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<ノベル>
『蛍の光』はその化粧室まで届いていた。
間もなくその銀行の窓口は閉まる。閉館間際、何とか忘れ物の回収に成功した。
洗面台に置きっぱなしのハンカチを取り上げて流鏑馬明日はホッと安堵の息を吐きだした。
だが、それも束の間、化粧室を出ようとした瞬間、不穏な声がドアの向こうから聞こえてきた。
「騒ぐな。金のところまで案内してもらおう」
何とも芸のない文句だ。たまにはもっと気の効いた事でも言えないものか。明日はドアの隙間から外の状況を確認した。フルフェイスのマスクの男が、銀行員の女性に拳銃を突きつけている。
「強盗なんて割りの合わない仕事ね」
なんて舌を出しながら明日は壁に背を預けた。
「それに……あたしに目撃されるなんて運が悪いわ」
とはいえホルダーを探す手は空振りに終わった。当たり前だ。銃所持の許可は出ていないのだ。そもそも、ここへは仕事で訪れたわけではない。さてどうやって応戦したものか。
「何、してるの?」
ドア越しに子どもの声が聞こえてきた。
まずい。相手は銃を持っている銀行強盗なのだ。ドアの隙間を覗く。小さな男の子が強盗に邪気のない微笑を向けていた。
「なんだ、このガキ」
強盗犯は子どもを追い払うような仕草をして、無視して通り過ぎようとした。
どうやら子どもに危害を加える気はないらしい。まだ安心は出来ないが、強盗が紳士的ならこちらとしても動きやすい。むやみやたらに考えなしで動く連中ほど扱いづらいものはないのだから。
明日はホッと息を吐いて子どもを自分の元へ呼び寄せようとした。まずは子どもの安全を確保する。
だが、子どもは自分の口元を両手で押さえると、しまったという顔をして呟いた。
「あ……僕、笑っちゃいけないんだった……」
★
三時を回ってしまったけれど、振り込みも通帳記入もATMで出来たはずだ。ちょっと溜め込んでしまったので、窓口に行くように指示が出るかもしれないが。
そうして訪れた銀行の入口は何故だか大量のパトカーに塞がれていて、とても近寄れる雰囲気ではなく、栗栖那智はやれやれと溜息を吐き出して踵を返した。
どうやら今日も振り込みも通帳記入もお預けらしい。
そうして歩きだした時、何かに白衣の裾がひっかかった。今日中に諸手続きを終えようと大学の研究室から着の身着のまま来てしまったのである。
ひっかかった裾を払おうとして、それが引っかかっているのではなく、小さな女の子につかまれている事に気づいて、困惑げに中指の腹で眼鏡を押しあげた。
目に鮮やかなハニーブロンドの髪の小学生にあがるかあがらないかぐらいの女の子が今にも泣き出しそうな顔でじっと自分を見上げている。
かと思えば。
「あ…あの……」
助けてくださいと突然泣きつかれた。
「え…いや……」
泣かせたとばかりに見つめる周囲の視線を無視するのは簡単だが、泣いている子どものお願いを断れるほど非情にもなれなくて、那智は女の子を宥めるようにしゃがみこむと、女の子の話を聞いてやることにした。
舌足らずでとりとめがない。まだ小さな子どもなのだ。気も動転しているのだろう。根気よく付き合ってやる。
女の子の名前はヴィーアというらしい。そして銀行の中に双子の弟リアがいるのだという。てっきりリアを助けてくれ、という話しかと思った那智は、銀行強盗は警察に任せた方が、と内心逃げ腰になった。しかし、そうではないらしい。
「リアが笑ったら……」
勝利の女神の娘であるヴィーアが笑えば勝利が齎されるが、弟のリアが笑うと大変なことになる。大変なこととは即ちなんであるのか、勝利の女神なのだから、連想されるのは敗北だったが続くヴィーアの言葉はちょっと噛み合わない。
「悪い人たちを助けてあげてください……」
別に強盗がどんな目にあっても強盗なんだからいいじゃないか、と思わないではない那智である。とはいえ『助けて』と言わしめるほどの目とは、いかがなものか。ちょっと気にならなくもない。例えば、リアは不幸の神で、微笑まれた相手はやることなすこと全て裏目に出てしまう、とか。想像してみた。ちょっと面白そうである。
