★ 真理の星 ★
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
管理番号102-4438 オファー日2008-09-01(月) 23:43
オファーPC 狩納 京平(cvwx6963) ムービースター 男 28歳 退魔師(探偵)
<ノベル>

 依頼人、シンプルなワンピースに華奢な肢体を包んだエキゾティックな美女は、彼の事務所を、好奇心たっぷりに見回していた。
「珍しいかい、こういうとこは?」
 狩納京平(かのう・きょうへい)が尋ねると、女は魅力的な笑みとともに頷いた。
「ええ……こういう事務所に入るのは、初めてなの。とても古い建物なのね、不思議な雰囲気だわ」
「ああ、そうだな、大正の頃に建てられたみてェだから」
「すごいわね、歴史を体現している……ということかしら?」
「だな」
 ダウンタウン南、ふれあい通りの外れの角地にある『銀星ビルヂング』に、狩納京平探偵事務所は入っている。
 大正時代末期に建てられたビルは石造りで、味のある近代建築だ。
 ビルは三階建てで、一階は多目的ホールと貸事務所(ただし、現在は空室だ)、二階は住居スペース、三階は京平の事務所となっている。
 ここで、オカルト専門の探偵事務所を開き、ひっそりと営業しているのだが、目の前の女のように、客は、途切れることがない。
「それで、依頼は、」
「……あら?」
 本題に入ろうとしたら、女が首を傾げて事務所の入り口を見遣った。
 扉の前には、いつの間にか、手紙と、花束とが置いてある。
「誰か、来たのかしら?」
「……あァ」
 京平は苦笑し、扉へ歩み寄ると、手紙と花束を拾い上げ、中身をざっと確認して肩をすくめた。
「あんたに、ってさ。美人に弱いのは、俺と一緒だな」
「美人だなんて言ってくれるのは嬉しいけれど……わたしに? 誰が?」
「ん、ここのビルが……かな? あんたを歓迎してるんだ」
「この、ビルが? 確かに……不思議な気配を感じるけれど、一体……?」
 不思議そうな彼女に、京平はかすかに笑った。
「……知りてェかい?」
「え?」
「このビルのことを、さ。俺と、こいつが、どうして出会ったか」
 京平の物言いに、女が穏やかに微笑む。
「あなた」
「ん?」
「このビルを、大切にしているのね? まるで、気の置けない相棒のよう」
「あァ……まァ、そんなもんだ」
「知りたいわ」
「そうかい」
 京平が肩をすくめると、女は穏やかに微笑んだ。
「あなたと、この建物の、馴れ初めを。そして、あなたが、この建物と出会ったことで得た、結晶を」
 女の、白い、華奢なのに何故か力強く感じる手が、慈しむように、どっしりとした木造りのテーブルを撫でる。
 結晶、という言葉に、京平は首を傾げたが、彼女から悪いものは感じられず――むしろ、彼女のまとう気配は、神々しいほどに澄んでいる――、どうということのない、他愛のない物語を披露する相手には相応しいようにも思え、小さく頷いて、彼は、女の前のソファに腰かけた。
 そして、口を開く。
「そもそもの、始まりは――……」
 女は、それを、興味深げに、――吾子を見守る慈母のように、見つめている。

