?」
「ケーキセットを。私はメイプルのミルクレープとダージリン」
 すらすらと応える博美を、セイリオスはぽかんと見ていた。それに気付いて小さく笑い、彼にも同じものをと伝える。店員は小さく会釈し、微笑みを残して去っていった。セイリオスはそわそわと落ち着かない。
「もう、落ち着きなさいよ」
「……ヒロミは女だからいいよな」
 ヒロミ。
 心拍数が上がるのがわかる。たったそれだけで。
 博美は顔色を変えないよう、動揺を気取られぬよう、平静を装った。ちらりとセイリオスを盗み見る。どうやら落ち着かない方が勝ったらしい。ほっと一つ胸をなで下ろした。
「お待たせ致しました、ケーキセットでございます」
 先ほどと同じ店員が柔らかな物腰で、ケーキと紅茶を置いていく。一礼をして去る背中を見送って視線を戻すと、セイリオスが食い入るようにケーキを見つめている。
「嫌いだった?」
「あ? いや、そうじゃねぇけど」
 セイリオスは後頭部を掻く。首を傾げると、大したことじゃねぇんだ、と苦笑する。
「銀幕市に来た時に色んなケーキ食ったんだけどな。そん中にこれもあったと思うんだが、なんか違う」
「どこで食べたの?」
「ケーキバ……バ、バキ、……バンキング」
「ケーキバイキングね」
 呆れたように言えば、悪かったな、と拗ねる。それが可笑しくて思わず笑った。
「とりあえず、食べてみてよ。美味しいから」
 言って、博美はフォークを入れる。硬すぎず柔らかすぎない生地とクリームに、型くずれすることも無くフォークはすんなりと入っていく。一口食べれば、メイプルとカスタードクリームの甘さが口の中にふうわりと広がり、ダージリンを一口飲めば、その程よいほろ苦さがまたミルクレープとよく合っている。ああ、至福の時。
「……なに?」
 くつくつとした声に顔を上げれば、セイリオスが肩を震わせて笑っている。
「な、なによ?」
 博美は思わず吃ってしまった。
 だって思えば、セイリオスが普通に笑っているところなんて、見たことがなかったのだ。いつだって戦いの最中で。苦々しく眉間に皺を寄せていたり、怒っているような顔ばかりで。
「バカみてぇに幸せそーな顔してるなぁと思っただけだ」
 普通に笑っている。それだけなのに、それがひどく不思議で。笑い顔は、なんだか幼くて。
「バッ……誰がバカよっ!」
 言い返せば、また口を開けて笑う。セイリオスがこんな風に笑うなんて、思ってもみなかった。
 博美は頬が熱くなるのを押さえられず、しかしそれが胸の高鳴りだと知られたくなくて、ケーキを頬張った。
「落ち着いて食えよ。美味いんだろ」
 じろりと目を上げれば、そこには思いっきり目をキラキラさせてケーキを頬張っている姿。
「……どっちが」
 ぼそりと呟く。
「ウルセー」
 フォークを銜えて睨み合う。
 やがてどちらともなく、くすくすとした笑みが広がった。

