★ わたしたちの星 ★
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
管理番号100-8391 オファー日2009-06-21(日) 22:17
オファーPC 流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
ゲストPC1 桑島 平(ceea6332) エキストラ 男 46歳 刑事
<ノベル>

『もしもし?』
「はいもしもし、小野ですが」
『あ、ばあちゃん! よかったぁ、助かったぁ』
「はい?」
『オレだよ、オレ』
「え?」
『だからオレだってば』
「……そんな……、まさか、小次郎かい?」
『そう! そうそうそう、小次郎だよ』
「おまえ、消えてしまったんじゃなかったのかい。魔法がどうたらこうたらで……」
『それがさ、オレだけ特別だったみたいで、まだ実体化してるんだ』
「ほ、本当かい。今どこにいるの。さよならも言わないで……あんた、煙みたいに消えてしまって……どこで何してるの。大丈夫なのかい」
「誰と話しとるんだ、ばあさん」
「小次郎だよ! ちょっと静かにしとくれ」
『ちょっと町外れのほうをさ、ぶらぶらしてたんだけど……いやぁ、金なくなっちまった。「消える」って言ったもんだから、今さらばあちゃんちに戻るのも恥ずかしくてさあ』
「そんなことあるかい。戻っておいで。お小遣いもあげるから……」
『マジで? んじゃさ、今オレ郵便局見つけたんだ。ばあちゃんからもらったカードまだ持ってるから、口座に小遣い振り込んでくれない?』


「と、まあ、こういう手口の振り込め詐欺が出てきたわけだ」
 桑島平は寝ぼけ眼でぷかぷか煙草をふかしている。簡単な説明は終わった。説明するのも馬鹿らしいくらい単純な手口だ。こうした振り込め詐欺の新しい手口を説明するたび、桑島は世の中をあわれむし、ひどいときには何も考えたくなくなる。
 しかしこういった詐欺の情報が警察に流れ着くということは、つまり、実際被害者が出たということだ。被害が出ないまま届く情報などほんのひと握りだった。警察や各メディアが詐欺師どもの手口を公開し、金融機関と一丸になり、口を酸っぱくして注意を呼びかけていても、だまされてしまう人は後を絶たない。被害者のほとんどは、家族や金融機関の職員の制止を振り切ってしまうそうだ。詐欺師たちは日進月歩で知恵をつけ、その口車も巧みになっていく一方だった。中には心理学の心得のある者が一枚噛んでいるのではと思わせる、敵ながらあっぱれな手口も存在する。
 銀幕署にも、そんな振り込め詐欺の被害報告は続々と寄せられていた。
 ここのところ目立ち始めた手口が、いま桑島が説明したとおりだ。
 心理学者が関与している余地などない、オーソドックスすぎて、ある意味稚拙とも思える手口だ。「オレ」が孫や息子ではなく、ムービースターに置き換わっただけ。
 被害額と件数は増えるばかりだった。
 だから、知恵も工夫も足りない犯人を馬鹿にしたいところなのに、桑島はちっとも馬鹿にできない。何も考えないようにしよう、と努力したくても、怒りや苛立ちが胸の奥からふつふつと沸き起こってくるのだった。
「……」
 明日はコーヒーが入ったマグカップを両手で握りしめたまま、ずっと黙って、桑島の説明を聞いていた。桑島がすべてを話し終えたあとも、しばらく、言葉が出てこなかった。

