クリスマスの夜には奇跡が起こる。
クリスマスが終わった後にも、奇跡は続く、かもしれない。
*
流鏑馬明日は鏡の前でかなり真剣に何度も何度も自分の姿を確認した。
着馴れた黒のスーツではなく、淡い紫のフェミニンなニットドレスに黒系のフレアミニスカート、そしてレギンスを合わせている。
いつもはおろしている髪も今日だけは結いあげた。蝶の髪飾りをつけて鏡をのぞけば、そこにいる『流鏑馬明日』はふだんとまるで別人のように見えなくもない。
甘すぎず、クールすぎず。
何日も前から鏡の前で何度も何度も組み合わせを変えて、友人からのアドバイスも受けて、ようやくたどり着いたコーディネイトだ。
「……驚かれるかしら……」
この格好を見たら、彼はどんな反応をするのだろう。
それを考えるだけで、妙にそわそわドキドキする。
いや、まったく反応がないという可能性もあるのだが、そもそも今日を迎えること自体が明日には信じられなかったのだからあまり多くを期待しちゃいけない、とも思う。
「あの子のおかげ、よね……」
はじまりと言うべきか、きっかけはスノウマンの森での銀幕市民プレゼント交換会だ。
100名以上が参加し、驚くほど芸術的なものから笑うしかないネタ的なものまで行き交ったそのイベントで、明日のもとには《映画のペアチケット》がまわってきた。
選んでくれた少女へのお礼の手紙の中に、『誘いたい相手はいるけれど忙しそうだから』という言葉をつづったのだが、そこで思いがけないメッセージが返ってきたのだ。
――いちばん誘いたい人を誘ってください。応援してますから。
相手の笑顔まで浮かんできそうな、力強い言葉だった。
それでも足りなかった勇気は、最近できた別の友人――《恋愛相談》をするようになったバイオリニストの少女からもらった。
それでも、迷って、悩んで、戸惑って、なかなか踏み出せなかったのは、彼のスタンスによるのかもしれない。
彼のことを意識し始めてから、ずっと考えてきたことがある。
『わたしが一度でも、あなたの願いを聞き届けなかったことがありますか?』
すぐに思い出せる、胸に刻まれている、彼が自分に向けてくれるやさしい言葉、やわらかで耳触りのいい言葉。
でも、たぶん、そこに込められた意味は自分が期待するものとは違う。
それを考えるとチクリと胸を刺す棘の存在を感じるけれど、きっとそれが正しいから、甘えちゃいけない、と自分に言い聞かせる。
それでもやはり、幸せでもあるのだ。
彼と今日出かけることができる、この誘いを受けてもらえたという事実が、どうしようもなくうれしいと感じている。
その証拠に、鏡の中の『流鏑馬明日』の口元はずっと笑みをつくっている。
「……じゃあ、行きましょうか、パル」
いつものヒップバッグではない、蝶と花のモチーフがついたバスケット型のバッグにもぐりこんだピュアスノーのバッキーがきゅるんとした丸い瞳を向けてきた。
*
2月の空は冴え冴えとして眩しい色を振りまいている。
考えてみると、こうして彼と外で会うことなど今まで一度もなかったのではないだろうか。
いつも事件が起きてから、明日は彼のもとに向かう。
いつも事件が起きてから、明日は彼から連絡をもらう。
銀幕市立中央病院の精神科医は、研究棟の実質的責任者でもある心理分析官は、ほとんど対策課と変わりない仕事をしているから。
本名を秘したままの白衣の医師、その私服すら自分は見たことがないのだと思い至ったところで――待ち合わせ場所の名画座前で佇む彼を見つけた。
「こんにちは、流鏑馬さん」
読みかけの文庫本を閉じて、こちらが声をかけるより先にドクターDが顔をあげる。
「……こ、こんにちは……ドクター」
黒のトレンチコートの下はダーク系の仕立ての良いスーツに落ち着いた色のシャツが合わせられ、長めのマフラーの存在とも相まって、まるで絵に描いたような英国紳士だ。
初めて見る私服は、驚くほどイメージ通りだった。
「あの、待たせてしまったみたいでごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですよ。お約束した時間にはまだ早いくらいですし」
行きましょうか、と促され、つい俯きながら彼の隣に立って歩き始める。