「で?」
 甘い至福に満たされ、親指で口端についたクリームを拭いながらセイリオスが口を開く。
「で?」
 博美が繰り返すと、セイリオスは「だから」と続けた。
「お前、ケーキ食いたかっただけか? 話ってなんだよ」
 深紅の瞳が真直ぐに博美に向けられる。博美は思わずうつむいてしまった。
 まったく直球なんだから……。もうちょっとこう、婉曲にというか遠回しにというか、そういう言い方ができないものだろうか。いや、セイリオスにそれを求めること自体が間違っている。そういう人だ。純粋で、不器用で……
 セイリオスは思わず言葉を失った。
 博美の黒い瞳が、真直ぐに向けられて、──困惑、した。
 向けられた視線の意味がわからない。だが、心臓が痛いくらいに波打つ。今まで一度だって向けられたことのないもの。
 敵意でも、盗賊団の中で向け合う親しみでもない。
 これはなんだ?
 瞬間、ガラスが砕け散る音がした。悲鳴。博美が頭を庇い腕に赤い筋が幾つも走った。視線が切れ、そこでようやく我を取り戻したセイリオスは、しかしその一瞬の反応の遅れがすべてを拘束した。
 博美が黒い瞳を見開いている。
 叫んでいる。
 自分の名を。
 セイリオスは霞む視界の中で、博美に手を伸ばしていた。いや、伸ばしたの彼女だったのか。
 その手は空を掴み、世界は暗転した。
「セイリオス!」
「返して欲しければ戻るんだな、朴秀媛」
 低い声。博美は眼を見開く。黒い武装集団が遠ざかって行く。伸ばされた手を掴むことができなかった。いや、伸ばしたのは自分だったのだろうか。
 博美は破れた窓から飛び出した。連中はもう見えない。唇を噛んだ。どこへ向かっているかは、なぜだか直感的にわかった。そして最後の言葉で、何者かも。
 親北組織のクムグァン派。
 かつて博美が所属していた、極左的なゲリラ集団。
 ……そう、かつて。映画の中で、藤田博美こと朴秀媛(パク・スウェン)が所属していた組織。
 博美は細かな傷を乱暴に拭うと、かつての戦闘服に身を包む。
 ──この街で、これに袖を通す日が来るなんてね。
 そう自嘲し、小火器を装備する。昔から手に馴染んだAK-74、そのコピー。パチン、とナイフを開いた時、オレンジの炎が視界にすべりこむ。美しい夕焼けを映した炎。それに映る自分の顔を見て、博美は唇を引き結んだ。銀幕市に来てから伸びた長い髪を切り落とす。
 冷蔵庫から栄養ドリンクに見せかけた瓶を一気に飲み干し、博美はゆっくりと目を開いた。
「作戦開始」
 戻る気などない。
 博美が向かう理由はただ一つ。
 セイリオス。
「必ず、助け出す」