『はい、もしもし、流鏑馬ですが』
『もしもし、私ですよ……私です』
『え?』
『私ですよ』
『も、もしかして――』

 明日は軽くかぶりを振ったつもりだったが、実際には、その眉をひそめただけだった。
 銀幕市限定の振り込め詐欺は、「スタースター詐欺」とでも呼べばいいのだろうか。明日のところに、幸いにも、そんな電話はかかってきていない。だが、想像しただけで、身体中の皮膚が焼き切れそうになった。
 別れを言ったつもりだ。お礼も言った。最後の日々をおだやかに過ごし、最後の日を普通の日のように受け入れられたはずだ。
「厄介なのは」
 短くなった煙草を灰皿にねじ込み、桑島が身を乗り出す。
「だまされてるのがじいさんばあさんや主婦だけじゃないってとこだ。むしろ若い層が多いような気がする。この手の詐欺にだまされる若いやつは珍しいから、目立つように感じるだけかもしれねえが……」
「いえ。それはありうると思います」
 ようやく明日は口を開けた。
「皆が皆、夢の終わりを受け入れられたわけではないから。今でもあの夢を見続けたいと思っている人はたくさんいるはずです。のぞみちゃんにかわってでも見たいという人まで……あたしは見たわ」
「本当か? そいつはまた」
「でも、その人たちに罪はない」
 明日は眉をひそめて、マグカップいっぱいのコーヒーを見つめ続けた。
 なぜか、桑島の顔を真正面から見つめる気にならない。
 勇気がないのか。
 今は前を見ることができないのだ。なぜなのか……わかっているつもりだが、それを認めたくない。
「犯人を見つけだしましょう」
「ああ、もちろんだ。一応、銀幕ジャーナルと市役所にも協力してもらうことになってるんだが、元を絶たなきゃ何にもならんからな」
「元を絶ったとしても……」
「うん?」
「いえ、何でもないです。とりあえず、被害者のところに行ってみましょう」
 コーヒーには結局、まったく口をつけなかった。たっぷり淹れて、たっぷり飲むつもりだったのに、桑島からの今朝いちばんの報告を聞いたら、飲む気もすっかり失せてしまった。
 ふたりの刑事は、いつも通りに電話が鳴り響く刑事課をあとにした。
 外は湿っている。
 なかなか梅雨が明けてくれない。


 銀幕市にかかっていた神の魔法は消え失せた。
 神が命じ、少女が望むままに、楽しい夢の時間は終わったのだ。
 ムービーハザードという大災害も起きず、ムービースターという想像上のキャラクターも存在しない。不思議な質感の、夢を喰う生物ももういない。
 退屈だけれど、それが普通。ここに在るのは、ごく普通の映画のまち、銀幕市。
 平和になったと喜ぶ人がいるいっぽう、親しかった隣人を失って失意のどん底に落ちた人もいる。
 消えていった当のムービースターたちは、そのほとんどが、静かに己の運命を受け入れられたようだ。銀幕市に残る人々に笑顔で別れを告げ、
「また明日会おう」
 その言葉とプレミアフィルムを遺して、消えていった。
 明日が好意を寄せたあの男も。
 明日が頼りにしていたあの男も。
 ヒップバッグに入れていた、小さなバッキーも。
 明日も桑島も、まだ、だいぶ静かになったまちに慣れていなかった。
 おかしなファンタジーと危険が隣り合わせだった、銀幕市の3年間――。この3年間というのは、桑島のように人生にこなれた中年男性にとっても、けっして短いものではなかった。あまり内容が濃すぎて、とても一言や二言では語れない時間だったから。
 だから3年前までの日常が帰ってきただけなのに、まだ慣れないのだ。
「もう、いないんですよね」
「ああ。もう、終わったんだ」
 明日と桑島は、静かになった銀幕市の中をまわると、たびたびそんな言葉を交わした。
 自分たちはスタースター詐欺に引っかからない自信がある。もう、すべてが終わったことを自覚しているから。
 けれど、自分たちもスタースター詐欺に引っかかるかもしれない。すべてが終わってしまったことに、まだ慣れていないのだ。