 * * * * *

 それは、七夕の頃だった。
「――……あン?」
 重厚な鉄の扉を開けると、そこは別の世界だった。
 後で知ったことだが、京平は、『平成帝都あやかし譚・乱之巻』という映画から実体化した、『ムービースター』という存在だった。
 物語の終わり、ラストシーン近く、古びた札で封印された小太刀と二振りの太刀を手に事務所を出ようとした彼は、ふれあい通り外れの『銀星ビルヂング』のドアから出て来る、というかたちで実体化したのだった。
「……何だ、帝都と、違う……?」
 街の様子が違う。
 街を包み込む空気のが違う。
 道を行き交う人々も、京平の知る帝都とは、少し違う雰囲気を持っている。
「……?」
 京平は首を傾げ、自分が出てきた建物を見上げた。
 やはり、自分の事務所ではない。
 石造りの、小洒落た、落ち着いた雰囲気のビルだ。
「ここァ……どこだ……?」
 大きな事件が一段落し、落ち着きと希望を取り戻したばかりの京平は、別に、何を焦るつもりも、恐れるつもりもなかったが、先ほどまで帝都に……故郷にいたはずだったのが、唐突に不思議な場所へ来てしまった、というのは、妙な気分だ。
 とはいえ、固まっていても仕方がないので、あちこち散策してみるかと、京平が一歩踏み出そうとした時、
「あの、すみません」
 眼鏡をかけた、細身の、壮年の男性が声をかけてきた。
「ん?」
 気の弱そうな、しかし人のよさそうな彼に向かい、京平は首を傾げる。
「あなたは、今、このビルから出ていらっしゃいませんでしたか……?」
「ああ、そうだが……あんたは?」
「私は、このビルの管理人です」
「そうなのか、すまねぇ、勝手に入っちまって。いや、入ったっつぅか、出てきたっつぅべきか。ともかく、悪気はねェんだ」
 何やら妙なところへ来てしまったようだが、建物に所有者がいるのは当然のことで、不可抗力とはいえそこから出て来た京平は立派な不審者だった。
 状況がきちんと把握出来るまでは、騒ぎを起こすのは不味い、と、男性に詫びると、彼はかすかに笑って首を横に振った。
「いえ、そうではなく、このビルから、無事に出ていらっしゃったのかと、少々驚きまして」
「……ん? どういうことだ?」
 含みのある物言いに、京平は首を傾げる。
 管理人氏はそうですね、と考える素振りを見せ、
「あなたは、この街に実体化されたばかりのようですね。私は、あなたに、あなたがおかれている状況を説明して差し上げることが出来ますし、必要な場所へ案内して差し上げることも出来ます。差支えがなければ、一緒に来ていただけますか? その後、事情を説明させていただきますので……」
 京平にとって悪くない提案をした。
 実際、少々困っていたのと、管理人氏から悪いものを感じなかったのもあって、京平はありがたくその提案を受け入れることにする。
「助かるわ、ありがとよ」
「いえ、困ったときはお互い様、と申しますしね」
 男性は、そうだな、そうに違いねェ、と笑う京平を、京平のような存在が、一番に足を運ぶべき場所に案内してくれた。
 ――つまり、それが、銀幕市役所の、対策課だった。
 京平は、そこで、自分がどういう立場であるのか、銀幕市がどういう場所なのかを学ぶことになる。

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 はい、それで……何からお話すればよかったですかね。
 ああ、銀星ビルヂングの、怪現象から……が、一番しっくり来ますでしょうか。
 そうなんです、あそこは、ムービーハザードでも何でもない、普通の建物だったんですよ、この街に魔法がかかるまで。レトロな雰囲気と、しっかりした造りと、細部までなされた仕事が素晴らしいと、評判の建物だったんです。
 もちろん、少し不便な場所にありますから、大賑わい……とまでは行きませんでしたけど、ああいう、風情のある建物を好まれる方々がたくさん住まわれて、とても華やいでいたんですよ。
 それが……あんなことになってしまって。
 ええ……そうですね、この街に魔法がかかって、狩納さんのような方々が住民となられた頃から、このビルで、不可解な、恐ろしいことが起きるようになったんです。
 ビルの中を、夜毎百鬼夜行が練り歩いたり、見ただけで震え上がるような魔物に襲われ謎かけをされたり、地獄の悪鬼に追い回されたり、建物の中にあるはずのない迷路に迷い込まされた挙げ句外へ放り出されたりと、様々な怪奇現象が頻発したのですよ。
 住民の方々も追い出されてしまい、おまけに建物に鍵までかかるようになってしまって、私など途方に暮れました。
 もちろん、対策課を通じて依頼は出しましたよ。
 ですが、何人もの方が、この建物に挑み、返り討ちにされてしまいました。
 いえ、命を落とした方はおられません。
 怪我をする方はおられましたが、最終的には外に放り出されるだけで、命までは取られないようです。
 そうですね、この場所に愛着があると言うのももちろんですが、ですから、破壊したいとか、そういう気持ちはないのです。
 なにせ、とても素敵な、大正という時代の粋が詰まった建物ですからね。
 出来ることならば、穏便に解決したい、というのが、本音です。
 ええ、出来ることならば、もう一度、以前の住民の方々に戻って来ていただきたい、というのもありますよ。あの素朴な賑わいは、やはり、忘れ難いものですから。
 ――え、あなたが?
 依頼料をお支払いして、ビルの一室をお貸しすれば、いいのですか?
 はい……はい、構いません。
 そうですね、あなたがビルから出てこられたのも、何かの縁なのかもしれませんし、お願いしても、よろしいでしょうか?
 はい……では、そのように。
 朗報をお待ちしておりますが、どうぞ、くれぐれも、お気をつけて。