  ◆       ◆       ◆


 逢えなくなるなんて思わない。
 必ずもう一度会うの。
 あなたとまた会うの。
 その後はわからない。
 神さまにだってわからない。
 ただ、今は──

■Mission. 2:
 ここはどこだ。
 ぼんやりとした頭で思い、博美が自分に手を伸ばし名を呼ぶのを聞く。
 瞬間、体中が目覚めた。同時に自分を縛り付ける存在に気付く。体が動かない。拘束された上に目隠しをされているようだ。鼻先には微かな火薬の臭い。耳には硬い物がぶつかり合う音。武装した者が、ここには多数いるらしい。
「目が覚めたか」
 真正面の高い場所からの声。自分は座っているようだから、声の主は立っているのだろう。少し聞き慣れない訛りの、しかし知っている言語。言葉が通じる相手、それだけでセイリオスは少し安堵した。言葉が通じない相手では、交渉のしようもない。それはセイリオスの最も不得手とするところだったが。
「ここはどこだ」
「知る必要はない」
 ぴしゃりと言われ、セイリオスは小さく息を吐いた。まあこの状況を考えるに、自分は人質というものなのだろうから、当然と言えば当然だ。
 しかし、こう言われてしまうとセイリオスには何もする術がない。いや、あるにはあるが、聞こえてくる足音や息遣いから、かなりの人数がいることがわかる。そしてこの火薬の臭い。この時ばかりは自分の能力を呪った。どこかのバカのように水が扱えたなら、こんな拘束などさっさと解いてトンズラするものを。
 小さく息を吐けば、目の前に立っていた者は逃亡の意思がないと見て遠ざかっていった。それを聞きながら、セイリオスはもう一度息を吐く。
 浮かんだのは、博美だった。
 博美の驚愕した顔。そして……一瞬見えた、苦々しそうな顔。
 彼女はこの武装集団のことを知っている。単なる勘だったが、外れている気がしない。今のセイリオスの状況が彼女の手引きによるものかそうでないか、それを確かめる術はない。だが、そうではないというのがやはりセイリオスの勘だ。
 それにしても今の状況は不思議だった。人質というものは、何か重大なものと交換する際に確保するものだ。発音からして、自分たちの『映画』に関わる組織ではないように思う。ならば博美に関する組織なのだろう。自分が博美にとってそれほど重要な人物とは思えないが……
 そこまで思って、セイリオスは気分が暗くなるのを感じた。
 まるで頭に怒られた時のようだ。理由も、その思いも、どういった言葉で表せばいいのかわからないが、とにかく自分で思って自分で落ち込んだ。そんな感じだ。
 そして浮かんだのは、あの時の眼。
 博美のあの、全身が総毛立つようなあの視線。
 思い出してもまた動悸がして、わけがわからなくなる。それがどういった名前で、どんなものなのか。今すぐ帰って、同期に盗賊団へと入った少女に聞きたくなった。その少女ならば呆れながらもきっと答えをくれると思ったのだ。いつだって、そうだったから。
 セイリオスは、その少女を護らなければと思っていた。年齢で言えば、同じ。だが、相手は女で、自分は男だ。そして、頭の気に入りの子でもある。少女と走り回っていると楽しい。くだらない事で小突き合って、それを頭やその右腕、どうにも仲良くできないいやしたくない水の化身などに、からかわれたり怒られたりして。いつも共にあった。そんな盗賊団の中で、ずっと共にありたいと思う。
 しかし、そんな仲間を思っても。博美のあの眼が、消えなかった。
 少女にどんなに真直ぐに見つめられても、今のようなわけのわからないものを感じたことはない。同じ女なのに。それが不思議で、言葉にならなくて、セイリオスは困惑していた。
 思えば、彼女と初めて出逢った時も、似たような困惑を覚えていた。あれは去年のホワイトデーなる行事のことである。バレンタインデーに少女がくれたチョコレートのお返しを探していたとき、セイリオス本人は自覚していなかったが、不審と思える程度にはいわゆる常識と離れた行動だったのであろう。店から出てきた博美に殺気をもって捕まり、どうにか誤解を解いた後はプレゼント探す手伝いをしてくれたのだ。
 そしてあの時は。
 そうだ、あの時は何か思い詰めているような、何かを思い出しているような、そんな顔をしていた。それは、頭があの白い髪の少女を迎え入れる時に離れる村を見下ろしていたあの顔と、よく似ていて。気が付けばランプを押し付けていた。炎の色は、初めて銀幕市に来た時に見た夕日の色だった。なぜか、それがいいと思ったのだ。そして……自分の欠片を、移した。そうすることで、炎は命果てるまで消えない。
 そういえば、なぜ博美は自分を呼び出したのだろうか。
 唐突にセイリオスはそんな疑問を浮かべた。市役所に来た彼女はどこかぎこちなく、どこか無理をしているようにも感じられた。そしてその前、市役所を経由して博美から会いたいと言われた時、いつもなら面倒くさがる自分が、思わぬほどすんなりと承諾したのを思い出す。
 そうするとまた、気持ちはもやもやとしてきた。これは一体なんなのか。
 そして閃いた。そうだ、その理由がわかればこのもやもやも解消されるかもしれない。その為には博美に会わなければ。
 立ち上がろうとして、体が動かない事を思い出す。おまけに目隠しまでそれているのだった。普段使わない頭を使っていると、そうしたことを忘れるらしい。
「おい、なにをしている!」
 声が降ると同時に、頭に衝撃が来た。なんの心構えもなかったので、目の前に星が散っているような気がした。何か固いもので殴られたのだ。そうすると浮かんでくるのはふつふつとした怒りで。
 そもそも、ここで大人しくしている理由がない。
 小学生かと言ってやりたいが、そもそも頭を使うのは苦手なのである。苦手というか、まったくさっぱりなのであるから、彼に残された選択肢はただ一つ。
 セイリオスは炎に包まれた。
「なんだっ?!」
 周囲が浮き足立った。それもそのはず。鉄の椅子に縛り付けた男が、突然燃え上がったのだ。おまけに、鉄の椅子をも溶かして男は立ち上がった。髪の毛一本も焦がす事なく。
「化物!」
 深紅の瞳が炎に躍る。
「久々に聞いた」
 口端を歪ませて、セイリオスは炎を投げた。あちこちで爆発音がする。思った通り、銃を持った男たち。銀幕市に来てから知った武器でその種類まではわからないが、そんな者共が右往左往するのは気分がいい。鼻先を火薬の臭いが掠める。咄嗟に横に跳び、柱の陰に隠れた。高い音を立てて床や壁に穴が開く。舌打ちをして、セイリオスは弾丸の飛んでくる方向に炎を投げた。奴らの手の中で銃が爆発し、後ろに吹っ飛ぶ。
 怒声と罵声、悲鳴とけたたましいベルの中をセイリオスは駆け出した。