 詐欺被害者の小野夫人は、腰の曲がった老婆だった。今年で83になるそうだ。古い平屋に、同い年の夫とふたりで住んでいる。
 明日と桑島は年老いた夫妻に揃って出迎えられたが、玄関先で目を見張った。小野氏の顔がアザだらけだったからだ。
「あー、失礼かもわからんけど、どうしたんすかその顔は」
「あああー、これはこのばあさんがなー、」
「あんたは黙っとくれ! またぶん殴られたいのかい!」
「……」
「事情はわかりました。むやみに人を殴っちゃいけませんよ、おばあちゃん。相手は80のおじいちゃんなんですから」
 桑島は、一瞬で恐ろしい形相になった小野夫人をやんわりとなだめた。80代になっても、元気な人は本当に元気だ。感心するいっぽう、尻に敷かれる旦那の悲哀を感じて、やけに悲しくしなってきてしまった。
「じゃあ、あたしゃ逮捕されるんでしょうか、刑事さん。ごめんなさい。だまされたと知って気が立って……じいさんもあたしを責めるもんで……ゆうべ、大喧嘩してしもうて」
「ケンカっつーか、あの感じだと一方的だったっぽいが」
「桑島さん」
「はいはい黙りますよー」
「小野さん。詐欺電話のことを詳しく話してもらえませんか? 他の人にさんざん話したあとだとは思いますが……」
「いいえぇ。どうぞおあがりになってください」
 老婆は煙たがる様子も見せず、明日と桑島を招き入れた。
 小野氏は居間のちゃぶ台のそばに座ってぼうっとテレビを見ている。テレビの上や、古いデザインの壁紙が貼られた壁のあちらこちらに、写真があった。
 侍のような風体の若者が、小野夫妻といっしょに写っている。若者は、数年前にデビューした有名なアイドルだった。最近の流行に疎い桑島でも、さんざんテレビや広告で見ているから、よく知っている。映画にも出ていたはずだ。だから、この写真に写っているのは、アイドル本人ではなく、彼が演じたムービースターだろう。
「うちに居候しとったんですよ。小次郎っちゅうハイカラな若侍さんでねえ。写真が好きで……」
 老婆は懐かしそうに目を細め、しばらく写真を見つめていた。
「電話の相手は、その小次郎さんを装ったんですね?」
「はい、そうです」
「声が似ていましたか?」
「うーん……そう言われてみれば、違ったような気もします……。若かったのは間違いないんですがねえ……すっかり舞い上がってしもうて……」
 写真を見たまま、老婆は深いため息をついた。
「被害総額――おいくら振り込んでしまったんですか?」
「5万です」
 老婆はさっと写真から明日と桑島に目を移した。やたらとはきはきしていた。
「なんだ、意外と少な……」
 思わず思ったことをそのまま口に出しかけた桑島を、明日が無表情の無言で制止する。桑島は瞬間的な恐怖に近いものを感じて、とっさに口をつぐんだ。
「だまされたと知って、はらわたが煮えくり返りそうですわ」
「わかります」
 明日は頷いた。
 だまし取られた額が問題なのではない。ダシにされたものがあまりに大きすぎる。
 老婆は目を見張って、明日の顔を覗きこんできた。
「詐欺に使ってほしくない名前は、たくさんあります。あたしにも、ムービースターの、大切な友達が……いました」
「そう……」
 老婆と明日の間に、沈黙が降りる。
 桑島の携帯が、上着の内ポケットの中で震えた。たまたまマナーモードにしていてよかったと、桑島はほっとしながら電話に出る。
 小野氏がぼんやり見つめるテレビの中では、昼下がりの情報番組が流れていた。
『今日のゲストはこちら! 滝田ノボルさんでーーーす!』
 急に、ぼんやりしていた小野氏の表情に、驚きがあふれる。彼にとっての小次郎が、テレビの中のスタジオに現れたのだ。
 キャーーーー!!
 黄色い悲鳴が、テレビから響いた。
『こんにちはー』
『早速ですが滝田さん。滝田さんはビケモン劇場版で声優に初挑戦されたとか!』
『はい、そうなんですよ。ゲストキャラのサンダーっていう少年の声をやらせてもらったんですけど――』
 けれど彼は、この家に居候していた小次郎ではない。滝田ノボルという国民的アイドル。
 今回は、人気アニメ劇場版の中の、少年の声を演じた人。
 過去に、あるコメディ時代劇で、小次郎という侍を演じたことがある人。
 彼は小次郎ではない……依頼があればすぐにでも、違う存在に化ける人……。
 小野氏は何も言わなかったけれど、テレビのチャンネルを変えていた。
「メイヒ」
 いつしか小野夫妻といっしょに、黙ってテレビを見つめていた明日。彼女は、桑島の声で、我に返った。
「ひとり、目星がついたそうだ。ここからそんなに遠くない。とりあえず任意同行からだとさ」
「は、犯人見つかったんですか?」
 老婆が目をまん丸にして桑島に詰め寄った。
「ち、ちが、まだ、容疑者でもなくて、その――」
「どうなんですか! 犯人なの! そうなのね、犯人なんでしょ。早く捕まえて!」
 とても83歳とは思えない闘気と腕力でもって、小野夫人はがくがく桑島を揺さぶる。老人を振り払うわけにもいかず、声を荒げるわけにもいかず、桑島は「あががががが」とおとなしく揺らされているしかなかった。小野氏のほうは、さすがにテレビから目を離したが、あたふたしているだけでやはり何もできていない。
「小野さん、いっしょに来てもらえませんか?」
 が、明日が静かにそう声をかけると、老婆はぴたりとその手をとめた。明日の顔を見るその動作は、桑島ときれいに揃っていた。
「犯人の声を聞いているんですよね。逮捕の決め手になるかもしれません。いいでしょう、桑島さん?」
 一般人、しかもこんな高齢者はむやみに捜査に巻き込むべきではない。
 だが、明日の目の奥に、強い意志の力があるのを――桑島は見て取った。彼女は無表情かもしれない。しかし、長年「人を見る目」を養ってきた桑島の中では、彼女の無表情も、ときには雄弁に、流鏑馬明日の意思を語るのだ。
 こういう目をしたときの明日は、てこでも動かない。桑島も舌を巻くほどの根性を見せる。
「仕方ねえなあ……」
「ありがとうございます」
「行きましょ行きましょ。さあ行きましょ」
 ふたりの刑事よりも先に、老婆は家を出て行った。