しかし、何か話そうにも何を話せばいいのかうまく思い浮かばない。
クリスマスプレゼントにもらったペアチケットを窓口に出し、予定よりも少し早く館内に足を踏み入れる、そのごく短い時間ですらもドギマギしてしまう。
自分自身が着馴れたパンツスーツではなくて、ここが通い慣れた中央病院のラウンジでもなければ研究棟のスタッフルームでもないせいかもしれない。
私服の彼と、わざわざ待ち合わせしてプライベートで会う――実現してしまったこのシチュエーションにただひたすら緊張する。
緊張したまま、開場されているシアターの指定席に彼と並んで腰かけた。
映画の予告編が始まるまで、まだ少し時間がある。
なのに、となりに座る彼の顔すらまともに見られない。
これ以上沈黙するわけにもいかないのに、と思ったところで、
「素敵ですね」
「え」
「今日の流鏑馬さんも素敵ですね。お仕事をなさっている時と印象を変えられているのだと思いますが、とてもお似合いですよ」
涼やかな笑みとセリフに、不意を突かれた。
ありがとうという言葉すら、頭が真っ白になってしまって出てこなかった。
もしかすると、これは夢なのかもしれない。
――ありうる。なにしろここは銀幕市なのだから。
思わず、一人納得しかける明日の傍らで、バッグからパルがひょっこりと顔を出した。
「おや、パルもいっしょだったんですね」
伸ばされたドクターの手に、パルは挨拶をするようにぐいぐいと自分の鼻先を押し付けた。
「こんにちは」
くすりと小さく微笑むドクターと、なおもかまってほしいとねだるように額をこすりつけてくるパルの姿に、つい、明日は吹き出してしまう。
おかげで少し緊張がほぐれた。
「……そういえば、ここでも銀幕市民を巻き込んだプロジェクトが立ち上がっていたそうよ」
そして、上映時間までに続けられそうな話題をひとつ見つける。
「ああ、うちの研究室のスタッフが依然そのような話をしていましたが……詳しくお聞きしても?」
「ええ。ただ、あたしも直接かかわったわけじゃないのだけど……」
最新のロードショウを見るなら《パニックシネマ》なのだが、もらったペアチケットは名画座で上映する新作だった。
プレゼントを選んだ彼女があえてこちらの映画館にしたのは、銀幕市ならではのエピソードが絡んでいるせいかもしれない。
かつて、この映画館の立て直しのために奔走した銀幕市民がいる。
コンスタントな集客とアットホームな心地よさに定評があることはもちろん、併設されているカフェ&グッズショップ『名画座』がその証だと言ってもいい。
「なるほど……いろいろな歴史が重ねられているんですね。そういうお話を聞くと、やはりこの街はここに住まう方々の絆によってできているのだと思えます」
「そうね。本当に……いろいろな事件が起きて、いろいろな常識が覆されて、それでも……この街の結束は強くて、そして《優しい》と思うの……」
刑事として向き合わなければならない陰惨な事件が、ありえない頻度で起きている。
銀幕市民として立ち向かわなければならない危機にも、幾度となく直面した。
流鏑馬明日個人として、受け止めなければならない悲劇も、きっとこれから増えるだろうとも思う。
それでも、この街は、やさしい。
今こうして彼が自分の隣にいる、それすらも、奇跡なのだから。
「映画、そろそろ始まりますね」
す……っ、と、照明が落ちた。
正面のスクリーンに白い光の枠が照らし出され、潮が引くようにそれまでさざめいていた館内に沈黙が下りる。
明日もまた言葉を紡ぐことをやめ、視線をスクリーンに固定した。
これから始まる《物語》のために。
それをひとつたりとも見逃さず、ひとつたりとも聞き逃したりしないように。
それは、こぽ、という水音から始まった。
こぽこぽと、下から上へ、限りなく透明な青と黒がまじりあう揺らぎの中で、小さな気泡が次々と登っていく。
画面はゆっくりと下へ下へと移動する。
やがて、そこにたゆたい眠るひとりの少女を映し出した。
“夢の底で待っていて”
シーンにタイトルが重ねられ、バイオリンの奏でるレクイエムとともに暗転。
そして。
再び画面に光が戻った時、水底で眠っていたはずの少女は、薄手の白いワンピースを着て、バラ園の中心に立っていた。