  ◆

 博美は無機質な通路を素早く横切る。通路には数メートルおきに歩哨が立っていた。入り口はふいを突く事で静かに速やかに侵入することができた。もう一度くらいはいけるかもしれない。しかし、それが成功したら次はとてもそうはいかないだろう。
 博美はAK-74を背中に担ぎ直し、ナイフを引き抜いた。本丸に着くまで大きな労力を使いたくない。鏡を使って歩哨の位置を確認する。
 呼吸は至って静かだった。心音も、平常である。武装し、戦地にいること。それはかつての博美にとっては日常だった。そして、この非日常の中で戻ってきたそこは、不思議と落ち着く空間であった。
 そんな自分に気付き、博美は自嘲する。
 しかしそれも詮無い事であろう。彼女は工作員として特殊な訓練、教育も受けていたが、特別愛国心が強くてそうしているのではない。
 工作員としての生き方しか、知らなかったのだ。
 博美は頭を振る。今はもう、工作員としての生き方しか知らなかった頃の博美ではない。『映画の世界』での恋と、銀幕市への実体化。そこで彼女が得たのは、ありきたりな大学生としての生活。それが、彼女にとってどれほど新鮮で、どれほど煌めいていることか。
 この銀幕市という場所でも、喧噪は絶えない。しかし、工作員として日本へ来た時は明らかに違うことが一つある。それは、何ものにも属さない、ただの大学生である、ということだ。任務に縛られない、自由な生活。心も体も自分だけのもの。
 だが、それでも自分が兵士として過ごした日々が無駄ではなかったと思えるのは、この銀幕市では、それが純粋に役立つからだった。
 そして、今も。
 博美は鏡をしまい、静かに息を吐いた。
 次に眼を開く時、博美は疾風のように駆け出す。
「お前っ……」
 一人。その首を素早く掻き切る。一拍遅れて血が噴き出し、しかしその時にはもう二人目の前にいる。
「パク・スウェン!」
 三人目。熱い血潮が降り掛かる。かけていたゴーグルが赤一色の染まる。左腕で血糊を払って四人目。しかしその一動作が遅れに繋がり、腕を捕まれ腹に強い衝撃。息を詰まらせ、しかし次には足払いをかけて引き倒す。首にナイフを突き立て、引き抜くと同時に走った。
 前方より三人。小火器を向けている。博美と同じAK-74のコピーだ。博美は視線を走らせ、横道に飛び込む。その先からも三人。さらに手近な扉に飛び込み、鍵を掛けた。
 ゴーグルを外し手早く血糊を拭き取る。幸い受けたのは腹への一発だけで、損傷はほぼゼロと考えてよいだろう。窓を開けて血糊を拭いた布を放り投げた。天井を見上げると換気口。扉は今にも破られそうだが、まだ破られはしない。軍事施設という事が今は博美に味方した。靴底を拭い、蓋を外して一気に飛び上がった。それを元に戻した所で、扉が開く音。危機一髪だ。
 警報のベルが鳴り響く。これでもう、博美が侵入したことはこの拠点中に知れた。先ほどのような奇襲はもう効かないだろう。相手もプロである。そしてそんな高度な組織的連携を取る相手に真正面から向かうほど、博美は浅はかではない。息を詰め、静かに空気ダクトを進んだ。