しかし彼らを助けに行った先でリアと遭遇し、万一彼に微笑まれでもしたら、それは全部自分に振りかかってくるのではないか。不安になっているとヴィーアが言った。
「あ…あの……ヴィーアが微笑みますね」
そう言ってヴィーアは那智に微笑みを向ける。
なるほど。これで勝利は約束されたも同然なのか。
スーパーパワーが宿ったわけではないが、結果的には勝利を掴めるのだろう。そんな力があるのなら、こんなところで強盗を助けるのではなく、今すぐ発掘捜査に乗り出したい気分になった。そうすれば世紀の大発掘も夢ではない。なんてったって勝利の女神が付いているのだから。勝利の女神ばんざい。ここは1つ仲良くしておこう。
何とも下心満載でそんな事を考えている那智に、しかしヴィーアは何とも自信なさげに付け加えた。
「これで、たぶん、大丈夫だと思います」
「え? たぶん? ……たぶんって、何?」
「たぶん……です」
「…………」
★
「危ない!」
反射的に明日は飛び出していた。強盗だけならほっておけばいいが、人質の銀行員もいるのだ。
三角コーナーに飾られていたポプラの鉢植えが落ちてきた。それを力いっぱい蹴る。鉢植えは壁にぶつかって砕け散った。
「何だ!?」
強盗が振り返る。
男子トイレからも2人。ブルーのGジャンの男と、黒のシャツの男が飛び出してきた。仲間か。
強盗が人質にしていた銀行員の女性のこめかみに銃をつきつけた。
「手をあげろ」
「ちっ……」
舌打ちして明日は両手をあげると目で示された壁際に背をあずけた。
助けてやったのに、と内心で毒吐く。
男の子が明日の隣に並んだ。
明日は2人の男にせっつかれるようにホールの方へ歩かされながら小声で男の子に声をかけた。
「大丈夫?」
「うん。でも、たいへんな事になっちゃった」
「大変な事?」
確かに今の状況は、大変なことには違いない。だが男の子の言葉は、まるで自分が大変にしちゃった、みたいな言い方だった。
「笑っちゃダメって言われてたのに」
そういえば、先ほども同じような事を言っていた。
「大変な事って?」
「うん。おじさんたいへんなの。みんなたいへんなの」
「みんな、大変?」
その時だった。
「わぁ!?」
フロアの照明が突然、次々にスパークして、強盗と人質の元へ降りそそいだのである。
他の男2人も大慌てになった。
他の銀行員は既に退避しているのか、ここには自分たちしかいない。
明日は手近な机の下に避難して、男の子に尋ねた。
「大変って、これの事?」
「うん。これからもっとたいへんになる。あのね、僕ね、笑うとね、はくさいを招いちゃうんだって」
「白菜?」
明日が不可解に顔を歪める。白菜を招くと何が大変になるのだ。
男の子は少し考える風に首を傾げてから言いなおした。
「あれ? やくさい」
「厄災……」
明日は強盗犯を見やる。
男の子――リアが微笑むとあらゆる厄災を招いてしまう。つまりは招厄の神だとでもいうのか。
だが、降り注ぐ災いは、微笑まれた男だけでなく、近くにいる者達をも巻き込んでいる。
はた迷惑この上ないことに。
「みんな、たいへん!」
★
犯人を確保。これは事件に於いて優先順位の高い事柄だ。しかし、犯人に近づくと命がいくつあっても足りない―――かもしれないとなったら、これはこれで手の付けようのない問題である。
最初は鉢植えだった。次は電球だった。走れば転ぶ。歩けばつまづく。彼だけではない。一緒にいる人質まで巻き込みながら。
次々に自分に振りかかる災厄に、やがてパニックに陥った強盗犯が銃を撃とうとした。人質の安全を最優先に明日が飛び込む。だが強盗犯の銃はいきなり暴発した。
強盗犯の手がかろうじて吹き飛ばずにすんだのは明日が銃を蹴りあげたからだろう。しかし暴発時の煙を検知して防災システムが作動し、スプリンクラーがフロアを水びたしにした。
一歩間違えれば死人も出かねない災厄は更にエスカレートしていく。
これでは疫病神ではなく死神だ。
明日は頭を抱えたくなったが、それどころでもない。
「何とか、ならないの!?」
明日は他の2人を縛りあげてリアに尋ねた。
「ヴィーアがいればもしかしたら……」
「ヴィーア?」
「お姉ちゃん。ヴィーアが笑うと勝利を招くの」
どうやらその力で相殺して強盗犯を確保するかしないようだ。
でなければ他の者達も彼の災厄に巻き込まれて、事態は更に大惨事になりかねないのである。