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 京平は重い鉄の扉を押し開け、中へと入った。
 じわり、と、冷気が押し寄せてくる。
 それは、この季節にはあり得ない、刺すような冷たさを伴っていたが、京平は気にせず、ゆっくりと中へ進んだ。

『目を抉ろか』

 甲高い、小さな声が聞こえて来る。

『目を抉ろか。耳を盗ろか。脚を切ろか。腕を落とそか』

 不吉で不気味な独白。
 見遣れば、エントランスの向こう側の薄暗い空間に、両手が鋏になった、ヒトと蟷螂の合いの子のような化け物が佇んでいる。
 しゃきん、と両手が鳴る。
 虚ろな眼窩が、きょろりと動いて京平を見た。
 にたァり、と嗤ったそいつが、ぺたりぺたりと足音を立てながら近づいてくる。
「……イイ趣味、してんなァ」
 京平はむしろ感心した。
 恐怖の何たるかを理解しているというか、怖がらせるツボを心得ている。
「まァ……悪ィけど、争いごとのために来たわけじゃねぇんだわ」
 京平は、踵を返し、反対側の通路から階段を駆け上がった。

『美味そうな匂いじゃ』
『美味そうな、人間が来た』
『おや、何といい男』
『本当に、うっとりするような美男子じゃ』
『若さと美しさは、馳走じゃのう』
『頭から齧ろう』

『いや、目からじゃ』
『耳が食いたい』
『はらわたはわしに』
『ならば、腕はわたくしに』
『おお、では、足はわしが』
『さぞかし美味かろうの』
『おお、美味かろうよ』
『断末魔の声は、さぞかし心地よかろうの』
『いい男の顔が恐怖で歪む様は、さぞかし心が躍ろうの』
『楽しみじゃ』
『おう、楽しみじゃ』

 囁き交わすのは、十ばかりの、首だけの男女。
 飛頭蛮、と呼ばれる、大陸原産の化け物だ。
 大層凶暴で、人間の肉が大好きだと聞いたことがある。
「……やれやれ」
 先ほどの鋏の化け物と同じく、ニタリと笑った首たちが、乱杭歯を剥き出しにして、飛び掛ってくる。
 恐るべき速さは、解き放たれた矢にも似て、ほとんどはかわしたものの、くるくると宙を舞った首たちの鋭い歯に、身体のあちこちを掠られて、鈍い痛みがじわりと滲む。
 だが、京平は反撃もせず、追いすがる飛頭蛮の隙間隙間を掻い潜って、三階へと続く階段目指して通路を走りぬける。
 飛頭蛮たちの、耳障りで、怖気をそそる笑い声がフロア一帯を揺るがしたが、京平に、その程度で震え上がるような可愛らしい神経は残っていない。
 否、京平にとっての恐怖は、恐らく、別の場所にあるのだ。
 己の死や、痛みよりに対するものよりも、はるかに強い恐怖が。
「悪ィな、あんたらに用はねェんだわ」
 ぼそり、と呟き、生首の群を振り払う。
 ぎゃあぎゃあと喚く生首に閉口しつつ、十分ばかり走った。
 管理人氏から見せてもらった内部の地図では、階段までここまで遠くはなかったし、フロア自体こんなに広くはなかったはずだが、今のこの場にそれを問うのは無粋というものだろう。
 ここに入り込んだ瞬間から、京平は、ここに巣食う『何か』の掌の上なのだ。
 そのことを、彼は、きちんと理解している。
 だから、特に焦りもしていない。
「……ん?」
 飛頭蛮たちが追って来なくなった、そう思ったら、前方に、一つ目の鬼たちがずらずらと並んで、こちらに武器を向けていた。
 恐らく、三十体はいるだろう。
「……豪勢な出迎えじゃねェか」
 京平は呆れたように呟いて、疾走しながら身構える。
 多勢に無勢というのはこのことだろう、と思うと、さすがに身体が緊張するが、しかし彼は、腰に佩いた村正を引き抜こうとはしなかった。京平に、彼らと戦うつもりはなかったのだ。