 幾つかの換気口を過ぎ、やがて博美は異変に気付く。あまりにあっさりと過ごせすぎる。そして、何よりこの熱気。ゴーグルが曇り、汗が顎から滴り落ちる。いくらダクトを通っているとはいえ、この熱さは異常だ。そういえば、ベルが鳴りっぱなしである。ダクトを通り始めてから少なく見積もっても十分は経っているのに、やはりおかしい。
 このままダクトを進むのも難しいと判断し、博美は次の換気口で降りる事にした。換気口の向こうでバタバタと武装兵士たちが駆けて行く。
「なんだ、あのバケモンはっ……!」
「消化器もっと集めろ!」
「防炎シャッターは?!」
「意味がない、ヤツは炎を撒き散らしながら進んでいるからな」
「とにかく確保急げ。このままじゃ逃げられた挙句に、拠点そのものが壊滅する」
 逃げた。博美は眼を見開いた。
 蓋を外し、静かに降り立つ。耳に神経を集中させる。差し迫った危険は感じられない。博美はゴーグルを掛け直し、AK-74を手に部屋から飛び出した。

  ◆

「っくそ、後から後からワイてきやがって!」
 舌打ちをしながらセイリオスは走る。炎で威嚇しながら進むので飛んでくるのは銃弾ばかりだが、体に届く前に燃やし尽くしてしまえば怖いものでもない。ただすべてを防げるわけでもなく、無傷というわけにはいかなかった。幸いなのはかすり傷程度で、身体的に異常がない、ということだろうか。
 目の前に迫った男を殴り飛ばすと、ふいに人影が消えて静かになった。炎を感知したらしく、天井から水が降り注ぐ音だけが響いた。何かの罠か。そう思いながら、とにかくここから出なければという衝動に突き動かされて、丁字路になった道を曲がった。
「げ」
 ずらりと並んだ武装集団。焦げる臭いが強く、鼻が鈍ったか。その手に持つのはさっきまでとは比べ物にならないほど火薬の臭いが強い銃だ。急ブレーキを駆けて踵を返す。
「ファイア!」
 指揮官らしい男の声で、一斉に引き金が引かれる。床を濡らす水に足を取られながらどうにか元の道に戻った所で、銃弾が針のように壁にめり込んでいく。それはまさしく蜂の巣だ。さすがに顔を引き攣らせる。金属のこすれ合う音がする。恐らく何段かに分かれ、順に構えているのだろう。セイリオスのいた世界でも騎士団の弓隊が使った手だ。最も、弓なら案外どうにかなるものだ。それは彼の属する盗賊団【アルラキス】が能力者集団であったことと、類稀なる身体能力を持ち得ていたからだが。
 しかしセイリオスは動けなかった。弓と弾丸では質が違う。いま壁を蜂の巣にしたように鉄板をも撃ち抜く弾幕を横切ろうにも突っ込もうにも、その前に身を晒すのはあまりに危険過ぎた。
 静かだ。おそらく、しびれを切らしてこちらが飛び出していくのを待っているのだろう。ならばのこのこ出て行くのもバカらしい。
 セイリオスは壁に背を預け、息を整える。遠い場所から火を消していった。火気のない場所で炎を発現するとき、それは精神をすり減らす。高温を保つならば、余計にだ。だがそれによって発生した本物の火は、セイリオスの力となる。少なくともすり減った精神を少しばかり潤すくらいはしてくれる。水がこれだけ撒かれるとあまり期待できなかったが、やらないよりはマシだ。
 そうして息をついた時。通路の向こうから銃声と怒声が響いてきた。セイリオスは顔を上げる。丁字路の向こうでも少しの動揺がある。壁から背を離し、姿勢を低くした。
 黒い武装した男が、こちらに背を向けて銃を乱射している。眼を凝らす。男の向こうに、こちらへ向かってくる人影が見えた。髪が短く、一見男のようにも見えるが、その体付きは明らかに華奢で女のものだ。更に眼を凝らすと、血を浴びたその眼と深紅の眼が合った。
 その顔が、明らかに気色を帯びた。目の前の三人を打ち、蹴りあげ、撃ち、こちらに駆けてくる。
「バっ……」
 セイリオスは地を蹴った。背中と足に熱い痛みが走る。丁字路の向こうに女を押し倒して、頭を打たないよう体を滑り込ませる。背中に鈍い痛みあって顔が歪む。
「セイリオス」
「立て!」
 全身をバネにして起き上がるとその腕を引いて走った。後ろに無数の金属の音を聞いて、通路一杯に炎の壁を展開した。怒声が炎の向こうに聞こえる。ベルが鳴り響き、水が降り注ぐ。セイリオスは細い手を引いてただ走った。

