★ 鼻先に愛 ★
クリエイター梶原 おと(wupy9516)
管理番号589-7413 オファー日2009-04-16(木) 00:55
オファーPC 二階堂 麗(cpyx1238) ムービーファン 女 29歳 銀幕市立中央病院事務
<ノベル>

 お酒が入った翌日は、出勤時間が迫り来ると分かっていてもなかなか起きられない。それで何度朝食抜きで猛ダッシュの憂き目を見たかしれないのに──しかも酔いが残った身体では尚更きつい──、懲りるという単語を身につけるにはまだ時間がかかりそうだった。
 今日もまた早めの起床時間を教えて目覚ましが鳴り出すが、彼女は布団を被り直しこそすれ目覚ましを止める気力もないらしい。もぞもぞと動いて布団の中で丸くなった彼女が、はっと殺気を感じた時には遅かった。
 どすっと布団越しの鈍い音は、軽い痛みを伴った衝撃として伝わる。ここで跳ね起きなければどんどん威力が増していくとここしばらくで嫌ほど学んだ彼女は、重苦しい身体を何とか起こして目覚ましに手を伸ばした。
 辛うじて間にあったらしく、既に踏みつけ体制に入っていた黒い塊は残念そうな舌打ちさえしそうな空気を残して構えを解いているのが視界の端に止まる。
「カブトさん……、今攻撃できなくてすんごくがっかりしませんでしたか」
 まさかねと引き攣りながら問いかけると、しばらく前からの同居人──ミッドナイトのバッキーはちらりと一瞥をよこす。そのままふんと鼻を鳴らすとベッドから降りて歩み去って行く背中を見送り、あれはきっと親切心で起こしてくれているのではないのだと噛み締める。
「そうですね、ごめんね、目覚ましが煩くてっ」
 そっちよね原因はと嘆くように謝ると、今度はテーブルの上に跳ね乗ったカブトという名のバッキーはこれ見よがしに欠伸──だと思われる──をして、そのままそこでぺたんと寝転んだ。
「そうですか、私はこれからお仕事なのにカブトさんはまだお休みですか」
 どうしよう軽い殺意がと目覚ましを持ったままの手に少し力が篭ったが、寝る体勢に入ったカブトが相手にしてくれないのは分かっている。睡眠の妨げになるからという理由でもせっかく間に合う時間に起こしてもらったのだから、用意しますかと諦めて行動に移った。

 まだ余裕があると思って行動していたからか、結局食事を済ませた後は急いで家を出ないと間に合わない時間になっていた。いつもと言えば悲しいくらいにいつもの話だが、テーブルの上に放り出していた鞄を抱えて鍵を取り出すとそのままドアに向かった。
「それじゃあ行ってくるけど、部屋は荒らさないでね!」
 荒れない範囲で好きにお寛ぎくださいと、用意している間にどこにいるとも知れず姿の見えないカブトに声をかける。挨拶を忘れて出ていった日には泥棒が入ったのかと思うほど暴れてくださるので、返事がなくとも声をかけるのが習慣になった。
(本気で通報する一歩手前だったからなー、あれは)
 まさか無言で出て行った腹いせにバッキーが暴れたなんて想像もしていなかったから、相当パニックに陥ったのだが。電話に手を伸ばそうとするたびに踏みつけてきたり蹴りつけてきたりと妨害するカブトの姿で、ようやくあなたの仕業ですかと思い至ったのはそう遠い日の話ではない。
 思い出して苦笑できるほどには、カブトとの奇妙な共同生活にも慣れてきたが。とりあえず今は仕事に急ぐほうが先だと思い出し、もう一度行ってきますと声をかけて鍵をかけた。
 行ってきます。
 一人暮らしを始めてからいつの間にか使わなくなっていたその言葉は、妙に懐かしく胸にすとんと落ちた。


 二階堂麗の生業は病院事務だ。そこそこ長く同じ業種に就いているから、病院の雰囲気にさえ馴染めば後はどこでも似たようなものだ。
 要はつまり、雑用係。いや、それだと悲しいから何でも屋さんという響きで勘弁してほしい。
(でもそろそろ割に合わないって暴れてもいいところだと思うんですが、マジで)