遠くに望む洋館。
少女は驚きながら、何が起きたのかを知るために、歩き出す。バラが咲き誇る庭園を、裸足で。
空もバラもかすかに見える洋館もありとあらゆる景色が、まるでガラス板に描いたかのように美しく透明で現実味がない。
少女は歩く。
そこに飛び込んできたのは、銃声。
そして、マントを翻した騎士が、少女の前に突然姿を現す。
青年は驚いた顔をして、けれど次の瞬間には彼女の手を取り、再び駆けだした。
わけもわからずに連れ去られていく少女の表情が、はっとしたように強張る。
彼の腕からは、血が流れていた――
不可思議な出だしは恋愛映画というよりもどこかミステリーを思わせ、王室暗殺事件の解明をキーとした少女の物語は、誰もいない夜の海辺に横たわる彼女が目覚めるシーンでラストを迎えた。
エンドロールが流れ、そして照明がつくまで席を立つ者がいなかったことは、この映画を評価するひとつの指標になるだろう。
「いい映画でしたね」
「……ええ、とても……よかったと思うわ……」
明日は映画が終わってからも少しの間、137分間の出来事を自分の中で反芻するように余韻に浸っていた。
ヒロインは目覚めてしまった。そこにとどまりたいという願いを持ちながら、恋をした騎士がいる世界から《現実》に戻ってきてしまったその切なさを思わずにはいられない。
自分と、重ねてしまう。
重ねて、考えて、その時のことを想いながら、答えが出ないまま、明日はドクターと名画亭まできた。
映画館とは違ったざわめきがそこにはある。
上映が終わった直後ということもあり、ホールはともに同じ映画を見ていた人々で賑わってもいた。
「……パンフ、買ってきてもいいかしら?」
素晴らしかった映画への思い出に、あるいは記念として、明日は自然とそれを欲していた。
「ええ、もちろん」
ただ、グッズショップ周辺はさらに盛況だった。
映画のロゴとバラの指輪のチャームがついたストラップに心ひかれながらも、並んでいる人たちを考えるとじっくり吟味するのも悪い気がして、結局パンフレットだけを購入して、明日は列を抜ける。
「……あ……」
ドクターならすぐに見つけられると思っていた。
彼ならどんな人混みの中からでも探し出せるような気がするけれど、その自信がいったいどこから来るのかは正直よくわからない。
けれど、大丈夫だと思っていた。
なのに、明日はドクターを見失っていた。
不安が、むくりと頭をもたげて、ほんの少し、あわてた。
だから、彼が自分の背後から現れた時、心臓が軽く跳ねて止まったのだ。そのあとにはやけに鼓動が速くなる。
「ああ、驚かせてしまったようですみません」
「いえ、いいの。こっちこそ、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしていて……映画の中で、あのシーンのあれはどんな意味だったのかしらとか、考えていたものだから、その……」
驚いたことが恥ずかしくて、なんだか申し訳なくて、なんとか言葉を取り繕うが、成功したかどうかはわからない。
「流鏑馬さん」
「なに、かしら?」
微笑みとともに自分を迎えてくれた彼が、次に何を言うのだろうかと、一瞬身構える。
本来の目的――映画鑑賞はすでに終わった。もう少しいっしょにいたいという思いはあるけれど、忙しい彼を拘束するのも悪い気がする。
呼び出しがきたのかもしれない。
非番であっても事件があれば召集される刑事と同じように、患者の急変などがあれば医師である彼も職場に呼ばれてしまう。
それはしかたのないこと。
だが。
「よろしければ、この後お茶でもいかがですか? ここから少し歩きますが、おすすめのカフェ情報をいただいているんです」
「あ。……ええ、ぜひ、おねがい」
鼓動が、また早くなる。
映画の後に、できるならカフェでケーキを食べながら話ができたらいい。映画が終わったらそのまま別れてしまうのはさびしい気がして。
そう考えていたけれど、明日が言い出すより先に、ドクターはまるでこちらの想いを読んだかのように誘いを口にしてくれた。
偶然かもしれない。
でも、心が通じ合ったような、そんなささやかな幸せを感じてしまう。
そして。
映画館を出た後も、明日はドクターと肩を並べて歩く。