 しばらく走って、細い手がセイリオスを引っ張った。それについて行くとそこは物置部屋のようだった。そこでようやく二人は向き合う。
「ヒロミ」
 博美はゴーグルを外して笑っている。
「無事でよかった」
 セイリオスは頭を掻いた。こんな状況で笑うか。
「……髪、どうした。それと、あちこち怪我し過ぎだ、おまえ」
 セイリオスは肩からシャツを引き千切ってその手に当てる。博美の手はすっかり擦り剥けていた。
「髪は邪魔だから切ったの。それと、そんなに言われるほど怪我してないわよ」
 セイリオスは黙々と布を巻いている。博美も黙って手当を受けていた。
「……」
「……」
 長い沈黙。
 セイリオスはじっとその手を見つめ、離そうとしない。博美もまた、それを解こうとは思わなかった。
 ふいに強く腕を引かれて、博美は眼を見開いた。目の前にはセイリオスの肩。セイリオスは黙っている。耳に強く早い鼓動。それは自分なのか、セイリオスなのか。ただ、その腕の力強く。博美は視界が滲むのを感じた。
 言いたい事は、山ほどあった。
 もう一度会ったら。
 そう、思っていたのに。
 言葉にならない。
 浮かばない。
 まだ安全と決まったわけではないのに、ここは敵地のど真ん中であるのに。
 このまま時が止まってしまえば良いと思った。
 それは衝動のようなもので、自分でもよくわからなかった。
 ただ、そうしたかった。
 それがどんな名前なのかは知らない。
 聞こうと思っていた事も、博美を目の前にしたら真っ白になってしまった。
 抱きしめたその体は思っていたよりもずっと細くて、柔らかくて。
 敵地のど真ん中で何を思っているんだとかも浮かんだけれど、すぐに消えた。
 細い腕が、同じように回ってきたから。
 眼を閉じた。
 耳に強く早い鼓動。それは自分なのか、博美なのか。ただとても満たされているような気がした。

  ◆

「……背中、大丈夫?」
「なにが」
「撃たれてる」
「かすり傷だからな」
 二人は通路の向こうを注意深く見やりながら走っていた。足元には無数のフィルムが転がっている。それを見ると、博美の心にちくりとした痛みが走った。ちらりとセイリオスを見やる。セイリオスはただ真直ぐ前を見て走っている。
 ──ここから、出たら。
「おい」
 声に顔を上げる。セイリオスの向こうに、白い出口。
 頷いて、二人は外へ出た。博美は黒い塊を取り出す。怪訝そうにするセイリオスに笑って、安全装置を外すと眼下に広がる入り口へ向けてそれを投げた。カラカラと転がっていく音。続いて眼も開けていられないような閃光が迸って、爆発音。
 セイリオスは呆れたように肩を落とした。
「相変わらずオーザッパなヤツだな」
「あんたに言われたくないわよ!」
 いつものやり取り。ふと笑って、二人は拳をぶつけ合った。
「これからどうするの」
「さぁな。ただ、お頭に付いてく。オレは【アルラキス】の一人だからな」
「……そっか」
 博美は小さく笑う。
 なんとなく、そんな気はしたのだ。
 胸に小さな棘が刺さったような、そんな痛み。
 それも、覚悟していたものだ。
 ふいに手を取られ、博美は顔を上げた。そこには、視線を反らしたセイリオス。
「今は、こうしてたい気分だけど」
 博美は笑う。目の前が滲む。
 春の夕日が美しい。
 まるで、セイリオスがくれたあの炎のように。
「私も」
 手を握り返した。

 鮮やかな夕日が、二人を照らしている。

クリエイターコメントたいっへん大変長らくお待たせいたしまして、本当に申し訳ありませんでした。
木原雨月です。

この度は木原を、そしてセイリオスをご指名いただきまして、本当にありがとうございます。
そのように思っていただけこと、大変光栄に思います。
結末はお任せとの事でしたのでこのようになりましたが、いかがでしょうか。

また、木原の不手際により一部ご期待に添えておらず、申し訳ない限りです。
お気に召していただければ、幸いに思います。
この度はオファーをありがとうございました!
公開日時2009-05-27(水) 18:00
感想メールはこちらから