『地獄へ連れて行こうかい』
『常闇に引きずり込もうかい』
『永遠の責め苦を与えようかい』
『咎人に恐怖を』
『咎人に絶望を』
『可愛らしく啼(な)くがいいよ』
『断末魔を愛でて進ぜようほどに』

 鬼たちの眼がぎらぎらと光る。
 刀や、槍や、棍棒の類が、一斉に京平に向けられる。
 京平は苦笑した。
「咎人か。……まァ、否定はしねェな」
 ごちて、急所を庇いながら、鬼たちの群に突っ込む。
 刃の切っ先が、頬や首筋や腕や脇腹、太腿を掠った。
 中には、決して浅くない傷もあって、熱を伴った痛みがじわじわと込み上げてくるが、やはり京平は冷静だった。
「でも、ま、生きるってのァ……そういうモンだろ」
 故郷での京平は異質な存在だった。
 たくさんの罪を犯し、たくさんの血を流して今に至る。
 だが、彼は、それを悔いない。
 彼は、それをなした自分を肯定する。
「……退いてくれ、俺は、あんたらの主に話があるんだ」
 低く呟き、鬼たちの隙間を潜り抜けてゆく。
 ここに、何かがいることは確かだった。
 ムービーハザードという現象で、銀星ビルヂングに何かが巣食った結果、このビルに怪現象が起きるようになった。
 しかし、その主は、ヒトをいたぶり、殺して悦びたいわけではないらしいと判る。その何かに挑んだ人々は、傷こそ負ったものの、ひとりとして命を落としてはいないからだ。
「何が望みだ?」
 鬼たちの猛追を避けながら、ぼそり、と、呟く。
 ここに巣食う何かの、強い意志と願望とを感じる。
 彼の故郷に数多くいた《アヤカシ》と同じ、強い思念がここに在ることが判る。
「……話をしようぜ、なァ? 俺は、あんたに、興味があるんだ」
 京平が、誰にともなくそう言うと、唐突に、前方十数メートル先に階段が出現した。瀟洒なデザインの、作り手の美意識の感じられる階段だった。
 京平はかすかに笑う。
 ――いざなわれている。
 罠か、それとも別の何かなのか。
 判らないが、ここで躊躇っていても仕方がない。
「その誘い、乗ってやるよ……精々、歓迎してくれ」
 不敵に言って、階段を駆け上がる。
 ひやりとした鋭い空気が首筋を刺した。
 ――視界が、変わる。
「へェ……?」
 京平が踏み込んだのは、何もない漆黒の空間だった。
 否、上下前後左右を見遣れば、青白い光がチラチラと揺れている。
 星空を極限まで凝縮したような、幻想的で、静謐で、美しい光景だった。
 京平も、思わず見惚れた。
「……宇宙、ってのァ、こんな感じかねェ?」
 ひんやりとした空気が、周囲を包み込んでいる。

『死生とは、なんぞ』

 唐突に、声が聞こえた。
 男とも女ともつかぬ、殷々と響く声だった。

『光と闇、正と負とは、何ぞ』

 京平の目が細められる。

『人間とは、なんぞ』

 淡々と、滔々と、問いが紡がれて行く。
 京平の唇が、静かな笑みが浮かんだ。
「……それを訊きたくて、俺を呼んだのかい?」
 確信があった。
 目的こそ判らないが、ここに巣食う何者かは、その根源的な問いのために、その問いに答えられる強靭さを持ったものを招き入れるために、凶悪な化け物たちを操り、この不思議な空間を創ったのだ。