パルはドクターのマフラーが気に入ったのか、彼の肩によじ登り、丸くなっているのに、ほんわりとした気持ちになりながら。
ダウンタウンはあたたかな活気にあふれていた。
ときには、銀幕ジャーナルで明日を知ってくれたのだろう人たちから声をかけられ、手を振られた。
「なんだい、デートか!」「わけぇってのはいいな、おい!」「すみにおけないな」
そんな冷やかしも飛んできたが、
「このことはご内密にお願いしますね? 彼女のファンに見つかるとひどく叱られてしまいますから」
明日がデートじゃないと否定するより先に、ドクターが自分の唇に指を当てて彼らに笑いかける。
そうすると、気のいい彼らはニカッと笑って自分の口にチャックをするジェスチャーを返してきた。
「……」
一体今日だけで何度顔が赤くなっただろう。
ドクターに案内されたカフェは、小さな路地を通る、少々奥まった場所にあった。
蔦の絡まるレンガ造りの小さな店は、どこか秘密めいた本格推理小説の舞台にふさわしいように思える。
内装は、2階分を吹き抜けにしているために天井が高く、落ち着いたデザインのシャンデリアが静かに店内を照らしていた。
中央にはグランドピアノが置かれ、案内された木製のテーブルセットはどれもアンティークの風合いを持つ。
やさしい色合い、温かな明かりの中で、白磁のティーセット、フルーツの彩りが美しいケーキを間に置いて、明日はドクターと今日の映画についての解釈や感想を語り合う。
心理描写はもちろん、用意されていた伏線の意味、そして行動原理について、刑事と精神科医の会話は転がっていく。
その中で、明日はポツリとつぶやいた。
「……名前」
「はい?」
「名前で呼ばれるのって、多分特別なんだわ……」
映画の中で、ヒロインは青年騎士に願う。
誰もが呼ぶようには呼んでほしくないけれど、それでも、できることなら名前で呼んでほしい、と。
「名前の呼び方で距離感をはかるような……うまく言えないのだけど、そういうことじゃないかしら」
ヒロインの気持ちは、いまの自分ならたぶんわかる、気がした。
うらやましい、と思っているのだ。
騎士は、身内だけは愛称で呼ぶ。それ以外はどんなに長い名前でもフルネームか役職名で呼ぶ。
「……あたしも、呼ばれたいと思うもの……仲良くなった、近しい存在になれたと感じられるから」
ドクターは姓で相手を呼ぶ。ファミリーネームに敬称をつけて。けれど彼はまれに呼び捨てにする。彼が身内、あるいは友人とする相手だけは、名前を呼ぶ。
そんなふうに扱われる、『特別』に見える人たちに羨望を抱く。
「ああ、では……」
ふぅっと、深い海色の瞳に愛情めいた優しさがにじむ。
「明日と、そうお呼びしてもいいということでしょうか?」
「……え、あ……」
やわらかく微笑み、そして差し出されたセリフの意味を、明日はとっさには理解できなかった。
そして、理解した瞬間、自分の顔が急激に熱くなったのを自覚した。
たぶん、耳まで赤い。
赤くなったまま、ドギマギと挙動不審になりつつ下を向き、こくこくと無意味に何度もうなずいた。
うなずきながら、ずっとこの時間が続いてくれたらいいと願った。
ふわふわと、夢のような心地がする。
彼が目の前にいて、微笑んでくれて、他愛のないおしゃべりを自分とだけ共有してくれる。
ずっと、このままでいれたらいい。
ずっと、このまま時が止まってくれたら――
願いが明確な言葉に変わる、その瞬間を待っていたかのように、店内のBGMの合間に、ふと、明日は潮騒を聞いた。
音だけではない、独特の海の香りまでも鼻先をくすぐった。
「え?」
まるで場面を差し替えたかのように、カフェだったはずの景色が、夜の海辺に変わっていた。
誰かのロケーションエリアがどこかで発動したのか、あるいは、ムービーハザードか。
「ドクター?」
ほかに誰もいない。
あれほど沢山の人がいたのに、今は誰もいない。
一瞬、怖いと思った。
ずっとこのままでいたいという願いが、間違った方向で叶ってしまったのではないかと不安を覚える。
しかし、
「夜の海というのもきれいですね」
彼はそこにいた。
呼んだから現れたのかもしれないけれど、彼はちゃんと自分のそばにいてくれた。