「ゆうちょ口座のほうを洗ってた連中からの情報だ。あの赤い屋根のアパートの201号室」
 桑島は目的地のアパートが見えるか見えないかのところで車を停め、窓の外を指さした。
「名前は?」
「前山秀一。半年前に近所のコンビニのバイトを辞めて、ほとんど家から出てきてないそうだ」
「それから仕事らしい仕事には就いてないんですね」
「ああ。でも、生活はできてる」
 そこまで聞くと、明日は何も言わずに車を降りていた。
 捜査はどれほど慎重にやっても慎重すぎることはない、と桑島はいつも言っている。明日はその教えをちゃんと守っているが、ときには桑島もひやりとするくらい大胆になった。
 明日に言われたわけでもないのに、小野夫人も後部座席から降りて、ひょこひょこ明日の後ろについていく。やはり、高齢のわりには身のこなしがすばやい。
「ああ、ったく。……でも、相手が引きこもりなんじゃ、張り込みも長引くしな……!」
 仕方なく、桑島も車を降りた。

 桑島がついて来ないはずはない、と明日は確信していた。だから彼女は、車を飛び出したのだ。
 いてもたってもいられなかった、そんな気持ちもなきにしもあらず。
 皮膚は相変わらず、焼き切れそうだ。張り裂けそうで、凍えてひび割れてしまいそうだ。