半狂乱気味の強盗犯が、何かから逃げようとでもするように人質も放り出して、銀行の表玄関のシャッターを開けると、外へ飛び出した。
まずい。
そこには既に何台ものパトカーが押し寄せているのだ。
「犯人に告ぐ……」
メガホン片手に警官が呼びかけた。
「みんな逃げて!!」
明日は強盗犯を追いながら、そこにいた警官たちに向かって声をかぎりに叫んだ。
強盗犯は武器などを携帯してはいないが、もっと危険なものをその身に帯びているのだ。
しかし犯人を説得しようとする警官のメガホンの声に掻き消されて届かない。
そこへ1台のトラックが突っ込んできた。運転席に人はいない。下り坂をトラックの持ち主らしい男が走ってそれを追いかけている。勿論、追いつけない。
彼は内心こう思っていた。
―――おかしいな。ハンドブレーキはちゃんとかけたはずなのに。
トラックが突っ込んでくるのに気付いた警官が大慌てで逃げる。
強盗犯を襲わん勢いでトラックは突っ込み、パトカーにぶつかった。
玉突き事故のように、押されたパトカーが強盗犯に押し寄せる。
「つぶれる!?」
思わず明日は目を閉じた。
そして恐る恐る目を開けた。
「やれやれ。本当に不幸の神というのが笑えなくなってきたな」
パトカーのボンネットの上で、白衣を着た1人の男が強盗犯を抱えあげるようにして立っていた。
★
パトカーに挟まれ押しつぶされそうになった強盗犯を間一髪で助けた男。
「私は非戦闘員なんだが」
と、那智は疲れたように息を吐き出した。
倒れてきた信号機が何故かうまい具合に彼を避けている。
「あなた、大丈夫なの?」
明日が尋ねた。
「今のところは、たぶん。彼にも微笑まれてないし」
肩を竦めて那智が答えた。
「……どうして?」
「彼女の力のおかげかな?」
那智が振り返った先に、ハニーブロンドの愛らしい女の子が立っていた。金髪碧眼。しかし顔立ちがリアに似ているだろうか。
「ヴィーア?」
明日が尋ねた。この子がリアの姉ヴィーアなのか。
「はい。あの……」
女の子は頷いて、上目遣いに明日を見上げた。
「リア君なら大丈夫。ほら、そこに」
明日は銀行の半開きになったシャッターを指差した。
そこからリアが不安げな顔を覗かせている。
「はい。あの……ありがとうございます」
ヴィーアは頭を下げると、明日ににこっと笑みを向けて、それからシャッターの方へ走りだした。
「ヴィーア!」
リアも駆け出てくる。
「リア!」
そうして2人は安堵したように互いを抱きしめあった。
明日は、ホッと息を吐き出して那智を振り返る。
「もしかして、これで私も大丈夫かしら」
ヴィーアに微笑まれたのだから。
「たぶん、ね」
「たぶん、って何よ」
「いや、だから、あの子が、たぶん、って」
「それ、まさかダメかもしれないって事?」
ふと、那智が空に向かって人差し指を立てた。
「その可能性もあるかもな」
訝しげに明日はその指先の延長線上を追いかけていく。
空に生中継と思しき報道用ヘリコプターが飛んでいる。
こんなビル街なのに随分低空飛行だ。
しかも、心なしか、こちらに向かっているような気がする。
「!?」
「どうしよう」
なんとものんびりと那智が尋ねた。
「ど…どうしよう、って……。とにかく犯人と、それからヘリコプターの乗員の命の確保よ」
「後、私たちのも」
「運を天に任せるわ」
眩暈をこらえるようにして明日は駆けだすと警察手帳を示しながら、そこに走っていた2台のバイクを止めた。
「貸してちょうだい」
勿論、返せる保障はないが。
「え……」
呆気にとられつつも、持ち主は警察手帳の前にバイクを降りた。
その1台に明日がまたがると那智の元へ。
「後ろに載せて。援護をお願い」
明日に言われた通り、那智は強盗犯をタンデムシートに載せて固定しながら尋ねた。
「どうするんです?」
「海まで出るわ」
「なるほど」
明日がバイクで走りだす。
残った1台に那智も乗り込むと携帯電話を片手に明日を追いかけた。
ヘリコプターがゆっくりとそれを追いかけるように機体を揺らしながら迫ってくる。
操縦士はどうなっているのか。
「とんでもない神様だな」
那智は内心で舌を出す。
アクセルを最大まで握りこんで狭い路地を走りぬけた。
警笛は押しっぱなしだ。
