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<ノベル>
東の空が薄っすらと白んじて見える。
間もなく夜の闇を切り裂いて太陽の光がこの地を照らすだろう。
彼女は力尽きたように地面にうつ伏せに倒れていた。
血を流しすぎたか。全身の痛み。軋む肋骨。内蔵をもっていかれたかもしれない。もう、指一本動かせそうになくて肩で息を吐くのがやっとで。
ふいと自分に背を向け東の空を見つめる黒衣の男の背に殺気を帯びた視線を投げつけるのが精一杯だった。
どうして彼は自分に止めを刺さない。奥歯を噛み締める。鉄の味がほろ苦い。
男が無造作に歩き出した。結局、一度も彼女を振り返らないままで。まるで彼女の存在すら忘れてしまったかのように。
彼女は身じろぎも出来ずに自らが作った汚泥に顔をこすりつけ、ただ、臍を噛み千切りながらそれを見送る事しか出来なかった。
》》》
銀幕市には夜の帳が落ちていた。朔月なのか闇夜である。人が目覚めるにはまだ早い未明。
二人が出会ったのは偶然か、はたまた必然か。誰にも知られず、誰にも気付かれぬ再会。
ただ、互いには予感めいたものがあったらしい。
「いずれ、この時が来ると思っていた……」
娘が言った。
少年っぽさを感じさせる物言い。どこか哀しみを帯びたアメジストの瞳。凛とした顔付き。ブラウンの長い艶やかな髪を邪魔にならないシニヨンにまとめ、白いアマリリスの花をあしらっている。グリーンのワンピースの裾からのぞくカモシカのような足。深緑のエプロン。胸元にアルバイト先の店の名前のロゴ。花屋の装い。ルカ・ヘウィト。
そして、そんな彼女を見据える男。
「私も思っていたよ―――キル」
人懐こい笑みを浮かべ応える。顔は笑っているが、そのぺリドットの瞳に感情はなく、狂気を宿しているようにも見えた。金色の髪。痩身を黒い神父服で包み、首にはロザリオ。神に仕える殉教者。クロスとだけ名乗る。
だが、ルカは彼の事をこの上もなくよく知っている。
「邂逅を祝し―――」
クロスが手にしていた聖書を掲げたのを合図にルカは地面を蹴った。
二人を包む淡い光に世界が変貌する。ルカのロケーションエリアの解放。彼女の体表を駆け巡る聖文字。
アスファルトの通りは石畳へ、近代的街並みは中世ヨーロッパ風のそれへ。闇夜は明るく西の空は黄昏色に染まったゴールデンアワー。東の空は押し寄せる夜を前に鮮やかな紫のグラデーション。陽が沈み、夜が訪れるまでの空白の時間。空に星が瞬き始めた逢魔が刻。
遠くに見えるのは街のシンボルたる時計塔。
大都市レノアンク。ルカにとってそれは懐かしく、それでいて喜びと哀しみとあらゆる感情が混じりあう街。
彼女の装いは、悪魔祓いの黒衣のエクソシストに。
「キル。君の装いはまさに『殺し』に相応しい」
クロスが楽しげに言った。揶揄するように。
そのクロスは緋色の帽子に純白のケープ、僧衣を纏っている。
「黙れ!」
クロスとの間合いを計りながらルカはウェストポーチから宝石を取り出した。
「<クオ>」
手の中の水晶に呼びかける。口付けるような囁き。宝石を媒介にした魔法の発動。
「遊んでおいで!」
投げるというよりは解き放つように、広げられた彼女の手の平でそれは弾けた。
無数の氷の羽根が光を反射させながら乱舞すると、鋭いナイフのように一斉にクロスに襲い掛かる。
だが、別段慌てた風もなくクロスはその場に佇んでいた。自分に迫りくる氷の刃に泰然と微笑みながら。
ただ、腰からさげた小さなベルが涼やかな音をたてる。
刹那、無数の氷の羽根が全て飛び散った。
しかし霧散しないものがある。氷の羽根と共に投げられた銀のナイフ。
困惑げに首を傾げるクロスの眼前で、だがそれは光の障壁に弾かれるように跳ねた。
彼の足下に落ちたナイフが乾いた音をあげるよりも早く。
電撃を纏った鳥が滑翔する。まるで雷の速さで。
ルカが放ったもう一つの宝石。紫水晶<シア>の具現化。
「<クオ>は囮か」
呟くクロスに動じた様子はない。既に、より電導率の高い“もの”によって彼は“アース”されている。
そうして相変わらず鷹揚と佇むクロスの背後へ。
「はずれ」
と呟いてルカは鞘走らせた十字の剣を振り上げていた。その背を一閃するように振り下ろす。
「!?」
だが、驚愕に顔を歪めたのはルカの方だった。
「足元に枯葉剤を撒いておいたのは正解だったかなぁ?」
ルカの剣をたった二本の指で捕らえながらクロスはルカを振り返ってにっこり微笑んでいた。人を食ったような笑み。
勿論、本当に枯葉剤を撒いていたわけでもあるまい。
「<エメラ>!?」
彼の足元から彼を捕らえるはずだった植物の蔓が、地面に萎れていた。その影から緑のトカゲがするりと逃げて行くのを視界の片隅にルカが安堵の息を吐く。緑のトカゲ<エメラ>。エメラルドに封じられた力の具現化した姿。
