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<ノベル>
そこは、銀色の鳥籠。
そこは、鳥籠を模した温室。
咲き誇る花もなく、辺りは闇に包まれ、銀のテーブルと銀のイスが置かれているだけの場所。
けれどそこには、一羽の小鳥が囚われているという。
歌も忘れ、飛ぶことも忘れ、眠り続けるその小鳥にまつわるひとつの噂。
それは――
*
廃墟然とした灰色のビルのいたるところに散らばった赤い色彩。
ひび割れた窓を伝い落ちる雨の雫はどれも、不自然で不吉な銀の色を含んでいた。
流鏑馬明日は、傍らに立つドクターDとともに、弾痕と血痕とガラス片にまみれた廃墟同然のビルからその景色を眺める。
「……ようやく、終わったのね」
「お疲れ様でした、明日」
「……あたしはなにも……あなたの示唆がなければ、この事件をこれほど早くになんて解決できなかったわ。……ありがとう」
礼を言ってから、ふと明日は思う。
廃墟となったコンクリートの世界に閉じ込められた、迷宮のような殺人事件。
狂ったように頻発する凶悪犯罪の中で、ひときわ趣向を凝らされた探偵映画の模倣は、文字通りの《劇場型犯罪》ということになるのか。
日常と化した非日常の中で刑事に与えられた役割も、この銀幕市においてはずいぶんと様変わりしてしまったが、ソレはむしろドクターDのいた世界に近づいたことにもなるのだろうか。
「……そういえば……《彼》、あなたの知り合いだったのね」
「《映画の中》とはいえ、一度は心理分析をした相手ですから。被害が拡大する前に捕えることができて安心しました」
「彼にとって、あなたという存在はとても大きかったのね……それだけは、よくわかったわ」
この手にはまだ、先ほど犯人を押さえつけた時の感触が残っていた。
銃とナイフを振りかざした時のあの男の視線も、ドクターを求め呼び続けるあの哄笑混じりの声も、まだ生々しく覚えている。
だからだろうか。
あれほどの自信家が、応援に来てくれた仲間の刑事たちに連れられて驚くほどあっけなくこの場所から去っていったことが少し不安だった。
まだ何か起こりそうな、まだ何かが待っているような、漠然とした予感に戸惑う。
だが、事件は終わった。
すくなくとも、ひとつは。
「間もなく雨もやむでしょうね」
「ええ。そうなってくれないと困るわ」
明日は不安を掻き消すように、手の中の携帯電話をそっと握りしめる。
初めて《彼》と出会ったとき、彼が自分にくれたものだ。
薔薇の指輪のチャームが揺れるストラップ。
初めて《彼》とプライベートで出かけたとき、彼が自分にくれたものだ。
胸に抱き、深呼吸を繰り返す。
ずっと言いだせずにいたことを、今のタイミングなら口にできそうな気がする。
映画をまた一緒に見に行こうと約束した、それを果たせるように、間もなく公開予定のミステリ映画に彼を誘ってみようと考えていた。
だから。
「ドクター、あの……」
だが、言葉は途切れ、明日の眼は大きく見開かれることとなる。
ふ……、と彼の姿が掻き消えた。
一瞬で、いや、一刹那の内に、彼の存在が無に還った。
目に焼き付くのは、彼の背に深々と突き立てられたらしいナイフと、知らぬ間に広がっていた驚くべき量の血液、そしてそこへ落ちて甲高い音を立てて跳ねる一巻のフィルム。
「……ドクター……?」
何が起こったのか。
「ドクター?」
どうして。
わからない。理解できない。受け入れられない。信じられない。認めたくない。あるはずがない。ありえるはずがない。
ドクターDがいない。
たった今までそこにいて、微笑んでいた彼の姿がどこにもない。
「――っ」
突然、仕事用の携帯電話が鳴り響いた。
条件反射で懐からソレを取り出しながら、明日はそれ以上の行動に移れないでいた。
そんな自分を笑うように、操作もしていないのに呼び出し音が唐突に途切れ、
『あんたをかばったんだよ!』
通話状態となった電話口から、ひどく甲高い声が哄笑を浴びせてくる。
『思い出してみなよ、思い返してみなよ、あんたはこの男にかばわれたんだ、この男は、あんたに自分が刺されたことをずっと内緒してたんだ、内緒にしたまんま、俺を捕まえるためにあんたといたんだよ!』
考えてみろと声は言う。