 お昼を回って、既に一時間が経とうとしている。でも病院内の何でも屋さんは、ドクターに資料のコピーを頼まれたり看護師にドクターへのお使いを頼まれたり待合室で苛立ちマックスの患者さんに捕まったりすると逆らえない。
 空きっ腹に響くお年寄りのエンドレス愚痴にも申し訳なさそうな──重要ポイント。これを忘れるとまたお叱りがくる──笑顔で平身低頭でお相手を勤めなければなりません。
(お腹が空きすぎてもう私のほうが患者になりそうなんだけどっつーか倒れていいのかしらいっそ倒れたほうが解放はされるけどうわ駄目だ今日の内科医ってあの先生だそれにかかるのはちょっと勘弁……)
 もはや心中の思考さえ息継ぎなしにぐるぐるし出した頃、二階堂さんと後ろから声をかけられた。どうやらお昼休みから戻ったらしい先輩の姿がそこにあって、先に食事に行った人だとひっそり恨めしく考える。どうやら取り繕った笑顔の中にその恨み節を読み取ったらしく、先輩は苦笑めいて笑いながら近寄ってきた。
「お昼まだでしょう? 行ってきていいわよ」
 暗黒オーラでも出そうだからと案外本気っぽく言われ、何をうと反応するより早く顔が輝いたのが自分でも分かる。先輩も笑いを堪えてそれを確かめた後、愚痴から泣き言に変わっているお婆ちゃんを宥めながら引き離してくれた。
 今だけは背中に天使の羽が見えますっと半ば以上本気で喜びながらようやく戻ると、やっぱり先にお昼休憩を済ませた面々がまだ休んでなかったんですかーと驚いたような声を上げた。
「よく我慢できましたねぇ、二階堂さん」
 本気で感心したように声をかけてきた後輩に、後で中庭に呼び出し決定なと思いはしたものの、今は空腹を満たすほうが先だった。相手も空腹時の彼女の性質をよく心得ているのだろう、早く食べてきてくださいと促してくれるのでお言葉に甘えてコピー済みの資料は投げるように机に置いてロッカーに戻った。
「あーもー私の食事の邪魔をする連中なんか大っ嫌いだ……」
 自分のロッカーまで辿り着いたところで思わず本音を溢すと、何故かロッカーががたんと揺れた。本気で驚いて後ろに飛退りそうになると、何故か誰かにぶつかった。
 お昼の休憩は大体皆同じ時間だし、看護師のローテーションとは少し時間がずれている。休憩時間が特に変動するドクターなら偶々重なる事もあるかもしれないが、彼らはこのロッカールームを使用していないので訪ねてくるはずがない。
 あるとすれば彼女に何か用事があって誰かが追いかけてきたくらいだが、これも考え難い。何しろロッカールームにも電話があるのだからそれを使って呼び出して連れ戻したほうが早く、実際にもう何度もそれをされていた。
 だからこの時間、ロッカーにいるのは休憩を邪魔されて食いっ逸れた悲しい事務員くらいで、他に人影なんてあるはずがないのだが。
 恐る恐る振り返ると、見た事のない男性がそこにいる。男性。男。女子更衣室、には最も相応しくない人種。
 誰、と問いかけるのも恐ろしい。聞いて答えてくれるような真っ当な相手ならば、そもそもここにはいないはずだ。悲鳴を上げかけると、察したように相手がナイフを突きつけてきた。
「騒ぐな!」
 無茶を言う。ここで騒がないでいつ騒げばいいのか分からないのに、どうして騒がずにいられよう。ましてやナイフを突きつけられるなんてアクション映画出身のムービースターではあるまいし、一般人でしかない彼女にとっては日常茶飯事に括れない。
 だからここは大声を上げるべきだと分かっているしそうしようともするのだが、恐怖も極限を過ぎると声が出ないらしい。叫びたい想いを引き摺ったまま後退り、徐々に近寄ってくるナイフの先を見つめるしかできない。
 犯人の顔こそ覚えておくべきではないのか? とちらりと頭の片隅の冷静な部分が囁かないではないが、それより何より自分を平気で切り裂くであろう冷たい薄い刃から目が離せなかった。
 その間にも背中がロッカーにぶつかり、逃げ場がない事を教えてくる。反射のようにそちらに視線をやると、ロッカーの合間の柱に素っ気無いポスター。