 インターホンはおろかチャイムすらついていない、とても古いアパートだった。201号室のドアをノックする。明日の横で、小柄な老婆はさらに小さくなって、目を見開きながら息を殺していた。
「はい?」
 中から、面倒くさげな声がした。
 明日は小野夫人のほうを振り向く。老婆はしかめっ面でかぶりを振った。この「はい」一声だけでは、電話の主であったかどうか、判別できなかったようだ。
「警察です」
 明日が名乗ると、薄いドアの向こう側の世界が凍りついていた。
「……ち、ちょっと待って」
 どさん、どかん、ごとん。
 玄関が散らかっているのだろうか、騒々しい音がした。桑島が階段を上ってくる。そしてようやく、201号室のドアは開いた。
 中から異臭が噴き出した。少なくとも死体の匂いではなかったが、それは明日たちが反射的に眉をひそめるくらいの代物だった。半年くらい溜め込んだゴミと、汗と、脂の匂い。ろくに入れ替えられることもなく、澱むままにされた空気。
 顔を出した前山という人物は、太った青年だった。Tシャツにスウェットのズボンという、油断しきった服装だ。
「なんすか? なんかあったんですか?」
「……こちらの部屋から異臭がするので、念のため調べさせていただきたいのですが」
 警察は嘘をついてはいけない。
 だがこれは嘘にはならない。前山の部屋は異臭がするし、できれば警察はこの部屋ごと彼を調べたいのだから。
 ふひ、と前山は苦笑いを漏らした。
「すんません、ゴミ溜めちゃってるもんで。なんもねっすよ」
「こ、こ、こここ!」
 今までじっと黙って耳をすませていたらしい小野夫人が、悲鳴じみた大声を上げた。
「この声です! 刑事さん、こいつが犯人です!」
「はぁ!?」
「すみません。あたしたちは今、新手の振り込め詐欺の捜査中です。こちらのおばあさんは被害者でもあり、捜査協力者でもあります。お話を聞かせてくれますか?」
「……」
「一応任意なんだけどねえ」
 後ろから桑島が首を突き出して、にやりと笑う。
 それがとどめになったようだ。
 前山は何を思ったか、家の中へ逃げ込んでいった。
「窓から逃げるぞ!」
 桑島が叫んだとき、明日はすでに、薄暗い201号室の中に飛び込んでいた。
 1Kの狭い部屋と玄関はゴミだらけで、昼間なのに窓はカーテンが閉められていた。しわくちゃのせんべい布団のそばに座卓があって、やけに立派なパソコンが置かれ、ディスプレイが煌々と光を放っている。
 この男はへんなところで几帳面なようだ。Excelが開かれていて、帳簿らしきものが作られていた。5万……10万……10万……15万……5万……イニシャルのような羅列の横に、金額としか思えない数字が並んでいる。
 縦のセルの数は、きっとだまされた人の数。
 ダシにされたムービースターの数。
 数字は、だまし取られた金額。
 この男が、人の思い出につけた値段。
「アナタなのね」
 一度ゴミに足をとられかけただけで、ほとんど難なく明日は前山を捕らえた。その太い二の腕を掴み、指先に力を込めると、前山は女のような悲鳴を上げて身をよじった。そして雑誌の山を踏みつけた。詰まれた本というのは非常によく滑るもので、前山の肥満体はたちまち転倒した。床が抜けるのではないかという衝撃が、おんぼろアパート全体を揺るがす。
「いい、痛え、暴力だ! ぼぼぼ暴力だ、警察が暴力!」
「おまえが勝手に転んだんだろうが」
「アナタが、『スタースター詐欺』の犯人ね?」
 明日があらためて、念を押すように尋ねると、前山はまたふひっと笑った。
「なにそれ? ケーサツはそういうふうに呼んでるの? なんかだせーのな」
 明日はそれを聞いても、表情を変えなかった。
 前山の腕を掴む手から力を抜かず、ただ……パソコンの画面に目を向ける。薄闇でにじむ光。その中に、イニシャルと金額の羅列が浮かんでいる。
 前山がまた悲鳴を上げた。
 明日が、二の腕を掴む手に、いっそう強く力をこめたから。
「アナタみたいな人間が! アナタみたいな人間に、あたしたちの、あ、あたしたちの、あんなにきれいな思い出を、めちゃくちゃにしていい権利なんか、ないのよ!」
 明日の金切り声のような叫び声を、桑島は初めて聞いた。相棒の彼すら腰を抜かしかけたのだから、前山などは尻餅をついたまま口をOの字にして呆然としていた。
「あたしたちがどんな思いをしたか! アナタなんかには、わからないのよ! もういないのよ、あの人たちは……いくら夢を見ようとしても……出てきてくれないの! もう、思い出の中にしか、いないのよ! あの人も、あの人も、あの人も!」
 ぅああああああああん、
 とうとう、彼女の口からは、ものすごい泣き声が飛び出した。両目からはぼろぼろ涙が流れ落ちて、彼女はその場に膝をついた。子供のように天井を向いて泣き叫ぶ姿を見て、桑島は、久しぶりに思い出した。
 流鏑馬明日が、まだ19歳だということを。
 19歳とはほんの少女で、この時世を生きているならば、ほとんどが大学や短大やアルバイトで「勉強」している年頃なのだ。甘いものを食べたり、友達とおしゃべりしたり、恋をしたりして、自分くらいの年になったときに、きれいで、呑気で、楽しい時期だったと思い返すはずだ。
 明日はそんな時期を無理やり跳び越えてきただけだ。
 彼女の年が19歳であることは、彼女自身も変えられない事実だ。桑島にとって、19歳とは、まだ子供と言っていい存在だった。明日の、年不相応に落ち着いた表面をいつも見ていたから、彼はすっかりそれを忘れていた。忘れていても、問題なかったから。
「メイヒ――」
 言葉に詰まりつつも、明日に何とか声をかけようとした。
 だがそんな雰囲気を、前山がすべてブチ壊した。
「うぉおおおおおぁ、すんませッ、すんませんしたッ! ぅおあああああ、ホントすんませんしたッオレがクズでしたッホントすんませんしたぁあああああ!」
「なんでおまえが泣くかーーーッ!!」
 クロスチョップでツッコミを入れざるを得ない桑島! 最近はいろいろと世論がうるさいので、警察も犯人にはうかつに手や足を出せないはずが、こうなってしまったからには便乗したほうが得だ。しかし桑島のクロスチョップを食らって50センチ吹っ飛んだ前山に、今度は空のペットボトルの打撃が襲いかかった。
「こんのクソガキが、死ね死ね死ね死ね死ね!」
「うわぁ痛ぇやめろっやめっすいませっ助けてぇッ」
「あたしの5万を返せ! 今すぐ返せさあ返せ、ろくでなしのクソガキが!」
「ぎゃあああ目に入った! ああっ鼻がッ! やめろすいません返しますだから助けて!」
 御年83の小野夫人が、その辺に転がっていたペットボトルを武器に、鬼の形相で犯人に殴りかかっているのだ。パカポコと軽快な打撃音と、前山のあわれを誘う悲鳴が響くうち、明日の涙は止まった。桑島はこんなアグレッシヴな老婆を見るのが初めてだったので呆気に取られてしまっていた。
「お……小野さんッ、落ち着いて」
 ぐしぐし鼻をすすりながら、明日が老婆にしがみつく。
 その姿を見て、桑島もようやく我に返った。老婆の怒りのみだれうちから解放された前山を、がっちり確保する。
「ようし、『返す』って言葉が出てくるってことは、まだ金使ってなかったな。それだけは褒めてやる。署であらためてこってり絞ってやるから覚悟しろ」
「すいません! ごめんなさい!」
「ごめんですむなら警察はいらねーの! よし、メイヒ、行くぞ」
「は……はい」
 相変わらず小野夫人は怒り狂っていた。
 くんずほぐれつの大騒ぎで部屋の外に飛び出した4人を、アパートの住人を含めた野次馬が出迎え、桑島は赤面した。おまけにアパートの外には、銀幕署刑事課の同僚まで数人集まっていたから。