『あんたはホントなら俺に背後から刺されてた。あんたはホントなら、俺の仕掛けたトラップで延髄を刺し貫かれてた! だけどな、だけど! ドクターは何でもないふりをして、そいつをあんたの代わりに受けてたのさ!』
何を言っているのかわからない。
男が何を喋っているのか、分からない。
明日の手の中から、携帯電話が滑り落ちる。
『あんたは俺の獲物だったけど、ドクターは俺の神様だった。あんたのせいで神様は堕落した! あんたのせいだ! なあ、神様も死ぬんだな!』
冷たいコンクリートにはじかれて、電池パックの上蓋が外れて飛んだ。
けれど、明日には聞こえない。
何も聞こえない。
「ドクター……」
明日はひざまずき、床に転がる一巻のプレミアフィルムを震える手で自身の元へ引き寄せ、抱きしめる。
「……ドクター」
何も伝えていない。
何もしていない。
何も。
こんなのは、いやだ。こんなのは、だめだ。こんなのは、こんなのは、こんなのは――
「ドクター――っ!」
いつも冷静であろうとした、感情を抑え込もうとしていた、そのすべてのタガが外れて、明日は声にならない声で絶叫する。
ドクターDのフィルムを抱え、うずくまって、胸がつぶれる痛み、打ちのめされる痛み、後悔と罪悪感の混ざりあった痛みにあえぎながら、彼の名を呼び続け――
ちゅぴり。
ちゅぴり、り、りりりりり……
耳を打つ、それはかすかな小鳥のさえずりだ。ガラスのように澄んだ、透明な歌。透明すぎて儚い、遠い日の記憶のような旋律。
流鏑馬明日は、軋んだ胸の痛みを抱えながら、突っ伏していたテーブルから体を起こした。
腕の中にあったはずのプレミアフィルムはない。
ただ、ほんの少しだけ、両腕がジン…っと、しびれているだけだ。
いつの間に眠っていたのかはわからない。
けれど、ここがどこなのかは知っている。
息が苦しい。胸が痛い。目の奥が熱い。体が震える。けれど、それはすべてたったいま見た《夢》のためだと理解はしている。
「……そう、夢だった……」
夢だったのだと、言い聞かせるように繰り返す。
誰かに、あるいは何かに呼ばれた気がして、自分は《ガラスの鳥籠》を目指した。
喪失と終わりの《夢》を見せるのだという鳥籠の噂を、自分は誰から聞いたのだったか。
歌を忘れ、飛ぶことを忘れ、ただ眠り続ける小鳥にあってみたいと、そうして問いかけてみたいという思いがあったようにも思う。
ここには何もない。
ただ銀の格子と嵌め込まれたガラス、磨き上げられた大理石の床に、自分がわずかな転寝をしてしまった銀のテーブルと銀のイスがあるばかりだ。
小鳥が眠っていそうな場所はどこにもない。
ガラスの向こうを満たすのは漆黒であり、虚無ではなくとも闇ではあり、結局のところは何か見るべき景色が広がっている気配は皆無なのだ。
それ以上でもそれ以下でもないこの空間には、人に、取り残されたような気持ちにさせる何かがあった。
寂しさがここには満ちている、気がした。
「……あなたは、囚われているの?」
溜息のような呟きが、唇からこぼれ落ちる。
「それとも……、望んでここにいるの?」
期待を裏切られることが怖くて、誰かに近づくことが怖くて、傷つくことに怯えるくらいならいっそすべてから距離を取った方がいいと、そう思ってしまったのか。
閉じこもることで、自分を守ろうとしているのだろうか。
「……だとしたら、それは……」
ドクターDと出会う前の自分に重ねて綴る言葉は、声にならずに想いだけがあふれていく。
けれど。
再び、小鳥のさえずりが耳を打つ。
自分以外には誰もいないはずの鳥籠の中で、明日は確かに、自分の問いに答える声を聞いた気がした――
「ずいぶんとお疲れのようですね」
やわらかな労わりに満ちた静かな声が、そっと明日に向けられた。
「少しこちらで横になってはどうですか? 事件にかかりきりで、あまりきちんとはお休みになっていないのでしょうし」
深海色の瞳が、ソファにもたれていた明日を見つめる。
刑事でありながらすっかりスタッフとも馴染んでしまった、ここは、幾度となく通ってきた銀幕市立中央病院研究棟――通称、《ガラスの箱庭》だ。
「……ドクター」
彼が自分の名前を呼んでくれる。
彼がファーストネームを呼び捨てにするのは、本当にごくごく限られた者ばかりだ。彼にとって身内であり友人であり近しいと認識されたものだけ。
けれど、自分だけではない。
自分だけが特別ではないのだと、自分よりもさらに近い存在が別にいる可能性もあるのだと、それを考えながら、彼を見、そして窓の外を見た。