『人を見たら泥棒と思え』
 最初に見た時は思わず吹き出したそれは、数ヶ月前に幾つかのロッカーが誰かに荒らされた事件に基づく指標だ。内部犯である可能性が高いと対外的には秘められていたが、気をつけろと戒めるべくロッカールームでちらほらと見かけていたのに。
(思いっきし外部犯じゃないかーっっ)
 警察は何を調べたんだと思わず毒づくのは、目の前の恐怖から目を逸らしたいが為。
 まさか見つかるとも思っていなかった泥棒が居直り強盗に転じる率は、結構高そうだ。顔も隠していないところを見ると常習なのだろうし、捕まればいくらでも余罪は追及できるだろう。だとすればここで顔を見た彼女の口を封じて逃げる、という馬鹿げた発想をされても不思議はない。
(なんて冷静な判断はできるのに、どうして声も出ないし逃げられないのよぉっ)
 ロッカールームの出入り口は一つ、今目の前に立ち塞がっている男を押し退けない限りは奥に逃げたところで行き詰るだけだ。非常ベルのボタンは彼女のロッカーからは遠く、唯一の電話も出入り口の近辺に一つなので遠い。辛うじて悲鳴を上げられたとして、誰かが聞きつけて駆けつけてくれるのにどれだけ時間がかかるか。
(銀幕市でしょう、日本のハリウッドでしょう!? ムービースターの中でも正義の味方はごろごろしてるはずなのに、どうしてここには駆けつけてくれないのよ!?)
 今なんか絶好のタイミングよすんごい感謝するわよと、相変わらず心中では賑やかしく大騒ぎをしているのだが。さっきから一言も発せられず、ここで刺されるのかと半ば覚悟さえ決めていたのだが。今日は内科医より外科医のほうがまだましだったはずだと悲しい諦念を抱く前に、またロッカーががたがたっと揺れた。
 男も何事かと音の原因に目をやり、彼女の視線も同じロッカーに向けられる。ロッカーの名札には、二階堂、とパソコン打ちの字が綴られている。
 私のロッカーだなと認識したのは当然ながら彼女だけで、男は不審がりながらナイフをこちらに向けて片手をロッカーに伸ばした。まだ鍵はここにあるんですけどと白衣のポケットを思うが、声をかける義理は感じない。
 それに彼女にとっても、自分のロッカーがどうして揺れているのか分からない。ナイフを持った男というのは引っかかるが、別の誰かが確認してくれるならそれもまたいいだろうと見守っていると、またロッカーが跳ねるほど激しく揺れ出した。
 思わずそのロッカーから後退るように逃げたが、相変わらず男のほうが出入り口に近い。ロッカーから何かが飛び出してきても──ここは銀幕市だ、何が起きても不思議はない──犠牲者その一は彼女で決定かもしれない。
(でもどうせなら殺人鬼とかはやめてほしいの、デログロスプラッタは見るのも嫌だけどその被害者になるのはもっと嫌っ)
 せめて原型は留めていたいですと不吉な事を本気で祈るように願っていると、いきなり揺れ続けていたロッカーが開いた。そこから飛び出てきたのは、真っ黒の塊。
「っ、な、何だ!?」
 何が起こったと、かなり上擦った声で男が戸惑うのも仕方がないだろう。何しろあのロッカーの揺れ方からして、かなり大きな物が詰まっていたような印象を受けていたから。
 けれど実際に現われたのは、掌サイズの黒い塊。ロッカーから飛び出るなり床で臨戦体制を取り、状況を把握するようにくるりと首を巡らせた後、不安げにきょろきょろしている男を「敵」と定めたらしい。
「カブト……?」
 飛び出してきた黒い塊は、朝から彼女を攻撃してきたミッドナイトのバッキー。くたくたと座り込んで思わず名前を呟くと、ちらりと視線を寄越したカブトはすぐに男に視線を変えて攻撃を開始する。
 衝撃に弱いバッキーにとって、できる攻撃など高が知れている。彼女を起こす時のように、精々上から踏みつける程度だ。けれどいつもはよほど手加減してくれているのだと分かるほど、靴の上から踏みつけたにも拘らず男は飛上るほど痛がった。