『我に、与えよ』

 周囲に、ヒトではない、しかし確固たる存在の気配を感じる。
 清冽な、どこか神秘的なそれは、万物に宿ると言われる八百万の神々にも似ていた。

『汝の、答えを』

 京平は、いつもの彼ならば見せぬような、邪気のない笑みを浮かべた。
 数多の絶望を、虚無を怒りを超えてここまで来た、その集大成のような問いに、ゆっくりと、唇が言葉のかたちを刻む。
「――……そうだな、あんたの、望み通りに」
 そう言うと、京平を包む星空が、喜びにか、揺れた。

 * * * * *

「では、それが、銀星ビルヂングに宿った思念……いえ、館の精だった、と?」
「ああ。傍からすりゃあ迷惑な話だが、あいつは、このビルを住処と定めてから、ここに相応しい主人を迎え入れようとしていたんだとさ。化け物の行進も、謎かけも、全部そのためのものだったんだ」
「あなたは、それに、合格した……ということ?」
「ってことらしいな。ま、そんなわけで、俺は、格安の値段で、ここに事務所を開くことが出来たんだ」
「そう……不思議ね」
 女は、館の精がいつの間にか出してくれた湯飲みを手に、微笑んだ。
「それで」
「うん?」
「何と答えたの、あなたは?」
「……ああ」
 京平は肩をすくめる。
「聞きてェかい?」
「ええ、もちろん」
 女が微笑む。
 脳裏を、たくさんの記憶がよぎってゆく。
 天狐を友とする外法使いとしての能力を持って生まれたために、母は発狂し、彼自身は幼くして父に捨てられた。
 そんな自分を拾い、慈しんで育ててくれた師は、彼の力を不穏と見なした国家権力によって惨殺された。満開の桜の下で、師を看取った日のことを、京平は今でも鮮やかに、痛みとともに思い出すことが出来る。
 復讐のために力ばかりを欲し、力尽くでそれを得て本懐を果たした。
 何もない、空っぽの日々を歩いて、『あの事件』と巡り会った。
 『あの事件』で、彼は、己が魂の奥底にある光と再会し、意味や意義や希望を取り戻した。
 今、京平の心は、凛と澄んで、軽やかだ。
 ――だからこそ、言える。
 たくさんのものを乗り越えてきた、その矜持が、彼に自己肯定を選ばせる。
「生きることも死ぬことも、人間も、悪くねェ、ってな」
 人間であれ、神であれ、アヤカシであれ、この世に永遠の存在などなく、何もかもが、いずれは滅びて行く。
 その、いずれ行き着く場所のために彼らは生きるのであって、それは恐れるべきことではないし、いつかは訪れる最後の瞬間に、何も悔いずにいられればそれでいい。
 それが、京平の死生観だ。
「あなたは……人間が、好き?」
「ん? ああ……まァ、な。前よりは、嫌いじゃねェぜ」
 人間の利己と、浅ましさと、強欲さが、京平を孤独にし、絶望の果てへ追いやった。
 けれど、人間の純粋さ、人間の献身、彼らが失わずに持ち続けた希望が、京平に生きる喜びを取り戻させた。
「光とか、闇とか、善とか悪とか、そんなのは、どうにでも移ろうもんだ、どうしたって確実にゃァならねェ。でも、どこにも当てはまらねェから、それを山のように持ってる人間も、面白ェんだろ」
 世界に絶対などというものはない。
 京平は、それを知ったお陰で、虚無や憎しみを昇華させることが出来た。
 だからこそ、彼の言葉には、真実がある。
 それは、きっと、彼女にも、伝わっただろう。
「館の精は、それを、是としたのね」
「ん……そうみてェだな。中庸を尊んだ……ってことかな」
「そしてそれは、あなた自身の辿り着いた境地でもあるのね?」
「……ああ、そうだ」
 ここに行き着くまで、激しい痛みを伴う紆余曲折があった。
 裏切られ奪われ、真実を知るためには手段を選ばず、騙して殺し、激情の赴くまま、血に塗れて生きてきた。
 その身食いの激しさは、今、緩やかな許しと、自己肯定となって、京平の中にゆっくりと積み重ねられている。