「うるせい!」
と飛び出したおやじが疾駆する2台のバイクと、それを追うヘリコプターにもんどりうった。
誰もが呆気にとらながらそれを見送ったことだろう。
程なくして海を渡る橋が見えてくる。
ヘリコプターもすぐ後ろに迫っていた。
「勝利の女神!! 信じてるわよ!!」
明日は橋の上から、海に向かってバイクをそのままダイブさせた。
バイクが落ちる。
それを追うようにヘリコプターも巨大な水飛沫をあげて海の中へ落ちた。
ヘリがぷかぷかと水面に浮かんでくる。
中の人間達は無事か。
水底に沈んでいくバイクをほうりだして、明日は強盗犯の男を抱えるように水面から顔を出した。
息を吐く。
橋の下で那智がこちらを窺っているのが見えた。
「ヴィクトリー!」
なんてVサインなんか返してみる。
しかし那智は、一生懸命声をあげて、それからどこかを指差していた。
「うん?」
明日が彼の指差す方を見やる。
突然、彼女を覆うように巨大な影が降ってきた。
「…………」
巨大な客船が目の前に迫っていた。
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甲板の上に、明日はぐったりと寝転がった。空は青い。
見渡す限りの青さにほっと息を吐く。
ヘリの乗員と明日たちを救出にきた、海上保安庁の巡視艇の上だった。
どうやら、リアの笑顔の効力は切れたらしい。
「どうぞ」
怪我人の手当てをしていた那智が、それを終えたのか明日に声をかけてきた。
見るとグラスを差し出している。
中は麦茶かアイスティーか。喉の渇きを思い出して明日は上体を起こして受け取った。
「ありがと」
そうして喉の奥へ流し込む。アイスティーだった。甘い。疲れた体に程よい甘さだった。
「そういえば、名前、聞いてなかったわね。私は明日。流鏑馬明日。刑事をしてるの」
「私は来栖那智。某医大で助教授なんてことをしています」
「ああ、それで白衣なのね。よろしく」
握手を求めるように手を伸ばすと、彼は一瞬躊躇うようにして、それから手を取った。
「どうも」
そこへ双子がやってきた。
「あの……すみませんでした」
リアが申し訳なさそうに深々と頭をさげる。
「ううん」
明日は首を横に振ると、リアの髪を優しく撫でてやった。
「笑っちゃいけないなんて……楽しいときに思いっきり笑顔を共有できないのは辛いわね」
表情には出さなかったが、自分がそうだったらと思うと、少し哀しくなった。まだ小さい子どもなのに。
「ちゃんと力をコントロールできるようになるまでの我慢です」
ヴィーアが言った。
「そっか」
早くコントロール出来るようになるといい、と思う。
それにしても、災厄の神なんてみんなに嫌われてしまいそうだ。やっぱり少し可哀想だな、などと明日が思っていると、ヴィーアがリアに向かって言った。
「早く、しれんの神になれるといいね」
「試練の神?」
「はい」
「ああ……」
振りかかる災厄は災厄ではなく試練だったのか。
恐らくはその試練の大きさの制御が出来ないから、災厄のようになってしまい、挙句、周囲を巻き込んだ最悪の事態を巻き起こしてしまうのだろう。
試練の神の与えた試練を乗り越えたとき、勝利の女神の祝福があるのかもしれない。だから双子なのか。
「ま、なにはともあれ一段落だな」
那智が言った。
「はい。本当にありがとうございました」
ヴィーアとリアが再び深々と頭を下げる。
そうして顔をあげた時、リアがにこっと2人に微笑んだ。
「リア!?」
ヴィーアが窘めたが、時は既に遅く。
「あっ……」
試練はまだまだ続くらしい。
【大団円?】
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クリエイターコメント | ご参加ありがとうございました。 楽しんで書かせていただきました。
この後どんな試練が待っているのかはご想像にお任せするとして。 楽しんでいただけていれば嬉しく思います。
キャライメージなど、壊していない事を祈りつつ。 また、会える日を楽しみに。 |
公開日時 | 2007-08-22(水) 22:00 |
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