「あの映画のラストシーンでも思ったのですが……境界線のすべてがなくなって、とても優しい景色だと思えました」
「……ドクター……」
海は好きじゃない。
過去の過ち、過去の罪、過去の痛みを思い出させるから。
でも。
それはけっして痛く哀しく辛いだけの記憶ではないのだ。少なくとも今は、ここに彼がいて、彼と同じ景色を共有していて。
胸がいっぱいになり、痛くなるほど締め付けられる。
「……ドクター」
「はい?」
「……あたし、あなたに伝えたいことがあったの……」
明日はドクターを正面から見上げ、言葉を紡ぐ。
「……あなたの前にも、あたしは“あなた”に会ったわ」
「はい」
陰惨な事件がいくつも重なる中で、捜査を進めながら、あの時自分は彼が苺のチーズタルトが好きなのだと知った。
柄にもなく彼に、お礼のプレゼントを用意しようと思った。
ひとり目のドクターに、たぶん自分は特別な思いを抱いていたのだと思う。
初対面であったはずの彼を、明日はほとんど無条件に信頼していた。
でも、その理由に気付けなかった。
「あの時よりさらに前、あたしがまだ14歳だったころにも、あたしはあなたの言葉に助けられていたの」
理由は、映画の中にあった。
『不安を拭うにも、恐怖に打ち勝つにも、そして美しいロジックを組み立てるのにも、まずは正確な情報が必要なのですよ』
14歳のあの日、刑事ではなかった自分が巻き込まれた連続殺人事件、その中で、惑う明日にもたらされた映画の中の彼のセリフ。
タイトルもわからない映画の予告、そのワンシーンで飛び込んできた声が、自分を動かした。
「あなたは……あの日からずっと、あたしにとって《天啓の声》なの……」
運命だと、感じてしまったのだ。
14歳のあの日、初めて遭遇した初めての事件、刑事になると決めたあの事件の時からずっと、どこかで自分はドクターDに導かれていたような気さえする。
銀幕市に赴任し、魔法が掛かってから初めてかかわった事件にも、彼がいた。
明日が何か行動を起こすとき、彼のことが常に頭のどこかにあった。
それらを状況証拠として並べ、展開していけば、自然と《答え》は見えてくる。
ただ、周囲の方が自分よりももっとずっと先に、自分が抱えているこの気持ち、この感情の『名前』に気付いていたようだった。
明日は、自分の気持ちに気づくのに時間がかかった。
一年以上も気づかないままで来た。
そして気づいた現在は、自分の気持ちを伝えるなら今しかないという思いがある。
なのに、今度は、本当にそんなことをしてしまっていいのだろうかという迷いに捕らわれた。
誰に対しても平等に、彼の微笑みは向けられるから。
誰に対しても一定の距離を示し、誰に対しても平等であろうとし、誰に対しても等しく優しさを見せるから。
耳触りのよい言葉を聞きながら、もどかしくて仕方がなかったのは、きっと、ドクターDという個人の感情が自分には見えていないから。
踏み込めない一線、壊せない透明な壁、まるで窓ガラス越しのような距離と関係を、歯がゆく思ってはいても、どうすることもできない。
誰かに期待すると、自分が傷つく。
好きになってしまったら、いつか来る別れの日が辛くなりすぎる。
だからずっと、できることなら気づかないままでいたかったのかもしれない。
だけど、でも――
「……ドクター……あなたはあたしにとって……とても、特別なんだと思うわ……」
苺のチーズタルトを渡したいと思ったのは、あの人だけ。
あの時も今も、その思いに変わりはない。
明日の中では、一人目のドクターDと、今そばにいる三人目のドクターDは、決して同一の存在ではない。
同一であるはずがない。
だから、この想いは、あの研究棟の地下室で息を引き取った彼の面影を求めているのではなくて、そうではなくて――
「ありがとうございます」
「……え」
ドクターは優しい笑みを浮かべていた。
これまで見てきた精神科医としての笑みではなくて、本当に、純粋に、胸に来るような甘やかな笑みを自分にくれた。
「そんなふうに思ってくださってありがとうございます、明日」
「……」
声が出なかった。
胸がさらに強く締め付けられる。
笑いたいのか、泣きたいのか、わからない。
わからないまま、彼を見つめる。
潮騒、海の香り、瞬く星、照らす月光と水面に揺れる月の影。