「っ、くそ、なんて事しやがる……っ。刺されてぇのか!?」
 多分にカブトは目についていないらしい男が睨む先は、へたり込んでいる麗に据えられる。今のは自分じゃないと主張すべきか、せざるべきか。
 とりあえず咄嗟に頭を振ってしまったものの、怒りを煽りこそすれ宥めはしなかったらしい。かっとなったようにナイフを持った手を振り上げられ、咄嗟に殴られると身を縮めた時にうわっと相手の男が声を上げた。つられたようにそちらに顔を向けると、どうやらいつの間にかロッカーの上まで移動していたカブトが男の頭に飛び降りて踏みつけているようだ。
「カブト……!」
 危ないよと声をかけると不審そうな顔をした男は痛がりながらも自分の頭に手を伸ばして引き剥がそうと試みる。その手を掻い潜ったカブトは振り落とされる前に別のロッカーの上に移動していて、何度も奇襲を成功させている。
 とはいえ衝撃に弱いバッキーのこと、いつ振り回した男の手に当たって気を失うか分かったものではない。自分がナイフを突きつけられた時より恐慌してそれでも見守るしかできずにいると、男が何なんだ! と叫ぶやまたしても苛立った目で麗を見据えてきた。
 うろちょろと動き回って攻撃してくる正体不明の生物よりも、へたり込んで動けない女のほうが怒りの矛先は向けやすい。
「変な小細工しやがって……!」
 よく分からない因縁をつけながらナイフを使う事も忘れ、足を振り上げる。そのままきっと力任せに蹴りつける気だったのだろうが、実際に彼女にぶつかってきたのは男の足先ではなく別の物──真っ黒いバッキーだった。
「カブト!」
「あ? 何だ、さっきからちょろちょろしてやがったのはバッキーかよ」
 脅かしやがってと正体が知れたことでほっとしたように息を吐いた男なんか、今はどうでもよかった。そんなことより麗の腕の中でぐったりしているカブトのほうが気になって、カブトと繰り返し呼ぶものの揺すっていいのかどうかも分からない。
 カブトが死んでしまうかもしれないと思った瞬間、麗の頭には助けることしかなくなった。目の前の不審者とか、それが持ってるナイフとか、未だに腹立たしげに向けられてくる目とか何もかも。
 腹立たしいのはこっちのほうだ、怒り狂っていいのは明らかに自分だ。お腹も減って苛々しているのにお昼休憩を尚も邪魔したりナイフで脅してきたり、挙句の果てにはカブトを蹴り飛ばしたのだ。この、目の前にいる馬鹿が。
「退きなさい」
「は? 何言ってやがる、そんな事、」
「退きなさい、あんたがカブトを今すぐ治せるなら別だけどそうじゃないなら退きなさい!」
 カブトに何かあったら私があんたを殺すわよと本気の殺意を込めて怒鳴りつけると、男が思わずといった様子で後退った。その隙を衝いてロッカーの出入り口に向かい、外に出る。
「あれ、二階堂さん。何か急いでる?」
 そんなにお腹減ったんだと笑って声をかけてきたのは、医事課の男性。どうやら彼も似たような理由でお昼休憩取り損ねていたのだろう、今からロッカーに向かうところらしかった。
「どうしよう、カブトが……!」
「え、何カブトって。って、それバッキー? 二階堂さん、ファンだったんだーって何か女子更衣室から誰か出てきたんだけど!?」
「あんな泥棒どうでもいいから、カブトを何とかしてよ!」
「泥棒って、どうでもいいって。つーかどうでもよくないと思うんだけど!」
 とりあえず君は逃げるとカブトを大事に抱えたままの彼女の背を押してきた男性は、病院に戻ってと声をかけてくる。さすがに彼を置いて行くのも気が引けて振り返ったが、見た目からしてラグビー部に所属していたという医事課の男性のほうが強そうだった。
「人呼んできて!」
「ナイフ、気をつけてねっ」
「気をつけられる内に人呼んできてって」
 いいから早く行けってと苦笑するように促され、急いで階段を駆け上がって病院に戻る。
 急いで駆け込んできた麗を見つけた病院スタッフは、何をやってるんだろうとばかりにきょとんとこちらを見てくる。