「え」
水銀の雨が降っている。
ガラスの窓を伝って視界を侵食する水銀色の雨には、時折赤が混じっているように見えた。
「ああ……また降り始めたようですね」
この一週間、銀幕市では時折こんな色の雨が降っている。
ムービーハザードと呼ぶべきなのだろうこの現象は、陰惨たる猟奇殺人事件の予兆でもあるのだ。
明日はこのところずっと、対策課と連携しながらその事件を追っている。
「水銀色の雨が最初に降った時は、とても驚いたわ……でも、ドクターは驚かなかった」
「この雨は、わたしがかつていた場所で降り注いでいたものですから。だから、驚きよりはむしろ懐かしさを感じているのかもしれませんね」
「そうだったわね」
覚えている。
いや、正確には『観たから知っている』というべきだろうか。
水銀の雨が降り注ぐ街で、彼がどんな事件と対峙してきたか、今の明日ならばほとんどすべてを諳んじることもできるだろう。
「毒を含んでさえいなければ、とても美しいんですが」
彼が自分の傍に立っている。
彼が、窓枠に手をかけ、肩越しに振り返るようにして自分に言葉と優しい微笑みをくれる。
その笑みがまぶしくて、つい視線をそらし、自分を落ち着かせるために意味もなく持ち込んだ捜査資料の封筒に手を入れた。
こつり。
「?」
紙の束しか入っていないはずのそこに、何か硬いものが紛れ込んでいる。
不思議な心持で指先でつまみ、ひっぱり出してみれば、ソレは卵を模した小さな小さな冷たい石だった。
蛍光灯の下で閃く石の色は滑らかな青銀で。
瞬間。
めまいを伴うフラッシュバックに、ぐらりと視界が揺れた。
銀、水銀、卵、小鳥、鳥籠、ガラスの中の夢、水銀の雨が降る窓、灰色の建物、目の前のドクターD、窓の外を見て、そして彼に声をかけたその瞬間の、出来事――
一瞬忘れていた、あの夢、あの鳥籠で見た夢の光景群に取りまかれ、もしかするとあれは予言で、次は現実としてあのシーンと対峙するのではないかと、急激な不安に襲われる。
胸が締め付けられるような、鼓動がかってに走り出すような、そんな苦しさに見舞われる。
いつか訪れる別れ、明日の保証などどこにもない世界、タイムリミットが刻まれた失われることが前提の関係。
それでも。
夢と現の境界で戸惑いながら、明日はソファから立ち上がる。
「どうされました、明日?」
「ドクター」
明日の瞳が揺れる。
「ドクター、……あたし、あなたに伝えておきたいことがあるの……」
自分が何を言おうとしているのか、わかっているのに、わからない。
伝えるなら今しかないと思いながら、でも、心地よい今の関係を壊したくないとも思ってためらってきた。
いつでも冷静な彼の、いつでも誰にでも優しい彼の、その平等さが怖くて、もどかしくて苦しいくせに、皆と同じは嫌だと思いながら告げられずにいた。
自分を見て欲しいくせに、自分だけを特別だって思ってほしいくせに、こんな自分勝手さが嫌だと思いながらも自分のことをもっと知ってほしいと願っているくせに、踏み出せずにいた。
これ以上の関係を望むのはあまりにも贅沢すぎると思ってしまった。
わがままな想いは、押し殺さなくてはいけないと思ってきた。
迷惑はかけたくない。迷惑だと、思われたくない。そう思われるくらいなら、ずっとこのままの関係で、ずっとこのままの距離でいる方がいいと思っていた。
でも、終わりはある日突然やってくる。
夢を見た、あの夢の中で後悔に押しつぶされかけている自分を思い出せば、もう、これ以上迷い続けるのは意味がない、はずだ。
伝えられずに後悔した、なら、後悔しない道を選ぶべきだ。
だから。
明日はさらに強くなるめまいを感じながら、懸命に言葉を探す。
「……ドクター……あなたに、ずっと、伝えたかった」
ドクターDは何も言わず、穏やかな視線で明日の次の言葉を待ってくれている。
急かすでも責めるでもなく、自分の言葉を待っていてくれる。
明日は、一度深呼吸する。
大きく息を吸って、吐いて、もう一度吸って――
「ずっと、好きだった。あなたを、あたしは運命の相手だって、思ってる……」
心臓が胸を打ち破って飛び出してしまいそうだ。
うまく息ができない。
顔が熱くなりすぎて、気が遠くなる。
このまま、ふっと意識を失ってしまうかもしれない。
そんな極度の緊張の中で、それでも明日はドクターDをしっかりと見据えていた。