それが、途切れた。
景色が、元のカフェ店内に変わる。
さざめきと紅茶やケーキの香りと、やさしいBGMで満ちた空間に、明日たちは戻ってきていた。
ほかの客たちも一様に、戸惑ったような、それでいてどこか楽しげな表情であたりを見回している。
「おや、……あれは時限性のハザードだったのかもしれませんね」
ドクターはいつもと変わらず涼やかに微笑み、そこにいる。
もしかすると、さっきあの夜の浜辺で観た微笑は自分の都合のいい幻だったのかもしれない。
真偽はわからない。
自分の思いが伝わったのか、確かめるだけの勇気はない。
だからつい視線をそらす。
そらした先、窓の向こうはすでに夕闇に包まれていた。
一日が終わってしまう。
もうすぐ、この時間も終わる。
「そろそろ出ましょうか」
「ええ」
名残惜しいという思いは強くなるけれど、引き留められるほどわがままにはなれなくて、結局席を立った。
店を出ると、キラキラとしたネオンが駅までの道のりを宝石のように飾っていた。
それまで他愛のない会話を彼と交わす。いつもと違う彼との、いつもと違う時間を過ごす、この幸せを抱き締めるようにしながら。
そして。
ついに、駅に到着してしまった。
家まで送ろうかと言ってくれたドクターの気遣いを、明日はあわてて首を振って辞退した。
ただでさえこれから口にしようと決めた言葉に心臓が止まりそうなほど鼓動が速くなっているというのに、これ以上やさしくされてしまったら心臓がもたない。
思い切って深呼吸をする。
息を吐き出して、それから、彼を見る。
「……あの、ドクター?」
「はい?」
「あの……」
セーターの裾をぎゅっと握りしめて、いろいろなことを覚悟して、それでも勇気を振り絞って、口にする。
「……よかったら……また、違う映画に、付き合ってもらえるかしら?」
顔が見れない。
顔を上げられない。
「そうですね。ではまたご一緒しましょうか」
「……ええ、ありがとう……ただ、その、無理はしてほしくないの。忙しいって、わかっているから、だから……」
「楽しい時間を得ることは貴重ですから、無理にはなりませんよ」
さらりと、ドクターは言う。
そして。
「記念に、というのもおかしいのですが、今日の楽しかった時間のお礼として受け取ってもらえませんか?」
「……え」
差し出されたのは、名画座のグッズショップのプリントがなされた小さな紙袋だった。
「開けてもいいのかしら?」
「ええ、ぜひ」
袋を破かないように慎重に止められていたテープをはがし、やっぱり口を若干破いてしまいながら中から取り出したのは――
「これ……」
明日は驚きのあまり、またしても言葉を失った。
そこから出てきたのは、先ほど名画座のグッズショップで見た、バラの指輪のチャームがついたあの映画のストラップだった。
可愛いと思いながらも買わずにいたこれを、いったいいつの間にドクターは用意していたのだろう。
もう、混乱しすぎてわけがわからなくなりそうだった。
「気に入っていただけるといいのですが」
「……ありがとう……あの、ほんとうに……」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
穏やかな笑みと言葉とともに送り出される形で、明日は改札を抜ける。
少し歩いたところで、ちょっとだけ後ろを振り返る。
彼はまだそこにいて、微笑み、自分を見ていた。
思わず会釈して、顔が赤くなるのを感じながら、明日はパルが眠るバッグを抱いて電車に乗り込んだ。
自分の気持ちを伝えるなら、今しかない。
この街が見ている《夢》はいずれ醒めてしまう。
そして、その夢の終わりは、ある日突然やってくるかもしれない。
その時、自分の想いをきちんと伝えられるかどうかわからない。
たとえ伝えた思いが叶わなくても、伝えなかったことを後悔するくらいなら、きちんと彼に想いを告げたい。
だけど。
でも。
あともう少しだけ、このまま、やさしい時間の中にいたいと願う。
「……ねえ、パル……これでもあたし、期待はしちゃいけないってわかってるのよ……」
ごとごとと電車の揺らぎに身をまかせながら、ピュアスルーのバッキーの背をやわらかくなで、明日は小さく小さくつぶやきを落とした。
END