「あの、下で今ロッカーに泥棒が! ナイフ持ってて、佐竹さんが代わってくれて、でも人呼んできてって!」
 急いでくださいと叫ぶように言うと、何事かと様子を見にきていた警備員が素早く向かってくれる。とりあえずこれで泥棒は何とかなるだろうとほっとしたのも束の間、もっと重要な事を思い出して泣きそうになった。
「お願い、カブトも助けて……!」
 死んじゃったらどうしようーっとの悲鳴は、場所柄最も控えるべきだったとは思うが。本気の切実は伝わったらしく、大急ぎで救急室に連れ込まれた。



「まぁ、泥棒と直面してパニックになってたのは分かるんだけどね?」
 まるで子供を諭すように半ば呆れた声でさっきから繰り返される説教にも、今はへらへらと応えられる。バッキーなんて診たことないし! と抗議しながらも様子を見てくれた医師から、人で言えば単なる脳震盪だろうの判断が出たからだ。
 しばらくしたら目を覚ますと言われ、無事を教えるように時折ぴくぴくっと動くのを見つけて、余計にほっとした。
 説教を続けている医師も彼女がろくすっぽ話を聞いていないのは分かるのだろう、諦めたような溜め息をついて切り上げる事にしたようだった。
「君だって病院に勤めてるんだからさ、一応場を弁えて発言しようね?」
「それに関しては反論の言葉もありません、すみませんでした」
「反省したならいいけどさ。とりあえず一通りの事情聴取とかはあるだろうから、早めに食事は取っておきなよ」
「はーい」
 聞いちゃいねぇと頭を抱えた医師は、自分も昼休憩がまだなのだろう、お先にと言い残すとさっさと出ていった。
 ありがとうございましたと声だけをかけてカブトから目を離せずにいると、またぴくぴくっと動いたバッキーはぱちっと目を開けた。
「カブト……!」
 よかった起きたー! と歓喜の悲鳴を上げつつ抱き締めようとするのに、一瞬で状況を把握したらしいカブトは攻撃こそしてこなかったものの前足でぎゅーと彼女の顔を押し戻す。
 いつもながらの冷たい態度さえ嬉しくて、よかった無事でと笑いかけると心なし押し戻す力が弱まった。
「ありがとう、カブト。さっき助けてくれて」
 すごく嬉しかったよと真面目に礼を言うと、顔を押し戻していた前足でぷにぷにと顔を押される。嬉しくて抱き締めようとすると、やめろとばかりにまた顔を押し戻される。
「つれないよう、カブトさん」
 ありがとうのハグくらいいいじゃないのよと拗ねたように言うと、カブトはこれ見よがしな溜め息にも似た息を吐き出して彼女の手を逃れ、ぽてぽてと歩き出す。
 まさか独りで帰る気なの!? と思わず声をかけると、真っ黒のバッキーは人間臭く肩(?)越しに振り返ってきて息を吐いた。そうして前足で何度も急かすように床を叩くのにつられて立ち上がると、もう一度溜め息っぽい息を吐いて歩き出す。
(えーとつまり、私はカブトさんに連れて歩いてもらってる、のか?)
 人間様に主導権はないのかとちらりと片隅で呟きたい気はしないでもないが、この小さな黒は抱き締める事を許してくれなくても彼女を守ってくれるらしい。
「ありがとう、カブト。大好き」
 嬉しくなってそう囁くと、当たり前だと言わんばかりに小さくキィと返された。

クリエイターコメントこの度は素敵なご依頼を、ありがとうございました。
ここまで俺様なバッキーでもよいものかと思わないでもないのですが、バッキーだって背中で語る愛もあっていいんじゃないかと血迷ったような気はすごくします。お心に添う形で表現できていればいいのですが。
愛……、私なりに溢れさせたつもりなのですが、あまり溢れきった感(?)もないような。反省は尽きませんが、素敵なお二人様の日常風景、心から楽しんで書かせて頂きました。ありがとうございました!
公開日時2009-05-02(土) 20:10
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