『あ、オレオレ。オレだよ』
「まさか……ヴォルフなの?」
『そうそう。オレだよ』
「そんな……、魔法は消えたのよ。そんなはず……」
『オレは特別だったらしくてさ。まだ、いるんだ』
「嘘よ……」
『本当だよ』
「……会いたいよ……」
『ごめん、バス代も持ってないんだ』
「いくらでもあげる。お金ならあげるわ。だから会いに来て。もう一度だけでいいの……おねがい……」


 前山雄一が詐欺の疑いで捕まり、名前と顔が新聞やニュースで全国に広められても、銀幕市でしか通用しない詐欺の手口は、一向に消える様子がなかった。
 すべての市民が本当に目覚めるまで、このやり口が軽くあしらわれる日は来ないのだ。
 今日も1件、スタースター詐欺の相談が、銀幕署に持ち込まれた。
 明日と桑島の表情は晴れない。
 誰もが考えつきそうな悪事だ。もとより、前山ひとりだけを逮捕すれば終わるとは思っていなかった。むしろ、始まりなのではないかとさえ感じていた。きっとその覚悟をしていて損はないだろう。
「行きましょう、桑島さん」
「いや、だめだ」
 今まで見せたこともないくらい、はっきりと強い調子で、桑島は明日をとめる。
「いまは他のやつらに任せろ。おまえには、まだ無理だ」
 なかば静かにそう言い切ってから、桑島はくしゃりといつもの調子で笑ってみせた。
「せめて、小野のばあさんからのお礼を食い終わるまでは、時間を置いたほうがいいだろ。それくらいの時間があれば……おまえの気も、きっと晴れる」
 明日は、自分の机の横に詰まれた干し柿と干しいもの段ボールを見た。小野夫人はだまし取られた5万円を取り返したが、そのほとんどを明日と桑島へのお礼を兼ねた差し入れに使ってしまったらしい。
「……わかりました」
 干し柿をひと袋段ボールから取り出して、明日はちょんと席につく。
「……ありがとうございます」
 小さな声で、彼女は礼を言った。
 桑島は煙草に火をつけ、また、いつもの調子で笑っただけだった。




〈了〉

クリエイターコメントオファーありがとうございました。
こんな手口が本当に起こりそうで怖いですね。現実でもこの手の犯罪には警察も頑張ってくださっていると思います。だからこそ、ちょっとむなしくて、悔しい。
公開日時2009-07-16(木) 18:10
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