 生きることは悪くない。
 人間も悪くない。
 今、ここでこうして生きて、笑っている自分も、悪くない。
 移ろい定まらぬ世の中で、京平という一個の存在が辿り着いた真実が、それだった。
「――……素敵ね」
「ん?」
「それが、あなたの得た、結晶なのね、狩納京平」
 女が、目を細めて微笑む。
 彼女の口調が、微妙に変化した……ような気がした。
 窓から吹き込んできた風は、何故か、神々しい芳しさを伴っている。
 館の精が、自分に、何かを囁きかけて来る。
 その『声』は、喜んでいるようでもあった。
「……?」
 京平は眉をひそめた。
 嫌な気配は何もなかったが、不可解なことは、確かだ。
 そういえば、京平は、彼女から何も聞いていない。
 何故、彼女がここに来ることになったのかも、判らない。
 ――依頼、と言いつつ、いつの間に彼女がここにいたのかも、判らないことに、京平はたった今、気づいた。
「何で、俺に、近づいた?」
 少なくとも今は、敵ではない。
 それが判るから、別に、焦りはない。
「あんた……何者だ……?」
 京平の問いに、女が、ゆったりとした動作でソファから立ち上がる。
 ――水の匂いを伴った、強い薫風が、吹き込んでくる。
「わたしはアルゾヴィ・スーラ・アナーヒター、清浄なる水。ヒトと歩み、ヒトを見つめ、その行く末を見届けるもの」
 言って微笑んだ彼女は、いつの間にか、シンプルなワンピース姿ではなくなっていた。
「あなたの強い魂に惹かれて、ここに来たの。……今日は、とても佳い日だったわ」
 色鮮やかな布を身体に巻きつけてヴェールを被り、四角い黄金の耳飾りと、星をちりばめた黄金の頭飾りをつけて、美しい刺繍のなされた帯を高く締めた、神々しい乙女の姿が、そこにはあった。
「結晶をありがとう、狩納京平。師も、きっと、喜ばれることでしょう」
「……結晶? 師……?」
 訝しげな京平に、しかし、アナーヒターと名乗った彼女は応えず、
「不思議なところだわ、ここは。至るところに、人々の選択と結晶とが、満ちている」
 そう言って、窓の外を見遣ったあと、女は、星の光のような目で京平を見つめ、それを細める。
「――これから先、幾多の困難が、この街を覆うでしょう。わたしはそれを止めることは出来ないけれど、あなたや、あなたのように結晶を見つけたものたちが、それらの困難を、強く乗り越えてゆくことを、祈るわ」
「待て、それは、一体……」
 街のあちこちで起きている不可解な事件、出来事。
 それらのことを言っているのかと、京平が尋ねようとした途端、一際強い風が吹き、一瞬、視界を奪われる。
「……ッ!?」
 思わず目を閉じ、次に開いた時には、もう、そこに、女の姿は、なかった。
 ただ、清冽な水の匂いだけが、残されていた。
 まるで、予兆のようなその匂いに、これから何かが起きるだろうことを、京平は唐突に、強烈に実感していた。
「……何が、起きる?」
 呟いても、答えはなく、ただ、静かな風が、京平の髪を揺らすばかりだ。

 ――どこか遠くで、誰かが、静かに笑ったような、気がした。

クリエイターコメントオファー、どうもありがとうございました!
お届けが少々遅れてしまい、申し訳ありません。

京平さんの、飄々とした、ヒトが何かを見出すことが出来たことで持てる強さを描写したつもりですが、いかがでしたでしょうか。お望みの雰囲気が出ていれば、いいのですが。

ともあれ、少しでも楽しんでいただければ幸いです。

何やら、不思議な邂逅があったようですが……それは、いずれまた、別のお話で。

それでは、どうもありがとうございました。
また、どこかで、機会があれば。
公開日時2008-09-23(火) 18:40
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