「見事な連続攻撃……とでも呼ぶべきか」
クロスがくすり笑う。その鼻につくような笑いがルカの怒りを誘った。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
咆哮と共に剣に力を籠める。だが、ビクともしない。斬り下ろすことも、退く事も。
睨み据える彼の瞳。ペリドット。夜にも輝きを放つ太陽石の輝き。人に希望と勇気を齎す聖職者に相応しい瞳。けれどその瞳の奥に存在するのは何よりも深い闇。
そう。かつてルカはこの男の闇から世界を護るために戦った。
「ルサージュゥゥゥゥゥ!!」
呪詛のようなルカの怒号。クロスは偽名。ルサージュ、それが男の本当の名。
「そうやってお前は何人の命を奪ってきた!?」
吐き捨てるように。彼の瞳に惑わされた者達の怨嗟をこめて。
だがクロスは悠然と微笑む。
「君こそ、いくつの命を摘み取ってきたんだい?」
「!?」
ルカの中に動揺が走った。
それが隙を作ったのか、クロスが軽く手を振るう。それだけで剣もろとも弾き飛ばされ、ルカはもんどりうって倒れた。
人ではなくとも魔物もまた命あるものだ。そう思う事が悪魔祓いである彼女の抱える矛盾でもあった。倒さなければならぬ、その一方で相反する思い。優しさ。それは甘さであると知りながら拭い去る事の出来ないもの。
だから、臆する心と震える手を押さえつけるようにしてルカは剣を握っていたのだ。
歯を食いしばって、剣を支えにしてルカは立ちあがった。
ゆっくりと息を吐く。
今、目の前にいる男は決して許す事の出来ぬ相手。悪意で人を殺め、世界をも貶める男。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
自分を発奮させる雄叫び。剣を下段に構え地を駆ける。
それを迎え撃つクロス。
「死んで蘇るアンデッド。さて植物でも可能なのか」
実験と結果を楽しむ科学者の風情。
どす黒く闇色に変色した植物の蔓が駆けるルカに襲い掛かる。
剣で切り裂くと、しなやかな縄状のそれが、数本絡まり束となって太く強度を増し、鋼のようさ硬さをともなってルカの体を串刺しにした。
致命傷をはずれたのはわざとか。
「っっ!?」
肩に食い込みルカの体を釣り上げる。痛みに顔を歪めながらルカはそれでも苦鳴を飲み込んでクロスを睨みつけた。
クロスはゆっくりルカに歩み寄る。
自分の前に立ちはだかり、自分の邪魔をし続ける彼女を見据えながら。
思い出す。自分が彼女を『キル』と呼ぶに至った理由を。
そう。かつて出会った日も静かな夜だった。
遠い昔の仲間の面影を宿す娘。
「メル……」
思わず彼女の名を口にしていた自分に驚いた。
「まさか、転生したのか……?」
我ながらおかしいと思う。そもそも“彼女”を『仲間』と呼んでいる自分にさえも。
二度と転生を許されないとされる闇の世界に“彼女”を墜としたのは、他でもない自分なのに。
「―――いや、そうだな。君の事はKILL。キルと呼ぼう」
流れるルカの血が彼女の黒衣を赤黒く染めていた。悪魔祓いの『KILL』の衣装を。
それから、ふとクロスは目尻を下げた。
「そうだ。いい事を教えてあげよう。彼女に会ったよ」
「!?」
その言葉にルカの顔色が一転した。蒼褪めているのは出血のせいだけではあるまい。
「私によく似て、柔らかな金髪になった」
「……彼女をどうする気だ」
震える声。怯えでも恐怖でもない。怒りゆえに。
「さあ?」
とぼけたようにクロスが首を傾げる。
「お前の好きには―――」
ルカは肩に食い込む蔓を掴んだ。開いた手で<ルブ>を呼ぶ。
「―――させない……此処で今、お前を倒す!」
蔓が焼き切れルカは支えを失って落ちた。不時着に石畳を蹴る。
「やってご覧」
クロスは軽やかに一歩退き、聖書を掲げた。
ルカはアレキサンドライトを掴む。
「<アレク>、遊んでおいで!!」
「こちらもやっと準備が整った」
クロスの愉しげな笑み。
「なっ……!? 魔法陣!?」
クロスを中心にいつの間にか巨大な魔法陣が出現していた。ルカの相手をしながら、いつの間に描いていたというのか。
彼のベルが、リンと涼やかな音をたてる。
ルカはウェストポーチから宝石を掴んだ。先手必勝、或いは、攻撃は最大の防御。
「<セレ>、遊んでおいで!!」
爆ぜるセレスチンが風を巻き上げる。ルカの跳躍。ステージは屋根の上へ。
逆巻く風に<ジル>を乗せる。そして最後に彼女が手の平に掴んだのはルビー。
「遊んでおいで!!」
点火。
クロスを捕らえて風に流した<ジル>へ。
「風とは大気の流動体でしかない」
クロスの口から吐き出された声が<セレ>の暴風を突き破ってルカの元にまではっきりと届いた。
風が大気の流動体であるように、この状況下で、彼の発した言葉を伝える振動もまた大気の―――。