甘い期待はしない。
都合のいい答えなんて期待しちゃいけない。
ただ、どんな答えであっても、ちゃんと受け止めるのだと覚悟して、彼の前に立っていた。
沈黙は、あまり長くはなかった。
「ありがとうございます、明日」
やわらかで甘く優しい笑みがその口元に、その瞳に、その声に、にじむ。
例えば患者を前にしている時、きっと彼はこんな表情は浮かべないだろう。犯人を前にしても、迷えるものを前にしても、きっとこんな表情にはならない。
ドクターDは、ほんの少し照れているように見えた。
「たとえば……そうですね。わたしが今あなたに抱く想いを、《恋愛》と定義することは難しいかもしれません」
「あ」
ズキリと、明日の胸に痛みが走る。
続く台詞を想像し、表情が自然、こわばっていく。
しかし。
「ですが」
ドクターDは笑みを浮かべながらも真摯な瞳で、静かに告げる。
「わたしは、あなたをとても大切に想っていますよ。あなたの願いであるのなら、どんなことでも聞き届けたいと思うほどには」
彼が一歩、明日に近づく。
たったいま捧げられた台詞の意味をうまく理解できなくて、茫然と立ちすくんでしまった明日の前に、さらに一歩。
「名前で呼ばれるのは特別だと、以前言っていましたね」
「え?」
「名前の呼び方で距離感をはかるような、と、そう明日は言っていました」
「……え、ええ」
以前ドクターDと映画に行ったとき、明日はヒロインと自分を重ね、彼女の想いを語りながら自分の願いも同時に口にしていた。
あの日から、ドクターは自分のことも名前で呼んでくれる。
けれど、あの時の言葉がどこに繋がるものなのか分からず、ドクターが何を言おうとしているのかもわからず、ただひたすらに胸の高鳴りと戸惑いを抱いて見つめていた。
「明日」
彫刻のように整った顔が、自分を見つめ返している。
「では、わたしの《本当の名》をあなたにお伝えしておきましょう」
手が伸ばされる。
冷たくて優しいその手が、やわらかく明日の髪を撫でつける。
これは、そう、あの夏の日に明日の手元へと届いた《赤い本》、そこで書かれていたシーンにシンクロする。
思い出す。あのシーン、あの時、あそこに描かれていた自分の悲鳴。
『名前を呼んで、ちゃんと呼んで、名前を呼ばせて……、ちゃんと、あなたの名前を呼ばせて……っ』
『彼みたいに、あの人みたいに、あたしを呼んで、あたしに呼ばせて、特別だって思わせて、信じさせて、お願いだから――っ』
あの時のあのセリフ、あそこではじけていた感情が不意に自分のものとして甦ってくるのを自覚しながら、息を詰めて、そこに立つ。
彼の唇が明日の耳元に寄せられて。
――キリアン・フィールド
囁きとともに与えられた音の連なりは、望みながらも得られなかった彼の《本当の名前》だ。
「キリアン……フィールド……」
確かめるように、彼の名を口の中で繰り返す。
「もうずいぶんと前に封じた名です。《ドクターD》というコードネームこそがわたしを表す記号でしたから、この名で呼ばれることはもうないと思っていたんですが」
綺麗な微笑みで、彼は明日に《特別》をくれた。
彼なりに示してくれた、明日だけの特別。
「次の休みに映画に行きましょうか」
さりげなく差し出されたその誘いの言葉に、明日は、心臓が破裂するほどの幸福感の中で大きくうなずいた。
「ええ、ぜひ行きましょう……キリアン」
END
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クリエイターコメント | 《鳥籠》の中にて語られるここのつ目の《夢》をお届けいたしました。 長い時間をかけて少しずつ積み重ねてくださった想いに心から感謝いたします。 鳥籠に映したものは、《ありうるかもしれない未来》と鳥籠の外で続く《今の時間》、そしてかつて《本の中》で綴られた物語が絡み合う形となりました。 切なさと痛みを伴うだろう夢と現を描かせていただきましたが、いかがでしたでしょうか?
小鳥が眠るこの鳥籠へとお立ち寄りくださり、ありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-06-11(木) 19:00 |
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