しまったと思った時には既にジルの無数の小規模爆発がルカを取り囲んでいた。
「この世界にはレノアンクになかった、面白い理〈ことわり〉があってね」
科学と魔法の融合を試みたような彼の口振り。冷酷な研究者としての彼の一面。
先ほどルカの剣戟を受け止めてみせたのも恐らくはその一端だったのだろう。それを可能にしたのは<シア>の電気を溜め込み発動した電磁石による磁力。
彼の知への欲求がそうして彼を駆り立てていくのか。この世界の理。行く末。かつてレノアンクを貶めたように、彼はこの世界をも壊そうとしている。
「絶対に……させない」
ルカは両腕で顔を防御し視界を確保しながら、自分を襲う爆煙の中を突っ切った。
彼へ向けて。
「言っただろ!! お前の好きにはさせないってなぁ!!」
乱暴な物言い。<アレク>の効果。
ルカの膝蹴り。
クロスを包む防御壁。
力と力がぶつかり合うそれは目には見えず。
ただ睨み合う二人。
「うぉぉぉぉぉ!!」
ルカが吼える。全力。握られた宝石、瞳の色と同じ紫水晶。拳をクロスへ向けて突き出す。
「<シア>! 遊んでおいで!!」
電撃が彼女の腕を包んだ。
クロスのベルがリンと鳴る。微かな音色。
「アースしてあるんだけどな」
勿論、電撃がただでは効かない事はわかっててやっている。拳はパンチではない。クロスの腕を掴む。
外からがダメなら、内側から。
「うぉぉぉぉぉ!!!」
クロスがわずかに戸惑いの色を浮かべた。
それから満面の笑顔へ。
それまでの柔らかな笑みと静けさを破る哄笑。狂ったように。
翳される聖書。それに続くベルの音。刹那。力の拮抗が崩れる。
「音を伝えるものは何も大気だけではない」
この世界は面白い理で溢れている。音楽とは音の重なり。では音とは。
「歌え!! アニマート!!」
彼の描いた魔法陣から真っ白な閃光が走る。
鳴り響く大音響。ベートーヴェン交響曲第3番変ホ長調『英雄』。
それが鼓膜を破らんまでに強打する。否。体の中を通って直接頭に響くような。
三半規管を揺るがすそれがルカの平衡感覚を奪う。傾ぐ体。歪む視界。最早、どちらが上でどちらが下かもわからなくなり、ルカは力が抜けたようにクロスの左腕を手放していた。
落ちていく自分を感じながら鳴り止まぬ大音響と、それでも起き出す人のない街並みのギャップに気付く。
この大音響の中、ゆったりと佇むクロス。
ルカはハッとしたように、黒い蔦が貫いた自分の肩の傷に自分の手を突き入れた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
自らの血肉ごと抉り取る。
音を伝えていたものの正体。ピアノ線。
「正解だけど、少し遅かったかな」
ルカを受け止める<シア>。
ゆっくりと間合いを詰めるクロス。
「おやすみ」
ベルの音。
次の瞬間、ルカの全身に激痛が走った。鳩尾を抉られたような、胸を強く打ちつけられたような。
体が紙くずみたいに軽く吹っ飛んで瓦礫に背をしたたかぶつけて止まった。
「げほっ…ごほごほっ……」
咳込みながら胃の内容物を吐き出す。肩で大きく息を吐いた。胸が軋む。肋骨が悲鳴をあげる。うつ伏せに倒れる体。
けれどそんな痛みはとっくに麻痺したように。
ルカはただ、クロスを睨みつけていた。
彼がゆっくりとした足取りで近づいてくる。彼の黒いシルエット。
空が明るくなったせいか。
いや―――。
ロケーションエリア、ジャスト30分。
街は銀幕市のいつもの街並みに戻っていた。
そして黒衣の彼が彼女を無言で見下ろしていた。
「…………」
《《《
ルカの黒衣がキルではなく花屋の装いに戻る。
それにクロスはつい、と踵を返した。まるで興がそがれたように。
東の空が白んじている。夢の時間の終わりを告げる黎明のブルーアワー。
クロスは関節のはずれた左肩を強引に戻した。電撃を喰らった左腕はまだ痺れが取れない。
自分の頬を親指でなぞる。いつの間にこんなところにまで傷を付けられていたのか。指先についた赤い血に自然、口の端があがった。
この時、彼のその胸中に去来したものは何であったのか。純粋な知への欲求か、それとも。まだ自分には知りえぬ事がある。たとえば進化。彼女の成長。
クロスは歩きだした。楽しげに歌を口ずさみながら。
「待て、ルサージュ!!」
彼女の声がその背を叩く。
だけど―――。
次を楽しみに。
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クリエイターコメント | オファーありがとうございました。 楽しんで書かせていただきました。 イメージを壊していない事を祈りつつ。
また、会える日を楽しみに。 |
公開日時 | 2009-03-13(金) 18:50 |
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